もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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★イラスト
DDT様がこの第十二話のラストシーンをイラスト化してくださいました。作者様にご許可頂けましたのでこの場を借りて紹介させて頂きます。
https://twitter.com/DDT000125/status/1253683967175168002


【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(12)

小宮山琴美、その愛

(なんだコイツら!?)

 

 ひらかれた玄関扉から屋敷へと勢い良く飛び込んだ琴美であったが、己の前に立ち塞がる者たちの姿に足を止められつんのめりそうになる。玄関ホールに大勢の動物たちが詰めかけていたからだ。兎にリス、イタチに狸、フクロウや色とりどりの小鳥、中には子連れの猿や猪に加えて鹿に似た動物まで居る。そんな彼らは思い思いに鳴き声をあげつつ皆一様にせわしない様子で今しがた琴美が入ってきた玄関のほうをうかがっていた。よくよく見ればその体はいずれもうっすらと透けている。

 

『小宮山さん、二階に行ってちょうだい』

 

 いったい彼らはどこから湧いて出てきたのであろうかと訝しむ琴美であったが、頭の中に届く智貴の母からの誘導を受けてすぐさま我に返る。なにがなんだか判らないが、特に琴美を妨害するつもりもなさそうな彼らであったから、琴美は動物たちの合間を縫うように階段のほうへと駆けていく。

 と、一匹の子猿がキキッと一鳴きして母猿の体からおりたかと思うと、あけ放たれたままの玄関へと走り寄りそのまま外に出ていく。それを見た母猿も我が子を追いかけて同じように出て行ってしまった。途端、堰を切ったように他の動物たちも玄関扉から次々に脱出し始める。それはさながら釈放の恩赦に沸く虜囚のようであった。

 そんな彼らを疑問に思いながらも琴美は大きな階段を数段飛ばしに駆けあがっていく。

 

「うわっ!」

 

 突如として屋敷が強く揺れたものだから、琴美は階段から転げ落ちてしまわぬよう手すりに掴まる。が、その揺れはすぐしないうちにおさまった。

 

(地震……? って、まただっ!)

 

 さっきと同じ揺れが再び起こり、そうしてまたすぐにおさまり、その矢先にまたしても再開する。地震などに負けるものかと、手すりを掴みつつ散発的な揺れに耐えて階段をあがっていく琴美であったが、そうした奇妙な揺れの中にどこか人為的なものを感じ取る。もしかするとこれは屋敷のどこかで智貴の母が今正に智子と戦っていることの表れなのかもしれないと、そのように思えたのだ。

 

『右の廊下の……黒い扉……智貴が……』

(へ? あ、えと、ドアに板とか打ち付けてた部屋ですか?)

 

 ようやく階段をあがり終えた琴美に再び智貴の母の声が届いたが、それはどうにも途切れ途切れであった。琴美としても智貴の母が示した部屋に心当たりはあるが、聞き取りにくい通信であったから念のためにと改めて聞き直す。だがそれに対する答えは返って来ず、代わりの返事とばかりに再びあの揺れが屋敷を軋ませる。ともあれ見当を付けた場所へと急ぐ他ないと、琴美は時折揺れる廊下の上で足をもつれさせながらも駆けていく。

 *

(ここだ……! きっとここに智貴くんが……!)

 

 以前に見かけた際、なんとも気味が悪いと感じていたその黒塗りの扉の前まで琴美は辿り着いた。扉には幾つもの板が乱雑に打ち付けられて封鎖されていたのだが、どうもその開かずの間からなにかしらの音楽が鳴り響いているのが聞こえてくる。そのことにただならぬものを感じ取った琴美はやはりこの扉の先に智貴が居るに違いないのだと確信を得る。

 

「智貴くん! いま助けるからがんばって!」

 

 中に居るであろう智貴に向けてそのように呼びかけた琴美は言うが早いか扉から一旦距離を取り、そのまま勢い良く扉を踏み付ける。斧か鉈でもあれば封鎖された扉を破壊できるのだが、生憎琴美の手元にあるのは腰に下げた細身の剣だけである。今から手頃な得物を探しに行くよりもここは己の体を使ったほうが早いと、琴美は骨が砕けんばかりの力を込めてその扉へと盛んにアタックを繰り返していく。

 

(早く、早く、早く!)

 

 が、扉はひどく頑丈であった。木製の扉らしく軋みはするものの中に鉄板でも入っているのではないかと思えてしまうほどに重い感触が伝わってくる。

 

(クソッ、駄目か……)

 

 そうして全力で蹴り続けていた琴美であったが、一向に手応えがないのを見てとうとうそれを止めてしまう。ぜいぜいと肩で息をする琴美の顔色は今や青ざめつつあった。己がこうしてモタモタしているあいだにも智貴の命は失われつつあるのだと、ただでさえ焦りに支配されていたその胸中に狂おしいほどの焦燥が渦巻く。

 

(どうしよう、どうしよう……!)

