もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(10)

ハウス・オブ・もこママ

 目を覚ました琴美の視界に、緑を基調とする壁紙で飾られた天井が映る。しばらくそうして呆然と天井を見つめていた琴美であったが、おもむろに頭を動かしてみれば自分がどこかの部屋の中に居ることに気づく。彼女はそこで床に寝そべっていたのだ。

 手を突いてゆっくりと上半身を起こした琴美はひとまず肺の中の空気を入れ替えるようにふぅーと息を吐いてから大きく吸い込む。それに合わせて部屋の中に漂う古ぼけた匂いも嗅ぎ取ったのだが、それは琴美には馴染みのあるものだった。

 

(本の匂いだ……)

 

 それなりの読書愛好家でもあり、かつては学校で図書委員を務めることもあった琴美にとって、その独特の匂いが古めの書籍に特有のものであることを察するのに時間はかからなかった。

 

(書斎なのかな、ここ)

 

 ズレていた眼鏡をかけ直しつつ改めて室内の様子を見渡してみれば、そこには壁一面に並べられた本棚の中に無数の書籍がぎっしりと収められており、窓際には重厚な作りの書斎机が据えられていた。体に力を込めて立ちあがった琴美が窓の向こう側に目を向ければ、そう高くない距離にある地面へと窓枠の影が落ちているのが見て取れる。とすればここは屋敷の一階なのであろうか。智貴が脱衣所から姿をくらました際は彼を探して一階部分の部屋を手当たり次第に見て回っていた琴美であったが、このような部屋があったとはとんと気が付かなかった。

 そもそもなぜこんなところで寝ていたのだろうかと疑問に思いはするものの、自分が先ほどまでどこでなにをしていたのかがイマイチ思い出せない琴美はなんとはなしに本棚のほうへと歩み寄っていく。読書家の性であるのか、どのような本を揃えているのだろうかとつい確かめたくなった彼女は棚に収められた本の背表紙をざっと流し見していく。

 

『中世魔術と魔女』、『精神病理と超心理学』、『ソビエトの魔術師達』、『戦前戦後の超能力者』

 

 このように一部の書籍にはオカルト寄りのものも含まれてはいたが、それ以外については大半が心理学に関連する専門書などで占められていた。それはこの部屋の主がその道の研究家であったか、さもなくば本職の人間であったことをうかがわせる。

 

(小説は……ないな)

 

 いまだボンヤリとした頭でそのような益体もないことを考える琴美であったが、なにか大事なことを忘れているような気がした彼女は、果たしてそれがなんであったのかと、ゆらゆら歩いて本棚の検分を続けながら思い出そうとする。

 

(おっ?)

 

 と、なにかに気づいた琴美がふと顔をあげる。別に興味を惹かれる本が見つかったという訳ではなく、壁に沿って並べられている本棚の切れ目に差しかかった際、棚に寄り添うようにして立つ大きななにかが目の前にあることに気づいたためだ。そこには重々しい雰囲気の西洋甲冑がシャンデリアの光に照らされその身を鈍く輝かせていた。

 

「うあぁっ!?」

 

 思わず飛びのいてそこから距離を取った琴美が改めて鎧を注視する。いきなりのことに心臓を飛び跳ねさせた彼女からは先ほどまでのどこか夢見心地のような感覚はすっかり抜け落ちてしまっていた。

 そうしてしばらく鎧に警戒心を向けていた琴美であったが、いつまでも大人しく直立不動で佇んでいるその様子にひとまずは安心したようでふぅと息を吐く。

 

(そういや玄関にもこんなのあったな……知らんうちに消えちゃってたけど)

 

 琴美の脳裏に、屋敷の玄関ホールに飾られていたあの鎧の姿が思い起こされる。しばらく目を離していたあいだにそれがいずこかへと消え去ってしまっていたものだから、あのときはひどく不安になって傍らの智貴の服を掴んだりしたものである。

 

「あっ……!」

 

 そのような記憶を反芻していた琴美であったが、重要なことを思い出したように声をあげる。

 

(そうだ! 智貴くんっ、智貴くんがっ!)

