もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(3)

琴美のしおりはピンク色

 ──ゴーン、ゴーン、ゴーン……

 

 静まり返ったホールに振り子時計の鐘が現在時刻の数だけ鳴り響く。その時報を信頼するのなら丁度午後八時であろうか。玄関側から脱出することを断念した琴美たちは今、それ以外の出口を求めてホール内を探索していた。

 

「あっ、これって……」

 

 と、階段の裏手を覗き込んだ琴美がなにかに気づいて呟く。

 

「ねえ智貴くん! 電話、あったよ」

 

 琴美は少し離れたところに居た智貴を呼び寄せる。彼女が見つけたもの、それは押しボタン式が主流となった今でも一部の家庭で使われ続けているような、古いタイプのダイヤル式黒電話であった。随分と埃が積もっていたそれは長らく使われていないであろうことをうかがわせたが、琴美は受話器に付く埃を手で払ってから耳に当ててみる。すると無機質なダイヤルトーンが聞こえてきたので、壊れてはいないことが確認できた。

 

「良かった、一応使えそうだよ」

 

 一旦受話器から耳を離した琴美が智貴にそう伝える。例えとうの昔に電話を止められていたとしても回線が通っているのであれば緊急電話をかける分には支障はないはずだ。

 先ほどはこの屋敷に閉じ込められてしまったかのような不安に襲われ一刻も早い脱出を望んでいた琴美であったが、このまま首尾良く外へ逃れ出たとしても今度はまた別の困難が待っていることに思い至っていた。琴美としてもこの気味の悪い屋敷にこれ以上留まり続けるつもりは毛頭ないが、すぐさまここを発って荒れ模様の天気の中で当てもなく下山なりヒッチハイクを試みるよりも、可能ならば事前に警察なりなんなりに連絡しておいてこの近辺まで迎えに来てもらうほうが良いのではないかと、そう考えたのだ。

 屋敷の正確な住所なぞ知る由もない琴美ではあったが、自分たちの車が暴走していた際に見かけた標識上の路線番号が手がかりになる。あのときは極度の集中から目に映るものすべてをスローモーションで捉えていた琴美であったから、幸いにも彼女はその標識の内容を一応記憶に留めていたのである。加えてこのような山中にある家など限られている訳であるから、自分たちは○○山の○○号線沿いにある洋館の辺りにいるとでも伝えればきっと救援に来てもらえるのではないかと期待してダイヤルに指をかけようとする。

 

「いや先輩……それ、線切れてますけど」

「えっ!?」

 

 琴美が使おうとしていた電話機に対して智貴がそのようなことを指摘する。まさかと思い琴美が確かめてみれば、電話機の背から垂れ下がっていた旧式の黒いケーブルは確かに途中でプツリと千切れてしまっていた。

 

(ホントだ……! いやでも、さっき確かに音が……)

 

 気味悪さのあまり琴美は手にしていた受話器を慌てて戻し後ずさってしまう。この手の電話というものは電話線から直接電源を取っているため、こうしてケーブルが繋がっていない以上は今しがた琴美が耳にしたような電子音は聞こえるはずがないのだ。まるでゾンビのような黒電話に不吉なものを感じた琴美は智貴を連れてこの場から離れたくなった。

 

 ──チリリリリリーン! チリリリリリーン!

 

 と、そんな琴美の心情を察したかのように突如として電話機がベルをけたたましく鳴らし始める。

 

「な、なんで!?」

 

 作動するはずのない電話がこうして自分たちの目の前で実際に騒ぎ出したものだから、琴美は目を白黒させてしまった。心をかき乱すような騒音がいやおうもなく二人の不安を募らせていく。

 

「……ちょっと取ってみます」

「え? で、でも……」

 

 延々と鳴り響くそれがヒステリーを起こした誰かの金切り声のように感じられてしまったのであろうか、堪りかねた様子の智貴は傍らの琴美に断りを入れると受話器を取り己の耳へそっとあてがう。

 

「もしもし」

 

 けたたましいベルが鳴り止んで辺りに静寂が戻る中、智貴が電話口の向こうに耳を澄ませる。

 

「……!」

 

 と、しばらく無言でいた智貴が急に驚いたような表情を見せた。そうして彼は受話器を離して傍らの琴美に顔を寄せる。

 

「声が聞こえます」

「ひゃ、ひゃいっ! そそ、そうなの?」

 

