見つめる先には   作:おゆ

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第三十四話 宇宙暦796年十一月 エル・ファシルにて

 

 

 やっと宇宙港からシャトルに乗り、飛び立った。衛星軌道上で待機しているエル・ファシル行きの便に乗り換える。

 キャロラインとアンドリューの二人だけだ。

 エル・ファシルはイゼルローン回廊に近い辺境星系であり、ハイネセンからそんなに近くない。旅客船なら二週間もかかる。キャロラインは無理を言って休暇を取ったが、他の人間は艦隊勤務があるのでさすがに何日も休めない。

 

 

 キャロラインは旅客船内でも兄の介護を続けた。

 アンドリュー兄さんは支えれば歩きもするし、声をかけるとこちらを見てうなずくこともする。食べたりの基本動作もできるし、急に逃げたり暴れたりはしない。だから介護はキャロライン一人で充分できる。

 ただし、ほぼ意識が薄いような状態なのだ。相変わらず表情がない。語りかけても反応はなく、もちろんしゃべることも一切ない。

 

 これが良くなるのだろうか。

 キャロラインは不安を押し込める。やはりこのままだったら、という悪い想像を振り払いながらエル・ファシルまで到達する。

 

 エル・ファシルの宇宙港ではドクター・ロムスキーが出迎えに来てくれていた。

 

「キャロライン・フォークさんかな。グリーンヒル大将から話を伺っているよ」

「ありがとうございます。ドクター・ロムスキー、この度は無理を言いました。兄アンドリューをよろしくお願いします」

「病人を診るのは、私の仕事だよ。ところで、フレデリカお嬢さんは息災だろうか」

「フレデリカはもちろん元気です」

 

 ここでロムスキー医師は昔を懐かしむことをいう。グリーンヒル家とはそれほど旧知の仲なのだろう。

 

「子供時代から知っているが、最後に見たのはまだ14歳の時だ。大きくなったのだろうね。いや大きくなったどころか同盟軍で立派に働いてるとは。しかももう少佐になっているそうじゃないか。前にグリーンヒル大将から、娘が父を見て士官学校に入ったと聞いていたよ。その時の大将はそれは本当に嬉しそうだった」

 

 え!? フレデリカがグリーンヒル大将を少し騙してるとは聞いていた。父を見て士官学校に行こうと決めたと言って。

 本当はヤン・ウェンリーに会うためだったのに。

 マルガレーテのところでフレデリカはそう言っていたが、本当だったのか。

 グリーンヒル大将がフレデリカの言うことを真に受けているとはその洞察力も娘に対しては全然役に立ってないようだ。

 

「軍での勤務は大変そうかな」

「いいえ、フレデリカは今の職場がとても合っているみたいで、いつも楽しそうにしています」

 

 それは本当のことだ。嘘ではない。

 

 

 

 ともあれ兄アンドリュー・フォークをロムスキーの病院に入院させてもらう手続きを取る。

 そこから先ずは診断をして、治療の方針を決めることになる。そこまでキャロラインは数日待たないといけない。

 

 五日後、やっとキャロラインは病院に呼び出された。

 そしてドクター・ロムスキーから意外なことを伝えられたのだ。

 

「お兄さんを各種検査したところ、問題は何も見つからなかったんだ。体に異常はない。特に脳は詳しく調べても問題はなかった」

「え、それはどういうことですか? 現に兄はああいう状態で、とうてい普通などではありませんが」

「ええと、それはつまり、病気ではないということだよ。解離性ヒステリーなんて病名はとんでもない」

「病気でないのはよかったですが、原因は不明ということですか……」

 

 それでは慰めにはならない。解離性ヒステリーなどではないと分かっても、原因が不明であればすなわち治療のしようがないことにつながり、回復できないということではないか。

 

 ロムスキーは少し考えこんでから言った。

 

「原因、か。いや原因も分かっているのだが…… 伝えるべきか実は迷うところで、お兄さんには薬物反応が出たのですな」

「や、薬物? しかし兄が……」

 

 これは意外なことだった。

 軍では勇気を振り絞ったり、トラウマを癒すために合法スレスレの薬物を使う者が出てくるものだが、まさか兄が。

 

「いやその薬物というのは、自白剤を強くしたようなもので、正常の脳機能を奪い取るものだ。それにひどいことやられているから、ああいう状態に。その薬というのは軍か警察で厳重に管理する類のものであり決して普通に出回るような薬ではない」

