件の悲鳴が聞こえてくる方角に向けて屋敷の中を慎重に進んでいた琴美たちは、やがて食堂から繋がる廊下の突き当たりに行き着いた。そこには鉄製の錆びついた扉が立ちはだかっており、扉の向こう側からは先ほどよりもより明確な音量であの悲鳴が響いてくることからして、その発信源は近いと思われた。
「じゃあ、あけますんで」
なにが飛び出してくるか判らないからと、琴美を下がらせた智貴が音を立てないようドアノブをゆっくり回してから扉をそっとひらいてみる。
「わっ……!」
たちまち生温い雨風が廊下へビュウと流れ込んできたので琴美は小さく声をあげてしまった。その吹き付ける強風で押されそうになる扉を体で押し留めた智貴は、扉の隙間から向こう側の様子をうかがう。
「裏口みたいですね、ここ」
「ほんとだ……」
自身も扉に近寄ってその隙間からあちらの様子を覗き込んだ琴美は、己の顔に雨混じりの外気が強く吹き付けてくるのを感じる。
「良かったね、ここから出れそうだよ」
悲鳴の発生源を探っていたら意図せずして屋敷からの脱出口が見つかったので、琴美の顔に明るいものが浮かぶ。外は大雨に強風の合わせ技で、おまけに時折落雷まであるという悪天候ぶりではあったが、それでもこんな場所に居るよりはマシであろうと早くも琴美はこれからどうやって下山したものかと算段を始める。
(トランクにカバーとかあったし、あれなら合羽の代わりになるかも……)
大破した自身の車ではあったが、その後部トランクには車を覆うためのカバーが積まれていたことを思い出した琴美は、それが道中でこの雨風を凌ぐために役立つかもしれないと考える。ボンネットからの発火により炎に包まれてしまった車ではあるが、流石にこの大雨の中では既に鎮火していると考えられるので、後はカバーが火の手を免れて無事であることを祈るばかりだ。
またあの森へと入っていき、どこをどう通ってきたかもわからない道を引き返して車を探すというのも骨の折れる話ではあったが。
──キャァァァァ!
(うわっ……!)
扉の隙間から吹きすさぶ雨風に乗ってまた例の悲鳴が聞こえてきた。今度は遮蔽物を挟まない分、その悲壮な叫びがハッキリと琴美たちの鼓膜を震わせる。
「いますね、この先に」
「う、うん……すっごい叫んでるね」
声の方向からして悲鳴の発信源はこの裏口から広がる庭の奥のほうであることは疑いようがない。自分たちがここからもしそちらへと赴けば、きっとそれと鉢合わせすることになるだろう。
「誰かあっちのほうで襲われてたりして……?」
まるで助けを求めているかのようなその叫びに、琴美は自分たちと同じような遭難者がこの狂った屋敷の主人に捕えられた結果、絶叫せざるを得ないような残酷な仕打ちを受けている様を想像してしまう。
今日は自分たち以外にも流星を見物するつもりでいる人々がこの山の付近には幾人も訪れているはずだ。そのうちの誰かが自分たちと同じように道を間違えた末ここに迷い込んでしまったということはないだろうか? そんな突拍子もない琴美の疑念ではあったが、現にこうして悲痛な叫びが繰り返し聞こえてくる以上、そこに誰かが居てこの嵐の中で恐怖しているらしいことは確かなのだ。庭先に広がる暗闇が琴美の不安を掻き立てて次々にあらぬことを考えさせてしまう。
(助けに行ってあげたほうがいいのかな……)
だがそもそも自分たちはこの屋敷から脱出して逃げおおせることが目的なのだ。下手に悲鳴の発せられている現場に赴いてそこで危険ななにかと出くわしでもしたら、自分たちの身にまで害が及ぶかもしれない。そうした可能性が万が一にもあるのであれば、そのようなところに智貴を行かせたくはないというのが琴美の本音であった。
(チェーンソーとか持ってる奴が居たら敵わないし……)
人里離れた屋敷に住む殺人鬼一家が来訪者を捕らえて次々と血祭りにあげていくという、一昔以上前に話題になった映画*1のことを思い出してしまった琴美の背筋に悪寒が走る。
ひとまずここは自分たちだけでも先に脱出して、まだ見ぬ憐れな被害者については山をおりた後ですぐ警察に通報して助けに向かってもらうようにするのが良いのではないか。きっとそうしたほうが良いに違いないと、琴美は罪悪感に胸を締め付けられつつも己を納得させる。
