とある日の早朝、料理人の小松は勤めているホテルから一日の休暇をもらい、とあるグルメ港へとやってきていた。
様々な大きさのグルメ漁船やグルメ貨物船、グルメ客船などが入り交じって泊まる巨大港で、小松は待ち合わせの人物を見つけた。
「あっ、トリコさーん! おはようございます!」
小松が手を振る先にいるのは、巨漢の美食屋、トリコである。
美食屋。それは世界各地から食材を集める仕事人。首を長くして、口もとをゆるませて、腹を空かせて食事を待つ人々のもとへ、食材を供給する、このグルメ時代における花形職業である。その中でもこのトリコは、美食屋四天王と呼ばれるカリスマ美食屋の一人なのだ。道行く人に美食屋トリコを知っているかと聞いて、知らないと答える人間は一人もいないであろう。
そして、そのトリコと知り合いである料理人の小松も、そこらの安ホテルに勤めている小間使いではない。IGO(国際グルメ機構)と呼ばれる、グルメ時代の最重要国際機関が運営するホテルグルメ内のレストランにて、料理長を務めているほどの男だ。
この時代、料理店は三ツ星、二ツ星など星の数で店の格付が行われている。ホテルグルメのレストランは、最大十ある星のうち、五ツ星に認定されているなかなかの地位にあるレストランだ。カリスマ美食屋トリコと並ぶと、見た目の背格好も、格も落ちる小男だが……まだ年若く、店の今後と共に、まだまだ伸びしろのある料理人だ。
「おう、おはよう。今日はグルメツアーに連れて行ってくれるんだって?」
葉巻樹の枝(葉巻煙草のように、火を付けて煙を口にふくみ楽しむための木の枝)を咥えながら、走り寄ってくる小松に向けてトリコが挨拶を返す。
その言葉を受けて、小松は背に負ったリュックサックから二枚の紙切れを取り出した。
『ジュエルクラブ日帰り食い倒れグルメツアーINジュエル島』
そう書かれた、ペアチケットである。
「ジュエルクラブの食べ放題ツアーです! メルク包丁が欲しくて応募した『月刊コック・スクエア』のグルメ懸賞で当たったんですよー!」
「その雑誌は見てねえが、シェフ向けの懸賞で、ただのグルメツアーなんてあるんだな」
「それがですね、なんと料理人用の貸し出し厨房もあるそうなんですよ。若手の駆け出し料理人にとっては、高級食材を扱う良い練習になると思います。ボクも若手ですけどね!」
「ふーん、だったらペアチケットだし、ホテルの見習いコックでも誘ってやればよかったんじゃねーの? オレはとしてはありがたい話だが」
「それも、考えましたけど、トリコさんには今まで虹の実の捕獲に連れていってもらったり、フグ鯨の料理を経験させてもらったりしていますから、これでお礼になればなと。ジュエルクラブの捕獲も自分達でやっていいらしいので、好きなだけ食べられますよ!」
食材の捕獲。美食屋たちが行なうそれは、本来なら危険な仕事であるが、今回の件は違う。
ジュエルクラブは、危険な生物ではないからだ。ジュエルクラブは、ルビークラブ(原作十四巻に出てきたカニ。解説は原作十七巻)や、サファイアクラブ、エメラルドクラブといった鉱山ガニが交雑していった結果、生まれたカニだ。なんと、複数の宝石が散りばめられた殻を持つ、派手な見た目の甲殻獣類である。
獲物の危険度と捕獲難易度を基準とした捕獲レベルという制度が、IGOによって制定されている。“捕獲レベル1”で、猟銃を持ったプロの猟師が十人がかりでやっと仕留められるというものだ。そしてルビークラブは捕獲レベル46(ただし危険性ではなく発見の困難さによるレベルである)と、並の美食屋では調達は不可能なカニだが、交雑種であるこのジュエルクラブは、なんと捕獲レベル0。ごく普通の漁師が安全な海域で獲り、一般家庭に並ぶようなカニとほぼ同じサイズと温厚さなのである。
ただし、その肉が持つ旨味は、普通のカニとは比べものにならない。さらに、殻の宝石も高い価値がある素材である。よって、超高級食材とされているジュエルクラブが、一般家庭に並ぶことはそうそうあることではないだろう。
