雲間から僅かに差すささやかな月明かりが照らす中、ぬかるむ裏庭を駆けていた琴美はガレージと思しき小屋へ辿り着いた。観音開き造りとなっている扉の取っ手を掴んだ琴美は試しにそれを前後に揺すってみたが、どうやら施錠されているらしい手応えが返ってくる。視界の利きづらい暗がりの中で改めて取っ手の付近を指でまさぐってみたところ、そこに鍵穴らしきものがあることを感じ取った。早速懐よりふたつの鍵を取り出した琴美であったが、この暗がりの中ではどちらがガレージの鍵であったか判別が付かないため、ひとまずその片方を鍵穴に差し込んでみる。
(これだな……)
手応えあり。錆のせいか引っかかりはあったものの、ひとまず差し込むことのできたその鍵を今度は右に左にと捻ってみせる。やはり錆のせいかその感触はどうにも固い。が、そうこうしているうちに鍵がうまく回ったようで、ようやく解錠に成功した感触が琴美の手元へ伝わってくる。そうして鍵を差しっぱなしにしたまま取っ手を引いてみれば、蝶番の軋む音と共にガレージの扉があけ放たれ、内部の様子が露わになる。
(こいつか!)
僅かな月光が差し込むガレージ内に目を凝らせば、そこには確かに琴美が目星を付けていた通り一台の車と思われるものが場のスペースを占領していた。
ガレージ内へと足を踏み入れた琴美はひとまずその場の照明スイッチを探して入り口付近の壁を手で確かめていく。やがてそれらしきスイッチに触れた琴美が指でいじってみれば天井から吊るされていた裸電球が点灯しガレージ内に申し訳程度の明かりが灯された。床を這っていた小虫たちがその明かりに驚いたのか、そそくさと思い思いに物陰へ隠れていく。
照明に照らされ姿が露わになったそれを琴美はしげしげと観察する。随分と埃を積もらせているために白っぽくなってはいたが、そこにあるのは赤い色をした小ぶりな乗用車であった。デザインからして一昔以上前の型であるらしいレトロな外観をしたそれは車体のあちこちが錆び付いており、随分と年季が入っていることをうかがわせる。なにかしらの思い入れでもある智貴の母が、新しいものへと買い替えることもなく古びたこの旧車を長らく使い続けていたのかもしれない。
(これ、ガソリンとか大丈夫なんですか?)
お世辞にも状態が良いとは言えないその車を前にして、果たしてこれがまともに走るのだろうかと心配になった琴美は頭の中で智貴の母に語りかけてみる。
(あの、お母さーん……?)
が、どうも返事が来る様子がない。屋敷の外では意思疎通ができないのかと思いもした琴美であったが、このような離れた場所にある車を直してみせたと言っていた智貴の母である。ひょっとしたら屋敷のほうで智子の動向を見張っていて単にこちらへ注意が向いていないだけなのかもしれない。
あの声を聞けないことに少しばかり心細さを感じないでもないが、今は腰に携えた剣を通してかの女性との繋がりが生きているはずなのだと琴美は己に言い聞かせた。
(へー〈14-53〉か、いいじゃん)
何気なく車のナンバープレートを確かめた琴美はそのような感想を抱く。〈14〉は琴美の好きな数字で、これは千葉ロッテのエースを務める鉄腕投手*1の背番号であるというのがその
(どれどれ……)
運転席側のドアを解錠して内部の様子を確かめてみる琴美。途端、長らく車内に滞留していたなんとも言えぬ臭いを含んだ古い空気を吸い込んで咽そうになったので、扇ぐようにドアのあけ閉めを繰り返し、内部の空気を少しでも入れ替えようとする。
運転の邪魔にならぬよう、フロントガラスにすっかりこびり付いていた埃を手でおおざっぱに拭ってみせた琴美はひとまず運転席に座り込んでみる。小ぶりな車体に相応しく運転席もそれ相応に狭いものであったが小柄な体躯の琴美が座る分には特に差し障りはない。シートにムカデでも潜んでいたりしないものかと思いはしたが、今はそんなことを気にしている場合ではないとその心配を切って捨てる。
(ガソリンはっと……これかなぁ?)
