もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(9)

変態vs怨霊

 琴美にしてみれば()()との遭遇はこれで三度目となる。であるが故に正気に返るのは早かった。床に置き忘れられそうになっていたデッキブラシを咄嗟に拾いあげると、それを構えた琴美は智貴を庇うように前へ出てみせる。

 一方の智貴はといえば、彼にしてみると初の遭遇となる()()の姿を目の当たりにし、あまりの驚きに体を動かすことはおろか声すら出せないままでいた。本来琴美よりは余程肝が座っていると言える智貴ではあったが、さしもの彼も()()を前にして固まらずにはいられなかったようだ。琴美がこれまで幾度か経験させられてきた戦慄を彼もまた味わっているのだろう。

 ()()は──〈智子〉たる少女はそんな二人のことを扉の隙間から覗き込み、人形が如く微動だにせず凝視し続けていた。その瞳はまったく揺らぎもせず一切の瞬きもしない。ただただ暗く深い闇を目から垂れ流し、視界に捉えた者を包み込んで異界へと連れ去らんとする禍々しさを放ち続ける。

 

(コイツを智貴くんに近づけちゃ駄目だ……!)

 

 目の前の異様な存在がただ自身の弟との再会だけを望んでこの場に現れたとは到底思えない。この智子はなにかを考えている。それはきっと智貴にとって非常によろしくない結果を齎すのではないかと、琴美にはそう感じられてならない。だが追い払おうにも相手はこの世ならざる存在。超常に対抗しうる力など持たない琴美であるからして手の打ちようがなかった。

 試しにお経っぽいものでも唱えてみようか、あるいは心霊番組の除霊師がよくやるように「あなたはもう死んでいる云々」的な説得を試みようか。そんなふうに知恵を振り絞る琴美であったが、

 

 ──バタン テッテッテッ……

 

 急に智子の霊が顔を引っ込めて、そのまま扉を閉じてしまった。続け様に廊下を駆けていく足音が遠ざかっていき、やがてそれも聞こえなくなった。

 

(どっかいったのか? なんで……?)

 

 智子霊の行動に意表を突かれた琴美であったがひとまず脅威が自ら去ってくれたのであればそれに越したことはないと、ふぅと息を吐いて傍らの智貴を振り返る。

 

「あ、智貴くん、大丈夫だった?」

「はい、まあなんとか……」

 

 そのように気丈な返事をしてみせる智貴であったが、きっと心臓が飛び出るような思いをしたのだろうと、彼の顔に浮かぶ気疲れの色を見て実際のところの心情を察する琴美。

 

「先輩、今のってもしかして……」

「うん、きっとあれがお姉さん……智子さんなんだと思う」

 

 あれが人ならざるものであると直感的に理解したのか、智貴は先ほど出くわしたのがこの世ならざるもの、つまり自身の亡き姉の幽霊かなにかであると察したようだ。さりとて姉弟感動のご対面とはいかず、その様子からして彼の心の中は心霊的存在にこうもあからさまな形で遭遇してしまった動揺で満たされているだけのようだ。

 

「また戻って来ないうちに逃げよう?」

「そう、ですね……」

 

 あのようなとんでもない存在がこの屋敷に潜んでいたのかと、智貴も事ここに至ってようやく強い危機感を募らせたのか、琴美の言葉にすぐさま同意してみせる。先ほどの朗読会によって一応は真相と言えなくもない情報を知ることができたのだから日記を持ち帰れずとも最早問題はなかった。なぜか去っていった智子霊が再びこちらに戻ってこぬうちに琴美たちは早々にこの部屋を出て行かなくてはならない。

 そうしてひとまず閉じられた部屋の扉をあけようと、先頭に立つ琴美がそのドアノブに手をかけるが──

 

「ヒャッ……!」

 

 途端、琴美の全身がぴぃんと起立した状態で硬直した。体中の筋肉がギチギチと音を鳴らしているのではないかと錯覚するほど激しくこわばる。髪の毛が派手に逆立ち、その目は外眼筋の限界を超えてグルリと上を向く。

 それは強烈な一撃であった。琴美の握ったドアノブを伝って彼女の体に電気が流されたのだ。

 

