腹の鳴る音で眠りから覚めた。ある日の早朝。全快となった窓から射す日の光で、快晴だと分かる。
そして、風がわずかに吹き込み、甘い香りが朝の空きっ腹を刺激する。そう、甘い香り。ここは美食屋トリコの自慢の我が家、『
「くぁー、よく寝たぁ」
そんな、よくある言葉をあくびと共に呟きながら身を起こす、家主であるトリコ。彼は、今まで頭の下に敷いていた枕を掴み取り、そして勢いよく噛みついた。この枕も、お菓子の家の自慢である食べられる寝具の一つ、べたつかない飴でできた繊維を織り込んで作られた、特製枕だ。中には、綿菓子が詰まっている。
さらにトリコは、ベッドのすぐ横の棚に用意しておいたチーズケーキ1ホールを丸ごと、口の中に詰め込む。
「んぐんぐ、ふうー、しかし腹減ったな。どこで朝飯食ってくかな~」
ケーキを1ホール食べて、すぐにこの言葉。まさに食いしん坊かつ大食漢だと巷で有名な、カリスマ美食屋に相応しい台詞である。
そして彼はベッドから完全に立ち上がると、部屋に備え付けられていたウエハース製のタンスを開けて、中から服を取り出し着替えていく(さすがに服はお菓子製ではない)。普段、二の腕を露出するラフな格好が多いトリコには珍しい、厚手の長袖である。
着替え終わったトリコは、壁に備え付けている様々なお菓子を食べ、時には壁材そのものを食べながら寝室のある二階から一階へと降りていく。
リビングのテーブルの上には、昨日のうちに用意しておいた朝食用のバゲットが置かれており、トリコはそれにピーナッツクリームを塗ってから口いっぱい頬張る。ついでにバゲットの載っていた堅焼きせんべい製の皿も、口に入れてばりばりと咀嚼していく。
そうやって腹を少しずつ満たしながら次に玄関へと向かう。玄関で履くのはブーツだ。
板チョコでできた玄関の扉を開け、トリコは外の扉のすぐ横に置かれた彼の背丈ほどの黒い箱の前で立ち止まった。
この箱は、鋼鉄飴で作られた宅配ボックス。家主が不在でも郵便物を収納しておける箱だ。トリコは美食屋の仕事でこのお菓子の家を長期間離れることが多いため、わざわざ用意したのだ。
鍵は付いていない。そもそもトリコは、お菓子の家の扉にも鍵を付けていない。
「届いてるな。んじゃあ、いくかぁー」
宅配ボックスの中からトリコが取り出したのは、大きなリュックサック。中身もすでに詰められている。背が高く、体格も良いトリコの肩周りでも背負えるように、肩紐がサイズ調整された特別製だ。
トリコはそれを背負うと、握力を込めてへし折った宅配ボックスのフタの一部を口に含んで舐めながら、クッキー生地で作られたポストから新聞を取り家を離れていった。
「ん、騒ぎになってるな」
歩きながら開いたグルメ新聞には、『ジェラートマウンテンに猛獣現る!』との記事が書かれていた。
◇ ◇ ◇
そしてトリコは、新聞記事に名前が載っていた『ジェラートマウンテン』のふもとまでやってきていた。お菓子の家からここまで美食鉄道に乗って六時間ほどの行程だ。朝食と昼食は、汽車の中に大量の駅弁を持ち込んで食べ終えていた。
『ジェラートマウンテン』は細かい氷粒状の雪が降り積もる活火山で、山頂の火口からは熱いマグマではなく甘いシロップが湧き出ている。
危険な生物はおらず、天然のかき氷を楽しもうと、年間一千万人のグルメ登山家が訪れるという。
「おっ、グルメポリスか」
だがそんな山のふもとの観光街では、登山客ではなくグルメポリスが多数うろついていた。
今の『ジェラートマウンテン』は頻繁に吹雪に見舞われる時期で、腕に自信のあるグルメ登山家しか山に登らないシーズンだ。だが、それでも絶え間なくふもとの町に人が訪れる、人気が途絶えないスポットのはずだ。さらに、グルメ登山家だけでなく、彼らが山から持ち帰る氷菓を買って食べるのが目的の観光客も、多くいるはずだった。しかし、トリコが街中を見渡しても、道を歩くそれらしき姿は見受けられない。
「まだヤツはいるみてーだな。よし」
周囲を警戒するグルメポリスを横目に、登山口へと向かうトリコ。
だが、途中で一人の警官がそれを見咎めた。
「こらキミ、今この山には大変危険な猛獣が出現しているんだ今すぐ引き返……はっ! あ、あなたはまさかトリコ!」
「おう。勝手に捕獲させて貰うが、いいよな?」
