機材とは保守整備に時間と手間がかかるものだ。特に軍艦などは巨大でしかも精緻で、しかも手入れを怠ると死に直結するのだからじっくり時間をかけて丁寧に整備作業を行わなければならない。
岸壁に直づけし、内火艇をダビットに吊り下げて接地寸前まで降ろしホースで無造作に海水をかける。ステンレス製のヘラで舟底の貝やフジツボを剥いでいく様子はあまり丁寧には見えないが、出来うる限り慎重に作業してはいるのだろう。
第10船舶隊は余裕がある日を見つけて設備等の点検整備を進めていた。艦載艇も当然、その対象となる。
「ぽーいぽい」
水着を着た艦娘達が水飛沫を浴びながらフジツボや牡蠣殻を落とす。遊び半分に見えるその作業をハンス・アルブレヒト・ウェデルの甲板上から眺める衣谷に、漣が近寄って声をかける。
「眼福ですなぁ、御主人様」
「毛も生えてないガキを見ても眼福にはならないな」
「……見たんですか? 毛が生えてるかどうか」
しまった、切り返しを失敗した。衣谷はそう思った。
「そんなワケないだろう」
「ですよねー。あはは」
一瞬の沈黙の後に応えた衣谷に対し、漣は笑いながら艦橋構造物の表面を指でなぞり、その指をおもむろに咥える。
「パクンッ。これは嘘をついてる味! 苦しょっぱい!」
「塩だろ。煤煙混じっているから汚いぞ」
乾いた海水由来の塩を口にした漣に冷めた表情で忠告する衣谷。『嘘』をついていたのは確かだが、図星を突かれた動揺より漣へ対する呆れが強い。
「べっ。御主人様、もっと早く言ってください」
「いや、
吐き捨てる漣に呆れの色を濃くする衣谷だった。
「それでどうしてそうなったんですか?」
「37ミリの砲身を持ち上げたら腰を痛めた」
第10船舶隊本部の畳敷きになった娯楽室にて。布団にうつ伏せで寝ている衣谷に、大淀が憐れみを込めた視線を送っている。
衣谷は漣からの追及を躱そうとして機関砲の整備に手を出し、甲板に置かれた砲身を移動しようとして腰を痛めてしまったのだ。
「ラインメタルめ……。もっと軽く作ってくれればいいのに」
「艦載砲の製造はクルップじゃありませんか?」
「正直、製造会社はどこでもいい」
「あらら」
痛みに顔をしかめながら恨み言を吐く衣谷。八つ当たりであるから、実際製造元でなくても構わないのだ。
ちなみに、37ミリ砲の製造はラインメタルで合っている。
そんなふうに痛みで投げやりになっている衣谷だが、さすがに大淀以外にはカッコつけて見せたいようで。
「ん? 誰か来るな」
床を伝わる振動を感じ、衣谷はどうにか体勢を変えようとモゾモゾ動いたが、ピタリと動きを止める。
「どうかしましたか?」
「痛みで身動き取れん」
「……提督はじっとしていてください。私が対応しますから」
「すまん」
衣谷とそんなやり取りをした大淀なのだが、娯楽室の出入り口から通路に出て、すぐにUターンしてきてしまう。
「どうした」
「あれはちょっと止められません」
早い調子の足音4つを響かせながら、心配そうな表情を浮かべた暁達が娯楽室に突入する。
「司令官、お見舞いに来てあげたわ!」
「司令官、大丈夫かい?」
「看病が必要なら、私たちに任せて!」
「急に来てしまい申し訳ないのです」
テコテコ歩いて衣谷の所へ向かう4人にほっこりした気分になった衣谷だが、ある事に気付いて顔を伏せた。
「司令官、具合悪いの?」
「痛むの?」
顔を伏せた衣谷に慌てる暁達に、衣谷は気不味そうに答える。
「いや、下着が見えそうで」
その言葉で4人は顔を赤らめながらしゃがみこんだ。
「それで、バケツ一杯にザリガニがとれたのよ! 暁が1番たくさん捕まえたんだから!」
「なるほど。頑張ったんだな」
座椅子に座り、得意気に『報告』する暁を褒める衣谷。
海軍の任務ではなく、地域住民との交流目的で野良仕事のお手伝いを第六駆逐隊は行っていた。今日は蓮根畑を荒らすザリガニ退治をして来たらしい。
「取れたザリガニは鳳翔さんと間宮さんが調理するって、今は泥をはかせているよ」
「あ、そうか。泥抜きすれば食べられるもんな」
