高坂穂積の朝は目覚めてからの深呼吸とストレッチから始まる。
目覚ましのアラームを待たずに目を覚ました穂積は布団から抜け出し、カーテンと窓を開け放つと空は白みを帯び始めていた。
雲ひとつないところを見ると、昨日の全国で晴天、という天気予報は大当たりだ。
朝焼けはまだその姿を見せておらず、春の朝特有の涼しい風が穂積の頬を撫でる。
朝の空気を思い切り肺に入れて深呼吸、大きく伸びをしたり体を捻ったりして身体を僅かでも暖め僅かに残った脳の眠気を飛ばす。
枕元の目覚まし時計を見ると時刻は午前4時40分、目覚ましをセットした時刻より20分ほど早く目が覚めたことになる。
「今日もよく眠れた」
昨日床に入ったのが23時、6時間程の睡眠で穂積の身体の疲労はすっかり抜け、リフレッシュした。
「よし、行くか」
いつもならスウェットとパーカーに袖を通した穂積はこの後顔を洗って口を濯ぎ、コップ一杯の水を飲んで1人ロードワークを開始するのだが、今日は違う。
今日は
兄妹間の礼儀として部屋の引き戸をノックする。
「穂乃果?」
部屋の主の名を呼ぶも返事は無い。
「ほーのーか」
思春期真っ只中の妹の部屋に突入するというのは良識ある兄のする事ではない。
先程よりノックと声を大きくする。
………。
返事はない。
「よし、入ろう」
眠りこけている妹に業を煮やした兄は良識をかなぐり捨てる事にした。
ノックせずに引き戸を開け、部屋に入ると人型に盛り上がったベッドへ歩み寄る。
「おい、穂乃果」
「………ウッ」
声を掛けられた掛け布団はビクリと身体を反応させる。
「起きろ。朝だぞ」
「………」
「穂乃果」
「………ぐー」
「起きろコラ!」
狸寝入りを決め込む穂乃果に兄は強硬手段に出た。
「ンー!!ンー!!」
ベッドの上に立ち、超狸寝入り生命体ホノカの外殻を剥ぎにかかる。
狸寝入り生命体は掛け布団を引っ張る兄に強固に抵抗し、イビキをかくのを止めて穂乃果は穂積とのパワー対決を始めた。
「今日から走るって言ったのはお前だろ!自分の言葉に責任持て!」
「ンガー!!フーッ!」
寝起きでどこからそんな力が出るのか、穂積が全力で掛け布団を引っ張っても依然穂乃果は外殻を離そうとしない。
おおよそ人間のものではない奇声を上げて自らの安全地帯を守ろうとするこの生き物に穂積は閉口する。
「時間もねえし、しょうがねぇな…」
「ンー…ンゴッ!?」
引っ張る力がなくなった事で安堵したのもつかの間、今度は浮遊感が穂乃果を襲った。
掛け布団から穂乃果を引っ剥がすのは諦め、布団ごと持って行くことにした穂積が丸太を担ぐように簀巻き状態の穂乃果を右肩に担いだのだ。
「ちょ、ちょっ、お兄ちゃん!起きる!起きるから!」
簀巻き状態で外の様子を窺い知れない穂乃果は羽毛布団に遮られくぐもった声で必死に訴える。
「最初からそうすりゃ良いんだよ」
穂乃果は穂積からアルゼンチン・バックブリーカーを受けて背骨を破壊されずに済んだが、愛しのベッドと夢の世界を奪い取られることとなった。
「うーん、眠いよう…」
「シャキっとしろ妖怪狸寝入り」
「妖怪ってひどっ!?」
「今までの所業を鑑みれば当然です」
「あはは…」
バックブリーカー未遂から数十分、顔を洗い運動着に着替えた穂乃果を連れ、穂積は幼馴染2人が待っている神田明神へと到着した。
事の一部始終を語った穂乃果に対する反応は三者の僅かな違いはあれど似たようなもので、辛辣な穂積と海未、苦笑いをすることりと概ね穂乃果悪しのそれだった。
「こんな朝早くからキツいと思うけど、学校もあるしこの時間帯しか都合が合わなくてな」
「ううん、お兄ちゃんもお仕事あるのに時間割いてもらってるんだもん。何時だって穂乃果は大丈夫だよ」
「穂乃果は1人でちゃんと起きてから言って下さい…穂積も、時間をとって頂いてありがとうございます」
「穂積くんは時間大丈夫なの?ことりたちに付き合わせちゃって」
「俺は平気だよ。この時間より遅くにロードワークやって帰ってシャワー浴びても時間余る」
店の仕込みは前日に終わらせてあり、ロードワークとシャワーを1時間程度で済ませた後に朝食をとっても充分勤務開始に間に合う。
今回は初回という事で多少の遅延と、男性と女性ではシャワーの時間も違うので開始時間を30分早めたのだ。
「ところでお兄ちゃん。これから何をやるの?」
「ん、そーだな。今回は初めてだし、体力測定兼触りぐらい」
「さ、触り?身体検査もするのですか?」
穂積が穂乃果に言った"触り"の言葉を額縁どおりに受け取った海未は自らの身体を庇うように抱く。
「しねぇよバカ!お前ホント天然だな!」
「バッバカァ!?心外です!訂正を求めます!」
「海未ちゃんって変なとこ抜けてるよね~」
「天然の方はいいのかなぁ?」
ギャーギャーと騒がしい穂積と海未のコントに外野から茶々を入れる穂乃果とことり。
三人の中で
生真面目な性格がそうさせるのか、海未は人の話を純粋にありのまま受け入れてしまうので冗談が余り通じないのである。
「…それで穂積くん、具体的には何をするの?」
「おお、話が逸れちまった」
時間がもったいない、とことりが暗に説明を絶賛コント中の穂積を急かす。
朝の貴重な時間を無駄にしていることに気付いた海未も、一先ずは矛を収める事にしたのか口を噤んだ。
「そうそう、早く教えてよお兄ちゃん!やっぱりお肉屋さんの冷凍庫に入ってぶら下げたお肉を殴ったりするの?」
数分前の眠気に飲まれつつあった穂乃果はどこへやら、急速にエンジンがかかりやる気を見せるもその方向はアイドルではなくあさっての方向へ向いている。
「お前ボクサーにでもなるつもりなのかよ…違う違う」
「む…じゃあ何?」
「心臓破り」
「…ん?心臓、何?」
兄の口から出た、余り聞きたくない類の台詞を思わず聞き返す妹。
傍で聞いていた海未とことりの顔も僅かに引きつった。
「だから、心臓破りだよ。お前たちには苦しんでもらうぜ」
そういう穂積の顔は、引きつる幼馴染3人とは対照的にどこと無く楽しそうに歪んでいた。
Eat You Alive(Limp Bizkit)