もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(2)

オカエリ。

「あのー、ごめんくださぁーい!」

 

 盛んに呼びかけながら、琴美は先ほどから目の前の大きな扉をドアノッカーで叩き続けていた。今、琴美と智貴は件の古びた洋館の玄関前に立っている。ただならぬ雰囲気を放つ不気味な屋敷を前にその場を立ち去るべきか迷っていた琴美ではあったが、自分たちの上空でいよいよもって激しさを増してゆく雷鳴と、とうとう訪れてしまった本降りの雨には勝てず、呆然と屋敷を見やっていた智貴を促してそこへ立ち寄ることにしたのだ。

 警戒しつつも屋敷に近づいていった二人は、よくよく観察してみれば屋敷の窓から確かに人工的な明かりが漏れていることを見て取り、やはり誰かしら人が住んでいるのではないかと考えて家人を呼び出してみるが──

 

(誰もいないのかな?)

 

 いくら呼べども家人が玄関から顔を覗かせる気配は一向になく、それもあって琴美は再びこの屋敷に対する気味の悪さを募らせ始めていた。

 と、そんな連れ合いの様子を傍らで見ていた智貴が「ちょっといいですか?」と一言ことわりを入れてから、琴美に代わって扉の前に立つ。そうして扉の取っ手をひねり、そのまま奥に押し込んでみせた。

 

「あいてますよ、これ」

「あ、ホ、ホントだね……」

 

 智貴の言う通りあっさりと玄関扉がひらいたので、てっきりそれが施錠されているものと思い込んでいた琴美は拍子抜けした。先ほどの門といいこの玄関といい、普通に考えればなんとも無用心なものではあるのだが、ことこの瞬間においては逆にそのことがまるで自分たちの来訪を察知した屋敷があえてそうしているように思えてきて、琴美は背筋にゾクリとしたものを感じる。

 

「とりあえず入りましょうよ」

 

 住人の許しを得ず立ち入るのは琴美としても気が引けたが、しかし躊躇する様子のない智貴に促され、彼についていく形で恐る恐る屋敷へと足を踏み入れるのだった。

 *

「わぁー、凄いねここ」

 

 屋敷内の空間を目の当たりにした琴美は感嘆の声をあげた。建物の重厚な外観にたがわず内部の造りもそれに相応しいものだったようで、まるでヨーロッパ貴族の邸宅かと思わせる古風で荘厳な光景が広がっていたのだ。

 天井の巨大なシャンデリアによって照らし出される吹き抜け構造の広々とした玄関ホールには、奥に向かって伸びる二対の大きな階段が両脇に設けられており、それらは二階側の廊下を通して繋がる構造になっていた。ホールを見回せばレンガ造りの本格的な暖炉やその横に立つ厳めしい西洋甲冑なども見て取れ、床にまんべんなく敷き詰められたまっかな絨毯にも存分に金がかけられていることをうかがわせる。

 普通に生活している分にはまずお目にかかれないような高級住宅特有の様相を呈しているその場所を前に琴美は圧倒されてしまうことしきりであった。ここに向かう途中で屋敷の姿を遠目に認めた際、もしかすると資産家の別荘かなにかなのではないかと思っていたものだが、その推測は確かに当たっていたのかもしれない。

 

「すんません、誰かいませんかぁっ!」

 

 今一度家人を呼び出さんとして智貴が男性特有の太い声量で叫ぶと、それがホール一帯に残響する。すると彼の傍らに立つ琴美がたちまちうっとりとした表情になる。

 

(ああ、叫んでる智貴君の声もイイっ……!)

 

 智貴のもたらしたその逞しい響きに、琴美はまるでどこぞの人気声優の熱演を耳にしたファンのような反応を見せる。日頃からあまり大きな声を出さない智貴であったから、彼の存外に張りのある声を間近で聞くことのできた琴美はそれを噛み締めずにはいられなかった。その声で自分をドナってくれたりなんかしたらもっと良いのになぁ、などと妙なことまで考え出してしまう琴美の頭は、今この瞬間だけは確かに平和そのものであった。

 

「やっぱ誰もいないみたいですね」

「えっ? あ、うん、そ、そうだねー」

 