 

 嫌な汗が次から次へと浮かんで仕方がなく、心臓が凍りついてしまいそうなほどの寒気に侵されそうになる琴美。愛する人の死がいよいよ現実味を帯びてきたことを受け、かつてないほどの戦慄に包まれていた。

 この異常に堅牢な扉はおそらく智子がなにか仕掛けを施していったに違いないのだと、今更ながらにそう考える琴美。であるのならば今からでも急ぎ扉破りに使えるものを探しにいくべきだと思いはするものの、なぜ最初からそうしなかったのだと、どれだけ時間を無駄にしてしまったことかと、遅きに失する己の判断ミスが悔やまれてならず、その自責の念が気持ちの切り替えを益々遅らせてしまう。そうした琴美の顔には絶望の兆しすら生まれ始めていた。

 

『剣を使いなさい! それで扉を斬っ……』

(えっ!?)

 

 そのような琴美の混乱を感じ取ったかのように、またしても智貴の母から途切れ気味の声が届いた。それを受けて琴美が腰に下げている剣に目を向ける。今しがた智貴の母は「その剣で扉をどうにかしろ」と言ったのだ。

 

(これでどうにかなんて……)

 

 かような細い剣で目の前の木製モドキの鉄扉が破れる訳がないと思いつつ、琴美は震える手で言われた通り剣を鞘から抜いてみせる。が、その丁寧に磨かれた美しい刀身を見た途端、琴美にひとつの気づきが訪れた。

 自分は一人ではない。屋敷の中では今、この剣を快く貸し与えてくれたかの女性が智子を抑え込むために戦ってくれている。そしてこの剣の持ち主である智貴の父もまた、娘の凶行に心を痛めつつもその鎧の奥で息子の身を心から案じているに違いない。智貴の無事を願う両親の想いがこの剣に込められているように感じられた琴美は、息を深く吸ってからそれを両手で構え直す。そうして振りかぶった琴美は、手にした武器の刃先を力いっぱいに扉へ向けて振りおろした。

 

(わわっ!?)

 

 相応の反動が来ることを予想していた琴美であったが、逆に手応えが軽過ぎたために勢い余って空振りした打者のようによろめいてしまった。いったいなにが起こったのかと扉を見る琴美であったが、今しがた斬りつけた太刀筋に沿ってざっくりと大きな切れ目が走っていたのをそこに認める。

 

(これ、もしかして凄く切れるやつ!?)

 

 非常識なほどに切れ味の良いその剣に息を呑む琴美であったが、そうと判ればやり様はあると、先ほどの太刀筋の終点から続けるように剣の切っ先を扉へ突き刺してみせた。琴美の見立て通り切っ先が易々と扉を貫いたので、そのまま一思いに刃を走らせていく。

 やがて人一人が通れそうなほどの大きな切れ目を扉に作った琴美は、剣を引き抜き改めて扉を蹴り付ける。と、今度はほとんど抵抗もなく切れ目に沿って扉の一部が奥へと倒れ込んでいき、部屋を満たしていた旋律がじかに聞こえてくるようになった。それはあたかもカッターで紙を切り裂くが如き容易さであったから、琴美はこの剣を通して智貴の母の力が確かに顕現しているに違いないのだと確信してその頼もしさに勇気づけられる。依然として続く屋敷の揺れに、琴美はかの女性の勝利を願わずにいられない。

 室内の照明は点いておらず扉の先には暗闇が広がっており、なんとも得体の知れない空気が充満していた。そうした闇に少しもひるむことなく琴美が剣を片手に扉をくぐって部屋の中へと踏み込んでいく。

 

(電気、電気は……!)

 

 しかしこうも暗くては敵わないと、入り口付近を急ぎ確かめた琴美は手に触れたそれらしいスイッチを入れてみる。

 

「うわっ!?」

 

 照明が点いて室内の様子が露わになった途端、待ち構えていたものに心臓が跳ねる琴美。そこには車椅子に座ったあのミイラがいたのだ。

 

(ウエディング、ドレス……?)

