もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(6)

小宮山さんのチャレンジ熱湯コマーシャル

(良かった、やっぱり有った!)

 

 戻ってきた裏口にて鍵置きボードを物色していた琴美は、そこにぶら下げられていた車の鍵らしきものを手に取った。鍵にはプラスチックの名札が付けられておりマジックで『ワーゲン』と書かれているのが読み取れるが、それは琴美にも聞き覚えのある大衆車の名であったから、自身の読み通りこの屋敷には車が置いてあるのだろうと思い、すっかり強張っていたその頬をゆるめる。

 

(ああでも、これってやっぱ窃盗罪とかになっちゃうのかなぁ)

 

 同じくボード上にぶら下げられていたガレージの鍵も拝借してそれらを上着の内ポケットにゴソゴソと仕舞い込んだ琴美であったが、これから自分のやろうとしている行為が果たして今のような状況下においても罪に問われてしまうのかが気になり始めてしまう。身の危険を肌で感じつつあった琴美ではあるが、今のところはまだ決定的な状況に出くわしたという訳でもないので、後から警察にあれこれ追及されてしまった場合にどのように説明すべきかと考えずにはいられない。

 

(変死体を見つけて怖くなったからって言えば大丈夫かなぁ……。いやでもここんちの奴が後で「あれ偽物なんですけど? ていうか不法侵入なんですけどぉ?」とか言ってくるかもだし……って、あーもうヤメヤメ!)

 

 ともあれそうしたことを心配するのはひとまずこの屋敷を無事脱出してからにしようと、琴美は頭を振ってその思考をストップさせる。今は自分たちの身を守ることだけを考えなくてはならない、本当になにかがあってからでは遅いのだ。例え後から罪に問われてしまったとしても智貴が共犯者扱いされてしまうようなことだけは避けなくてはならないが、ひとまず車泥棒の実行を決意する琴美であった。

 

「クシュン!」

 

 と、そんな琴美の様子を背後で見守っていた智貴が控えめなくしゃみをした。琴美同様に彼も全身ずぶ濡れで、今も前髪や顎から水滴を滴らせているのが見て取れる。

 

「大丈夫? 体冷えちゃった?」

「いや、平気っす」

 

 気遣わしげな琴美のその問いかけにどうということはないと答える智貴ではあったが、廊下の頼りない照明に照らされる彼の顔はどうにも血色が良くないようだ。

 

(このままじゃ風邪引いちゃうかも……)

 

 先ほどからその小さな体に闘志とも使命感ともつかぬ気力を漲らせていた琴美と違い、先ほどの一件からどうにも悄然としているように見える智貴であったから、そんな彼の体力が雨に晒されたことで奪われつつあるのかもしれない。もとよりずぶ濡れになってでも下山しようと考えていた琴美ではあったが、首尾良く車を手に入れることができるのならその前に智貴の体の水気を拭いてやれないものかと考える。

 

「あっ智貴くん……私、ちょっとタオル持ってくるね」

 

 二人が出口を求めて屋敷の中を探索していた際、中を確認してみた部屋のひとつに脱衣所らしき場所があったことを思い出した琴美は、あそこならバスタオルのひとつやふたつ置いてあるだろうと考えてそのようなことを言い出す。

 そうして壁に立てかけておいたデッキブラシを再び持った琴美は、すぐ戻るからと智貴に告げて早速駆け出そうとするが、途端にその手を掴まれてしまった。

 

「え!? な、なに? どど、どうしたの?」

「先輩だけじゃ危ないですよ。俺も付いてきます」

 

 智貴の突然の行動に、目を白黒させた琴美がついでに頬っぺたも赤くする。琴美だけを一人行かせてはなにがあるかわからないと心配したのか、自身も同行すると申し出る智貴であった。

 

「そ、そう? じゃあ、い、一緒に行こっか?」

 

 なんとも健気に映る智貴のそうした心意気を前にして、はあぁぁんと心の中で間の抜けた声をあげる琴美は思わず彼を抱きしめたくなってしまう。許されるのならば己を掴んでいる智貴の手をそのまま手繰り寄せ、デート中のカップルさながらのように恋人繋ぎしてみたい衝動に駆られる琴美なのであった。

 無論琴美にそのような思い切ったことができるはずもなかったから、やがて自分を掴んでいた智貴の手が離れていってしまうのを名残惜しそうに見届けるのだった。

 

 ◆

 