「あ、あのさ、智貴くん。とりあえず今は……」
声のする方向には向かわず一旦裏口から出て玄関の方まで回り込み、そのまま門から出て行こう。そう言おうとした琴美であったが、
「俺、ちょっと見て来ます」
「ええーっ!?」
後から口をひらいた智貴にそれを遮られてしまう。
悲鳴が聞こえてくるほうをじっと睨みつけていた智貴の、意を決したようなその言葉に琴美は声を裏返らせた。
「俺だけじゃどうにもできないかもしれないけど、でもこのまま見捨ててったらマジでヤバそうじゃないですか?」
「そ、それはそうだけど……」
智貴としても琴美が言いたいことなど重々承知の上であったが、彼女が目を背けようとした可能性をあえて指摘する。自分たちが山をおりて警察を呼んだとしても、この分ではそのあいだに被害者はどうにかされてしまうかもしれない。助けるならば今しかないのだと、智貴の目はそう訴えていた。
「先輩はここで待っててください。もしなにかあったら大声で呼んでくれたらすぐ戻ってきますんで」
見捨てていこうとした己と違い、危険を顧みず人を助けようとする智貴のその心意気に眩しさを感じずにはいられない琴美ではあったが、それでも今だけは彼の無謀な善性の輝きがもどかしい。
「一人じゃダメ! 私も一緒に行くから!」
こんなところに置いていかれるのは心細くて堪らないし、それ以上に彼を一人っきりにさせてしまうのが心配でならない琴美は、自分も一緒に付いていくと主張する。智貴に対しては日頃からむやみやたらに遠慮がちな彼女ではあったが、このときばかりは真っ向から彼の言葉に反対してみせるのだった。
そんな琴美の想いを汲んだのか、しばし黙り込んでいた智貴はやがて琴美の目を見つめながら頷いた。了解したとの彼なりの意思表示だと琴美は理解する。
(あっ、これ「目と目で通じ合ってる」ってやつだ……!)
智貴とアイコンタクトを交わすなど初体験の琴美は、彼のそのきりっとした瞳に見つめられて舞いあがった。
智貴と一緒ならきっとどんなことも怖くない。先ほどのマジカルミネラルウォーターのお陰ですっかり活力を取り戻していた琴美の瞳にはいまや、愛する男性を屋敷の脅威から護衛せんとする気概すら浮かびあがっていた。そうして決意を固めた琴美は、その辺に立てかけられていたデッキブラシを手に取り護身具代わりとする。どうやら懐に収めた三種の神器はいざというときのために温存し、あわよくばお持ち帰りするつもりらしい。
扉を抑えていた智貴が後ろに半歩下がり、扉が風圧によってひらいていくに任せると、ひらききった出入り口から益々雨風が侵入してくる。そうした逆風を押しのけるように二人が足を踏み出せば、屋敷を取り囲む森が強風に煽られ轟々と唸りをあげているのが聞こえてくる。
(うわぁ、びしょ濡れだよもう……)
懐中電灯の明かりを頼りにしてぐしょぐしょにぬかるんだ庭の中を智貴と共に歩いていく琴美であったが、その全身は早くもシャワーを浴びせられたかのように濡れそぼってしまう。眼鏡に付いた水滴のせいで視界もおぼつかないものだから、たまらず琴美は前を歩く智貴の上着を掴んでその後ろを付いていくのだった。
(これって……)
少しして夜目が利くようになってきた琴美は、庭の中にトタン張りの小屋が建っていることに気づく。それは物置小屋の類であろうか、はたまた──
(ガレージとか?)
このような山中の屋敷であるからして、交通手段として車のひとつも置いていないはずはない。できることならそうした車を奪ってでも帰りたい琴美ではあったが、よしんば車があったとしてもそれに都合良くキーが挿さったままになっていることなど期待できそうになかった。
(あっ、でも確か……)
しかし琴美は、先ほど自分たちが居た裏口の手前で目にした壁かけ式のボードのことを思い出す。そこには部屋数の多いこの屋敷で使われていると思しき鍵が名札付きで幾つもぶら下げられていたのだが、ひょっとするとあそこに車のキーなんかもあるのではないかと考えてしまう。
(どうしよう、後で戻ってみようかな……?)
