ジル様の呪文でアープの塔を発ち、降り立った先はサマンオサ城の門前。アリアハンとは比較にならない規模の荘厳な王宮は、十メートルを越える防御壁に囲まれていて、こうして見上げているだけで圧倒されてしまう。サマンオサは以前にも来たことがあるけれど、城下町に限った話だ。軍事国家としての象徴を前に、私は心なしか足が竦んでいた。
「アレル様は……見当たりませんね。城内でしょうか?」
「そうみたい。リリルーラはこういう時に便利なんだけど、他者を連れていると精度が落ちるわね。考え物だわ」
「十二分過ぎると思いますが……」
ジル様の専売特許に苦笑いを浮かべていると、鋼鉄の鎧を身に纏った兵士が、城内から歩き出てくる。その背後にはアレル様、そしてタバサさんの姿があった。ジル様と私の存在に気付いたアレル様は、案内役と思しき兵士に声を掛けた後、私達を一瞥して言った。
「二人も来てたんだな。アープの塔へ向かったんじゃなかったのか?」
「行ったわよ。そのアープの塔がとんでもない目に遭ったから、ルカス王とアンタに報せに来たの」
「……途方もなく嫌な予感がするんだが」
アレル様が辟易とした様子で肩を落とすと、背後に立っていたタバサさんが顔を覗かせた。私が抱えていた布の中ですやすやと眠る仔犬は、彼女の興味をそそるには充分な魅力を湛えていた。
「あら、可愛い仔犬ね。もしかして女王様が言ってた―――」
「ふ、触れては駄目です!」
思い掛けず声を荒げて、小さな体躯をタバサさんの手から遠ざける。門前で大声を上げたことで、門番の鋭い眼光が私に向いた。何でもないです、ほらこの通り。
「び、びっくりした。ヤヨイ、どうしたの?」
「先に言っておくわ、二人共。この仔犬には絶対に触らないこと」
怪訝そうなアレル様とタバサさんに、ジル様は左手をかざして、告げた。
「手が腐るわよ。こんな風にね」
回復呪文を以ってしても、癒し切れないほどの穢れ。薄紫色の痣が浮かんだジル様の掌は、子犬を縛る枷―――この世に存在する全ての負を凝縮させたかのような呪いで、爛れていた。
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アープの塔が見舞われた事態をルカス王に報せた私達は、その足で城下町北部へと向かった。
繁栄を誇るサマンオサの町は、王城と同じく堅牢な防御壁に四方を囲まれている。徒歩では一日費やしても回り切れないほどに広大な街並みが、すっぽりと四角に収まっているのだ。壁の構築にどれだけの年月を要したのか。想像の域を遥かに超えていた。
「待て、待ってくれ。今の話を、信じろっていうのか?」
「受け入れなさい。二度は言わないわよ」
そんな街中を、私達は旅客用の馬車に乗って移動中の身。目的は二つ。その一つが、連れ帰った仔犬にある。
道すがら、ジル様の口から語られた一連の事実。獣化の呪いに縛られた女性と、最上級の破壊呪文。アープの塔の半壊。ルカス王の狼狽加減から考えて、アープの塔は即刻封鎖、ナジミの塔と同様の扱いが為されるに違いない。
「ねえヤヨイ、怪我はなかったの?」
「平気です。ジル様が守って下さいましたから」
「本当に?痛い所とかない?」
「大丈夫ですよ。怪我一つありません」
妙に私の身を案じるタバサさんを宥めて、足元に寝そべる仔犬をちらと見る。
仔犬は変わらずに眠ったまま。ジル様曰く、『呪いの影響で魂が弱まり、呪文が効き易くなっている』そうで、ラリホーの強制睡眠の効果は持続してくれていた。マホトーンも掛けてあるし、町のど真ん中で大爆発などという事態は万が一にもなさそうだ。
「それで『ラーの鏡』に思い至った訳か。あの鏡で、本当に呪いが解けるのか?」
「さあね。いずれにせよ、放っておく訳にもいかないでしょう。彼女は貴重な手掛かりでもあるし、是が非でも呪いを解いてあげたいの」
