ああ、くそう。足が痛い。親指と小指の付け根がむちゃくちゃ痛い。細い靴のつま先に全体重がかかっているせいだが、とにかく痛い。女っていつもこんな思いをして歩き回ってるのか。
ユダはついに地面にへたり込んだ。先を歩いていたレイが振り返った。
「どうしたんだ。立って歩け」
「足が痛くて歩けないんだってば」
ハイヒールを脱いで、足を振ってみせた。つま先が赤く擦り剥けている。
「踵の高い靴なんか履いてるからだ。どうしてそんな歩きにくい靴を履いてるんだ」
「しょうがないだろう。サイズが合うのが他になかったんだから」
「困ったやつだな」
レイはしゃがみ、背を向けた。
「ほら。おぶってやるから、さっさと乗れ」
躊躇なくレイの背中におぶさった。レイはユダを背負って歩き出す。ユダはにやりと笑って顔を寄せた。
「おっぱいが背中に当たって気持ちがいいだろ」
「黙れ、アホ女。下ろすぞ」
丸一日も一緒にいるとレイの口調にも遠慮会釈がなくなる。
「なあ、お前、ユダ……兄さんのことどう思ってた? 一緒の武術学校に通っていたんだろう」
「どうと言われてもな。あいつとはそれほど仲良くなかったし」
レイは全然興味がないといった感じだった。四六時中、意識するほどムカつく相手が、自分を全く意識していないというのは本当にムカつくことだった。レイの首を締め上げて、扼殺してやりたくなった。
「なんであいつ、あんなに自己愛が強いんだ。大の男が鏡を見てウットリしているなんてまともじゃないぞ」
「だってあの人、美しいじゃないか。鏡に見入るのも当たり前だろう」
「それほどでもないだろう。厚化粧までして気色悪いったら。ぐわああ! 死ぬ、死ぬ!」
ユダが本気でバックチョークをかけはじめていた。
「あの人の悪口を言うからよ」
「そいつは悪かったな!」
「くそう。あの二人、べったりくっつきおって」
双眼鏡をのぞいていたダガールはこぶしを慄わせていた。
ジープに乗り込んだ彼はユダとレイから見つからない距離を保ちつつ、二人を観察していたのである。同行していたコマクは嫉妬に狂うダガールを呆れながら眺めていたが、大事な用件を思い出した。
「ダガール様宛の荷物を預かってますよ。これ、同封の手紙です」
「読んでみろ」
コマクは、ブルドッグのキャラクターマークがついた手紙を読んだ。
「『このたびは、当店をご利用いただき、ありがとうございました。店長の狗法眼ガルフと申します。お客様がご注文のお品物を発送致しました。商品がお手元に届きましたら、十四日以内に下記の口座にお振り込みをよろしくお願いいたします。返品・交換は未使用品にかぎり受け付けます。
絶倫ドリンク 凄百 12本セット メディスン・シティ通販部』 なんです、これ?」
「ユダ様が不首尾に終わったら、わたしが代わりにお相手つかまつらなければならんのだ。ユダ様のいかなるご希望ご要望にもお応えせねばならん。これは我がUD軍の未来がかかった大切な任務なのだよ。むふふふふふ」
うきうき気分を隠せないダガールにコマクはますますあきれ返った。
「失敗を期待する気、満々じゃないですか」
泉でユダは身体を洗っていた。二日目の夜である。水は少し冷たいが、気温が高かったから、ちょうどいいくらいだ。
ユダはあらためて自分の身体を眺め回した。女の身体というのは奇妙な感じだな。余計なものがついていて、肝心なものがない。ちょうどレイがたき火を起こしていたところだったので、入浴を終えたユダはそのままの格好で歩いていった。
一糸まとわぬユダを見て、レイは真っ赤になった。マントを取り上げると、ユダに放り投げた。
「服を着ろ。全裸で歩き回るな」
そうだった。いまは女だった。つい、いつものくせが出た。狼狽した様子で足早に立ち去るレイを見て、ユダは「ふーん」とつぶやいた。
