リハビリを兼ねての投稿です。
今回は一夏視点です。
ツンとくる薬品の匂いが鼻腔を刺激して、ぼんやりと遠のいていた意識がゆっくりと浮上する。目を開けようとしたが、瞼が鉛のように重くて、ただ目を開けるだけなのにかなりの労力が必要だった。
「こ、ここは……?」
知らない天井だ。それに声が掠れていて、瞼だけでなく身体もひどく重く、指一本すらまともに動かせない。腕に異物感があり、目を動かして見ていると、俺はベッドの上で右腕に点滴をされていた。ここは病院の個室?
「いっくん!よかった、目が覚めたんだね」
少し離れた場所から懐かしい声が聞こえた。身体が重くて視線を向けることができなかったけど、この声を聞き間違うはずがない。
「た、ばねさ……ん?」
「そうだよ。久しぶりだね、いっくん」
嬉しそうな笑顔を浮かべて、ベッドの上から動けない俺のもとに姿を現したのは間違いなく姉の親友で自分の理解者でもあった束さんだった。
枕元まで近づいてきた束さんは、動けない俺を労わるように静かに頭を撫ではじめた。頭を撫でられるなんて小さい頃以来で少し気恥ずかしかったけど、身動きのとれない俺には抗う手段なんてない。けれど悲しそうな表情をした束さんを見て、撫でられるのを拒否する度胸もなく、結局なされるがまま彼女の気がすむまで撫でられ続けたのだった。
数分後にやっと解放されると、束さんはベッドの隣に置いてあった椅子に腰掛けて神妙な面持ちでこちらに向かい合った。
「いっくんはもう気づいていると思うけど、ここは病院だよ。ただし、アメリカのだけどね」
「アメリカ?たしか俺はドイツで誘拐されたはずじゃあ……」
そう言いかけた瞬間、俺はある光景を思い出した。それはこの病院にいる前の最後の記憶。
家族に見捨てられすべてに絶望したときに突如現れた深緑色のIS、潰れたザクロの如く鮮血の華を咲かせる人体、そして俺を誘拐した男達の断末魔。
「そうだ、たしかあのとき俺は殺されかけて……」
「その様子だと思い出したようだね」
「うん、何もかも思い出した。殺されかけたことも、ISに助けられたことも、そして家族に見捨てられたことも」
「いっくん……」
そう、覚えていた。人が目の前であのISによって殺されるところも。殺されかけたとはいえ、普通なら目の前で人が殺されたらトラウマになったり、トラウマではなくとも精神的にクるものがあるだろう。でも俺は恐怖も、忌避も、嫌悪も何もかも感じなかった。唯一あったのは、まるで死んだ虫を見ているような冷たい無機質さだけ。
あれが本当に自分だったのか。それとも感覚が麻痺していただけなのか。はたまたあのときに表れたのが自分の本性だったのか。まるで自分が自分でないような、よくわからない感情が頭の中で駆け巡る。
「今は色々混乱していると思うから、余計なことは考えない方がいいよ。いずれ落ち着いてきたら事情を説明するから、今日のところはゆっくりと休んでね」
もし自分の身体が自由だったなら猛烈に頭を掻きむしりたくなる激情に駆られた俺を案じてか、束さんはそう言って一度俺の頭を撫でてから静かに病室を後にした。
束さんが病室から去ると、元々俺しかいなかった病室は機材の機械音を除いて再び静寂に包まれた。
正直今の状況とか色々聞きたいことがあったけど、多分今の俺は自分が思っている以上に冷静ではないだろう。束さんもそれがわかっていたはずだ。思考を放棄するというわけではないけど、今日は束さんの言う通りにしてもう休もうかな。思っていたより疲れていたのか、俺は泥のように意識を沈めた。
「やあいっくん、久しぶり。その様子だと大分良くなってるみたいだね」
束さんが再び俺の病室を訪れてきたのは数日後のことだった。この頃になると、俺の状態も以前と比べてかなり回復していて、室内限定だけど自由に動けるようになっていた。
俺を担当した医師のカルロス先生はアメリカの病院ということでもあって外国の方だった。英語が話せないから不安だったけど、カルロスさんは日本に留学した経験があったらしく日本語がかなり流暢だったのは本当に助かった。
「よかった。事情があって日本じゃなくてアメリカの病院にしちゃったけど、あの子が勧めたこともあって正解だったみたいだね」
「あの子?」
「ああ、それも含めていっくんにはそろそろ事情を説明するべきだね。私としては、できればいっくんには関わらせたくはなかったけど、この状況で何も教えない方がむしろ危険かもしれないし」
束さんはそう言うと、「少し重い話なんでけど」と前置きして俺の誘拐事件の全容を話し始めた。
「……ということだね」
「そっか……」
束さんの話によると、やっぱり俺は千冬姉の優勝を阻止する目的で誘拐されたようだ。しかもこの誘拐には国際IS委員会の人間も関わっていたらしく、誘拐されやすくするために俺のまわりから人を外すように仕組んでいた。どうやら千冬姉の連覇によって、これ以上ISにおける日本の立場が強くなることを避けたかったらしい。
「愚かとしか言いようがないよね。自分達のくだらない面子やプライドのために他の誰かを平気で陥れるなんて反吐が出るよ。よりによってまだ子供のいっくんに手を出すなんて……」
束さんは本気で怒っているようで、今まで見たことがない冷たい表情のまま、力強く握られた拳をブルブルと震わせていた。
「それに許せないのは日本政府もだよ。いっくんが誘拐されたというのに全く気づきもしないし、犯人からの電話も最初から悪戯と決めつけて相手にしない。直前にようやく本物だと気付いたみたいだけど、モンド・グロッソ二連覇という名誉欲に目が眩んでちーちゃんに連絡するどころか黙殺するとか無能にも程があるっての!」
そう、今回の誘拐事件について千冬姉は一切知らなかった。犯人の要求に従って千冬姉が決勝を棄権することを危惧した日本政府が俺の誘拐を黙殺したせいで、千冬姉が俺の誘拐の事実を知ったのは優勝して自分の控室に戻ってからだったらしい。どうやら会場を警備していたドイツ軍が日本政府とは別口で俺の誘拐に気づき、千冬姉に問い合わせたことで発覚したとのこと。
「当然、ちーちゃんは誘拐の事実を隠していた日本政府を殺気をふりまきながら問い詰めたけど、それに対する向こうの言い分は酷かったよ。『たかが男一人のために決勝を棄権なんて馬鹿らしい。むしろ黙ってあげた我々に感謝すべきだ』だってさ。それも弟を誘拐されたちーちゃんにむかって。信じられないよね?さすがのちーちゃんも我慢できずに罵詈雑言を浴びせて、そのまま現役引退を表明。そのあと、いっくんの監禁場所を割り出したドイツ軍と共に現場に急行したけど、既にいっくんは救出済みで残ってたのはかつて誘拐犯だったものの残骸だけ。流石のちーちゃんも茫然自失だったよ」
まるで現場を見ていたかのような物言いに俺は束さんが本当に監視していたと気づいた。よく考えれば、束さんにとっては衛星をハッキングすることすら朝飯前なのだから監視など造作もないだろう。
「それで千冬姉に俺のことは……」
「うん、連絡してないよ!」
えっ……?
「今、なんて?」
「ああ、ごめんね。さっきの言い方だと勘違いしちゃうか」
なんだ、言い間違いか。ホッと息をつ──
「正確にはいっくんを保護したことは伝えてないよ。こちらが誘拐されたことを知ってるということは伝えたけど」
だって、なんで束さんがそんなことしなくちゃいけないの?