もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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もこっちと小さかった智くん(下)

愛をとりもどせ

「おうふ……」

 

 眠りから覚めるように意識を覚醒させた智子は、ぱっと目を開く。

 目の前のテレビは電源が付いたままになっていたが、そこにはまっ黒な再生停止画面だけが映っていた。

 

 しばらく茫然とその画面を見つめていた智子であったが、やがて自分が今居る部屋に目配せしてそこがどこなのかを確認する。

 己の通う高校の制服が掛けられている壁にはゲームキャラのポスター等も貼られており、部屋の中央に座り込んでいた智子の背後には愛用のパソコンデスク一式が据えられている。今、智子が居るのは紛れも無く普段見慣れた自室に他ならなかった。

 

 そこまで確認してようやく我に返った様子の智子は「ああやっぱり」とひとりごちる。

 先程まで体験していた一連の奇妙な出来事、あれらは結局全て夢だった、自分はやはり自室でビデオを見ていただけであり、いつの間にか居眠りしてしまったのだと、そう結論付けるのだった。

 

(こんなもんばっか見てるせいだな……)

 

 ふうっと溜息をついた智子はおもむろにデッキのイジェクトボタンを押してテープを取り出し、それをケースに収めてやると、そのままテレビとデッキの電源を消す。

 

(にしてもえらくリアルな夢だったなぁ)

 

 再び座椅子に己の体重を預けた智子は、先程まで見ていた夢の内容を振り返る。

 目が覚めて尚、夢の中での幼い弟との触れ合いの数々が今も鮮やかに思い起こされて仕方が無い。脳裏に焼きついたそれらの記憶を噛み締めながら、無意識に自身の唇を指先でそっと撫でてしまう智子。

 

(あいつ帰ってきてんのか?)

 

 まだ幾分か頭にボンヤリとした感じが残る智子であったが、夢を見る前に智貴らしき声が階下から響いてきていた事を思い出す。

 確か自分は彼に出迎えの挨拶をしてやろうと思っていたのではないか。何故だか急に弟の顔が見たくなった智子はヒョイと軽快に立ち上がり、隣の部屋へと移動する。

 

(なんだ、いねーのか?)

 

 智貴の部屋の戸をノックもせずに開く智子であったが、室内には誰もおらず電気も消えたままであった。

 

(なんかあいつが帰ってきてた気がするんだが……)

 

 ひとまず部屋の電気を付けて室内の様子を探ってみる智子であったが、壁に備え付けられたハンガーには弟の制服は掛けられておらず、彼がいつも部活の為に持ち歩いているスポーツバッグも見当たらない。

 もしかするとあれも夢だったのだろうか? そんな風に智子が思い始めていると誰かが階段を上がってくる音が聞こえてきた。

 

(んだよ、やっぱ帰ってきてんじゃねーか)

 

 帰宅してすぐ自室には直行せずリビングにでも居たのだろうか。姿を見ずともその足音だけで弟の気配を察した智子は廊下の方を振り返る。

 

「おい、何勝手に入ってんだ……」

 

 スポーツバッグを肩に掛け、制服姿で二階に上がってきた智貴であったが、己の部屋の中で姉が突っ立っている事に気付いた途端に眉をしかめてしまう。

 苛立ちを覚えつつ自室に入っていこうとした智貴であったが、そんな彼をとおせんぼするかのように智子が入り口の前に立ち塞がった。

 

「おかえり」

「あ?」

 

 智貴の顔を見上げた智子がふいにそのような事を言ってみせる。どうも智子のこの行動は弟の帰宅を出迎えてあげているつもりのようだった。

 

「どう? 嬉しい?」

 

 弟からの反応を期待するかのようにそうあっけらかんと口にする智子であったが、もしかするとそれは件のビデオの中でおままごとの夫婦を演じていた自分達の姿を思い出しての事だったのであろうか。

 

「いや全然」

「そうか、全然か……」

 

 全くもって愛想の欠片も無い弟のその反応に、やっぱりなぁと少しばかり落胆した様子を見せる智子であった。

 

「あっそうそう。さっき姉ちゃんな、面白い夢見たんだよ」

 

 ひとまずとおせんぼを解除してやる智子であったが、カーペットに座り込むと今度はそのような事を言ってみせる。「ちょっと聞いてけよ」と弟を手招きする智子は、どうやら先程自分が見た不思議な夢の内容を肴に弟とのお喋りを楽しみたいようだ。

 

「興味ねーからさっさと出てけ」

「おうっ」

 