 

 そのミイラのいでたちに琴美は眉をひそめた。以前見かけたミイラは果たしてこのような格好をしていただろうかと、そのように思ったからだ。目の前のミイラはその生々しく朽ち果てた体に清潔感のある純白の可憐な花嫁衣装を身にまとっていた。頭に被せられたベールの上にはご丁寧に弟切草で編んだ花かんむりまで載せられていた。それはあまりにも不釣り合いな組み合わせであり、最早悪趣味を通り越して醜悪とすら言える光景であった。

 ここに来て琴美は部屋に置かれたレコードプレーヤーが奏でるその楽曲がなんであるのかにようやく思い当たる。寿(ことほ)ぐような曲調のそれは結婚式などで良く使われているお馴染みのクラシック曲──メンデルスゾーンの〈結婚行進曲〉に違いなかった。

 この部屋で智子は己の遺体を飾りあげて結婚式でも挙げるつもりだったのだろうかと思う琴美であったが、その相手をさせられるのが誰なのかと言えば智貴以外に居ないのである。が、部屋の中に肝心の智貴の姿は見当たらない。そもそも智貴の母は彼が「溺れている」と言ったのである。人一人が溺れてしまうような場所がいったいどこにあるのだと、大人しい置物と化しているミイラを尻目に部屋を改めて見回す琴美。

 この部屋、扉と同様に壁紙や家具、果ては部屋の脇に置かれたベッド上の寝具も含めてどこもかしこも黒一色という凝りようであった。まるで黒魔術の儀式にでも使うような妖しさと禍々しさに満ち満ちた不気味な部屋である。ひょっとしたら智子は生前にこの部屋の中で弟を呼び寄せる儀式をおこなっていたのかもしれない。

 

(あれは……)

 

 と、部屋の奥の壁に違和感を覚えた琴美はすぐさまそちらへ駆け寄り確かめる。まっくろな壁と思われたそれであったが、手で触れてみれば滑らかな布の手触りが伝わってくる。試しに琴美がまさぐってみれば大きなシワが生まれた。これはと思った琴美が布を掴んでたぐり寄せるとそのまま壁からするすると引き剥がされていく。そうしてすっかり布がなくなった後に残ったのは壁一面に広がる一枚の大きなガラスであった。

 最初それがなんであるのか琴美は判らなかったが、よくよく観察してみれば濁りきった暗緑色の水を湛える非常に巨大な水槽であったことに気づく。どうもそれは黒い布ですっぽりと覆い隠されていたらしい。

 

(これって……もしかして……!?)

 

 このような巨大なものをどうやって部屋の中へ運び込んだのかと思う琴美であったが、ともあれ智貴の母の「溺れている」という言葉の意味がようやく理解できた。濁りきった水槽の中になにがあるのかはまるで見通せないが、おそらく智貴はこの中に沈められてしまったに違いないのだ。そのことに思い至った琴美が血相を変え、手にした剣を用いてガラスを大きく切り抜いていく。

 やがてある程度太刀筋を走らされたところで、ガラスは自らの内に蓄えたその水圧に耐えかねてひとりでに破裂し、割れた箇所から大量の濁った水が勢い良く排出されていく。それを浴びてしまわないよう身をかわす琴美であったが、ひどく腐った臭いが室内に充満したため吐き気をもよおしてしまう。

 汚水の奔流を受け、レコードプレーヤーはそれが載ったテーブルごと倒れて演奏がストップする。着飾られていたミイラもまた、壁まで押し流された後に車椅子から転げ落ちてその純白の衣装を台無しにしてしまった。そうしてみるみるうちに水位を下げていく水槽の中でやがて一人の人間の姿が露わになる。それは横倒しの椅子に縛り付けられている智貴であった。

 

「ああ……嘘……そんなぁ……」

 

 彼の姿を目の当たりにした琴美はショックのあまり悲鳴をあげてしまいそうになるが、それをどうにか堪えてガラスの割れた箇所から内部へと足を踏み入れる。水槽の底には悪臭を放つヘドロが厚く堆積していたため歩く度にぶちゅりぶちゅりと不快な感触が伝わってくるが、そうした汚泥に顔を半分うずめている智貴が半眼で口をだらしなくあけたままピクリともしないので琴美はもう気が気でなかった。

 

「うわちっ!?」

 

 と、足元に転がる硬いなにかをうっかり踏んでしまった琴美はその場で滑って尻餅をついてしまう。

 

「ほ、骨!?」

 

 水槽に沈められていたのはどうやら智貴だけではなかったらしい。琴美が今しがた踏みつけてしまったもの、それは鼻先の長い動物の頭蓋骨なのだった。

 

「うそ……これ、全部……?」

 

 改めて周囲を見回した琴美は、水槽内に広がるその地獄絵図に目を見張る。今やすっかり水の抜けた水槽には、この非常時においてなお琴美をたじろがせるほどに夥しい数の白骨がヘドロに埋もれてそこかしこに散乱していたのだ。それはどうやら大小様々な動物たちのものであることがうかがえた。

 

「畜生っ、サイコ野郎が……!」

 