 しばらく辺りの様子をうかがっていた智貴ではあったが、屋敷の中からこうして直接的に呼びかけているにもかかわらず依然として誰も出てくる気配がないのを見て取り、傍らの琴美に声をかける。と、呼びかけられた琴美は我に返った様子で慌てて適当な相槌を打ってみせるのだった。

 

 ──ゴトリ

 

 今、どこかから物音が聞こえた。壁際に設置されている振り子時計の規則的な音を除けば不気味なほどに静まり返っていた屋敷内であったから、その物音は二人の耳にもよく届いた。

 

「智貴くん、今なんか聞こえたよね……?」

「ええ、たぶん二階のほうです」

 

 無人かと思われた屋敷ではあったが、ふいに鳴り響いたその物音に琴美たちは何者かがやはりここに住んでいるのでないかという推測を強める。そもそもこうして室内の照明が確かに灯っているのだから、家人が生活のためにライフラインをこの屋敷に引いていて、今実際にそれが利用されていることは確かなのであった。

 

(もしかして強盗かなにかだと思われてる……?)

 

 よくよく考えてみれば自分たちは今、不法侵入そのものをやってしまっている。この場の雰囲気に呑まれみずからこそが屋敷に迷い込んだ被害者のような気がしていた琴美であったが、仮にここに人が住んでいるのだとしたら、家人からすると自分たちは無断で家にあがり込んできた不届き者以外の何者でもないのだ。それ故に臆病なこの屋敷の主人は部屋のどこかで身を潜めてしまっているのではないだろうか。

 琴美としては実際にそうであってくれればありがたいと思ってしまう。屋敷の主に会った後でどうとでも謝り倒して誤解を解き、その上で自分たちの窮状を伝えて助力を乞えば良いのだから。

 

「あ……じゃあ、ちょっと行ってみよっか?」

 

 二階を指差す琴美が遠慮がちに提案すれば、智貴はそれに無言で頷く。

 土足で──それこそ雨に濡れた靴のままで人様の家の絨毯を越えていくのはなんともはばかられる二人であったから、できるだけ汚さないようにと前もって足元の泥落としを踏みしだいていくのだった。

 *

 ギシギシと軋む階段を踏みしめつつ、二階へあがってきた琴美たちが廊下を見回す。二階の廊下は左右に向かってそれぞれ一直線に伸びており、古めかしい造りのウォールランプが点々と奥の方まで続いているのが見える。屋敷の規模に見合ったそれなりの部屋数を有しているようで、いくつもの扉が壁に沿ってずらりと並ぶ様は、格式高い内装とあいまって中々に壮観だった。

 

「あっほら、あそこのドア、ちょっとあいてない?」

 

 琴美は右手の廊下の突き当たりにある、廊下の進行方向と向かい合う形で設けられたその扉が若干ひらいたままになっていることに気づいた。どこに居るともしれない家人ではあるが、ひとまず手始めにその部屋をあたってみるべく二人は長い廊下を歩きだす。

 白熱球がもたらす暖色系の光は廊下全体を照らし出してはいたが、しかしそれでいてねっとりとした薄暗さを感じさせるものがあった。ともすれば連れ立つお互いの顔すら不鮮明になってしまいそうなおぼつかなさがあり、そうした空間に身を置いているとあたかも奇妙な夢の中に迷い込んだような心地だ。

 

「俺があけます」

 

 やがて目当ての場所までやってきた琴美が扉に手をかけるが、すぐさま智貴に引き止められた。そうして連れ合いを下がらせた智貴が改めてドアノブを掴み、そっと手前に引いていく。キィ……と軋む扉が全開にされると、部屋の中はまっくらであった。廊下に灯された頼りない照明の光が部屋の中に差し込むが内部の様子はうかがい知れない。

 

「あのぅ、すみません……わ、私たち、ちょっと遭難しちゃった者なんですけど……」

 

 もしも屋敷の主かその家族が中に隠れているのなら怯えさせてはいけないと、ひとまず琴美が部屋の中に向かって声をかけるが、静まり返ったその空間から返事がくる気配はない。

 すると無言の智貴が部屋の中へと用心深く足を踏み入れていったので、琴美も彼の背中についていく。

 

(うっ……)

 