 だが部活でヘトヘトに疲れている身の智貴としては姉の与太話を聞いてやるつもりは更々無いようで、智子の背後に回り込み首根っこを掴んで無理やり立たせると、そのまま部屋の外まで力ずくで押し出していこうとする。

 

「ちょ、待てって! マジにすげー夢だったんだって。なんかえらく昔の世界に行っちゃって……!」

 

 唾を飛ばしてまくし立てる智子が、その場に留まろうと足を踏ん張る。

 常日頃からひとりよがりな迷惑行為をしてくる姉に対して智貴がこのような強硬手段に出るのは特に珍しい事でもなかったのだが、今日の智子はいつになくそれに抵抗してみせていた。

 

「お前の夢など知らん、どうでもいい」

「あっ、じゃあほら、お前のガキん頃の話とかしてやるよ。ちょっと色々思い出しちゃってさ」

 

 夢の話が嫌なら別の話題にしよう。だから私とお話しようよ。

 そう弟に一生懸命訴えてみせる智子であったが、また彼女の面倒臭い自己満足な行動が始まったとウンザリした様子の智貴は、姉を追い出そうとする力を益々強める。

 

「疲れてんだからいい加減にしてくれ……」

「なんでだよ! お前、すぐそうやって追い出そうとすんのやめろよ! 姉ちゃんなんだぞっ!」

 

 取り付く島の無い弟の無体を咎める智子が声を荒らげて叫ぶ。だがいつも弟に対して強気な彼女にしては珍しく、その声色にはどこか懇願するかのような悲壮さが少なからず含まれていた。

 そしてとうとう部屋の入り口まで押しやられてしまった智子はそのまま背中から突き飛ばされてしまう。

 

「痛っ!」

 

 そんな智子がよろめきながら廊下に踊り出た弾みで階段の手摺に己の肘をぶつけてしまったものだから、堪らず悲鳴をあげてその場に座り込んでしまった。

 突き飛ばしてしまった方の智貴もぎくりとした顔になるが、ぶつけた所を気丈そうにさすってみせている智子の様子からして大事には至らなかったのを見取り、ばつが悪そうにしつつも安堵混じりの気づかわしげな視線を向ける。

 

「な、なんだよ、お前……姉ちゃんにこんな事して……弟の癖に……」

「……着替えるからもう入ってくんなよ」

 

 姉の無事をひとまず見届けた智貴は、何やら恨み言をぶつぶつと呟き出した智子を訝しみながらもこのやりとりを終わりにすべく戸を閉めようとした。だが弟のそんな行動に気付いた智子が座り込んだ姿勢から一転、飛びかかるようにして戸に手を引っかけそれを阻む。

 

「おい、何してんだ馬鹿!」

「……嘘つき」

「あ?」

 

 指でも挟んだらどうするのだと慌てて戸を閉めるのを中断した智貴であったが、どうも智子の様子がおかしい事に気付く。

 

「いっちょ前に一人でデカくなったような面しやがって……昔は私が全部お前の面倒見てやってたのに……」

 

 先程肘をぶつけてしまったのが余程悔しかったのであろうか、何故か突然昔の事を蒸し返して自分を責めてくる足元の姉に智貴は困惑してしまう。

 一体何が姉の機嫌をそこまで損なわせているのか知る由も無いが、部活ですっかり疲れきっている身としてはこのように突然訳の判らぬ絡まれ方をされてはたまったものではない。

 

「悪かったよ。判ったから手、離せよ……」

 

 帰宅して早々にどっと気疲れを感じた智貴は、よく判らないままとりあえず形だけ謝ってみせると、もういいだろうと戸を掴んだまま離さないでいた智子の手に触れる。

 

「うっさいっ、触んなっ!」

「いてっ!」

 

 しかし弟から伸びてきたその手を渾身のチョップでしたたかに打ち据えてやった智子は、自分を見下ろしている弟をキッと睨み付ける。

 そうした姉の顔を見た智貴は思わず息を呑んでしまった。今や智子の両の眼からはポロリポロリと涙が零れていたからだ。その口元はギュッとヘの字に曲がっていて、嗚咽が漏れ出そうになっているのを必死に堪えている様がありありと見てとれた。

 

「いや、泣く程の事かよ……」

「お、お前、姉ちゃんとの約束、もう忘れちゃったんだろ……!」

「何の話だ?」

 

 単に無神経な侵入者を部屋から追い出そうとしただけであるのに、何故それが姉をこのような状態にさせてしまったのか判らず戸惑いを隠せない智貴であったが、唐突に「約束」などと口にしてみせた智子の言葉の意味が理解出来ずに聞き返してしまう。