 これらのことも智子の仕業であると見た琴美はたまらず悪態をついた。玄関で出くわしたあの動物たちの群れがいったいなんであったのかここにきてようやく判ったような気がしたからだ。あれらはきっと皆、今ここに亡骸を散らばらせている動物たちの幽霊に違いない。なにを思ってか智子はこれまで森の動物たちを家の中に度々引き入れてはこのように水槽に沈めて溺死させ、その憐れな霊魂をまるでコレクションのようにこの屋敷へ閉じ込めていたのだろう。かの狂人の霊がなにゆえそのようなおぞましき行為に手を染めていたのかなど知りたくもない琴美であったから、足元に散乱する彼らから目を逸らさずにはいられなかった。

 そうして智貴のもとへ歩み寄った琴美が、彼の身を縛る戒めを剣で素早く断ち切っていく。智貴はとうに意識を失っていたから、剣を鞘に戻した琴美がその細腕で彼をどうにか引きずり水槽の中から連れ出した。大量の汚水で水浸しになった床に智貴を寝かせるなどとてもできなかったから、ひとまず部屋の中にあった黒いベッドの上へと寝かせてやる。

 

「智貴くん、ねぇ、智貴くん……!」

 

 顔についたヘドロをぬぐってやりつつ琴美がさかんに智貴へと呼びかけるが、呼吸が止まり顔色も死人じみている彼の様子に、とうとう抑えていた胸の内を爆発させてしまう。

 

「おがあざぁぁん! 智貴ぐんが死んじゃうぅぅ──!!」

 

 喉が張り裂けんばかりに琴美が大声で智貴の母へと助けを求める。

 

「お母さんの力で治してあげられないんですかぁ──!?」

 

 すがるようなその呼びかけであったが智貴の母からの返答はなく、代わりに建物の揺れが依然として散発的に続いていた。果たして智子との戦いの行方はどうなってしまったのだろうかと心配になる琴美であったが、今はそれよりも目の前の智貴のことが重要だ。

 

(あ、でも……)

 

 智貴の母ならどうにかできるのではないかと、祈るような気持ちで彼女に思念を送り続けていた琴美であったが、ふとその脳裏にミイラ部屋で読んだ日記の内容が思い起こされる。確か智貴は幼いころに雪だるまに埋められて瀕死の状態に陥ったことがあったはずではないか。そのときの智貴の母の対応はといえば、急ぎ息子を病院に担ぎ込んでようやく一命をとりとめたというくらいであったからして、もしかすると今直面しているような形の命の危機においてはかの超能力者といえどもできることがないのかもしれない。

 ひょっとしたら自力で復活してくれるかもしれないと、いちるの望みを求めて智貴の胸に耳を当ててみたものの心音や脈動らしきものは一切感じられず、琴美の目にみるみる涙が滲んでいく。

 自分が智貴の母より急な報せを受けてからいったいどれだけの時間が経過したのだろうか。そもそも智貴はいつからあのように水槽に沈められていたのだろうか。智貴の命のわずかな灯火は果たして今も消えずに残っているのだろうか。結局のところなにもかもが既に遅かったのではないか。智貴はもう──死んでしまったのだろうか。

 そうした様々な思いが琴美の中を駆け巡っては心にポッカリ空いた穴の中へと消えていく。それに合わせて大切ななにかが崩れ落ちていくのを琴美は感じた。己の自我を形成していた根幹に次々とヒビが入っていくような気さえしてしまう。

 

()()()()?)

 

 壊れゆく心の中でなぜだか唐突にそのような言葉が浮かびあがってきた。途端、琴美は急速に己を取り戻していく。溺れた者に対してまず初めにおこなわなければならない基本的な応急処置がすっぽり頭から抜け落ちていたことに気づいたからだ。

 

(そうだ、人工呼吸! なんで私、今まで……?)

 

 例え急を要する場合であったとしても智貴相手にそのような大それたことを実行するなど許されるものではないと、過剰なまでに卑屈な遠慮が無意識に働いてしまったのであろうか。それが故に琴美の中からこの危機的な状況においてすら人工呼吸という最有力の選択肢が不自然に消えてしまっていたのかもしれない。その割には日頃から智貴を妄想の中で遠慮なくいじり倒していたり、昂ぶったときは彼をホテルに連れ込んでやりたいと息巻いたりもする琴美であるが、結局はそれらも頭の中だけで完結してしまう願望に過ぎず、いざ実際にそういった場面に直面しようものなら緊張のあまり逃げ出してしまうような人間であったのだ。

 ともあれ普段の人格を形成していた心が壊れかけ、その過分な卑屈さや遠慮すらも消え去ったが故に、琴美は人工呼吸というまっとうな選択肢をようやく取り戻すことができた。今しがた思い当たったその応急処置を実践するためにベッドの上へ乗った琴美は、いつだったか自動車教習所で習ったその具体的方法を試そうと必死に頭を振り絞る。

 

(えと、まずは鼻をつまんで、だっけ? あと、あとそれと、ええと……!)

