もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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原幕キス祭り(下)

(ほーらやっぱりいた!)

 

 手に持つタブレットの画面にはあのヤンキーの不機嫌そうなツラが映っていた。

 私の知り合いばかりを候補者に出してくるこのゲームのことだから、例によってこいつもぶっこんでくると思ってたぜ。ミエミエだっつーの。

 

 さあどうしたもんかなー。

 タバコばっか吸ってそうだし、ヤニ臭かったりしたら嫌だなぁ。ヘタしたらいきなりキレて殴ってきたりするかもしれんし……。

 どうせキスなんてしたこともないんだろうな。それこそ馬鹿みたいに意地はって本当に餓死するまで拒否しやがる可能性だってある。

 経験者の私はもうどうってこたぁないが、ピュアなヤンキーにゃ少々刺激が強すぎるかもだ。

 

(こいつはダメだな、次いこ……)

 

 少し考えてから私は早々に見切りをつける。時間は有限なのだ、迷ってる暇なんてない。

 ああでも、ヤンキー以外の私の知り合いでキスしてやってもよさそうな相手となるとあんまし思いつかないな。

 

 絵の描ける安藤(あんどう)はどうだ? あいつ私のこと好きみたいだし……。いや、でもあれとキスすんのはなんかやだな。

 コオロギの友はどうだろうか? ふむ、まあ悪くないかもな。よく考えたら普段付き合いのない相手の方がやりやすいもんな。

 おお、そういやクラスに妙な顔してるのがいたな。前に騎馬戦で見かけたやつ。あれでもいいぞ。なんの後腐れもなくできそうだ。

 ともあれ私はタブレットを操作して二人目の候補者の写真を呼び出してやる。さあどんなやつが出てくるのかなっと。

 

(あっ!? だ、だめっ! この人はダメだってば……!)

 

 画面に映し出されたのは私の前の席にいるクラスメイトの加藤(かとう)さんだった。

 やはりこのゲームは意地が悪い。私が例え死んでも選べそうにない相手をわざわざこうして候補者にしやがるんだから。

 こんなの爆弾だよまったく。

 

 ああでも、もし私が加藤さんを選んでしまったとしたら、果たしてあの人にどう思われてしまうだろうか。

 いやいや、もしかしなくてもきっとドン引きされるに違いない。

 こんな破廉恥なゲームに巻き込もうとした私のことを嫌いになってしまうかもしれない。

 変なやつだって、気持ちの悪いやつだって思われてしまうかもしれない。

 

 そんなの耐えられない。考えただけでもめまいがしそうだ。嫌な汗が出るわホント。

 やっぱりもうヤンキーでいいや。一発ブン殴られるの覚悟でこっちから隙を見てぱっとキスでもしてやりゃ、それで私はこの部屋から出られるんだ。そこはもう我慢してやろう。

 

(ふぅ、やれやれ……)

 

 そうして一人目の候補者へと写真を戻そうと画面へ指を伸ばす私だったけど、ふと思いとどまってしまう。

 

(三人目……)

 

 そうだ、まだあともう一人候補者がいるじゃないか。もう半分ヤンキーに決めたようなもんだけど、まだ時間はある。

 最後にちょっと確認してみてもいいだろう。もしかしたら手頃なのがいるかもだしな。

 そんな事を考えながら、ものは試しに『3』と書かれたボタンをひとまず押してみる。

 

(え……? えぇ────……!?)

 

 違った。本当の爆弾は三人目にこそ潜んでいた。うそだろ、まじかよ。

 こんなの選べるわけがない。絶対に絶対に選ぶわけにはいかないんだ。

 

「せんぱい……っ」

 

 画面の中では黒髪の美少女がこちらを向いて微笑んでいた。

 今となってはその姿に随分と感じ入るものがあり、胸を苦しくさせる。

 気が付けばタブレットを持つ私の手は震えだしてしまっていた。

 

『十秒前でーす』

 

 そんな私を追い立てるように、時間切れが近づいてきていることをアニメ声が知らせてきた。

 早く写真を切り替えねばと思うのに、画面の中の先輩に見入ってしまってなかなか行動に移ることができない。

 何をもたついてるんだ私は。何を躊躇することがあるんだ。早くしないと本当に先輩を選んでしまうはめになる。

 さあ、押すぞ。一人目に戻すぞ。いでよヤンキーよ。ほらっ、押せっ、押せったら。

 

(どうしよう、どうしよう……!)