「今年は『ジュエル島』の大繁殖期だっていうからな。ちょうど、腹一杯食いに行きたいと思ってたところだ。良い機会だ、あんがとよ」
「トリコさんがお腹いっぱいって、相当な量ですよね……まあ聞いた限りの繁殖数なら、何日泊まっても尽きないでしょうけど。今回は日帰りですが」
小松はリュックから取り出したグルメガイドをめくって、『ジュエル島』のページを開きながら、そう言った。
そのページを小松の頭上から眺めながら、さらにトリコが言う。
「『ジュエル島』にホテルはねえが、客船での宿泊プランはあるんだよな。日帰りだと、満腹には足りなそうだ。一週間プランとかはなかったのか?」
おごってもらう立場のはずのトリコであるが、そんな不満をこぼした。この男、美食屋業で金は膨大な金額を貯めており、食事というものに支出を惜しまない人間だ。ゆえに、彼にとっての日帰りツアーは、一般人にとっての『ちょっとコンビニに行って肉まんを買って食べる』程度の感覚だったりする。物足りなく感じてしまうのも、仕方ないのかもしれない。
「豪華客船で行くツアーは、懸賞としての格も相当上の方でしたので、さすがに当たりませんよー」
豪華客船ツアーよりも、はるかに価値のある最高級包丁であるメルク包丁を狙って懸賞を送ったとは思えない、そんな言葉を返す小松。
「ははっ、食運が足りてないな、小松」
「いえいえ、ジュエルクラブなんて高級食材が食べ放題なんて、今のボク食運、絶対すごいですよ! 何か降りてきてますよ!」
「んじゃ、今回は、その食運に感謝して、お
そう話を締めて、二人は『ジュエル島』行きのグルメ船乗り場へ向かって歩いて行くのだった。
◇ ◇ ◇
高さ二メートルもある巨大な鍋に、トリコはきらびやかに光るカニを次々と放り込んでいく。
そして台座に載って鍋の中を見守る小松が、カニをすくいあげていく。これまたずいぶんと柄の長いおたまで、頃合いに茹で上がったカニを次々と皿に載せていく小松。
ジュエルクラブの殻は宝石でできているため、ごく普通のカニやエビと違って茹でて色が赤くなるということはない。また、複数の種類の宝石でできた殻のため熱伝導率にばらつきがあり、最適な茹で時間に個体差がある少々扱いが難しい食材だ。
しかし小松は、ホテルグルメで何度もジュエルクラブを扱ったことがある。よって、この食材を釜茹でにする程度、朝飯前のことだった。ホテルグルメは、IGO直属の高級ホテルなだけあって、高級食材の入荷機会は多いのだ。
「へへー、来た来た」
茹でたて熱々のジュエルクラブの脚をトリコは、まるで乾燥パスタでも扱うかのように真ん中からへし折る。本来なら、専用の鉱石ハサミを使わなければ割れない殻であるが、人外レベルの
指の力で割った殻を乱暴に横へと放り捨てる。そして、姿を現わした、プラチナのように白く輝く肉にかぶりつく。肉汁と、水晶塩を溶かした煮汁が、ジワジワと口の中へと広がっていく。
「んー、うんめぇなぁ!」
脚の殻から身を吸い出しながら、空いた左手で茹でジュエルクラブを解体していくトリコ。さらに、胴体の殻を頭の先から取り外すと、そこには金色に光るカニミソが、ギュウギュウに詰まっていた。
トリコはそこへ熱燗にした酒を振りかける。そして、甲羅を杯にして、カニミソと酒が溶けた芳醇な香りのする液体をグイッとあおった。
「いやー、美味しいですねぇ。こんな美味しいカニを食べ放題だなんて、幸せだなぁ」
小松も鍋の中身を見守りながら、鉱石ハサミでカニの殻を割り、カニ肉の味を楽しんでいた。
料理をしながら食事を取るのは、本来なら料理人として褒められた行為ではないが、小松は別にトリコの専属料理人としてここにいるわけではない。トリコと小松は客と料理人の関係ではなく、ただ単に、二人の男がプライベートで、ひたすらにカニを食べているだけである。
「おっと、そろそろカニが足りなくなってきたな」
鍋の中が空くとともに、好き勝手カニを鍋へと放り投げていたトリコが、捕獲したカニを入れていたカゴを見てそんなことを言った。