なるほど。おれにまったく関心がないわけじゃないんだな。
ドレスに袖を通したユダは、レイの傍に腰を下ろすと、まだ頬を赤くしている彼の顔をのぞき込んだ。
「なあ、レイ。おれを抱いてみたいと思わなかったか?」
「な……何、言ってるんだ」
「おれって魅力的だろう」
「自分をおれって言うな。お前は女だろう。それとそんな恥ずかしいことを口にするんじゃない」
「なんでよ。ねえ、私のことが好きでしょう。だったら、しようよ。ねえったら、ねえ!」
「女の子がそんなことを言うな!」
ちっ、融通のきかない朴念仁め。お前とやらないと男に戻れなくて、おれが困るんだよ。レイを突き倒し、馬乗りになった。
「どうしてそんなに拒否するんだ」
「そういうことは愛し合う者同士がするものだ」
「男の下半身に愛なんかあるか」
ついにレイは切れた。マントとベルトを引っ掴むと、ユダを簀巻きにして地面に転がした。
「いいから、もう、さっさと寝ろ!」
誘惑するつもりが、雰囲気が悪くなってしまった。
レイは全然、口を利いてくれなくなった。
会話らしいものもないまま、半日かけて街にたどり着いた。
大きな街だった。人々が集まり、活気に満ちていた。
ユダはハイヒールの靴を売って、歩きやすい布靴と交換した。さらに食料と今夜の宿を得るために腕環と指環も売り払った。
「やったあ! ベッドだ」
室内に駆け込んだユダは寝台にダイブすると、スプリングのきいたマットレスをバウンドさせた。この二日というもの野宿を強いられてきたから、この感触がたまらなく嬉しかった。
「あれ? でも、この部屋、ベッドがひとつしかないよ」
「おれは床で寝る」
「ええ~? なんでよ。一緒に寝ればいいじゃん」
「恋人でもない女と寝られるわけないだろう」
レイはまだ怒っていた。ユダはベッドのうえに身を起こした。
「なればいいじゃない」
「だめだ」
「じゃあ、ならなくてもいいから私と寝て」
「自分が何を言っているのか分かっているのか? 男が女を抱くって意味だぞ。そんな真似ができるか」
「だったら、いいよ。お前がその気にならないなら、他の男とやってやる。やって、やって、やりまくってやる」
「どうしてそんなに思い詰めてるんだ」
「お前を好きになっちゃったんだもん。相手がお前じゃないなら、誰とやったって同じじゃないか」
「もっと自分を大切にするんだ」
レイは床に膝をつき、ユダの手を取った。
「おれは妹を捜さなくてはならない。ずっと、きみの傍にはいられないんだ。責任を取ることができないんだよ」
「それでもかまわないのよ。お願い」
レイは無言でユダの潤んだ瞳を見つめていたが、苦悩の表情を浮かべて立ち上がり、背を向けた。
「やっぱり、だめだ」
ユダは取りすがった。
「私はヴァージンなのよ。今のご時世、どんな宝物よりも希少価値があるんだから」
「そういうものはきみを本当に大切にしてくれるやつのために取っておけ!」
本物の怒声を浴びせられた。
ユダはぐっと息をつまらせた。目にみるみる涙がせり上がる。
「レイのばかあ! 大っ嫌い!」
部屋を飛び出した。階段を駆け下りて、外へ走り去る。
「ユウレッタ!」
レイもあわてて後を追った。
「待て! 一人で外に行くんじゃない! 戻ってこい!」
「うわあああん、マジでムカつく。あんなやつ、死んじゃえ!」
ユダはえぐえぐと声を上げて泣いていた。真っ赤なドレスを着た女が泣き叫ぶ光景に、通行人たちが何事かと振り返る。
もう諦めてUD城に帰ろうかと思った。
しかし、ダガールのにやけ顔が脳裏に浮かび、おぞけあがった。
「絶対に嫌だあ~!」
むやみやたらに歩き回ったユダはいつの間にか壁いちめんにサイケデリックな文字や絵柄がペイントされた区画に迷い込んでしまった。左右を見回し、はたと立ち止まった。