ラーの鏡。かつてルカス王に成り済まし、このサマンオサで圧政の限りを布いた偽りの王。一人として見抜けなかった化けの皮を剥いだのが、太古に精錬されたという聖なる鏡。
(私は……どうなんだろう)
真実を映し出す水鏡。鏡であって鏡にあらず。アレル様からその存在を聞かされてはいたけれど、私の姿はどんな風に映るのだろうか。純粋に気になる反面、漠然とした怖さもある。
「アレル、まだ着かないの?」
「そろそろだと思うぞ。ルカス王の話では、この辺りのはずだ」
見れば、知らぬ間に周囲の風景が、変わっていた。
旧市街区。栄えに栄えた中心部から外れた、市街地北東部。住宅街の一角ではあるものの、住民は主に貧困層と呼ばれる人々で、周囲に漂う空気は何処か重々しい。こんな所に、ラーの鏡を贈呈された男性―――武術大会優勝という名誉を手にした猛者が、本当にいるのだろうか。
「どんな人なんだろうな。その仔犬も相当だけど、俺にとっては武術大会結果の方が、よっぽど信じ難いよ」
「……分からなくもないけど。決勝戦を『不戦勝』なんて、前代未聞ね」
呟くように語るアレル様の身体が、一瞬震えた。それが所謂、武者震いと呼ばれる勇みなのか、それとも純粋な畏れからくる震えなのか。複雑そうな面持ちから、その心境は窺えなかった。
「お客さん、着きましたよ。ここいらでいいですかい?」
「ありがとう、助かったよ。ヤヨイ」
「はい」
手綱を握っていた男性に馬車代を手渡して、荷台から飛び降りる。踵を返して元来た道を走り去っていく馬車を見送り、周囲を見渡すと、眼前には砂を被った城壁が聳え立っていた。人気はなく、住民と思しき姿も見当たらない。
「この辺りは、旧市街区の北端だな。住民の数も少なそうだ」
「本当にここ?間違ってたら殴るわよ」
「いや、合ってると思う……うん。多分、あれだ」
住所と地図が記された紙と周囲を見やりながら、アレル様が向かった先は―――市街区の端で、ひっそりと佇んでいた小屋。私やタバサさんが暮らしている離れよりもこじんまりとした、まるで物置のような小屋だった。
(えっ。あれが、そう?)
家屋と称するにはあまりに慎ましい小屋の扉を、アレル様がこんこんとノックをする。
反応は早かった。中から物音が聞こえたかと思いきや、引き戸がゆっくりと開かれていく。同時に一歩後ずさったアレル様の背中が視界一杯に広がり、私の鼻を押した。痛いです、アレル様。
「むぐっ?」
「あ……ご、ごめん」
「いえ、お気になさらず」
鼻頭を擦りながら、背中越しに立っていた男性の出で立ちを確認する。
白髪交じりの頭髪と口髭。上下に纏った革製の鎧と、筋骨隆々な体躯。深い皺が無数に刻まれた顔に浮かぶ蒼色の瞳。齢五十七という前情報と合致する部分は、毛髪や皺のみ。丸太のように隆起した腕は、若々しさで溢れていた。
「ふむ。何用ですかな」
連想されたのは、大木。幾百年の時を刻み、地上に根を張り巡らし、天頂に達した峻厳な巨木。それらが無数に根付いて並び、森林と化した壮大さに覆われた―――『山』。森羅万象が両脚で立っているかの如き存在感。思わず息を飲んで、仔犬を抱く腕に力が入る。
「っ……貴方が、ライアンさんですね」
「如何にも。そなたは?」
「アレルといいます。アリアハンから来ました」
「アリアハンの……おおっ。ではそなたが、『この世界』の勇者殿か」
山が、厳かに笑った。男性―――ライアンさんは、私達四人の顔を興味深そうに見やると、やがて左端に立っていたタバサさんを食い入るように見詰め、頷きながら告げた。
「込み入った事情がおありのようですな。ここではなんです、場所を移すとしましょう」
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ややあって。ライアンが話の場として選択したのは、礼拝堂。旧市街区にも教会の慈悲は届いており、生活苦に悩む住民らへ日々炊き出しを提供すると共に、祈りの場には専属の神父が駐在していた。