 廊下を二人して進み、例の食堂の前を通り過ぎた先にある扉のひとつをあければ目的の場所がそこにあった。照明のスイッチを入れて室内の様子を確認してみれば、湿った空気の中にカビ臭さが漂うその小ぢんまりとした部屋は確かに脱衣所だった。扉から入ってすぐ目の前には開放式の棚が設置されており、その隣には洗面台がある。さらにそのまた隣にはすりガラスの引き戸も設置されており、そこをひらけばおそらく浴室なのではないかと思われた。

 中に誰も潜んでいないことを確認した二人は、やがて部屋へと足を踏み入れそのまま扉をそっと閉じる。

 

「はい智貴くん、これタオルね」

 

 棚に収められていたバスケットを次々に傾けて中身を確認していった琴美は、そのうちのひとつにバスタオルが畳まれた状態で幾つも重ね入れられているのを発見する。長らくここに放置されていたのだろうか、それらのバスタオルからはいやに古びた臭いがしないでもないのだが、ないよりはマシであるとそこから二人分のタオルを取り出して片方を智貴に渡してやる。

 ども、と軽く頭を下げてそれを受け取った智貴はひとまず頭や顔を拭うが、やがて一旦タオルを棚にかけておもむろに上着を脱ぎ出すと、それを手に洗面台へと向かう。雨でびちょびちょに濡れた智貴の衣服はずっしりと水気を含んでおり、ギュっと絞ってやりでもしないと体を濡らすばかりなのだ。

 が、そんな智貴の様子を琴美が見逃すはずもなく、彼女はバスタオルで頭を拭く振りをしつつもタオルの隙間からチラリチラリとしきりに目を覗かせては彼の姿を熱心に観察していたのであった。このような状況下で誠に節操のないことではあるのだが、なにぶん水に濡れそぼった智貴というものを琴美は初めて目にする訳であったから、風呂あがりに見えなくもないその姿に普段の凛とした彼とはまた違った蠱惑的な印象を感じずにはいられないのであった。彼の濡れたシャツから透けるその肌色が、雨で冷えてしまっていた琴美の体を火照らせる。

 

「なんすか?」

 

 シャツとズボンも脱いだりしないかなぁと意識せずそのような期待を浮かべていた琴美であったが、やがて自分のほうを振り向いた智貴と目が合ってしまう。

 

「あっ! ち、違うの! そうじゃなくて……」

 

 先ほどから智貴の体を舐め回すように見ていたのがバレたのではと焦った琴美は、手をパタパタ振りつつ慌てて言い訳を考える。

 

「そ、その、お風呂! お風呂とか入れたらなーと思って!」

「えっ」

 

 自分でもなにを暢気なことを言っているのだろうと思う琴美であったから、智貴の反応に含まれる若干の呆れを察してしまい、いたたまれなくなる。

 

「あっでもそこまで入りたいって訳でもなくて……そのぉ、えと」

「じゃあちょっと見てきます」

 

 咄嗟の出まかせにさらに言葉を重ねて取り繕おうとする琴美であったが、智貴はそのように返答すると浴室の引き戸をあけて中の様子を確認し始める。自分がそうであるように琴美もまた雨風に打たれ体が冷え切ってしまっているが故にそのようなことを言い出したのだろうと彼は考えたのかもしれない。

 しかし智貴のそうした気遣いも今の琴美には心苦しさを感じさせる。体が冷えているどころか火照る己の体温で蒸し暑いぐらいの琴美であったから、自分の嘘で彼に気を遣わせてしまったことがなんとも申し訳なく感じられてしまう。さりとて今更その嘘を訂正するのも憚られるため、照明を付けた浴室でシャワーを捻ったりしている智貴の背中やうなじをひとまずは見守ることにするのだった。

 

(うわぁ、私の顔ヤバいな……!)

 

 やがてなんとはなしに洗面台の鏡へと目を向けた琴美は、急に自分の顔を確認したくなった。洗面台に身を乗り出した琴美がその埃にまみれた腐食痕だらけの鏡面を何度かこすってみれば、本日のメイクが雨ですっかり乱れているのが見て取れた。

 主張の強いはやりのメイク*1は好まぬ性分の琴美であったから悲惨な状態には至っていないものの、だからといってこんな顔をこれ以上智貴に晒したくはない。ならばすっぴんのほうが幾分かマシであろうと考えた琴美は顔を洗うために眼鏡を外して手元の蛇口を捻る。そうしてゴポゴポと水のあがってくる音が聞こえ、琴美はそれをすくおうと手を差し出すが──

 

(ゲッ!)

