東方心綺楼が頒布されました。
陽が傾き、穏やかながらも熱のこもった日光が玄武の沢に降り注ぐ。
世界は山吹色に染まり、どこからともなく蝉の鳴き声が轟き始めていた。
「河童のお酒といえば、やっぱりこれよね~」
川の中程で宙に浮く直径一メートル半ほどの水鏡。
そこに映し出されている
さきほどから墨書で『黄桜』と描かれた土瓶に頬ずりをしている。
にとりから渡された河童の酒だ。
「それじゃあ、約束の胡瓜ももらったことだし、ここでお別れだね」
沢の川岸に集まる三人と一匹。
青々とした十本ほどの
あれから一度河童の里に引き返した四月一日たちは、念願の胡瓜を収穫し終えてまた玄武の沢に戻ってきたのだ。そのとき
瓢箪は浮き輪のようにぷかぷかと浮かんで渓谷を流れていく。
「本当にそれだけでいいのか、なんなら五十本でも百本でも構わないんだぞ」
にとりが不思議そうな顔をするが、四月一日は苦笑いを浮かべながら遠慮を示した。
ちなみに、にとりの衣装は青色のツナギだが、上半身部分は脱いで袖口を結んでいるため、上は黒のノースリーブ姿だった。
「あはは……気持ちだけもらっておくよ」
……そんなにもらっても食べきれねぇし。
さすがに毎日胡瓜というのは避けたい四月一日であった。
「そう言うなら仕方がないか。まあ、欲しくなったらいつでも言ってくれよ」
「うん、そのときは是非」
言葉の上では納得を示していたが、にとりの表情はどこか不満気な様子である。
やはり河童にとって胡瓜は、お宝とまでは言わないが大好物ではあるらしく、それを四月一日が遠慮したことが気に入らないらしい。ならこれは、にとりなりの友好の証なのだろう。
「四月一日」
にとりとの挨拶が終わったところで今度は
頭にお馴染みのの赤いリボンはない。
あらわになった紺碧色の柔らかな髪が陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
「こっちに来てから、雛ちゃんには助けてもらってばっかりだったね」
こちらでの時間を振り返れば、幻想郷に来てから気を失った自分を介抱してもらったり、幻想郷について教えてもらったり、河童の里まで案内してもらったり、と雛には世話になりっぱなしであった。
雛がいなければ妖獣や妖怪に襲われたりして、侑子の使いを果たせなかったかもしれない。そう思うと雛にはいくら感謝してもし尽くせないほどだった。
「本当にありがとう」
四月一日の感謝に雛が苦笑して応える。
以前の雛なら、慣れていない感謝に顔を赤くしながらそっぽを向いたかもしれない。
だが、今の雛は違う。自分や相手を見る余裕があり、笑みを浮かべることさえ可能であった。
「……四月一日ってそればっかりね」
「うっ」
逆に、四月一日が恥ずかしそうに後頭部に手を当てた。
事実、雛に対しては感謝してばかりだった。
いつか何らかの形でお返ししよう、と四月一日は心に決める。
「このお礼はまた今度お返しするよ」
「そう。忘れてなかったら覚えておくわ」
なるほど。
つまり、忘れた時は忘れた時。積極的に覚えてはおかないが、消極的に忘れもしないということなのだろう。
それならそれで充分だ。侑子さんに頼んでお返しできるようにしてもらうことにしよう。
……対価として何を求められるのか今から不安だけど。
不意に雛は和らげていた顔を硬くし、真剣な声音で四月一日を見上げる。
目に宿る光の名は決意。雛は決意の光をもって、まっすぐに四月一日を見つめていた。
「私、必ず厄神になるわ。そしたら四月一日の厄も祓ってあげる」
「うん、期待してる。雛ちゃんなら絶対、大丈夫だよ」
絶対、大丈夫。
それは、無敵の呪文。
「私も今度の戦争に絶対勝って、宗教家たちにぎゃふんと言わせてやる!」
「えっと……ほどほどにね」
雛の決意に触発されたらしいにとりも、息巻きながら胸の前で拳を握っていた。
その決心に呼応するように、彼女の胸元でアンティークな鍵が鈍い光を反射する。
どうやらにとりには、思い込んだら一直線なところがあるようだ。
何かに夢中になると周りが見えなくなってしまう。
興味と関心。
それが彼女の活力の源なのかもしれない。
「そういえば四月一日、こっちに帰る方法だけど……」
頬から酒瓶を離した侑子が思い出したように言う。
瞬間的に、四月一日は嫌な予感がした。
