にとりから瓢箪の片付けを頼まれました。
飛び立つにとりの苦しそうな顔を四月一日は見た。
今にも泣き出しそうな表情で、唇を噛むにとりの顔を。
おそらく玄武の沢に向かったのだろう。
彼は思わず駆け出していた。畝と畝の間を通り、川沿いの道を引き返す。
何が最善で何が最良だなんて彼にはわからない。それでも、そうせずにはいられなかったのだ。
身体の意思に身を任せ、四月一日は走る。
下は岩盤、右には森の木々を置き、左には渓流が流れている。清く正しい流れだ。渓流は四月一日と同じ進行方向に流れ、まるで彼の背中を押すかのよう。
平たい岩盤だった足元もごつごつとした岩場に変わっていく。大きな岩、小さな石、中程度の岩石。渓流の流れも激しさを増す。
四月一日は転ばないようにバランスを取りながら通れる場所を選んでいく。そのことによって落ちる速度をもどかしく思いながらも岩に手を突き、足は前に飛ばして駆ける。
自分に何ができるかなんてわかりはしない。
雛の何が、にとりの何が、彼女たちにあのような顔をさせたのかわかるはずもない。
でも、あんな顔をさせたままにしていいとも思わない。
……侑子さんみたいに誰かの願いを叶える力はないけれど。
……俺にもできることがきっとあるはずだ。
それが根拠の無い自信に基づくものだったとしてもだ。二人のために何かをしたいという気持ちに偽りは無い。そのためにも、まずは二人に会わなければならなかった。会って話をしなければ。
玄武の沢に続く獣道への入り口が見え、四月一日は速度を速める。小、中、大の岩を順に蹴り、前に跳ぶ。着地する場所は岩場より一段高いところにある森が広がる地面。
着地。
草が生え、落ち葉が敷かれた道なき道をひた走る。木々にぶつかりそうになる身体を上手く操り、斜面を駆け下りていく。
突然、服の中にいた管狐の無月が飛び出し、落ち着かない様子で辺りを見回し始めた。
「グゥウウウウウウウウ……」
聞こえた獣のうなり声に四月一日は足を止める。斜面をすべる足を堪え、木を支えに身体を静止させた。
四月一日の前方、木の間から顔を出したのは河童の里へ行くときに襲ってきた狼型の獣だった。
「妖獣!?」
黒々とした闇に覆われた身体。赤い目。奈落の底のような暗さはまるで質量を持った暗黒のようだ。
ザッ――と落ち葉が踏まれる音に振り返れば、左右斜め後ろに同じような狼の妖獣がいて四月一日を取り囲んでいた。
三頭は四月一日に向かってうなり声を上げ、牙を剥く。それは敵意の表れで殺意の表れだ。彼らにとって自分は敵。捕食すべき獲物であった。
もしかすると雛に厄に当てられ『事故死』した仲間の遺体を目にしたのかもしれない。
物言わぬ遺体から何が起きたのかを感じ取ったのかもしれない。
ならば雛と一緒にいた自分も仇となる。雛のせいではない。雛は四月一日を守るために自身の能力を活用したのだから。
しかし、自分が来なければあの妖獣死ぬことはなかったのもまた事実。
「……無月」
四月一日の呼びかけに無月は頷いた。それだけで意思が伝わったことを嬉しく思うと同時、これからさせようとすることを申し訳なく思う。
「……お願い」
四月一日は指でそっと無月の頭を撫でた。
すると、無月の身体が淡い光を放った。
●
外から見た妖怪の山は全体を森に覆われているように見える。
だからといってまったく日の光が入らないわけではない。
開けた場所では日光が辺りを照らしており、森の中では木々の隙間から日が、葉々の間からは木漏れ日が差し込み、山の中を明るく浮かび上がらせている。
当然、明度は森の中の方が低く、まぶゆい光に森の切れ目を見つけることができるだろう。
森の中の斜面を下り、四月一日は前方に見えた木々の間の白い光に跳びこんだ。
河原に着地し、やや傾き始めた日光が四月一日に降り注ぐ。
木々の間を抜けて玄部の沢に降り立った彼が見たのは、川の手前、彼から見て右側で驚いた顔をするにとり。そして、彼の視界の左側、にとりに背を向けて川岸から滝つぼの方を眺める雛の姿だった。
雛も四月一日に気づいたのか、横目で肩越しにこちらを見やる。その目からは何の色も読み取れず、無色で無感情で無表情であった。
「四月一日……」
にとりが震える声で呟く。
それは彼が現れたという予想外の事態に驚いているのか、それとも助けを求めているのか、そのどちらとも取れる声音だった。
泣いてはいないようだ。だが、泣きそうではある。
何があったのか。
何が起きたのか。