 

 蛇口から赤黒い水が噴き出してきたので、琴美には一瞬それが血であるように見えてギョッとしてしまう。しかしどうやら古い水道管に溜め込まれた汚れが流れ出ていただけであったようで、しばらくすると透明な水が流れてきたことに琴美は安堵の溜息を漏らす。

 気を取り直した琴美は自身のメイクを水だけの洗顔で可能な限り落としていき、やがて鏡の前で己の顔を念入りに確認していく。

 

(ん……?)

 

 と、琴美は鏡を通して見える己の背後になにやら人影らしきものがあることに気づいたので、手元の眼鏡をかけて鏡を見直した。

 

(え? 誰!?)

 

 視界のクリアになった琴美の目に今度こそ背後の存在がハッキリと映り込む。そこにはいつのまに現れたのか、一人の少女が佇んでいたのだ。その姿を見てしまった琴美は体を固まらせてしまい、鏡に映る背後の存在から目が離せなくなってしまう。

 身長からして小中学生ぐらいかと思われるその少女はボリュームのあるモサモサの黒髪に白いワンピース姿といういでたちであったが、その顔色は異様に生気がなく、病人を通り越してまるで死人のようですらあった。そしてなによりも琴美を戦慄させたのは、背後の少女が憎悪に歪んだおぞましい表情で、爛々とした赤い光を放つ邪悪な視線を鏡越しにぶつけてきていることであった。

 これは人間などではない。そう本能的に察した琴美ではあったが、その刺し殺すような少女の視線に呼吸すら止められて身じろぎができない。射竦(いすく)める相手を干からびさせるような乾いた熱気と、それでいて心の底まで凍りつかせるような鋭い冷気とが琴美へ同時に浴びせかけられる。

 凍ったまま焼かれるようなその形容し難い感覚に晒されることしばし。それは実際の時間にしてほんの数秒程度であったかもしれないが、やっとのことで体を動かすことのできた琴美がどうにか背後を振り返ってみれば、そこには誰も居ないのであった。

 

(なに……今の……!?)

 

 琴美の背筋に粘り気を帯びるゾワリとした感覚が広がっていき、嫌な汗がじっとり滲んでくる。つい今しがたまで己の後ろには確かに少女が佇んで強烈な視線でこちらを睨み付けていたはずなのだが今やその姿はどこにも見当たらない。

 

「先輩、お湯出せますよこれ。浴槽のほうはダメになってますけどシャワーくらいなら」

「あ、う……」

 

 と、浴室からヒョイと顔を覗かせた智貴が琴美にそのようなことを言う。しかしそれに声にならない声で返事をする琴美であったから、智貴もなにごとかと脱衣所へ戻ってくる。

 

「え、なんかありました……?」

 

 つい先ほどまで自分の後ろに恐ろしい形相をした女の子が立っていたと、琴美はそう伝えるつもりであった。だが咄嗟のところで彼女は口を噤んだ。

 

「な、なんでもないよ……ちょっと、虫が出て驚いただけだから」

 

 智貴には先ほどの女の子のことを教えてはならないと、琴美はそう直感する。知ったが最後、あのミイラのときのように智貴がまたその姿を求めて屋敷を調べたがるのではないかという懸念が湧きあがってきたからだ。

 先ほど見た少女の姿が件のミイラとなぜだか重なってしまった琴美は、もしかするとあれはミイラの幽霊なのではないかと考えてしまう。あのミイラは家主が自分たちを驚かせるために用意した作り物だとずっと自分に言い聞かせていた琴美ではあったが、事ここに至り己のその認識に疑いを持ち始めていた。

 そもそも本当にこの屋敷に人間など住んでいるのだろうか。頭の悪い電話がかかってきたり子供じみた悪戯が仕込まれた料理が用意されていたりと、どこか人間味を感じさせる出来事が続いていたのですっかり生きた人間としての家主の存在を認めていた琴美であったが、同時に人間のなせる業とは思えない奇怪な現象もそれ以上に起こっている。

 これはもう、なにか得体の知れない存在に化かされているのではないか。そう考えたほうがしっくり来てしまうこれまでの不可解な出来事の数々を思い起こす琴美であったから、それまで智貴への底なしの愛と家主への猛烈な怒りが生み出す精神力で抑え付けていた己の中の恐怖心が再び顔を覗かせてしまい、この屋敷のすべてがどうしようもなく不気味に感じられて仕方がなくなるのであった。