こうやって侑子が改めて切り出すとたいていろくなことが起きないからだ。
「まっまさか、今すぐには帰れなくなったとか、そんなことじゃないっすよね?」
「違うわよ。帰るには来たときと同じで鏡の中に入ればいい。ただ……」
「ほら、やっぱりなんかあるじゃないですかー!」
「だから違うって言ってるでしょ。どれだけびびってるのよ。問題は鏡の中に
「……あ」
鏡に視線を向け、すぐに四月一日は気づいた。
鏡は岸から約二メートルほど離れた川の上に浮いているのだ。
そこまでどうやって行けばいいのだろうか。
「……川の中に入れってことですか?」
「それでもいいけど……ほら、そばに空を飛べる子たちがいるでしょう?」
薄笑いを浮かべる侑子の言葉に、二人のことかと四月一日は後ろを振り向く。
なぜか雛とにとりがにんまりと笑っていた。
実に邪悪な笑みだった。
その笑みを見たことにより悪寒が全身を駆け巡るが、もう遅い。
「そういうことなら私たちに任せるといいよ」
「にとりの言う通りね。私たちに任せなさい」
「ちょっ、二人とも!」
時すでに遅し。
気づいた時には、四月一日の身体は地面を離れていた。
そんな彼に侑子が楽しそうに声をかける。
「やっぱり両手に花ね。よっ、この色男ー!」
「そっそんなこと言ってる場合じゃ……」
あたふたする四月一日だが、二人に腕を掴まれたまま水上を進み、
『せーのっ』
掛け声とともに鏡の中へ頭から放り込まれた。
「ぎゃぁあああああああああああ!」
突然の事態に四月一日が悲鳴を上げる。
高速度で鏡に突っ込み、サーカスの火の輪潜りのように頭、肩、胴、腿と鏡を抜けていく。
鏡を抜けた先は、左右の棚に色々な品が置かれた店の宝物庫だ。
前転の体勢で落ち、木の床を盛大に転がっていく。
「あだっ!」
開いたままの引き戸を通り、転がる四月一日の身体は床に胡瓜をばら撒きながら、廊下で仰向けに止まる。
目を開ければ店の天井。
ぞくりと感じた寒気。
そして――
ぱりんと。
鏡にひびが入る。
鏡台に立てられた大きな円い鏡。その全体に渡るほどの大きなひびだった。
すでに鏡はさきほどまでの幻想郷を映してはおらず、室内で仰向けに倒れる四月一日を映していた。
鏡が割れる一瞬に感じた寒気。あれはおそらく敵意だったのだろう。まるで余所者を追い出すために石を投げつけたような……そんな印象を四月一日は受けた。
「あら、見つかちゃった」
だというのに、鏡のそばに立つ侑子は暢気そうにその様子を眺めていた。
顔にあるのは余裕を持った笑みだ。
「……誰に、ですか?」
仰向けの姿勢で、顔と目だけを向けて四月一日は尋ねる。
果たして誰に『見つかっちゃった』のか、ひどく重要な気がしたからだ。
今後、自分の道筋に関わってくるような大きな力を持った何か。
知っておくべきだと自身の内側から声がする。
これが恐ろしい何かに対する危機感だと四月一日が気づくのはまだ先のことであった。
侑子は鏡に触れながら悠然と答える。
「管理人よ。幻想郷のね」
幻想郷の管理人。
鏡にひびが入ったのもその人に見つかったからなのだろうか。
「勝手に結界を抜けて入ったことを、怒ってるのかもしれないわね」
一人納得したように侑子は言うが、四月一日には何のことかよくわからなかった。
ただ一つ、幻想郷の管理人を怒らしたらしいことだけは伝わってきたが。
「……それってまずくないっすか?」
「まあね」
「まあねって…」
侑子の物言いに、四月一日は身体を起こして呆れたような視線を向けた。
侑子は気にせずに言葉を紡ぐ。
「幻想郷は彼女の庭だもの。彼女があることのために用意した箱庭なの」
「箱庭……?」
「そう。願いを叶えるために、ね」
その声はどこか憐憫を感じさせる声音だった。
……もしかして、侑子さんがこの店を作ったのも何か願いがあるからなのだろうか。
幻想郷が作られた理由。
この店が作られた理由。
二つの中身は似ているような気がして、四月一日は何となくそんな風に思ったのだった。
●
モロキュー。
胡瓜にもろみ味噌をつけて食べる料理、または食べ方である。
「ふぅー、やっぱりモロキューには日本酒よねー」
店の縁側。
月が望めるこの場所で、着物姿の侑子と四月一日は晩酌となるモロキューを楽しんでいた。
夜空は赤紫から黒へと変わるグラデーション。三日月の近くで一番星が宝石のようにきらめいている。