 

 それまでどうにも頭にもやがかかっていた琴美であったが、ここに至り完全に己を取り戻した様子で辺りをせわしなく見回す。確か自分は例の部屋で智子と対峙していたのではないか。智貴に危害を加えられて激昂した自分はあの化け物に食ってかかり、そうして確か、そのまま……。

 

(でも怪我とかしてないみたいだけど……)

 

 試しに己の体をあれこれ動かして見る琴美であったが、特に痛みのようなものは感じられない。記憶が確かならば、智子が自分に対して手を向けた途端、猛烈な勢いで壁に激突させられたはずではなかったか。その後も繰り返し部屋中に叩きつけられたような気もするがその辺りの記憶はどうも曖昧だった。

 

(これ、私の血だよな……?)

 

 己の着ているシャツの首元が血で汚れているのに気づいた琴美が自身の顔を手で撫でて確かめる。と、確かに鼻から顎にかけて血の跡が残っていることが認められた。壁に叩きつけられて鼻血でも出たのだろうかと思いはするものの、幾分か衣服が汚れていたり所々破れていること以外は特に異常がなかったため首を傾げざるを得ない。そもそも破れているのはもともとがそのような意匠のあしらわれたデザインであったからなのだが。

 ともあれ琴美は口元に付いていた血を拭い取る。

 

『よかった、もう大丈夫そうね』

「わーっ!」

 

 どこからともなく突然声をかけられてしまったものだから、またもや心臓を躍らせた琴美が声をあげて小さく跳ねる。

 

「だ、誰……っ!?」

 

 声の出どころを掴もうと辺りを落ち着きなく見回す琴美。しかし室内には自分と目の前の鎧以外は誰の姿も見当たらない。

 

『あらごめんなさい、驚かせちゃったかしら。安心して。ここに智子は入ってこれないから』

(えっ、なに!? もしかしてこれって……)

 

 目の前どころか己の内側から聞こえてきたその声に、琴美は両手を頭に添えて意識を集中させる。

 

『そうよ。今、あなたの中に直接話しかけているの』

 

 凛とした響きを持った女性の声が確かに自分の頭の中へと語りかけてきているのを琴美は理解する。これはいわゆる〈テレパシー〉というやつなのだろうか。心に直接語りかけられるなど琴美にとっては生まれて初めての経験であるが故に戸惑うばかりではあったが、ひとまず彼女は聞こえてきたその声に対して頭の中で返答してみせる。

 

(誰、なの……?)

 

 そう問いかける琴美としては声の主がいったい何者であるのかが気になって仕方がなかった。

 

『母です。あの子たち……智貴と、智子の』

 

 自分はあの姉弟の母親であると、声の主は確かにそう答えた。それを聞いた琴美が息を呑み、慌てて次なる質問を頭の中で紡ぎ出す。

 

(えと、お母さんって、もしかしてあの日記を書いた人、ですか?)

『ええそうよ。あれは私の日記なの』

 

 よもや著者ご本人とこのように声を通して対面することになるとは。突如降って湧いたこの遭遇に、琴美はいったいなにから尋ねていいものやらと頭をこんがらがらせてしまう。

 あれを聞くべきか、いやいやこれを聞くべきでは。智貴くんは本当に息子なんですか? 彼の名付けの由来はなんですか? 思い出のエピソードなどここでひとつ。私が今なにを考えてるのか当ててみて。おにっ、あくまっ、らいおんずっ!*1

 

『逃げたりしないからゆっくりでいいのよ? 小宮山さん』

 

 聞きたいことが沢山あり過ぎて混乱気味の琴美を見兼ねたのか、声の主がそのように言って落ち着かせようとする。さり気なく名前を呼ばれたものだから、そのことに気づいた琴美が小さな疑問を抱く。なぜ知っているのだと。

 

『さっきあなたが名乗ってたの、私も聞いてたから』

 

 そうした琴美の疑問をまるで正確に察知したかのように声の主が先回りして答えてみせる。が、そのようなことを言われた琴美は却って疑問を募らせる。

 

(聞いてたって……えっと、お母さんって今どこにいるんですか?)

 

 あのとき、隣の部屋辺りでこの声の主は自分たちの騒ぎに聞き耳でも立てていたのだろうか。これまでさっぱり姿を現さないでいた家人のそうした物言いに琴美は居所を尋ねたくなってしまう。不慣れなテレパシーに軽い頭のふらつきを覚える琴美としては、できることならこのような交信手段ではなく直接会って話してみたいのだ。

 

『どこにでもいるわ。私はこの家の中でならどこにだって居られるの』

(ンンン?)

