もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(7)

黒木智貴の事情

『おいで、智貴……』

 

 またこの夢だ。まっくらな空の下に黄色い花だけが広がる世界で、例によってあの声が聞こえてくる。

 

『ほら、早く来いよ智貴』

 

 この夢の中で俺はいつもこうして誰かに名前を呼びかけられる。その声は家族のものでも友人のものでもなく、どこの誰とも知れない赤の他人のものだ。

 

『聞こえてんだろ? 返事しろよな』

 

 なのにどうしてだろう。こちらを呼ぶ声はいつかどこかで聞いたことがあるような、そんな気がしてならない。だから俺はいつもこう尋ねるのだ。

 

「あんた誰だよ」

 

 すると決まってこのように答えが返ってくる。

 

『お姉ちゃんだよ、お前の』

 

 俺は一人っ子だし、そう言われてもまったく心当たりなどない。なのにこの声はさも当然のように毎度そのようなことを言う。

 

『いいから早く来いよ、姉ちゃんずっと待ってんだぞ』

 

 どこからか風が吹いてきて周囲の花をザワザワとなびかせる。しきりに招くその声に惹かれるように俺は前へと踏み出していく。

 

『こっちこっち……そう、そのまま……』

 

 そうして歩き続けていくと、どこまでも続く花畑の向こうに誰かが佇んでいるのが見えてくる。白い服を着た女の子らしき姿がこちらへ向かって手を振っている様子がうかがえる。

 

『おとうとー! おとうとー! おーいおーい!』

 

 姉ちゃんだよ、姉ちゃんだよと、遠くのほうからしきりに声をあげるその女の子。いつもこの夢に出てくる彼女は、一生懸命手招きするばかりで決して自分のほうから俺に歩み寄っては来ない。だから俺はその子のほうへと向かって歩き続ける。

 もしかしたら知り合いなのかもしれないと、その子の顔を間近で確かめてみたい気持ちが湧き起こる。だけどもそれは叶わない。早くあの子のもとへ辿り着かなくてはと気が焦るのに、なぜだか足が鉛のように重いせいでひたすら歩くことしかできないものだから、もどかしさばかりが募っていく。

 早くしないとまたいつものように向こう側へ辿り着く前に目が覚めてしまう。そう思って進み続けるのだが、あの子との距離は一向に縮まらない。そのあいだも女の子は休むことなく呼びかけ続けているが、やがて声が遠くなり始める。ああ、これは夢の終わりが近づいてきた合図だ。そうするといつもあの子は悔しそうな声で、意識を浮上させる俺に向けてこう叫ぶのだ。

 

『お前は私の弟だかんな! 忘れんなよ!』

 

 あんた、本当に誰なんだ。

 

 ◆

 

 智貴の姿を探し求めて屋敷内を走り回っていた琴美の姿は今、玄関ホールの階段手前にあった。手当たり次第に一階の部屋を片っ端からあけ放ち中を確認していったものの結局智貴を発見するには至らず、続いて二階へと捜査の手を伸ばしに来たのだ。

 この広い屋敷の中で随分と走ったのだろう、息をあがらせ額に汗を浮かべる琴美ではあったが、その顔に疲れの色は微塵も見られない。己の行く手を遮るものあらば手にした得物で一戦交えることすら厭わないほどに殺気立つ琴美が、二階へと続く階段を相棒たる自身の眼鏡で捉える。

 

(智貴くん、どうか無事でいて……!)

 

 なにもかもが狂ったこの屋敷ではあるが、しかしそれを恐れて躊躇している暇など琴美にはない。来るなら来いとばかりに力強く足を前に踏み出し、豪打無敵の構えで一歩ごとにギィギィと軋みをあげる階段をあがっていく。

 

(ん……?)

 

 そうして階段をあがりきった琴美がさてどこから手をつけていくべきかと赤い絨毯の敷かれた廊下を見回していたところ、その耳がなにかを捉えた。

 

(誰か喋ってる……?)

 

 左側に向かって伸びる廊下のほうからなにやら人の話し声のようなものが聞こえて来る。もしやと思った琴美が声の出どころに向かってそろりそろりと歩み寄っていく。

 

(ここだ、やっぱり中でなんか言ってる……!)

 

 声は廊下の途中にある白塗りの扉の中から聞こえてきていた。琴美が扉の前で聞き耳を立ててみれば、どうやら部屋の中にいる誰かが絶え間なくペチャクチャと喋っているようだ。

 

(智貴くん、じゃないよな……。もしかしてここん家の奴か?)

