ルイズの目覚め
――長い夢を見ていた。
それは私の知らない世界。それは私の知らない事ばかりに満ち溢れていた世界。
そんな世界で旅をする日々。出会った人達と紡いだたくさんの思い出。
語るのにどれだけの時間がいるのかさえわからない、とても大事な思い出。
これが、夢……?
「……ん、ぅ」
薄く開いた為か、ぼんやりと開いた瞳はハッキリと景色を映し出さない。瞼が重たくて、何度か瞬きをすることによってようやく瞳は開き出す。
目を開ければそこには懐かしい、と感じる天井が見えた。少なくとも夢で見てきた家のような作りではない。つまり、と思考が巡る。そして自然と納得するように声が漏れた。
「……トリステイン魔法学院だ」
こうして、使い魔召喚の儀式より眠りについていたルイズが目を覚ましたのであった。
「……変な感じ、するわね」
手を思わず天井に伸ばすルイズ。掲げた右手は天井へと伸びる。その手は最後に見た記憶に比べて小さい。
いいや、元に戻ったと言うべきなのだろうか。ファ・ディールで旅をしていた年月はルイズの体を成長させたが、それはあくまで夢の話であったという事なのだろう、とルイズは考える。
ルイズはそこまで考えてはた、と気付く。そう、あれは夢である。だが自分はそれをあたかも体験してきたかのように思っているが、それはあくまで夢でしかない。それは自分も夢だと認識しているし、他にもそう言ってくれた者がいた。
夢である事は間違いない。それが元の体に戻っている事が証明してくれているし、脳裏にある記憶もそれが夢だと決定づける要素を持っている。
「でも、ただの夢、じゃないわよね」
むしろただの夢であった場合、自分が頭のおかしい妄想癖の激しい子になるじゃないか、とルイズは苦笑した。それにどちらであっても構わない。大事なのは体ではないのだから、とルイズは胸を撫で下ろす。
「そう。例え夢でも、ファ・ディールの出来事は今の私を作ってるから」
夢の中で濃密に過ごした時間。今となっては夢であろうと、夢でなかろうともルイズにとっては変わりない。
僅かに笑みを浮かべてルイズはそう結論付ける。瞳を閉じれば今でも鮮明に思い出せる記憶だ。自分にとってそうであれば何も問題はない、と。
「さて、と。いつまでもこうしてる訳にはいかないか。使い魔召喚の儀式もどうなったのかしら?」
ルイズはベッドから降りて身だしなみを整える。今の自分は寝間着に着替えさせられていた。周囲を確認すれば自分が身に纏っていた魔法学院の制服があった。
久しぶりに袖を通せば、随分と懐かしい。ルイズは淡い笑みを口元に浮かべる。暫し懐かしんでいたルイズであったが、そのままでもいられないと着替えを終える。
寝間着を片付けようとすると、医務室の扉が開く音がした。ルイズは扉の方へと視線を向けると、そこにはローブを羽織った男性が立っていた。ルイズが起きている姿を確認した彼は、案じるように心配げな表情を浮かべて駆け寄ってきた。
「ミス・ヴァリエール! 目が覚めたのかい!?」
「ミスタ・コルベール」
コルベール。彼はルイズの通う魔法学院の教師の一人だ。変わり者と言われる教師だが面倒見が良く、研究に没頭してしまう性質はあれど良識のある教師とルイズは認識している。
「意識はハッキリしているかね? どこか体調が悪い所は?」
ルイズの体調を気遣うようにコルベールは言葉を捲し立てながらルイズの健康を伺う。言葉の節々から心底ルイズの体調を心配しているのだと感じ取ったルイズは思わず戸惑う。
理由は多くある。まずはコルベールの人となりに人の良いという印象はあったものの、それは過去のルイズから見た総評だ。今、改めて我が身を心配してくれる人は“人の良い”なんて言葉では片付かない。親身になって身を案じてくれるのは彼の優しさ故にであろう。