 智貴が耳元で囁くものだから、琴美は状況も忘れて彼の吐息が耳にかかる感触にその身を痺れさせずにはいられない。途端に心拍数を跳ねあがらせた琴美は自身の頬が熱くなってしまうのを感じる。きっと鏡で見ればそこにさぞかし紅が差していることだろうと思うのだった。

 そんな琴美に智貴が無言で受話器を差し出す。聞こえてくる声を確かめて欲しいという意思表示らしい。それにしおらしく頷いた琴美は興奮に打ち震える手で受話器を受け取ると、鼻息も荒いまま電話口でフスーフスーと呼吸音を立てつつ受話器に耳を傾ける。

 

(ほんとだ、なにか言ってる……!)

 

 確かに智貴の言う通り、環境ノイズの中に紛れるようにしてささやくような声が受話器の向こう側から聞こえてきたものだから、ただならぬ事態に琴美の顔から途端に熱が抜けていく。

 

「あの、もしもし?」

 

 ものは試しにと、琴美はひとまず電話口に立つ何者かに話しかけてみることにした。

 

「もしもし? ねえ、あなた誰?」

『……ん、たい』

「え?」

 

 途端、それまでか細かった声が急に声量を増したかと思うとそのように断片的な言葉が聞こえてきた。

 

「なに? 聞こえないんだけど」

『この、変態が』

 

「変態が」と、電話口の存在が確かにそう言い放つ。その声は低くくぐもったような、どこか老婆を思わせるしゃがれた声色ではあったが、同時に子供のような幼い響きをも含む不気味なものであった。

 

「はぁ? あんたなに言ってんだ?」

 

 まるで地の底から這い出てくるようなその声は聞く者の心を凍りつかせるには十分なおぞましさを放っていたが、顔も知らない相手から急に罵られて頭に血の昇った琴美は、怯えるよりも先に口をひらいて思わず強い口調で言い返してしまう。智貴と会話しているときとは打って変わって低く刺々しい声色へと変わった琴美であったが、このようなつっけんどんな態度もまた彼女という人間の一面なのだった。

 

『お前は、変態だろうが』

 

 まただ。変態、変態と、電話口の相手はそう言って琴美を再び罵ってくる。

 

(なんだこいつ……!?)

 

 てっきり呪いのメッセージ的なものでも聞こえてくるのだろうかと身構えていた琴美であったが、蓋をあけてみればまるで嫌がらせ電話同然の内容であったから、彼女は苛立ちを感じつつも拍子抜けしてしまう。

 

『この、ド変態野郎め』

 

 なおも己への罵倒を続けるその声を尻目に琴美は考え始める。このように幼稚なイタズラ電話をかけてきた電話口の存在は、もしかすると自分たちと同じ生きた人間なのではないかと、そのように思えてきたのだ。

 

『変態、変態、変態、変態……』

 

 そうなるとこれまで自分たちが屋敷で遭遇した数々の怪異も、実際はこの電話の先で延々と口からクソを垂れ続けるクソなクソ野郎のクソ仕業だったのかもしれない。そんなクソクソクソなド低能クソイタズラに自分たちは嵌められたのではないだろうか。であるのならば、このクソ屋敷のどこかに潜んでニタリとほくそ笑んでいるクソムシ家主を引きずり出して胸ぐらを掴んでやりたい気分の琴美であった。

 

「てめー、いい加減に……!」

 

 こちらが黙っていれば言いたい放題のその罵倒に我慢ならなくなった琴美が口をひらこうとした途端、反論は受け付けないと言わんばかりにブツリと電話が切られてしまう。そのままツーツー音が聞こえてくるかと思ったが、それ以降受話器は電源が通っていないかのようにウンともスンとも言わなくなってしまった。

 振りあげた拳をおろす直前で相手に逃げられてしまった琴美はやり場のない怒りに身を震わせるが、やがてふぅと溜息をつくと手にしていた受話器を戻す。

 

「なんなんだよ、ったく……」

「どうでした?」

 

 些か気疲れしてしまった琴美に智貴がそう尋ねる。一触即発であった今しがたの琴美の様子から、なにか相手から妙なことでも言われたのだろうかと気にしているようだ。

 

「え? あ、な、なんかね、ワケ判んないこと言われちゃって……」

 