迷った琴美が歩みを進めつつも背後の屋敷を振り返ると、レンズに付いた水滴の合間からあの屋敷の不気味な威容が目に映る。窓から明かりが漏れている二階の部屋はあのミイラが潜んでいた場所であると思われたが、それ以外の部屋はさっぱり電気が付いている気配がないようだ。そもそも屋敷を初めて目の当たりにした際は家屋自体が不気味な仄明るい光を放っていたはずであったが、今はそれが嘘のように古びた外観を闇夜にうっすらと浮かびあがらせるだけになっていた。
琴美がふと辺りを見回せば、庭のそこかしこに群生している弟切草たちもいつのまにやら発光しなくなっているのが見て取れた。果たしてあのとき自分たちが見た光景は現実だったのだろうかと、琴美は今更ながらに疑問に思ってしまう。およそ人為的に引き起こすことができなそうなあの超常的な光景を思い起こしていた琴美の脳裏に、停電の際に己の前に現れた例のゾッとするような冷たい瞳が浮かびあがる。
(あれ、結局なんだったんだろう……)
家主の度を越した悪戯の一環であったとしても、取り分け気味の悪さを感じさせたあの体験が琴美の中にしこりを残す。あれにもなにか仕掛けがあったのだろうと疑いつつも、まるで幽霊そのものと出くわしたとしか思えない琴美ではあったが、それはともかくどうにも気がかりな点があった。
(あの目、誰かに似てた気がするんだよなぁ)
果たしてそれがいったい誰であるのか、今一歩のところで思い出せないでいた琴美はもどかしさを感じてしまう。
──キャァァァァ!
「ひええっ!」
今正に自分たちの目の前で聞こえてきたその絶叫に、心ここにあらずであった琴美は思わず自身も悲鳴をあげてしまった。智貴がすかさず声のした方向に懐中電灯を向けてその正体を確かめようとする。
──キャァァァァ! キャァァァァ!
「……ああ、これだったのか」
連続する悲鳴が辺りに響く中、智貴はほっとした様子を見せる。そんな彼の言葉に、背後でデッキブラシを握りしめていた琴美が恐る恐る顔を覗かせて前方を確認する。
「ええー……」
それを見た琴美の体から途端に緊張感が抜けていく。悲鳴をあげていたものの正体、それはこの強風に煽られてバタバタと開閉しながら軋む音を立てていたガラス戸なのだった。温室かなにかだろうか、内部に数多の植物らしきものを茂らせているらしいガラス張りの小屋が裏庭のつきあたりに建てられていたようだ。
──キャッキャーッ! キャキャッ、キャー!
(キャアキャアうっせーんだよ! 割るぞ!)
引っかかった引っかかったと、まるで琴美を嘲笑うかのようにリズミカルな音を立てるそのガラス戸を睨み付ける琴美。こんなものに自分たちは振り回されていたのかと拍子抜けする一方でムカムカした衝動が込みあげてくるが、ともあれ危惧していたようなことはないのだと判っただけでも良しとする。
──キャァァ……
風に煽られ続けていたガラス戸はとうとう弾みで完全に閉じられてしまったようで、最後に小さくひと鳴きするとそれきり動きを止めて沈黙してしまった。
「ねえ智貴くん、ちょっと裏口まで戻っていいかな? 確かめたいことがあるんだけど……」
ひとまず屋敷を去る前に車のキーがないかだけでも確認していこうと思った琴美はふぅと一息つくと、己の手前でずっとガラス戸に明かりを向けたままでいる智貴にそう語りかけた。
「……」
が、智貴はそれに返事をしようとせず、ただただ目の前のガラス戸を食い入るように見つめるばかりだ。
「えと、と、智貴くん……?」
そんな彼の様子にただならぬ気配を感じた琴美が、改めて気遣わしげに智貴の名を呼ぶ。
「……先輩、これ見てください」
そう言って明かりを揺らす智貴。言われた琴美がそちらを見やれば閉じられたガラス戸があるだけだった。
「あ……!」
しかしそれをまじまじと見た琴美もまた言葉を失ってしまう。ガラス戸の表面に赤い色で大きく
『 智 貴 』
