ロードワークというのは慣れてしまうと退屈なものだ。
毎朝同じペースで毎朝同じコースを走っているとやる気も削がれてしまう。
穂積はトレーニングのマンネリ化を防ぐ為、ペースを変えてみたり途中に筋トレを加えてみたりと変化を加えたりと工夫を凝らしている。
特に今日は流して走る日の為、階段ダッシュなどの高負荷のものは避けなければならない為、コースの変更に踏み切った。
いつもの神田明神を終点とするコースではなく、たまには秋葉原の街中を走ってみようと思い立ったのである。
であるが。
「…どこだここ」
今日は穂むらの定休日であり、時間に余裕のあった穂積はゆっくり目のペースで何時もと違う景色を楽しみながら走っていた。
住宅街、商店街を抜け、朝方とあって人影も少な目の日本最大の電気街、秋葉原へ進入し思い思いのコースを走る。
秋葉原に繰り出すのは決まって人でごった返す昼間か夕方だった穂積は何だか静かな街中に新鮮さを覚え、裏路地やビル間を思いつきで走り回っているといつの間にやら自分の位置を見失ってしまっていたのだ。
これは不味いかもしれない、と穂積は走るペースは緩めないまま僅かな焦りを感じた。
ランニングに出かける時の持ち物は必要最低限と決めており、ジャージのポケットの小銭入れに入れた幾許かの小銭と家の鍵、そして腕時計しか持ってきていない。
もちろん小銭で自らの位置が分かる訳も無く、こうしてアテも無く走り回ってどうにか看板などを探すが思ったより大通りから離れてしまったようで閑静なビル群の合間を縫う様にして走っているのが現状だ。
とにかく大通りに戻らなくては、と路地を彷徨ってはいるが運の悪いことに看板はおろか道路標識すら必要最低限しかこの道には無く、何度も同じような場所をグルグル回っている錯覚すら覚える。
これではラチが開かない、と一度立ち止まって呼吸を整える。
何時もならばクールダウンを済ませ、自宅でシャワーを浴び終えた時間だ。
どうしたものか、と悩める子羊が一人思案していると
「…あれ?穂積くん?」
子羊の元に
「いやぁ、助かったよ。ことり」
時刻は8時前。
救世主の導きで大通りへと舞い戻った穂積は私服の救世主へ感謝の意を捧げた。
「ランニング中に迷子になるなんて、穂乃果ちゃんに笑われちゃうよ?」
「…返す言葉もございません」
3つ年下の少女の苦言に、成人を控えた青年は自らの行いを悔いた。
救世主の名は南ことり。
柔らかな雰囲気の彼女は海未と同じく高坂兄妹の幼馴染である。
秋葉原に用事があったらしい彼女とバッタリ出くわした穂積は、この辺りの道に詳しいことりのナビゲートで見事大通りに戻ることに成功した。
30分以上かけても大通りの欠片も見つからなかったところをことりはものの10分足らずで到達してしまった。
どうやらグルグル回っていたのは錯覚ではないらしく、本当に同じ場所を彷徨っていたらしい。
「でも珍しいね。穂積くんが電気街の方にランニングなんて」
「たまには新規ルートを開拓しようと思ってな」
「それで遭難しちゃったの?」
「…うん」
大通りに出てことりと穂積が並んで歩く。
20cm以上の身長差が両者にはある筈だったが、ことりにイジられる穂積はずっと小さく見えた。
「そ、それよりことりは秋葉に何の用事なんだ?こんな朝っぱらから」
話題を切り替えなければ、と穂積は先程流したことりが電気街に訪れた動機を聞く。
友人を連れずに一人で電気街に来るとは珍しいと思ったのだ。
「んー、ええっと…」
「?」
しかし対することりの反応はしどろもどろだった。
両手を落ち着き無く動かし、目線は泳いでいる。
「買い物か何かか?」
歯切れの悪いことりに隠し事を疑った穂積はいくつか質問をすることにした。
「そう!買い物!」
「何の…ああ、この前洋服作るレースが足りないとかって言ってたからそれか?」
「そうなの!偶々切らしちゃってて…穂積くん、よく覚えてたね」
「嘘だ。今話し作った」
「……」
穂積のカマかけにアッサリ引っかかったことりの表情には冷や汗が流れる。
「アッ!もうこんな時間だ!ごめんね!急がないと!じゃあね穂積くん!」
「あっ」
何か知られると不味い事だったのだろうか。
ことりは強硬手段として腕時計もしていないのに手首を見て時間を確認、逃亡する手に出た。
穂積が追いかけようとするも、人ごみの中に飛び込み姿を消したことりを追跡するのはこの辺りに詳しくない穂積には至難の業だった。
怪しい、怪しすぎる。
ことりが一人で出掛ける事すら珍しいというのに隠し事をした挙句の逃亡。
怪しむなというほうが無理な話である。
それより
「…どうやってここから帰ろう」
帰り道をことりかか聞きそびれ、再び穂積は電気街を彷徨うのであった。
結局穂積が自力で穂むらに帰り着いたのは9時過ぎになった。
「お兄ちゃんお帰り」
「雪穂、学校は?」
計4時間強のロードワークを終えた兄を居間で出迎えたのは下の妹だった。
「今日は学校の創立記念日でお休みだよ。お姉ちゃんもお休みでまだ寝てる…というか、ずいぶん遅かったけどどこまで行ってたの?」
