皐月となっても冬が明けない。来るはずの春は未だ訪れず、春を告げる筈だった椿は実を結ぶことなく徒花となり、雪の下へと花弁を落とした。
止まない雪は、人々に異変の到来を伝えていた。
葉を落とした寂し気な落葉樹が並ぶ雪原を全力で駆け抜け、荒い呼吸で吐き出される呼気は白く凍てつく。足をとらえる雪に、肌を刺し肺腑を貫く冷気によって体力は容赦なく削がれていく。集めていた薪を捨て去り、小さな手足を懸命に振り一心不乱に走るが、後に付いて回る足音と気配は一向に離れない。
少女は幼いながらも整った相貌を苦悶の色で染め上げながらも足を止めることなく駆ける。逃げなければ、背中にに感じる気配を振り切るために足を前へ。
永い冬はすべてのものから活力を奪い、純白のヴェールの下に残酷さと厳しさを隠す。どの生物も冷気にに抵抗するが、力の無いものから淡雪に沈む。人間ももちろん例外ではなく、最後の反抗、暖を取るというささやかな抵抗は燃料切れという結末が見え始めていた。防寒も完全では無い日本家屋で暖を絶やせばどうなるか、火を見るよりも明らかだ。物言わぬ冷たい置物が増えていくことだろう。
だからこそ危険を冒してでも、対策を取る必要があった。完全になす術がなくなる前に燃料の補充の目処を付けなければならない。
幻想郷に於いて燃料といえば基本的には薪か炭を指す。油や蝋燭といったものもあるが主な用途は照明用である。これらは来るべき冬に向けて、薪炭林より切り出し、造り積み上げられる。当然長引く冬にも対応できるように余剰を持ち備えていた。しかし、異変による余りにも長い冬、重ねて人口増加による薪炭の消費の増大は備蓄すら喰らい尽くそうとしている。
薪というものは完成に案外時間を要するもので一朝一夕にはいかない。切り出した幹、又は刈り取った枝をすぐに使えると思いがちであるが、一年以上乾燥させ生木の水分をきちんと飛ばさなければ火付きが悪く多量の煙に巻かれてしまい、好き好んで使いたがる者はいないだろう。つまり緊急で燃料とするには向かない資源だと言える。
対して木炭は焼成の過程こそ複数あるものの、完成にはそれほどの期間を要さない。また煙や炎が大きく上がることも少なく、火の管理も容易であり、薪と比べると長く灯を灯せる。薪ではなく炭を作ることで燃料不足を解消できるのかと問われればその答えは否である。木炭は焼成の過程で多量の薪を使わなければならず、燃料を得るために燃料を消費するという自転車操業にもならない本末転倒なこととなってしまう。
どちらの資源も万全に用意することはできず、生木を使える程度に乾燥させた薪もどきで糊口をしのぐほかなかった。
冬の幻想郷の薪炭林で人々の奇行が目に入るようになる。日の昇り始めた早朝、厚着をした物々しい工具を担いだ男達、武装した若者、そこに加えて背負子を背負った女子供と様々な様相の大名行列が新雪積もる林を行進する。
薪炭林は人里の近くから霧の湖まで広がっている広大な雑木林で、野山の幸の恩恵を甘受することのできる里山である。里の近くであれば適度に間伐されているが、里から離れるほどに森は色を濃くする。獣や妖の蔓延る幻想郷では日を跨いでの遠征は行えず、必然的に里の近くの林で日が落ちるまでの作業となる為である。
薪の確保を急務とした大群は冬の薪炭林に足を延ばし、薪拾いと伐採を行う。普段よりも少しだけ長く足を延ばさなければならないが、幸いなことは日が暦に従い伸びている。
緊急的に必要な量を回収するため大量の人員を動員することになった。伐木、切り分け、運び出しを同時に行うからである。
計画は順調に進んでいるように見えたが、正午に差し掛かる頃、昼餉の配給の際に異変に気付く。
一人足りない。
いなくなったのは、里の農家の長女、五十嵐綾音だ。艶のある濡羽色の短く切りそろえたおかっぱにしていて、ぱっつんの前髪から覗く栗色の大きな瞳が印象的な少女だ。
