時系列的にはちょく!の原作終了後で、もこっちの一年次三学期末頃のお話になります。
★イラスト
こちらは喧噪社様の描かれたもこっちと芹花の素敵なツーショットです。
作者様に快くご許可頂けましたのでこの場を借りてご紹介させて頂きます。
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=64049545
春の学年末テスト最終日。普段よりも長めのホームルームを終えた一年十組の教室は、下校の準備を始めた生徒達の声で賑わっていた。
連日続いた一年次最後のテストもようやく一段落ついたという事で、どの生徒達の顔にも大きな試練から解放されて一気に緊張の解けた様子が表れており、これから皆でどこへ遊びに行こうかと早速話し合っているグループの姿も見受けられる。丁度明日からは土日を挟んだ三連休であったから、なおのこと彼らのそうした会話にも喜色が滲んで弾みに弾んでいった。
(帰るか……)
そんな中にあって一人黙々と帰り支度をしていた
「一緒に帰ろう」等と誰かが誘ってくれるでもなし、テストの出来についてあれやこれやと会話に花を咲かせる事の出来る級友がいるでもない。本日の智子はただテストを受ける為に登校しただけであり、それが終われば後はもう帰るのみ。それ以外には本当に何も無く、ただただ無であり、空虚であった。
余計な事はしないとでも言えば聞こえは良いが、智子の場合はむしろしたくても出来ないといった方が正しい。
テスト期間中に仲間内で誰かの家に集まって勉強会を開いたり、或いはこの放課後に打ち上げ会と称し友人達と連れ立って街に繰り出すといった事を、智子だって経験してみたいと思わないでもない。
しかしそれには友人の存在が必要不可欠であったから、クラスに一人もそうした相手の居ない智子としては指を咥えて他の生徒らが青春を謳歌する様をただ遠目に羨ましがるしかなかった。
尤も智子本人はそうした物欲しげな思いが己の中にある事を決して認めようとはせず、「悔しくねーし」と強がってみせたり、或いは「どうぞカス同士でベタな青春を送ってくれ」などと内心で毒づいてみせたりして己を誤魔化すのだった。
ともあれ本日の学年末テスト最終日以降の主立った行事といえば、あとは大掃除と修了式ぐらいなものだ。
それが終われば念願の春休みで、その後の生徒達には新二年生としてのスタートが控えている。
進級すればおそらくはもう今のクラスメイトとはその大半と離れ離れになってしまうだろう。仲の良い生徒達の間では次の学年でお互いが引き離されてしまうのではという不安もあるようで、それもあって進級までに残された時間を目一杯使い、少しでも多く交流の機会を持とうとする者も居る。
だが当の智子はといえば、これが何の感慨も湧かないのだった。クラスにまともな知り合いと呼べるような相手は一人も居ないのだからそれも無理ならぬ事であった。
智子の心の中にクラスメイトは誰一人としておらず、そしてまたクラスメイトの誰もが智子の事を見てなどいなかったのだ。ひょっとすると一人ぐらいは密かに見ていたりする物好きも居たのかもしれないが、それも智子のあずかり知らぬ事であったものだから、結局彼女はこのクラスにおいて一年間を通し孤独の人であり続けたのだった。
この後の智子の予定といえば、帰りしなに近場の書店へと寄り道してそこで手頃な雑誌やら漫画やらを立ち読みしていくという、いつもと変わらぬ味気ない暇潰しの日課がある位なものであった。
(結局この一年間、なんも無かったな……)
いつものてくてくとした足取りよりも幾分か重い足運びで帰路につく智子は、ボンヤリとこれまでの己の高校生活を暫し振り返った後でそのような感想を抱く。