 先ほどの低い声色から一転してそのトーンを何倍にも引きあげた琴美が答えるが、具体的になにを言われたのかについてはあえてボヤかしてみせる。

 

「そ、それよりさ、今電話かけてきた人、これ絶対この家の人だと思うなー。やっぱ誰かどっかに隠れてるんじゃないかな?」

 

 取り繕うようにして話題を逸らした琴美は自身が感じていたその疑惑を口にする。この屋敷に潜むイタズラ好きな家主が自分たちのような訪問者を陥れて悦に浸っているのだと琴美は主張したいのだ。

 しかしそう言いながらも琴美は先ほどまでの奇妙な電話の内容を思い出してしまう。電話口の存在は確かに自分に対して「変態」と言ったのだ。それはもうしつこいほどに。確かにアブノーマルな性的嗜好について自分が多少なりとも興味を持っていることを自覚している琴美としては心当たりがないでもないのだが、なぜそれを見ず知らずの相手からいきなり指摘されてしまったのだろうかと、それがどうにも引っかかってしまう。

 愛する傍らの青年に対して時折行き過ぎた情欲を催してしまうことがないでもないが、それにしたって琴美としては態度に出てしまわないよう心の内に秘めたままにしているつもりだった。自分の頭の中を覗かれでもしない限りは、琴美が抱く身悶えせんばかりの智貴への不道徳な情熱は誰も与り知らぬはずのことであった。

 

「あの……」

 

 と、急に物思いに耽ってしまった様子の琴美に対して智貴がふいに語りかける。

 

「えっ? な、なに?」

「さっきのミイラのこと、もう一度確かめに行きませんか?」

 

 智貴が突拍子もないことを提案したものだから、ギョッとした琴美が目をしばたたかせる。ついさっき例のミイラからほうほうのていで逃げてきたばかりだというのにいったいどういうつもりなのだろうか。

 

「えっと、ど、どうしてかな?」

 

 かわいいかわいい智貴からの提案にノーと答えてしまうなどもってのほかであると心情的には思ってしまう琴美であったが、いま自分たちを取り巻く状況を考えればそのような迂闊な行動は避けるべきであったから、ひとまず智貴の真意を尋ねてみる。

 

「いえ、なんかちょっと気になるんで……ダメ、ですかね?」

 

 しかし智貴の答えはなんとも歯切れが悪かった。彼自身もそのような理由で琴美が納得するとは思っていないのか、どこか遠慮がちなのが見て取れる。

 智貴自身にも理由は判らないがなぜかアレが気になってしまうということのようだ。いったいあのミイラのなにが彼にそこまで興味を抱かせるのかと訝しむ琴美は、智貴の提案に反対するべきか迷う。が、理由は判らずとも智貴のほうから頼み込むようにしてまであそこへ戻ってみたいというのであれば自分は黙ってそれについていってあげたいと、琴美はそう思い直した。

 

「そっか、じゃあ行ってみよっか?」

「すみません」

 

 己の予想に反して物分りの良い反応を見せた琴美に、智貴は安堵しつつ頭を下げる。

 

「あっ、いいのいいの! 私もちょっと気になってたし……」

 

 謝意を示す智貴に慌てて言葉をかけてやる琴美。この屋敷を怖れる一方で屋主への怒りが燻り続けてもいた琴美であったから、できることならその正体を暴いてやりたいという気持ちがなくはなかった。この際ミイラ以外にも気になる点があれば調べてやろう。ひょっとしたら今度こそ隠れ潜む家主の居所をつかめるかもしれない。

 しかしあのミイラが再び襲いかかってくるのであれば身を守る物が必要だ。武器になりそうなものがないかと辺りを見回す琴美であったが生憎手頃なものが見当たらなかったため、仕方なく電話台に仕舞われていた分厚い電話帳を手に取る。こんなものでも鈍器代わりにはなるだろうと思ってのことだ。表紙を見れば電話帳の有効期間は八八年までとなっており、長いあいだ更新されていないことがうかがえる。

 

(来るなら来てみろ、クソミイラめ!)

 

 もう怖がってばかりいられるものかと、幾許かの闘志を胸に宿した琴美の体に力がこもる。あのミイラにしたってどうせリモコンかなにかで動かしていたに違いない。説明のつかない怪奇現象は他にもあるけれど、きっとそれらもなにかカラクリがあるのかもしれないと、琴美は自分にそう言い聞かせた。

 

(つーかどうやってかけてきたんだコレ?)