早くに父を亡くした五十嵐家は母親の伊予の女手一つで、二男一女、四人家族を切り盛りしてきた。周囲の人々の暖かい支援に支えられながらやりくりしてきたのだが、長引く寒気にとうとう体調を崩す。そこに此度の異変が重なり、養生することすらままならなくなってしまった。綾音は伊予に暖かくして休んでもらうため、薪集めに参加した。隣人達はこぞって止めたのだが、反対を振り切り隠れるように家を出発し行列に潜り込んだ。
綾音は気立ての良い子で、手のかからない利発な子供だった。子供であったのにも関わらず薪集めに参加が許されたのはこのためだ。里の外が危険なことは理解している綾音がはぐれるとは思っていなかったのだろう。誰もが自分の役割に没頭し親類でもない綾音の事は意識の隅に置いても、気に掛け続ける余裕はなかった。親を思う綾音の心情を理解しきれていなかった。
はぐれてしまった事に気付いた集団は護衛として就いた退治屋達から捜索隊を結成し、綾音の捜索を始めた。見つかるまで生きていることに一縷の望みに賭ける外ない。
里の皆からはぐれてしまった、そのことに綾音が気付いたのは日が高くなってからだ。一人行列から離れてより多くの薪を拾うのに夢中になりすぎた為である。
元々は里を出る際に大人のいう事を聞くという約束を交わしていたため、離れて行動するつもりなど一切なったのだが、集まらない薪に焦り一人抜け出したのだ。縮尺の小さい子供の足では遅れ無いようにするのが精一杯で、背負子に薪が積みあがることは無く、焦燥ばかりが募っていいった。
母の為に薪を集めに来たのに全く集まらない、ならばと誰も行っていないところにちょっとだけ行けば集められる。そんな淡い期待から一人行列を抜けだす、約束した手前ばれて怒られない様に護衛達の目を盗みながら。飛び入り参加した綾音は知らなかったが集めた薪は里で均等に配分される予定であるため、焦りを感じる必要などなかったのだ。
綾音は背負子一杯に積み上げられた小枝に満足し、いざ合流しようとしたら誰も見えなくなっていた事に気付く。木こりのお兄さんも、退治屋のおじさんも、お母さんの知り合いのお姉さんも、誰も見えなくなってしまった。あれだけ聞こえていた話し声も聞こえず、人の影は煙の様に消えてしまっていた。
一人きりになって得しまった事に気付くと途端に足は震えだし、足元は覚束なくなる。直ぐに戻るつもりだった、はぐれるなど思っていなかった、そんな言い訳を自分にするが事態は好転するわけもなく、震える足に克をいれ雪の上に付けた足跡をたどり来た道を戻り始める。
白雪の上に付けられた小さな足跡をたどり歩くが、草木や動物の営みが薄く変化の無い無味乾燥とした銀世界は幼い心に猜疑心を生み出す。
本当に戻れているの。
胸の内から響く叫びに足を止めそうになる。新雪に付けた足跡をたどる方が闇雲に捜すよりも確実だと頭ではわかっているのだが、なかなか合流できないことに不安や焦燥は大きくなる。
いっそ戻らないでみんなが進んだ方に行った方がいいんじゃない
甘い誘惑。もしかすると早く合流できるかもしれないという誘惑は、恐怖に蝕まれた心には猛毒となる。下手に動けばより森の深くへ行ってしまうかもしれない、地面の傾斜等によって真っ直ぐ進む事すら難しい山林ではありえない事ではない。綾音にとってもそんなことは百も承知なことであり、だからこそ心の吐く弱音を押し殺し進むほかない。
辿る足跡が一人分から数えきれなくなるほど多くなり、淡雪は次第に踏みしめられた雪へと姿を変える。雪でできた達磨などもありここを通った事を予想するのは容易だ。まだ声や姿こそ見えないものの、残された人の痕跡に小さな安心を憶え、背負子を担ぎなおし体に力を滾らせる。
あと少しで合流できるはずだ。そう思えるだけで疲れていたはずの足取りは軽くなり、足取りを速める。南中を示していた太陽はまだ南の空にあるが、雲は僅かに太陽に陰りをもたらしていた。
何かいる、綾音がそう思うようになったのは少し前だ。村人たちの足跡を辿り始めて少しした頃から、隠す気もないのか息遣いや足音は次第に大きく多く聞こえるようになり、一旦薄らいだ恐怖をよみがえらせる。