智子が無い無い尽くしなのは別に今日に限った事では無い。入学してから此の方、クラスの内外に友人と呼べる相手はおらず、心に残る印象深い学内での出来事なども無かった。
昨年の文化祭にて中学以来からの友人と連れ立って催し物を見て回った際は大変に心温まったりしたものだが、これは他校に通うその友人がわざわざ会いに来てくれたからこそであり、当の彼女が帰ってしまった後は再び灯が消えたような心持ちになってしまったものである。
故に、この学校そのものに対して何かしら思い入れを持てるような要素が見当たらないのだ。強いて言うならば、美術の授業の一環として他所のクラスの冴えない男子生徒から可愛い似顔絵を描いて貰ったり、他にも昨年の文化祭の折に誰とも知れぬ相手から着ぐるみ越しに抱きしめられた事などが妙に照れ臭かったりしたものだが、それらを除けばこの学校に入って良かったと思える心地の良い思い出などさっぱり無いのであった。
その一方で学校の中で恥をかいたり嫌な気分になった事であればこれが枚挙にいとまが無いというのだから、智子は長い溜息の一つもつきたくなる。
とはいえ別に周囲から何かしらの嫌がらせや苛めを受けたという訳でもなく、そのいずれもが智子自身の妬みやそねみ、或いは空回りの努力や短慮からの自爆行為が生んだ結果ではあったのだが、ともあれこの一年間の高校生活を振り返れば「クソつまらん」の一言で片付けられてしまうような希薄で無価値で忌々しい印象だけが智子の中に残ったのであった。
高校に入れば、女子高生にさえなれば、友達も沢山出来て、男子からはモテて、皆からチヤホヤされて、きっと楽しい高校生活が送れるに違いないと、かつての智子はそのような根拠の無い期待に胸を膨らませていた。
が、蓋を開けてみればこのザマなのである。おかしいな、おかしいなと、智子はこれまでに幾度も自問し続けていた。
入学当初は膨らみに膨らんでいた彼女の中の瑞々しい期待感はその後みるみる空気が抜けていき、数ヶ月も経つ頃にはすっかりしぼんで地に落ちてしまったものだから、それに焦った智子は再び己を浮上させんとして自分なりに数々の努力を重ねてきたつもりではあったが、それもこの現状を鑑みればまるで無意味だったのだと思えてならない。
「次も同じクラスになれるといいね」と未練を持ってくれるような相手も、「また一緒のクラスだね」などと進級後に再会を喜んでくれそうな相手も、智子はついぞ作る事が出来なかった。
こういうルートを辿った場合、学園モノの恋愛ゲームなどではバッドエンドが待っている訳であるから、智子としては己の高校生活もまたバッドエンドを迎えてしまったような気分になってしまう。
自身のこの一年間は完全に失敗であったのかもしれないと、そのような諦観にも似た考えが湧き上がってきたものだから、それが智子を益々白けた気持ちにさせる。
(二年になってもこんな感じなのかな……)
もしそうだとしたら、なんと面白くない事であろうか。であればいっそ今年の卒業生達に混じって自分もこの学校を卒業してしまいたかった。これまでのように無味乾燥な高校生活が今後も続くのだとしたら、もうそこには何の未練も無い。
先日執り行われた卒業式にて、少しばかり言葉を交わした卒業生から「あと二年頑張って」という励ましのお言葉を頂戴した智子ではあったが、二年生になる前から早くも頑張る気力が消え失せてしまいそうなのであった。
「は────……」
いつの間にか校門も通り過ぎて駅前へと続く道筋を歩いていた智子が、新緑の季節の訪れと共に青みを増してきた街路樹を見上げつつ長い長い溜息をつく。