 

「大丈夫ですか? 顔、まっさおですよ」

「ど、どうかなー、ちょっと寒気するかも……」

 

 そう言って己の肩を抱きすくめるような仕草をする琴美の体は実際、先ほどまでの熱気が嘘のように冷え切ってしまっていたのだ。びしょ濡れの衣服を着たままでいた琴美であったからなおさら体温が奪われていく。

 

「……シャワー浴びます? 壊れてなさそうでしたし」

「えっ?」

 

 そんな琴美の体調を今度は智貴が心配し、湯浴みでもして体を温めてはどうかと提案する。幸い彼が確認した限りではシャワーは温かい湯を吐き出していたので、この屋敷の湯沸かし器が正常に稼動していると判断したようだ。

 

「え、えっと~、ど、どうしよっかな~……」

 

 正直とても風呂に入るような気分ではない琴美ではあったが、自分の出まかせを信じた智貴が折角琴美のためにと浴室を調べてその具合を確かめてくれたのである。「やっぱいいわ、すまんな」などとは言い出し辛い琴美であった。

 

「あ、じゃあ、ちょっとだけなら……」

「俺、廊下で見張ってますから。なにかあったらすぐ呼んでください」

 

 琴美の消極的な返事を受け、智貴は自分のバスタオルを拾いあげて脱衣所から出ていこうとする。

 

「あ、ちょ、待って待って!」

 

 そんな智貴のシャツをグイっと掴んだ琴美が慌てて彼を引き止める。自分の目の届かないところに長いあいだ智貴を置いてしまっては、そのままふらっと居なくなってしまうのではないかと不安に駆られたからだ。

 

「こ、ここでいいよ! この中で見張っててくれたらいいから」

「いや、でも……」

 

 なにか言いたげな智貴ではあったが、琴美が一人になるのを怖がっているのかもしれないと考えたのか、ひとまず足を止めてこの場に留まる様子を見せる。

 

「判りました、ここで待ってます」

「ご、ごめんね……じゃあすぐあがるからね」

 

 そう言って外した眼鏡を洗面台に置いた琴美は引き戸の前で靴を脱いで脇に避けると、今度はびっちょり濡れたその上着を脱いで引き戸の手前の脱衣カゴに引っかける。続けてシャツを脱ごうとヘソの辺りまで捲くったところで、智貴の様子にはたと気づいた琴美はその手を止めた。先ほどまで向き合っていたはずの智貴が、今はなぜだか琴美に背を向けて不自然に壁と向き合い押し黙っているようだった。

 

「ど、どうしたの? なにかいるの?」

「いや、そっち見ないようにしてるんで……」

 

 そんな智貴の様子が気になってつい声をかけてしまった琴美であったが、彼の返答を受けてようやく状況を理解する。

 

(ああああ! 私、智貴くんの前で脱ごうとしてたあああ!)

 

 脳天を突き抜ける衝撃が琴美を穿つ。入浴前は脱衣所で脱ぐものと、これまでの人生で染み付いた習慣を無意識に実行した琴美ではあったが、意図せずしてとんでもないことを仕出かしそうになった自身の迂闊さが恐ろしくなった。

 

「あ、ごごご、ごめんねっ、お、お風呂場の中で脱ぐから……!」

 

 そう言ってカゴから上着を掴み取り、慌てて浴室へと入った琴美はその引き戸を勢い良く閉める。はぁはぁと肩で息をする彼女の頬はいまやニホンザルのように赤く火照っていた。

 

(ああびっくりしたぁ~……)

 

 ドキンドキンと痛いほどに脈打つ胸を両手で押さえる琴美は、カビの臭いが満ちるジメジメしたその古ぼけた浴室の中で呼吸を必死に整える。

 

「ふぅ──……」

 

 やがて呼吸を落ち着かせた琴美は、いやはや大変なことがあったと大きく溜息をつきながら先ほどのハプニングを振り返る。だがその顔には自身の気づかぬうちにニヤニヤと笑みが浮かんでもいたのだった。

 

(ああでも、勿体ないことしたかも……)

 