「はっ、はい! していただけるなら、是非!」
敬礼をしながら、トリコに向かって応答するグルメポリスの警官。
山のふもとにグルメポリスが出動している理由は、この警官が話した通り、安全なはずの『ジェラートマウンテン』に危険な生物が突如出現したとの報があってのことだった。
「『特別グルメ機動隊』の出動要請が出されていましたが、到着には時間がかかるため、ご協力いただけるなら大変助かります」
『特別グルメ機動隊』はグルメポリスの鎮圧・戦闘用精鋭部隊である。
それだけ出現した生物の危険さが見てとれるが、そんな場所にわざわざやってきたのが、トリコである。
今日のトリコは獲物を食べるためにここまで来たのではない。獲物を捕獲し、人々へ食材を供給する美食屋の仕事として来たのだ。
トリコ自身は今回、他者から依頼を受けてはいない。美食屋のルーチンワークとして、自分で狙い定めた猛獣を捕獲し、食肉を扱う食品卸売業者に売り払って金銭を稼ぐという目的でやってきたのだ。
トリコは食いしん坊の美食屋だが、捕獲した食材全てを自分で食べるというわけではない。金を稼がねば、人の経営する店で腹一杯飲み食いができないからだ。つい先日も、トリコはIGO直属のレストランから依頼を受けて、バロン諸島へガララワニの捕獲に行ったばかりだ。何やら料理人が一人、道中のおまけについてきていたが。
「退治に成功しましたらご一報ください」
「おうよ」
トリコがそう簡単に答えると警官は敬礼を止め、道の脇に止められたグルメパトカーへと向かい、無線機を使って何かを話し始める。トリコの入山を報告しているのだろう。
その様子を確認することもなく、トリコは観光用の登山ルートへ向かって再び歩き始めた。
『ジェラートマウンテン』は初心者から上級者まで、様々なグルメ登山家の集まる名山だ。その中でも観光用のルートは夏シーズンで防寒具と登山靴さえしっかり用意しているなら、登山未経験の若者でも歩いて辿り着けると言われている。トリコは、その楽なルートを歩こうとしているのだ。
トリコの目的は獲物を捕獲することだけ。わざわざ厳しいルートを通る理由は、獲物が逃げ込んでいない限り、存在しなかった。
「オレが行くまで逃げないでくれよ、アマヅラビースト」
◇ ◇ ◇
小腹が減り、ウサギを捕まえて焼いて食べたり、順路から外れた岩陰に生えていたポキポキキノコを遠慮なく食べたりしながら、登山は続いた。道草を食って、道すがらで足を止めつつも、トリコは日が暮れる頃には山頂に到着していた。
息は上がっていない。トリコのような美食屋たちは、厳しい環境に身を投じることが日常であるため、この程度の運動では疲れはしないのだ。むしろ彼は、山頂の清浄な空気を吸おうと、深呼吸を繰り返している。
「ううーん、フルーツの良い匂いだぁー!」
トリコの視界の奥では、ジェラートマウンテン名物、フルーツマグマが火口から勢いよく吹き出していた。マグマは積もった雪へと降りかかり、天然のかき氷ができあがっていく。マグマと言っても、雪が溶けるような熱いものではなく、むしろ湧き水のように冷たいシロップだ。山肌に降り注いで時間が経ち、凍り付いたマグマは、これまた天然のシャーベットに変わっている。
「うはー、いただきます」
地面の雪へ頭を突っ込むように飛びかかるトリコ。そして大口を開けて、降り積もった雪へと食いついていく。雪は氷を薄く薄く削ったようなきめ細やかさであり、まさしく極上のかき氷であった。
「くーッ、頭がきーんって!」
氷菓特有の頭痛の洗礼を受けながら、かき氷をかきこんでいくトリコ。するとやがて、口へと入ってくる雪の食感と味が変化していく。かき氷がジェラートへと変わったのだ。
これは、このジェラートマウンテン最大の名物、天然ジェラート。山頂付近の山肌の一部からは、フルーツマグマとは別に、砂糖や卵白に似た成分を含む湧き水がじわじわと染み出している。それが、フルーツマグマと雪とで混ざり合って、極上のジェラートになっているのだ。
「うーん、まろやか。この味は高級店でもなかなか出せねえぞ」