普段乗り慣れていた自家用車と比べると物足りなさを感じるほどにシンプルな作りの計器類であったが、燃料計らしきものにあたりを付けた琴美はその針が目盛りの中頃を指していることを見て取った。とはいえ長期間入れ替えられることもなくタンクに残っていたガソリンであるからとっくの昔に変質していてもおかしくはないのだが、智貴の母は「ちゃんと動かせるようにしておいた」と言ったのである。いったいなにをどうやったのかサッパリ判らぬ琴美ではあるが、その言葉を信じてひとまずエンジンを始動させるべく鍵を差し込み捻った。
途端、オンオンオンとエンジンの始動音がガレージ内に鳴り響いた。見た目のボロっちさを払拭するその確かな反応に手応えを感じた琴美はさらに始動を試みる。
(やった、かかった!)
ブゥゥンと唸りをあげたエンジンは、無事動いていることを誇示するようにその振動を車中へと継続的に伝えてくる。計器類に光が灯り、ヘッドランプも爛々とした輝きを放ってガレージ内を明るく照らす。試しにアクセルを少しばかり踏み踏みしてみれば小気味良いエンジン音の高鳴りが聞こえてきた。
(こんなボロなのに凄いなぁ)
屋敷の住人たちに異変が起きて以降は手入れもされず放置されていたことがうかがえるこの車であったが、とりあえずのコンディションチェックにおいては特に問題は見受けられなかった。かの女性による有言実行の結果を目の当たりにした琴美は、この場にて朽ちる一方であった代物をいとも容易く復活せしめたその力に、なんとも便利なものだと羨ましさを感じてしまう。しかしそうした異能を持つことと引き換えに背負わされる運命の重さについてはいまいち思い至れないようだ。
(見てろクソムシ、グチャミソにしてやる……!)
初めて旧車を操縦することになった琴美ではあったが、手前の無骨なハンドルを握り締め、これを乗りこなしてやろうという気力を漲らせる。そうしておもむろにギアを切り替え僅かにアクセルを踏んでみれば、ガレージ内の砂利を踏みしめてゆるゆると車体が前進していく。
これは走行する分にはいよいよ問題がなさそうだと見て取った琴美が思い切ってアクセルをさらに踏み込んだ。たちまちエンジンが唸りをあげて車体を加速させるが、勢い余って入口脇に積まれていた廃材にぶつかってしまい辺りに盛大な音が鳴り響く。
(やべっ、バレたか……!?)
外は相も変わらず強風がビュウビュウと吹きすさび、その度に森が轟々と鳴いていた。しかし流石にこうも大きな物音を立ててしまっては屋敷のほうへ音が届いてしまったかもしれない。そのように思った琴美は車を止めて窓の外を見やる。
こちらに気づいた智子がなにか仕掛けてくるのではと警戒する琴美であったが、ふと智貴の母の言葉を思い出す。それによれば確か智子は屋敷の外に対してはそれほど派手なこともできないということではなかったか。そもそも琴美のことは最早眼中にないのだとも言っていたはずだ。その
ともあれおちおちしてはいられず一刻も早く智貴の母に託されたミッションを達成する必要がある。琴美は玄関側の広大な庭へと向かうべく車を前進させたのちハンドルを回そうとする。表庭のほうには弟切草が数多く密集していたことを覚えていた琴美はそこを蹂躙するのが手っ取り早いと踏んだのだ。
(なんだこれ、重いぞ……?)
少しばかり手応えのあるそのハンドルに琴美は些か面食らった。流石旧車というべきか、近頃の車とはその使い勝手に隔世の感があったようだ。が、幸い乗っているのは軽自動車であったから琴美の細腕であってもそこまでハンドル操作に難儀するほどでもなかった。
ともあれ第二の相棒となったそれを駆り、かの花畑をこれより襲撃せんとする琴美は腕に一層の力を込める。そうして重ためのハンドルを力強く切って車の向きを変え、表庭へと走っていくのだった。
◆
(やるぞ! やってやるからな……!)