 

 ふと気になってしまい、すっかり沈黙した電話機を本体ごと持ちあげてみた琴美であったが、やはり千切れたケーブル以外に特に線らしきものは繋がっていないようだ。

 

(無線とか、そういうのなのかな……?)

 

 そのカラクリがサッパリ判らない琴美ではあったが、考えても仕方がないとひとまず気持ちを切り替える。そうして二人は再びあの変死体が潜んでいた部屋へと足を運ぶことになった。

 

 ◆

 

 家主の仕業なのか、琴美らが飛び出していった際は確かにあけ放たれていたはずの扉が閉じられていた。そうした扉を再びひらき、懐中電灯で照らしながら智貴がミイラ部屋の内部を確認する。

 

「い、いないね、ミイラ」

「そうですね……」

 

 部屋の隅のスタンドライトは点灯したままだが、先ほどまでこの部屋に居たはずのあの呪わしいミイラの姿が見当たらなくなっていた。部屋の主照明らしきスイッチを探し当てた琴美がそれを押してみたところ、天井の照明が室内全体を照らし出す。しかしどこを見ても部屋の中はやはり無人のままであった。

 車椅子でひとりでに移動するようなミイラである。とっくに部屋を出ていき今はどこか別の場所で再び琴美たちを驚かさんと潜んでいるのかもしれない。

 

「あ、これ……」

 

 そう言って室内の丸テーブルに歩み寄る琴美。テーブルの上には赤いフェルトカバー仕立ての本が置かれていたのだ。これは最初にこの部屋に入った際に智貴が発見した、ミイラの膝に乗せられていたあの本ではなかろうか。その表紙には特にタイトルらしきものが書かれていないことからしてノートかなにかの類ではないかと思われた。手にしていた電話帳を一旦机に置いた琴美が興味深げに本をひらいてページをめくっていると、智貴もそれを覗き込む。

 

「日記ですか?」

「う、うん、そうみたい」

 

 手書きの鉛筆文字で日々の出来事らしき内容が書き連ねられているそれは確かに日記帳に違いなかった。

 

「あのミイラが書いてたのかな?」

 

 これはミイラとなった人物が生前書き残したものではあるまいか。そのような推測を口にした琴美であったが、いやいやあのミイラは自分たちを驚かせるためのただの作り物に違いないのだと考え直す。ともあれもっと詳しく読んでみようと思った琴美はその日記帳を持ちあげてみるが──

 

「うわぁっ!」

 

 日記を持ちあげた途端にヌルリとした感触を覚えた琴美が、驚くあまりそれを床に取り落としてしまう。

 

「……?」

「あ、だ、大丈夫……なんか裏側がヌルってしてて……」

 

 琴美が突然叫んでしまったものだから、智貴はなにがあったのかと言いたげな視線を送る。そんな彼に大したことではないのだと言いつつも、妙なものを触ってしまったその手を確かめた琴美はたちまち息を呑む。

 

「これ、ち、血が……!」

「!?」

 

 掲げられた琴美の手のひらには赤黒い血液のようなものがべったりと付いていたものだから、それを見た智貴が目を見張る。

 

(もおぉぉぉ……っ!)

 

 慌てて手近なベッドシーツでその血を拭おうとする琴美。途端、ぶわっとシーツに積もっていた埃が舞いあがったものだから、琴美は鼻のむずがゆさに顔をしかめながらも手にこびり付いた気持ちの悪いヌメりを拭き取っていく。

 

(手の込んだ嫌がらせしやがって、くそっ……!)

 

 家主許すまじ。琴美としてもいい加減この手のドッキリイベントに慣れ始めてきたのか、気味の悪さを感じる以上に腹立たしい気分にすらなってしまう。

 

 ──ミャオ~ン

(またこいつか……)

 

 と、あけっぱなしにしていた扉から入ってきたのか、己の存在を知らせるかのように猫撫で声をあげつつあの黒猫が再び姿を現した。暗闇でピカリと光る不思議な毛並みの持ち主ではあるが、ただそれだけの毛長猫に琴美も今更怯えたりはしない。

 

「くんなくんな」

 

 足元へと近寄ってきた猫がまたもや飛びつきたそうにしているのを察した智貴が、しっしっと追い払うような仕草をしてみせる。そんな彼の対応が癪に障ったのか、猫はご機嫌ナナメな様子でウ~ムと口ごもるとホウキのようなフサフサ尻尾を苛立たしげに揺らし始める。