食べ尽くすことで掘り進んだ雪の奥へと座り込み、手でジェラートをすくい取っては口へと運んでいく。食べ物の上で、食べ物を食べる。人里の店では味わえない、自然の食材を前にしないとできない贅沢だ。そんな豪快な贅沢ができるスポットが美食屋たちによって次々と発見され、世界各地に名所として伝わっていくのが、このグルメ時代である。
次から次へと甘い雪を口にするトリコ。時にはフルーツマグマの冷たい原液を口にして喉をうるおしたり、凍り付いたマグマのシャーベットも食したりする。そして、腹が満ちると共に、トリコは体温の低下を感じた。
グルメ登山家ならばここでキャンプを張り、身体を温めるところであるが……。
「シバリング!」
トリコは身体を勢いよく振動させ、体温を一気に高めた。
人は体温が下がるとぶるぶると身震いする。これは筋肉などを運動させて熱を作り出そうという、シバリングと呼ばれる生理現象である。トリコはそのシバリングを技術として身に付けており、膨大な熱を作り出すことができた。筋肉を動かすために必要なカロリーは、フルーツマグマからたっぷり補給してある。トリコの身体は寒空の下、湯気が立つほど温まっていた。
「それじゃ、探してくかね」
体の暖気が十分となったのを合図にして、トリコは頭の中身を食べることから、捕獲の仕事へと切り替える。
狙いの獲物を探すのだ。トリコは、フルーツマグマの吹き出す火口へと向けて歩いていく。勢いよくマグマが吹き出しそして降り注ぎ続ける火口付近で、トリコは顔を下に向けた。フルーツマグマの量が多ぎるため、雪はマグマで溶けきって積もっておらず、冷たいマグマが山肌から下へ下へと滝のように流れ落ちている。トリコはその甘い香りが漂う場所で、クンクンと鼻腔を動かし、周囲に残された臭いを探った。トリコの美食屋としての特技の一つは、犬をはるかに超える嗅覚能力を使った獲物の追跡だ。
「ビンゴ! 定期的にマグマを飲みに来てるな。この臭い、覚えたぜ」
今回のトリコの捕獲ターゲットは、甘い木の汁をすする食性の生物だ。トリコは自慢の鋭敏な嗅覚で、火口付近に漂うフルーツとは異なる種類の甘い香りと、わずかな獣臭を嗅ぎつけていた。
そしてトリコは捉えた臭いを追い、まるで警察犬のように臭いの主の行く先を辿っていく。獲物は山頂付近から山を下っているようであった。
日が完全に落ち切る前にと、今更急いで動き始めるトリコ。雪の降り積もるこの地では、残った臭いが消えてしまうのも早いのだ。
十分ほど山を駆け下りたトリコは、山腹にある林の地帯へと足を踏み入れた。獲物の臭いはどんどん強くなってきている。
やがてトリコは、木の間に降り積もる雪の上に大きな獣の足跡を発見した。
その足跡を辿ると、雪の下から生えた太い針葉樹が何本も根元から折られている様子が見てとれる。
さらに足跡を辿った先で、トリコは目当ての標的を見付けることに成功した。
「巣作りとは、本格的にここへ移住するつもりかい、アマヅラビースト」
トリコを待ち構えていたのは、倒した木を重ねて大きなねぐらを作り上げた、一匹の凶暴な獣だ。トリコの気配を察知していたのか、臨戦態勢をすでに取っている。
アマヅラビースト。体長(頭の先から尾の付け根までの長さ。尾の長さは含まない)6メートル、体高(足の底から肩の上までの高さ)3.2メートルの四つ足の巨大な獣。頭部は猪に似て、胴体はオオカミ、尻尾は鳥の尾羽のようなものが生えているなんとも形容しがたい見た目。主に森林地帯で、甘い樹液や花の蜜をすすって生きる草食性の哺乳獣類だ。しかし、草食・樹液食といっても侮ることはできない。縄張り意識がとても強く、他の生物に樹液をわずか一滴たりとも奪われないよう、視界内で動く生き物を全て殺してまわるという、大変獰猛な獣なのだ。
「グロロロ……グワッ!」
威嚇の鳴き声と同時に、トリコへと襲いかかるアマヅラビースト。
その口には、獲物を噛み殺すためだけに存在する鋭い牙が生えている。
だがトリコはひるむこともなく、拳をその牙に向けて叩き込んだ。
「ガウッ!? ……グウッ!」
拳を受けて牙を叩き折られ、のけぞるも、ひるむことなく体勢を直して再び飛びかかる獣。
トリコはそれを屈み込むことで回避、アマヅラビーストの腹の下へと潜り込む。そして。
「ふん!」
拳の一撃が今度は胴体へと突き刺さる。
アマヅラビーストは大きく吹き飛び、倒木で作ったねぐらへと激突する。