しかし、その優しさが自分へと向けられるのかがわからないと、疑問がルイズの中で生まれる。ここではあくまで“ゼロのルイズ”という、ルイズにとっては苦い過去となるレッテルを貼られた自分しかいないのに、と。
ファ・ディールに召喚される前までの自分を鑑みてルイズは身を案じて貰えるだけの人ではないと思っている。あの頃から成長し、客観的にこの頃の自分を振り返る事が出来るようになったルイズからすると、コルベールの優しさには戸惑いしか覚えないのだ。
純粋に出来損ないの自分を案じてくれるのであれば本当に優しい人なのだろう、と思う。しかし本当に彼はそんなに優しい人なのか? と疑問が浮かぶ。コルベールの人となりがわかる程、ルイズはコルベールという人物を知らない。
戸惑いは消えない。しかし少なくとも今、コルベールが向けてくれている優しさは嘘ではない、とルイズはまず感謝の気持ちをコルベールへと伝える事にした。
「ミスタ・コルベール、ご心配をかけて申し訳ありません」
「いえ、私もミス・ヴァリエールの体調不良に気づけず無理をさせました。大変申し訳ありません」
申し訳なさそうに謝罪した後、監督失格ですね、と自嘲気味に呟くコルベール。苦み走った表情を浮かべる彼は心の底から悔いているのだと傍目から見てもわかる。
それが申し訳なくて、ルイズも少しばかり眉を寄せてしまう。場の空気を変えるべく、ルイズはコルベールに事の経緯を窺おうと質問を投げかける。
「私は、気を失ったんですか?」
「えぇ、儀式の途中で突然、意識を失ったので。儀式も中断し、貴方は医務室に運ばれたんですよ。……本当に焦りました。ミス・ヴァリエールがそこまで気を張り詰めさせていただなんて思わずに無理をさせてしまいました」
成る程、とルイズは周りと自分の認識の差がどれだけあるか把握した。自分にとっては長きに渡る冒険を繰り広げていたが、それはあくまで自分の夢の出来事。
周りから見れば倒れただけに見えたのだろう。それも突然だ。召喚を試みていた自分を鑑みれば確かに気を張り詰め、無茶をしたと取られてもおかしくはないだろう、と。
「私はどれくらい眠っていましたか?」
「丸1日ほどです」
「そう、ですか」
不思議な気分だ。あれだけ長い間、旅をしていたのに現実では1日しか時間が経っていないという。思わずルイズは苦笑を浮かべた。
そういえば、とルイズはコルベールの顔を見た。ルイズの行っていた儀式、“使い魔召喚の儀式”は1年生から2年生への進級をかけた試験だったのだが、自分の儀式は中断されたという事はこの結果はどう受け止められているのだろうか、と。
「コルベール、私の進級の件なのですが、儀式に失敗してしまった以上、私はどうなりますか?」
「……それは」
「やはり留年でしょうか?」
「ミス・ヴァリエール。それは少し気が早い。貴方の体調は万全であるとは言えませんでした。また日を改めて儀式をしましょう。その結果で判断するとオールド・オスマンの判断です」
「そうですか。温情に感謝致します」
ルイズが気絶している間にどういう話し合いが行われたか定かではないが自身にはまだ機会が用意されているという。ルイズとしては機会を貰えたのは嬉しいが、別に結果に関してはどう転ぼうと些末事に思えた。
確かに今後の進級などを考えると次の機会で使い魔を召喚を出来なければ貴族として不名誉な名を背負い続ける事となるだろう。だがそれも悪くない、とルイズは思うようにさえなっていた。
もしも儀式が再び失敗すれば魔法学院を去ろう、と。実家に戻り、家を出て旅をしてみるのも悪くない。
貴族である為に厳しく教育を施してくれた両親には申し訳ないが、逆にこのような不出来な娘をわざわざ抱えるのも世間体を考えれば好ましくはないだろう、と。ならば自由に生きてみるのも一興とさえ考えている。
「ではミスタ。私は自室に戻ってもよろしいでしょうか?」
「もう体調は良いのかね?」
「えぇ。寝ていただけですので」
