まだ途中だったとはいえ、電車で半日はかかる銭婆婆の家へと行こうとしていたのだ。湯屋に帰ろうとすれば、歩きで何日かかるとも知れない。かと言って電車は一方通行でしか通ってなく、従ってハクという怪我人をすぐに安静な場所に運ばなければいけなかった私にはもう、選択肢は残されていなかった。
「夜遅くにすみません、銭婆婆さんのお宅でしょうか。私は萩野千尋と申します。怪我人がいるので、家に上げて貰えないでしょうか。」
またやって来た電車に乗って沼の底駅で降りた私は、庭先の動く街灯に連れられて銭婆婆さんの所までやって来た。勿論ハクを背負っている状態でなので、出来れば早くドアを開けてくれると助かるのだが……気絶した人間は重く感じられるって本当なんだな。正直、自分よりも重い男の人を運ぶ事を舐めていた。もう足腰が大変な事になっている。ハクを降ろしたら、もう持ち上げられる自信がない。
ガチャりと音がして、銭婆婆がドアを開けた。
「これはとんでもないお客さんが来ちまったね。……お入り。」
「ご親切、ありがとうございます。失礼します。」
私の背に背負われているのが、自分の所からハンコを盗んで行ったハクだと分かっているだろうに、銭婆婆は私達を中に入れてくれた。
「そいつはこっちに寝かせておきな。」
暖かそうなソファを示されて、そこにハクを運ぶ。暖かい部屋で横になれたせいもあってか、倒れてしまった時よりも随分と顔色が良くなった気がする。近くにあった毛布を掛けて顔に掛かっていた髪を払ってやれば、つい安堵の溜息が出た。
何処となく銭婆婆の口調がトゲトゲしているのは、まぁ仕方ないだろう。誰だって泥棒に親切にはしたくない筈だ。しかし、このまま敵対関係であっては私が困るのだ。ハクを安静に寝かせておいて、私は銭婆婆と向かい合った。
「あの、ハクの代わりに契約のハンコを返します。」
こちらが銭婆婆に頼ってしまっている以上、このハンコを返さない訳にはいかなくなってしまった。もしかしたらこれを使って私自身が湯婆婆との契約を書き換えて自由にするという手もあったかもしれないのに……。契約についてよく知りもしないので難しいかもしれないが、成功すれば湯婆婆以外は皆ウハウハハッピーエンドだ。勿体ない事をしてしまった。
「お前さん、これが契約のハンコだと知っていて私に返すのかい?」
銭婆婆が私の目を覗き込みながら聞いてくる。嘘なんかついたら即座に見破られそうで、私はゴクリと唾を飲んだ。
「はい……正直に言いますとちょっとだけ勿体ないですが。それでも、これは銭婆婆さんの大切なものでしょう……こちらがお世話になってしまう以上、恩人にハンコは返せても仇なんか返せませんよ。」
「……あっはははははは!! お前は面白いやつだねぇ! 普通こんな時に冗談で返すかい?」
「うっ……じ、自分では上手いと思ったんですが……」
そこまで笑われてしまうと恥ずかしい。さっきの私はドヤ顔ではなかっただろうか。……穴があったら爆薬を投げ込みたい位の心境だ。
「自分で上手いって思ってちゃ、本当に上手い事は言えないのさ。ん? お湯が沸いたね。さぁこっちにお座り。温かいお茶を入れてあげようじゃないか。」
「あ、ありがとうございます。体が冷えてたので助かります。」
そう言えば銭婆婆はアナログ好きいうか、何でも魔法を使う湯婆婆と比べて人間らしい生活を好んでいた気がする。ヤカンでお湯を沸かすのも、暖炉に火をくべて部屋を温めるのも、糸をわざわざ紡いで物を作るのも、銭婆婆の良い意味での人間らしさの片鱗なんだろう。
案内された椅子に座ると机にどんどん並べられて行くデザートに驚いてしまった。ホールサイズのチーズケーキにカラフルな彩りのクッキーがこんもりと。一人暮らしでこれらがポンと出てくる訳がない。銭婆婆がアナログ好きな事も踏まえると、これらは彼女の手作りなのだろうし、魔法を使ってない事は明らかで、おそらく元から用意していたんだろう。
何処まで読んでいるんだろうかと内心舌を巻いていると、目の前にそっとティーカップが差し出された。
「頂きます。」
「どうぞ、召し上がれ。」
