第八十六話 宇宙暦800年 十月 あなたにいてほしい
同盟第九艦隊旗艦パラミデュースでは、艦橋にも将兵たちの陽気なざわめきが聞こえてくる。
戦勝で高揚した気分がまだ抜け切らないのだ。どの声も大きく、歌っている者さえいるではないか。勝って同盟は守られ、目的を達成し、そして皆は故郷で待っている家族の元へ帰れる。
そんな中、キャロラインの心だけが急速に冷えていく。
スクリーンを凝視したままヤンとの通信を切った。
ただちにパラミデュースからシャトルに乗り換え、イゼルローン要塞へ入る。その間どのようにして辿り着いたのか、自分で何も覚えていない。気持ちが一つしか考えられないのだ。
ダスティ・アッテンボロー、いつもお調子者でくだけた物言いだった。
偉大な戦略家ヤン・ウェンリー提督に対しても士官学校の後輩で昔から友人分だというだけで、その後輩気分もしゃべり方も変えようとしなかった。
それはヤンの側の接し方に原因があることはわかるが、いつ真面目になるのだろう。
いいえ、アッテンボローはいつも真面目だったのだ!
その証拠に本気で怒ったり感情を明らかにすることはまずなかった。
軽口を叩きながらも真面目に自分を律していた。
そしてキャロラインに関わる一つの面においてこれ以上なく真面目だったではないか。最初から最後まで真摯なものだ。そのぎこちなさも真摯なことの裏返しに過ぎない。
照れ隠しに幾度も菓子作りを要求してきたこともあったがご愛敬だ。
先のプロポーズは精一杯の勇気を使ったものだろう。
良い人なのだ。
それを喪ったということがこれほど自分の心を麻痺させるとは知らなかった。
今、心が凍ったせいか体の動きまでおかしく感じられる。
涙は出ていない。キャロラインは自分でも変に思った。なぜだろう、いつもの涙もろい私ではないのは、心の芯が認めるのを拒絶しているのだろうか。
イゼルローンの司令室に入る。
最初に目に入ったのはフレデリカの顔だった。
フレデリカは目を見開いてから両手で顔を覆い、伏せてしまっている。
ここに来るまでアッテンボローは重傷だが生きていて、皆が茶化してるという可能性を考えなくもなかったのに。
しかしこのフレデリカの態度はそんな可能性はないことを示している。
フレデリカの動揺によりもはや明らかではあるが、それでも確かめなくてはならない。
「フレデリカ、アッテンボロー提督は怪我したんでしょう? マサソイトが撃沈された時、脱出する際にうっかりと。ありそうなことだわ。それで要塞のどこにいるの? 病室?」
フレデリカは顔を覆ったまま、強く横に振っている。
「ひどい怪我なの?」
そこまで聞いてもキャロラインの期待した返事がフレデリカから返ってくることはない。
代わりに口を挟んできたのはヤンだった。
「そんなんじゃないんだ。フォーク中将」
ヤンがベレー帽をきつく握った姿で説明を加えてくる。
「アッテンボローは君にプロポーズしたそうだね。そのことを嬉しそうに話していたよ。プロポーズを断られたんじゃないってね。戦いが終われば返事をもらえる、希望があるんだと言っていた」
「それは……」
「とても喜んでいたのを思い出す。えてして世の中というのはそんな人間が不運にあってしまう。どうしてだろう」
「そんな、そんなことって、あっていいことじゃありません!」
次第にキャロラインは取り乱してしまう。
あの倉庫の中でのぎこちないプロポーズを昨日のように思い出す。
そこで私は何を言った?
「本当に不条理なことだ。しかし逆に言えば君にプロポーズを断られた後でなくてよかったのか。アッテンボローがまだ希望を持てていたうちにこうなった方が」
「そんなこと言わないで下さい! ヤン提督。あの時はそうとしか言えなかったのです。でも」
やっとこの時、キャロラインに涙が溢れてきた。心の悲鳴が形になってきたのだ。
「でも、こうなるなら…… はいと返事をしていれば良かった。私が、あのとき」
涙が急速に大粒に変わる。
なぜこんなに胸が痛いのか。拳に変えた右手で胸を押さえる。そうしなければ耐えられない。
「なんてことだ!! それをアッテンボローに聞かせてやりたかった…… とても残念だ。君がプロポーズを受けるつもりだったとは。失礼だがアッテンボローから聞いた時、とても君が受けるとは思わなかった」
ヤンも感情を現わし、その動揺を伝えてくる。
「そうですヤン提督。返事を延ばしてしまったのは、どうしたいのか自分でもわからなかったからです。決して断れなくて延ばしたんじゃありません。いないと困る人なんです。私にとって。本当に」
ああ、キャロラインは思い出す。
おどけたアッテンボロー、悪乗りするアッテンボロー、ハイネセン脱出の時に頼りになったアッテンボロー、そしてぎこちなく恋愛感情を垣間見せるアッテンボロー。
「だから、私は返事をしておけば良かったのに!」
今のイゼルローン指令室の雰囲気をどう表現したらいいのだろう。この悲劇は全員の心を締め付ける。
キャロラインの言葉を聞いて、フレデリカが声を上げて泣いている。
それは大きく泣き、泣き………… ?