 

 戻れない。なぜだか一人目に戻るためのボタンを私は思いきって押すことができない。

 このままだと大変なことになるぞ、早くしろ私。

 先輩を選んじゃだめだ。先輩とキスなんて、そんなのお願いしちゃ絶対にダメだ。

 

『五秒前ー、よん、さん……』

(はやくっ、はやく押さなきゃっ……!)

『にー、いち』

(あぁ──……っ)

 

 カウントダウン終了直前でとうとう決断を放棄した私は目をぎゅっとつむってしまった。

 そのことが一体どういう結果を招くのか。もうなにも考えられない。

 

『はい決定~。時間切れです』

 

 手元のタブレットから候補者決定を告げる声が聞こえてくる。

 その候補者が誰なのか私はわかっている。先輩が選ばれてしまったに違いないのだ。

 勝手にヤンキーが選ばれていたなんてこと、きっとありはしない。

 私はなんてことをしてしまったんだ。

 

 先輩が来る、来てしまう。

 目を開けることのできない私は背を丸めてタブレットをぎゅっと抱きしめたまま震えてその場に立ちすくんでしまった。

 これがただの夢だったらどんなにいいか。ここらで一発目が覚めでもすれば、ああよかったと安堵できるのに。

 

「智子ちゃん」

「ひゃうっ!!」

 

 背後から呼びかけられた私は反射的に背筋が伸びて思わず情けない悲鳴をあげてしまう。

 その柔らかな声に私の心臓はもう破裂しそうだった。

 忘れるはずもない。それは確かに私の先輩、今江(いまえ)さんの声だったのだ。

 ドッ、ドッ、ドッと、先輩にまで聞かれてしまうのではと心配になるほど胸の辺りから音が鳴り続ける。

 

「どうしたの?」

 

 背を向け続ける私を心配したのか、先輩が改めて声をかけてくる。

 いよいよ観念するしかなくなった私は、下をうつむいたままおずおずと遠慮がちに先輩の方へと向き直ってみせた。

 視線の先にはきれいに揃えられた先輩の靴先がある。姿勢のいい人なんだなと、そんなことを思ってしまう。

 

「あっ……あのっ、おっ、おひ、おひさしゅっ……!」

 

 お久しぶりです、だなんて先月の卒業式で会ったばかりの先輩についそんなことを言ってしまう。

 なんだかあの時のことがもう随分前のことのように感じられてしまうのだ。

 まさかこんな形でまた会えるなんて思ってもみなかった。

 

「ふふっ……」

 

 そんな私の言葉にもなっていないかすれ声をどう受けとったのか、先輩がくすっと笑うような吐息をついた。

 

「ほんとだね、なんだか久しぶりみたい」

「あっ、そっ、そですね……!」

 

 なんとも奇遇なもので、どうやら先輩も同じ気持ちでいたらしい。

 ああ、それにしても顔をあげられない。とてもではないが今の私は先輩の顔を見ることができない。

 だって先輩は私とキスするためにここに来たに違いないのだから。

 数ある候補者の中から私が先輩を選んでしまったことを、きっと先輩の方もわかっているはずなのだから。

 

「だいじょうぶ?」

「えっ、な、なにが……です?」

 

 少し前かがみになったらしい先輩が、私に顔を近づけてそんなことをたずねてくる。

 

「顔、すごく真っ赤だよ?」

「あっ! べ、べつに、だいじょぶです……っ」

 

 ミシミシと、胸に抱えるタブレットが音を立てる。私が強く抱きしめてしまっているせいだ。鳴り止まない心臓の音を先輩に聞かれてしまわないよう、こいつでフタをしてしまわないといけない。

 手ににじむ汗のせいでうっかりすべり落としてしまいそうだ。

 

「ねえ智子ちゃん」

 

 また先輩が私の名前を呼んだ。

 以前までは私のことを“黒木さん”と呼んでいたのだけど、卒業式の日にお互い自己紹介したあとはこうして下の名前でちゃん付けして呼ぶようになったのだ。

 親戚の人たち以外でこんなふうに呼んでくれるのは先輩ただ一人だけだ。

 