「先輩っ!」

 

 ドアノブを握ったまま異常な震え方をしだした琴美の変調に気づいた智貴が、咄嗟に彼女の肩を掴んで扉の前から引き剥がそうとする。途端、琴美の体に流れる電気が智貴にも伝わっていくが、彼はどうにか脚を前に突き出して扉を踏み付けると琴美をつかんだまま後ろ向きに倒れ込んだ。

 智貴が電気に触れてしまったのは僅かなあいだのことであったから腕が痺れる程度で済んだものの、対する琴美はと言えば背後の智貴にのしかかったまま天を仰いで痙攣してしまっている。

 

『アハハハッ、イヒヒヒッ』

 

 そんな琴美をおもしろがるように扉の裏側からけたたましい笑い声が響いた。耳にするだけでも心底ぞっとさせられるような、邪悪な意思が込められた悪魔の声だ。どうも智子は去った振りをしつつもその実ずっと扉の前に張り付いていたらしい。

 

(ク・ソ・ム・シ……ブ・チ・コ・ロ・ス……!)

 

 全身を電撃によるショックで痛めつけられたものの智貴の咄嗟の救出で一命を取り留めた琴美であったが、頭の中をショートさせていた火花が過ぎ去った途端、間髪入れずに今度は怒りの特大火花が炸裂する。できることなら今すぐにでも起きあがり扉の向こうの智子へ飛びかかってしっちゃかめっちゃかに噛み付いてやりたい琴美であったが、悲しいかな体のほうは言うことを聞いてくれず指先ひとつ満足に動かすことができない。

 と、そんな琴美の耳に扉が勢い良くひらかれる音が聞こえた。首が動かせず天井を眺めることしかできない琴美ではあったが、智子が部屋の中に入ってくる気配を受けて焦りが募る。

 

(智貴くん、逃げて……!)

 

 そう叫びたかった琴美であったが声にもならぬ掠れた吐息が出るばかり。智子の霊はまたもや智貴のことを連れていくつもりに違いないというのに。

 どうにか起きあがってみせようと奮闘する琴美であったが、その視界の端に智子らしき者の立ち姿が映る。目だけを動かしてそちらを見やってみれば、あの死人のような、いや正に死人に相応しい肌色をした少女の顔を下から仰ぎ見る形になったのだが、智子がその死魚が如き暗い瞳で琴美をじっと見おろしていたので必然目と目が合ってしまう。

 

(くそっ、あの猫みたいな顔しやがって……!)

 

 寝そべったままの琴美に投げかけられていた智子のその眼差しには勝ち誇ったような嫌味たっぷりの嘲笑の色がありありと浮かんでいた。それを受け、琴美は例のいけ好かない黒猫のことを思い出さずにはいられなかった。この屋敷を訪れたばかりのころ、智貴の肩にのぼった猫がなんとも嫌味ったらしい表情で琴美のことを見おろしてきていたが、今こうして自分を見おろしている智子の表情とあのときの猫の表情とがぴたりと重なってしまったのだ。もしかするとこの智子こそがあの黒猫の正体だったのではないかと、そのようにすら思えてくる。

 

「んじゃ、行こうか? そんなの放っといてさ」

 

 喋った。いま初めて智子が明確な意思を感じさせる言葉を発した。幽霊のくせに随分と砕けた口調ではないかと琴美は意外に思う。そしてまた、智子の声色が例の電話口で自分を罵ってきたあの憎らしげな声とまさしく同じものであるとも感じていた。

 変態だのなんだのとしつこく馬鹿にされ、言い返す暇もなく一方的に電話を切られてしまったときの怒りが蘇る琴美であったが、智子のその呼びかけが己の背後でクッション代わりになってくれている智貴に向けられたものだと察し、待ったをかけようとする。

 

「だ……め……行っ……ちゃ」

 

 痺れきったままの唇をひらいてどうにか言葉を紡いでみせる琴美。動け動けと己の体に活を入れる琴美であったが、気持ちばかりが空回りして体のほうはそうした呼びかけに碌に答えてくれそうもない。

 

「あんた……マジであんとき俺を呼んでた奴、なのか?」

 