 

 煙に巻くようなそうした答え方に琴美はむず痒いものを感じる。小説の中の一文としてそのような回りくどい表現を使うのであれば問題ないが、実際の会話で同じことをされると話が進まないのである。

 

『ごめんなさいね、ややこしい言い方だったかしら。でも本当にその通りの意味なのよ』

(えーと、つまりどういう……)

 

 さっぱり合点の行かない琴美が改めて尋ねようとした途端、部屋の照明が落ちたかのように周囲が突如として暗闇に包まれた。いったいなにごとかとうろたえる琴美であったが、己の背後に誰かが立っていたことに気づいてそちらを振り返る。

 

『改めてこんばんは、小宮山さん』

 

 暗闇の中で柔らかな光を放って琴美の視界に映るその人物は、慎ましい雰囲気を漂わせる婦人であった。

 

「あ、こ、こんばんは……!」

 

 反射的に挨拶を返す琴美であったが、いったいこの人はどこから出てきたのだろうと考えてしまう。

 

『ずっとあなたのそばに居たのよ? ああでも、正確にはそうじゃないわね』

 

 またもやそうした琴美の疑問を読み取ったかのように答えてみせる女性。こうして対面しているというのに、口をひらくこともせずなおも頭の中へと言葉を送ってくる。

 

『あなたが私の中に居るの。今この瞬間も』

 

「中に居る」とはどういうことか。いったいなんの比喩表現なのか。この人はなにを言っているのだろうか。

 

『この家自体が私の体なのよ。私はこの屋敷と融合させられたの』

 

 ただただ疑問符を浮かべるばかりの琴美に女性は具体的な説明をしてみせた。要するに自分は家と化した非人間的存在であるのだと。意思を持った家そのものなのであると。てっきりこの人も幽霊の類かなにかなのではと思い始めていた琴美ではあったが、予想の上を行く想像もしていなかった答えを聞かされてポカンと口をあけてしまう。

 

『あなたも日記で読んだでしょう? 私の夫があの子の力で鎧にされてしまったって』

 

 そう語る女性の傍らにあの鎧がふっと姿を現す。

 

「え? じゃあ、その鎧って……」

『そうよ、これは夫。もうなんにも言わなくなってしまったけれど確かに私の夫で、あの子たちの父親なの』

 

 女性はその鎧に物憂げな様子でしなだれかかると彼の逞しい銀腕を愛おしそうに撫でさする。

 

『そして私もあの子の力で家にされてしまった……』

 

 そうした女性の一連の言葉を受けて琴美にもようやく事情が飲み込めてきたが、人が家そのものにされてしまうなどなんともイメージが湧かない奇天烈な話だ。それをやってのけたあの智子はやはり正真正銘のとんでもない化け物だということになる。

 ともあれ女性のそうした事情を琴美はひとまずそういうものなのだと素直に受け入れることにする。

 

(じゃあ壁とか蹴ったりしたら痛がるのかな……?)

 

 食堂で智子の仕掛けた罠に嵌められてしまった際、怒りに任せて屋敷に火を放ってやろうとわりと本気で考えてしまったことを思い出した彼女は、実行しなくて良かったと今更ながらに冷や汗をかく。

 

『ふふふ……過激な子ね、小宮山さんって。蹴られても別に痛くはないけど燃やされちゃうのは嫌かしら』

 

 と、そんな琴美の心情が筒抜けであるかのように女性が愉快そうな様子で語りかけてくる。

 

「えっ!? あっ、その、すみません……あの、ちょっぴりそう思っただけなので、本気じゃなくて……」

 

 未遂に終わった放火のことまで見透かされておっかなびっくりの琴美は、頭の中で言葉に出さずとも自分の考えが読み取られているのではないかと思い慌てて弁解しようとする。本気でないと言いつつも本当はやっぱりちょっぴり本気だったのであるから、そんなところも見抜かれているのかと思うと琴美はなんともばつが悪くなってしまう。

 もしかして自分が内に秘めているあんなことやこんなことまで知られてしまっているのだろうかと、そのような心配を抱いた琴美は決して人に知られたくないあんな気持ちやこんな気持ちをうっかり考えてしまわないようにと身を固くして拳を握り締める。が、そのように力めば力むほど自身の愛する青年に対しての秘めたる色欲が心の奥底からモヤモヤと勝手に思い起こされてしまったものだから堪らない。日頃からそのような妄想に耽ってばかりいる彼女の自業自得であった。

 

(あああああ────! ダメダメダメダメッ!)