『えーでは呼吸確認をし終えたら、先に心臓マッサージを三十回おこないます。圧迫位置の確認のためにシャツはめくること』

 

 はていったいどういう手順でおこなえば良かったのだろうかとまごつく琴美であったが、その脳内で突如として、かつて習った心肺蘇生術の講習の模様がまるでビデオを再生するが如くありありと蘇った。

 

『両手を重ねて添えて、位置は胸骨の上。みぞおちを押してしまわないよう注意して、丁度この辺りを押していきます』

(これは……!)

 

 なにゆえこのような現象が起きているのか自分でも判らない琴美であったが、智貴の窮地を救うべく記憶中枢が今この瞬間に必要な情報を引き出そうと尋常ならざる働きをしてみせたのかもしれない。ともあれその記憶に従い智貴のシャツをめくった琴美は、露わになった彼の引き締まった胸板に場違いな興奮を覚えたりすることもなく、そこに手のひらを添えて正しい圧迫位置を探し当てる。

 

『肘をまっすぐ伸ばして、こう、真上から体重を乗せるように。手は離さずに押すこと。ではイチ、ニ、サン、シ』

 

 記憶の中で実演をおこなう教官を真似て心臓マッサージを開始した琴美であったが、以前人形相手に練習したとき教官から「力が弱過ぎる」「もっと早く」といった注意を受けたことも思い出し、それらを踏まえた上で正しい処置を続けていく。

 

『次は人工呼吸。こうして顎を抑えて上を向かせて。それから鼻をつまんで、胸が浮きあがるくらい息を吹き込みます』

(これは人命救助っ……人命救助だからっ……!)

 

 まずは初手の心臓マッサージを終え、返す刀で人工呼吸に移ることとなったが、琴美は一瞬だけ躊躇してしまう。それは今以て智貴と口を重ね合わせるという行為に無意味な遠慮が残っていたからなのか。だが少しもしないうちに意を決した琴美は、己の記憶に倣って適切な人工呼吸をおこない始める。自身の唇に触れる智貴の唇がすっかり冷たくなっていたことが悲しくてならず彼の顔にポタポタと涙を落とす琴美は、嗚咽を漏らしながらも想い人の肺へと懸命に酸素を送り込む。

 *

 ただひたすらに処置を繰り返していく琴美の脳裏に、意識せずして智貴とのこれまでの思い出が駆け巡っていく。彼と大学のゼミを通して直接的な交流を持てるようになったのはまだまだ最近のことであったが、それよりもずっと前から彼を密かに想い続けてきた琴美だったので、その思い出の量は数え切れないほどであった。

 智貴と同じ中学に通っていたころ、結局彼へ声ひとつかけることのできないままに卒業を迎えてしまった琴美は、それ以降の一年間随分と張りのない日々を送っていた。あれから智貴はどうしているのだろうかと、彼の様子を覗きに行きたいと思わないでもない琴美であったが、魅力的な彼のことであるからしてもし自分の知らないうちに彼女でもできていてそれを目撃させられることになったらと思うと恐ろしくてとても見にいく気にはなれなかった。

 そうしてもともと繋がりらしいものもなかった智貴と益々疎遠になってしまったが、そんな琴美は思わぬ形で彼との再会を果たす。智貴が己の通う高校へと入学してきたのだ。もしかしたらそうした可能性もあるかもしれないとささやかな望みを持っていた琴美であったから、このことがどれだけ当時の青春に彩りを呼び戻したか知れない。自分と同じく彼に好意を寄せているらしい井口(いぐち)という後輩女子の存在にやきもきしつつも、琴美は暇さえあれば彼が放課後のグラウンドで部活に励む様を見物したり、果ては長期休暇中にもサッカー部の活動日程を調べあげてはこっそりその様子を覗きに行ってみたりしたものである。

 なんとも慎ましやかな琴美のそうした恋路であったが、意中の男の子と同じ学校に通えて遠目にでも日々彼の姿を目にすることができるだけで十分に幸せだった。実を言うといっそ留年して智貴と同学年にでもなってみようかと思ったりしたこともあったのだが、苦労をかけている母のことを思えばとてもではないがそのような暴挙には踏み切れなかった。

 そうして琴美の忍ぶ恋は続いていき、やがて時が進んで高校の卒業式を迎えた。今度こそ本当に智貴と離れ離れになってしまうのだと思った琴美は、思い切って彼に告白するべきか否かで大いに悩むことになる。激しく恋い焦がれているにもかかわらず琴美はその時点において智貴とまともに言葉を交わした機会は中学で初めて出会ったときのことを除けば皆無に等しく、それが故に贔屓目に見ても智貴の中での己の存在は名も知らぬ不審人物程度の扱いでしかないことを自覚してもいた。だからこそこのままでは智貴から永遠に忘れ去られてしまうのではないかと、それが恐ろしくてならなかった。