 あのままなにも言わず黙っていれば智貴の前で全裸になれたのに。ドサクサに紛れて想い人の前で堂々と素肌を晒す一世一代のチャンスを自らふいにしてしまった琴美になんとも平和な後悔が押し寄せる。そうした煩悩で頭がいっぱいになってしまった琴美の心には、先ほどあれだけ自分を戦慄させた幽霊のことなど最早毛程も残っていなかった。なにからなにまで智貴中心に物を考えてしまいがちな琴美には、実のところ怖いものなどなにもなかったのかもしれない。

 ともあれ早く風呂をあがって智貴とこの屋敷を出ていかねばならないので、そそくさと残りの衣服を脱いだ琴美はそれらをひとつずつギュッと絞って水気を切ってやるのだった。と、上着の内ポケットに入れておいたふたつの鍵が落っこちる。うっかりなくしてしまってはいけないとそれらを拾いあげて再びポケットに突っ込んだ琴美は、ついでに反対側の内ポケットもまさぐる。これは食堂で手に入れた貴重な品々を落としてしまっていないかが気になったためだ。家に持ち帰って宝物にでもするつもりなのか、ポケットから取り出したそれをしげしげと眺めていた琴美は鍵よりも余程丁重にそれを再びもとあった場所へと収める。

 ともあれ水気を切った衣類を脱衣カゴに置くべく、琴美は遠慮がちに引き戸を少しあけて浴室から顔を出す。見れば智貴は脱いだシャツを洗面台の前で絞り水気を切っている最中であったが、眼鏡を外していた今の琴美には半裸となった彼の姿をハッキリ拝むことができず、そのことが悔やまれてならない。

 

「?」

「あ、へへへ……こ、これ、服をね、カゴに」

 

 それはそれとして今の自分はすりガラスを隔ててすっぽんぽんの状態で智貴と相対しているのである。まるで恋愛漫画のワンシーンのようではないかと、降って湧いたシチュエーションにふんすか鼻息が荒くなってしまう琴美。

 

「こ、ここのお風呂、結構広いねー。私んち団地だし狭くってさ、だからなんか新鮮っていうか……」

 

 智貴の表情はボヤけて見えないが、きっと彼もこちらの姿を目にしているのだろうと考えた琴美は恥ずかしさを紛らわせるためにわざわざどうでもいい説明をする。

 

「でも待たせちゃってホントごめんね。ロッテの攻撃のときみたくすぐ済ませるからね」

「大丈夫ですよ、急がなくていいですから」

 

 智貴と言葉を交わしつつ、脱衣カゴを引き寄せた琴美は己の衣類をそこにほうり込んでいく。そうして最後にさりげなく己のブラとショーツをこれみよがしに衣類の山の上へ目立つように乗せてから顔を引っ込め扉を閉じた。意図的なのか無自覚なのか、セクハラと受け取られかねないそうした所業も今この瞬間だけはきっと許されるのだと琴美はひらき直っているのかもしれない。

 *

(さて、と)

 

 ひとしきり先ほどのシチュエーションを堪能した琴美がシャワーのコックを捻る。するとすぐさま暖かい湯がシャワーヘッドからチョロチョロと流れ出した。

 

(もう寒くないんだけどなぁ、まあついでだし)

 

 己の肩を抱いて寒さを訴えていた琴美はもはや過去の存在。今またすっかり火照りを見せている彼女の体はこれ以上の温もりを必要としておらず、暑くなったり寒くなったりと体温の季節がコロコロ変わって忙しい琴美なのであった。

 やがてコックを全開にしてその身を湯に晒す琴美であったが、日中の野球観戦でかいた汗を流していく心地良さはまんざらでもなかった。

 

(ここがホントにホテルだったらな──……くそ──……)

 

 智貴がすぐ近くにいる中でこうしてシャワーを浴びているという、この官能的な状況を受けてまたしてもそのような未練がましい思いを湧きあがらせてしまう琴美。いつか智貴が成人するころにはチャンスをモノにしてみせるぞと、口惜しさのあまりそんなことを誓ったりするのだった。

 

(えーと、石鹸は……と)

 

 一旦シャワーを止めた琴美は浴室の中にそれらしいものが置かれていないかと足元を見回す。すっかりメイクを落としてしまった琴美ではあるが、愛する男性の前ではせめて香りの身だしなみぐらいは整えておきたかった。もとより自分の体臭が臭いのではないかと密かに心配している琴美としては、智貴に内心で「くっせ」と思われてしまうのはなんとしても避けたいところである。そういうプレイならまだしも、本気でそのように敬遠されてしまったとあっては流石の琴美の乙女心もダメージを免れない。

 

(ないな……こっちか?)