 その部屋はやけにカビ臭く埃っぽかったので、琴美はたまらず口元を押さえる。およそ人が使っているとは思えぬその部屋に果たして先ほどの物音の原因となった存在は潜んでいるのだろうか。

 

 ──バタン

「いや先輩、閉めなくていいですよ」

 

 琴美の後ろで部屋の扉がひとりでに閉まった。それに対し智貴が暗闇の中で声をかける。

 

「ち、違うの、今勝手に閉まったみたいで……!」

 

 どっかから風が入ってきてるのかなー、と憶測を口にする琴美ではあったが、いきなりの出来事に内心ではすっかり心臓が縮みあがっていた。慌てて扉をあけようとした琴美であったが、カチリと音が鳴って部屋の中にうっすらと明かりが灯されたことに気づく。どうやら室内の隅に置かれたスタンドライトの電源が入れられたようだった。

 

「あぁ、ありがと」

「……俺じゃないです」

「えっ」

 

 気を利かせてくれた智貴に礼を言う琴美であったが、智貴が言うにはこの照明が突然ついたということらしい。それを聞いた琴美の心臓がまたもや跳ねあがる。

 スタンドライトの朧げな光は部屋のすべてを照らしてはくれず、依然として周囲には暗闇がそこかしこに漂っていた。

 

「あー……や、やっぱり誰かいるのかなー……?」

 

 己の動揺を誤魔化すかのように、琴美が辺りをキョロキョロと見回してみせる。いっときは屋敷に家人の気配があるということで幾ばくかの安心を得てもいた琴美であったが、今しがた遭遇した気味の悪い現象のせいで再び恐怖が募っていく。

 と、その暗闇の中になにかを見つけたのか、智貴がふいに部屋の奥へと歩みを進めてしゃがみ込む。

 

「智貴くん、どうしたの?」

「いえ、なんか本が」

 

 琴美の問いかけに、しゃがんだままの智貴がそう答える。

 

「あ、ほんとだね……」

 

 智貴の前にはブランケットのようなものが被せられた背の低いテーブルがあり、その上には一冊の本らしきものが置かれているのが暗がりの中で目を凝らす琴美にも確かに見えた。だが次の瞬間、なにかを見て取った琴美の表情がただならぬ様子へと一変する。

 

「とととと、智貴くん! そそ、そこから離れてッ!」

 

 途端に声を裏返らせた琴美が、震えるその手で前方を指差し叫ぶ。しゃがみ込む智貴の目の前にいる存在に琴美は気づいてしまったのだ。

 

「うおぉっ!?」

 

 遅れて気づいた智貴が声をあげて飛び退く。二人の目の前にあったもの、それは椅子に腰かけてこちらを向いているミイラの姿であった。背の低いテーブルだと思っていたものも実際はそのミイラの下半身なのだった。

 

「嘘、なにあれ……ほ、本物?」

 

 智貴と共に部屋の入り口手前まで後ずさった琴美は、手前の智貴にすがりつきつつ、部屋の奥に居る異形の姿を改めて凝視する。照明に僅かに照らされている人型のそれはドクロを思わせるおぞましい干からびた顔をしており、紛れもなく人間のミイラであることを物語っていた。

 

「先輩、出ましょう」

 

 思いもかけず出くわした目の前のミイラを油断なく見据えていた智貴が、それから目を逸らさず背後の琴美にそっと語りかける。彼に促された琴美は小さく返事をするとドアノブに手をかけて扉をそっとあけつつ、智貴と共にそろりそろりと後ずさっていく。

 扉の小さな軋みと共に再び部屋の中に差し込んだ廊下の明かりによって、室内に佇む存在がより明確になる。どう見ても生きているとは思えない土気色の干からびきった肌と、顔面に並ぶふたつの大きな落ち窪んだ眼窩。これはやはりどう見ても人間がミイラ化した姿であった。頭から伸びているクシャクシャのもっさりとした長い白髪は、これがどうやら女性のものであるらしいことをうかがわせていた。大人と言うには些か小柄に過ぎるそのちんまりとした体格からすると小中学生ぐらいの女の子であったとも考えられるが、あるいは背の低い老婆だったのかもしれず、その朽ちた姿からはもともとの年齢はどうにもうかがい知れない。食いしばるようにして歯を剥き出しにしているその表情からは、今にも生きている者に対する怨嗟の声が聞こえてきそうな、なんともうらめしそうな様子が漂っている。

 

(やだ、やだ、やだ……)

 

 かねてよりこの屋敷に感じ続けていた恐怖心がここに来て琴美の中で一気に膨れあがった。こんなところに来るんじゃなかったと今更ながらに激しい後悔が湧きあがってくる。

 

(怖いよ、智貴くん……!)