 しかしながら琴美は結局勇気を出すことができなかった。自分のような者が智貴へ告白したとてきっと気持ち悪がられてしまうに違いない、迷惑をかけてしまうはずだと、自己を卑下する気持ちの強い少女であった琴美はそうした臆病な気持ちに囚われてなにもできずじまいだったのだ。

 そうして再び琴美の青春からは色が抜け落ちていった。今度はささやかな望みすら期待できそうにない大学である。都合良くまた智貴が己と同じ学校へ入学してくることなどあろうはずもない。そう考えはするものの、さりとて長年にわたりこじらせてきた恋煩いが治まるはずもなく、暇さえあれば想い人のことを思い出してはそのたびに狂おしいほどの情欲と胸が張り裂けんばかりの喪失感にさいなまれ続けていた。

 だが、またしても琴美は彼と再会を果たすこととなる。それはいったいどういう偶然であろうか、大学生活二年目の春に智貴がまるで琴美の後を追うかのように入学してきたのだ。智貴の姿をキャンパスで見かけたときの衝撃を琴美はよく覚えている。こんなことが本当にあるのだろうか、これはもしかするとなにかしらの運命ではなかろうかと、琴美は智貴との二度目となる奇跡的な再会に見えない力のようなものすら感じてしまい、このことを神に感謝せずにはいられなかった。

 が、だからといってすぐ智貴に声をかけられるような積極性があればそもそも琴美はとっくの昔に智貴の知己を得ていたはずである。結局奥手な琴美が選んだのは、時折校舎や食堂で見かける彼を以前よりも気持ち近めの距離からチラチラ盗み見たり、わざわざ買い直した最新式コンパクトカメラでその姿を盗み撮りする*1という、傍目にはどうにもじれったく、それでいて際どい(時に犯罪的な)アプローチであった。

 今やすっかり顔を覚えていた智貴狙いの後輩女子の姿が当然の如く彼の周りで見られたことはいただけなかったが、ともあれ琴美としては今度こそチャンスをふいにしてしまわないようにと、智貴とどうにかしてお近づきになれるその機会の訪れを願い続けていたのである。

 その後の琴美がどのようにして智貴と直接的な交流を持つ機会を得たのかについては既に幾度か触れられていることなので割愛するが、ともあれ琴美の智貴に懸ける思いの深さには長い長い歴史があるのだった。

 *

(あっ……)

 

 さっぱり反応を返さない智貴へ汗だくになって応急処置をおこない続けていた琴美は、本来であれば今日のデートにおいてある重大な予定があったことをふと思い出す。天体観測の最中、琴美はこれまで秘めてきた智貴への想いを遂に告白しようと決意していたのだ。ずっと昔から好きだったと、一目惚れだったのだと、そう彼に伝えたかった。だが、それももうできそうにないのかもしれない。

 

(死んじゃやだ……! 死なないで……!)

 

 目からとめどなく溢れる涙のせいで琴美はもう智貴の顔が見えなくなっていた。いくら蘇生を試みても一向に手応えがないものだから、やはりもう既に手遅れであったのかもしれないと、ここに来て疲れが頂点に達した琴美はそうした悲観的な考えに支配されてしまう。そしてまた、そのような思いがさらに体から力を奪っていってしまう。琴美はもう今にも気絶してしまいそうであった。

 

「智貴くんっ! 好きだよ、大好きだよっ、愛してる!!」

 

 すっかり力の入らなくなってきたその震える腕で必死に心臓マッサージを続けつつ、琴美はそのように叫んだ。

 

「ずっと前から好きでした! 一目惚れでした!」

 

 喉の奥から絞り出すようにしてその本心を打ち明けていく琴美。ぜいぜいと苦しそうにあえいでいるが、それを押してでも想いを伝えねばやりきれなかったのだ。

 

「私、中学のとき、君に助けてもらったんだ! あのときのお礼、私、まだ、言えてない、から……!」

 

 だから死なないでと、そう続けたかったが、息も絶え絶えな琴美は最早満足に声も出せなくなってしまった。とうとう力尽きてしまった琴美は、崩れ落ちるようにして智貴の胸の上に倒れ込んでしまった。ああ、これはいよいよお終いだと、智貴を救うことができそうにない絶望に捉われて目の前がまっくらになった琴美は荒い呼吸を繰り返しつつ、しばらくは指一本動かせそうにない己のふがいなさを呪う。

 智貴の母はどうしているのだろうか。首尾よく智子を抑え込むことはできたのだろうか。今となってはもはやどうでも良くなってしまった。

 

 ──トクン……

(ん?)