神父の計らいで一室に通された五人と一匹は、テーブルを挟む形で向かい合って座った後、アレルが咳払いをして口火を切った。
「貴方を訪ねた理由は、何点かあります。まず『ラーの鏡』についてですが、今現在はライアンさん、貴方が所持していますね?」
「左様。武術大会の褒美として、一時的に私が預かっております。大変貴重な品と聞いておりますが故に、こうして肌身離さず」
ライアンは小奇麗な布地に包まれたラーの鏡を、テーブルの上に置いた。中身を確認せずとも、破邪の波動を肌で感じ取ったアレルは、ジルに頷いてから続けた。
「分かりました。では、次に。貴方は……何者、ですか?」
「ふむ。それは如何なる意味ですかな」
「貴方は先ほど、俺のことを『この世界』の勇者と呼びましたよね。俺の考えでは……貴方は」
静寂が訪れ、重々しい沈黙が漂い始める。
お前は何者か。至って端的な問いであると共に、哲学的な複雑さを内包した問い掛け。ライアンは両者の視点から己を客観視して、一度頭上を仰いでから、やがて視線をタバサへと向けた。
「タバサ殿、といいましたかな。恐らく私は、そなたと同じ立場にある」
「え……?」
「私がこの世界に迷い込んだのは、今から約二ヶ月前のことです」
予想だにしない言葉に、タバサは目を見開いて驚愕の表情を浮かべた。対してアレルは、合点がいった様子で相槌を打っていた。
不思議と確信めいた物を抱いていたからだ。この地上で生じ始めた異変。付随する別世界からの迷い人。ナジミの塔にはタバサ。そしてライアンは恐らく、件のアープの塔に。
「アレル殿。私が元いた世界にも、勇者と呼ばれた若き戦士がおりました。光栄なことに、私は勇者殿と旅路を共にして……。しかしやがて訪れた平穏は、そう長くは続かなかった」
「……詳細を、聞いてもいいですか」
「戦ですよ。人と人の争いが、各地で勃発したのです」
戦争。平穏を一時の過去に変えた、血に塗れた人間同士の争い。悲劇の顛末を、ライアンは語った。
戦火に見舞われた一国に、ライアンは一人の戦士として仕えていた。戦が長引き被害が拡大していく中で、戦地へ赴くよう、ライアンにも白羽の矢が立って然り。
しかしライアンは、争いを拒絶した。己が欲していた力は、邪悪を斬り祓うための剣。何としてでも平和の光を取り戻そうとする勇気。頑なな正義の意志に衝き動かされてきたライアンは、やがて選択を迫られてしまう。
流れ着いた人里が、唐突に赤々と燃え盛り、人々が逃げ惑う。
慟哭と悲鳴が耳を突いて、凌辱の限りが広がっていく。
眼前には―――人の皮を被った、人ならざる者。
「私はこの手で、多くの生命を奪いました。私は人間を守りたいがために、数多の人間を斬ったのです、アレル殿。私が犯した過ちは、今も尚この手に残っている」
「……それから、どうしたんですか?」
「人里を避け、剣を振るい続けました。山に籠り、幾度も幾度も剣を振るっては、ただ無心に、ひたすらに剣を。道を見失った私には、剣しかなかったのです」
陽が昇り、陽が暮れてからも剣を握る。春爛漫な日も、茹だるような真夏日も、紅葉が舞う日も、雪を被りながら剣を振るう。幾年も幾重に、一枚ずつを丁寧に重ねていく日々。
かつての栄光と、贖罪の今。平和と混沌。光と闇。
相反する二つを背負いながら、剣の何たるかを求め、ただそれだけのために時を刻み続けた男は―――終には時を斬り、己の知らぬ間に、無自覚のまま、一つの境地へと達していた。
「ライアンさん、貴方は……漸く、理解できました。決勝戦で貴方を前にしたサザルが、剣を置いた理由を」
「剣を握った歳月に差があっただけのこと。私は国を捨て、逃げ出した愚者に過ぎませぬ」
純粋な剣技だけの立ち合いなら、到底及ばない。アレルは独りごちながら努めて平静に振る舞い、声色を緩めた。
「この二ヶ月の間は、どうしていたんですか?」
「サマンオサに居付いたのは、一ヶ月半ほど前のことですな。この世界に関することは、ある程度心得ているつもりです」