 

 一刻も早くこの屋敷から逃げ出したくて堪らない琴美であったが、今確かにこの恐怖を共有しているであろう目の前の智貴がどこかへ行ってしまわないようにと先ほどから彼の服の裾をギュッと掴んで離さない。そのやや汗ばんだ衣服から仄かに感じられる智貴の香りだけが、心細さに消え入ってしまいそうな琴美の心を繋ぎ止めていた。

 

「くそっ、なんなんだよこの家……」

 

 抜き足差し足でその呪われた部屋からようやく出ることが叶った二人。知らず冷や汗をかいてしまっていたことに気づいた智貴は腕で首元を拭うと、軽く悪態をつきながらも一息ついた様子を見せる。

 

 ──キィコ、キィコ

 

 その瞬間、それまで物言わぬ置物同然であったはずのミイラが突然金属の軋む音を立てながら琴美たちのほうに向かって進んできたものだから、二人はその身を大きく震わせた。

 

「うおおぉぉ!」

「わああぁぁ!」

 

 自力で歩いているというのではない。車椅子の如くミイラがその座った椅子ごと前進しているのだ。あたかも部屋を立ち去ろうとした琴美たちを追いかけるかのように動き出したそのミイラの様子に叫び声をあげた二人は、長く伸びる廊下の中を脱兎の如く走り出した。と言っても中学・高校とサッカー部で鍛えていた智貴にしてはそのスピードは随分と遅く、彼本来の全力の走りとは程遠いものがあった。自分が本気で走れば間違いなく傍らで必死に走っている琴美を置きざりにしてしまう。こんなときでもそうした配慮を忘れることのない冷静さが彼にはあった。

 そんなこんなで階段まで辿り着いた二人は、勢いを保ったまま滑るようにそこを駆けおりていく。

 

「わわっ!」

 

 と、階段をおりる途中で琴美が慌てるあまり足を踏み外してしまい、盛大に転げ落ちていってしまう。

 

「いったぁ~……」

 

 打ちどころが良かったのか大事には至らなかったようだが、体のアチコチをしたたかに打ち据えてしまった琴美はその痛みに顔をしかめて体をさする。

 

「先輩、大丈夫か!?」

 

 まだ階段をおりている途中であった智貴が琴美の身を案じて声をかけてくる。

 

「あ、うん、だ、だいじょ……」

 

 そんな智貴に「大丈夫だよ」と返そうとした琴美であったが、その言葉を最後まで言い終わる前に口を噤んでしまう。突如屋敷の外で激しく鳴り響いた雷鳴を合図とするかのように、彼女たちが今居る玄関ホールの照明が唐突にフッと消えてしまったのだ。もしかすると落雷によって停電でも起こってしまったのだろうか。

 

(……ッ!)

 

 なにも見えない。まったく見えない。自分自身の目からの情報入力が一切途絶えてしまった。

 不安にかられて咄嗟に智貴の名を呼ぼうとする琴美であったが、己の心をも包み込んでしまった暗闇への恐怖がそれを邪魔する。このような特異な状況下において人間は闇に潜むなにかに自分の存在を気取られぬよう、声をあげることを本能的に恐れてしまう生き物なのだということを、琴美は今この瞬間にその身を持って知らされることとなる。それは智貴の方も同じなのか、おそらくは息を殺しているであろう彼が琴美に向かって呼びかける気配はいまだない。

 

(と、とにかく智貴くんのところへ……)

 

 前後左右も判らず、天地までもが危うくなって己の体が宙に浮いたような錯覚すら覚えてしまいそうなその暗闇の中で、痛む体を押して立ちあがった琴美は記憶を頼りに連れ合いの居た方向にあたりをつけてソロリソロリと慎重に足を踏み出す。

 と、前方の様子を探るようにして己の両手を前に突き出しながら歩いていた琴美の指先にふとなにかが当たった。なんだこりゃと、琴美はそれをペタペタ触って確かめる。

 

(え? 智貴くんなの……?)