(せめて一人ぐらい友達でもいりゃ楽しかったのかなぁ)
思えば中学生の頃はそれなりに充実していたと、智子は当時を思い返す。あの頃の己の傍には、親友と呼ぶに相応しい一人のクラスメイトの姿が常にあったのだ。彼女とは今も親しい付き合いを続けており、昨年の文化祭にて智子を訪ねてきたというのもこの親友なのであった。
だからこそ、例え他に友人がおらずとも中学時代の智子がそこに不満を感じる事は一度も無かった。ただ一人、その親友さえ己の傍に居てくれれば、それだけで智子の学校での日常は彩りを保つ事が出来たのだ。
なんとなくもう一人妙な何者かが自分達の傍らに居た時期があったような気もするが、これに関しては何故だか全くもって記憶が判然としない。
ともあれあの親友のように真に仲の良い友人を一人だけでもこの学校の中で作れてさえいれば、己の高校生活もそんなに悪いものでは無かっただろうにと、そのように悔やみたくなる気持ちがこみあげてくる。
(どいつもこいつも人を無視しやがってからに……)
智子としても機会さえあればクラスメイトと仲良くなりたいと思ってはいたのだ。
だが内気でシャイな智子としては、肝心のクラスメイト達が個人的に気後れを感じてしまうような手合いばかりであったものだから、とてもではないが自分から声を掛けてみようか、などという勇気は湧いてこなかった。
智子としては自分の方が優位に立てて下に見れそうな冴えない同性が居てくれる事を所望していたのであるが、生憎そのような者はクラスには一人もおらず、他の女生徒達はいずれもが智子と違って垢抜けた雰囲気を携えていたものだから、なんとも近寄り難い限りなのであった。
だからそんな智子としては、誰かが積極的に声を掛けてきてくれて、自分に魅力を感じてくれて、友人になりたいと望んでくれるような、そんな都合の良い展開を期待してしまうのだった。
そのうち誰かが自分に気付いて興味を持ってくれるその時を智子はこの一年間、待っていた。その合間に自分なりに考えた周囲への控えめなアピールを挟みつつも、智子はずっと待ち続けていたのだ。
そしてその結果現れたのが、学年末のこの時期に名残惜しんでくれるような相手もおらず今こうして一人寂しく下校している自分自身なのであった。
(ん……?)
浮かない顔で出口の無い思考を繰り返しながら歩いていた智子であったが、その歩みが急に止まった。
誰かからの突き刺さるような強い視線を突如感じてしまったからだ。普段人に無視されてばかりの智子であったから、そうした己への注目の気配に敏感になってしまっていたのかもしれない。
(なんだありゃ?)
視線の出所を把握した智子が訝しげに眉根を寄せる。智子の歩いていた歩道側に寄せるようにして、一台のバイクが路上でアイドリング音を周囲に響かせながら停車していたのに気付いたのだ。それはいかにもスピードの出そうな大型の赤い流線形のバイクであった。
が、ただそれだけでは智子も妙に思ったりはしない。問題はそのバイクの隣にくっついている何かだ。
(タヌキ!?)
それは動物だった。正確には、動物の姿を象った側車であった。いわゆるサイドカーというものである。
茶色い毛皮に包まれ、ファンシーにデフォルメされたタヌキっぽい顔つきの動物が伏せたようなフォルムをしたそれは、まるでスーパーにある子供達の遊び場にでも置かれているような、ワンコインで動く幼児向けの乗り物を彷彿とさせた。
そしてまた、智子が先程からひしひしと感じられて仕方がない熱視線は、その問題のバイクに跨る何者かから放たれていたのだ。
(女の人……?)