 

「とぼけんじゃねえっ! 嫌いになったりしないって言った癖に! ずっと姉ちゃんの事、好きなままでいてくれるって、お前約束したじゃねえかっ!!」

 

 智子が涙声混じりの怒声を浴びせて激しく弟を責め立てるが、その「約束」とはついさっき自分が見ていた夢の中での話に過ぎない。

 今目の前に居る現実の智貴本人にそれを言っても全くのお門違いではあるのだが、どうも今の智子は怒りのあまり夢と現実がごちゃ混ぜになってしまっている様子だ。

 

「っ!?」

 

 が、言いがかりをつけられた筈の智貴はといえば、何故か姉のそうした言葉を聞いた途端に体を固まらせてしまった。

 

「薄情モンめ! この嘘つきヤローがっ!」

「ぐっ……!」

 

 そんな智貴の不意を突くように勢い良く立ち上がった智子は、弟の頬に素早くその手を伸ばしたかと思うとそのまま彼の頬をつねり上げてしまう。

 

「嘘つきっ! 嘘つきっ!」

「止めろ!」

 

 智子の怒りが込められたその痛烈な不意打ちにさしもの智貴も冷静さを失い声を荒らげてしまう。己の頬を容赦なくつねってくる姉の腕を強引に引っ掴むと、それを力尽くで振り払った。

 

「待て、落ち着けって!」

「うるせー馬鹿! 人の心を弄びやがって!」

 

 おそらくは全力だったであろう姉のつねり攻撃に頬を押さえずにはいられない智貴であったが、まだ怒りが収まらぬ様子の智子はわぁわぁと喚きながら再び掴み掛かろうとする。

 

「ちょっと智子、何怒鳴ってるの!?」

 

 そこへ二階の姉弟の尋常ならざる騒ぎを聞きつけたのか、階下より響いてきた母の声が二人の耳に届いた。

 

「別になんでもないよっ!」すっかり興奮しきっていた智子が廊下に向かってまた怒鳴る。

「何でもない事ないでしょう! いいからちょっとおりてらっしゃい!」

「チッ、うっさいなぁ」

 

 おりていかなければきっと母は自ら二階に上がってくるのだろう。そんな雰囲気を感じ取った智子は、しばし逡巡した後、涙に濡れたその瞳で改めて智貴を睨み付けると、そのまま彼に背を向けて大人しく階段をおりていく。

 そしてその場には呆気に取られた智貴だけが取り残されたのだった。

 

 *

 

 やがて黒木家では夕食の時間となり、二人の子供達は両親を交えたテーブルで互いに黙々と料理を口にしていたのだが、その間、智子は弟の方に一切視線を向ける事は無かった。

 

 いつもは寡黙な弟にあれやこれやと益体も無い事を話し掛けてやる智子の声が黒木家の食卓を彩っていたのだが、今日の晩餐は普段よりも随分と静かなのであった。

 そうする内に智子は早々に夕食をたいらげたようで、ごちそうさまも言わずそのまま逃げ込むようにして自室へと戻っていく。

 

 部屋に入るなりベッドに飛び込んだ智子はそのまま頭から布団を引っ被ると、弟との喧嘩を思い出して物思いに耽る。

 

(何やってんだ、私は……)

 

 いきなり追い出されそうになった事に腹が立ったのはともかくとしても、夢の中での出来事を引き合いに出して弟に怒りをぶつけるのは甚だ筋違いも良い所である。そんな当たり前の事に頭が冷えてからようやく気付いた智子なのであった。

 弟の態度がそっけないのはいつもの事なのに一体何故あのように癇癪を起してしまったのか。己の振る舞いが恥ずかしくなってきた智子は、自身が取り乱してしまったその理由を考え始める。

 

(もうあんなビデオ見んの止めよ)

 

 あまりにも自分が昔にこだわり過ぎてしまったから。過去の思い出にすがろうとしてしまったから。そして、あの変な夢を見てしまったから。

 だからいつもと変わらない筈の弟の態度にあそこまで腹を立ててしまったのではないか。自分をおかしくさせてしまう程に過去への郷愁が大きく膨らんでしまっていた事を危惧した智子は、それらから距離を置く必要があると気持ちを改める。

 

(ああ、でも……でも……)

 