 

 なにを喋っているのかまでは判然としないが、そのくぐもった声色は舌っ足らずな子供のようでもあり、あるいはしわがれた老婆のようでもある。ともあれ智貴でないことだけは確かだ。

 

(もしかして智貴くんと話してる……?)

 

 あたかも目の前の誰かに向けてずっと話しかけているようだと、声の主の口調から琴美はそのように感じてしまう。くだんの声色からは上機嫌な様子でいることがありありとうかがえ、話し方もまるで仲の良い友だちとのお喋りを楽しむかのような気安さを感じさせるものであった。少なくともそこに剣呑な雰囲気は微塵も見受けられなかったものだから、それまで殺気立って得物を握りしめていた琴美は些か脱力してしまう。

 もしや部屋の中では今、智貴が屋敷の主人から歓待を受けているのではないだろうか。てっきりここが無人の幽霊屋敷ではないかと思い始めていた琴美ではあったが、今また改めて生きた人間としての住人の存在を認めるに至った。

 

(ドッキリでしたーとか言ってネタばらししてきたのかな……?)

 

 きっとようやく気の済んだイタズラ家主によって智貴は一足先にこの部屋の中でこれまでの怪異の真相を明かされているのだと、先ほど自分が危うく殺されかけたことを脇に置いて琴美はそのような希望的観測にすがってしまう。やはり彼女としてもホッと一安心できるような展開が待っていてくれることを切に望んでいたのだ。

 そうした期待を込めて琴美がおもむろに目の前の扉をノックしてみたところ、途端に部屋の中の喋り声がピタリと止む。

 

「あっ、と、智貴くん、私。小宮山だけど……」

 

 おそらく中に居るであろう智貴に向けて琴美は扉越しに声をかける。そうしてしばし様子を見ていた琴美であったが、どうも返事がない。疑問に思った琴美はドアノブを回してそっと扉をあけてみる。

 

(えっ!?)

 

 少しだけひらいた扉の隙間から中の様子をうかがった琴美の目には、ただただ暗闇だけが映る。部屋の中は電気もつけられておらずまっくらなのであった。扉をあけ放った琴美がそのまっくらな空間に踏み込めば、いやに埃っぽい部屋の中はしんと静まり返って誰も居ないようであった。

 確かに部屋の中から人の話し声がしていたはずなのにと、そのあからさまな齟齬にぞっとしたものを感じる琴美。彼女が先ほどまで抱いていた小さな期待は早くも消え去ってしまうのだった。

 

(ううっ……)

 

 途端、この怪物のような屋敷の中で一人置き去りにされてしまったかのような心細さが琴美の胸にじわりと広がり始める。殺気立つほどに気を張っていたものの、さっきまで目の前にぶら下げられていたありもしない救いを前につい心のタガをゆるめてしまったことが綻びを生んでしまったようだ。琴美の中で虎視眈々と機会をうかがっていた恐怖はその隙を見逃さない。誰も居ないその部屋の中で立ち尽くす琴美の心を孤独と不安が取り囲もうとしたものだから、これ以上ここに居たくないと思った彼女は後ずさるようにしておぼつかない足取りで出口へと向かっていく。

 

(あ、これって……!)

 

 ふいに琴美の足が止まる。室内の埃混じりの空気中に、無視できないなにかを感じ取ったからだ。

 

「と、智貴くん、居るの?」

 

 部屋の中からかすかに匂いがする。〈大好きな彼のいい匂い〉がするぞ。そのように思いながらすんすんと鼻を鳴らす琴美の嗅覚は、確かにこの部屋に漂う智貴の気配を感じ取っていた。意を決して部屋の奥まで入り込んで辺りに目を凝らしてみれば、暗がりの中で今度こそ本当に琴美を安堵させてくれる存在と出会うことができた。隅に置かれたベッドに隠れるようにして、俯く智貴が床に座り込んでいたのを発見したのだ。

 

「ああっ、良かったぁ──智貴くぅぅぅん!」

 

 手にしていたデッキブラシをその場に取り落とした琴美は智貴に駆け寄り倒れ込むようにして彼の肩にすがり付く。するとそのまま彼女は嗚咽を漏らし始めてしまった。どうやらそれまで張り詰めていたものが切れてしまったようだ。

 

「先輩……?」

 

 そこまでいってようやく気づいたのか、顔をあげた智貴が傍らの琴美に声をかける。どうやら今の今まで彼はこの暗い部屋の中で一人、心ここにあらずの状態で閉じこもっていたらしい。