響の言葉にどこか遠い目をする衣谷。アメリカザリガニは食用として輸入された事実があり、衣谷も食べたことがある。
「司令官はザリガニを食べたことがあるのかい?」
「ああ。あるにはあるが、空襲で補給が途絶えた時でな──」
予備応召自衛官としての教育が終わってすぐのこと。小松基地周辺から輪島分屯基地に機動展開した基地防空隊の各ポストは交通網が寸断され孤立。
糧食が届かず空腹に耐え切れなかったので、その辺の用水路で捕まえたザリガニと手長エビを焼いて食べてみたのだ。
「泥臭くて食えたもんじゃなかったな。我慢して食べたけど」
「そんなこともあったんですねぇ」
いつの間に来ていたのだろうか。メモを取る青葉に衣谷が言う。
「そんなことまで記事にするのか」
「いいえ。コレは情報として持っておくだけです」
話のネタというか、引き出しは多い方が記者としてはやりやすいのだ。青葉は記者ではなくて艦娘だが。
やれやれと肩を竦めた衣谷に青葉が色々な質問をしていき、衣谷が答え、他の艦娘にも話を振る。なかなか充実したコミュニケーションを取る時間となった。
「……それでアブラナのつもりで間違えてカラシナを食べて酷い目にあった」
「司令官って、けっこうおっちょこちょいね」
「いやしんぼさんなのです」
野外活動での失敗談の大半が食べ物に関係しているのをなんとも優しい笑顔で指摘され、衣谷は少し居心地が悪くなる。
「まあ、なんだ。腹が減っては戦はできんというからな」
別に食い意地張ってるわけではないと言い訳がましく言ったちょうどその時、廊下からパタパタと足音が聴こえた。
「提督さーん、お見舞いに来たっぽい!」
どうした理由か水着姿でドーナツとコーヒーを抱えた夕立がやって来た。
さらに続いてMAXコーヒーを持った天龍と龍田が顔を見せる。
「ほらよ。1番うまそうなコーヒーを持って来てやったぜ」
「ああ、ありがとう」
張りのある胸を反らせる天龍とニコニコ微笑む龍田に衣谷はやや引き攣った笑みを返す。
名前で選んだのだろうか。MAXコーヒーは砂糖入りコーヒーというより砂糖ジュースにコーヒーを垂らした飲み物だ。
衣谷は夕立の持っているコーヒーがブラックであることを祈りながら手を伸ばした。
「クソ提督、お見舞いに来たわよ──人口密度高いわね」
曙が娯楽室に入ると、常に無いほどの艦娘が娯楽室でくつろいでいた。その中心に衣谷がいる。
「おお曙。来てくれたのか」
「あたしだけじゃないわよ」
曙だけでなく、潮や漣、朧も顔を見せる。
「提督、大丈夫ですか」
「ご主人さまのためにクッキー焼いてきました」
「漣は、変なこと言っちゃったって気にしていまして」
どうやら、自分が妙な話を振ったことが衣谷の腰痛を招いたと漣は思っているらしい。
「いや、全く関係ないんだが」
「でも、ご主人さまが逃げるようにして作業に向かったのはあの会話のせいですよね?」
「まあ、な」
どんな会話があったのだろうかと耳をそばだてる周囲の艦娘を無視し、漣は頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
「分かった。気持ちは受け取るから頭を上げてくれ。この話はこれで終わりだ」
周囲にも追及しないようにという意味を込めて衣谷は言った。
「Hi! Admiral、痛み止めを持って来たわ!」
アイオワがタイミング良く現れ、衣谷は痛み止めの錠剤を受け取ると漣に命ずる。
「漣。薬を飲むから水を用意してくれ」
「分かりました!」
勢い良く走っていく漣を見送り、曙から安静にするよう言われ、衣谷は手の中にある錠剤を弄ぶ。
「痛み止めか」
「痛み止めよ」
アイオワが意味深に微笑んだ。
ハンス・アルブレヒト・ウェデルの艦橋にて。
任務報酬の計算をしていた時雨は五十鈴に声をかけられた。
「時雨は提督のお見舞いに行かなくてもいいの?」
「僕は、後から行くよ。まだ業務が残ってるし」
「……そう。手伝うわよ」
「いいよ、僕の仕事だから」