カゴの中身はほぼ空だが、トリコの横には、ジュエルクラブの殻が小さな山となって積み重なっていた。それら全て、身を食べ尽くした後の殻と甲羅である。その小山は、二メートルある鍋をはるかに超える高さまで積み上がっていた。
「しかし、これだけ食べても、この付近だけでもまだまだいるものですねぇ。あ、今、トリコさんの足元歩いてますよ。無警戒だなぁ」
「よっと! ……なにせ、十年に一度の大繁殖だからな。こんな食い放題ツアーなんて開催しているのも、食い終わった後の残骸の宝石を集めるために、客を利用してるって話だからな」
「えーっ、そうだったんですか?」
「殻自体に価値があるからな。大繁殖していようが、ただの食材として安値で市場に流通させられないんだ。だから、島で全部食べ尽くして、殻だけ集めて加工したうえで売った方が儲かるってわけだ。わざわざ工場建てて食品加工して殻を確保するよりも、こうしてツアーを開催したの方が儲かるって判断だろうな」
「へぇー、面白い話ですねぇ。確かに、十年に一度の大繁殖のために、工場なんて建てていられませんね」
小松のその言葉にうなずきながら、さらに食べ終わったジュエルクラブの甲羅を小山に向けて投げつけるトリコ。とても、貴重な宝石を扱う手つきではなかった。
「しかしこの殻、出汁が出ないのか……。カニの殻って言やあ、出汁取ってスープにしたり雑炊にしたり、あるだろう?」
昼下がりの日の光を受けて、芸術品のように輝く殻の山を眺めながら、トリコがぼやく。
「出ないんですよねぇー。鍋の中のゆで汁も、身の味しか染み出してませんよ、残念ながら」
「殻も食えたら最高だったのにな」
「もし食べられるなら、さっきのトリコさんの話だと、ツアー自体が成り立ってなかったんじゃないですかね?」
「はははっ、それもそうか」
そんな話をして笑い合いながら、小松も鍋から視線を外して殻の小山を眺める。五ツ星レストランの料理長でありながら、常識的な範囲でしか給金を貰っていない小松にとって、光り輝く色鮮やかな宝石の山は非日常的な光景に映る。
「持って帰っちゃダメだけど、少し欲しいなぁー、甲羅」
「なんだ小松、お前、宝石とかに興味あるのか」
「いやいや、無いですよ。ただですね、この殻って、平らに磨いたら包丁用の良い砥石になるらしいんですよ。使ったことないんですけど」
ジュエルクラブの甲羅と殻。それはただの装飾品としての宝石以外の価値もあった。
ダイヤモンドが鋼鉄を切り裂くカッターになるように。ルビーの粉末が研磨剤になるように。琥珀が漢方薬として用いられているように。複数の宝石が集まってできているジュエルクラブは、様々な分野で特殊な用途が見つけられていた。
「砥石ね。ま、食えないんじゃオレの専門外だな。フーッ、よし、食い足りないし、追加で獲ってくるか」
「あ、ボクはもうお腹いっぱいなので、茹でるのに専念しますよ」
「なんだ、もう腹一杯なのか。早いな」
「いえいえ、もう二時間も食べ続けてますからね。トリコさんが、めがっさ食べ過ぎなだけですよ」
「めがっさか」
「はい、めがっさです」
小松の謎の言語にトリコはジュエルクラブを入れるためのカゴを背負いながら、乾いた笑いを返した。
「そうだ、なあ小松。もう腹一杯で暇になったなら、茹でるだけじゃなくて、何か料理してくれねえか? まだまだ食えるが、味に変化がほしくなってきたからな」
「えっ、いいんですか!? トリコさんの料理をボクが!」
「お、おお。そりゃあいいよ。虹の実のときもフグ鯨のときも、お前に任せただろ」
突然勢いづいた小松に若干引きながら、トリコは答えた。
「分かりました! 料理の準備をして待っていますね! いやぁー、茹でながらホテルで使えるメニュー、いろいろ考えていたんですよ。楽しみだなぁー」
そんなはしゃぐ小松を横目に見ながら、トリコは近くにあるジュエルクラブの群生地に向けて歩き出し始めた。小松もなんだかんだでプロの料理人なんだな、などと思いながら。
◇ ◇ ◇