表庭へとやってきた琴美は一旦車を止め、フロントガラス越しに広がる弟切草畑を見やる。ささやかな月明かりの下で姿を誇示し、風に揺られているそれらは実に見事な花畑であった。夜中に薄気味悪く発光するのはいただけないが日中にでも見物すればさぞかし見ものだろう。
智貴の母はこれらの花への少しばかりの同情を口にしていたが、実行隊長としてこれより眼前の花畑を蹴散らす任を授かった琴美としてもその胸中に幾ばくかの憐れみが湧いてしまう。状況が状況とはいえやはり可憐な花々を実際に踏み荒らすことは彼女としても心が痛むのだった。
だが琴美は迷わない。智貴の母が見込んだ琴美の強い決意はその程度で揺るぎはしない。己の駆る古びた鉄騎を魔の花園へと乱入させるため、意を決してアクセルを踏み込む。
(行けっ、踏めっ、潰せっ……!)
足元のぬかるんだ泥を周囲に飛ばしながら、琴美の乗る車はいよいよ花畑へ突入していった。途端、草を激しくかき分ける音が車体越しに絶え間なく届いて車中を満たす。なるべく多くの花々を踏みにじれるようにと、琴美が重いハンドルを右へ左へと交互に傾け蛇行運転をおこなってみせれば庭内に大量の花びらが散乱し始めた。だだっ広い庭内にて大雑把な乱暴運転を繰り広げる車の通った後には、踏みにじられた花々の跡が轍のように伸びていく。智子がひとつひとつ種から育てて芽吹かせ、長年かけて手作業で植え続けていったというそれらは、このほんの僅かな時間でいとも容易く失われつつあった。
(これは……そろそろ気づいたかな)
スラローム走行による花刈りを順調に続けていた琴美であったが、それに呼応するように花畑に異変が起こったことを受けて智子の気配を感じ取る。最初にこの屋敷に訪れたときのように庭の弟切草たちが一斉に淡い光を放ち始めたのだ。もしやと思った琴美が車を走らせたまま屋敷のほうにちらりと目を向けてみれば、果たして玄関付近の窓になにやら人影がべったりと張り付いているのがうかがえる。
(ヤロウ、こっち見てやがんな……!)
逆光に浮かびあがるシルエットだけでもそれが智子なのだと琴美には瞬時に判った。窓に張り付く人影の顔の辺りから一対の眼光が赤々と放たれていたからだ。これはなにか仕掛けてくるのではないかと警戒する琴美であったが、その兆しは屋敷を取り囲む花畑の中から早速現れた。
──ワオォォ──ン!
甲高い獣の咆哮が庭に響く。それを皮切りにあちらこちらから似たような鳴き声が次々と琴美の耳に届いてきた。声のする一角を琴美が見やれば、いつのまに出現したのか花畑の中に幾つもの赤い光点が潜んでいるようだった。
(犬!?)
先ほどの遠吠えが合図であったのか、花畑の中に伏せて潜んでいたその獣たちが一斉に立ちあがって姿を露わにする。いずれも目を妖しく光らせ、我先にと琴美の乗る車目がけて全力で駆けてくる。もしやこれは智子の差し金なのであろうかと考える琴美であったが、庭内でくねくねと蛇行するだけの車は花畑を疾走する獣の群れに間もなく追い付かれてしまう。
(なにこいつら? オ、オオカミ……!?)
花畑の放つ淡い光によってハッキリと姿を浮かびあがらせたその獣たちの姿に琴美は息を呑んでしまう。大型犬と言えるほどの立派な体格にモサモサとした黒い毛並み、そしてシベリアンハスキーを彷彿とさせる精悍な顔つき。狼の実物など見たことはない琴美であったが実際このような風采であったりするのかもしれないと彼女は思う。
そんな狼たちが群れを成して車の進行方向に立ち塞がったものだから、琴美は慌てて車を停めてしまった。そのままお構いなしに走行してなぎ倒すなどということは流石に彼女としても憚られたのである。
(あっ、こいつら!)