「キス……しなきゃいけないんだよね?」

 

 わざわざ呼び出したのはこっちなのだから、本当は私から切り出さなければいけない本題に先輩の方から踏み込んできた。

 その言葉を受けて、私の体はいよいよもって震えが止まらなくなってしまった。

 ああ、そうです。そうなんです。キスの相手を選べと言われて、私はあろうことか先輩を選んでしまったんです。

 選んじゃダメだ、選ぶなんてありえないって思っていたくせに、本当は先輩が相手だったらいいなって心の底で思ってしまったんです。

 

「しゅ、しゅみません……! わ、わたし、ほんとは、え、選ぶつもりじゃなくて……!」

 

 なのに口から出るのはこの期に及んで苦しい言い訳だった。

 私が先輩とキスしたいと思ってしまったなんて、知られたくなかった。

 そんなことを考えるいやらしいやつだったなんて、この人にだけは思われたくなかった。

 

「わ、わたしなんかとっ、い、いやだと思うけどっ……ほ、ほんと、すみませんっていうかっ……」

 

 私はただひたすらに低姿勢で先輩にあやまる。

 そうすることで私に他意はないのだと、いやらしい気持ちなど微塵もないのだと先輩に思わせたいからだ。

 こんな状況でも私は自分の心を守りたくて仕方がなかった。例え先輩をあざむくことになってしまってもだ。

 

「そんなことないよ?」

 

 苦しい弁解を搾り出す私に、小さい子供をあやすような感じで先輩がそう言った。

 そのやさしい言葉の中に、私は求めていた先輩からの許しを得られる兆しを感じ取る。

 

「私、智子ちゃんとキスするの全然いやじゃないもの」

 

 その言葉に私の体はひときわ大きく震えてしまう。私が言ってほしかったことを先輩がついに言ってくれた。

 この人ならきっとそんな風に言ってくれるんじゃないかと、あさましくも期待していた私はそれに飛びつかずにはいられない。

 

「あっ、そっ、そなんですかっ……? よ、よかったです……っ」

 

 いちいち噛んでばかりの私だったけど、いま口に出せる精一杯の言葉でそれに応えてみせる。

 

「智子ちゃんの方こそいやじゃない?」

「あっ、どってことないですっ、自分、全然へーきなんで……っ!」

 

 この受け答えはちょっと変かもしれないなと思いつつも、私は先輩の問いかけにそう返した。

 よかった。これでもう先輩が私を嫌いになったりすることはないはずだ。きっと大丈夫だ。

 ともあれ先輩のお許しが出たことで私はようやく顔をあげることができた。

 タブレットの画面越しなんかじゃなく、ちゃんとじかに先輩の姿を見ておきたかったのだ。

 

(制服じゃないんだ……)

 

 当たり前だけど先輩はもう原幕(はらまく)の制服なんて着ていなかった。

 そのかわりにショッピングモールなんかで見かけるおしゃれな女の人たちと同じような格好をしていたのだけど、はじめて目にする先輩の私服姿が珍しくて私は思わずじろじろ見てしまう。

 さすが女子大生ともなると違うもんだ。

 

「なぁに?」

「あっ、な、なんでもないですっ」

 

 あんまりじっと見ていたものだから、変に思った先輩に首をかしげられてしまった。

 そんな姿もすごく様になっていて、本当にどこに出しても恥ずかしくない美少女っぷりだ。

 いや違うか、先輩はもう少女じゃないもんな。女子大生っていったら大人の仲間入りする年頃だもんな。

 もはや先輩は高校生じゃないし、原幕の生徒でもない。そのかわりに今は私が三年生で、下級生たちから先輩と呼ばれる立場になってしまったのだ。

 先輩が学校にいるうちにちゃんとした関わりをもてなかったことを、私は少し後悔していた。

 

「じゃあ、ちょっとだけ我慢してね」

 

 一言そう断って目の前までそっと歩み寄ってきた先輩が、私を支えるようにして両肩に手をそえてきた。

 緊張ですっかり息があがっていることを悟られないよう、私はゆっくりと慎重に呼吸を繰り返す。

 だけども小刻みに震え続けるこの肩を通して、きっと私の動揺は先輩に見抜かれているに違いないのだ。

 肩を支える先輩の手は暖かく、そしてやわらかい。

 