 身を起こした智貴が、対峙する悪霊に向かってそう問いかける。智子のその声に聞き覚えがあるのは琴美だけではなかった。智貴もまた、かつて夢の中で散々聞かされた声と智子霊の放つ声とが同じ響きであることを感じ取り、目の前の存在がかつて自身を悩ませた悪夢の少女の正体であると理解したようだ。

 

「そうだよ」

 

 智貴の問いかけを受けた智子はニンマリとした笑顔でそう答え、続けて中腰の姿勢になって顔を突き出しこう言い放つ。

 

「お姉ちゃんだよっ、お前の!」

 

 どこかはしゃいでいるようにも見える智子のそうした振る舞いはあたかも生きている人間のようで、彼女の様子を仰ぎ見ていた琴美は、その顔色までもがいつのまにかすっかり良くなっていることに気づいた。しかしこれが紛れもなく亡霊であることを思い知っている琴美にとっては、そのこと自体が甚だ不気味に映る。先ほどまで確かに灰色めいていたはずの肌がやにわにこうも色付いたりするなど明らかに人間の生理反応ではあり得ないことだ。

 

「ずっとずっと待ってたのにさぁ」

 

 頭をリズミカルに揺らして智貴の顔をじろじろと観察する智子は、あの敵意に満ちた毒々しい声が嘘であったかのように、猫が人に甘えるときのような様子で彼に語りかけていく。

 

「お前があんまり遅いから姉ちゃん死んじゃったんだぞ? どうすんだよ、なあ?」

 

 そのようなことをあっけらかんと言いながら笑う智子は、おもむろに膝をついて智貴の傍らに座り込む。

 

「こんなに姉を待たせてたくせに、自分だけのうのうと青春を楽しんでさ」

 

 智子に顔を寄せられて思わず仰け反る智貴が、さらに詰め寄った智子から耳元へそのようなことを吹き込まれているのが琴美にも判った。智貴の身の危険も顧みず無理やり連れてこようとしていたくせになんとも勝手なことを言ってくれるものだと歯噛みしたくなるが、顎に力の入らぬ琴美にはそれすらできない。

 

「お前は悪い弟だなぁ」

 

 じわりじわりと智貴をなじる智子ではあったが、言葉に反してその表情や声色にはどこかうっとりとした感情が浮かんでおり、腹を立てている様子は見られない。が、対する智貴はといえば琴美の目にも明らかなほどにその顔には人ならざるモノに間近で迫られることへの恐怖の色が浮かんでおり、呼吸を乱す彼の息を呑む音が聞こえてくる。

 と、急に智子が両の腕を智貴の首に回したかと思うと、そのまま彼の頭を抱え込むようにして自身の胸にぐいと抱き寄せる。

 

「おかえり、ト・モ・ク・ン」

 

 部屋中に染み渡るような重い響きを含んだ智子のその呟きを受けて智貴が体を著しく強張らせたことが、彼に支えられたままになっている琴美にもハッキリと伝わる。琴美も経験させられたあのぞっとする冷ややかな肌の感触を、智子に抱きしめられている智貴もきっと今この瞬間に与えられているのだろう。

 

「これからはずっと姉ちゃんと一緒に暮らそうな」

 

 遂には智子が頬ずりまでし始めるものだから、そのおぞましさに智貴の顔がますます歪む。そんなやりとりを見守っていた琴美もまた、今しがたの智子の言葉を聞いて僅かに動くその眉をしかめる。

 

(こいつ、やっぱり智貴くんのことを……!)