「で、では兄は、誰かに薬物を打たれて、あんな事になってしまったと」

「そういうことになる」

「では薬のせいだとしたら、その薬が切れたら元通りになるのでしょうか?」

 

 それが聞きたい。とにかく今は兄がどうなるのか知りたい。

 どんな経緯で兄が薬物を打たれたのかについては後で考えればいい。

 

「原則はそうなのだが、よほど過量に使われたようだ。死んでも構わないといったくらいに。ひどいことだ。それでかなり後遺症が出てしまっている」

 

 やはりダメなのか。兄はこのまま治らないのか。

 

 

「もう少し続けられていたら回復不可能になるところだった。危ういところだった。完全回復まで簡単には行かない。一年、いや二年でも無理だろう。それ以上かかるだろうか」

「で、では、兄は」

 

 ああ! 全身から力が抜けた。

 兄は、治る!

 

 また元に戻るのだ。多少時間はかかっても、あの兄が帰ってくる。あの明晰な兄が。

 

 一秒ごとに喜びがあふれてくる。

 キャロラインは自分でももうどうしていいかわからない。

 ここしばらく世界は無色彩だった。今やっと世界が美しく見える。

 心は踏まれてぺちゃんこになり、折られてちぎられていた。それがやっと元に返る。

 意味を失っていた世界が意味を取り戻した。

 

 涙で世界が見えなくなる。憂国騎士団のときの10倍はあふれてきて止まらない。

 顔の全部、膝においた手も、あたり構わず濡らしまくる。

 

「ありがとうございます。ドクター・ロムスキー、ありがとうございます。ありがとうございます」

 

 

 キャロラインはハイネセンに帰る日をもっと延ばし、兄アンドリューの傍にいることに決めた。第九艦隊アル・サレム中将はそれを快く許し、いつまでいてもよいと言ってくれたが、キャロラインは申し訳ないので10日だけにした。

 

 そしてホテルと病院を往復する日々になる。

 ホテルではさすがに料理はできず、その代わり近くのケーキ屋を巡っては、食べてみておいしい菓子を厳選して買ってくる。

 

「兄さん、今日はオレンジタルトを買ってきたわ。私の作るのよりちょっぴり甘いけど、とっても似てるのよ。これを私が初めて作った時のこと、憶えてる? 兄さんが少尉任官のお祝いの時よ。私が作ったオレンジタルトを兄さんは四つも食べたわ」

 

 答えがなくともキャロラインは語りかける。

 それだけで幸せを感じる。

 いつか返事が返る時が来る。それまで語り続けよう。

 

「そして色がきれいだって言ってくれたのよ。私のために褒めるところを探して言ってくれたの。兄さんは。確かに今作るよりはおいしくなかったわ。ラズベリーにすればまだよかったのに、兄さんはオレンジの方が好きかと思って、慣れないオレンジしたから入れ過ぎたのよ。オレンジは水気が多いのにね」

 

 そのエピソードを思い出し、自分でも笑ってしまった。

 

 心なしか、兄さんも微笑んだ気がする。

 

 

 幾日か過ぎ、とうとうキャロラインがハイネセンへ帰る日が来た。

 もちろんその日も朝病院に寄った。

 そしてキャロラインの来る少し前に病院ではこんな会話があったのだ。

 

「教えてあげたらあの妹さんも喜ぶから」

「ダメよ。今日までいるらしいから、絶対来ると思うわ。自分で見た方がいいわよ」

 

 キャロラインは病院の人に挨拶をして、そして病室まで行くと最後の花を生ける。

 窓辺の花瓶にきれいに花を整えていく。手前に短く黄色いチューリップを。後ろにピンクのカーネーションとスイートピーを。全体に白いかすみ草を配して、グリーンも添える。

 兄さんはスイートピーが好きだったかしら。

 

 

 キャロル。

 

 声が。うしろから。

 

 キャロル。

 

 懐かしい声にすぐに振り向く。

 

「キャロル」

「え!? 兄さん! 今、呼んでくれた? 兄さん、もう一度」

「キャロル」

「兄さん、私が分かるのね。私のことが」

 

 アンドリュー・フォークは首をこちらに向け、表情の感じられる目をしている。

 いつもの微笑みに近い。

 

「ああ、キャロル。今日は菓子はないのかい?」

 

 そんな、この声が聞けるだなんて。

 再び、兄の声を。

 

 

 

 

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