可愛らしいデザインのティーカップを持って傾ける。1口目はあまりの熱さに火傷をしてしまってよく分からなかったが、火傷しない様に気を付けて飲んだ2口目は、体の芯から温まる様に熱い液体が流れていくのが分かって、ほっと息を吐いた。
「美味しいです、とても。」
「あたしが手ずから入れてやったんだから当たり前だよ。確かに魔法は大体の事が出来る。だけど、こうやって人の手でやった事には敵わないんだよ。」
私が魔法に準ずる事が出来ると知っている口ぶりだ。本当にこの人は、何処まで私や他の事を知っているんだろうか。
「あの…私の事……」
「新しく妹の弟子になった人間の小娘だろう。……お前も難儀なものだねぇ。普通両親が人質にされたからって妹の弟子なんてなろうとしないよ。」
「あ、あはははは……。それは弁解のしようもありませんね。」
情報源はあの人形の式神とかだろうか。これはもう、この人が知らない事はないと思っていた方が良いのかもしれない。
「……あの、大切なお話があります。聞いて頂けますか。」
原作知識もあるけど、話してみてそれが確信に変わった。この人は信頼出来る人だ。大丈夫。
「何だい。……紅茶がなくなるまでなら、聞いてやらない事もないよ。」
「はい、全然構いません。お願いします。」
私は話した。湯屋に来てからの事。何で湯婆婆の弟子になったのか。ハクをどう思ってるのか。そして私の持つ魔法の力、さらには前世の椎名優の記憶についても…………
「ふぅん、なるほどねぇ。どうりでとても10歳の小娘には見えない訳だよ。ちなみに前世では幾つまで生きたんだい?」
「前世ですか? ……えぇと、まだ中学生だったので14歳の時ですかね? なにぶん、記憶が朧気で。」
確かいつも通りに学校に行こうとして、車に跳ねられた筈だ。あれは凄く痛かったのを覚えている。
「14歳? かぁーーっ、近頃のガキはませてるんだねぇ。」
「ませっ?! えっ、えぇーーっと、私の家はちょっと特殊だったので、皆が皆そうとは限りませんよ。」
今思い返すと本当に特殊というか、酷かった。何故か家に帰って来ない父親(浮気性)にお受験ママの母親。母親は私をアクセサリーか何かと勘違いしているし、父親は何だか私をいやらしい目で見ている気がするしで、正直最悪の一言に尽きた。まぁ、その記憶もぼんやりとしかない上に、父親のお陰と言って良いのか分からないがジークンドーを習って護身に備えたせいで、今世の私の動きが一般よりも格段に良かったのだが。人間誰しもやらなきゃやられるという時は、とんでもない力を発揮する。私は前世でそう学んだ。
「特殊って、一体どんな家だい。普通子供は自分よりも重い怪我人を背負って長い距離を歩いたり、神聖化するほど川で泳ぎの練習をしたり出来ないんだよ。それをあたかも普通の様に語るガキの何処が、ませてないって言うんだい。」
「そ、それは……だから、私がやらなくちゃって思って……」
そもそもガキガキ連呼するが、今の私は前世と足し合わせると24歳である。とっくに成人した大人を捕まえてガキも何もないと思うのだが。
「いいかい? 子供は子供らしくしていれば良いんだよ。前世と足せばとっくに成人してるって言いたいのかい? 馬鹿だねぇ、あたしにはお前はただの子供にしか見えないよ。」
「……。」
子供……私はまだ子供なんだろうか。子供でいても良いのだろうか。
「お前は大人なんかじゃあない。ただのませてるガキだよ。」
私が何とかしないとって、そう思ってた……私には前世の記憶も、原作の知識も、魔法の力も……大きな力が備わってたから。だから私がって…………だけど、子供らしく甘えても良いのだろうか、頼っても、縋っても良いのだろうか。
「お、おばあちゃん……?」
瞳から涙が零れる。……そう言えば、こっちの世界に来てから初めて泣いた気がする。
「ほら……こっちに来な。子供は年寄りに甘えるもんだよ。」
湯婆婆と瓜二つな容姿のその胸の中は、とても暖かくて安心した。私はその後子供の様に、わんわんと泣いた。こんなに泣いたのは、前世を含めても初めてで、目が溶けてしまわないかと少しだけ心配した……
「なんだ、やっと起きる事にしたのかい? そう睨むんじゃないよ、青いねぇ。やっとこの娘が全部吐き出して寝た所なんだ。このまま寝かせておやり。」