五十鈴の手伝いがあれば仕事はすぐ終わるだろう。一旦置いておいて、後から片付けてもいい。
しかし、時雨はそれをよしとしなかった。五十鈴に借りを作りたくなかったし、五十鈴の方が手際良く仕事をこなしてしまったなら、秘書艦を交代させられるのではないかと思ったのだ。
頑なな様子の時雨に五十鈴はというと、特に気分を害したふうにも見えない。
五十鈴も時雨の心の動きは分かっている。逆の立場ならやはり手伝いの申し出を断っただろう。
時雨がペンを走らせる音に混じり、誰かが甲板上を歩く足音が聴こえてくる。
「2人ね。革靴と、底が柔らかい履き物の」
「耳がいいね」
五十鈴が言うとおり、白露と夕立の2人がやって来た。白露はいつもの格好で、夕立は水着にサンダル履きだ。
「やっほー。提督はドーナツよろこんでくれたよ」
「そう。それはよかった」
秘書艦業務をしていた時雨は手伝えなかったが、ドーナツは白露型の手作りだ。姉妹達の手料理を喜ばれたことを、時雨は素直に嬉しく思う。
そんな白露型姉妹の姿を見て、もっぱら食べる側の五十鈴もたまには手料理を振る舞ってみようかと考えている。
「それで、提督は歩けるようになったみたい」
「アイオワが持ってきた痛み止めのおかげっぽい」
「痛み止め?」
衣谷が動き回れるようになっていたと白露達から報告され、時雨は首を傾げながら執務スペースにある書棚を見やる。そこには海図や勤務参考書の他に医学書も並べられていた。
普通、人間の腰痛などは治療にある程度の期間が必要なはずだ。痛み止めを飲んだにしても、効くのが早すぎるし効果も高すぎるように感じられる。
(ひょっとして)
時雨は嫌な話を思い出した。
「時雨?」
「うん。夕立、その痛み止めはアメリカ製かな?」
「多分、そうじゃないかしら」
時雨の中で嫌な予感が膨らむ。
日本では認可されないような薬品がアメリカでは認められていたりする。中には強烈な副作用を持つ薬もあり、一部の州で合法化された大麻などがその代表例だ。
衣谷が薬漬けにされているのではないかと時雨は危惧したのだ。
「調べる必要があるね」
業務を早く終わらせようと目の色を変えて書類に向かう時雨。その鬼気迫る様子に、白露達は気圧されるのだった。
さて、一方の衣谷はというと腰痛も治まりなんら憂うことなく過ごしていた。
「どこも痛くないというのは素晴らしい」
足取り軽く脳ミソまで軽そうな言動の衣谷が向かう先は提督執務室。三田に復帰の報告をする必要があるのだ。
「入ります」
執務室の扉からは賑やかな声が漏れており、声をかけて中に踏み入ればBarと化している室内で昼日中から酒を飲む艦娘の姿が見られる。
「お姉が2人ぃ、えへへ。あ」
「あら、提督」
バーカウンターで飲んでいた小袖を着てリラックスした様子のダブルちとちよ4人が衣谷に気付く。
「みんなして楽しんでいるみたいだな」
「えと、提督、今日は私も千代田も非番で」
「分かっている。ハメを外し過ぎなければいいさ。そっちの2人もな」
衣谷は喋りながら周りを見るが、三田は執務室内にいなかった。
「三田提督はどこかに行っているのか?」
「設備点検に行きました。もうすぐ帰ってくると思います」
「なら、待たせてもらおうか」
そんなふうな千歳と衣谷のやり取りを見ていた千歳(2号)が不思議そうに訊ねる。
「衣谷提督は私たちの見分けがつくんですか?」
「そりゃあ、つくに決まってる。所作が違う」
衣谷に気付いた時、千歳と千代田は身体全体で衣谷に向き直ろうとしたのに対し、三田の下で新たに建造された2人は首だけ回した。そういったところで見分けたのだ。
が、なぜか千代田が頬を膨らませて衣谷を睨む。
「提督。お姉をヤらしい目で見ないでよね」
「なんでそうなる」
「改二になって千歳お姉のおっぱいが大っきくなったから動きに差ができてるんでしょ?」
「いや、そういうことじゃないだろ」
的はずれなことを言う千代田に反論する衣谷。しかし肝心の千歳が場を引っ掻き回す。
「確かに、燃料タンクがおっきくなったわね」
ぽよん、と千歳は自らの胸をさする。