奇抜なデザインのサイドカーバイクに負けず劣らず、そのライダーの身なりもまた智子の興味を惹くものであった。
全身のボディラインがくっきりと浮かび上がるような革ツナギのバイクウェアを着込んでいたライダーは、女性らしい起伏と曲線に富んだしなやかな体つきをしている事が見て取れた。
その女性ライダーが先程から身じろぎもせずバイクに乗ったまま、少し離れた先から智子の方をじっと見つめている。
バイクのボディと同じく真っ赤なフルフェイスヘルメットを被っていた女性であったが、その閉じられたメットのスモークシールド越しであってもはっきりと判ってしまう程に、彼女が自分を凝視してきている事を智子は確かに感じ取っていた。
(なんかやべーのがいるな……)
どうもこれは気味が悪いぞと、得体の知れない女性ライダーの様子に不穏なものを感じた智子は、彼女から出来るだけ距離を取るべく歩道の端に寄ってから、目を合わせてしまわないよう俯き加減で件のライダーの前を足早に通り過ぎようとした。
が、今正に智子がライダーの前を通り過ぎようとした瞬間、タイミングを合わせたかのように彼女が唐突に警笛を鳴らしたものだから、思わず智子は小さく悲鳴を上げ、その猫背気味だった姿勢が反射的に正されて気をつけの姿勢を取ってしまう。
と同時に、まるで魔法でも掛けられたかのようにその身が固まってしまい、それ以上歩みを進める事が出来なくなってしまった。心臓の鼓動が異常に早まり、全身から嫌な汗が滲んできたのを智子は感じる。
周囲には他にも幾人か下校中の生徒らの姿があったが、ライダーはそちらには目もくれず、己の前を通過していこうとした智子の姿だけを見据えていた。
こうなると今し方の警笛はどうも己に向けられたものに違いないのではと、智子はライダーのその行動に絶望的な確信を得る。つい先程まで己を支配していた陰鬱な気持ちや思考が一瞬にして吹き飛ばされてしまい、今や智子の心の中は得体の知れない相手から突然このようにして引き止められてしまった事への恐怖で満たされてしまっていた。
「ヘイ彼女」
そうして己のコートの裾を掴みつつ身を強張らせていた智子に、なんとも古臭い口説き文句のような台詞がどこか棒読み気味の口調で投げ掛けられる。メットのシールドを開いたらしい女性ライダーが、どうやら智子に話し掛けているようだ。
「あ わ わた、私……?」
こうもあからさまに呼び掛けられては無視する訳にもいかない智子であったから、隠しきれない怯えを滲ませた表情でおそるおそるライダーの方へと振り返り、相手と目を合わせないよう俯き加減で己の顔を指差しながら喉から搾り出すようなか細い声でその呼び掛けに答えてみせる。
そうした智子の呟きに近い声は、バイクから響いてくる大きなアイドリング音でかき消されてしまいかねなかったが、女性はそれに反応した様子を見せる。
「そう、あなたに言っている」
智子の先程の問い掛けを確かに聞き取っていたらしいライダーがはっきりとそう返答したものだから、観念した智子は女性ライダーにそっと控えめな視線を送ってその姿を観察する。
ハンドルから手を離し、シートの上で上体を起こした彼女のそのすらりと伸びた長い足の先は、乗っているのが大型のバイクであるにもかかわらずしっかりと地面へ届いていたものだから、女性ながらに中々の高身長である事を伺わせる。
ボディラインがクッキリと浮かびあがるようなピュアホワイトを基調としたそのエナメルレザー仕立てのライダースーツは磨かれた光沢を放っており、それがより一層彼女の女性らしさに富んだ体つきを強調していた。
シートに載せられたヒップから背中にかけてのラインが美しい曲線を描いており、背にはヘルメットの首元から伸びた豊かなセミロングヘアーが掛かっている。そのしとやかな黒髪はよく手入れされたきめ細やかな質感を湛えているらしい事が、彼女と少し距離を取っていた智子の目からでも確認出来た。
(あっ……)
そうして智子が女性ライダーの体を下から上へと観察していく内、そのヘルメットの開かれたシールドから覗く彼女の目元を見てしまったものだから、思わずドキリとしてしまう。
それは緊張と恐怖によるストレスで心臓が縮みあがってしまうといった類のものではなく、むしろそうした強張りを瞬時に忘れさせてしまうような、ひどく印象的なものを目にしてしまった戸惑いによるものだった。