「私達も概ね理解したわ。その過程で、真実を映し出すという『ラーの鏡』の噂を耳にして、武術大会に参戦したのね」
「仰る通りです、ジル殿」
「鏡は見た?」
「勿論ですとも。だからこそ私は、本来この世界に存在しない迷い人なのだと、確信した次第です」
ライアンは丁寧な手付きで包みを解き、中から取り出したラーの鏡を、鏡面を上に向けてテーブル上に置き直した。
ライアンがラーの鏡を欲した理由。己が見舞われた異変を受け入れるに至った理由。タバサはごくりと喉を鳴らして、ライアンと視線を交えた。
「タバサ殿。その覚悟がおありなら、そなたも是非」
「わ、私は……」
「タバサさん」
タバサの左手を、ヤヨイの右手が包み込む。タバサはゆっくりと握り返し、意を決して立ち上がり、恐る恐る水鏡を覗き込んだ。
「……不思議。何も、映らないんですね」
映し出された真実は、無。天井の木目調だけがはっきりと浮かび、己の表情が何一つ映らない。心の何処かで抱いていた淡い期待は、最早見限る他なかった。
タバサは一層の力を込めて、ヤヨイの手に指を絡めた。己の存在を確かめるように、この世界で出会った者達が、見い出した絆は本物なのだと、自分自身に言い聞かせながら。
「ジル。早速試してみるか?」
「ええ、そうね。ライアンさん。このラーの鏡だけど、少しだけお借りするわ」
ジルの声で、各々が動き出す。それこそが真の目的であり、ライアンを訪ねた理由でもあった。
ヤヨイは布越しに抱いていた仔犬をテーブルの上に。アレルとタバサはライアンに事情を説明し、ジルがラーの鏡を両手で抱えた。
何重もの呪いで縛られた女性。見当違いでなければ、彼女が三人目。タバサとライアンに続く、異世界からの迷い人。ラーの鏡に宿る破邪の力が呪いを凌駕するのなら、首尾よく運んでくれるはずだ。
「さあ、始めるわよ」
ジルが胸に抱えていた水鏡が、仔犬へと向けられた。
途端に仔犬の体躯が、びくりと跳ね上がる。全身の体毛が逆立ち、まるで針鼠に似た出で立ちとなり、身体が風船のように膨らんでいく。その身に帯びた碧色の光は、目まぐるしく点滅して、室内を照らした。あまりに急な変貌振りに、アレルがジルの腕を取った。
「じ、ジル!大丈夫なのか!?」
「効いてるわ。段々と呪いが解かれ始めてる」
ジルの見立て通り、身体から突き出ていた針が一本、抜け落ちる。針が金属のような音を立ててテーブル上に落下すると、元の柔らかな体毛となり、次々と抜けては刺々しさを失くした。次第に膨らんでいた身体が蠢いて、段々と人間の四肢を形成していった。
右腕、左腕、左脚、右脚、そして頭部。頭髪は見る見るうちに伸びていき、薄紫の美麗な色合いを見せ始め、身体が女性特有の柔らかさを取り戻していく。胸部からは豊満な乳房がゆらゆらと揺れて、一糸纏わぬ姿を前に、アレルとライアンは思わず目を背けた。
「あと少しよ。もう一息でっ……きゃあっ!?」
「「!?」」
刹那。ぱりんと乾いた音を立てて、鏡面が砕け散った。宙を舞った破片は魔力を失い、そのまま液体へと変わり、ぼたぼたと床に大粒が零れ落ちていく。
鏡の崩壊と急変。女性の変化を見守っていた五人は、彼女の異様な眼の色に、声を失った。一切の白が存在しない漆黒の瞳。両眼がぎょろりと蠢くと、変貌を終えた女性は苦しそうに咳込み、獣のように鋭い爪を生やした指を震わせて、咆哮した。
「ううぅ、うううう!!あああぁああ!!!」
「ヤヨイ、下がって!」
無造作の跳躍。テーブル上から前方に飛び掛かった女性が、爪を立てて右腕を振り下ろした。ヤヨイに襲い掛かる寸でのところで、間に割って入ったタバサが剣の鞘で腕を受け止める。タバサは咄嗟の判断で鞘を構え直し、女性の下腹部目掛けて突きを放った。
「かはっ……!」
よろよろと後退していき、その背中がライアンの胸板に触れた。直後、振り向き様の引っ掻きを、ライアンはいとも容易く躱すと共に、女性の両手首を力任せに抑え、拘束しながら平坦な声で言った。