 

 かすかに聞こえたその音に、琴美は呆然としていた意識を引き戻される。つい今しがた己の耳元でそのような音が鳴ったような気がしたのだ。なにごとかと琴美が思っていると、また同じ音が耳元から聞こえてきた。

 

(え? これって……!?)

 

 音は図らずも琴美が耳を押し当てる形になっていた智貴の胸板の内から響いてきていた。

 

(もしかして、もしかして!)

 

 弱々しくはあるものの、確かに智貴の鼓動が戻ってきていた。そのことを確信した途端、琴美は動かなかったはずの己の身を勢いよく起こし、

 

「とっ、智貴くん!?」

 

 意識の有無を確かめようと盛んに呼びかける。

 鼓動は再開したもののいまだ呼吸が戻っていない智貴であったから、ここはひとつまた息を吹き込んでみようと唇を近付ける琴美であったが、

 

「ゴボッ……! ガハッ、ゲホッ……!」

 

 それをお断りするかのように智貴が急にえずいて水を吐き出した。

 

「げほっ……はぁ……はぁ……」

 

 そうして遂には呼吸すらも再開させたので、ベッドからおりた琴美は智貴に横向き寝の姿勢を取らせて頭を幾分か反らす形にしてやる。これも応急処置のひとつ、回復体位というやつだ。

 

「良かったね、智貴くん……がんばってくれたんだね……」

 

 苦しそうに咳込みつつも確かな呼吸を自力で繰り返す想い人の様子に、琴美は感極まらずにはいられなかった。智貴が生きているというその事実が計り知れないほどの安堵と喜びをもたらしたからだ。

 自然と伸ばされた琴美の手が智貴の頭を慈しむように撫でる。そうした柔らかな感触に気づいたのか智貴がうっすら目をひらいた。

 

「智貴くん、私だよ。判る?」

 

 ぼんやりとした様子で己を見つめてくる智貴に、琴美は優しく声をかけてやる。すると小さく頷く反応が返ってきたので、意識の方も問題なさそうだと安堵した琴美がふぅと息を吐く。

 

「先輩……やっぱり、生きてたん、ですね……」

 

 と、そのように途切れ途切れの小さな声で智貴が言ったので、どういうことかと疑問符を浮かべる琴美。

 

「あいつが……先輩はもう死んだって……でも、車の音とか色々、聞こえてましたから……」

 

 智貴が言うには、つまり智子から「もう琴美は死んだ」と吹き込まれていたということらしい。自身が連れ去られてしまった後も、残された琴美の安否を気にしていたと思われる智貴であったから、智子はそのようなことを言って智貴の未練を断ち切ろうとしたのかもしれない。が、彼はその言葉に惑わされずに琴美が生きていることを信じ続けていたのだ。

 

「よかった……」

 

 そう言って一息ついてみせる智貴。琴美が智貴の復活を心から喜んでいたように、智貴もまた琴美の無事を確認することができて深く安堵したらしい。智貴の様子からそうした心情を汲み取った琴美は、自分のことをそこまで心配してくれていた彼に改めて愛おしさを募らせる。

 

「智貴くん、立てそう? 門のところに車があるからそれで逃げよう」

 

 が、今はそうした気分に浸っている場合ではないことを琴美は思い出す。智貴の母がかの怨霊を抑え込んでくれているうちに一刻も早く智貴を連れてこの屋敷を脱出せねばならないのだ。無事に逃げ帰れたらぜひとも智貴にはあの心優しい母のことを存分に話してやろうと琴美は思った。

 

「辛かったら私がおんぶしてあげるから」

 

 先ほど蘇生したばかりの身である智貴に無理をさせるようなことは琴美としても心が痛むため、ついそのようなことを言ってみせる。今やすっかり己に活力が戻ってきていたのを感じた琴美であったから、きっとそんな力技すらもやってのけることが可能なのではないかと思ったのだ。

 

「大丈夫です、自分で歩けますから……」

 

 小柄でか細い琴美にそのような無茶はさせられないと、ゆっくりと身を起こした智貴はそのままベッドをおりようとする。それを見て取った琴美は彼が立ちあがるのを支えてやった。気丈に振る舞う智貴ではあったもののやはりその体には碌に力が入らないようであったから、琴美は彼の手を取って有無を言わさず己の肩を貸してやる。

 

「こうしたらちょっと楽でしょ?」

「すみません……」

 

 床に転がっていた智子の車椅子を拝借してそちらに智貴を乗せてやるということも考えたのだが、それは些か不吉な気がしないでもなかったから、そのまま琴美はふらつく智貴を支えながら扉の穴を通って廊下へと出た。気づけばあの散発的な揺れもいつのまにかすっかり収まっていたようで、もしかすると智貴の母は無事智子の制圧に成功したのかもしれない。