二人の関係を――二人の間の出来事を四月一日が知る由はない。
「……俺は」
四月一日は雛を見て、にとりを見た。
「俺には二人がどういう関係かなんてわからない」
二人は顔色を変えることなく突然の闖入者である四月一日の言葉に耳を傾けていた。
「でも、河城さんが泣きそうな顔をしているのに、それを放って置くこともできない」
それが余計なお世話だとわかっていてもだ。
何かあったのだろう。
何か起きたのだろう。
その『何か』が二人だけの聖域だとしても、辛そうな顔のにとりを前にして足を踏み入れないという選択肢は選べなかった。過干渉と怒られても今ここで退きたくはなかった。二人は人間である自分になんだかんだ言いつつも親切にしてくれたのだ。その優しさは本当に有り難く、嬉しかった。ゆえに、この場を見過ごしたくはなかった。
「もちろん、俺は何も知らない。二人がどういう関係なのかも」
四月一日は顔に笑みを浮かべて言う。
それは力強さを感じさせない穏やかな笑みだった。
だから。
「だから教えてくれないかな? 君たちの間で何があったのかを」
四月一日の言葉ににとりが何か言いたそうに口を開き、躊躇うようにうつむく。
四月一日が視線を雛に向ければ、彼女は彼を見つめ、呆れたように吐息を漏らした。
「……別にたいしたことではないわ」
身体ごと振り返り、拳を握り締めるにとりを顎で示す。
「そこの河童に付きまとわれて困っているだけ」
にとりの肩がぴくりと震えた。
いったい、そこの河童、付きまとわれて、困っている、のどの部分に反応したのだろうか。
「私は……」
にとりが下を向いたまま、搾り出すように声を落とした。
「私は、雛と友達でいたいだけなんだ」
「……それが迷惑だって言ってるのがわからないの?」
そんなにとりに対し、雛がうんざりとした顔つきを表していた。
見下ろすように見つめ、きっぱりとした口調で宣告する。
「私はあなたと友達でいたいとは思わない」
「……私は雛と友達でいたい」
「だいたい、友達でいたいって、私とあなたが友達であった時があった?」
冷ややかに見つめる雛に、にとりはツナギのズボンをぎゅっと握り締めた。
「私は雛と友達だと思ってるよ」
「それがそもそも間違っているのよ。私にはあなたと友達になった覚えがないわ」
「……一緒に遊んだ。一緒に酒を飲んだ。一緒に笑い合った。一緒に夜空を眺めた。友達になるにはそれだけで充分だよ」
「単なる社交辞令よ。言うなれば、ただの暇つぶし」
「ただの暇つぶしでも私にはすごく楽しかった」
「奇遇ね。私はすごくつまらなかった」
「工房に遊びに来てくれてすごく嬉しかった」
「どんなところか気になっただけよ」
「
「鬼も間違えることがあるのね」
にとりの言葉を雛があくまでも軽くいなしていく。
「……なんで」
そのことににとりの我慢も限界を迎えたらしい。顔を上げて涙目で雛をキッと睨みつけた。
「なんでだよ! なんでそんなに否定するんだよ!」
「間違いを間違いと言って何が悪いの?」
「じゃあ、全部嘘だって言うのか! 酒を飲んだときのあの表情も、私の失敗談で見せた笑顔も、流れ星を見つけた時の嬉しそうな表情も!」
「ええ、すべて偽り。本心ではないわ」
「このっわからずや!」
二人の会話を聞いていた四月一日は、どういうことだ? と首を捻った。
今までの会話から二人の事情がおぼろげながらも見えてきていた。
にとりは雛を友達だと思っているが、雛はにとりを友達だとは思っていない。
どちらも嘘を言っていないようにも見える。
もちろん、にとりの一方的な思い込みである可能性もあるが、二人がともに時間をすごしたことは事実のようだ。雛は友達であることは否定しても、一緒に遊んだことやにとりの工房を訪れたことまでは否定しなかった。
友達。
友達というものを四月一日はわかっているようでわかっていない。
友達とは何かという持論を持っていない。
アヤカシを引き寄せる。
幽霊が見える。
という特異体質もあってか、四月一日はよき友達を作る機会に恵まれなかった。クラスで孤立とまでは言わないが特別仲の良い友達というモノを持ったことがなかった。
――それも最近までは。
四月一日に消えないでほしい、と願った人たちがいる。
一人は、無性に気に食わない嫌な奴だが、右目を食われた四月一日に自分の右目の半分を分け与えてくれた。
もう一人は、四月一日がいいなと思う同級生で雛と似た性質を持つ女の子――九軒ひまわり。