それを隙ありと見たのか群れの中の数匹がすかさず車の足回りに飛び付いていった。ウーウー、ハウハウと盛んに唸り声をあげる狼たちはどうやら琴美の乗る車を獲物に見立てているらしい。狼如きでは車中に籠城している己になにかできるとも思えなかったが、もしやと思った琴美が急ぎアクセルを踏み込む。途端、車の足元で狼たちがキャンと鳴いたが、どうやら彼らは車をパンクさせるためにタイヤへ喰らい付いていたようである。
「ほら、どけよお前ら!」
足元の狼藉者を振り払った勢いのまま止まることなくこの包囲網を突破せんとする琴美は、車を前進させたままクラクションを鳴らして進行方向の狼たちを追い払おうとする。しかし彼らはわずかもたじろかず、獰猛さを滲ませる赤い両の眼で琴美を睨みつけてその場を動こうとしない。
頑固な彼らに根負けして進行方向を変える琴美であったが、曲がった先にも同じようにして壁を作っている狼たちが並んでいたのでどうにもならない。
(ああっ、轢いちゃう!)
急停止すべく咄嗟にブレーキを踏みつけた琴美であったが、意に反してエンジンが唸り車が急加速してしまった。凶器と化した車が眼前の狼たちを次々と轢いていったものだから、彼らはめいめい悲鳴をあげて撥ね飛ばされたり車の下に巻き込まれていったりする。慌てるあまり琴美がブレーキとアクセルを踏みまちがえたが故の初歩的な事故であった。
(うわっ、うわっ……!)
撥ねられてボンネットの上に乗りあげた一匹の狼が、まだ息のある様子で寝そべったまま歯を剥き出しにしてフロントガラスに鼻を押し付け運転席の琴美に激しく食ってかかる。が、そんな狼の鼻先が唐突にボロリと崩れ落ちた。なにごとかと目を見張る琴美であったが、やがて狼は刈られた芝のようにハラハラと急速にその身を分解させていき、風に乗ってボンネットの上から消え去っていく。その流されていく体の欠片たちはよくよく見れば光の抜け落ちた幾本もの弟切草であった。
『作り物よ、惑わされないで』
琴美の頭にあの声が響いた。どうやらかの女性も庭内における本番戦が始まったことで今再びこちらへ注意を向けてくれるようになったらしい。
『追い付かれないようにしなさい、車輪に巻き付かれるわ』
(あっ、はい!)
そのように注意された琴美が、ゆるめかけていたアクセルを改めて踏み込む。狼たちの吠える声が背後から絶えず聞こえてくるのは彼らがずっと車に追いすがってきているからなのであろう。それにしても巻き付くとはいったいどういうことかと思う琴美であったが、先ほどボンネットに乗りあげていた狼がフロントガラス上に残していった何本かの弟切草にはまだ光が灯っており、それらがまるで生き物のように動き出していたことに気づく。
(蛇っ!?)
その弟切草のひとつひとつが、やがて形を変えて生々しいうねりを見せる黒い蛇へと変貌したのを琴美は確かに見た。そうして蛇たちはフロントガラスに張り付いて運転席側のほうへと集まっていき、視界を遮るようにその身を互いに絡ませ始めたので、そこに明確な妨害の意図があることを琴美は感じ取る。
(くそっ、離れろっ!)
それらを排除すべく琴美がハンドルの根元から伸びるレバーを引いてみれば、ぎこちない音を響かせるワイパーがガラスの上の蛇たちをこそぎ落としていく。
狼が弟切草となってバラけたりその欠片が蛇に転じてみせたりする光景を目の当たりにした琴美は、なるほど確かに智貴の母の言う通りだと感じる。これらは智子の超常の力が生み出した作り物の動物たちなのだった。
仮に大量の蛇が車輪に巻き付きでもすれば流石にこの車も走らせることが困難になるかもしれない。ならば隙を与える訳にはいかないと、ハンドルを握り直した琴美は改めて前を見据える。その視線の先では別方向から回り込んできていた狼たちがまたしても車の進行方向に立ち塞がって壁を作っていた。
(草ども! 騙されんぞ!)