「重心が高くなって
確認のためだろうか、見せつけるように揺さぶる千歳。それをイヤらしい目で見ていたのは衣谷よりも千代田の方だった。
「千代田、ヨダレ垂れてるぞ」
「えッ⁉︎ た、たれてないじゃない!」
衣谷の言葉に2人の千代田が慌てて口の周りを手で確認し、否定した。
「お前は何をやっているんだ」
三田の車椅子を押した初月が執務室に入ると、衣谷が千歳達と戯れあっている。それを羨む気持ちを押し殺し極めて平坦な声を出した初月に対し、衣谷も事務的に答えを返す。
「腰痛が治まったので、職務復帰の報告に来ました」
この場面では、秘書艦初月の立場は三田大佐の権限に比例して衣谷少佐より上なのだ。だから敬語だ。
とはいっても、三田大佐と衣谷少佐としての関係は職務に復帰するまでで、衣谷が復帰した瞬間から提督同士あるいは提督と代行という関係になるので、衣谷が初月の下という関係は実動時にはない。
「了解したわ、衣谷提督代行。早速だけど通達に目を通してちょうだい」
ちょうど、書類が届いたタイミングだったらしく三田が衣谷に通達を見せる。
その内容は、提督が最前線に出ずに鎮守府や基地から指揮を執ることを奨励するというものだった。
「座乗艦の被害増加により後方からの指揮機能強化、ですか。これは誰も前線に出たがらないでしょう」
「それよね。艦娘に権利の一部を与えるか、
これまでも提督全員が全員最前線に出ているワケではなかった。
しかし、艦娘と妖精の存在について各国の対応がまとまっていないため、行動中の艦隊には最低1人は人間がついていなければならない。艦娘と一緒にいたいと考える提督も多く、これまでは前線に誰も来ないという事態は起きなかった。だが、このように座乗艦が優先的に狙われていると発表しては、提督も尻込みしてしまうし、艦娘も提督が戦場に出ることを嫌がるだろう。
では、その危険な前線指揮を執る役割を誰に押し付けるのか? 丁度良いことに、もともと自衛隊所属で、司令部から疑惑を向けられている人間がいる。
「自衛隊出身の提督なら、危険があっても前線に立ち続けるでしょう。元々そういう仕事です。当然、私も」
衣谷は押し付けられるより先に志願する。
衣谷からすれば三田のような一般人から提督になった人間は、言ってしまえば軍人のコスプレをしているだけの一般人なのだ。自衛官としては守るべき対象だ。それを守るために危地に留まることも任務だ。
「艦娘は嫌がるわよ。そうよね?」
三田がそう言うと千歳や初月が神妙な顔で頷く。
第10船舶隊の艦娘にとって衣谷は大切な守るべき相手だ。艦に座乗して一緒に出撃したなら艦隊の7人目として非常に頼もしいが、その立ち位置が狙われているというなら引っ込んでいてもらいたい。
三田は衣谷に、おとなしく守られるように言った。艦娘の方が戦いに向いているのだからと。
しかし衣谷はそれで引き下がるタマではない。
「艦娘の方が私より強いのは分かっています。しかし自分より強いという理由で矢面に立たせるのは理にかないません」
「吉田沙保里や伊調馨と喧嘩したら、私は負けます。しかし、有事の際には彼女等を自衛官は守りますよ」
何かを、誰かを守ろうと思う人間には、守る対象が自分より強いか弱いかは関係ない。
「艦娘はレスリング選手より強そうですか? 三田提督」
「ノーコメントよ」
冗談めかして言う衣谷に、三田は白旗を揚げた。
「ですが提督、私たち艦娘は軍艦ですよ」
千歳が、自分達は戦うために現れたのだと主張する。守るためにこの世界にやって来たのだと。それに対し衣谷は疑問を呈する。
「千歳、君達は軍艦の魂の一部だ。だから我々を助けようと思ってくれた。それはいいが──」
人が造り出した軍艦の魂が人を助けるのは自然だと衣谷も思ってはいるが、しかし。
「──軍艦の魂である君達は自らの意思で人類を助けようと決めた。しかしそもそも、軍艦に生まれたのは君達の意志か?」
「それは」
「俺が自衛官になったのは自分の意志だ。だが、君達が軍艦として生まれたのは誰の思惑か不明だ」