「ちょっとコンクリートジャングルで遭難した」
「ハァ?」
居間でテレビを見ながらくつろぐ雪穂は酷く疲れて帰ってきた兄に怪訝な顔を向ける。
「朝起きたら居なかったからランニングに行ったんだと思ったけど、まさか迷子になってたわけ?」
そりゃないよね、19にもなってさ、と冗談のつもりで口にする雪穂。
「………」
「エッ、マジ?」
「…」
「……えと、とりあえずシャワー、浴びてきなよ」
沈黙を貫く兄を見て全てを察した雪穂は、もうこの話題は止めようと気を使うことで促した。
何だか恥ずかしくなった穂積は妹の提案を受ける事無く着替えを持って穂むらを出た。
こんな日は無心で運動するに限る、と今日のトレーニングに気合を入れてかかるのだった。
清道塾は穂むらの程近くに位置する格闘技ジムである。
極真空手出身である会長が設立したこのジムは元々は空手道場だったが、10年程前にキックボクシングの指導も出来るよう改装した。
プロのキックボクサー向けのコースやダイエッター向けフィットネスコース、子供向けに空手やキックボクシングを教えるキッズ教室も開いているこのジムはそこそこ賑っている。
そんなジムにリングを中心にしてミットを打つ激しい音が響く。
思い思いにサンドバッグを叩く者、ウェイトトレーニングに励む者、その各々はその音の発生源の青年に目線を向けた。
その右足を前に出すサウスポーの青年はトレーナーの持つミットに指示通りのコンビネーションを黙々と見舞う。
気合の声を出しながらミットに打撃を当てる度に16オンスのグローブとミットが激しい音を炸裂させる。
18発目のミドルキックを当てた所で3分経過のブザーが鳴り、ミット打ちは終了となった。
「良い感じだったぞ」
「あざっす…」
トレーナーからアドバイスを受け、肩を大きく上下に揺らしながらリングを降りた穂積は、髪の毛先と顎から滴る汗をタオルで拭った。
清道塾に入会して13年、
家業もありジムに来る頻度は学生時代より減ったが、それでも穂むらの定休日には必ず顔を出してトレーニングに励み、顔を出せない日も自主トレを欠かしたことはない。
おかげで甘味尽くしの毎日でも太る様なことはなく、体脂肪率は以前10%をキープ出来ている。
「うっし」
息を整え終わった穂積はボクシンググローブを外すとジムの一角にあるウェイトトレーニングのマシン群へと向かう。
今日のメニューはミット打ちやスパーリング、サンドバッグ打ち等々を含めたジムワーク2時間とウェイトトレーニング45分だ。
あくまで和菓子屋が本業である穂積がジムに顔を出す頻度は周りのプロと比べると余り多くは無く、ならば、とその分濃密な練習をすることで補おうとしている。
アドレナリンが切れジムワークで出た疲れが襲ってくる前に済ませてしまうつもりなのだ。
トレーニングを全て終わらせ、シャワーを浴びて汗を洗い流しジムを出た穂積は再び電気街に居た。
正午過ぎの今、人ごみは平日だというのに歩いているだけで隣の通行人の鞄や肘、肩がぶつかりそうな程の密度を誇っている。
そんな中、穂積は特にアテがあるわけでもなくブラついているのは単に暇だったのと、腹ごしらえをする為である。
朝から何も食べずにあれだけの運動をこなせば当然腹は減るので電気街を彷徨って適当な店を探している最中だ。
「…む」
右に左にフラフラと人の波に身を任せて移動していると、何処か見覚えのある造りの通りに出た。
今朝遭難し、ことりに助けられ見捨てられた場所である。
どうせならこの近所で店でも探そう、と歩を進めていると、一つの看板が目に入った。
店先に置かれたピンク色のやたらファンシーな色使いのそれはメイド喫茶の看板である。
学生時代に物は試しとメイド喫茶に仲間と入店し、出来の悪いB級ホラー映画のバケモノかと勘違いするほどのモンスター級メイドに精神を破壊されたのはまだ記憶に新しく、すっかりトラウマになった穂積がメイド喫茶に行ったのはそれっきりだ。
しかしそれから3年経った今、リベンジを試みても良いのではないか、と穂積の心に闘志の様なものが宿る。
今度はかわいいメイドさんと楽しい時間を送ろう、と意を決した穂積はその
店内はファンシーな看板とは裏腹に小奇麗な喫茶店のようで落ち着いた外観だった。
今のところ客はおらず、店内にはテーブルの片付け中のメイドが一人だけのようだ。
「お帰りなさいませ!ご主人様!」
入店を知らせるベルを聞き、お決まりの文句と共にテーブルから顔を上げたメイド。
顔面ホラーショーを恐れていた穂積の心配は杞憂だったようで、ルックスは非常に良い。
客に向ける笑顔は見るものを照れさせる程だった。
しかし笑顔を受けた穂積の反応は照れではなく、目を大きく見開いた驚愕のそれだった。
「……ことり?」
「!?」
メイドの明るい笑顔が一瞬で固まる。
出迎えたメイドとは今朝見事な逃亡劇を披露した南ことり、その人であった。
やや更新が空いてしまいました。
『Serach&Destroy』はThe Stoogesの曲です。
文言自体はHELLSINGでインテグラ嬢が決め文句で使っていましたね。