 とは言ったものの、そう決意した所で智子が先程からずっと感じていた胸の疼きがすぐに消えてくれる訳ではなかった。やがてその苦しみに耐えかねた智子は、とうとう胸を押さえてうずくまってしまう。

 そんな智子の様子を、普段彼女がかわいがっているぬいぐるみ達も部屋の隅で心配そうに見守っている。

 

 そうしてうずくまり続けてどれだけ時間が経っただろうか。途中、風呂へ入るようにと階下から促す母の声も無視し続けていた智子であったが、ふと時計を見ればもうすっかり夜も更けてきた頃であった。

 今日は誰かとこれ以上顔を合わせるのがおっくうな智子は、もう少し待って皆が寝静まった頃にでも風呂に入りに行こうかと考える。

 

 そこへふいに智子の部屋をノックする音が響いたかと思うと、カラカラと遠慮がちに戸を開ける音が響いた。

 

「姉ちゃん、ちょっといいか?」

 

 今一番会いたく無い相手が来た。部屋の入り口に背を向ける形で寝そべっていた智子は、背中ごしに投げかけられた弟からの問い掛けに無言で返してやる。

 いつまでも返事をしない姉の様子をしばらく伺っていた智貴であったが、やがて意を決したように部屋の中へと足を踏み入れてきた。

 

(勝手に入ってくんなよっ、ここはお前の部屋じゃねーんだぞ!)

 

 内心で悪態を吐く智子であったが、無視を決め込むつもりなのか布団から顔を覗かせる気配は無い。

 そうしてだんまりしている内、自分が寝そべっているベッドの手前で弟の座り込む気配がしたのを智子は感じる。

 

「………」

 

 座り込みはすれど、何か喋るでもなくじっと無言のままでいる智貴。

 弟からの布団ごしの視線をひしひしと背に感じてしまった智子は、いい加減根負けしてしまい、彼に背を向けたままようやく口を開く。

 

「なんだよ、なんか用かよ」

 

 自分でも気付かない内にまた涙声になっているのに気付いた智子はしかし、そう一言だけ言い放って智貴の出方を伺う。

 

「さっきは、ごめん」

 

 どうやら智貴は喧嘩の事を謝りに来たようだ。むしろ智貴の方こそ謝られるべき立場なのだが、それでも彼は申し訳なさをにじませる声色で謝罪の言葉を口にする。

 なんだそんな事を言いに来たのかと思う智子であったが、やけにしおらしい弟の態度にどこか違和感を感じてしまう。

 

「おう……」

 

 ともあれ素直に詫びを入れに来た弟であるからして何か言ってやらねばと思う智子ではあったが、ばつの悪さも手伝ってそっけない返事しか返せないのだった。

 するとそんな智子に向けて更に智貴が言葉を掛ける。

 

「さっき姉ちゃんが言ってた事なんだが……」

「あん?」

「約束がどうのこうの言ってただろ」

 

 あの時、思わず口走ってしまった智子の見当違いな発言が智貴なりに気になっていたのであろう。智子の言った「約束」という言葉に智貴が食いついた様子を見せてくる。

 

「ああ……ありゃもういいよ。お前にゃ関係ねー事だ、気にすんな」

 

 弟にしてみればきっと訳の判らない責められ方をされてさぞかし困惑した事であろう。それで益々自分の事を頭のおかしな姉だとさげすみ距離を置いてしまうのだろうか。そのように思う智子の胸がまた疼く。

 

「もういいから出てけよ、姉ちゃん疲れてんだ」

 

 これ以上弟と話をしていても胸のつかえは取れはしない。ふぅと溜息をついてみせた智子は、弟に取り付く島を与えてやらず彼をそっけない態度で追い払おうとする。

 

 そんな智子の返答を受けてか、智貴が無言ですっくと立ち上がる気配がしたのを智子は察知した。そしてそのまま彼が部屋から出ていくのを智子は布団の中でじっと待つ。

 

 ──ギシッ……

 

(えっ? な、なにごと!?)

 

 その時、予想外の事が起きた。退室するかに見えた智貴が何を思ったのか智子のベッドに膝を乗せて来たのだ。

 突然の出来事を前にして智子が狼狽している間に完全にベッドの上に身を乗せた智貴は、今度は智子の被っている布団の端をめくり上げ、体を潜り込ませて来たのだった。

 

(ヒィィィッ……!)