 

 両手でひとしきり検分しているうちにそれがなんであるのかが琴美にも見当が付いてきた。これは人だ。人間の姿形をしたなにかが今確かに自分の目の前にいるのだと、彼女はそう結論付ける。それが本当に智貴なのであれば、どさくさに紛れてイケないところを触っても許されるかな、という破廉恥極まりない考えが浮かびそうなものであったが、手を通して伝わってくるひとつの感覚がそれをためらわせる。

 

(なにこれ、冷たい……っ)

 

 琴美の目の前に立つ何者かの体はまるで死人のように冷え切っており、血の通った人間の体とは到底思えなかったのだ。

 

 ──ンフッ、ンフフッ

 

 これは智貴などではない。そう気づいた琴美が手を引いて後ずさった瞬間、押し殺したような含み笑いと共にその何者かが目を見ひらいた。一切の光が断たれたはずの暗闇に浮かぶ双眼だけが、琴美を見据えて妖しく爛々と光る。

 途端、その視線に射すくめられたかのように体を硬直させた琴美は驚きのあまり呼吸すら止めてしまう。こんなものが人間であるはずがない。幽霊なのかなんなのか。暗闇に突如として現れたその怪異から、琴美は一瞬たりとも目を逸らせずにいた。

 

(……?)

 

 琴美はなぜかその目に見覚えがあった。いや、不思議なことにどこかしら馴染み深いものすら感じてしまった。普段自分が見知っている者の中にこういう目をした人物が居ただろうか? どこか引きこまれてしまいそうな深みを持った緑色の虹彩が、琴美の心の深い部分に根ざすなにかを想起させるのだ。

 

「先輩、そこか!?」

 

 と、ふいに近くから智貴の声が聞こえてきた途端、琴美を絡め取っていた目の前の気配が瞬時に霧散した。暗闇の中でようやく琴美の姿を発見したらしい智貴が、手に持つ懐中電灯の光を琴美のほうへ向けながら手すりを持って階段をおりてくる。

 暗闇の中で心細さに押し潰されそうだった琴美は、それまでの緊張から解放されたかのようにふぅーと息を吐きながらその場にへたり込んでしまう。

 

「大丈夫ですか?」

 

 そばまで歩み寄ってきた智貴が膝をつき、琴美のどこかくたびれた様子を気にして声をかける。

 

「あ、あのね、い、いますごいことがあって……」

 ──ニャオ~ン

 

 たった今自分が遭遇した奇怪な出来事を智貴に伝えるべく口をひらいた琴美であったが、それを遮るようにして彼女らのそばで突然鳴き声があがった。

 

「猫、か……?」

 

 咄嗟に立ちあがって鳴き声のしたほうを懐中電灯で照らした智貴は、一匹の猫がいることに気づく。するとその猫はとてとてと琴美たちのもとへ歩み寄ってきた。

 

「か、飼われてるのかな?」

「さあ」

 

 それは耳のてっぺんから尾の先っぽまで全身まっくろな毛並みの黒猫であった。やけに毛足の長いモッサリとしたその黒猫は智貴の足元まで近づくと、愛おしそうな様子で擦り寄ってみせる。

 

「懐っこいね、おいで」

 

 そんな黒猫の様子に幾分か安堵した琴美が、撫でてやろうと手を伸ばしたそのとき。

 

「痛っ!」

 

 途端、態度を豹変させたその黒猫が威嚇の声をあげると同時に琴美の指先を自身の鋭い爪で素早くひっかいてみせる。

 

(こ、このクソ猫……ッ!)