「迷子になっちゃった」
ガラの悪いモヒカン男たちがニヤニヤ笑いながら近づいてきた。ユダを取り囲み、行く手をさえぎる。リーダー格の男が顔を近づけ、ユダをのぞき込んだ。
「また会ったな、お嬢ちゃん」
そのころ、レイは街中を走り回り、必死でユダの行方を捜していた。
「ちくしょう。あのアホ女、どこに行ったんだ」
逃げだそうとしたユダは足払いをかけられ、地面に突き倒された。後ろ手に縛られ、猿ぐつわを噛ませられる。廃ビルの地下駐車場に連れ込まれた。
そこにはモヒカン野郎の大集団が待ち構えていた。
ユダは周囲を見回した。
ひい、ふう、みい、よう……両手と両足の指を全部使っても数え切れないくらい、いっぱいいるじゃないか。こんな大人数を相手にしたら、さすがのおれでも壊れちゃう。
リーダー格がユダを抱え上げた。
「諸君! 喜べ! サンタさんから季節外れのクリスマス・プレゼントだ!」
「ヒャッハ~!」
大歓声を上げるモヒカン集団。
「このお嬢ちゃんをどういたぶってくれよう?」
「亀甲縛り!」「ロウソク責め!」「イチジク浣腸!」「三角木馬!」「X字架!」「お代官様と町娘ごっこ!」「放置プレイ!」「バカこけ!」
愉快な提案が次々に上がる。
こいつら、楽しそうだなあ、とユダは歓喜にわくモヒカンどもを眺めながら思った。三角木馬か。今度、おれも試してみようかな。
「さて諸君らの意見も出揃ったところで、そろそろお楽しみの時間といきますか」
リーダー格は歯を剥き出しにして笑うと、ユダを押し倒し、自分が一番乗りだとばかりにのし掛かった。
そのとき、地上に通じるスロープのほうから怒号が上がった。
「なんだ、てめえ」
「ユウレッタ!」
黒髪の青年がモヒカンをなぎ倒しながら駆け寄ってくる。ユダは半身を起こし、レイ! と叫んだ。しかし、猿轡をされているので声にならない。その男に見覚えがあるリーダーは歯軋りし、ロケットランチャーを取り出した。
「王子様の登場ってか。これでも食らえ」
ユダは驚くより、あきれた。
おいおい。そんなもの、レイには通用しないって。
レイは瞬時に姿を消した。狼狽し、左右を見回すリーダーの背後を取る。
「どこを見てる。とろすぎて欠伸が出るぜ」
ロケット弾は見当違いの方向に飛んでいき、モヒカンどもを派手を吹っ飛ばした。同時にリーダーはレイに斬り伏せられている。
「見るんじゃない」
レイが上着を脱ぎ、ユダの頭に被せた。
「このままじっとして、百まで数えてろ」
大勢の人間が入り乱れて闘う音が聞こえた。最初は強気の怒声だった。それはすぐに驚愕の叫びに変わり、情けない哀願になった。悲鳴に混じって複数の足音が遠ざかり、百まで数え終わったときには完全に静まり返っていた。
足音が近づいてきた。
「帰るぞ」
レイはぶっきらぼうに言うと、上着をかぶせたままのユダを肩に担ぎ上げた。
宿に帰るまでのあいだ、レイは怒りどおしだった。おれが駆けつけなかったら今頃どうなっていたと思っているんだとか、お前は本当にアホな女だなどと延々言い続けていた。
ベッドに下ろされ、猿轡と手首の縄を外された。
「どうして、私があそこにいると分かったの」
「お前みたいなド派手な女、他にいるか。街の住人に聞いたら、すぐに廃ビルに連れ込まれたって教えてくれたぞ」
「ふん。私の美しさが私自身を救ったのよ」
ユダはそっぽを向いた。
「そのしゃべり方、ほんとユダにそっくりだな」
レイは苦笑する。
「でも、無事でよかった」
抱き締められていた。ユダはどきりとした。レイの体温をこんなに近くで感じたことはなかった。顔が近づいてくる。何度も口づけを繰り返された。レイは聞こえるか聞こえないかくらいの声でささやいた。