さすがの衝撃に巨獣も足もとがおぼつかないのか、その場でふらついてしまう。
それを見逃すようなトリコではなく、助走を付けてアマヅラビーストへと飛びかかった。
「ノッキング!」
だが振るわれたのは拳ではない。『ノッキングガン』という捕獲用の特殊な銃だ。
アマヅラビーストの鼻先に押しつけられた『ノッキングガン』の先端から針が飛び出し、鼻の奥、脳へと針が達し神経組織に刺激を与える。その刺激で、アマヅラビーストは麻痺状態へと陥った。ノッキングと呼ばれる、生け捕り用の高等技術である。
四肢が麻痺したアマヅラビーストは、雪の上へとゆっくりと倒れ込んだ。
「よし、捕獲レベル7なら、こんなもんか。何やら手負いっぽかったしな」
アマヅラビーストはどうやら左後ろ足を怪我しているようであり、飛びつく勢いもどこか弱くなっていた。
その理由にいくつか推測を浮かべつつも、今更かと、動かなくなったアマヅラビーストを肩に担ぐように持ち上げ、トリコは下山し始めた。
『ジェラートマウンテン』は、危険な生物が生息しない場所だ。そこへ怪我を負った獰猛な獣が移動してきた。それが何故かを考え、対策を取るのは、食の生活を守るグルメポリスやIGOの仕事。美食屋であるトリコの領分ではなかった。
針葉樹の林から離れ、再び登山コースへ。優に1トンを超える重さの獲物を抱えての下山は、さすがに軽やかというわけにはいかない。やがて日は完全に落ちきり、そして雪が強く降り始めた。
「予報通り、吹雪かなこりゃ」
トリコはアマヅラビーストを道の脇に降ろすと、背中に背負ったリュックからテントを取り出し始めた。黒い昆布のような素材で出来たテントである。いや、昆布のようなではない。昆布そのもので出来ているのだ。
そんなテントをトリコは岩陰に組み立て終わると、アマヅラビーストを放置して早々にテントの中へと入っていった。
しだいに雪は強くなっていき、やがて吹雪へと天候は変わっていく。ジェラートマウンテンの雪は、水分を多く含むみぞれのような雪だ。さすがのトリコもこのような空模様の中、無理に下山する気はないようだった。
アマヅラビーストがテントの外に置かれたままだが、この獣が本来生息する場所はジェラートマウンテンから北に800キロメートルほど離れた『
吹雪の中でノッキング状態のまま放置しても、凍死してしまうことはない。
やがて一夜明け、吹雪が静まったことを感じたトリコは、テントの外へと出た。
雪が深く降り積もっており、アマヅラビーストが横たわる場所がこんもりと山になっている。トリコはアマヅラビーストの呼吸を確保するために頭部分の雪を除け、そして朝食の準備を始めた。
まずは岩を砕いて石にしてそれを並べ火をおこすためのかまどを作り、固形燃料を並べて火をつける。火の熱でみるみるうちにかまど周辺の雪が溶けていき山肌が露出する。
次にリュックから金属色に光るシートを取り出し、それを火であぶった。するとシートはどんどんと形を変え一抱えほどもある鍋へと姿を変えた。形状記憶合金で出来たキャンプ用グルメ鍋である。
そして、トリコは周囲の新雪を塊でつかむとその鍋へと投入。鍋の中で雪は火の熱でゆっくりと水へと変わっていく。運ぶ水の量を減らすため、雪を溶かして飲用水にしているのだ。極上のかき氷やジェラートのもととなっている雪を融かした水だ。そのまま飲んでも、美味であろう。
次にトリコは、一晩明かしたテントをたたみ、束ねると、鍋の上で勢いよく引きちぎった。すると、昆布でできた生地の間から、ぼとぼとと何かが鍋の中へとこぼれ落ちていく。大根、ゆで卵、ちくわ、さつまあげ、こんにゃく、がんもどき、餅巾着。なんと、フリーズドライにしたおでん種であった。最後に昆布のテントを鍋に投入すると、固形燃料の火で鍋を煮込み始めた。このテントは、トリコ特製おでんテントだったのだ。
鍋の中の水が湯へと変わっていき、昆布から香りの良い出汁が出る。そしてフリーズドライされていた具材が、瑞々しさを取り戻していく。透明だった湯はいつの間にか薄い琥珀色へと変わっていた。
おでんの香りが甘味の山へと、場違いのように漂う。トリコは思う。実に美味そうな匂いだ。――だがしかし、不意に視界に影が差すとその匂いを汚すような獣臭が周囲へと広がった。甘い体臭を持つアマヅラビーストの臭いではない。肉食獣特有の、血と臓物の臭いである。
