文字は誰かに伝える術。
それを本当の意味で知ったのは、僕が趣味として小説を書き始めた頃のことだった。
たった数百文字で構成されたそれはお粗末にも、小説とは言えなかった。それでもなんとか書き連ねて、綴って、生み出したそれは僕にとっては宝物だった。
自らの手で創り上げた一つ目の宝物だった。
何度も読み直した。だけどその度に自らの文章の稚拙さに呆れるとともにどこか嬉しい気持ちになっていたんだ。
これだけは、誰がなんて言おうと僕の宝物だ。
そう胸を張って言えた。
そう言えたはずなんだ。
不意に目が醒める。なんとも言えない気持ちが僕を襲った。
まだ夢の断片は消えていない。しっかりとそれを思い出せる。まだそれの形はしっかりと残っている。
ふっと安堵したのか息が漏れた。
懐かしいとも言えない、記憶の奥に残っているそれが夢として現れたのは、眠る少し前に読んだ。自分が初めて書いた稚拙な文章のせいだった。
揺れる電車、流れていくは景色。
色の移ろいはそれだけで僕を楽しませる。
旅の始まりに選んだのは、特に有名な何かがあるとは言えないどこにでもある農村だった。
そこを選んだのには、少し理由があった。
かつて見た本の中にその場所の風景画が載っていた。
寂れゆく寂しげな雰囲気と、それでも確かにそこには人の営みがあるのだと思わせる温かな色遣い。
僕に絵の品評をさせたところで出る言葉なんて、ありふれたものでしかない。文章書きだろと非難されるかもしれないが、僕自身の力量不足によって、その絵を表現する言葉を見つけられずにいた。
寂しさとともに成り立つ温かさ。その不思議が僕の中で渦巻いていた。
電車は揺れる。それが一つの生物であるかのように。時速50キロほどのそれがゆっくりしかし、確実に目的の地へと進んでいく。
流れゆく風景が田園風景へと変わっていく。
昔懐かしいという言葉があるが、それをまさに体現しているかの如く。
駅に人の影はなく、ただただ青い空が広がり続ける。
都会の駅前であれば、そこは数多くの人が行き交い、騒がしいほどに賑わいを見せていたであろう。しかし、そこにあるのは、何もないという喪失感。
「ついに来たのか」
感慨深い、そんな気持ちから芝居染みたセリフが口につく。
独り言のように、ホテルかどこか泊まれるような場所を探すかと今すべき自分自身の行動を言葉へと変換する。
通り過ぎていく、寂れた商店街。看板は錆び、文字が霞みそれでもなんとか看板としての役目を果たしている。そんな状態だ。
街をすれ違う人は少なく、それが尚更この街の在り方を示しているように感じる。
寂れゆく街、多くの人々が忘れていった末に残った街がここなんだ。
それはまるで僕の存在そのもののような。
おい、と不意に声を掛けられた。
振り向く先には、年齢として60ほどの男が立っていた。
その声も、その立ち姿からも歳を感じさせない。しかし、やはりと言えば良いのか、顔の造形は老人と言っても、差し支えないそれそのものだった。
「あんたさんは、旅の人か?」
張りのある声でそう聞かれた。
「あ、はい。そうです。旅をしててこの街に来たんです」
突然声を掛けられ、慌てふためきながらも、僕は答えた。
「そうか。そうか。いや、ここらでは珍しく若い子がおるから気になったんだ。それに背負ってるバックからして見ても、小洒落とるからな」
珍しいなぁとつぶやきながら、その男は笑いながらに僕に対面していた。
「あんたさんは泊まるところなんかあるのかい?」
彼はそう、切り出す。
「いや、さあ。この街は観光地でもなんでもねぇからな。
泊まるような民宿なんてひとつもねぇんだよ」
「え、泊まれるような場所ないんですか?」
「ああ、ないねぇ」
「そうなんですか。どうすっかなぁ」
民宿のひとつもない。それは、僕にとって大きな問題となった。
「ああ、野宿なんかもやめといたほうが良いな。猿やら猪。最悪熊も出るだろうから」
この言葉で僕の策は潰えた。最初からなかったようなものではあるが、もしかしたらとそう思っていたのだが……
「やっぱそこらへんのこと分かっとらんかったか。にいちゃんうちで良かったら、一泊や二泊ぐらいは泊めてやるよ。どうだ?」
彼はそう言って笑う。