「鎮まれよ。そなたの手は、清き繊手のはず」
「あああぁあ、ああああああ!!!!」
室内に轟いた絶叫が、意図せずして吐血に繋がった。女性が吐き散らした『真っ黒な血』が、ライアンの顔部へと飛び火する。目元に纏わり付いた漆黒は、一気にライアンの眼孔を蝕んでいき、瞼を越えて、不快な音と共に両眼を焼いた。
「ぐぬぅ……ぬああぁ!?」
「「ラリホー!!」」
間髪入れず、四人掛かりの強制睡眠。覚醒直後は効果が薄いと言えど、強引な微睡みは女性の意識を泥沼へと引き摺り込み、遮断した。力なく崩れ落ちた女性の前で、ライアンは両手で目元を押さえながら、声を殺して耐え難い苦痛を耐え忍んでいた。
あまりに濃密な数秒間。ジルは己の甘さ加減に憤りつつ、唇を噛みながら全てを頭の外へと追い出して、冷静且つ手早く指示を下した。
「ヤヨイちゃんとタバサは、神父と一緒にありったけの薬草と聖水を掻き集めて。それと包帯も。アレルはその人をお願い。目を覚ましたら大変なことになる」
「わ、分かりました」
「合点承知です!」
二人が駆け足で部屋を後にすると、アレルは上着を脱いで、女性の裸体にそっと被せた。ライアンの容体を窺うジルに、アレルは女性の寝顔を見詰めながら言った。
「ラーの鏡が……呪いは、どうなったんだ?」
「……大部分は、もう消えたわ。でも、彼女の心を縛っていた呪いが、まだ残ってる。心だけが獣化したままなのよ」
「た、助かるのか?」
「分からない。それよりも今は、ライアンさんの方が……ごめんなさい、私のせいだわ」
「そなたが気に病む必要はあるまい。私が未熟だっただけのこと」
ジルは回復呪文を維持しながら、鏡面を失ったラーの鏡に視線を向けた。
ラーの鏡の破邪力を以ってしても、敵わなかった呪い。大魔王を凌駕するであろう邪術。何者が、何のために、どうやって。そして彼女は、一体。
___________________
再び深い眠りへと落とされた女性は、万が一に備えて金属製の拘束具を取り付けられ、礼拝堂の奥部に監禁、アレル達の監視下に置かれた。呪いの縛りがラリホーの効果を促しているとは言え、何度も繰り返していては、いつか必ず限界が来る。完全に拘束したとしても、言わば人の姿をした獣。何を仕出かすかはまるで見当が付かなかった。
女性が眠る室内には、重い沈黙だけが澱んでいた。呪いは未だ健在で、頼みの綱であったラーの鏡は消えた。
眼部を蝕まれたライアンも、ジルと神父の手により処置が施されている真っ最中。患部が患部なだけに、誰もがライアンの身を案じていた。
「……ライアンさん、大丈夫でしょうか」
ヤヨイがぽつりと呟くと同時に、扉が開かれる。その先に立っていたジルの表情は、目に見えて沈んでいた。
「ジル、ライアンさんは?」
ジルの背後には神父、そしてその傍らにライアン。ライアンの顔部は上半分に包帯が巻かれていて、視界が完全に閉ざされていた。沈痛な面持ちの神父が、重い口を開く。
「薬草と呪文が効いて、侵蝕は治まりました。ですが……患部の治癒が、芳しくなくて。現時点では、快復の見込みがありません」
深い絶望感が到来し、悲哀が痛みとなって、全員の胸の中を走り抜ける。奥底から止め処なく込み上げてくる悲痛が波立ち、ヤヨイとタバサは思わず口元を覆った。アレルでさえもが、ライアンの痛々しい様を、直視できないでいた。
そしてジルも、底なしの無力感に。偉大な賢者として称えられ、敬われた叡智が、肝心なところで届かない。女性を救えなかったばかりか、己の甘さが引き金となり、彼の光を奪ってしまった。どうして、こんなことに。
「天罰が下ったのでしょうな。私は気高き剣の道を、逃げ道にしてしまった。元より現実から目を逸らしていた身であるが故、何も変わりませぬよ」
「ライアン、さん。私は」
「ジル殿」