「……そうか、お前に追われて、アマヅラビーストはこの山まで逃げてきたのか」
トリコはおでんがこぼれないようにしっかりと鍋にフタを固定すると、強烈な獣臭が漂う頭上へと向かって顔を上げた。
そこにいたのは、五つの首にダチョウのような丸みを帯びた胴を持つ、体長10メートルを超す巨大な鳥。
なんと怪鳥ゲロルドが、空から降下してきているのだ。その捕獲レベルはアマヅラビーストの7を大きく超える15。死神とも呼称される、大変危険な鳥獣類だ。この捕獲レベルともなると、並の美食屋では太刀打ちができない領域にある。
なぜ、このような危険極まりない生物がジェラートマウンテンにいるのか。それは、甘葛の樹海から狩りの獲物であるアマヅラビーストを追ってやってきたという事情が裏にあった。
アマヅラビーストは甘い汁を糧とする獣であるが、特に好むのは木の樹液。ジェラートマウンテンのマグマのようなフルーツテイストのシロップは、樹液豊富な『甘葛の樹海』を出てまで狙い対象ではないはずだった。だというのに、こんなところにアマヅラビーストがいた理由。それは、このゲロルドに襲われ、縄張りから逃げ出したからだった。
「甘い体臭しか持たないはずのアマヅラビーストから、どういうわけか漂っていた獣臭。やはりマーキングか」
そう、樹海から800キロメートルも離れたこんな場所へとゲロルドが追ってこられたのも、自分の臭いを獲物につけていたから。山頂から臭いを辿って探り当てたトリコのように、ゲロルドは樹海からずっと、アマヅラビーストにつけた臭いを辿ってきたのだ。
鳥獣類でありながら、狩猟民族のように一つの獲物を時間をかけて追い続ける、このゲロルドの狩猟スタイル。五つの頭部が存在することによる、狩りの知恵がもたらしたものであろうか。
「こんなのが人里の近くまで来るとは、機動隊が出ていても被害が広がったかもしれんな。丁度良い、お前をおでんのつくねにしてやる」
トリコは思う。美食屋の仕事では、予定外の事態に見舞われることは珍しくもない。相手は、厳しい自然の中で生きる動植物たちなのだ。ただ、途中で起こるアクシデントのうち、凶暴な生物に襲われた場合……それが食べられる生物ならば自分にとっては吉事である。
どれだけ危険な目に遭おうが、最後に美味しく食事をいただけるなら、全ては幸運なのだ。
この出会いを幸運と見たトリコは、くの字に曲げた左手の指先を勢いよく右手の手の平へとこすり合わせる。トリコの戦闘前の所作――『プリショットルーティーン』だ。
そして、スッと両の手を身体の前で合わせた。合掌である。
「いただきます」
ゲロルドがその大きな羽を広げ、斜めの角度で雪の降り積もる山肌へと降下してくる。
向かう先はトリコではない。ノッキングで動けなくなっているアマヅラビーストだ。ゲロルドの目的は戦闘ではない、獲物の狩猟だ!
「させんッ! 2連! 釘パンチ!」
降下のタイミングに合わせ、トリコの得意の一撃がゲロルドの胴体へと突き刺さる。いや、一撃ではない。瞬時に二回殴ったのだ。トリコが『釘パンチ』と呼ぶ、打撃を複数回同時に打ちつけ、衝撃を奥へと浸透させる体術だ!
トリコのパンチで吹き飛んだゲロルドが、もう一度空中で大きく吹き飛んだ。釘パンチの二回目の衝撃が遅れて炸裂したのだ。
「ゲコオッ!」
口から血とよだれを吹き出し、ゲロルドが大きな鳴き声をあげる。
そして、空中で体勢を取り戻したゲロルドはトリコの上で大きく旋回しはじめた。トリコを仕留めなければ獲物を奪うことはできないと判断したのか、五つの頭の目は全てトリコを捉え、凝視している。
ゲロルドが狩りで得意とするのは、空から強襲して傷を負わせてまた上空に逃げる、ヒット&アウェーの戦法だ。
ゲロルドは旋回速度を上げトリコの背後を取り、急降下を超えた垂直落下と言っていい角度で、突進をかけた。
「こんな近場の狩りで、この技を使わされるとはな――フォーク!」
並の獣では反応できない空からの突進に加え、五本の首による複数の角度からクチバシ攻撃が飛ぶ。
だが、それを全てかわしきるトリコ。
さらに左手を食器のフォークに見立てたするどいトリコの一撃が、ゲロルドの首の一本に見事突き刺さり、肉を穿つ!