トリコがカゴ一杯のジュエルクラブを捕獲して貸し調理場へ戻ってきたとき、調理場の備え付けテーブルの上にはすでに多様な料理を施されたジュエルクラブ達が、所狭しと並べられていた。おそらく、足もとを歩いていたカニを小松が捕まえて数をそろえたのだろう。
思わずよだれが吹き出すトリコであったが、ふと、小松の隣に見知らぬ小太りの小男が立っていることに気がついた。
「いただきます」
それはそれとして、カニの捕獲で小腹が空き始めたトリコは、食事を開始した。
「うめっ、うめっ。おっ、この刺身は黒真珠酢が効いていて、最高だな!」
「あの、トリコさん……。なんだかトリコさんに依頼したいという方が来ているんですが……」
「おう、そうか。ん、カニコロッケにするとこんな味になるのかぁ~」
「トリコさん……」
「あのー、これはどうすれば……」
困ったように小松へと視線を向ける小男。それを受けて、小松も困ったように眉をハの字に曲げ、はあ、とため息をついた。
「こうなってしまったら、おそらく食べ終わるまで止まりません。なので、このまま話すしかないと思います。聞いているかは、半々ですけど」
「分かりました……トリコ様、わたくし、この『ジュエル島』事業の総支配人でございます」
「ん、茹でもいいけど焼きも良いよな~! へへっ」
「本日は、トリコ様に獰猛なカニのハントの依頼をお願いしたく、参上した次第でして――」
「おーい、小松! さっきの刺身おかわりだ!」
「は、はい!」
「標的は、この『ジュエル島』の“ヌシ”である、ジュエルクラブの親玉でございます」
小男がそこまで話したところで、ピタリと、トリコの食事を進める手が止まった。そして、ここで初めてトリコが小男へと目を向ける。
「……特別なジュエルクラブがいるのか?」
「ホッホッ、そうでございます。そも、『ジュエル島』の大繁殖とは、十年かけて島内の生態系の頂点に立った一匹のジュエルクラブが、島の“ヌシ”となり、島のあらゆる場所に産卵することで起こるものでございまして……」
「その情報は、初めて聞いたな」
「左様で御座いますか。このヌシは生態系の頂点に立つ王者なだけあって、ジュエルクラブでありながら、巨大で非常に獰猛なのです。そこで、かの有名な美食屋のトリコ様に捕獲をお願いできるならばと、急いで参ったのでございます。このヌシの甲羅は、わたくしどもとしては是非とも確保したいのです」
「ふむ、よし、その依頼、引き受けよう」
トリコの言葉に、小男は満面の笑みを浮かべる。
「まことにありがとうございます。報酬はざっとこの程度でいかがでしょうか」
小男は懐に手を入れると、グルメ小切手を取り出した。すでに値段が書かれており、そこに書かれた金額はなんと億の桁まで達していた。
「いや、金は良い……」
トリコの言葉にきょとんとした顔をする総支配人の小男。そして小松。
「それよりもだ……仕留めた“ヌシ”は食わせてもらう。身もミソも食えるところ全部だ。報酬はそれでいいか」
「は、はあ、その程度でしたら……こちらとしては甲羅があればいいので」
そんなやりとりを聞きながら小松は、このグルメ時代で美食屋に仕留めさせた獲物の肉の権利を放棄するとは、ずいぶんと変わった話もあるものだと思った。一方のトリコの言い分は、実にわかりやすい食欲優先の台詞だとも思った。
そんな小松の胸中を知ってか知らずか、小男は言葉を続ける。
「主の甲羅ならば、削り出しで良質なテーブルができますのでね」
しかし、それもまたグルメ時代。マイホームで食事を取るための食卓や、レストラン用のテーブルなどにも非常に高い需要がある。一級品のテーブルともなれば、かの高級食材ルビークラブの肉と比べても、はるかに上の値がついてもおかしくない。
そう、甲羅を砥石として欲しいと言った先ほどの小松のように、甲殻獣類の素材は、食べるためだけにあるわけではないのだ。
「“ヌシ”は、この島で一番高い鉱山の天辺にある、洞窟の中に潜んでいるはずです」
「よーし、小松、さっそく行くぞ!」