彼女は学校で窓から転落して大怪我を負った四月一日に、怪我は自分の体質によるものだと言い「さよなら」を告げた。それでも四月一日は「会えて本当に幸せだよ」と引き止めたが今度は怪我だけじゃすまないかもしれないと注意された。――死ぬかもしれないと。
あれは四月一日を心配してのものだった。彼を不幸にしたくないから離れようとしたのだろう。
あ。
もしかして……。
四月一日の脳裏にある考えがよぎった。
瞳に涙を溜めたにとりが怒鳴る。
「私が何か悪い事したの? 気づかないうちに雛を傷つけたの? それなら謝るから! 言ってくれないとわかんないよ! どうして急に『二度と来ないで』なんて言ったんだよ!」
にとりの悲痛な叫びで我に返り、彼は雛に目を向ける。
ここに来て雛に変化があった。彼女が初めて苦しそうな表情を見せたのだ。
「気に入らないのよ、あなたの存在が……」
言葉とともに雛はにとりを睨んだ。憎らしげに苛立ちを向けるように。
「不幸になる様を見て、その人のことを大事に思ってる人がどう思うのかがなぜわからないの……?」
雛のその言葉は四月一日の脳を――心をずきずきと刺激した。
記憶の底、雲泥に沈む過去の一場面をすくい上がらせる。
邪気が漂う廃墟。
邪気がもたらす冷気が眠気を沸き起こす。
白い糸の蜘蛛の巣を張り巡らせたその中に彼女はいた。
彼の右目を手に入れた彼女が――女郎蜘蛛がいた。
肌を露出させた
女郎蜘蛛は気を失っている着物姿の座敷童を蜘蛛の巣に吊り下げていた。
囚われた座敷童を助けるために四月一日は言う。
『じゃあ、左目も渡します。だから座敷童を返してください。片目だけじゃ足りないなら他も……』
そう懇願した自分を女郎蜘蛛は嫌悪した。
ひどく醜いモノを見るかのように。
侮蔑と侮辱を込めた視線を送るように。
四月一日の自己犠牲の精神を完膚なきまでに破壊した。
『傷ついた
にとりを見れば、雛の言葉の真意を飲み込もうと考えているようだった。
「私の厄は周囲を不幸にする。私自身は不幸にならない――はずだった」
歯噛みしていた雛が自身の厄を撫でるように手を伸ばす。
「なのに、あなたの存在は私を不幸にする。不幸にならないはずの私を不幸にするのよ」
「えっ、それってどういう……」
「わからなくていいわ。わかる必要もないわ。これで終わりにするから」
四月一日とにとりの視線の奥、雛は懐から一枚のカードのようなものを取り出し、こう告げた。
「――
宣言と同時、雛の背後にある滝つぼの水がうねり、細分化し、
「水を味方にするのはあなただけじゃないのよ」
「雛……本気?」
「ええ、でも安心して。死にはしないから。ただ、二度と私に関わろうとは思わなくなるだけ」
「そう、なら私もここで引くわけにはいかないね」
不敵な笑みを浮かべ、にとりもポケットから雛と同じようにカードを取り出して掲げてみせた。
「
川から水球がいくつも飛び出し、にとりの周囲に浮かぶ。
それは球というよりは弾と表されるべきものであった。
向かい合う二人。
視線は互いの瞳を捉え、睨み合うかのように見つめ合う。
水の棘と水の弾。
……まさか!
……あんなのが当たったらタダじゃすまねぇぞ!
背筋が冷え、四月一日の全身に嫌な予感が駆け巡る。
彼女たちはあれを撃ち合うつもりなのだ。
棘と弾。
水とて馬鹿にできない。重さを持ったそれが身体に当たれば人体に多大な被害が生じるだろう。
ましてや雛が浮かべているのは棘だ。棘はにとりの身体に容易く突き刺さるはずだ。
……どうにかして二人を止めないと!
危機感による焦燥の先、二人は同じタイミングでカードを持った手を振り下ろした。
棘がにとりに向かう。
球が雛に向かう。
空気を裂き、勢いよく射出された棘と弾が交差する――
「……無月!」
四月一日が管狐の名前を叫ぶ。
その瞬間、炎がはしり、水の棘と球が衝突する場所を空間ごと飲み込んだ。
水は急激に熱せられ、沸点を一気に越える。行き先は蒸発だ。水の棘も球も蒸発し、白い水蒸気となる。
噴出する水蒸気に辺り一面が覆われていく。
驚く雛とにとりの姿を隠すほど視界は不良好。
晴れる。
視界が開けていく。
あるのは先ほどまでと何も変わらない。
沢がある。滝がある。川がある。岩がある。石がある。
雛がいる。にとりがいる。四月一日がいる。
そして。
――彼の横に九つの尾を持った大きな狐がいた。
座敷童奪還のシーンはホリック屈指の名シーンだと思います。
初めて読んだ時、心をえぐるように女郎蜘蛛の言葉が染み渡ったのを覚えています。