有り体に言えば、美人である。彼女の非常に整ったその目鼻立ちからは、メット越しにでもその内部に本来の美貌を隠しているのだろうと、思わずそのように想起させられてしまう魅力の一端が垣間見えていたものだから、智子はそれに目を奪われてしまったのだ。
己をじっと見据えてくる女性のその澄んだ瞳に、智子はなにやら吸い込まれるものを感じてしまい目を逸らせない。二人は今、完全にお互いを黙々と見つめあう状態になっていた。
家族や親しい友人以外の他人とまともに目を合わせるというのは、本来であれば智子にとって大変に難しい事であった。
周囲から注目して貰いたがる欲求がある一方で、智子は己の姿を他人からまじまじと見られてしまう事に耐えがたい恥を感じてしまいがちなのだ。
それは己に目を向けてくる他人の視線の中に、どこか自分の事を採点しているかのような色が含まれているように感じられてしまうからだ。
髪が手入れされていない。笑い方が不自然だ。声が汚く喋り方も舌っ足らずだ。肌が不健康だ。目の隈が不気味だ。服もダサい。あとなんか臭そうだ。とにもかくにも『みっともない奴』だ。
もしかしたらそんな風に悪く思われているのではと、智子は他人と接する度にそのような不安を抱えずにはいられないのだ。
人恋しさを募らせる一方で、そうしたプレッシャーが智子を追い詰めてしまうものだから、結局は他人との関わりから逃げて安楽を得たがる性分が智子にはあった。
勿論このような心配の大半が実際は杞憂であったし、そもそも他人は智子自身が思う程に智子の事を見てなどいなかったのだが。
ともあれそんな智子ではあったが、しかし何故だか今この瞬間だけは一切の気恥ずかしさも無しに、自分の事を見つめてくるその女性と素直に目を合わせる事が出来た。
これがただ単に相手の美貌に目が眩んだだけというのであれば、智子はすぐしない内に正気に返り、己の中から湧き上がる恥の感情に耐え切れず目を逸らしてしまっていただろう。だが智子はそうした厄介な恥らいを感じずに済んでいた。その要因は女性の眼差しにあった。
見た目は大人と言って差し支えない風采のその女性ライダーであったが、ヘルメットから覗くきりりとした瞳からはどうにも世間一般で言う所の大人らしさのようなものが感じられない。どちらかといえば純朴な未成年の、それもかなり歳若い、ぶっちゃけると幼稚園児並かそれ以下の幼さとでも言うべき雰囲気が宿っていたのだ。であるが故に、まるで幼子のようなその視線が智子を萎縮させるような事は無かった。
「……」
智子も女性も、先程から互いにだんまりであった。二人とも次に口にする言葉を失っているかのようだ。
お互いにお互いを見つめてどこか惚けているようでもあり、むしろ女性の方にこそそうした様子が顕著であった。
何か素晴らしく尊いものでも仰ぎ見るかのような、そうした興奮気味の好意的な感情が女性のその眼差しに強く込められているのを智子は感じ取ったものだから、どうしてこの人は自分なんかをこのような目で見てくるのだろうと気になってしまう。
とはいえちっとも悪い気などしない。こんな風に他人から好意に満ちた眼差しを向けられてみたいと、そのように求めてやまない智子であったから、それが今唐突に与えられた事に困惑しつつも心地良さを感じずにはいられなかったのだ。
「お茶しよう」
「……はっ?」
急に女性が口を開き、そのように短い言葉を発する。それ受けて智子はようやく我に返った。
女性の声は声量こそ控えめなものであったが、不思議とよく通るその淡々とした喋り口調の声質がアイドリングの音に邪魔される事なく智子の鼓膜を十分に震わせたものだから、彼女が今し方何と言ったのかを智子は確かに聞き取る事が出来た。
が、それでもその言葉の意味を理解するのにはしばし時間が掛かった。「ヘイ彼女」と来て次は「お茶しよう」である。きょうび漫画でもドラマでもまず使わないベタな口説き文句であるが、それを受けて智子の中に急激な戸惑いが湧き上がる。
(えっ? これってナンパ……!?)
まさかそんな事が。この自分にそんな事が。青天の霹靂が如き出来事が、今まさに訪れたとでもいうのだろうか。
突然のそうしたお誘いに、しばし落ち着いていた智子の心臓がまたもやその鼓動を早めていく。
しかし智子の心の中に今度はまた別の疑問が生まれた。
(この人、ガチレズなの!?)