艦娘の存在は神の企てか悪魔の意思か。
──どちらにせよ、他人の思惑に乗せられて戦うことは屈辱以外の何物でもない。
「君達は自らが戦うか戦わないかを決めることができる。俺が戦うかどうかは俺が決める」
「身勝手よね、あの人」
三田は衣谷が出て行った扉を見つめながら言った。
前線で戦う以外は戦いではないとでも言うかのような衣谷の物言い。それは後方勤務しかできない三田の自尊心を傷付ける。
とはいえ、本来なら前線に立っての戦闘指揮と後方での事務処理との両方が出来て当たり前なのだから三田は文句を言うことができない。
それ以前に、三田は衣谷を羨みこそしたが文句を言おうとは思わなかった。
「あいつは、提督としては不適格だと思う。戦いたくない者をどうにかして戦わせるのも提督の仕事だろう」
初月が三田に合わせるように言い、何か言おうとした千代田を目で制してから続ける。
「ただ、
その言葉に三田は満足し、千代田も険のある視線を引っ込めた。
衣谷がリシュリュー艦内の自室に向かっていると、上甲板で時雨が待ち構えていた。
「提督、ちょっといいかな」
「どうした。書類に問題でもあったか?」
「ううん、違うよ。業務は片付けた。提督に訊きたいことがあるんだ」
「そうか。なら、部屋で聞こう」
衣谷は時雨を伴って自室へと向かった。
艦長より上の提督の部屋は広い。と、いっても船の中にしては広いというだけで、整理されて無駄を感じさせない空間はかえって圧迫感を与える。
そんな中、僅かに舷窓と文机に置かれたドライフラワーが和らいだ空気を演出していた。
「さて、訊きたいことがあるって?」
椅子に座るよう時雨に勧めて、自分はベッドに腰掛けた衣谷が切り出した。2人の距離は互いに手を伸ばせば指先が触れる程度に開いていた。
時雨は椅子に座る際にスカートを気にする素振りに見せかけて半歩、距離を近付ける。
「アイオワ、と、提督が隠していることについて」
僅かに衣谷の瞳が揺れた。
時雨は思いを寄せる相手に少しでも近付こうとしたのではなく、相手の些細な変化すら見逃さないように近寄ったのだ。
「人間、誰しも隠し事の百や二百あるものだ」
「提督」
当初、時雨はアイオワの身辺を調べようとした。しかしそこで妙なことに気付いたのだ。
「アイオワは、リシュリュー艦内に部屋を与えられているね」
「ああ」
「どうして隊舎の部屋を使わせないのかな」
いつもの衣谷なら基地隊舎に部屋を与え、他の艦娘とより長く過ごして打ち解ける機会を増やすだろう。
なのに、なぜか艦内居住させ、食事も衣谷と同様に艦内で摂ることが多い。
「米艦娘だから、という答えでは不満か?」
「それならむしろ接触機会を増やしつつ、提督が間に入って仲を取り持つんじゃないかな」
いつもの衣谷ならそうするだろうと時雨は言う。
「アイオワへの対応は提督、キミらしくない」
衣谷は観念したかのように両手を上げた。
「時雨、君は賢い。それに行動力もある。黙っていても勝手に探り当てるだろうな」
手を下ろし、そのままベッド下の収納へ手を伸ばしながら衣谷は語る。
「テセウスの船を知っているか?」
船の部品を交換していき、全てが新しいパーツに置き換えられた時、それは元の船といえるのか、というお話だ。
「僕たちのこと?」
「いや、俺の話だ」
衣谷はベッド下から緑色の薬ビンを取り出した。
「アンカレッジで俺は──」
防空棲姫との戦いの後、衣谷が目を覚ますと目の前は白い闇に包まれていた。それが包帯だと理解する前に声が響く。
『Lieutenant Commander 、お目覚めかな? 我々は、君の脳波をモニターして覚醒レベルにあると判断して話しかけている』
『聴こえていたら、右手を挙げてくれたまえ』
衣谷は右手を挙げた。とはいっても、右手首から先は無かったのだが。いや、それどころか両手首両足首から先の感覚が無いことに衣谷は気付く。
『OK、手を下ろしてくれ。さて、良いニューズと悪いニューズがある』
『良い方から。君の部隊は無事にアンカレッジにたどり着いた。3日前だ』