 

 突如として添い寝を決行してきた弟に面食らい、堪らず智子は声にならない悲鳴を上げて勢い良く身を起こしてしまう。

 

「おおお、お前! な、何してんの!?」

 

 突然の弟の行動に目を白黒させる智子であったが、当の智貴におふざけをしている様子はまるで見られない。

 

「姉ちゃんさ、これ……覚えてるよな?」

 

 やがて智子と同じように身を起こした智貴は、自身の手に抱えていたものを差し出してみせる。

 

(えっ……?)

 

 目の前の()()に智子の目が釘付けになる。記憶が確かならばそれはずっと昔に失われてしまったものであり、本来ならばこの場に存在する筈のないものであったからだ。

 

「な、なんでお前がそれ持ってんの……?」

 

 智貴が手にしていたもの、それはあの珍妙な成りをしたペンギンのぬいぐるみ「ペンペン」であったのだ。

 

「ガキん時に姉ちゃんに貰ったから。俺が欲しいって言ったんだよ」

「いや、だってそれは……」

 

 智子からの問い掛けに対し、これは幼い頃に姉から譲り受けたものであると言ってのける智貴。彼の語るそれはまるで智子が見たあの夢の中の出来事そのものであった。

 

「約束だったから。絶対失くさないようにするって」

「や、やくそく……?」

「そうだよ。俺と、姉ちゃんとの約束」

 

「約束」という単語を口にした智貴は、ペンペンを己の顔にあてがってユラユラとそれを揺らしてみせる。

 

「ずっと昔にこんな感じで約束した事、あっただろ?」

 

 言葉を続ける智貴の様子には日頃の彼らしからぬものがあり、その声色もどこか熱気を孕んでいるようだった。

 

「姉ちゃんはあの時の事、なんでかすぐに忘れちゃってさ……。俺、それがほんと悔しかったんだよ。あの時姉ちゃんが言ってくれた事が全部嘘だったなんて信じたくなかったんだ。俺にばっか約束させといて、なのに姉ちゃんは最初からそんな事なかったみたいに振る舞ってて……。夢でも見てたんだろうって、もう忘れろって何度も言われたよ」

 

 言葉が出ないでいる智子を前に智貴は己の心の内を告白していく。その語り口には彼がこれまで抑えつけてきた底の深い情念がこもっているように感じられ、聞き手となった智子の喉をごくりと鳴らす。

 

「でも俺はずっと忘れてなかったよ……姉ちゃんがどんなに変わっちまってもな」

 

 そこまで語った智貴が胸に抱えたぬいぐるみをギュウと締め付ける。どこか姉への恨み言にも聞こえる言葉は彼自身の長きにわたる苦悶がにじんでいるかのようでもあり、そんな弟の瞳に虚ろな何かがよぎったような気がした智子は目をしばたたかせた。

 

「けど、やっと思い出してくれたんだよな?」

「え、あ、う、うん?」

 

 急に声のトーンを変えてそのような事を智子に問うてくる智貴であったが、見ればその顔はいつもの無表情を常とする彼のものではなくなっていた。

 そこには祈るような心持ちで姉の返答に救いを求めているような、彼にしては大変に珍しい必死さがありありと滲み出ており、もしかしたら今にも泣き出してしまうのではと、そんな心配を智子に抱かせてしまう程にその瞳は揺れていた。

 

 だがいきなり弟からそのような事をまくし立てられても、智子としては全くもってこの急展開に頭が追いついてこない。

 そもそも弟の言う「約束」というのは、智子が思うに全て夢の中での出来事であった筈であるから、今現実にいる目の前の弟からそれらについて問い質される事は有り得ない筈であった。

 それ以前に、弟がその手に持つ懐かしきぬいぐるみもまた、本来ならばこの場に存在する筈がなかったのだ。

 

(あ、あれ~? もしかして私、まだ夢見てんのかな~……?)

 

 すっかり混乱してしまった智子であったが、おもむろに弟の頬に手を伸ばす。ひとまずこれが夢なのか確かめてやろうと考えて、その手で彼の頬をつねってみせようとしたのだ。

 が、指に力が入らなくなってしまった智子の震える手はそのまま弟の頬を撫でているような形になってしまう。

 智子が触れた弟の頬は大変に熱を持っており、掌を通してその体温が智子の中にまで広がっていきそうな程であったから、思わず智子はぶるっと身を震わせてしまう。

 

 と、そんな智子の仕草に何かを勘違いしてしまったのか、智貴が己の頬に添えられた智子の手の上から自身の手を重ねてきたものだからまたもや智子は体を震わせた。

 

(何してんのコイツ……! ほんと何してんだ……っ!)