 

 周りに目当てのものが見つからない琴美は、シャワーと浴槽とを仕切っているらしい黒カビだらけのカーテンをあけて中を覗き込む。

 

「うげぇ、なにこれ……!?」

 

 カーテンで仕切られた先には人間一人が足を伸ばして入れそうな陶器製の浴槽が置かれていたのであるが、その浴槽の中を目の当たりにした琴美は声をあげる。浴槽の中にあらかじめ張られていたらしき水はまるでヘドロのように淀みきっており、見るからに腐敗している様が見て取れたのだ。浴槽から立ち昇る腐臭が琴美の鼻にも届いてしまい、思わず手で口元を押さえてしまう。その水面にはまるでここで断髪でもしたかのように長い髪の毛が大量に浮かんでおり、天井の明かりに照らされたそれらはヌラヌラとした生々しい光沢を放っていた。

 

(気持ち悪っ! やっぱこの家ほんとイカれてるわ……)

 

 これ以上それを目にするのがウンザリな琴美はひとまずカーテンを閉めて自身の視界からそれをシャットアウトする。なにやらまた己の中の不安がぶり返してきそうな琴美であったから、早々にシャワータイムを切りあげてしまおうと考えるのだった。

 

(あっ、バスタオル持ってきてないや)

 

 自分が頭の水気を拭くのに使っていたバスタオルを脱衣所に置いたままであったことを、琴美は今更ながらに思い出す。これは智貴にお願いして取ってもらうしかないなと、今しがた見た光景をひとまず忘れることにした彼女は新たな刺激に挑むべく引き戸に手をかける。

 

「あれ? んっしょ、え?」

 

 しきりに引き戸へ力を込める琴美ではあったが、戸はガタガタと音を鳴らすばかりで一向にひらいてくれようとしない。

 

「ねえ智貴くん。これ、ちょっとあかなくなっちゃったんだけど……」

 

 見た目通りオンボロな浴室であるからして、立て付けが悪いのだろうかと考えた琴美は、脱衣所で待っていてくれる智貴に助力を乞うべく声をかける。

 

「智貴くん、居るの? ねえ!」

 

 が、なぜか返事はなく、浴室にはシャワーから滴る水の音だけがピチョンピチョンと響く。ガラス戸を焦り気味に叩いて呼びかけてみるもののやはり智貴からの返事はないようだ。それを受け、琴美の胸中にじわりと不安が広がり始める。

 

「うわぁっ!」

 

 琴美の背後のシャワーが、突然ひとりでに湯を吐き出し始めた。そのことに仰天させられる琴美であったが、訳も判らないままひとまずそれを止めようと、頭から湯を被りつつコックを捻る。

 が、止まらない。幾らコックを回そうと、シャワーの勢いになんら変化は見られなかった。

 

「え? なにこれ、ちょ、熱っ!」

 

 そうしているうちにみるみる湯の温度が上昇していき、最早それは苦痛を感じるレベルにまで達する。

 

「やぎさわぁぁ────!」

 

 遂にはシャワーから熱湯そのものが噴き出したので、それを浴びせられた琴美が堪らず絶叫した。反射的に横っ飛びして傍らのカーテンにしがみつき、勢いのままブチブチとカーテンを千切れさせながらも例の浴槽のフチに両足を広げて着地してみせるのだった。

 

(なんだこれ! 壊れてんのか!?)

 

 危うく本当に茹であげられてしまうところだった琴美はすんでのところで危険を逃れたものの、シャワーから吐き出される熱湯の放つ湯気が瞬くまに浴室内をもうもうと埋め尽くしていく。嵌め殺しの小さな換気窓が高い位置にある以外は窓らしい窓もないこの浴室であったから、このままではいずれ蒸し殺されてしまいかねないと琴美は危機感を募らせる。

 

(さてはまたやりやがったな、ゴミムシが!)

 

 突如自分を襲った異変にまたしても作為的なものを感じ取った琴美は、これがおそらくは屋敷を支配する悪意の仕業であろうと当たりを付ける。その正体が幽霊なのか、はたまた狂人なのか、最早琴美にはどうでも良かった。敵はとうとう自分に直接的な危害を加えてきたのだ。ここまでいったらもう戦争しかないと、琴美の目に再び怒りの炎が灯る。

 

(智貴くんが危ない……!)