 先輩の方を見なくっちゃ。前を向かなくっちゃ。

 それまで先輩と目を合わさないようにしていた私だったけど、意を決して目の前に立つ人と正面から向き合ってみせた。

 

(先輩、真っ赤だ……)

 

 少し顎を引いて私を見つめていた先輩の頬や耳には誰の目にも明らかなほどに赤みが差していた。

 こんな様子の先輩ははじめて目にしたものだから、私はごくりと唾を飲み込んでしまう。

 さっきまではあれだけ恥ずかしくて中々顔を向けられなかったはずなのに、一度そんな先輩の顔を見てしまったらもうそこから目が離せなくなってしまった。

 

(先輩も恥ずかしいんだ……)

 

 私だけじゃない。先輩だっておんなじなんだ。

 私はそんな先輩のことをかわいいと思った。

 

 先輩はまじめだからきっとキスなんてしたことないのかもしれない。

 どうかそうであってほしいと私は思った。誰とも経験のない先輩のままでいてほしかった。

 そしたらきっとこれが先輩にとってのファーストキスになるのだから。

 

 先輩にとっての特別になりたい。

 今までずっと先輩との関わりを避けてしまっていたくせに、今さらそんなふうにワガママな気持ちがわきあがってしまった。

 私にとっての先輩が特別であるように、先輩にもおなじように私のことを特別に思ってほしいのだ。

 まさかまた先輩に会えるとは思っていなかったから、私はこの降ってわいたチャンスを前にして貪欲になってしまっていた。

 

「お、おねがいしますっ……」

 

 かすれた声でそう言ってから、私は少し上を向いた姿勢のままでぎゅっと目をとじた。

 それを受けてか私の肩を支える先輩の手に少し力が入る。

 そうしてしばらくしたあと、先輩の吐息がはっきりと感じられるほど顔が近づいてきたのがわかった。

 

 先輩の吐息は少し乱れ気味で、やはり緊張しているらしいことが伝わってくる。

 私の方もいよいよ息があがってきて、もはや呼吸の乱れをとりつくろうことができなくなってしまっていた。

 来る。来る。来た。来た。あっ──

 

 ◆

 

 密着していたとても熱いその感覚が、やがてそっと身を引いたことを感じて私はようやく我にかえった。

 うっすらと目をあけてみれば、私の肩から手をおろしてふぅとため息を漏らす伏せ目がちな先輩の顔があった。

 どうやらキスが終わったらしい。一体どれくらいのあいだお互いがくっついていたのか、私にはまるで感覚がない。

 胸元のタブレットをずっと強く抱きしめていた私の手はすっかりしびれてしまっていた。

 

 一眠りするぐらいの長いあいだだったような気もするし、そもそも最初からキスなんてしてなかったようにも思えてしまう。

 なんだかまだ実感がわかなくて、まるで立ったまま不思議な夢を見ていたような感じだ。

 先輩の良い匂いが私を包んでいたものだから今もまだ夢心地が続いている。

 

「しちゃったね」

「ふぁ、ふぁい……」

 

 まだ赤い顔をしている先輩が照れ隠しのように微笑みながらそんなことを言う。

 ああ、やっぱり本当に私たちはキスしたんだ。

 ようやく緊張を少しばかり解いた私の方もふぅ──とため息をついてしまった。

 そうすると急に足に力が入らなくなって、うっかり前のめりに倒れてしまいそうになった。

 

「あぶないっ」

 

 それを先輩が咄嗟に支えてくれたものだから、そのまま私は先輩の服にしがみつく姿勢になってしまった。

 取り落としてしまったタブレットが床に落ちる音が部屋の中に響く。

 

「だいじょうぶ?」

「あっ、しゅ、しゅみません……っ!」

 

 先輩の胸元へ頭を預ける形になった私の耳に、どっどっどっと心臓の鼓動が聞こえてくる。

 

(ああ……一緒だ、私と……)

 

 先輩の胸の中も私と同じようにこんなにも高鳴っていたんだ。

 そのことが無性にうれしかった。こんなふうに胸をどきどきさせている先輩のことが、私はかわいくてたまらなくなった。

 だけどもそんな先輩はもう原幕の制服を着てはいない。校内で偶然先輩に出くわすなんてことは金輪際ないのだ。

 