 

 自身の想い人への変態的欲望をよりにもよってその母親であるという人に知られてしまいかねない。激しい羞恥と焦りに駆られた琴美は堪らず自分の顔を手で覆い隠してその場にしゃがみ込んでしまった。

 

『…………』

 

 急に女性が絶句したかのように押し黙ってしまったため、二人のあいだに沈黙が訪れる。ああこれは絶対にバレたなと、琴美はそのように理解したものだから顔をあげることができない。

 普段の習慣とはげに恐ろしきもの。いつもの己の悪癖を再現してみせるが如く、日頃抱いているような如何わしい思念想念を壊れたビデオデッキのように勝手に再生し続ける琴美の脳であったから、己の頭の電源線があれば引き抜いてやりたくて仕方がない。智子が己の力を碌に制御できぬというのであれば、同じように琴美もまた己の色情をさっぱり制御できないのであった。

 

(ううぅ~……)

 

 この女性にはなにも隠しごとができない。いたたまれなくなった琴美の顔がまっかになってしまい、その目に涙が滲む。琴美が想起してしまった諸々の内容は「誰々くんのちんちん見てみたい」といった程度のかわいげのあるものでは勿論なく、それはそれはアレなソレのくんづほぐれつであったからして、琴美の前に立つこの品の良い女性からすれば卒倒モノであるに違いない。智貴とゼミを通して度々会えるようになったという幸福が近頃の琴美をすっかりピンク色に染めあげてしまっていたのであるが、こんなことなら煩悩を断ち切って日々清らかな気持ちで学生らしく学業に専心すべきであったと切ない後悔がその胸に押し寄せる。

 

『……あなた、智貴のことが本当に好きなのね』

「えっ?」

 

 てっきり侮蔑や嫌悪の感情でも向けられるかと思っていた琴美であったが、どこか好意的な様子で声をかけられハッとなる。いつのまにか周囲の暗闇は消えており、もと居たあの書斎へ戻っていたことに気づくがそこに女性の姿はなかった。

 

(あれ……? お母さん?)

『大丈夫よ、ここにいるわ。さっきのはただの幻覚みたいなものよ』

 

 再び琴美の頭にあの凛とした声が響く。どうやら先ほどまで目にしていたものは、戸惑う琴美のために女性が見せてやっていたイメージに過ぎなかったらしい。恥ずかしさで死にそうだった琴美としては目の前から女性の姿が消えてくれたことに安堵するが、同時に幾ばくかの寂しさをも感じてしまう。

 

『小宮山さん、よく聞いてちょうだい』

(あっ、はい)

 

 と、それまでどこか穏やかだった場の雰囲気を引き締めるかのように、なにやら急に声の主が険しさを含んだ様子でそのようなことを言い出したものだから琴美も畏まってしまう。

 

『あなた、もう逃げなさい』

 

 もしや先ほどの破廉恥な妄想を咎められてしまうのではないかと構えていた琴美ではあったが、声の主は予想に反したことを口にする。琴美よ、逃げよと、かの女性はそう言ったのだ。

 

(え? あの、ちょっと待ってください)

『智子はもうあの子にしか興味がないわ。だからあなた一人だけなら逃げられる。あなたの思ってる通りガレージには車があるの。古いものだけどちゃんと動かせるようにしておいたから……』

(いや、でもだって、まだ智貴くんが……!)

 

 声の主より突然そのようなことを言われた琴美であったから反論せずにはいられない。智貴はあの人外に連れ去られてこの屋敷のどこかで囚われているに違いないのだ。それを置いて自分一人だけ帰るなどそもそも琴美の頭の中には存在しない選択肢であった。

 

(私、智貴くんを助けます! でないと帰りません!)