 

 これだけの騒ぎにもかかわらずやはり智貴が声をかけてくる様子がないことから、彼がいずこかへ連れ去られてしまったのではないかと胸騒ぎを覚えてしまう琴美。ならばこうしてはいられないと、琴美は中途半端に千切れかけていたカーテンをあらかた引き千切ると、熱湯を吐き出し続けるシャワーヘッドに覆い被せてやる。すると水を弾くカーテンによって琴美の狙い通り湯がせき止められたので、ひとまずは熱湯攻撃を封じることができたのであった。

 しかしカーテンの隙間からは漏れ出た湯がほうぼうに噴出され続けている訳であるから、この殺人的な熱気はいかんともし難い。早々に戸を破って浴室から脱出せねばならない琴美はもうもうと白く煙る周囲を見回す。

 

(なにもない……こうなったら!)

 

 ガラス戸を破れそうな手頃なものが見当たらなかったので、琴美は意を決して浴槽からおりる。

 

(アチチチッ……!)

 

 浴室の床一面を満たすその熱湯に琴美の素足が悲鳴をあげた。急に排水溝が詰まってしまったのか、シャワーから吐き出される湯は排水されず先ほどから浴室に溜まる一方のようである。

 

(気持ち悪いけど、もうこうするしか!)

 

 足から容赦なく伝わるその熱に耐えながらも、琴美は持ちあげるような姿勢で浴槽のフチに手をかけ、目一杯力を込めてそれを盛大にひっくり返す。そうして浴槽から流れ出たヘドロで湯の熱さが中和され、琴美の足に伝わる熱が幾分かマシになるが、代わりに浴室内が吐き気を催す腐臭に満たされてしまう。辺り一面に気色悪い髪の毛が漂い、ヘドロの中に沈んでいたらしい幾つもの動物の骨もその姿が露わとなる。水面には数多の虫の死骸がそこかしこに浮かんでおり、浴室は嗅覚のみならず視覚にも大変宜しくない場所と化してしまった。

 

「ふんせっ……! ほいせっ……!」

 

 しかし今の琴美はそれらに気を取られている暇などない。次なる脱出の一手として、琴美は重い浴槽をずるずると出入り口の手前に引きずっていく。そうして今度は浴槽の片方を必死に持ちあげて立たせた状態にすると、それをどりゃあーと押し込み引き戸目がけて激突させる。それに成す術もないガラス戸はあわや木っ端微塵となり、無事に突破口をひらいた琴美は足元に散乱する破片に注意しながら慎重に脱衣所へと逃れるのであった。

 

(やっぱり居ない……いったいどこに……?)

 

 琴美の思った通り、脱衣所に智貴の姿はなかった。見れば入り口の扉があけ放たれたままになっている。そこから顔を覗かせ廊下を見渡してみるが、やはり誰の姿も見当たらない。これはもう自分がシャワーを浴びている隙を狙って何者かが彼を連れ出したに違いないのだと、琴美はそう確信する。

 琴美はもうもうと湯気をあげ続ける背後の浴室を尻目に、すっかり散らかって床一面に汚水の広がる脱衣所の中で急ぎ身支度を整えていった。そうして先ほど水気を切っておいた上着を着込んだところで、ふとなにかが気になって内ポケットをまさぐる。

 

(あれ? ない……なんで?)

 

 琴美が大事にしていたあの食器類がいつのまにかポケットの中からなくなっていたのだ。もう片方のポケットに入れておいた鍵は無事であったから、誰かが意図的に抜き取ったとしか思えない状況に琴美は思わず歯噛みしてしまう。

 

(盗られた!? クソムシお前かコノヤロー!)

 

 盗られたもなにも、そもそもこの屋敷にあった物を出来心で勝手に拝借したのは琴美の方なのであるからして、「取り返された」の間違いなのだが、今やあの食器は完全に琴美の所有物(おたから)として認定されていたから、彼女の憤りも致し方なかった。

 ともあれ出立の準備が整った琴美は立てかけておいたデッキブラシを手に取ると、愛する智貴の姿を求めて勢い良く脱衣所を飛び出していくのだった。

*1
1992年当時、いまだトレンドのひとつであったバブル時代的メイクを指す。厚めのファンデーションをベースとし、クッキリと描かれた太眉、インパクトのあるアイラインとアイシャドウ、バブリーなリップカラー、好みでチークも軽くナナメ塗り……といった塩梅。




続く
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