青い海のような空がある。
空は快晴。夏の日差しが照りつけるように地上を焼いていく。
ビルとビルの狭間、真っ黒な塀に覆われた一画にその二階建ての店は存在する。
店――願いが叶う店。
和洋折衷の奇抜な外観を持った住居兼店舗。
広々とした庭を眺めることができる縁側に生まれたのは、気だるそうな女の声だ。
日陰の中、安楽椅子に座るこの店の主人――
黒々とした長い髪が大きく開いた白い胸元にかかる。
「
「は? 今日最初の会話がそれですか?」
障子を開け、現れたのは白い半袖シャツに黒のズボンという学校指定の夏服を着た眼鏡をかけた少年。
四月一日
彼は自身の願いを叶えてもらうためにこの店でアルバイトとして働いていた。
「胡瓜が食べたいのは別にいいんですけど、胡瓜ってメインの食材にしにくいんですよね」
四月一日の頭に胡瓜を使った料理が数品浮かぶが、どれもがあくまでサブの食材として用いられたものだった。
侑子がアンニュイな雰囲気をまとわせながら頬杖をつく。
「そうねえ、ぬか漬け、浅漬け、きゅうりのキューちゃん……」
「どれも漬け物じゃないですか」
四月一日が即座にツッコミを入れ、今度は自分が思いついた料理方法を挙げてみる。
「酢の物、サラダ、炒め物……と色々ありますけど何がいいですか?」
「炒め物という発想が出る辺り、四月一日の料理人として実力が垣間見えるわね」
「はあ」
褒められたのだろうか、もしかしたらからかわれている可能性もあるため、四月一日は曖昧に応じることにした。料理が好きな男の子、というのは未だ奇異の目で見られる世の中である。四月一日としてはただ好きだからやっているだけなのだが。
「ん~、胡瓜のあの食感を楽しみたいから炒めるのは無し」
「じゃあ、和えるか漬けるかサラダのどれかになりますけど……」
確か店の冷蔵庫の中にトマトがあったはずだ。それと合わせてサラダにするのが無難かもしれない。
「よし、あれに決めたわ」
椅子の横に置いてある丸テーブルから扇子を取り、侑子はパッと広げて妖しく口元を隠す。
扇子に描かれた模様は赤い金魚。水流を示す曲線に沿って泳いでいるという図柄だ。
「あれって……」
指示語が示すものがわからず、四月一日は首をひねる。
侑子は目を弓にして答えた。
「モロキュー」
「……これはまた突飛なものを」
提示された料理名に四月一日は軽い驚きを覚えていると侑子が失望したように首を左右に振った。
「……せっかく電気ネズミっぽく言ったのに、反応してくれないのね」
「電気ネズミ? 雷獣のことですか?」
以前、家電量販店に出かけた際に出会った妖獣。
彼のモノもまた体内に電気を蓄え、自在に放出していた。
「いいわ、四月一日らしくて。最初から期待してなかったけど」
口元を隠したまま、侑子がケラケラ笑う。
なぜ笑われているのか理解が及ばなかったが、いつものことなので四月一日は話を進めることにした。
「確か、もろみも胡瓜もなかったのでちょっと買ってきますね」
「……どこへ?」
それでも一応冷蔵庫の中を確認しておいた方がいいだろう、と台所に足を向けるが侑子に止められてしまう。
「どこって近くのスーパーですよ」
何を当たり前のことを、と思う矢先、嫌な予感が訪れる。
当たり前のことをわざわざ問うなんてまねを侑子がするはずがない。だったらこの問いには意味があるはず。四月一日の負担となる――アルバイト業務の一つである仕事に関わる何かが。
「ねえ四月一日、胡瓜といえば?」
「胡瓜といえば?」
鸚鵡返しに復唱してみるが何を問うているのか見当もつかない。
「もう鈍いわねえ。胡瓜といえば河童でしょ?」
河童。
カッパッパー。
四月一日の脳内におかっぱで頭に皿をのせ、緑色の皮膚をもった人型の異形の姿が浮かぶ。