 

「あんたのご主人はどこにいるの? 呼んできてよ」

 

 この奇怪な仕掛けだらけの屋敷に潜む趣味の悪い主人にいい加減文句のひとつでも言ってやりたい気分の琴美は、猫を見おろしてなんとはなしにそう問いかける。途端、それを聞いた猫は琴美に対して低く唸り出し、毛を逆立てつつ琴美から距離を取る。相変わらずこちらのことは嫌っているのであろうか、無駄にオーバーなリアクションで敵意を示してみせるその猫の様子に、やはりコイツのことは好きになれないと思う琴美であった。

 すると猫が突然なにを思ったのか、急に駆け出してンゴゴのニャゴゴと興奮気味に喚きながら部屋の中のベッドやら机やらに飛び乗ったりして走り回る。

 

「わっ、ちょっ、もう!」

 

 暴れ出した猫のせいで室内に積もっていた埃がもうもうと舞いあがり、琴美たちは堪らず手で口元を覆う。やがて棚の上に置かれていた花瓶を猫が蹴飛ばしたものだから、そのまま床に落ちて割れてしまった。

 やりたい放題の猫は散々部屋で暴れ回った後、うおォン!と唸ってそのまま部屋の入り口から廊下のほうへと勢い良く走り去ってしまった。

 

「なにやってんだあの猫……」

 

 そうボヤいた智貴は小さな溜息をつくと、面倒臭そうにしつつも猫の粗相の後始末をすべく床に座り込み、割れた花瓶の破片を拾い集める。

 だが琴美のほうはそうした智貴の行動を奇妙に思ってしまう。今はこの屋敷の主に気を使うような状況でもないはずなのになぜわざわざ片付けをしてやるのだろうかと、そう感じたからだ。しかし常日頃からなにかと気配りのできる彼のこと、おそらくは身に染みた性分からついそうしてしまったのだろうと琴美は思い直す。

 

「……この花」

 

 と、床に散乱していた花を拾いあげた智貴がなにかに気づいたように手を止めてしまう。彼が手にしているのはあの弟切草なのであった。傍らで琴美もそれを覗き込むが、まだ鮮やかな黄色を花弁に宿すそれはつい最近摘み取ってきたばかりのものであるように思えた。

 

「あっ……!」

 

 ふいに琴美がなにか思い出したかのように小さく声をあげる。

 

「なんです?」

「あ、いや、どうでも良いことなんだけどね、それの花言葉、なんとなく思い出しちゃって」

「教えてもらっていいですか?」

 

 ドライブ中、かの野花について蘊蓄(うんちく)を披露していた琴美であったが、その花言葉についてはデートの雰囲気を壊しかねないからと言及を控えていた。しかしやけにこの花について関心を持つ智貴であったから、琴美は彼の求めに応じてやろうと口をひらく。

 

「えと、弟切草の花言葉の中に〈恨み〉とか〈復讐〉っていうのがあって……」

 

 言いかけてから琴美が急に口をつぐむ。自分で言っておきながらその言葉の物騒な響きにたちまち身を固くしたからだ。事ここに至り、琴美は無数の弟切草に囲まれたこの奇怪な屋敷と件の花言葉とを結びつけずにはいられなかった。自分たちはこの場所に足を踏み入れたその瞬間からずっと何者かの怨念めいた感情に囲まれているのではないかと、そのようにすら思えてしまう。

 

「智貴くん、やっぱりもうこの家にいちゃいけないよ。行こ?」

 

 もしも花瓶に生けられていた弟切草が家主からの自分たちに向けたメッセージだとしたらどうだろうか。この屋敷の主が単なるイタズラ好きの人間であればまだ良い。しかし仮に常軌を逸した異常者であったなら、このまま屋敷に留まり続ければ次はなにをしてくるか判らない。屋敷に踏み込んだ者へ見境なしに敵意を剥き出しにし、危害を加えてくることすらあり得るのではないか。

 

「そうですね……付き合わせちまってすみません、行きましょうか」

 

 琴美のただならぬ様子に智貴が片付けをやめて立ちあがる。気になっていたミイラが居ない以上、彼としても最早留まる理由などなかった。無駄骨を折りはしたがもうこの場に用はないと、調査を切りあげ部屋を後にするのだった。