 

「と、智貴くんが……い、居なくなっちゃったから……誰かに……どっか連れてかれちゃったのかなって……」

 

 涙声混じりの琴美はそうして心の内を智貴に吐露していく。そんな彼女の様子にようやく自分を取り戻したらしい智貴はベソをかく琴美を驚かせないようゆっくりと立ちあがる。

 

「……ほんとスンマセン、勝手なことして」

 

 床にへたり込んでいる琴美にそう詫びて手を差し出す智貴。己の顔の前にあるそれをぼんやり眺めていた琴美であったが、やがておもむろに両手でがっちり掴み返して、そのまま智貴に支えてもらいながら立ちあがる。智貴の手から伝わる力強いその感触に、彼と無事再会できたことを改めて実感した琴美はまた泣きそうになってしまう。

 

「連れてこられたとか、そういうんじゃないんです。ただ、誰かに呼ばれてるような気がしたんで……」

「呼ばれたって……こ、この家の人?」

 

 智貴が言うにはどうも脱衣所で琴美を待っていた際に何者かがどこかで自分の名をしきりに呼んでいるのがかすかに聞こえて来たそうで、声の出どころを探しているうちにこの部屋までやって来てしまったということらしい。

 

「どうなんでしょうね、結局誰も居ませんでしたし……」

 

 智貴のそうした返答に、琴美は先ほどまでこの部屋から聞こえていた喋り声を思い出す。居なかったのではない。確かにそこに声の主は居て、つい今しがたまで智貴にずっと話しかけていたのだと、そのように思えてならない。今だって声の主はこの部屋の暗がりに溶け込んで自分たちのことを見ているのではないだろうか。

 が、それを智貴に伝えてわざわざ怖がらせてしまってはいけないと、琴美は自身の憶測を口に出さず飲み込んだ。先ほど智貴が語った内容からも判るように、今や彼が完全にこの屋敷から狙われてしまっていることは明らかであった。もう二度と彼から目を離してしまわないよう決意を新たにする琴美は、早々にこの屋敷を出ていかねばと気がはやる。

 

「あ、でもなんで智貴くん、ここでずっと座ってたの?」

 

 ひとつ琴美には気になることがあった。己を呼ぶ声に惹かれてこの部屋を訪れた智貴が、なぜ今の今まで電気すら付けず一人この場に留まっていたのかが疑問であったのだ。

 

「……」

 

 琴美にそう問われた智貴はすぐには答えず、代わりに部屋の様子を眺めてみせてから口をひらく。

 

「ここ、見覚えがあるんです」

「え?」

 

 答えにもなっていないような智貴のそうした返答に目を瞬かせる琴美。見覚えがあるというのは、つまり過去にどこかでここと似たような部屋を見たということであろうか。薄明りを頼りに目を凝らしてみれば、どうも室内のそこかしこにぬいぐるみや幼児向けの玩具が置かれているらしい様子が見て取れた。

 

(子供部屋……?)

 

 その光景に、琴美はここが幼い子供のために用意された私室なのではないかと考えてしまう。

 

「えっと、ど、どういうことかな……?」

 

 言葉足らずな智貴のその主張の意図が判らず尋ね返す琴美。見覚えがあるというのなら、それは琴美だって同じだ。誰しもかつては幼いころに自宅や友人宅のこうした子供部屋で遊んだ事ぐらいはあるだろうと彼女は思う。

 

「似たような部屋で遊んだとか、そういうんじゃなくて……この家の、この場所のことを覚えてるんです」

 

 琴美の戸惑いを理解しているかのように答えた智貴はさらに言葉を続ける。

 

「俺、もしかしたら昔ここに住んでたのかもしれません」

「は……え、えっ?」

 

 突拍子もない智貴の告白を聞いた琴美が口をパクパクさせる。いきなりなにを言い出すのだと、普通であればすぐさま否定しにかかるところだ。しかし他ならぬ智貴の言葉を琴美は無下にしたくなかった。

 

「住んでたって、いつの話?」

「ずっと昔だった気がします、俺が本当に小さかったころかも……」

 

 だから琴美は、言葉少なな智貴の心の内が知りたくてさらに質問を投げかける。そうした問いかけに答える智貴ではあったが、彼にも確信はないようでどこか手探りでいる様子が見て取れた。

 

「ご両親からはなにか聞いてない? 今のお家に住む前はここに皆で住んでたってことなのかな?」

 