 

 目の前の弟が頬だけでなくその手にも抑えがたい程の熱を孕んでいるのだという事が、今や智子にはその身を通してひしひしと感じられてしまう。

 驚くあまり手を引っ込めてしまう智子であったが、そのあまりにも実感を伴った生々しい感触はこれが決して夢などでは無いという事を智子に教えてくれる。いや、夕飯前に見た例の夢にしたってその実在感たるや決して夢とは思えない程のものであったのだが。

 

「よかった……本当に……」

 

 先程までの不安に揺れていた智貴の姿は最早そこには無かった。智子の思わせぶりな仕草を無言の肯定と受け取った智貴は、今や心の底から安堵したと言わんばかりの様子を見せる。

 智子にとってはひどく懐かしさを覚えてしまう、あの人懐っこい微笑みを湛えた弟の姿がそこにあったのだ。

 

「姉ちゃんは今も俺の事、好きなんだよな……? それ、俺もだから。姉ちゃんの事、今だってちゃんと」

 

 好きだから、と口にする智貴。

 途端、それを耳にした智子の心臓が限界を超えてドクンと脈動する。その震えの大きさに体までもが跳び上がってしまいそうだ。

 智子の耳の中でキンと甲高い音が鳴り響いた途端に周囲の音の一切が途絶えてしまったのだが、何故だか目の前の弟の吐息とその声だけはやたらとクリアに聞き取れるようになってしまう。

 

「今までごめん……ほんと、俺ってあの時姉ちゃんが言った通りになっちまったな」

 

 智子のその人一倍大きな瞳をじっと見つめ、実際に熱を感じるのではと錯覚してしまう程の熱視線を痛い程に姉に送ってくる智貴がそのような事を言って詫びてくる。

 

「でも俺……今からでもあの時の約束、守りたいんだけどダメかな?」

 

 智貴が言う「約束」とは、あの夢の中で交わされた結婚の約束とそれに付随する条件の事を指しているのは明らかであった。果たしてそれは彼にとって祝福へと至る為の試練か、はたまた心を永遠に縛り付ける呪いであったのか。

 

「あ、あにょ~、しょ、しょれは~……」

 

 弟からこのように迫られている緊張と、夢と現実が入り交ざる訳の判らない状況に智子は混乱で頭がどうにかなりそうで、やかんの沸騰音のような声しか出せない。

 智子が先程から必死に握り締めていた布団のカバーは今や手元でグシャグシャになってしまっている。

 

「これからは姉ちゃんとの約束、絶対に守ってくから……」

「とと、と、とも……」

 

 かつて幼い頃に交わされた約束の遵守を改めて誓ってみせた智貴は、脇に抱えていたペンギンを枕元に置いてみせると、意を決したかのように智子との距離を詰めてその両肩に手を乗せてくる。そうして更には互いの吐息がぶつかりあう距離まで顔を近づけてくる。

 

(ヒィィィィッ! ち、近い!)

「姉ちゃん、ずっと大好きだよ……」

「んむぅううんっ」

 

 二人の唇がその瞬間、重ね合わされる。

 幼い弟相手のキスとはケタが違う、とてもとても情熱的な、大人の男性へと変わりつつある成長期の少年から与えられたキスの感触は、僅かに残っていた智子の理性をいともたやすく粉砕してしまった。

 

 智子の体の中で形容しがたい何かが頭のてっぺんから爪先まで駆けていき、反射的に体がのけぞってしまうが、そんな彼女を逃すまいと智貴は姉の小さくて華奢な体をより深く抱きしめる。

 頭の中がんほぉ──っとなってふにゃふにゃになってしまった智子は、体が小刻みに震え出し、全くもって力が入らなくなってしまったようだ。

 

 いつまでも続くかのようなその甘い刺激に最早なすがままの智子は頭の片隅でボンヤリと考えを巡らせる。

 目の前にいる弟は果たして本当に自分が知る智貴なのであろうか。私の弟が、あの生意気でいけ好かない智貴がこんな事をしてくるなんて到底信じられない。姉相手にこんなにも積極的で情熱的で色気付いた事をしてみせるのはあの甘えん坊の「智くん」だけだ。

 

 ああ、やはりこれは夢だ。こんな事がある筈が無い。きっと自分は今もまだあの夢の中にいるのだ。そう自分に言いきかせなければそろそろ気絶でもしてしまいそうな智子であった。

 

 互いが成長した姿で再び交わされた姉弟のその誓いの儀式を、二人の枕元に座り込んでいる立会人と、部屋の隅の物言わぬ友人達が一同揃って見届けていたのだった。




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