 

 不意打ちを喰らってしまった琴美のこめかみに血管が浮かびあがった。先ほどまでの恐怖の連続のせいですっかり縮みあがっていた琴美の心の中にポッと小さな怒りの炎が灯り、知らず拳に力がこもってしまう。

 オア~と唸って琴美と睨み合っていたその黒猫であったが、なにを思ったのか今度は突如として傍らの智貴の足に飛びついていく。

 

「うおっ、こいつっ!」

 

 そのまま彼のジーンズに爪を立ててバリバリと勢い良くのぼっていく黒猫。懐中電灯で片手が塞がっている智貴はそれをうまく振り払うことができず、とうとう猫は肩の上までのぼりきってしまった。途端、ゴロゴロと喉を鳴らして上機嫌な様子で尻尾をピンと立てた黒猫は、智貴の肩の上から勝ち誇ったかのように琴美を見おろしてくる。

 

(ムカつく! なんか知らんがこの猫はムカつく……!)

 

 なんとも冴えない目つきをしたその猫にまるで自分が馬鹿にされているように感じてしまった琴美は、智貴の肩に無理やり乗りあげたこの狼藉者をどうしてやろうかと考える。ともあれいつまでも見おろされているのは癪なので、床にへたり込んだままでいた琴美は立ちあがる。

 

「先輩、ちょっとこれ持って」

「え? あ、はい」

 

 と、そんな琴美へ懐中電灯をズイと差し出し預けてみせた智貴が、己の肩に乗っかる猫を鬱陶しそうに両手で掴んで引き剥がす。猫はぐねぐねと身をよじって抵抗したが、とうとう床へとほうり投げられてしまった。

 

 ──ミャオオッ!

 

 それが気に入らなかったのか、なにやら怒声をあげるかの如く大きく一鳴きしてみせた黒猫はそのままお尻を向けていずこかへ駆け出していく。そうして闇の中へと消え去っていくかに見えた猫であったが、最後に全身を一瞬だけ緑色に発光させたので琴美も智貴もギョッとさせられるのだった。

 

「……今、光りましたよね」

「う、うん……バ、バケネコ?」

 

 やはりこの屋敷は普通ではない。ミイラや幽霊だけでなく光る猫まで出てくる始末だ。この分では次にいったいなにと出くわしてしまうか判ったものではない。いけ好かない猫とのやりとりで少し心に活気を取り戻し始めていた琴美ではあったが、改めてこの場の異常性に脅威を覚えてしまう。

 

「あ、電気が……」

 

 停電からようやく回復したのか、琴美たちの居るホールが再びシャンデリアの放つ光で満たされる。

 

「先輩、もう行きましょう」

 

 琴美に預けておいた懐中電灯を受け取った智貴が、もうここに用はないとばかりに玄関へ近寄っていく。

 先ほどの黒猫のインパクトで印象が薄れてしまったが、自分たちは二階で出くわした動くミイラに驚いて屋敷から逃げ出そうとここまでやってきたのだ。そのことを思い出した琴美は階段を見あげるが、そこには自分たちを追いかけてきたはずのミイラの姿はなく、耳を澄ましてみてもあのキィキィ音はどこからも聞こえては来なかった。ともあれこんな気味が悪いどころではない異常極まる屋敷からは一刻も早く立ち去りたいと、智貴の後を追う琴美。

 

「あ、あかないの?」

 

 だが先ほどから玄関の取っ手をしきりにガチャガチャと引いていた智貴であったから、なにかおかしなことでもあったのかと琴美が問いかける。

 

「ええ、なんか鍵かかってるみたいで……」

 

 智貴の答えを聞いた琴美が試しに自分もあけてみようとするが、確かに扉は軋むばかりで二人を外に出そうとはしてくれない。扉には鍵穴らしきものが空いており、どうやら施錠されたそれは内側からあけるのにもキーが必要な面倒臭い造りになっているようだ。

 

「あれ? でもこれ鍵なんてかかってなかったはずだよね……?」

 

 果たしてそれは家人の仕業か、あるいは高級ホテルよろしくオートロック機構が仕込まれているとでもいうのか。しかしひとりでにドアが閉じたりスタンドライトが付いたりする屋敷である。不思議な力によって玄関扉がひらかなくなる程度のことは朝飯前なのかもしれない。

 

「窓から出ましょうか」

 

 ひとまず玄関からの脱出を見送った智貴は、ホール内に幾つかある人一人が十分出入りできそうな大きさの窓へと近寄り、今度はそれをあけようとしてみせる。

 

「先輩、ちょっと離れててください」

 