 

 気持ちの昂りに己の体が火照り出すのを感じつつ、琴美は頭の中で叫ぶようにしてそう主張する。自身の想い人をこの危険な屋敷から連れ出すまではなにがあっても絶対に帰らないという覚悟がその面構えには表れていた。

 

『無茶よ、やめなさい。今度こそ本当に殺されるわ』

 

 そんな琴美の熱意に対し、一方の声の主は冷ややかに警告する。お前如きになにができるのだと、そう言外に含ませているようにも聞こえてしまう。

 

(大丈夫です。大したことないですから、あんな奴)

 

 確かに智子にはしてやられたかもしれないが、現にこうして自分は無傷なままである。壁に叩きつけられて鼻血ぐらいは出たものの、その程度の力しかないのだろうと考えた琴美は智子の力を侮ってみせる。人を鎧や家と融合させてしまう智子のそのズバ抜けた異能の被害者とこうして対話しているにもかかわらず、智貴を助けに行きたいと逸る気持ちからか己が無傷であったのをいいことに敵の力をあえて小さく見ようとしているようだ。

 

『でもあなた、さっきまで死にかけていたのよ?』

(えっ?)

 

 そんな琴美の危うさを戒めるかのように声の主がそのようなことを明かした。しかしそう言われても現にこうして五体満足で傷ひとつないのであるから、琴美としてはどうにも的外れな指摘に感じてしまう。

 

『智子にこてんぱんにやられちゃってもうボロボロだったんだから』

(そうなんですか……?)

『本当よ。あなたは何度も壁に叩きつけられて、そうして最後は窓からほうり捨てられたの』

 

 智子の力で振り回されていた途中から意識を失ってしまっていた琴美であったから己が結果的にどのような惨状に至ってしまったのかについてはまるで記憶になかった。それ故にてっきり大事に至らずに済んだものとばかり思っていたが実際はどうもそうではないらしいことを明かされ戸惑ってしまう。

 

(でもじゃあ、なんで私、なんともないの?)

 

 声の主からのそうした指摘を受けて琴美の中でひとつのあからさまな矛盾に対する疑問が湧きあがってくる。仮に自分がそのような状態であったとすれば体に傷や痛みのひとつも残っていないのはどうにもおかしい。

 

『私ね、怪我してる人の体や壊れた物とかをもとに戻せるの。それで小宮山さんのこと、治してあげたのよ』

(そんなことが……!?)

 

 その眼鏡だってグシャグシャだったんだから、と声の主が言う。一方の琴美はというと、そのようなことが現実に可能なのかと、到底信じられないようなことを聞かされて唸ってしまう。しかし自身が読んでいる漫画のひとつに主人公のそのような力を売りにしていた作品*2があったことを思い出した彼女は、あんな感じのものなのだろうかと考えてひとまずは納得する。漫画世代はこの手の現実離れした話に対する受容性も高いのだった。

 

『あの子、あれでもまだ遊びのつもりだったのよ。運が良かっただけだわ……でなければあなた、きっと八つ裂きにされていたもの』

 

 それこそまるで虫でも殺すかのように、と声の主が脅してみせるので、琴美はそれほどまでに己が危うい状況であったのかと今更ながらに思い知り、背筋に冷たいものを走らせる。怨霊と化し人の心を失った智子はとかく容赦がない。そんな彼女の前に今一度姿を現わそうものなら、殺しそこねた害虫を躍起になって駆除するが如く今度こそ確実に琴美の息の根を止めようとするに違いないのだ。

 が、しかし。だが、である。例えそれが判ったとしても、だからといって小宮山琴美という女が大人しく尻尾を巻いて逃げ帰るかといえば断じて否であった。その程度のことで簡単に諦めてしまうような柔な性根と恋心を彼女は生憎持ち合わせていない。琴美はこれぞと思うことにかけてはどこまでもタフなのだ。だからこそ彼女はこう言う。頭の中ではなく敢えて声に出して宣言してみせる。

 

「それでも……私、逃げません。智貴くんのこと、助けてあげたいんです」

 

 そのためなら死んだっていい。いいや、彼を救い出すまではなにがあっても決して死ぬものか。

 壁を見据える琴美のまっすぐな目には恐れなどなく、迷いも躊躇もなかった。ただそこにあるのは、愛する男性のために命すら懸けることも惜しまないという、一人の情の深い女の祈りにも似た献身的な愛だった。今この場に琴美の姿を見ることのできる者が居たとすれば、どこまでも純粋な心根を持つ彼女のその背に、羽根を舞わせて美しく広がる純白の翼を幻視しただろう。一匹の鬼であった琴美の心境は今、天の光を背負(しょ)って立つ御使いのそれへと至っていた。