 *

(うわっ、気持ち悪……)

 

 先ほどまでは周囲を観察する余裕がなかったので気が付かなかったが、ミイラ部屋から伸びる長い廊下を智貴と歩いていた琴美は、壁に沿って幾つも並んでいる扉の中になんとも気味の悪いまっくろな扉があることに気づいた。その黒い扉の端々には外側から幾つもの板が釘で打ちつけられており、あけることができないようにされていたのだ。

 

 ──アッオ~ン、アッアッオ~ン

 

 だがそんな開かずの間の中から、これみよがしにあの黒猫の悩ましげな声が聞こえてくる。いったいどうやって入ったのだろうかと思わなくもない琴美であったが、おおかた隣の部屋と繋がる抜け穴でもあるのだろうと己を納得させる。

 まるで「ウッフ~ン」とベタな台詞でも付きそうな、どうにも癪に障るその甘ったるい鳴き声がなぜだか智貴に向けて放たれているようにも聞こえてしまったものだから、その声にギョッとして振り返った智貴に焦りを感じた琴美は「気にしない気にしない」と、歩みを止めないよう彼を促し扉の前を素通りしていくのだった。

 それにしても部屋数の多い屋敷である。階段を挟んだ反対側へも伸びている廊下に目を向ければ、やはり扉がずらり並んでいるのが目に映る。こうして見ている分にはまるでどこぞの宿泊施設さながらであるその光景を前にして、なにやら琴美の中で妙な考えが頭をもたげ始めた。

 

(なんかこれって()()()みたい……!)

 

 琴美の言うホテルとは一般的な意味でのホテルではなく、つまりアッチのほうのホテルであった。そのような場所へ実際に足を運んだ経験などあろうはずもない琴美ではあったが、もしかするとかの不夜城の内部はこんな感じなのだろうかと考えてしまったのだ。

 

(智貴くんとロッテ戦の帰りに、ホテルで休憩……!)

 

 もしも今自分がそのような場所で傍らの智貴とこうして並び歩いているとしたらどうだろうか? そのような背徳的シチュエーションを想起してしまった琴美は自らの思考に頭がクラクラしてしまいそうになる。

 前年にバブルが崩壊したと言えどまだまだ好景気の余韻が残る日本では、こんな郊外の山奥にその手の施設がデンと構えて営業していたとしてもなんら珍しくはないのであった。さしずめここはホテル弟切草館とでもいうべきか。ならば自分はベッドネーム・コミィ*1を名乗り今すぐにでも意中の相手とゆっくりたっぷりじっくりのんびり心ゆくまで浴びるように延長戦ギリギリまで燃え尽きるほど休憩タイムを満喫していきたいものだ。ダブルヘッダー*2なんのその、さる八八年十月一九日に川崎球場でおこなわれたロッテ対近鉄の記録的な二連戦に匹敵する長丁場はまさしく望むところであった。

 自分たちの今置かれている状況も弁えず、降って湧いたそのような淫らな妄想に浸る己を止めることができない琴美であったが、もしも本当にこの屋敷が愛の営みを応援するその手の善良な施設であればどんなに良かったかと、ままならない現実に悔し涙すら出そうになる。

 

(いやいやいや、智貴くんはまだ未成年だぞ……! なに考えてんだ私っ)

 

 既に成人済みの琴美ではあったが傍らの智貴がいまだ十代であることを思い出し、慌ててそうした色情の念を払おうと頭を振る。

 

(いやでも、男の人って十八になったら結婚とかできちゃう訳だし……いいのか? 別にいいのか!?)

 

 であるのならば今年十九歳となる智貴が相手なら特に問題ないはずだと期待し始めた琴美は、はて青少年保護条例の適用年齢は何歳までであっただろうかと歩みを進めつつ考え込んでしまうのだった。あるいはそれはこの異常な屋敷の中にあって自身の心を落ち着かせようとする琴美なりの心の働きであったのかもしれないが、ともあれ彼女の顔は今や真剣そのものなのであった。

 脳内がピンク色に染まった琴美とそれに気づかぬ智貴が二人一緒に階段をおりていく中、アッオォォ~~~~ンとバケネコの切ない鳴き声が廊下に響き渡っていた。

*1
チェックイン時に使う偽名

*2
プロ野球において、同一カードの試合を同じ球場にて同日に二試合開催すること。




続く
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