「そうですか。では、使い魔召喚の儀式の日取りは後日改めて。それまでゆっくり体を休めておいてください」
「はい。わかりました」
では、とコルベールにルイズは一礼をして自室へと戻る為に歩き始めた。その背をコルベールが心配げに見守っている事を悟りながらも、後ろを振り向くことなくルイズは魔法学院の廊下を進んでいった。
* * *
自室へと歩を進めていたルイズ。だが、不意にルイズは足を止めた。医務室がある塔から自室がある塔へと繋がる道。そこでルイズが目にした光景は、広場で思い思いに過ごしていた様々な“使い魔”の姿。
「あら、やっぱり壮観ね。色んな使い魔がいっぱいだわ」
その種類や千差万別。恐らく広場にいないものもいるだろう。それをも含めればもっと多くの種類の使い魔がいる事だろう。だからこそルイズは視線を奪われてしまう。
そこには憧憬が含まれているのも確かにあるが、何よりファ・ディールとは違う生で見るハルケギニアに息づく生命達の姿を見る事が何よりもルイズの好奇心を刺激した。
今の時刻は、まだ太陽が登り切る前。まだ生徒達は勉学に勤しんでいる時間だ。実際に広場にいるのは使い魔達の姿だけで人の姿は見られない。
少し近づいてみよう、とルイズは広場へと足を踏み入れる。ルイズの足を踏み入れた音に反応して使い魔の一部がルイズへと視線を向けた。
「……あ」
流石に警戒されるか、とルイズは距離を詰める事を諦めた。自分がファ・ディールで暮らしていた時に飼っていた、雛から育てた魔物とは違うのだ。
見知らぬ人間が近づけば、流石に襲いかかってくるまではしないだろうが、逃げられる可能性はある。
故にルイズは踏み込みかけた自身の行き場に悩んだ。このまま引き返すのが正しい選択だったのだろうが、ついつい使い魔達を少しでも近くで眺めてみたいと思ってしまったのだ。
そんなルイズの下に近づいてきたのは黒猫だった。この黒猫も誰かの使い魔なのだろう。主人から送られたのか可愛らしい首輪をつけている。思わずルイズは目を見張った。警戒されているだろう、と思っていたのだがこうもあっさりと近づいてきてくれるとは思わなかった。
黒猫と目線を合わせるようにルイズは膝をついた。猫はルイズを見上げるように凝視をしていた。何故こうも見つめられるのか疑問に思いながらルイズはおそるおそる手を伸ばしてみた。
手を伸ばした理由はない。ただ触れてみたかったという思いがあっただけ。半ば無意識に伸ばした手に黒猫は匂いを嗅ぐようにルイズの掌に顔を近づける。幾度か匂いを嗅ぐように鼻を揺らしていたが、不意にその身をルイズの掌に押しつけるように預けた。
「わぁ。……ふふ、人懐っこいのね。貴方」
くすぐったいような、だがそれでいて心地よい感触にルイズは目を細めた。ルイズの手つきに猫が目を細めて嬉しそうにひと鳴きした。
それを切欠としたのか、ルイズを距離を取って観察していた小型の使い魔達がルイズの下に寄ってきたのだ。突如、使い魔達に囲まれたルイズは思わず目を丸くした。
「な、何よ、急に?」
目を丸くしている間に猫以外にもルイズに寄ってくる使い魔達は後を絶たない。更には大型の使い魔まで距離を詰めて所狭しとルイズに群がる。
ルイズには使い魔達の言葉はわからない。だが、こうした手合いはルイズには慣れている。雛の頃から育てた自分のペットのように、何故か従順な彼らを見ると不意にそう思えてしまったのだ。
「撫でればいいの?」
いつの間にかすり寄ってきた使い魔の一匹を撫でながらルイズは使い魔達を見渡しながら問うた。理由はよくわからないが懐かれているらしい。ならば触れてみたいと思うルイズも悪い気はしない。
ルイズは微笑み、使い魔達の群れの中に紛れていく。あぁ、とルイズは不意に懐かしい記憶を呼び起こす。そういえば自分の二番目の姉もこうして動物たちに囲まれていたな、とそんな事を思い出しながら。
* * *
――なによ、あれ?