しかし琴美はスピードをゆるめることなく、忌避感に歯を食いしばりつつも彼らを勢いまかせに蹴散らしていく。そうして庭園のあちらこちらで痛ましい鳴き声が立て続けに響くのであった。花畑荒らしに加えて動物たちへの著しい虐待行為と、事情を知らぬ者が見ればあまりにも残酷に過ぎる琴美の凶行であったが、彼女としても命懸けなのだ。ましてや相手は智子の力によって作られたという模造の獣たちなのである。それを証明するように、勢い良く撥ね飛ばされた狼のうちの一匹が宙に投げ出されたまま爆ぜたかと思うと、その身を構成していた沢山の花束を辺りに散らしていく。
ゴウッとひときわ大きな風が吹けば、巻きあげられた無数の花びらで辺り一帯の空が淡く染まる。まるで絵に描いたような花吹雪だと、運転に集中しつつもその光景に目を惹かれた琴美は場違いな感想を抱いた。屋敷の中に居る智子はこの様子をどのような気持ちで眺めているのだろうかと、右に左に車を目まぐるしく走らせる琴美の脳裏にふとそのような思いがよぎる。かの悪霊の胸中にあるのは花畑を荒らす狼藉者への激しい憎悪であろうか。それとも屋敷に縛り付けられ自らこの場に打って出ることのできない悔しさであろうか。あるいはそれとも──大切な花畑を
──トモクン……
度々邪魔をしてくる狼たちの相手をしつつ、最初のころよりもうんとスピードをあげて疾走していた琴美であったが、ふとどこからともなく声が聞こえてきたような気がして耳を澄ませてしまう。それは智貴の母の声ではなく、どこか幼い子供のような、そんな声であった。
──トモクン……トモクン……
まただ。今度は聞き間違えなどではなく確かに子供の呟くような声が聞こえてきたのを琴美は確信する。
(なにこの声? いったいどこから……)
激しい駆動音が満ちる車内にあっては、外部の音などそうそう届くものではない。しかしこの小さな呟きはまるで直接心の中に届いてくるようだと、琴美にはそのように感じられてならない。
──オトウトォ……トモクン……トモキィ……
声はひとつだけではなかった。気づけば同じようにして何人もの呟きが立て続けに聞こえてくる。その中には幼い子供の声だけでなく、どこか聞き覚えのある特徴的な声も聞こえてくる。それはどうやらあの智子の声なのだった。
(これ、もしかして……!)
琴美は先ほどから聞こえ始めたこの不思議な声が、辺り一面の弟切草たちより発せられているのではないかと見当を付ける。どうしてそのように思えたのかは判らないが、庭に咲き誇る花々のひとつひとつが意思を持っているのではないかと、今更ながらにそう感じられてしまったのだ。
──トモクン……アイタイヨォ……
──トモクン……カエッテキテェ……
──カエッテコイ……オトウトォ……
──アンニャロォ……トモキコノヤロォ……
今や声は途絶えることなく琴美の頭へ届いてくる。そのいずれもがおそらくは智貴を呼んでいるであろうことがうかがえた。この花々にはひょっとすると智子の長年にわたる想いが宿っているのかもしれない。車に踏みにじられたことで、そこに込められていた智子の切実な想いが庭内に解き放たれているのだろうと琴美は考えた。
この花々は智子が離れ離れになった自身の弟の帰還を願っていつのころからか植え続けていったものらしい。しかし智貴の母曰くそのおこないはなんら意味を成さないものであったという。が、琴美はまたそれとは違った己なりの見解を抱く。智子はそれらしい理由を付けてはいたようだが実際のところはもっと単純で、彼女は〈弟〉と名の付くこの花のことを自身の弟代わりにしていたのではないか。だからこそせめてもの慰めにとしゃにむに敷地へ花を植え続けていったのではないだろうかと、琴美にはそう思えてならない。
いつかまた再び弟と共に暮らせる日を願う一人の少女の切実で純粋な想いの表れがこの花畑そのものなのだ。いや、その想いはいつしか肉親への愛情に加えて半ば恋にも似たどうしようもない熱情が混じるようになっていたのではないか。ミイラ部屋で智子が自分たちの前に姿を現した際の、智貴に対するあのベタベタとした接し方の中に色気めいたものを感じ取っていた琴美であったから、事ここに至ってそのような考えに辿り着いてしまう。
一人の相手を長きに渡って想い続け、その帰りをただひたすらに願った末に遂には己の身を削るが如き無謀に手を染めてしまう。そしてまた、そうしたおこないが相手の身を危険に晒してしまいかねないことも厭わぬほどに理性を喪失してしまう。これが厄介な類の恋煩いでないというのであればいったいなんであるのか。行き過ぎた愛着、病的な妄執、底なしの独占欲と支配欲か。あるいは過去に囚われた幼稚な回帰願望だとでもいうのか。実際のところは本人ですらよくわかっていないのかもしれないが、いずれにせよ智子もまた、かの青年に深く心奪われていたということが今や琴美には胸が痛いほど理解できてしまった。
(そんなの、私だって、私だって……!)