ジルに先んじて、ライアンは打ち震えるジルの肩に手をやった。まるで見えているかのような自然な手付きで、ライアンは手の甲でジルの頬に触れ、諭すように告げた。
「その想いと慈悲を、私ではなくどうか彼女へ。ラーの鏡なき今、彼女を救う術は、恐らくそなたしか持ち合わせておりませぬ」
ジルはベッドの上で微睡む女性に目を向け、次いで己の掌を見詰めた。
この身に宿る光。精霊神より授かりし賜物。蓄積された知識。正しくあろうとする正義の意志。誰の物でもない、私だけの物。賢者の称号を戴冠したあの日に―――私は。
「……ありがとう。ライアンさん」
どうかしている。彼女に触れたことで、呪いに当てられていたのだろうか。それとも平穏に飽いて、我を見失っていたか。いずれにせよ私は、まだ何も為していない。為そうともしていない。
「みんな。二日間だけ、時間をちょうだい」
呪文とは、信じる心。願いが魔力を生み、想いが形となる。魔物のそれとは、根底が異なる。
たとえこの世界から、呪文という存在が『消えゆく定め』なのだとしても。私は生涯を賭して抗って見せる。伊達や酔狂で、こんな生き方を選んだ訳じゃない。
「待ってくれ、ジル。どうするつもりなんだ?」
「今から絶食するわ。余計な物を全て出し切りたいの」
「……まさか、呪文で彼女を?」
「それまでの間、彼女をお願い。きっかり二日後に、『レイアムランド』で会いましょう」
ジルは約束の場を口にするやいなや、足早に礼拝堂を後にする。
残された者達が頭上に大きな疑問符を浮かべる中、アレルだけが、ジルの思惑を理解するに至っていた。
「アレル様。い、今のは?」
「この地上で最も穢れのない聖域を、ジルは選んだってことさ。ヤヨイにも話したことがあっただろ」
「レイアムランド……レイアムランド?って、えええ!?」
合点がいったヤヨイが悲鳴に近い声を上げる一方。タバサとライアンは、やはり首を傾げるばかりだった。
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年中氷雪に覆われ、人を拒絶し続ける大地、レイアムランド。その中央にひっそりと構える祠の存在を知る者は、極々僅か。
かつて六つのオーブにより蘇り、大空を舞った不死鳥ラーミアは、ギアガの大地震を境にして、再び永き眠りに付いた。二人の巫女と共に殻へ籠り、いずれ訪れるであろう宿命を全うする、その日まで。この事実を知る者も、アレル達を含め限られた人間のみ。
「ふむ。外は凍えるような吹雪だというのに、中は異様なほどに静かですな」
「周囲一帯に結界が張られているんです。この祠も、外からは見えません。ライアンさん、俺の肩を掴んで下さい」
「かたじけない」
ルーラで直接レイアムランドの祠へと降り立ったアレル達五人は、粉雪を被る石段を上っていき、やがてその先に、先んじて籠っていたジルの背中が映る。
色白の肌が剥き出しの、生まれたままの姿。丸二日間祈り続け、一切の血肉を断ち、聖水のみを口にしてきたジルは、おぼろげな光を薄らと身に纏っていた。
「二日振り。少し痩せたか?」
「つまんないこと言ってないで、さっさと彼女を祭壇に寝かせなさい。それと、拘束具は外すこと」
「外していいのか?」
「枷を外そうとしてるのに、枷を付けたままでどうするのよ」
女性を腕に抱いていたアレルが、オーブに囲まれた祭壇上にそっと女性の体躯を寝かせ、拘束を解く。そのすぐ先には―――不思議な紋様を浮かべた卵。二人の巫女と共に眠るラーミアは、微かな胎動を殻内で響かせながら、すやすやと。
もしかしたら、また君の力を借りることになるかもしれないな。アレルが小さな笑みを浮かべて祭壇を下ると、ジルは擦れ違い様に、小声で言った。
「それと……あんまり、見ないでよね」
「ああ。分かってる」
四人が固唾を飲んで見守る中、ジルが物音を立てずに立ち上がる。すると身に纏っていた光が一層の輝きを見せ始め、ほの暗い祠の内部を照らしていく。
「いよいよですな」