 私は馬鹿だ。本当に馬鹿だ。こんなにも素敵な先輩がいたのに、どうして今まで素直になれなかったんだろう。

 先輩にもっと自分から声をかけてみればよかった。運よく先輩と会えたなら、恥ずかしがって逃げたりせずもっと色んなことを話してみればよかった。

 先輩のことをもっと見ていたかったし、私のことを見ていてほしかった。

 

 もうなにもかもが遅かった。

 先輩はもういないんだ。今までずっと私のことを気にかけてくれていた先輩は遠くへ行ってしまったんだ。

 本当は少しどころじゃない、実際のところ私は激しく後悔していたのだった。

 

「ぅ……うぇ……えぐっ……」

 

 そのことが急に悲しくなって、より一層先輩にしがみついた私はとうとうみっともなく泣き出してしまった。

 こんなのすごく迷惑かもしれないし、先輩の服だって汚してしまうけど、でもこの人ならきっと許してくれるように思えて私は甘えてしまう。

 

 すると私の頭と背中とに先輩の手が回されて、きゅっと自分の方に抱き寄せるようにして包み込んでくれた。

 そのことがうれしくて私は益々先輩の胸の中で嗚咽を漏らしてしまう。

 

(そうだ……)

 

 私はふとあることを思い出した。

 もし先輩にまた会うことができたら伝えておきたいことがあったのだ。

 

(ありがとうって、いわなくっちゃ)

 

 ひとりぼっちだった私のことを、見ていてくれてありがとう。

 誰にも気付かれなかった私のことを、見つけてくれてありがとう。

 

 私、先輩がしてくれたのと同じことを誰かにしてあげられたらって思ってるんです。

 私なんかが先輩みたいになれるなんて思えないけど、それでも少しくらいは与えてあげられる人になれたらって、そう思ってるんです。

 

 次から次へと伝えたいことが溢れてきて、胸がいっぱいになってしまう。

 でも言わなくっちゃ。次にまた先輩に会えるチャンスなんてあるかどうかわからないのだ。

 いま顔をあげて先輩にちゃんと気持ちを伝えないと、きっとまた私は後悔してしまう。

 

「せ、せんぱい……」

「うん?」

「あの、えと、その……」

 

 その胸元にうずめていた顔をあげて、私は改めて先輩の顔を見やる。

 泣きはらした私はきっとひどい顔をしているのだろうけど、先輩はそんなこと気にせず私の話を聞いてくれるはずだ。

 

「私、あの、ふ、ふわっ……」

「?」

 

 あっ、いかん、くしゃみが出そうだ。しんじらんねー、こんなタイミングで来るかフツー?

 うわー、止まれ、止まれったら。

 

「っくしゅん!」

 

 せめて先輩にみっともない顔を見せてしまわないようにと、咄嗟に身をよじった私は口元を手でおおって控えめにくしゃみをした。

 

「あっ、す、すみませ……」

 

 まったくどうしてこう格好がつかないんだろうと、自分の間の悪さに呆れつつも改めて前を向いたときには、もう先輩の姿はそこになかった。

 

「…………」

 

 こんなのってあるか。もうちょっと待ってくれたっていいじゃないか。

 意地の悪いタイミングで先輩を帰してしまったこのゲームの仕掛け人のことを、私は心底うらめしく思った。

 まだ体に残っていた先輩のぬくもりが段々と消えていくのが感じられたものだから、さっき泣いたばかりなのにもう一度泣きたくなってしまう。

 

『おめでと~。三人目クリアだね!』

 

 床に落っこちてたタブレットから聞こえてくるのんきな声がしんとした部屋の中でやけに響く。

 ずずっと鼻をひとすすりした私は、とぼとぼとした足どりでタブレットを拾いにいってやる。

 

『ねえねえ、どうだったー?』

「なにが?」

『ほら、キスした感想』

「……べつに」

 

 なんとも無神経な質問をしてくるやつだ。デリカシーゼロかよおまえ。

 

『えー、色々あるでしょ? 特にさっきのなんてすごかったよね』

「うるせー死ねノゾキ魔ヤロー」

 