 

『ああ……あなたって子は……』

 

 琴美のそうした揺るぎない心の内を読み取ったのか、声の主は嘆息する。それは琴美の頑なさに呆れたが故なのか、あるいは彼女の心の輝きの中に我が子を救いうるかもしれない可能性を見たからなのか。

 

『あの子は果報者ね……小宮山さんみたいな子が彼女になってくれて嬉しいわ』

「か、かのじょっ?」

 

 声の主から突然そのようなことを言われたものだから、琴美は両手を盛んに振って否定しにかかる。

 

「違いますっ! わ、私、全然彼女とかそういうのじゃなくて……! そんなの、私なんかが畏れ多いっていうか……」

 

「畏れ多い」などとは流石に卑屈が過ぎるのではないかと思われる琴美のあたふたとした弁解を受け、声の主はおもしろがるように言葉を続ける。

 

『あらそうなの? でもあの子のこと、好きなんでしょう?』

「あ、ええと……あ、その……す、好き、です」

 

 この声の主に隠しごとは一切できないのだと思い知っている琴美は、照れに照れつつ素直に己の気持ちを白状してみせる。よもや本人に告白する前にその母たる人物へと自身の赤裸々な思いの丈を晒すことになるとは。波乱含みの展開を定石とする巷の恋愛物ドラマに負けず劣らず己の恋路もまた中々に数奇なものであると思う琴美であった。放送禁止な己の妄想まで知られてしまったことはまことにご愛嬌である。

 

『ふふっ、いいわねぇそういうの。夫と付き合い始めたころを思い出すわ。ウチはね、私が高校生だったときに……』

 

 琴美のそうした初心な反応に喜色を滲ませる声の主はそのまま上機嫌な様子でお喋りを続けようとしたが、今はそのような場合でないことを思い出したのかすぐさま態度を改める。

 

『小宮山さんともっとお話ししたいけどそうも言ってられないわね。あの子、智貴になにかしようとしているようだから』

 

 名残惜しそうな様子でそのように切り出した声の主であったがそれは琴美とて同じ思いだった。このような状況でさえなければ話してみたいことはまだまだある。互いのあいだに交わされたやり取りはごく短いものであったが、智貴の実母であるというこの婦人に対して琴美は早くも好感を持ち始めていたのだ。

 

『あなたの気持ち、良く判ったわ。だったら私にも協力させて頂戴』

「あ、は、はい……!」

 

 そう言って声の主が本題に入ったので、それを受けて琴美の背筋も伸びる。自分一人で智子相手に勝ち目の薄い戦争を始めるつもりでいた琴美ではあったが、こうした思わぬ援軍の登場は彼女にこの上ない心強さをもたらす。暗闇の中で一筋の光明が、僅かな希望が見えてきたかもしれない。

 

『智子の力は確かに強いわ。私もあの子に抑えられているときは力をうまく出せないでいるの』

 

 どうも声の主は本来の力を十全に発揮できないでいるようだ。そうした自身の状況を説明する彼女であったが、その後に「でもね」と思わせぶりに続けてみせる。

 

『あの子の力には秘密があるの』

「秘密、ですか?」

『あなたも目にしたはずよ。この家を囲んでいる花畑……智子が植えたあの弟切草の花を』

 

 そう指摘されて、琴美はここで度々目にしたあのいわくつきの黄色い花を思い出す。確かあれらは日記によれば智子が自分で屋敷の敷地に植え続けていったものではなかったか。

 

『あれが今の智子の力の源になっているの。もともとのあの子の力はもうとっくに使い果たされていたのよ』

 

 これもまた日記にあったように、智子はあまりにも無謀な力の使い方をしたが故にその反動で力を失い、遂には生命力までもが体から抜け落ち干からびてしまったということであった。だがそんな智子が怨霊として復活した後に往時の力を取り戻すことのできた秘密が例の花にあると言うのだ。

 

『あの花にはね、智子の強い気持ちが込められていたの。あの子がずっと植え続けてきたあの花たちがいつのまにか智子の分身みたいになっていたんでしょうね』

 

 そこまで聞いて、琴美は自分がこの屋敷を訪れた際に見た光景を思い出してしまう。屋敷を取り囲む辺り一面の弟切草畑が久方ぶりの来訪者を──そして智貴の帰郷を──目一杯歓迎するかのように暗闇の中で淡い光を放っていたあの幻想的な光景を。声の主の説明によれば、長年にわたり一人の超能力者から世話を受けるうちにいつしかあれらは魔の花々と化してしまったということらしい。