と書き殴られていたからだ。それは紛れもなく琴美の想い人とまったく同じの、漢字の一字も違わぬ名前であった。
しばらく呆然とその場に立ち尽くしていた二人であったが、嵐の音に紛れて屋敷のほうからにゃおう~んと猫の鳴き声が聞こえてきたような気がした琴美はいち早く我に返って智貴に声をかける。
「智貴くん! と、とりあえず戻ろ? ね?」
これ以上ここに居てはいけないと感じた琴美は、彼の腕を引っ張って屋敷のほうへ戻るよう促す。
「これ、俺の名前ですよね……」
が、それでもまだ智貴は自分と同じ名が書かれたガラス戸を見つめたままだ。その声色に彼の心の動揺がありありと含まれていることが琴美には確かに感じられてしまう。これが琴美たちの会話を盗み聞きするなどして智貴の名を知った家主による露骨な悪戯だとしても、漢字まで同じであるというおよそ偶然とは思えないその一致に薄ら寒い思いでいるのは琴美も一緒だ。当の本人である智貴にしてみればなおこと気味の悪さを感じているに違いない。
「そうかもしれないけど……! でもここに居ちゃいけないよ? もう行こ?」
であればなおさらこの場所から一刻も早く立ち去らねばならない。初めて目の当たりにする智貴の弱気な姿が可哀想でならない琴美は、いっそ彼を抱き抱えてでもこの場から遠ざけてあげたくて仕方がなかった。
と、急にはぁーとため息をついて懐中電灯をおろした智貴は、雨に濡れそぼった顔で琴美のほうを振り返る。
「戻りましょうか」
彼が心ここにあらずの状態であったのは少しのあいだだけであったようで、気丈にも自分を取り戻した智貴は琴美にそう言って道を引き返していくのだった。
*
(智貴くんが、狙われている……?)
智貴の背に手を添えてやりつつ屋敷のほうへ向かって歩いていた琴美は先ほどからあれやこれやと考え込んでいた。智貴のことを名指しされたに等しい先ほどの出来事であったから、事態を重く見ずにはいられないのだ。
そもそも敵はなぜ智貴の正確な名前まで知っていたのだろうかと、琴美の中にそのような疑問が浮かぶ。仮に智貴が本名を知られる手がかりなどを持ち合わせていて、それをたまたま屋敷の中に落として拾われてしまったというのであればまだ理由も付くのだが、先ほどからずっと無言のままでいる智貴にこれ以上この件を思い出して欲しくないと思った琴美はあえてそれを口に出さないようにする。
(もしも智貴くんになにかしてきたら、そのときは……そのときは……)
鬼にでも悪魔にでもなってやる。なんにしても早々にこの屋敷を立ち去って自分たちの安全を確保せねばならない訳であるのだが、もし敵が智貴に手を出してくるようであればと考えてしまった途端、琴美の中にドス黒い怒りの渦が巻きおこって仕方がない。まだこれまでのように趣味の悪い悪戯の範疇であれば許してやらないこともないが、仮に本気で自分たちに危害を加えようとしてきた場合はどうするか。そうなれば例え相手と刺し違えることになってでも……と物騒なことまで考え始めた琴美の目には鋭い光が浮かんでいた。
やがて屋敷の近くまで戻ってきた二人であったが、琴美はふと二階のほうを見あげた。ミイラ部屋の窓からは今も光が漏れていたが、その窓際になにかが居ることに琴美は気づく。それはあの黒猫で、窓辺に佇み黒いシルエットを浮かびあがらせ、屋敷へと戻ってきた琴美たちをじっと見おろしていたのだ。
琴美にはその黒猫の視線がまるで人間のものであるように感じられたものだから、負けじと強く睨み返してやる。と、猫の目玉が一瞬だけギラリと赤く光ったかと思うとふいに窓辺からおりて姿を消した。琴美にはそれがあたかもこの屋敷の主からの自分に対する明確な敵意の表明であると感じられてしまうのだった。
ともあれあけ放たれたままになっていた裏口から琴美たちは再度屋敷の中へと足を踏み入れていく。外を吹き荒れる嵐はまだまだ続きそうであった。
続く