 閑静な住宅街にある智貴の自宅をこっそり間近で見に行ったことのある琴美はその外観を思い出す。建てられてからまだそれほど年月が経っていないように見える住居であったから、もしかするとあの家が建つ前は智貴の言う通り本当にここに住んでいた可能性も否定できないのだ。

 

「いえ、親父とおふくろは……一緒じゃなかった気がする」

 

 が、琴美の問いかけにまたしても智貴は不可解な答えで返す。両親と共にではなく、幼い彼一人だけでこの家に住んでいたとでもいうのだろうか。

 

「そう、女の人が居ました、大人の……。それに、小さい女の子が一人」

 

 記憶を絞るようにして断片的に語る智貴の話は徐々に具体性を帯びていく。自分の口が語るその言葉が呼び水となって、彼にさらなる記憶を呼び覚まさせているのかもしれない。

 

「女の子は、もしかしたら俺の家族だったのかもしれません。大人の人は、多分母親……」

「ちょちょ、ちょっと待って智貴くん!」

 

 智貴の独白に耳を傾けていた琴美であったが、流石に待ったをかけずにいられなかった。今彼はなんと言ったのか。それではまるで、今とは異なる家族と暮らしていたということになるのではないか。

 

「そ、それ、変だよ……だって智貴くんは一人っ子だし、今一緒に暮らしてるご両親の子供でしょ?」

「そりゃそうですけど……。ああ、でも俺、なんでこんなこと覚えてんだろ……」

 

 頭痛でもし始めたのか、智貴が己の記憶の著しい矛盾にこめかみを押さえてしまう。

 

「俺、この屋敷に来たときからずっと思ってたんです……。変な話ですけど、どこもかしこも妙に懐かしいなって……」

 

 そう言いながら、あけ放たれたままになっている扉のほうへふらふらと歩み寄っていく智貴。淡々と己の心情を打ち明けていくその声は僅かに震えていて、先ほどまでは気丈そうに見えた彼が言葉を続けるごとに戸惑いと不安を滲ませていくのが琴美には判ったものだから、彼のそんな様子に胸が痛んで仕方がない。

 

「智貴くん、もういいから、もう大丈夫だから……。変なこと聞いちゃってごめんね、家に帰ったらご両親とそのことでちゃんとお話ししよ?」

 

 だからもう帰ろうと、琴美は扉の前でうなだれる彼に歩み寄ってその背に手を添えてやる。事の真相が気になるところではあるが、智貴の辛そうな様子に耐えられない琴美は想い人を悩ませるこの屋敷から一刻も早く連れ出してあげたくて仕方がなかった。

 

「先輩……これ見てください」

「え?」

 

 が、智貴は己の目線の先にあるドア枠を指し示し、琴美にそのようなことを言う。言われた琴美がそちらに目を向けてみれば、そこには釘かなにかで彫ったような傷が付けられていた。

 

(背比べの跡かな……?)

 

 幼い子供が自身の身長を測るために彫ったようにも思えるそれは、よくよく見れば二人分彫られている。横線が縦並びで幾つか刻まれているところからして、おそらくは折あるごとに記録されていたのであろうことがうかがえた。

 

「あっ!?」

 

 それをまじまじと観察する琴美は、あるものを見つけて驚きの声をあげた。ふたつの背比べの跡に添えるようにして『トモコ』『トモキ』と名が記されていたのだ。智貴の朧げな記憶を裏付けるかのようなその痕跡に琴美は瞠目する。

 

「俺、やっぱりマジでこの家に住んでたんですよ。ここで女の子と背比べしてたの、なんとなくですけど思い出してきました」

 

 この証拠を前にして幾分か迷いが晴れてきたのか、今度は確信を持ったかのように語る智貴であるが、その額には少なからず冷や汗が浮かんでもいた。

 

(女の子って、まさか……)

 

 智貴の言葉を受けて琴美がまっさきに思い浮かべたのは、脱衣所で自分が見たあの鬼の形相をした少女のことであった。まさかあれが智貴の言う女の子だったのではと、その正体の一端を掴めたような気がする琴美。

 

「じゃあ、ここってやっぱり今も誰か住んでるのかな……? その、お母さんと女の子とかが……」

 

 生活感のない廃墟一歩手前な屋敷の割に妙なところでライフラインが生きていたりと、そのチグハグさがどうにも釈然としない琴美ではあったが、智貴の言うようにこの屋敷で彼がかつて誰かと暮らしていたというのであれば、今もその人たちがここで生活を続けている可能性は否定できなかった。あの温室のガラス戸に書かれた智貴の名前も、実際に彼のことを知る者による仕業だと考えれば合点がいく。