琴美は知らぬうちに己が涙を流していたことに気づく。飛び散った泥と草花の残骸で汚れきったフロントガラス越しに仰ぎ見る空には、淡い光を放つ花びらが風に吹かれてそこかしこに舞っていた。琴美にはその光景が、あたかも花々の命が天へと還っていくように見えてしまい憐れで仕方がなかった。
だからといって琴美は己の使命を途中で止める訳にはいかない。この花畑を削りに削り、なんとしても智貴を助けるための突破口とせねばならない。胸を締め付ける感情に背を向けて琴美はなおも弟切草を蹂躙し続ける。
(花が……!?)
そうこうしているうちに辺りの花々から急速に光が抜け落ちていくのが琴美にも見えた。と同時に、聞こえ続けていた花々の呟きもすっかり鎮まってしまったようだ。
狼たちは機敏に走り回る琴美の車に追いつけずにいたのだが、その数もいつのまにかすっかり減っており今では数えるほどしか残っていなかった。が、そんな彼らもとうとう疲れ果ててしまったのか、走るのを止めてションボリ顔で舌を垂れつつトボトボ歩き始めたかと思うと、やがて消え入るようにもとの弟切草へ分解されていく。それはいやがおうにも智子の力の弱まりを感じずにはいられない光景であった。
『小宮山さん、もういいわ。もう十分よ……』
ふいに智貴の母の声が聞こえてきた。どうやら当初の目的をようやく果たすことができたらしい。琴美は体の緊張をいくらかゆるめるとアクセルから足を離してブレーキをかける。そうしてすっかり減速した車は門の付近に差しかかった辺りで停車した。
(大丈夫なんですか?)
『ええ、そこで待っていてちょうだい。今に智貴を連れてきますからね……』
智貴の母と練った作戦によれば後のことは彼女に任せる手はずであったから、琴美は気を揉みつつもエンジンをかけたままの車中にて彼が救出されるそのときを待つ。智貴が来れば後は彼を車に乗せてそのまま門から出ていきこの呪われた場所とおさらばするだけ。そう、その予定であった。そのはず、なのであったが──
『ああっ、なんてことなの……!』
突如、頭の中に智貴の母のひどく動揺した叫びが届いた。
(なにかあったんですか!?)
『小宮山さん、家の中に来てちょうだい! 早く!』
急にそのようなことを要請されて面食らう琴美であったが、なにがなんだか判らぬままに車をおりて屋敷に向かい走りだす。
『智貴が溺れて死にそうになっているの! あの子の、智子の仕業よ!』
「そんなっ!?」
泥をはねあげ駆ける中、母がそのようなことを伝えてきたので琴美が声を張りあげる。追い詰められた智子がヤケになって暴挙に出たのであろうか。はたまたそれは当初から計画していたことであったのか。
『このままじゃ手遅れになるわ! 私が智子を抑えておくから、早く智貴を助けてあげて……!』
「うおあぁ──────!!」
まったくもって状況の掴めない琴美であったがことはあまりにも急を要する。智貴の命が今この瞬間にも失われつつあると聞かされて目の前がまっくらになりそうな琴美であったが、そんな己に活を入れるために大声で吼えてみせた。やがて屋敷の前まで辿り着いたところ迎え入れるように玄関扉がひとりでにひらかれたので、琴美は走り抜けた勢いのまま館の中へ飛び込んでいく。
最後の嵐が今、吹き荒れようとしていた。
続く