トリコの攻撃はそこで止まらず、ゲロルドの首に刺さったままの左の腕を縦に大きく振りかぶった。
トリコの腕力により、ゲロルドの身体が上下を逆にして空中で振り回される。そして、そのまま弧を描くように地面へと角度を変え、雪ではなく岩の露出した山肌部分へ叩きつけられた。トリコが首にフォークを突き刺したまま、投げ技をかけたのだ。
さらにトリコは、左手をゲロルドの首から抜き、勢いよく右腕を大きく振りかぶり――
「ナァーイフ!」
右手を食器のナイフに見立てた手刀で、トリコの胴周りほどもある太さのゲロルドの首を五本とも、一息に切り落とした!
そして振り切った右の腕の残心を解き、トリコは万歳をするかのように腕を天へと突き上げ、戦闘開始時と同じように左の手の指と右の手の、平を胸の前で打ち合わせる。最後に、合掌だ。
「ごちそうさまでした」
その言葉と共に、成人男性一人分はあろうかという大きさの鳥の頭が五つ、血を吹き出しながら雪の上へと転がり落ちた。
首を全て刈られてはさすがの五本首でも生きてはいられない。瞬時の決着、そして無傷の決着だ。
捕獲レベル15の怪物に一歩も引かず勝利する。それが美食屋トリコという男なのだ。
「――よし、食事の時間だ!」
真面目な顔から一転、腹が減ってどうしようもないという緩んだ表情へと変わるトリコ。だがそれも仕方ない。朝食を食べる直前に襲撃されたのだ。幸いなことに、この攻防の中でも、フタを閉めたおでん鍋は無事なようであった。
トリコは鍋をかまどに置き直し、燃料に再び火を付けると、ゲロルドの解体作業に入る。
まずは皮から羽毛を剥がしていく。抜いた羽毛は一箇所にまとめ少量の固形燃料と一緒に火を付け、焚き火をおこす。用意してあった鍋はゲロルドの体格と比べるとさすがに小さいため、おでんとは別に、この火で余ったゲロルドの肉を焼くつもりだ。
次は、右手を使った技、『ナイフ』で腹へと切り込みを入れ、モツを取り出し雪の上で一旦冷やしておく。さらにトリコはゲロルドのモツを冷やすついでに雪を融かして水にして、汚れたミノやホルモンを洗うつもりであった。
そして残るのが、たっぷりと脂の乗ったぷるぷるの皮が付いた肉。これを切り分け、一部を焼き、一部をおでんの種とする。
リュックサックの中から荷物をあさり、『十徳グルメキャンプ調理道具』と小袋に入った小麦粉を取り出す。これで肉をつくねへと変えていくのだ。
この調理道具や調味料、おでんテント、形状記憶合金鍋などが入ったリュックは、一昨日アマヅラビーストを狩りに雪山へ行くと決めたときに急ぎで宅配を頼んだものである。美食屋としてトリコはいろいろな業者に話を通してあり、即日で捕獲に必要な道具を取り寄せられるようにしていた。
ゲロルドは脂の少ない肉質だが、味は濃厚で、さらに良い出汁が出る。
それとは別に皮に脂が乗っているが、つくねには混ぜないでおく。
早速トリコはおでん鍋へと完成したつくねを投入していく。それにより漂っていたおでんの香りにまた一つハーモニーが加わり、鍋の中の汁にもごくうっすらと鳥の脂が溶けて染み出してくる。
さらに、羽毛の焚き火では皮の付いた骨付き肉が、香ばしそうな匂いを漂わせながら良い焼き色を付けていた。
「朝飯だ!」
そしてトリコはリュックの中に入れていた皿と箸を取り出し、ようやくの食事を始めた。
熱々のおでんが、雪景色の中でもうもうと白い湯気を立ち上らせている。その中からトリコは、ゲロルドのつくねを箸で掴んで顔の前へと持ってきた。
実はトリコは、昨夜、山頂でアマヅラビーストの甘い匂いに混じった獣臭を感じた時から、ゲロルド強襲の可能性をわずかに考慮に入れていた。吹雪の夜を明かしたテントの中でも、襲撃を警戒して一睡もしていなかった。トリコはその間、ずっとゲロルドをおでんに入れたらどんな味がするかということを考えていた。ゲロルドの襲撃は予定外であったが、予想外ではなかったのだ。
湯気を漂わせるそんなゲロルドのつくねを口の中へ放り込み、