「はい。後はジルに託しましょう」
「ジルさん、どうかお願いします」
「ジル様……ルビス様の、ご加護を」
計らずも、その想いはジルの背に。極限まで穢れを削ぎ落とし、研ぎ澄まされた感性は、呪文の効力を倍加させる。胸の前で組まれた両手が、希望という名の耀きを放ち、ジルを中心にして、渦を巻いて風が吹き上っていく。
「ラーミアの御卵を守りし光よ……リリ。それにララ。今だけでいい。貴女達の、力を貸して」
ジルの囁きに応えるように、大いなる卵が僅かに揺れた。
同時に巫女らの声が、直接頭の中へと流れ込んでくる。
『祈りましょう』
『祈りましょう』
『縛られし、子のために』
六つのオーブが光で繋がり、六芒星の紋様が頭上へ浮かんだ。
声は力強さを増して、かつて不死鳥が蘇ったその日と同じく、祠全体が揺れた。
『祈りなさい』
『祈りなさい』
『今こそは、目覚めの時』
想い、願い、そして信じる心。衝き動かすは正義の意志。
全てを一つの呪文に込めて、聖域の頂に放たれるは破邪の灯火。
『念じなさい、慈悲深く』
『破邪の火は、貴女の物!』
「邪なる威力よ、退け―――『シャナク』!!!」
呪文の詠唱と共に、溢れんばかりの光が充ちて、レイアムランド全土を覆った。
それは紛うことなき陽の光。古来より祖先を育み、今この瞬間を生きる人類を照らし、未来に生まれる子孫を永劫湛え続けるであろう太陽。呪文の域を超えた聖なる力は、一気に女性の呪いを解き始め―――光を介して、ジルは女性の嘆きを聞いた。
―――みんな、死んでしまった。
「な、何?」
ジルが思わず顔を上げると、女性の身体は、再び蠢いていた。
光を拒み、忌み嫌うかの如く、四肢があり得ない方向に折れて、人形のように踊り狂う。
―――もう、誰もいない。家族も、血を分けた兄妹も。
―――共に旅した『彼』も、そして『彼』も。みんな、死んだ。
―――死んだ、死んだ、死んだ。私は、何者にもなれなかった。
立て続けに流れ込んでくる負の連鎖。深淵のような深い悲しみに胸を刺され、否がおうにも心へ沁み込んでいく。ジルは大粒の涙を目元に溜めながら、始めて彼女を理解した。
呪いの根源は彼女自身。生きようとする意志は何よりも強く、逆に失った人間は、あまりに脆い。全て諦めてしまった彼女の心は、呪いに弄ばれ、光を拒んでいた。
「駄目よ、生きて!貴女は生きるの!生きようとする意志を、捨てては駄目!!」
「うう、うううぅううう!!!」
獣の咆哮が、祠の内部に響き渡る。禍々しい爪が伸びて、女性は再度、唸りを上げた。
もう、駄目なのか。誰もが最悪を覚悟し掛けた、その時。盲目の戦士が、歩みを見せた。
「不思議な物だ。見えないことで、見えてくる物がある……。このように穏やかな感情は、幾年振りか」
「ら、ライアンさん!?」
歩を進め出したライアンの一挙手一投足に、誰もが目を瞠った。
光を失った両眼は、今も尚塞がっていた。包帯が巻かれた眼部は閉ざされたまま。そのはずなのに、見えているように見えてしまう。不安定な足場を意に介さず、一片の迷いなく祭壇を上っていく。やがて辿り着いた壇上で、ライアンは静かに口を開いた。
「何も畏れる必要はなかろう。この世界は、そなたを拒みはせぬ。私のような老いぼれを、受け入れてくれたようにな」
「しん、だ。しん、ん、んん」
「為せなかったことは、これから為していけばよい。機はそなたの中にある。我々と共に、生きてはくれぬか」
唸りが止んだ。悍ましさが立ち消えて、しかし裂けるような想いと痛みは残されたまま。
悲しみのどん底で立ち竦む女性に、ライアンは傷だらけの硬い手を、そっと差し伸べる。
「そなた、名は?」
「せ……り、あ」
「良き名だ。セリア殿」
「う、ううぅ。ひ、ぐっ。うう、あぁ、あああ」
歪められた世界に翻弄されて、与えられて然るべき全ての未来を、奪われて。
それでも彼らは、手を取り合って見い出していく。僅かな光に、希望を託しながら。