しかしなんだか泣く、というよりは笑っているようにも聞こえる。
「あーもう限界!」
フレデリカがいきなり顔を上げる。
やっぱり笑っているではないか!
「え? フレデリカ!?」
キャロラインは驚いてしまう。フレデリカの様子を理解できない。
そして視界を広く見るとそこで見えたものがある! なんと指令コンソールの下からアッテンボローがごそごそと出てくるではないか。
頭をかきながら、このまま隠れてもいられないとでも言いそうな困った表情で。
これはどういうことなのか!
キャロラインはすぐにわかった。感情に任せて問いただす。
「フ、フレデリカ!!」
「いえキャロライン、アッテンボロー提督は怪我はしてないわよ。そうでしょう?」
何という言い逃れか! では矛先を変えなくてはならない。
「ヤン提督!」
「マサソイトが撃沈されたのは事実だよ。いやあ良かったなあ。アッテンボローが無事で。いや本当に」
ふざけるな!
こんな芝居はたぶんアッテンボロー本人が希望したものであるはずがない。たぶん周りの人間が考えたものに違いない。
本気でキャロラインに怒りが湧いた。みんなで私を、どういうことだ!
「……ヤン提督、かつてエルム三号での事件の時、私が何を希望したか憶えていらっしゃいますか」
キャロラインの底冷えのする声にヤンの目が動揺し、次第に怯えた表情に変わる。
そう、それはかつてキャロラインの怒りをなだめるのにヤンとアッテンボローが苦労した時の話だ。ヤンはもちろんキャロラインが何を希望したか憶えている。
「それは決闘です! 私は第九艦隊で決闘を申し込みます!」
キャロラインはきっぱりと踵を返し、少しの甘さも見せずに要塞司令室を後にする。迫力に押されて後ずさりするヤンに挨拶もない。
涙の水滴さえ損した気分だ。どうしてくれよう。
一瞬目の合ったアッテンボローに思わず言ってしまう。
「死んでしまえ!」
だが、イゼルローン要塞から旗艦パラミデュースに戻った頃には自分でも不思議なほど怒りが消えていた。
アッテンボローが生きていた!
さっきまでの締め付けられる思いがゆっくりと無くなっていく。
心はどこまでも重く沈められていたのに、それがゆっくりと解きほぐされるように解放されていく。
それほど自分の心はきつく固まってしまっていた。
アッテンボローがいなくなることを考えただけで。
それほどキャロラインにとって大事な人だったということ、ようやくそれがはっきりした。
「プロポーズをOKしたと、はっきり皆に言質をとられてしまったわ。芝居に騙されたとしても私はそう言ってしまった」
もちろん悔しいとは思うが、しかし後悔する気持ちにならない。
アッテンボローが生きていたと知った今では。
こうしてキャロラインとアッテンボローは周りの強引な芝居によって前進したのだ。
後にフレデリカにこんな芝居をした理由について執念深く問い詰めている。当然だ。するとわけのわからない答えが返ってきたではないか。
「それでキャロル、ヤン提督は結婚は早い方がいいって言うのよ。年がだいぶ上だから。でも、私の家に連れて行った時なんて言われるかしら。それ心配よね。お父さんは昔から知ってるから嫌な顔はしないと思うんだけど。でも実際そうなったらわかんないわ」
なんだか話がズレている…… そんなことを聞きたいわけじゃない。
「あの、フレデリカ? よくわからないけどそっちの方はうまくいったわけね。良かったわ。でもこっちがどうこう言うのと関係ないでしょう」
「関係あるわよ。それでねキャロル、聞いたんだけどイブリンも結婚するんですって。いい話ってまとめて来るものよね」
「だから! まとめなくていいってば」
だんだん分かってきた。
この親友は普段あれほど頭がいいのに、時折とんでもなく分かりにくい時がある。
まあ要するにフレデリカ的には善は急げ、ということらしい。フレデリカとヤンは7歳離れているが私とアッテンボローだって6歳差なのだ。
考えてしまう。私もまたアッテンボローと結婚とは話が急すぎて落ち着かない。具体的に想像などできるものではない。
しかしこの一件で分かったことがある。
アッテンボローを自分がどう思っていたのかを。いや、最初から分かっていたのかもしれない。
見つめる先には、やっぱりあなたがいてほしい。
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