(つなぎはわずかな小麦粉しか入れていないから、口の中でほろりと溶ける……それでいて力強い味だ。おでんの出汁とは、ケンカしていないな……うめぇ)
その味と温かさに、思わず口元がにやける。ゲロルドの肉は強壮のある味わいだ。それが寒空の下、熱々のおでんの具となることによって身体を芯から温めてくれる。テントの中で一晩過ごして枯渇していた胃の中に、まだ熱を持つ肉が送られていく。
途端に元気満点となったトリコは、次の具を口へと運んでいく。
汁を味わいたかったので、がんもどき。重さが少し欲しくなったので、卵。大根で、しっとり染みこんだ汁の味と熱さを同時に味わう。箸休めに、はんぺん。すり身をもっと味わいたくなったので、さつまあげ。ここで一つ腹にどしんとくる、餅巾着がありがたい。そしてまた、つくねで肉味を補給だ。みるみるうちに鍋の中身が消えていき、具も出汁の昆布も全てが胃の中へと収まっていく。
「ふーう、温けえ……」
氷点下の山の上にいるというのに、トリコは小さな火が灯ったような温もりを胃の奥から感じた。まだ鍋の中には、汁が残っている。トリコはここに、細かく切り分けたゲロルドのモツを投入していく。おでん汁のモツ鍋だ。
モツに火が通るまで、トリコは羽毛の焚き火で焼いた骨付き肉を食べることにした。火にあぶられ、皮からしたたり落ちた脂が、香ばしい匂いを周囲へと振りまいている。
大きな口を開け、肉へとかぶりつく。巨大な鳥獣類ゆえの厚い皮。それがパリパリに焼けて、よい食感を出していた。
「うまっ脂うまっ!」
口のまわりを脂まみれにしながら食いついていく。皮の下には肉。今度は、鳥肉特有の舌に絡まないしつこさのなさのおかげで、どんどんと食べ進められそうだ。それでいて、パンチのある味だ。これこそが、ゲロルド味であった。
骨付き肉を食べ終わり、残った肉も火にくべて、モツ鍋も食していく。
だが鍋の汁は限りがある。雪を溶かせば湯はいくらでも作れるが、出汁が足りないのだ。ゲロルドの骨からは出汁が出るが、トリコはつい、骨ごと食してしまった。仕方なく、彼は残ったモツも焼くことにした。直火焼き、そして鍋を使った鉄板焼きだ。出汁ではなく調味料ならば、リュックの中に入っている。
ゲロルドを食しているうちにトリコはアマヅラビーストの肉も食べたくなってきたが、そこは我慢した。捕獲するたび獲物を食べていたのでは、仕事にならない。そこはプロの美食屋として弁えているのだ。たまにそれを忘れて、シェフの小松に頼まれて捕獲しに行ったガララワニのように、食い尽くしてしまうこともあるが。
そしてやがて、その場には雪が溶けて岩肌が露出した火の焼け跡と、空っぽの鍋と、たくさんのゲロルドの骨だけが残った。完食である。
トリコは荷物から取り出した葉巻樹に火を付け、食後の煙を楽しんだ。
「ふぃー。よーし、んじゃ、アマヅラビーストをトムの店にでも卸して仕事完了だ。おっと、グルメポリスにも連絡しないとな」
ワールドキッチンにて商いを営む卸売商、
◇ ◇ ◇
ワールドキッチンにて、料理人の小松は、目当ての食材もなく掘り出し物を求めてあちらこちらの店舗を回っていた。
今日は小松にとって休養日だ。しかし、料理が仕事であり、最大の趣味でもある小松にとって、休みの日というのは料理の腕を上げ食を探求するために存在している。なので、様々な食材を実際に自分の眼で見ることも彼にとっては休日に行うべき勉強だ。ワールドキッチンはそれにうってつけの場所だった。さらに良い食材があれば、レストランの料理長として買い付けて、明日以降のメニューに加えられる。なんだったら休日出勤して、一晩中仕込みをしても良いくらいだ。
そんな意気込みで食材を見て回る小松の周りで、ある声が飛び交った。
「獲物を卸しにトリコが来ているらしいぞ!」
「マジか! 急いでチェックしねえと! あの人は気前が良いからな!」
「今日は何を持ってきたんだ! うおおおお!」
トリコ。美食屋トリコのことだろう。小松は一度そのカリスマ美食屋の捕獲任務に同行したことがあった。つい最近のことであったが。
「トリコさんかぁ……この間のガララワニは本当にすごかったなぁ。また捕獲に同行したいな……」