己を誘ってきた相手はどう見ても女性なのである。それの意味する所を考えた智子は戦慄を覚える。
尚も向けられるその熱っぽい眼差しからは彼女がどうやら本気で己を誘っているらしい事が伺えたものだから、その好意的な視線の意味合いが先程までとは違って感じられる。
これはつまり、相手の女性が己を性的な目で見ているという事なのではないかと。それは多分に憶測を含むものであったが、智子としては一度そうだと疑ってしまうともうその認識を覆せない。
ノンケの己がこうして真性のレズビアンにお誘いを受けているというその大事件を前にして、智子は自分の膝がひとりでにカクカクと震え出すのを止められなかった。先程までのどこか心地良い感覚が彼方へと吹き飛び、今再び智子の中で恐怖が募っていく。
「乗って、早く」
「え!? あ、あにょ、そ、そにょ……」
せっかちであるのか、もじもじしていた智子に向けて女性がやや命令口調で促してくる。
乗れというのは、つまり己の運転するバイクにくっついている珍妙なデザインの側車に搭乗せよという事だろう。そうして乗ってしまったが最後、果たしてどこに連れていかれるのやら。
智子がちらりと側車の方へと目を向ければ、そこには丸々と太ったモヒカン頭の大きなペンギンのぬいぐるみがシートベルトで座席に縛りつけられていた。そのぬいぐるみは少々年季が入ったものなのか、所々破けた部分を裁縫で補修されたような跡がちらほらと見受けられる。また、よく見れば血のようなものが点々と付着したらしい跡なども残っていた。智子はそこに何やら不吉なものを感じずにはいられない。
「どうして乗らない? 早くして」
このままではしびれを切らした相手がバイクを降りてこちらに向かってくるかもしれない。そのように考えた智子の恐怖は今や最高潮に達してしまったものだから、それが彼女に思い切った行動を取らせてしまう。
「あ、そそそ、そのっ……、すすすす、すいませんっ……!」
激しくどもりながらペコリと頭を下げてそのように詫びると、智子はそのまま近くにあった歩道橋へと走り寄り、一気にそこを駆け上がっていった。そうしてそのまま橋を伝って近場のショッピングモールの二階部分へと一目散に逃げ込んでしまった。
(やべー……マジやべー……)
買い物客で賑わうモール内にて一人ぜいぜいと息をついていた智子。十分に暖房の効いた店内であったから、蒸し暑さを感じて首元に巻いてあったマフラーを外してしまう。
流石にここまで来れば大丈夫だろうと思い、今己が走ってきた歩道橋の方を店内から振り返る智子。このまま店の中にある本屋で時間でも潰していれば、その内諦めてアレもこの辺りから去ってくれるだろうかと考える。
が、もしかすると先程の女性ライダーがバイクを降りて今正に己を追い掛けに来ている真っ最中なのではないかと、何故だかそのような不安に駆られてしまったものだから、寄り道するのを止めた智子は駅前へ通じる出入り口を目指して再び店内を走る。
その間中、あの女性が今にも背後から追いすがってくるのではないかと、智子は何度も後ろを振り返らせられた。そうして件のナンパ女に発見される事なくどうにか駅まで辿り着いた智子は、普段己が利用しているホームから丁度発車しようとしていた車両へと飛び込みそのまま家路に着くのであった。
果たして智子の勘は当たっていたのか。彼女が早々に立ち去ったショッピングモールにて、その後しばらく誰かを探すように徘徊するフルフェイスヘルメット姿の不審人物の姿が有ったとか無かったとか。
ともあれ何事も無く帰宅した智子はその夜、自身の弟にこの時の出来事を聞かせてやらずにはいられなかった。ただしそこにはふんだんに脚色が加えられており、自分が街中でイケメンにしつこくナンパされただの、それを軽くあしらってやっただのと、すっかり別物な智子好みの内容へと仕立て上げられていたのであったが。
喉元過ぎれば何とやら。人生初のナンパ相手(♀)から与えられた恐怖の一時も、その晩ぐっすり眠ってみれば早くも印象が薄れてしまい、その後に始まる連休をたっぷりと満喫し終える頃には、すっかり智子の中から件の女性ライダーの事など忘れ去られてしまっていた。
そうして連休明け。今日も今日とていつもと同じ、毎度お馴染みの無味乾燥な一日になるだろうと考えていた智子の元へ、そうした惰性と退屈と諦観に満ちたマンネリズムを粉砕せんとする嵐が訪れた。
つづく