 

「あ、じゃあ、もしかしてその花をどうにかしちゃえば……!?」

『そうなの。引きむしったり踏み潰したりすれば花がダメになってその分だけあの子の力を削ぐことができるわ。あのお花たちには可哀想だけどね』

 

 そうであるならば今から大急ぎで花むしりに赴かなければ。あるいはあの花畑の上で盛大に転がり回ってやろうか。それともなにか手頃な農具でも見つけてバッサバッサと刈り取ってやるべきか。智子が手塩にかけて立派に育てたというあの可憐な花畑を、琴美は如何にして最短時間で蹂躙すべきかと考えを巡らせる。雨で花が濡れているせいで火を放って一挙に焼き払うという手を使えないのが今はなんとももどかしい。己を拒絶されていきり立っていたあの怨霊は智貴に対し「教育してやる」と言っていたのだ。それを考えれば今この瞬間にも彼がどのような酷い目に遭わされていることか知れない。それが故に一刻も早く彼を助け出してやりたくて仕方がない琴美であった。

 

『待ちなさい。そんなことしてたらすぐ智子に気づかれてしまうわよ? あの子とあの花は繋がっているんだから』

 

 気の逸る琴美を落ち着かせようと声の主はそのように注意する。屋敷の庭はとにかく広いのだ。その敷地一帯に咲き誇る花々を琴美一人で除こうとするのなら例え不眠不休で取り組んだとしてもいつ終わるか知れたものではない。それ以前に、花の危機を察知した智子が必ずやなにかしらの妨害あるいは直接的な危害を加えてくるであろうことは想像に難くない。

 

『私とあの子はね、お互いに力を抑え合っているの。だからあの子はここから出られないし、家の外へもきっと手を出し辛いはずなのだけれど……』

 

 どうやら抑え付けられていたのは声の主だけではなかった。智子もまた、自身の母の妨害によって己の力の及ぶ範囲を制限されてしまっているらしい。

 

『でも花を操ってあなたを縛りあげるぐらいのことは簡単でしょうね。それに、もしかしたらそれ以上のことをしてくるかもしれない』

「えっと、じゃあ、それじゃあ……」

 

 他にもなにかきっと手があるはずだと、琴美はさらに頭を回転させる。智子の妨害をものともせず、それでいて素早く豪快にかの花畑を蹴散らせる方法はないものかと。

 

「あっ……車!」

『そうね、私もおんなじこと考えてたわ』

 

 閃いた様子で声をあげた琴美を褒めるように声の主が賛意を示す。二人の考える作戦とは、ガレージにあるという車で敷地内を縦横無尽に爆走しながらその車輪を以って智子の力の源に打撃を加えてやろうというものだった。

 

『全部でなくていいのよ。ある程度まで花を減らすことができたらきっと私の力があの子に届くようになるから』

 

 そうしたら後は私に任せなさい。声の主はそのように頼もしいことを言って琴美を勇気づける。事態の打開を琴美に託した声の主であったが、力の均衡を崩しさえすれば自分が智子を抑え込んでみせると言うのだ。

 

「じゃ、じゃあ私、すぐ行ってきます」

『あ、ちょっと待って』

 

 そうと決まれば話が早いと、琴美は懐の内ポケットにガレージと車の鍵が入ったままであることを確かめると脱兎の如く部屋を飛び出していこうとする。しかし肝心の出入り口となる扉が部屋のどこにも見当たらず出鼻を挫かれてしまった。

 

「あの、なんかドアがないんですけど……」

『消したの。こうしておけばあの子がここに入ってくることはないから』

 

 智子は入ってこれないと、最初に声の主から話しかけられた際にも確かそのようなことを言われたのを琴美は思い出す。しかしドアをなくしたぐらいで幽霊の出入りを阻めたりするものなのだろうか。もしかするとそうした処置だけではなく部屋自体になにか特別な護りが施されているのかもしれないと、不思議な安らぎを感じるこの書斎にそのようなことを思う琴美であった。

 

『どのみち家の中をうろつくのは危険よ。そこの窓から外に出ていきなさい。丁度裏庭に出られるわ』

 