「妹を諦めようか真剣に悩んだのはお前が初めてだったぞ」
「え?」
ユダは聞き返した。
「いま、何て言ったんだ」
レイは何も答えなかった。微笑んだままだった。体重をかけると、ユダを押し倒した。
ヴァージンを失うのがこんなに痛いものだなんて知らなかった。刃物で抉られるような痛みだった。自分の中に他人の肉体が入ってくるというのも名状しがたい感覚だった。相手がこいつでなければ到底耐えられなかっただろう。妖精ジジイの言っていた言葉の意味がようやく理解できた。
上になったり、下になったりして何度も求め合った。
ユダは自分の髪をかき上げてくるレイを見下ろしながら喘いだ。
レイ。ユウレッタなんて女は最初から存在しない。なにもかも、まやかしなんだ。だったら、おれたちがこうして、つかの間の恋に戯れたって構わないだろう。
全身に走る激しい痛みに目を覚ました。
ユダはレイの胸に顔に埋めていて、彼の腕が自分の腰に回されていた。
レイを起こさないようにベッドを出た。
思わず床に膝をつく。骨がむりやり引き伸ばされていくような痛みだった。ユダは呻き、床に爪を立てた。
痛みは始まったときと同じく唐突に終わった。
手を見た。ユダの手はなめらかさはそのままだったが、女のものではなくなっていた。胸も腹もたくましい筋肉でおおわれ、引き締まっている。
室内にかけられた暗い鏡に映る、男の姿をした自分。
「呪いが解けたのか」
レイが身じろぎした。ユダは振り向いた。まずい。レイが目を覚ます前にここを出なければ。
手早くマントを身にまとう。ドレスも靴もサイズが合わなくなっていた。ユウレッタの痕跡を残したくなかったので、マントの下に隠した。
ベッドに忍び寄り、のぞきこんだ。
無心に眠っているレイは美しかった。胸に鋭い痛みが走った。このまま、ずっと一緒にいられたらよかったのにと思った。
ユダは首を振った。
これは夢だ。あの妖精ジジイが見せた幻だ。朝になったら、全部忘れるんだ。
戸口に立ち、もう一度振り返った。
おれを捜しに来いよ、レイ。今度は殺し合うんだ。そのほうがずっと、おれたちにふさわしいだろう。
真夜中の街をゆくユダの前に、UD軍の旗をなびかせたジープが現れた。
なんともタイミングがよかったが、この辺一帯はUD軍の領土なのである。レイが知らなかっただけで、ユダにしてみれば自分の庭を散歩していたにすぎないのだ。
ジープから降りてきたダガールは男の姿をしたユダを見て、言った。
「首尾よくいったようですな」
「見ての通りだ」
「それは、ようございました」
ダガールはそう言いながらも、落胆を隠せないようだった。そんなダガールにコマクが囁きかけた。
「メディスン・シティから取り寄せた絶倫ドリンク12本セット、無駄になりましたね」
すかさずダガールがコマクの尻を蹴り上げる。コマクは鞠のように飛んでいき、やわらかい砂地に頭からめり込んだ。
UD城への道すがら、ユダは一言も喋らなかった。
打ち沈んだ様子のユダに、ダガールが気遣わしげに声をかけた。
「ユダ様。あなたはやはりレイのことを」
「何を言ってる。おれは昔も今もあいつのことが嫌いだ。世界で一番嫌いなやつだからこそ、こうして元の姿に戻れたんだろうが」
「それはまあ、そうですが」
「絶倫ドリンクがどうとか言ってたな」
「そ、それは、その、あの」
ダガールが慌てふためいた。
「全部おれが貰うぞ」
「は?」
「ハーレムの女どもが、おれを待ちわびているだろう。今夜は腰が抜けるほど可愛がってやる」
目をぱちくりさせたダガールだったが、笑い出した。
「それでこそ、いつものユダ様ですな」
「そうとも」
ユダは座席に頭をもたれて目を閉じた。
「おれは反省なんかするものか。これがおれ。妖星のユダ様だ」