小松の勤めるホテルグルメにて世界各国の首脳や、IGOの幹部を集めたグルメパーティが先日行われた。そのときのメインディッシュの食材であるガララワニの捕獲を小松はトリコに依頼した。
小松はその際に、生きている食材を見たいという好奇心と勉強心から、トリコに頼み込んで捕獲に同行した。その過程で、小松は食材が生きているときの瑞々しい姿、凶暴な姿、食欲を満たそうとする姿を見て、新しい世界が開けたような感覚を持った。
「ボクもいつか美食屋の人とコンビを……あっあの肉は!」
そのときの想いを言葉にしようとしているときに、小松はある食材が今ちょうど
「おじさん! その肉全部ください!」
仲卸の中年の男に、勢いよく頼み込む小松。個人で買おうというわけではない。レストランの料理長としての注文だ。
「むっ、お目が高いねぇ。これはあのアマヅラビーストの胸肉だよ!」
並べられているのは、アマヅラビーストの肉であった。うっすらと甘い香りが周囲へと漂っている。
「はい、森林地帯に住む珍しい哺乳獣類ですよね! 是非、うちのレストランでメインディッシュとして扱いたいです!」
「ほう、メインかい。どんなメニューにするんだい」
「じっくり一日かけて、本格バーベキューで焼き上げるとかよさげですかね。甘味のある肉に馴染むよう、ソースはほどよい酸味の灼熱オレンジで! アマヅラビーストに足りないフルーツの味も足して、深い味わいになりますよ」
「おっ、いいねぇ。灼熱オレンジは特殊調理食材だったね。兄ちゃん調理できるのかい?」
「料理学校時代に、友人たちと一緒に覚えました!」
「そうか、兄ちゃんなら美味く料理してくれそうだ。よし全部だな、売った!」
小松は注文書にホテルグルメの住所を書きながら、目の前に並んだアマヅラビーストの胸肉を見て思う。この肉は、このような部位にバラされる前はどんな姿をして、どんな大きさで、どんな生態をして、どんなものを食べてきたのだろうか。本に書いてあるような情報は知っている。彼は年間、数百冊の料理本を読みこんできている。しかし実際に生の姿を目にしたことはない。生きているときの姿を見れば、この肉はより美味しく調理できるのだろうか。
また行きたい。また美食屋トリコの捕獲に同行したい。食材の本当の姿をこの目に焼き付けたい。
そんな想いが小松の中で膨らんでいく。
その想いはくすぶり続けることはなく、小松が再びここワールドキッチンへ訪れたときに果たされる。
鋼鉄飴(菓子)
鋼鉄のように硬い飴。水には溶けないが唾液に含まれる酵素に反応して溶けるという性質を持ち、その硬度から自重のかかる巨大な飴細工などに利用される。唾液に触れるとすぐに柔らかくなるが、口の中がからからに乾いている状態で噛みつくと歯が負けてしまう危険性があるので食べる際には注意が必要だ。
ジェラートマウンテン
甘いフルーツシロップのマグマが山頂から吹き出す火山。年中山に降る雪と、砂糖・卵白に似た成分を含む湧き水が混ざり合って天然のジェラートが山頂付近で自然に出来上がっている、グルメ登山家に人気の山だ。活火山であるため、ときおり大噴火を起こしてはふもとの町をシロップまみれにする。
甘葛の樹海
甘い樹液を持つ木や草が多数生えた森林地帯。甘い物が大好きな動物や虫が多数生息しており、中には人に対して襲いかかる凶暴なものも存在するため危険区に指定されている。だが、珍しい植物の樹液を採取するために足を踏み入れる美食屋は後を絶たない。
アマヅラビースト(哺乳獣類)
捕獲レベル:7
甘い樹液と花の蜜を好んで食べる樹液食動物。縄張り意識が強く、自分の縄張りに入り込んだあらゆる生物を攻撃するが、敵わないとみると縄張りを捨てて遠くへ逃げ出す臆病な点も。その肉は今まで食べてきた樹液や蜜の味がたっぷりと染みこんでおり、脂ののった肉でありながら肉料理としてだけでなくデザートとしても楽しめるという。
飼育して特定の樹液や蜂蜜だけを食べさせ、肉の味をコントロールする研究がIGOで進められているらしい。