獣か妖か、どちらでも危険であることは変わりないが、獣であれば常識が通用するし、逃げることも不可能ではないだろう。超常の存在の妖怪であったならまず生き残ることはできないだろう。
恐れの源を確かめるべく、綾音は強張る体を回し来た道を振り返る。気のせいであればいいと願いながら。
寒空の下眠る草木を覆う雪、何度も踏みしめられた雪は固く足跡を示す泥と僅かに覗く地面の茶色が覆う白と対照的な色合を見せていた。決してきれいな色合いではなかったが、綾音にとっては希望の色だった。その画板に一色だけ加えられた赤色、か細い希望を塗りつぶすには十分すぎる色。
振り返った景色の遠くでもわかる血の足跡、その痕跡の主が一際大きい大樹の影から姿を現す。
十尺以上の巨大な鉛色の体躯、その毛並みの一部はこびり付いていたであろう返り血が固まりどす黒い斑点を形成している。四本の足は筋肉が異常に発達していて張り裂けんばかりに太く、爪や牙も大きく伸び異様さを誇張する。それらも黒々とした血の色を纏っている。尋常な獣では無く化生の類である。
鉛色の妖狼と対峙した綾音は極度の緊張から体が上手く動かず、その場で立ち竦む。妖狼は口にくわえていたものを放り投げ、綾音の足元に転がる。腕だ、熊の。腕だけでも綾音の胴と同じくらいの太さの大型の熊の腕、それが無残にも食いちぎられ骨の僅かに黄味がかった白が目を引く。まだ固まりきっていない血が腕から弱弱しく流れ出し、白と茶の地面を紅に染める。
妖怪が出るから一人で森に行ってはいけないと、伊予に口を酸っぱくして教えられたことを綾音は今更ながらに思い出す。実感が薄かったのかもしれない、安全に過ごせる里の中から出なかった綾音にとっては恐ろしさを教えられていても、実感はなかったからだ。
気丈に振舞おうとも未だ元服も迎えていない少女である。畏れの実感が幼気な体に追いつき、極限まで張り詰めた心は判断力を奪い去る。「怖い」そう思った瞬間には駆けだしていた。急激な変化に耐えきれなかった小枝は背負子からするりと抜け落ち硬い雪に叩きつけられはねるが、そんな事に構っては居られない綾音は駆け続ける。
妖ものと人とではまるきり土台が違う。ましてや少女では比べるべくもない。詰まるところ逃げ切れることなどできず、妖怪の「遊び」によって生かされているのが現状である。
追掛け、弄び、追詰め、嬲り、そうして最期に殺す。そうした意思が妖狼からは感じられる。追いつきそうになれば見せつける様に歩き出し、転んでしまった時には足を止め、立ち上がろうと必死な様子をしげしげと観察する。こんな悪趣味な鬼ごっこを獣はしない、本能が下した戦略に従い獲物を仕留めるだけだ。
体中が痛い、苦しい、休みたい、もう諦めてしまおうか。何度も頭をよぎってはは消えていく。幾度も雪の上で転んだ綾音の体は傷だらけで、できた内出血の跡が痣になり始めている。着ていた簡素な服も所々に穴が開き擦り傷の付いた痛ましい肌を覗かせる。走る速度も疲労と怪我で歩きと大差ない。それでも痛む体を引きずって進むのは生きて帰りたいという意思だ。
みんなと合流できれば退治屋のおじさんたちが助けてくれる。
悪趣味な鬼ごっこが始まってどれほどの時間がったただろうか、実際の時間にすれば大したことは無いのだろう。死が背中まで迫っていないのであれば。綾音はようやく遠くに見えたかすかな人影にすがるように、精一杯の声で叫ぶ。
「助けて」
乾燥した喉頭に絞り出された声はかすれていて、大声を突然出したことによりせき込む。予想していなかった肺腑と喉を指す突然の痛みに思わず足を止めてしまう。拙いと思った時にはすでに遅く、妖狼はその巨体からは信じられないほどの跳躍を見せ、綾音に爪を立てようとする。
咄嗟にしゃがみ込み頭を抱え目を瞑る。が少したっても予想された痛みは無く近くに重たいものがどさりと落ちる音がする。