総支配人の話が終わると共に、テーブルの上のカニ料理を食べ尽くしたトリコ。彼は勢いよく立ち上がると、小松に向けてそう号令をかけた。
その思わぬ言葉に、小松はぎょっとした顔をする。
「え、トリコさん!? ボクもですか!?」
「お前もだ! 機会があれば、オレの捕獲に付いてきたいんだろ」
「えっと、トリコさん! ボク今回、遺書用意してないですよ! だからここで待っていていいですよね! 今回はジュエルクラブの料理研究でいいかなーって!」
「何言ってんだ、甲殻獣類の肉は獲って新鮮なうちに料理した方が美味いんだぞ、お前が料理するんだよ、料理人!」
「そこは仕留めた後、急いで持ってきてもらえば……」
「いいから行くぞ!」
「ぎゃわー! 今回は覚悟決めてきてないのにー!」
そんなトリコと小松の会話劇を前に、営業スマイルを浮かべて眺めながら、総支配人の小男は「お待ちしております」と一つお辞儀をした。
トリコ達が目指すのは、島の中心にそびえ立つジュエル鉱山。湯の入ったままの鍋を片手に、もう片方の手に小松を抱えながらトリコは鉱山へ向けて走り出すのであった。
◇ ◇ ◇
「ぴいいいい! きああああああ!」
ジュエルクラブの“ヌシ”、マスタージュエルクラブの
「ぎゃあああああ! デカい! 怖い! ぐわわわわわ!」
そして、トリコに連行された小松の悲鳴も響き渡る。
「うるせえなぁ……」
小松と鍋を地面に下ろして両手が自由になったトリコが、“ヌシ”の前に立ちはだかる。ヌシは、両腕のハサミを天井に向けて突き出し、今度は姿でもって威嚇を行う。
せいぜい人間の頭程度が最大サイズだったジュエルクラブが、“ヌシ”ともなると、まさかの体高三メートル超えである。威嚇によってその姿はさらに大きく見え、小松は完全に萎縮した。
しかし、真正面から相対するトリコはというと、威嚇など、どこ吹く風だ。
「ぎぎぎぎ、ぴぴぴぴぴぃ!」
威嚇の通じぬトリコに、“ヌシ”は唐突に、天井へ向けて突き上げていた巨大なハサミを振り下ろしての攻撃を行なった! 総支配人が言っていた通り、まさしく獰猛な生物である。
「ふん!」
しかしそれをトリコは手の平で軽々と受け止めた。大重量が衝突する鈍い音が洞窟内に響き渡る。だが、受け止めたトリコは、無傷であった。
「オレにケンカを売るとは大した度胸だが、この様子じゃあアレを使うまでもないな」
そう言うと、トリコはその場で飛び上がると、拳を強く握り、三メートルあるマスタージュエルクラブの頭頂部に向けて勢いよく拳を振り下ろした。
トリコの拳によって作り上げられた鉄槌。それが“ヌシ”の甲殻とぶつかり、鈍い轟音が洞窟に響く。
そして、トリコの着地と同時、“ヌシ”は脚から力を失い、ゆっくりと後ろへ向けて倒れていく。地面に響く音と共に、“ヌシ”は腹を天井に向けて倒れ、そして沈黙した。
「あ、あれっ? 終わり?」
洞窟の壁際に避難していた小松が、唐突な戦闘の終わりに疑問の声を投げる。
「おう、終わりだ」
そう、すでにヌシは息絶えていた。
美食屋トリコの代名詞である必殺技『ナイフ』『フォーク』も使われていない。戦闘前のいただきますの合図も、戦闘終了のごちそうさまの言葉もない。ただの拳の一撃でヌシは体内をシェイクされ死んだのだ。しかも今回トリコは、依頼主の甲羅を使いたいという要望に応えて、極力、破壊力のない一撃を心がけていた。
捕獲レベル0しかないカニの親玉は、たとえ巨大になって命知らずの獰猛さを得ても、この程度の存在でしかなかったのだ。
「この程度なら、わざわざオレが倒すまでもなかったな。他の美食屋に獲られる前に会えたのも、今回の小松の日帰りツアー分の食運のおかげか?」
「まだ、その食運の話を引っ張ってるんですかー!」
「ははっ、まあ、とりあえず脚一本茹でてみてくれ」
トリコは倒れる主の脚を持ち上げると、戦闘では使わなかった右手の『ナイフ』で小松が抱えられる長さに切り落とし、小松へと渡した。
「むむ、重たい……ですけど、殻の重さですかね。身が詰まってる感じがしない気がします」