河童は妖怪の中でも川に現れることで知られる比較的有名な妖怪である。民俗学に疎い四月一日でも実際に見たことはないが名前ぐらいは聞いたことがあるほど有名であった。某酒造メーカーのロゴにも使われており、日本人に馴染みの深い存在といえよう。
「それで河童がどうしたんですか? まさか河童つながりで日本酒も買って来いとか言うんじゃないでしょうね?」
ただでさえこの家の日本酒の消費量は洋酒に比べてかなり激しいのに、さらに増やすつもりだろうかこのウワバミは。
四月一日が怪訝な目線を向けるが侑子は不満げな様子だった。
「違うわ。胡瓜といえば河童、河童の好物は胡瓜。胡瓜愛好家の河童なら美味しい胡瓜を持っているはず。それを分けてもらってらっしゃいな」
何という三段論法……と四月一日は驚きと呆れが入り混じった複雑な感情を抱く。言いたいことはわかった。だが身体が理解を拒んでいる。一度わかりやすく整理する必要があるだろう。
胡瓜→河童→美味しい胡瓜。
言うなればこういうことだ。
……超理論にもほどがある。
「河童から分けてもらうって言われましても河童っていうのは幻想の存在なんじゃ……」
「
「うっ、そうでした……」
侑子の店で働く前からアヤカシなどという人ならざる存在と関わってきた四月一日だが、やはり素直に受け止めるにはどこか抵抗があるのも事実だった。なにせ河童である。緑色の皮膚にお皿をのせた頭。果たしてそのような存在と好んで会いたいと思うだろうか。
「日本のあちこちに河童にまつわる話が残ってるわ。北は北海道、南は沖縄まで。それでもいつしか忘れ去れ幻想の存在となっていった」
「どうしてですか?」
「……いない方が都合がよかったんでしょうね」
侑子の回答にぴんと来ない四月一日は疑問符を浮かべるが、特に補足をしてくれるわけではないようだった。
「それで、その河童はどこにいるんです?」
山奥の川の中とかだろうか。それはそれで行くまでが大変そうである。
……侑子さんのことだから行くのは俺だけになりそうだし。
侑子は四月一日の質問には答えず、玄関の方を指差した。
「靴を持ってきなさい」
「誰のですか?」
「貴方のよ」
やはり行くのは自分一人のようだ。
玄関から靴を取って戻って来ると侑子はすでに立ち上がっており、
「こっちよ」
そう言って宝物庫の方にすたすたと歩き出した。
四月一日は黙って付いて行き、雑多の品が箱におさまる一室に入る。
宝物庫の中央にはスペースが設けられ、立てられた大きな円形の鏡が入室したばかりの侑子と四月一日を映し出していた。
「鏡、ですね」
「ええ、鏡よ」
四月一日は鏡に近づき、おそるおそる手を伸ばして鏡面に触れる。鏡は指先が触れた場所から波紋を起こし、彼の手を、腕を鏡の中へと飲み込んでいった。
「うわっ、なんですかこれ!」
「向こうに通じる入り口よ」
「向こうってどっちですか!」
慌てる四月一日に侑子は面白そうに短く答える。
「――
告げられた行き先を聞き終えると同時、彼の上半身は完全に鏡の中へと入っていた。腰から下が鏡から飛び出しているが足の腿、膝、爪先と順次鏡面に消えていく。
最後に、ちゃぽんという水滴が落ちた音が短く響くと宝物庫には侑子だけが残されたのだった。
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世に不思議は多けれど
どれほど奇天烈
奇々怪々なデキゴトも
ヒトが居なければ
ヒトが視なければ
ヒトが関わらなければ
ただのゲンショウ
ただ過ぎていくだけのコトガラ
人
ひと
ヒト
ヒトこそ
この世で最も摩訶不思議なイキモノ
Holic側の時系列は現在ヤングマガジンで連載中の《戻》をイメージしています謎時空。東方側は神霊廟関連の異変が解決した辺りです。