 

「判りません……ただ、あのミイラはそのどちらかだったんじゃないかって、そんな気がします」

 

 あれが作り物でなく本物だとしたら、それはかつての同居人の成れの果てなのではないか。その正体が自分と同じ年頃の女の子であるのか、それとも母親と思しき女性であるのかまでは判然としないが、ともあれ智貴の中では自身の遠い記憶の中にある人々と例のあのミイラとが結びついてしまう。

 

(きっとあの子だ……。あの幽霊は、ミイラになった女の子だったんだ……)

 

 智貴の口にするそうした推測を前にして、琴美はひとつの確信を得る。闇の中に浮かぶ不気味な誰かの目、そして脱衣所で目にした凶相の少女。琴美がこれまで遭遇したあれらの正体こそは、このドア枠の幼い成長記録に名を残す〈トモコ〉なる女の子が成長した姿だったのではないかと。

 

(さっき聞こえたあの声も、あの電話も……)

 

 先ほどまでこの部屋でお喋りをしていた何者かの声と、ホールにて電話を通し口汚く罵ってきた声とが琴美の中で重なる。あの子供なのか老人なのか判らない独特の声で喋っていたのはいずれもトモコの幽霊だったのではないかと、今更ながらにそう思えてきてならない琴美であった。

 

「先輩……やっぱり俺、もう少しだけ……」

 

 しばしのあいだ考え込んでいた琴美に、傍らの智貴がなにかを切り出したがっている様子で歯切れの悪い言葉をかける。そんな彼がなにを言いたいのかを、琴美はなんとなくだが察してしまった。思いがけず過去の自分と縁のあるこの場所に訪れてしまった智貴としては、このまま中途半端な形で屋敷を去ることに抵抗があるのだろうと、その心情を慮る。

 

「いいよ」

 

 だからこそ、言い出し辛いその意向を智貴が口に出す前に琴美はふたつ返事で了承してみせる。

 

「もっと調べてみたいんだよね? この家のこと……智貴くんが忘れちゃってた昔のこととか」

「ほんとすみません……俺のワガママなのに」

 

 心底申し訳ないといった様子で智貴が琴美に対して深く頭を下げる。彼としてもこの屋敷の異常性を重々理解してはいるようだ。ただ、智貴よりもさらに多くの怪異に遭遇してきた琴美からすると、そこにはまだ幾分か危機感が足りていないようにも見えてしまう。だがしかし、ならば自分こそがそれをフォローすべく力を尽くして彼のことを守り通すべきなのだと彼女は考える。

 先ほど風呂場にて危うく殺されかけてしまったことをもし琴美が今この場で打ち明ければ、きっとその身を案じて智貴は自分の気持ちを抑えてでもすぐさま一緒に帰ってくれようとするだろう。それが判っているからこそ、琴美はそのことを口に出さない。なにが起こるか判らないこの場所に留まり続けることが自分たちにとって危険であるとは判っていても、それでも琴美としては自身の愛して止まない青年がこうまでして願い出るその切実な想いを尊重してあげたいのだ。

 

「とりあえずあのミイラの部屋の日記だけでも持って帰って、それでもう帰りますから……」

 

 智貴としても長居するつもりはないようで、屋敷を去る前に手土産としてあの手がかりになりそうな血まみれの日記だけでもせめて持ち帰りたいということのようだ。後のことは無事家に帰ってから直接自分の両親に聞くなり、警察に屋敷を調べてもらうなりして事の真相を探る気でいるらしい。

 

「先輩も、付いてきてくれますか?」

 

 さりとてこれまで琴美はずっと帰りたそうにして度々怖がっていた訳であったから、そんな彼女を振り回してしまっているという自覚のある智貴は遠慮がちにそう尋ねる。

 

「うん、もちろんっ」

 

 そのような智貴に琴美は迷わず即答する。付いてきて欲しいという智貴の申し出をきっぷの良い返事で快諾してみせたその顔には、愛する男性の求めに応じることへの喜びすら浮かんでいた。

 

「大丈夫だよ。私、智貴くんの行くところならどこだって付いてくから」

 

 だから、これからもずっとずっとあなたに付いていきます。そうした本音混じりの最後の一言を、琴美は心の中でだけ呟くのだった。




続く
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