「本当か? でも、実際に食ってみてからだな」
小松はトリコに手伝ってもらい、洞窟内の岩を集めて鍋を載せるための簡易かまどを作り、さらにここまでの道中に集めていた鉱石炭に火を付けて鍋を温め直す。
そして、沸騰したところで、切り分けた一本分の脚を鍋に入れ、ほどよく茹で上がったところで取り出す。
殻を皿代わりにした、白く光り輝く大きなカニ肉がトリコの前に並ぶ。それに向けて、トリコは手を合わせて食前の挨拶をした。
「では、この世のすべての食材に感謝を込めて、いただきます」
食器はないので、トリコは手でわしづかみにしてカニ肉を持ち上げる。
体高三メートルもあるカニの脚の身だ。わしづかみにしても指が輪を作らない。
そしてトリコはおもむろにそのカニ肉へと、大きな口を開けてかぶりついた。
「んぐ、んぐ、んぐ……。ん? うーむ……」
ゆで汁を口の回しにべたべた垂らしながらヌシの肉を咀嚼するトリコ。しかし、その顔に浮かぶ笑顔はどこか薄い。
「口いっぱいに頬張れるのはいいが、味は普通のジュエルクラブより大味に感じるな」
とりあえず食べてみての感想が、それだった。
「十年生き続けて、美味しくなっているとかではないんですね」
小松は、初めてトリコと一緒に食材の調達に行った『バロン諸島』での冒険を思い出す。
あのときはターゲットであるガララワニが、本来の寿命を遥かに超え三百年生きた、まさに諸島の“ヌシ”とも言える存在だった。その肉の味は通常のガララワニより、はるかに“円熟”されて美味しくなっていた。だがこのマスタージュエルクラブは、そのような“円熟”はなかったようである。
「そういえば島中に産卵したって依頼人が言ってたな。よくあることだが、それで疲労して味が落ちているのかもしれん」
「確かに、産卵後にそうなる食材はいますね。特に、海から帰ってきて川を登って産卵した後の魚とか」
「ふーむ、しかし十年に一度の食材だ……。よし、小松、デカさを利用して、美味く料理してみてくれ! ここは、お前に任せたぞ!」
「えっ!」
トリコの突然のそんな言葉に、小松は思わずテンションが上がった。あのトリコが! 美食屋トリコが、また自分に仕事を任せてくれた! 期待をかけてくれた! そんなことを彼は思った。
「はい、分かりました!」
まず、小松は地面に倒れ伏すヌシの死骸を近くで眺めることにした。小松のような五ツ星料理長レベルのシェフともなると、新しいメニューを考え出す“閃き”が必須の技能となってくる。なので、余すところなく、隅々まで食材を観察するのだ。
と、そこで小松はふと、料理人としての感覚に引っかかるものを覚えた。
(あれ、この殻って)
小松は気づいた。マスタージュエルクラブの殻、これは通常のジュエルクラブの殻と違い、料理すれば食べられるようになる可能性があると。
小松の調理を待つ間に足元を行き来するジュエルクラブを捕獲してまわっているトリコの様子を見るに、彼の特別優れた嗅覚でも、この殻から旨味を感じ取れていないのだろう。だが、小松の料理人としての感覚が言っている。これは一定の工程を得ることで絶品料理に化けると。
通常のジュエルクラブの殻とは違う。これは食材だ。
「どうするかな……」
「ん? 何か言ったか?」
「あ、いえ……別に何も」
小松は迷った。もしここで食べられると言おうものなら、トリコはこの殻を根こそぎ食い尽くしてしまうだろうと。ガララワニのときの経験が、そう告げている。あのときは小松がした依頼でガララワニを仕留めたのだが、試食というていで肉を一部焼いて食べ始め。そして、結局最後には試食の範疇を超えて、全身の肉を平らげてしまった。
さらに、今回の依頼で、トリコが依頼人に要求した報酬は「仕留めた“ヌシ”は食わせて貰う」、だ。肉だけをではない。対象は“ヌシ”全てだ。何も残さず食べ尽くしたとしても、契約違反にはならない。
しかし、そうなると依頼主は大損である。
告げるべきか否か。
(今回は、ボクのチケットで来たんだし……トリコさんの食欲を優先しなくても良いかな……?)