 そうして玄関に向かうべく、開かずの間から溢れ出した大量の汚水で水浸しになった廊下を進む琴美たちであったが、

 

 ──ズゴオォォン

 

 耳をつんざく爆音が響き、同時に屋敷全体がかつてないほどに揺さぶられた。あまりのことに立っていられなくなった二人はその場で膝をついてしまう。

 

「なな、なに今の!?」

「なんか下で爆発したって感じですけど……」

 

 突然のことにうろたえる琴美と、およその事態を把握する智貴。二人を驚かせたそれはどうやら階下から届いたものらしかった。

 

「うわっぷ……!」

 

 再び発生する爆音と衝撃。それに続いて熱風が廊下をゴウッと走り抜けたのでたまらず顔をそむける琴美。いったいなにが起きているというのか。ややあって廊下の先へ目をやれば、そこに階段の構造物らしきものが吹き飛ばされたように散乱しているのが見て取れた。

 

『小宮山さん、玄関のほうはもう駄目よ!』

「なにがあったんですか!?」

 

 唐突に頭の中に響いてきた智貴の母の声には切羽詰まった様子がありありと浮かんでいた。そんな彼女に事態の説明を求める琴美であったが、もしや智子を抑えることにしくじったとでもいうのだろうかと不安を感じてしまう。

 

『智子が地下のボイラーを爆発させたの……あの子、もう駄目だと思って全部道連れにするつもりなんだわ』

「そんな……!」

 

 どうやら追い詰められた智子が力で敵わぬと見て最後の手に打って出たらしい。

 

『ああ、熱い……体が、焼ける……』

 

 智貴の母の苦しそうな声が届いてくる。彼女は屋敷と融合させられたと言っていたが、そうするとつまりこの建物はかの女性の体そのものと言えるのかもしれない。燃やされてしまうのは嫌だと冗談めかして言っていた彼女であったが、この様子からすると屋敷の中では先ほどの爆発で火災が起こっているのだろうか。とすればじきに二階へ火の手が回ってくるのも時間の問題かもしれない。そしてそれ以前に、先ほどからホールの方より勢いよく立ちのぼってくるあの煙に巻かれては危険だ。

 

『日記があった部屋に行きなさい……そこならまだ少し、火をしのげるから……』

「わ、判りました!」

 

 その指示を受けてすっくと立ちあがってみせた琴美は、先ほどからいったい誰と話しているのだろうかと訝しげな様子でいた智貴の腕を掴んで引きあげてやり、立ちあがった彼に再び己の肩を貸す。

 

「玄関がね、なんか火事になってるみたい。危ないからあっちのほうに……」

 

 そう提案する琴美が自分たちの進んできた道を振り返り、そして言葉を失った。廊下の先で佇む誰かの姿が目に入ったからだ。

 

「ドイツ、モ……コイツ、モ……」

 

 そこにいたのは智子だった。所々にひび割れを作っている彼女の顔は憎悪に満ち満ちて悪魔の如き形相であったが、その瞳に宿る禍々しい光は随分と精彩を欠いているようにも見えた。そんな智子がおもむろにぎこちない動作で片手を前方にかざす。

 

「ミ・ン・ナ・モ・エ・ロ」

 

 熱気が満ちてきたこの屋敷の中にあってなお、凍てつくような響きを持ったおぞましい声で智子がそのようなことを口にした途端、突き出された手のひらより青い炎が琴美たち目がけて勢いよく放たれる。

 

「智貴くんっ!」

 

 咄嗟に智貴を庇おうとする琴美であったが、そんな二人を青い炎は丸ごと容赦なく包み込んでしまった。

 

「ミンナガ、ワルインダ」

 

 絶え間なく炎を放つ智子が誰に向けてか恨み言のような呟きを漏らす。

 

「オカアサンガワルイ。オトウトガワルイ。オトウサンガワルイ。ヘンタイメガネモワルイ」

 

 青い炎に照らされてできた影が、智子のその怒り一辺倒だった顔に複雑な表情をもたらす。苦しんでいるのか、泣いているのか、あるいは笑っているのか。智子の呟きは止まらない。

 

「ゼンブゼンブ、ミンナミンナ」

 

 ままならなかった短い生涯を嘆くように、そして怨霊となってなおも思い通りにならないその現実へ吼えるように、口を大きくあけ広げた智子が絶叫する。

 

「 オ マ エ ラ ガ ワ ル イ ! 」

*1
肖像権侵害に相当する行為であり、また現代においてはストーカー規制法に抵触するおそれがある。




続く
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