福山市南陽台町。
ここは高台に位置した福山の高級住宅街の一つ。南陽台という名前からもわかるように、高台という事で陽当たりは頗るいい。
だが、一方その反面面倒な点も然りといった感じだ。高台と階段、坂道は必然関係だ。面倒とはそういう事で、私のような来客人に厳しい住宅地なのだ。
高台に続く階段の全てを登りきると、それはやはり私を魅了した。
「うーん。なんて言うか、これはご褒美だな」
それはまさに神秘的で圧倒的だった。本日のような晴天であれば、点在する家々の屋根による逆光で街の全景をより醸し出し、このような壮観を生み出すのだ。
幸い私は高所において恐怖を覚えたりはしない質なので、ここからの絶景を潔く受け止めることが可能だった。
「・・・そうだ。惚けてる場合じゃなかった」
さっさとお使いをすませてしまおう。そう。何故私がこんな辺境の地にまで足を運ぶはめになったのか。それは、我が担任である蒼崎橙子の諸事情によるものだ。
“急な仕事が入ってね。これから少しばかり県外に出ることになる。すまないが、今週の観察は君に任せたい。頼んだぞ”
まったく。別に私でなくとも、弟子のキョウさんなり使い魔なりに遣わせればいいのだ。なんだって私がこんな事を・・・。
「まぁ、今更どうこう言ったって変わらないしね」
不本意だが請け負ってしまった以上、最後までやり通さねばならない。それに、もうここまで来てしまったのだ。さっさと済まして温かい家に帰ろう。
そして、足早に
◇
鴉夜邸は古い造りながら、整備や構造はしっかりとされており、この高級住宅街の中においてさえその存在感は他を圧倒する。
人避けの結界が消えてから、この団地の異様さは増した。だってそうだろう。文字通りいままで存在しなかった巨大建築物が、
人避けとは読んで字の如く、“まるで人がソコを避けて通るような様”から名づけられた、所謂結界というやつだ。魔術師とは神秘を秘匿する生き物だ。その研究所となる工房は勿論、様々な用途でこの結界を用いる。先日も話した通り、うちの先生は学校の一室にそれを設置し自らの工房として扱う不届きものだ。
話を戻そう。人避けが消失し、あるはずのない建築物の出現のそれは、間違いなく未知と言えよう。
橙子さんが言っていた。人間は有り得ない現象や事実または事象を目の当たりにした時、その原因と因果を必死になって理解しようとするのだとか。自身の“脳”と呼ばれるソフトウェアを最大限にまで活用し、記憶に埋め込まれたソレと一致しうる事象を検索して納得づけるのだという。そして理解が出来なかった場合、人間は考える事を突如として放棄する。これは人間個人の脳が限界に至ったことを意味し、同時にそれを超えてしまうと人は隔てなく破綻してしまうから、自ら思考を閉ざすのだと。だから、万が一ミスで結界が消失しても、肝心要の研究成果さへ見られなければ何も問題は無いのだろう。だってわからないのだから、皆途中で考えるのを諦めちゃう。
だが稀に、この未知たる現象を、理解してしまう人間が存在するという。
魔術師は勿論、彼らにとっては未知でもなんでもなく既知なのだから、理解できて当たり前なのだ。問題は、魔術なぞ大凡関係のない一般人がそれを理解してしまえる場合があること、だ。橙子さんは、脳の容量と耐久度の問題だから、そんな人間が居たとしてなんら不思議ではないと語っていたが、私はそうは思わない。だって、通常の人間が理解できないってことは、その人間は“通常”から脱却してるってことだ。だからそんな人間が居たとして、それは一般人とは決して呼べないと思う。
◇
西谷の定期観察が終了し、時刻は2時を越していた。
「ふぅ、終わった終わったー。お疲れ様」
「おう。みなみーこそお疲れ。相変わらず、あの人に酷使されてるみてぇだな」
「あ、なによその他人事。今日はあんたのせいとも言えるんだから、もっとありがたくしなさい」
「いや、そもそもこの定期観察の行為自体好きじゃないし。頼んでやってもらってるならまだしも、むしろ橙子さんが無理やりやってる事だから。みなみーには悪いけど、俺がありがたく思う謂れはないんだよねぇ」
む、確かにその通りだ。そんな正論を言われては何も言い返せないではないか。元凶は橙子さん以外に有り得ないのだろうけど、ここに居ない人間の話をしても意味ないか。
「まぁ、用事は済んだことだし、そろそろ御暇するかな」
とやつに背を向けたまま別れを告げた。
「うーーーい。おつかれーーー」
なんて気の抜けるようなだらしない返しが来たものだから、さすがにイラッと来たため振り返ってガツンと言ってやろうと思ったのだが、案の定西谷の手には一つの分厚い書物が握られていた。
それは魔導書とかそんなふうに呼ばれる代物であった。なんだ、意外と真面目に勉強してるんだ。
「―――どう?なんか、少しはものになった?人避けはまだみたいだけど、なんかこう…」
「いーや。魔術ってすげぇ難しいよ。魔術師の家の子でもない俺に、才能なんてものは無いからな」
「西谷…。やっぱり、あんたが気にすることはないよ。あの件は二人の問題なんだから…あんたが気に病んでも仕方がないじゃない」
そう。こいつは鴉夜さんの死を未だ自分のせいなのだと戒めている。そんな事あるわけがないのに、そんな事でこいつが悩むことを、鴉夜さんが望んでいるはずないのに。―――なのに、こいつ一向にそれを譲ろうとしない。強情だから、諦めが悪いからとか、そんな事自分では理解していながらも、こいつは決して折れない。それだけはハッキリしてる。だって、私もそうだったから、こういう類の感情は人一倍理解がある。
「うん、わかってるよ。俺がいくら悔やんだって、ヒナノは還って来ない。そんなことはわかりきってる。それに、俺がメソメソしてたらかっこわりぃもんな。そんな姿、あいつに顔向けできねぇもん」
驚いた。よくよく考えれば、今日はまだ以前のような沈んだ顔は見ていなかったのだ。…なんだかんだ言っても、根は変わらないんだな。
「ふふ…。なんだ、ちゃんと大事なことは判ってるみたいね。ちょっと意外。もっと落ち込んでるのだとばかり思ってた」
「おいおい、俺はあの西谷翔様だぜ?いつまでも落ち込んで居られるかよ」
「そうね。無事に立ち直ったようで安心したわ。美香子ちゃんもつまんないって言ってたから、早く復帰した姿を見せてあげてね」
「おう。―――あ、送ろうか?」
いい、と断った。せっかく勉強をしていたのだ、邪魔をしては悪かろう。私は持ってきた荷物を手に、鴉夜邸を後にした。
◇
―――あぁ。また、見えた。階段は危険。頭上に注意。
「そっちは危ないですよ」