小松は料理人としての興味ではなく、小市民としての良心の方を選んだ。
そして料理を進め、トリコは依頼主に告げた言葉通り、カニ肉もカニミソも全て食べ尽くした。甲羅とハサミと脚の殻を残して。
その後、新たな主が追加で現れるということもなく、主の殻を依頼主に渡しトリコと小松二人の食い倒れツアーは無事に終了したのだった。
「いやー、“ヌシ”もちゃんと料理すれば、ジュエルクラブにはない美味さがあるもんだな。なあ小松、またどこか、調理場付きの食い倒れツアーを懸賞で当ててくれよ」
「いえいえいえ、ボクはツアーのためじゃなくて、調理道具を当てるために懸賞を送ってるんですからね!」
帰りのグルメ船の中で、そんな言葉を交わすトリコと小松二人。
さて、実際に小松が殻も可食部位であることを告げたとして、トリコは殻を全て食い尽くしてしまったであろうか。
十年に一度しか知る機会のないその答えは今のところ闇の中である。
ジュエルクラブ(甲殻獣類)
捕獲レベル:0
ルビークラブ、サファイアクラブ、アメジストクラブといった貴重なカニを人間の手で交配させ、大量繁殖できるように品種改良した雑種のカニ。海を渡れないため『ジュエル島』にのみ生息しており天然ものは存在しない。原種の一つのルビークラブは体長六十センチメートルとそれなりの大きさを持つカニであるが、このジュエルクラブは人間の頭程度の大きさしかない小さな甲殻獣類である。その味は高級珍味と呼ばれるルビークラブほどではないが、濃厚な旨味を持った人気の高級カニである。
殻は交雑種ゆえの様々な宝石が入り交じった外観をしているが、一つとして同じ配置をしたものがなく、それが天然の芸術として評価されており、『ジュエル島』内での養殖が容易なことからも装飾品や調度品の材料として世界各地で使われている。
マスタージュエルクラブ(甲殻獣類)
捕獲レベル:3
五年という短い寿命のジュエルクラブの中でボスとなった一匹だけが十年生き、巨大な姿となったもの。天然の鉱山ガニや通常のジュエルクラブと比べて肉の価格はさほど高くないが、その外殻はテーブルやイス、床材などに加工され非常に高い値段で取引される。
料理人の中にはこの外殻を調理可能なことに気づいている者がごく一部おり、特に熟練家具職人が加工した後の甲羅は非常に美味な食材となっているため、マスタージュエルクラブの甲羅で作った家具は現存数が生産数より少なくなっており十年に一度の素材にしては取引額が極端につり上がるっているという。ちなみに『ジュエル島』事業の総支配人は外殻を食べられることを知っていたが、トリコにそれを察知させなかった。人間の焦ったときの汗の臭いを容易に嗅ぎ取れる嗅覚を持つトリコでも、グルメ時代に揉まれた苦労人の営業スマイルの裏側は見破れなかったようである。
ジュエル島事業の総支配人
『ジュエル島』の所有者であり、ジュエルクラブの交配・養殖を一代で成し遂げた人。一流の装飾・家具職人でもある。お菓子の家のような食べられる食器・家具・調度品というものを快く思っていない、グルメ時代の人間には珍しいタイプの人間で、手製のマスタージュエルクラブの家具が陰で食されていることを苦々しく思っている。目指せ、殻を調理不可能にする処理の発明。
食することで、どんなものでも食べられる味覚に目覚めるアナザは、彼のような人間にとっては悪夢の食材であろう。