 書斎机の背後にある大きめの窓が風に当てられガタガタと揺れている。あの窓はきっと自分を閉じ込めるような意地悪をすることなく素直にひらいてくれるのだろう。ならばと気を取り直した琴美がそちらへ向かおうとしたところ──

 

『それとね、出ていく前にこの部屋にあるもの、どれでもいいからなにかひとつ持って行ってちょうだい』

「え?」

『外に出たらあなたとの繋がりが薄くなってしまうのよ。でもこの部屋のものを持っててくれたらそれを通して少しは守ってあげられるから』

「えっと、じゃあ……」

 

 声の主からの助言に従うべく琴美は部屋の中を見回す。なにか手頃な本でも一冊持っていくのが良いだろうか。あるいは書斎机に置かれたペンが良いだろうか。

 

「これ、持っていってもいいですか?」

 

 そう言って琴美が触れてみせたのは、本棚の脇に佇んだままでいる鎧の、その腰に吊り下げられていた剣であった。これなら武器代わりにもなるだろうと、その片手持ちの手頃な得物を琴美は所望したのである。ちょっとカッコいいなと内心思っていたこともそれを選んだ理由ではあったのだが。

 

『ええ、どうぞ。構わないわ』

「あ、じゃあお借りしますね……」

 

 一応の礼儀として琴美は物言わぬ鎧に一言断りを入れる。そうして得物の留め金を外して拝借し、鞘から垂れ下がる革紐を自分の洒落たベルトへと括り付けてみせた。聞けばもともとこの鎧は智貴の父の趣味の品であったという。それを今では己の体とさせられてしまいこうして不自由な置物でいることを余儀なくされているのであるから、なんとも不憫なものであると琴美は同情を禁じ得ない。

 

「あの、息子さんのこと、きっと助けてみせますから」

 

 微動だにしないその硬質なマスクにどこか沈痛な色が浮かんでいるように思えた琴美は鎧に向けて言葉をかける。が、やはりウンともスンとも言わぬ鎧であった。仮になにかしら言いたかったとしてもかの御人は喋ることもできない状態なのだから当然なのであるが、そのことが琴美としてはもの悲しい。

 

『大丈夫よ。小宮山さんの気持ち、ちゃんと届いてるはずだから』

 

 そんな琴美の心を知ってか知らずか声の主がそう告げる。

 

『なにもできなくなってもまだ心はちゃんとそこにあるの。ほら、この人も喜んでるみたい』

「ウーン……」

 

 言われてみれば先ほどまでなんとなく鎧から漂っていたその哀愁が今は薄らいだような気がしないでもない。が、それも結局は気のせいとして片付けられるレベルの希薄な印象でしかなかった。きっとこの夫婦のあいだだけで通じ合うなにかがあるのかもしれないと、琴美はそのように思う。もしかするとそれこそが愛し合う者同士の絆というものなのであろうか。

 ともあれ準備は整った。いざ出陣のときであると、琴美は窓へと歩み寄って鍵のかかっていないそれをあけ放つ。途端、窓から勢い良く風が入り込んでくるがその中に雨粒が含まれていないことに琴美は気づいた。どうやらいつのまにか天候が回復しつつあったようだ。

 

「あの、じゃあ行ってきます」

『ええ、行ってらっしゃい』

 

 出立の挨拶をする琴美と、それを送り出す声の主──もとい智貴の母。二人のあいだには最早それ以上の言葉は必要ない。前に立つ者と、それを後ろから支える者。一人は愛する青年の無事を願い、もう一人は愛しい我が子の無事を願う。そうした願いを同じくする者同士の共同作戦がこれより始まろうとしていた。

 足をかけて窓から身を乗り出した琴美はそのまま一思いに飛びおりる。木立のざわめきがそこかしこから聞こえてくる裏庭へとおり立った彼女はそのままガレージを目指して力強く駆け出していく。

 嵐の終わりは近い。

*1
千葉ロッテマリーンズの天敵・西武ライオンズ。1992年のリーグ戦においてもロッテは西武相手に大きく負け越した。

*2
荒木飛呂彦の漫画『ジョジョの奇妙な冒険Part4・ダイヤモンドは砕けない』。週刊少年ジャンプ誌上にて1992年から1995年にかけて連載された。




ご両親への挨拶、完了。(次回に続く)
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