ぼっちの門 〜圓明流異聞〜   作:エコー

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今回も比企谷母の視点でお送りします。


二十九、禁断の門の果て

 

「──比企谷くん!」

「……ヒッキー!」

「比企谷ぁ!」

「ヒキタニくんっ!」

 

 後方から声が響いた。

 最後に男の子の声でヒキタニと叫んだのは誰だか良く分からないけど……今目の前で起きた光景を見たら叫ばずにはいられないだろう。

 

 月が隠れてしまった為にシルエットしか見えないが、幼い頃に消えた鬼気と共に比企圓明流の記憶を取り戻した筈の八幡は、覆面の手によって河原に押しつけられていた。その喉元には──覆面の右膝が刺さっている。

 

 覆面の仕掛けた"巌颪(いわおろし)"が──決まったのだ。

 

 びくんっ。

 

 河原に倒れ込んだ二人の影が跳ねて、動かなくなった。静寂が辺りを支配する。

 すぐに駆け出したわたし以外の全員が、時が止まったように固まっている。

 

「あ……い、いや、いや……いやああああっ」

 

 わたしが二、三歩駆けたところで誰かの悲鳴が響く。続いて駆け出す足音も幾つか聞こえた。後ろを振り返る余裕も無いわたしは、目の前の覆面に全神経を集中させる。

 事態を把握出来たのは、この場でたった二人。わたしと、つむぎちゃん。いや、技をかけた覆面を入れれば三人だ。

 

 覆面の"巌颪(いわおろし)"によって八幡の後頭部は河原に叩き付けられ、その上から膝を落とされた。

 この技は……若き日の九十九くんが兄の冬弥(とうや)さんに仕掛けた最期の技、だった筈。

 悲鳴を上げたつむぎちゃんも、その技の破壊力と結末を知っている。

 

 ──死、だ。

 

 八幡は、死んだ。

 死んだ。八幡が死んだ。

 

 優しい子だった。

 自分よりも家族を、他人を優先して行動する子だった。

 それが……それなのに。

 

「……ッ!」

 

 わたしは更なる加速を試みる。早く、早く。

 無我夢中で駆けた。息子に覆い被さるあの覆面を仕留める為に。

 息子の仇を、(あや)める為に。

 修練を怠っていた右の拳に力を込めて、奥義の発動の準備をする。

 右腕の筋肉全部が痛い。奥義って、こんなに身体に負担がかかるものだったかな。仕事の忙しさにかこつけて修練をサボっていたことを悔いる。

 慌てるな。急げ。

 冷静に考えて、わたしの今の状態では奥義に耐えられるのは一度か二度。つまり、ほぼ一撃で覆面を仕留めなければならない。

 もっと早く飛び込んでいれば良かった。あの子を救い出せば良かった。

 わたしの命なんか気にしている場合ではなかった。

 幾ら悔やんでも、幾ら謝っても……"巌颪(いわおろし)"の結果は"死"以外にない。

 ごめんなさい。あんたを護れなかったわたしを、護りの技である比企圓明流の禁忌を破るわたしを、許し──。

 

「──あ」

 

 近くまで駆け寄った時、技を決めた筈の覆面が──ずるりと崩れ落ちた。

 

 むくり。

 のしかかる覆面を鬱陶しそうに除けて起き上がる、息子。

 ──生きていた。生きていてくれた。

 だが、立ち上がった息子のその双眸は普段からは考えられない程の暗く鈍い光を宿し、八幡は嗤いを浮かべながらその濁った瞳で崩れ落ちた覆面を見下ろしている。

 

「──ねえ、立ってよ。まだやれるでしょ」

 

 嗤う八幡の声音は幼く感じる。しかし後頭部から流れた血がTシャツの背中を染めたまま嗤うその姿は、まさしく血に飢えた修羅だった。

 たった今、覆面の"巌颪(いわおろし)"から運良く生還出来たばかりだというのに、その恐怖すら感じていないのだろうか。

 

 八幡。

 わたしが小さい頃にあんたに言ったこと、覚えてる?

 ……いえ、覚えている筈はないわ。あの子の記憶は一度消えてしまったのだから。

 だけど現に八幡は比企の奥義を使った。ならば、いっそ全部思い出して。あの日わたしがしたことも。

 

「あれー、もう死んじゃったの? 弱いんだね」

 

 違う。

 息子は、八幡は……そんなに簡単に人の生き死にを口にする子ではない。少なくともわたしはそんな風に育てたつもりはない。なら、やっぱりあの八幡は……。

 

 覆面の弱い呻き声が響く。砂利を掴む音が聞こえる。視線を泳がせると覆面が懸命に身体を起こそうとしていた。

 良かった。

 まだ息があった。八幡は「まだ」誰も殺してはいなかった。

 思わず安堵の息が漏れる。あの子に九十九くんやわたしと同じ(ごう)を背負わせたくはない。

 

「あは、まだ生きてた。じゃあ、とどめしていい?」

 

 無邪気に笑う息子の残酷なひと言に愕然とする。

 ああ、この子は完全に修羅に堕ちてしまった。

 八幡は左腕を振り上げ、非情なる拳を覆面の後頭部に振り下ろそうとした、その時である。

 