振り返ると地面に降り立った妖狼が警戒をあらわにし、唸り声をあげ威嚇している。血走った目の近くからは出血が見られ、足元には大きな氷礫が転がっている。誰かがあの氷塊をぶつけて助けてくれたのだろう。
助けが来たことによる安心感で腰が抜け、安心感から緊張していた意識が緩み遠くなっていく。完全に瞼が落ちる前に青い影が横を抜けていく。
「なんだかよくわかんないけど、アタイに任せときな」
自身が多分に表れた少女の声に一抹の不安を覚えるが意識が遠くなり、体が傾いていく。綾音が最後に感じたのは暖かく柔らかい感触だった。
「大丈夫です。私の友達はサイキョーなんですから」
綾音が目を覚ましたのは日が傾き始めた頃だった。極限状態の負荷と多大な疲労によって、眠りに落ちていた。歩く振動によって気が付いた綾音は母の友人の多恵によって背負われていることに気付く。破れてしまった衣服は治っていないものの、怪我をした箇所には包帯が巻かれ、くじいたり痣になっていた場所には冷気を発する符が張り付けてある。それと対照的に暖かい背中が心地よく安堵をもたらす。
背後の変化に多恵は前を向いたまま綾音に声を掛ける。
「あやちゃんが無事でよかったよ。いなくなったって聞いた時には気が気じゃなかったんだから」
私もちゃんと見ていてあげられれば良かったんだけどね、と付け加え言葉を区切る。迷惑をかけてしまった事に申し訳ない気持ちが押し寄せる。
「怒らいないの」
綾音は躊躇いがちに問いかけるが、多恵は前を向いたまま話す。
「元はといえば、私たちが連れてきたのが原因の一つでもあるし、子供のあんたをちゃんと見てなかったのもいけなかったしね」
でもと反論しようとしたが続く言葉で遮られる。
「子供だけどしっかりしているから大丈夫、なんてことで連れてきたのは私達さ。それが大本の原因だし、あやちゃんが全部悪いなんて言えないよ」
そんなことはない、私が悪いのに。喉元まで反論が出かかるが、多恵は子供に責任はないと突っぱねるだろう。そういう人だと知っていた綾音は言いかけて飲み込む。自分が悪いことも迷惑をかけたこともわかっている、だからこそ誰も責めないのが居心地が悪い。
そんな心を見透かしたのか多恵は更に言葉を投げかける。
「あやちゃんを気に掛けていなかった私たちが叱るわけにもいかないよ。そういうのはずっと気に掛けていた人がするべきさ」
ずっと気に掛けていた人といわれると綾音には思い当たる節があり、体をびくりと緊張させる。勝手に出て行って、一人になって、死にそうにもなった、怒らないはずがない。緊張の理由を察した多恵は苦笑を零す。
「いっぱい叱られてきな」
怒られるのは怖いが、二度と会えなくなることの方がもっと怖い。だから今日は目一杯叱られたい。
「うん」
切れのいい返事は陰りの無い西日差す明るい帰り道に大きく響き渡る。
綾音は帰路にてふと浮かんだ疑問を口にする。
「そういえば、誰が私を助けてくれたの」
意識を失う少し前に見えた青色は、退治屋のおじさんたちのものではなかったからだ。もっともな疑問に多恵は簡潔に答える。
「青い妖精と緑の妖精の二人だったよ」
妖精という答えに綾音は疑問を抱く。妖精は妖怪ほどの力はないと聞いていたし、あの妖狼に勝てる気はしない。そもそも妖精が助けに来たこと自体が疑問だ。綾音には妖精の友達はいないのだから。
「ま、詳しい事は本人にでも聞きな、ごく稀に先生の寺子屋にいるらしいから。それとなんか札みたいなものを渡していったよ、ああ害はないらしいから安心していいよ」
帯に差し込まれている厚紙がそうなのだろう。おぶられている状態で器用に片手で抜き取り読むとぐちゃぐちゃの字で殴り書きされていた。
さるのちんじょう
よくわからない文言に首を傾げる、恐らく参上と書きたかったんだろう、さるのもしくはちるのは。今度会った時にはきちんとお礼を言おうと心に誓う、さるのもしくはちるのという妖精に。
最新は1話-EXです。
各話についても適宜推敲していきます。