魔法学院に通う女生徒の一人、キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーは胸中の驚きに足を止めていた。
使い魔召喚の儀式において、キュルケが召喚したのはサラマンダー。火のメイジとしては破格の使い魔とされるサラマンダー。更にはその中でも優秀な個体が多く存在する火竜山脈のサラマンダーと思われる事から彼女は自身のサラマンダー、フレイムをとても気に入っていた。
召喚したてで、まだ交友を築けていない使い魔との親睦を深める為に使い魔を放している広場へと向かう。そんなキュルケが見たのは、幾人かの生徒が足を止め、何やら話し込んでいる光景だ。キュルケも好奇心から、何を見ているのかと覗き込んだのだ。
そしてキュルケは驚かされる事となる。そこには広場の使い魔達を集め、その使い魔達と陽気にまどろみながら眠る一人の少女。その光景だけでも驚きだというのにキュルケにとって驚きはそれだけに留まらない。
「……なんでルイズがあそこにいるのよ」
ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。
キュルケの生家であるツェルプストーとは領地を隣とする家の娘だ。キュルケはトリステイン魔法学院に留学をしている身であり、本来はトリステイン王国の隣国であるゲルマニアの出身である。
戦が起こる度に領地を隣とするツェルプストーとヴァエリエールは血を血で洗う関係を築いてきた。戦だけの関係だけに留まらないのが両家の関係ではあるのだが、今は割愛とする。
故にキュルケにとってルイズもまた忌まわしき仇敵。とは言ってもルイズ自身が“ゼロのルイズ”であり、魔法の使えぬ無能者として歯牙にもかけていなかった。
だがキュルケ自身、ルイズ本人の性質自体までは嫌ってはいない。そんな一言では言い表せない関係をルイズと持つキュルケ。故に自身の使い魔を含む無数の使い魔に囲まれ、穏やかに眠るルイズの姿を見せられれば、一体何事かと思うのは必然と言えよう。
「ちょっと、あれ何?」
キュルケは自分よりも先にこの奇妙な光景を目撃していた生徒に声をかけた。誰も彼もが戸惑ったような表情を浮かべている。それもそうだろう。自分が召喚した使い魔が他人に、それもあの“ゼロのルイズ”に心許したように集っているのだから。
最初の生徒が気付いた時には、もうルイズはあぁして使い魔達に囲まれて眠っているらしい。生徒の何人かがルイズと共にいる事が気に入らず、呼び戻そうと試みたが離れる事が無かったという。
大きく分けてここにいるのは困り果てている生徒、そして自分の言う事を聞かない使い魔に業を煮やしているという生徒に分けられる、とキュルケは周りを見渡して思う。
「しかし、どうしてあんな事になってるのかしら?」
そもそもルイズがここにいる事すら謎である。先日の使い魔召喚の儀式で使い魔を呼べず、そのまま倒れて意識を失っていた筈のルイズ。それがどうしてここにいるのか、そして使い魔達に囲まれているのか、疑問が尽きない。
幾人かが使い魔の名であろう、使い魔に向かって離れるように叫んでいる者もいるが使い魔達は少し視線を向けただけで動こうとする気配がない。そんなにルイズを起こしたくない、とさえ思える行動は不可解でしかない。
「あいつ、そんな動物や魔物に懐かれるような奴だっけ? いえ、それにしたってこれはおかしいでしょう」
キュルケは眉を寄せて呟く。これは明らかな異常なのだから。そんな中、騒ぐ声が段々と大きくなった為か、ルイズが僅かに身動ぎをした。風竜の背に横になっていたルイズは目を開いてゆっくりと体を起こした。
「……? なによ、この騒ぎは?」
「アンタの所為よ!!」
首を傾げながらルイズが呟いたすっとぼけた言葉にキュルケは腹の底から指摘の声を上げた。
* * *
ルイズはふぅ、と一息を吐いた。広場での一件について追求をしようと迫ってきた生徒達から逃げるように広場を後にし、今に至る。
自室へと戻ろうかとも思ったが逃げた為に戻りづらい上に走り回って少し疲れた。事情を説明しようにもただ単に懐かれただけ。それ以上の説明のしようがない。
「いいえ、それは嘘ね」
不意に、ルイズは自嘲するように笑った。そっと手を胸に当てながらルイズは瞳を閉じる。
「何かされた、と考えるのが自然かしらね?」
あんなに使い魔達が警戒を解いて懐くとは思えない。ならば懐くようになった“何らかの理由”があったに違いない。思い当たる節など1つしかない。
息を吸う。瞳を伏せながら周囲に意識を向ける。風の音が聞こえる。吹き抜けるように風が音と共に過ぎ去っていく。
だが、それだけではない。その“声”はまるでざわめくような、囁きにも似たような、しかし正確に聞き取る事の出来ない程の小ささでルイズの耳に届く。
「……」
この声が何を意味しているか、ルイズは掴みかけている。だが確証には至れない。
瞳を開く。景色は過去に見慣れた景色。しかし違って見えるのは時を重ねた所為か、或いは……。
自身に起きている“何か”に予測を建てながらもルイズは答えを出せないでいる。確証がないのだから。
「まぁ、その内わかるでしょ」
まだ先は長いのだから、と。ルイズは自室へと戻る為に歩を進めた。