『悪い報せは、君の肉体は内部から電撃で焼かれ、細胞が死んでいってる。指先から壊死し、昨日は手首と足首を切断した』
だから感覚がないのかと、衣谷は麻酔により靄がかかった頭で納得した。
『残念だが、前腕と膝下も死に始めている。膝と肘で切断するが、そこで止まらなければ四肢の付け根で切断する。それでも止まらない場合は、手の施しようがない』
『これまでの医療なら、の話だがね』
声の質が明らかに変わり、新たに誰かが説明に加わる。
『先進医療研究センターと、ガン研究センターの者だ。我々はFleet girl の高速修復材を人類へ使えないか研究をしている』
『我々の開発している薬剤は、マウスでの実験に成功し、人間での臨床試験の段階にある』
『この試験、君に協力してほしい。断ってもらってもかまわないが、ね』
「──薬の効果は劇的だった。定期的に薬を投与する必要こそあるが、俺は死を免れた」
アイオワは臨床試験の経過観察と、アメリカから送られてくる薬剤の受け渡し窓口なのだ。
「厚生労働省の許可なんか無いから内密にしなきゃならん。あんまり周りに触れ回るなよ」
「分かったよ、提督」
「誰にも漏らすなとは言わん。時雨のことは信頼してるからな。話すべきと思った相手には話していい」
「うん」
時雨の頭は混乱していた。
提督を傷付けた深海棲艦への怒り、肝心な時に守れなかった自身への悔しさ、提督をモルモット扱いしているアメリカへの苛立ち。
そんな心中が顔に現れている時雨に、衣谷は努めて明るく言う。
「そんな顔するな。誰も損はしちゃいないんだ。俺は生きてるし、医療は発展する。万々歳だ」
「でも」
「時雨、今日は早めに食事して入浴して寝て、ゆっくり休め。混乱してるだろう。俺も長々と話をして疲れた」
「う、うん」
釈然としない時雨だが、衣谷が疲れたというのなら休ませてあげた方がいいと考えて退出する。
提督私室の扉を開き、時雨は衣谷に振り返り、言う。
「提督、話してくれてありがとう。信頼しているって言ってもらえて、嬉しかったよ」
「いや、礼を言うのはこっちだ。心配してくれてありがとう、時雨」
衣谷の優しい瞳に見送られ、時雨は暖かい気持ちで部屋を後にした。
その夜。リシュリューの提督執務室に3つの人影があった。
「良かったんですか? 時雨ちゃんに話してしまって」
衣谷から話を聞いた大淀が疑問というより苦言を呈す。あの娘に話したらどんな行動に出るか分からない、と。
しかし衣谷は正反対の考えを示す。
「時雨は鋭い。あのままだと他の艦娘も巻き混んで調べて、知る必要の無いことまで知っていただろう」
先に秘密を打ち明けることで、逆に秘密を守る側に引き込むことが可能なのだと。
「あのままだと、夕立や青葉あたりからも協力を取り付けて調べようとしただろう。だが今の時雨は、嗅ぎ回ろうとする艦娘を牽制する」
「それが提督の信頼ですか」
「いいや。時雨から俺への、なんだ、慕情か。俺のやってることは信頼だなんて褒められた行為じゃない」
「それが分かっていてやっているなら、何も言いませんが」
刺されても知りませんよ、と大淀は言った。
「でもAdmiral、全てを話さなくて良かったの? Youが1番信頼している
3つ目の人影、アイオワが訊ねるも、衣谷はやや自嘲気味に笑う。
「全部を教えて、それで何か解決するわけでもない」
「That's it. You've gone too far」
肩を竦めてアイオワは言った。
衣谷が使用している薬剤は高速修復材を基に、ヒトの細胞を使って人間の細胞組織に対応するように造られている。そして、高速修復材は妖精によって作り出されている。
つまり、深海棲艦との戦いにケリがついて妖精がこちらの世界から元の世界に戻ってしまったなら、薬剤の原料供給が断たれて衣谷は全身が腐れて死ぬ。
「戦いが終わるまでに、妖精がこちらの世界に留まろうとなるか、医療が発展するか、だな」
衣谷はまだまだ死ぬつもりはない。
そんな衣谷を見て、アイオワは薄く微笑んでいた。