 しかし窓は嵌め殺しになっていたため、普通のやり方ではあける手段がないと判断した智貴は琴美に下がるよう言うと懐中電灯を構えた。その様子からして窓を破って強行突破を試みるつもりのようだ。手にした懐中電灯でコツコツと窓を軽く叩いてその強度を確かめていた智貴であったが、やがてそっと振り被ったかと思うと、ふんっと力を込めて懐中電灯を横殴りに叩きつける。

 が、割れない。屋敷の外から吹き付ける強風にガタガタと揺らされているそれは傍目には大した強度はないと思われたが、それなりの力で振りおろされた懐中電灯を力強く跳ね返してみせたのだ。そんな予想外の反応に一瞬戸惑った智貴であったが、力の加減を間違えたようだと改めて振り被り、手にしたもので再び窓を打ち据える。

 が、やはり割れない。さしもの智貴も呆気にとられてしまうが、今度は懐中電灯を逆手に持ち替えて柄の部分をガツンガツンと盛んに窓へ叩きつけていく。

 

「わ、割れないの?」

 

 その様子を後ろで見ていた琴美が智貴のただならぬ様子に声をかける。

 

「駄目です、全然手応えがありません……」

 

 やや息を切らせた智貴が琴美のほうを振り返り、困惑した様子で答える。

 

「あっほら、たぶん防弾ガラスとかじゃない? きっとそうだよ」

 

 大して強度もないように見える薄いガラスがあれだけ叩いても無傷であるなどそれ以外に考えられない。とはいえこんな山奥の古びた屋敷にそのような一級の防犯設備がわざわざ用いられているというのも妙な話であり、一方で玄関や門などの戸締りについては随分と気まぐれであったりするなど、どうにもちぐはぐだ。もっともそれは侵入者を誘い込んで逃がさないようにするためと考えれば納得がいくことではあるが。

 

「どうしよっか、他に出口とか……」

 

 ともあれ最早窓が割れない程度のことでは驚かない。それならそれで仕方がないと割り切った琴美は別の脱出方法を求めてホールを見回す。玄関だけが出入り口にあらず、これだけ広い屋敷であるからして裏口のひとつやふたつは探せばあるはずなのだ。

 

「ん?」

 

 ホール脇の暖炉を見やったところで琴美がはたと動きを止める。違和感を覚えたからだ。最初それがなんであるのかわからないでいたが、しばらく無言のまま考え込んでいた琴美はやがて違和感の正体に気づきたちまち表情を引きつらせる。

 

「と、智貴くん、ちょちょちょ、智貴くん……!」

「なんです?」

「あ、あれ、ほら、あそこ……!」

 

 手招きに応じて歩み寄ってきた智貴に琴美が暖炉の辺りをしきりに指差してみせた。

 

「あそこにあった鎧が……」

「!」

 

 いつのまにかなくなっている。暖炉の横に直立不動で構えていたはずの西洋甲冑が忽然と姿を消していることに琴美は気づいたのである。いったい彼はいずこに持ち去られたのだろうか。ひょっとすると鎧に意志が宿りみずからの足で歩きだしていったのだろうかと、そのような荒唐無稽な考えすら浮かぶ琴美であったが、この狂った屋敷の中ではそれも十分有り得る話ではあった。

 追ってくるミイラ。闇の中に浮かぶ目。憎たらしいバケネコに、まるで自分たちを閉じ込めるかのように閉ざされた玄関と窓。そして今度は知らぬまに消え去った鎧。これら奇怪な出来事の数々を改めて思い返した琴美は、本当にここから無事に出ることができるのだろうかと身の危険を感じ始めてしまう。

 まったくもってとんでもない場所へと足を踏み入れてしまったものだ。やはり最初にこの屋敷と出くわした際にとっとと立ち去るべきであったと、琴美の中に強い後悔の念が押し寄せる。

 

(ごめんね、ごめんね、私のせいで……!)

 

 自分がそもそも智貴を此度のデートに誘わなければ。色気を出して彼を天体観測に連れ出したりしなければ。今にも恐怖に押し潰されそうな琴美ではあったが、それ以上に自分のせいでこのような場所へと愛する青年をむざむざ連れてきてしまう羽目になったことがただただ申し訳なくて胸が潰れそうだった。




続く
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