 

「一緒に暮らす」ということはつまり「この家で」ということだ。智貴をこの屋敷へ連れ戻すことに執着していた智子であったから、今の彼女の狙いがどういったものであるのか琴美にはおよそ見当が付いてきた。要するに智子はこの奇怪な屋敷に智貴を閉じ込めて一生逃げられなくするつもりなのだ。

 

「もうどこにも行くんじゃないぞ? いいな?」

「……いいや」

 

 なおも猫撫で声で智貴に囁き続ける智子であったが、そんな彼女の一方的な要求を受けて智貴がようやく口をひらく。

 

「俺たちは……帰る」

 

 顔は甚だ青く声には震えが滲む智貴ではあったが、姉からの求めを振り払うように彼は気を張り智子を睨み付けて明確な拒絶の意を示してみせた。そんな彼の手が己の懐で伏したままでいる琴美の肩をぎゅっと掴んだ。

 

「オレ()()?」

 

 その宣言を聞いた智子が面食らったような顔になり、それまで抱きしめていた智貴の頭を突き離す。そうして倒れ伏したままでいる琴美のほうをじろりと横目で見る。

 

「ふぅん。帰る、ねぇ……」

 

 再び視線を智貴に戻した智子の目は先ほどの甘ったるい様子から一転冷え切ったものへと変わっており、その肌には熱が抜けていくようにして再びくすんだものが入り混じっていく。

 

「オマエ、なんかカンチガイしてるだろ?」

 

 やおら立ちあがった智子の、その暗い瞳の奥に赤く小さな光がポッと灯り、それがじわじわと目の中に広がっていく。そのただならぬ様子を目の当たりにして、いまだ回復に至らぬ琴美は勿論のこと智貴もまた金縛りに遭ったかのように動くことができない。

 

「オマエは、カエッテキタんだよ」

 

 智子の顔が、怒りで歪むハンニャのそれへとみるみる変貌していく。琴美が脱衣所で遭遇したときのあの顔だ。

 

「ココが、オマエの、イエだろうがッ!」

 

 智子の両の眼が遂には溢れんばかりの光を迸らせ、にぶく鋭く輝いた。途端、それまで琴美を支えてくれていた智貴の体が彼の意に反して引きはがされていったため、支えを失った琴美は後頭部を床に打ち付けてしまう。

 

「うおおおっ……!」

 

 突然頭に加えられた衝撃のせいで軽い眩暈を起こしてしまった琴美の視界の上を、宙に浮いた智貴が叫び声をあげて勢い良く通り過ぎていく。そうして数瞬の後、廊下のほうでなにかが強かに床へ落ちる音と、その後に続く智貴の苦しそうな咳き込む声とが聞こえてきた。

 首を動かせないためにうまく状況が把握できない琴美であったが、今正に自分の目の前で智貴が明らかな危害を加えられたことだけは確かに理解する。おそらくは智子の持つ超常の力によって智貴が廊下のほうへと乱暴に投げ飛ばされてしまったに違いないのだ。

 

(こ、このヤロォォォ!)

 

 己の人生史上、おそらくは最高レベルに達したと思われるほどの怒りを込めて、その血走る目を智子に向ける琴美。ああ殺す、殺す殺す殺してやるとも、既に死んでいる相手だとしても構うものか、もう一度殺して地獄の底に沈めてやると、琴美は心の中で激しく吼える。一人の淑女が今、一匹の鬼と化した瞬間であった。

 と、それまでさっぱり動かないでいたはずの己の手がいつのまにか骨が軋むほどに強く拳を握り締めていたことに気づいてハッとする。それまではすっかりどこかへ消えてしまっていたように感じられていた四肢の感覚が今再び戻りつつあることを琴美は確かに感じた。それは電流に焼かれる寸前まで痛めつけられていた彼女の神経がここにきて急速にその機能を回復させ始めた表れなのかもしれない。

 

「しゃあねえ、ちぃと教育してやるか……」

 

 対する智子はと言えば愛しいはずの自身の弟に容赦のない暴力を振るったにもかかわらず涼しい顔をして、もとの暗緑色に戻った目で廊下のほうを見やってそのようなことを呟いていた。その様子からは足元で自身を激しく睨み付けてくる琴美のことを歯牙にもかけていないことが見て取れる。

 そうして智子がヒョコヒョコと軽い調子で廊下のほうへと足を運んでいく。神出鬼没な幽霊のくせしてわざわざ歩いたりするのは単に彼女の気まぐれなのか。しかしそうして生まれた僅かな時間が琴美に口をひらかせる猶予を与えた。

 

「ま、て……よ」

 