時刻は午後七時を回ったところだが、外はまだかすかに明るかった。
全身黒色の耳長い丸っこい生き物が酒の入った硝子コップを一気に仰ぐ。
「四月一日、お前も飲めー」
「俺は、酒は苦手だからいいんだよ」
黒い生き物の名前はモコナ=モドキ。この店に住まう住人の一人である。
二人と一匹の前には三つの円いお盆。中には、皿に乗せられた半分に切られた数本の胡瓜と小皿に盛られたもろみ味噌、それから透明な液体が注がれた硝子のコップが置かれていた。
コップの中の氷が酒を冷やし、コップの表面には小さな水滴がたくさん浮かんでいる。
四月一日は、胡瓜をもろみ味噌に付けてはシャキシャキとかじる。
胡瓜の水分ともろみ味噌の塩分がほどよく調和し、もろみの風味も快く鼻腔をくすぐっていた。あっさりとした中にあるまったりとした食感。まさに初夏にぴったりの舌触りであった。
皆の中央では河童からもらった酒瓶がその存在を堂々と主張している。
「そういえば、気になることがあるんですけど……」
酒瓶を取り、四月一日は幻想郷での一場面を思い出しながら侑子の空いたコップにお酌した。
並々と注ぎ、また中央に置く。
「何かしら?」
酒で満たされたコップを持ち、流し目で侑子が聞き返した。
「幻想郷の河童の里で、胡瓜を分けてもらう条件として瓢箪の片付けを頼まれたんですけど、なんでにとりちゃんはそれを条件にしたのかなって……」
自身で収穫した胡瓜を見つめ、四月一日は疑問に思う。
祠を囲む十数本ほどの瓢箪。
あれぐらいの量なら一人でも片付けることができたのではないだろうか。
侑子は酒を一口飲み、胡瓜を人差し指と親指でつまむ。
「胡瓜は河童の好物だけど、反対に瓢箪は苦手なのよ」
「瓢箪がですか?」
「ええそうよ。瓢箪は水に浮かぶでしょ?」
「それが何の関係があるんすか?」
四月一日の問いに、侑子は当たり前のように答える。
「水に浮かぶと人を沈められないでしょ?」
「……え?」
「だから苦手意識を持つようになったんでしょうね」
それ以上は言及しようとはしなかった。
だから、四月一日もまた深追いを避けた。
侑子が言わないということは、これ以上は聞かないほうがいいということなのだろう。
侑子は四月一日が本当に聞きたいことは話してくれるし、言わないでいいことは黙っていてくれる。
つまり、そういうことなのであった。
「敵味方なんてのはね、立ち位置一つで簡単に変わっちゃうものなのよ」
「はぁ……まあ何となくわかる気がします」
自分の横に並び立つのか。
自分の前に立ち塞がるのか。
結局のところ、敵味方などそのわずかな違いでしかないのだろう。
河童は人間の盟友、と謳ったにとり。
自分は人間の味方、と言い切った雛。
だが、妖怪はその本質として人間を食べるという。
「気になるみたいね。雛ちゃんとにとりちゃんのこと」
四月一日の心を見透かしたように侑子は微笑む。
もしかしたら自分の心情を酒の
「河童と流し雛は、元は人間が作った人形でもあるの」
「人形……?」
「人の形を模したモノに妖怪という性質を流し込んだ結果、雛ちゃんやにとりちゃんが生まれたの」
それゆえ、妖怪でありながら人間の側に立とうとする。
大いなる矛盾を抱えながらも、その矛盾こそが流し雛と河童を作り上げたのだろうか。
「雛ちゃんとにとりちゃんのこと、怖くなった?」
優しい声音で侑子が気遣う。
四月一日は首を振った。
「いえ。俺にとって、二人は敵でも味方でもなく――友達ですから」
「……そうね。二人に言えば、きっと喜ぶわよ」
「はは、そうっすかね」
「ええ、きっと」
夜空を見上げ、侑子は自信たっぷりに頷く。
四月一日もつられるように夜の空を見やり、そうだといいなと心から願った。
耳を澄ますように、目を閉じる。
『
不意に、脳裏に流れたにとりの声。
四月一日は酒瓶を取ろうとするが静かに首を振る侑子に制され、そのままお酌してもらうことになった。
お酌をする侑子はすべてを察したように何も言わない。
その心遣いが実に有り難かった。
「ありがとうございます」
四月一日は礼を述べると、苦手なはずのお酒にゆっくりと口を付けたのだった。
ここまでお読み頂き、誠にありがとうございました。
次はあとがき&解説の予定です。
それと余談ですが、心綺楼でのにとりがやばすぎます(笑)
おかげでますます好きになりました。