「──りゃああああっ」

 

 陣雷くんの体当りが八幡を吹っ飛ばした。

 八幡の身体も限界だったのだろう、そのまま河原に背を預けて倒れた。

 

「ヒ、ヒッキー!」

「比企谷くんっ」

「……ひ、比企谷っ」

 

 由比ヶ浜ちゃん、雪ノ下ちゃん、川崎ちゃんの三人がわたしの横をすり抜けて、仰向けで横たわる八幡に駆け寄る。

 

「駄目っ、その子は今──」

 

 叫んだけれど遅かった。

 くっ、間に合え。

 砂利を蹴り上げて走り出す。その間に三人の女の子は倒れた八幡の元へたどり着いてしまった。

 このままではあの子たちが危ない。

 ごめん、八幡。

 ──恨むなら母さんを恨んで。

 右の拳にありったけの力を込める。

 息子に見せる最期の技は、あの時と同じ。

 比企圓明流、"氷柱(つらら)落とし"。

 せめて頭を冷やして冷静になって、優しい八幡に戻って、あの世へ。

 

「グォアアアアアア」

 

 その時──背後で猛獣の猛りが響いた。

 

 

 

 

 

 

  * * *

 

 深夜の総合病院の緊急搬送受付。

 その待合室にわたし達はいた。

 ここにいるのは救急車に同乗してきた小町とわたし、それに車で駆けつけてくれた由比ヶ浜ちゃん、雪ノ下ちゃん、川崎ちゃん、葉山くんと戸塚くん、それに平塚先生。

 

 八幡は今、処置室で治療を受けている。

 

 ピリリ。

 

 味気ない携帯電話の着信音が鳴った。すぐさま立ち上がった平塚先生は、電話を片手に病院の外へと向かう。

 

「──どうぞ」

 

 ペットボトルのお茶を差し出してくれたのは、葉山くんだ。見ると、他の子たちは既にペットボトルを持っていた。

 

「──ありがとう。貴方も怪我をしているのに、悪いわね」

「いえ、彼に比べたら僕のは軽傷ですから」

 

 軽傷なものか。

 聞けばこの葉山くん、あの覆面に腹を蹴られたそうだ。鍛えていない身体が耐えられる程、圓明流の蹴りは軽くない。きっと肋骨の一本や二本は折れている筈だ。

 その状態で、突如山から現れた熊に吹き飛ばされたのだ。無茶にも程がある。

 幸い外傷もなく助かったから良いものの、一歩間違えば死んでいたのだから。

 

「ここは良いから、貴方も治療してもらって来なさい」

「しかし、彼──比企谷君が」

「大丈夫。ここは病院よ」

「……そうですね。では、失礼します」

 

 笑顔を作った葉山くんは処置室へと向かったのを見届けて、貰ったばかりのペットボトルのお茶を口に含む。喉を通る液体の冷たさは少しだけ動揺を流し落としてくれた。

 

 あらためて考える。

 あの覆面は何者だったのか。

 騒ぎの最中、あの状態で何処に消えたのか。救急車が到着するまでの数分間で回復するようなダメージでは無かった筈だ。

 

 ちなみに、みんなの怪我は全て山から下りてきた熊さんのせい、ということになっている。

 罪を被せてしまったことは申し訳ないけど、山から下りてきて人を襲ってしまったのは事実なのだから。

 その事情聴取で陣雷くんは千葉村に残っている。つむぎちゃんも一緒だ。

 

 ほう、と息を吐く。

 と、周囲の様子に気づいた。

 由比ヶ浜ちゃんはぐすぐすと泣いている。雪ノ下ちゃんはペットボトルを握ったまま俯いている。川崎ちゃんは泣いている小町の背中をさすっている。

 そこから離れた長椅子に座る一人の美少女。いえ、男の子だったわね。

 戸塚くんは虚ろな表情で天井を見上げていた。

 

 彼ら彼女らは、八幡を心配してくれている。

 だが、あの死合いの中で八幡の記憶は戻った。

 戻ってしまった。

 しかも最悪の状態で。

 

 元々八幡は優しい子だった。

 常に他人のことを考えて、自分は二の次。

 しかし、一度怒りて我を忘れると相手が謝っても泣いても許さなかった。

 慈悲と残虐性。

 その二つの性質を持った子が、幼い頃の八幡だった。

 

 今回は、その残虐性が目覚めてしまった。

 そんな八幡に、彼ら彼女らは変わらずに接してくれるだろうか。

 ──いいえ、どう考えても無理だわね。

 きっと八幡は、今回の件でまた独りになってしまう。誰も八幡の周囲から居なくなってしまう。幼稚園の頃の、あの時と同じように。

 

 比企圓明流なんて教えるんじゃなかった。

 あの時、『小町を護る力が欲しい』と言って八幡にせがまれた時、ちゃんと断れば良かった。

 

 ──いえ、先ずはあの子が無事に死の淵から戻って来れるよう祈る方が大事ね。

 贖罪は、その後だって出来るのだから。

 




今回もお読みくださいましてありがとうございます。

色々と謎が多い回になってしまいましたが、それはいずれ語られると思います。
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