 自分を引き止めるその声に、智子が歩みを止めて琴美のほうへ向き直る。智子をしっかと睨み据えた琴美は今、床に取り落としていたデッキブラシを拾って支えにしながらもヨロヨロと立ちあがってみせたのだ。そんな彼女の様子を智子はただ黙って見つめている。

 

「智貴くんは……帰るんだ、私と、一緒にっ!」

 

 遂には両の脚でしっかり体を支えるに至った琴美は、腹に力を込めつつ大きな声で啖呵を切ってみせた。

 

「……あーっと、お前、なんて言うんだっけ? ええと……ほら、さっき自分で名乗ってただろ」

 

 そうした琴美の啖呵にもなんら反応することなく、智子は己の曖昧な記憶を確かめたい様子で琴美の名を尋ねる。例の子供部屋の前で琴美が扉をノックした際、自ら名乗ったときのことを指しているようだ。

 智子の背後で扉が突然ひとりでに閉まる。それはこれから部屋の中で起こる出来事を廊下で倒れ込む弟の目に入れてしまわぬようにと智子なりに配慮を働かせたが故のことか。

 

「小宮山、だ……小宮山、琴……」

 

 そんな智子の問いかけに律儀に答えようとする琴美であったが、同時に手にしたデッキブラシを大きく振りかぶり──

 

「美ィッ!」

 

 幽霊相手にそのような攻撃が果たして通用するのかどうかといったことはお構いなしに、琴美は渾身の力を込めて得物の重心部分を智子の脳天へと一切の加減なしに振りおろしてみせた。それは仮にもし相手が人間であったとしてもためらいなく放たれたであろう迷いのない一撃であった。

 

「……っ!」

 

 琴美は振りおろした得物から伝わる手応えを確かに感じた。しかしそれは粘土の塊を断ち切ったような、およそ人体を打ち据えたとは思えないなんとも不自然なものだった。琴美が全力で振りおろしたデッキブラシが勢い良く智子の脳天から胸の辺りまでをばっさりと縦に割ったのでギョッとしてしまう琴美であったがすぐさま得物を引き抜こうとする。しかしまるで智子の体内から握り締められているかのようにいくら力を入れてもその体に深く入り込んだデッキブラシは引き抜けそうもなかった。

 そうこうしているとまるで粘土細工のように分断されていた智子の上半身が突然ぐにょぐにょと変形して結合していき、再び人の形を作っていく。

 

「こみなんとか、だっけ? お前さ、中々おもしろかったよ。久しぶりに結構笑ったかも」

 

 見るまに己の姿を元通りに復元せしめた智子。その体内に残されたデッキブラシがあたかも胸の辺りから生えているような形になってしまう。

 おもしろかった、というのはこれまで幾度か琴美を陥れることで味わった愉悦のことを言っているのだろう。智子の瞳に再び赤い光が灯ってゆく。

 

「まあでも、私たちこれからちょっと用事があんだよ。だからお前」

 

 智子が片手を前に差し出し、あたかも照準を合わせるかのようにしてその手のひらを琴美に突きつける。

 

「そろそろ死んどけ」

 

 智子がそう口にした瞬間、浮きあがった琴美の体が勢い良く壁に叩き付けられた。続け様に今度は反対側の壁へと激突させられる。すると今度は天井へ、そして床へ。そうしてゴム鞠のように室内を無軌道に跳ね続ける琴美。

 ものの数秒もしないあいだにボロ雑巾のようになってしまった琴美は今、とめどなく鼻血を垂らしながら磔にされたかのように宙に浮いていた。かすかに息をしてはいるもののその目は眠るように閉じられており既に意識を失っているようだ。

 

「んじゃな、もう戻ってくんなよ」

 

 智子が別れの挨拶を口にすると、琴美に向かって指で爪弾くようなジェスチャーをする。途端、矢のような勢いで琴美の体が部屋の窓ガラスを突き破って外に広がる暗闇へと投げ出されてしまった。

 

「おっと、汚い眼鏡だなぁ」

 

 無残な姿と化した琴美の相棒が床に落ちているのを目ざとく見つけた智子はそれらの破片もいっしょくたにして宙に浮かせると、風穴の空いた窓からまとめてほうり捨てるのであった。




続く
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