 はったおすぞこら。

 私と先輩がキスするところをどっからか覗き見していたであろうこいつのことが私は気に入らなかったから、口調も自然と刺々しくなってしまう。

 

『あはは、ごめんごめん……。あっじゃあ最後に一つだけ聞いていい?』

「なに?」

『私は誰でしょう?』

「は……? いや知らんけど」

 

 アニメ声がやぶからぼうに妙なことを聞いてきやがった。だけどそんなこといきなり聞かれても答えられるわけがない。

 

『知ってる人だよー』

「知らん」

 

 そんなこと言われてもわからんっつーの。

 あれか? きーちゃんか? そうだ、きーちゃんならサイコパワーとか使ってこのおかしなゲームを仕組んだりとかできそうな気がする。

 というのはもちろん冗談なのだけども。

 

『本当にわからない?』

(なにこいつ……)

 

 しつこいぐらい質問を繰り返してくるアニメ声だったから、いい加減私は気味の悪いものを感じはじめる。

 聞き覚えのない声でしゃべるこいつのことなんて私が知るわけがないというのに。

 あっもしかして川本(かわもと)さんとかだったりして。

 

『そっかー、わかんないかー』

 

 答えることのできない私にしびれを切らしたのか、さも残念そうにわざとらしいため息をつくアニメ声。

 なんか知らんが馬鹿にされてるようで悔しいな。

 

「御託はいいから、もうこっから出してくれよ」

 

 これ以上こいつに付き合いたくない私はアニメ声のまわりくどい態度を無視するようにそう言ってやった。

 

『はいはい、じゃあ無事ゲームクリアってことで出してあげまーす。うえーい! やったね』

(んんっ!?)

 

 最後にアニメ声が変な声で口走ったその台詞に私はどきりとさせられた。

 デジャヴだ。こんなことが確かに前にもあったぞ。そうだ、あいつだ。

 

「え? ね、根元、さん……?」

「せいかーい」

 

 頭に浮かんだ推測を口に出した途端、タブレット越しにではなく背後から直接あのアニメ声が聞こえてきたものだから、私は慌ててそちらを振り返る。

 

「やっほー」

 

 そこには首にヘッドセットをかけたネモが立っていて、挨拶するかのように私に軽く手を振っていた。

 あまりに急な展開に理解の追いつかない私は、なんと応えればよいものかと言葉につまってしまう。

 

「黒木さん、気付くのおそいよー」

 

 すたすたと私の前まで歩み寄ってきたネモが愚痴るようにそんなことを言う。

 今はすっかり普段のネモの声だけど、この様子からすると今までタブレットから聞こえてきたあのアニメ声はこいつのものだったってことになる。

 

(ああ……ネモおまえそうか……目指してるんだもんな……声優……)

 

 やられた。今さらアニメ声の正体に気付いた私がなんだか馬鹿のように思えてくる。

 私のことを知っていて、アニメみたいな声で喋れそうなやつなんて一人しかいないのに。

 

「は────……」

 

 遠慮もクソもなく私は大きなため息をついてしまう。

 なんだかもう疲れちゃったな。こいつに色々言いたいことはあるけど、それも面倒になってきてしまった。

 一体誰の差し金なんだよとか、そもそもおまえが仕掛け人なのかよとか、しれっと候補者に混じってきやがってなに考えてんだとか、そうした諸々をこの場で問いつめてやる気力が今の私には残っていなかった。

 

「もう帰る……」

「うん、おつかれさま」

 

 それまで手にしていたタブレットをネモに押し付けてから私が一言そうつぶやけば、ネモも素直にねぎらうような言葉を口にする。

 

「じゃあ目とじて。それで帰れるから」

「あっうん」

 

 ネモの言葉を特に疑うこともなく私は静かに目をとじ、やれやれやっと帰れるぜと肩の力を抜いてみせた。

 だけどもその瞬間だった。

 やわらかくて熱っぽい感触が、なんの前触れもなく私の唇へそっと押しあてられたのだ。

 

(っ!?)

 

 驚いて目をあけた時には、もう私は見なれた地元の駅のホームに立っていた。

 辺りには利用客の姿がちらほら見えるけど、ネモの姿なんて影も形もなかった。

 

「なにいまの……?」

 

 確かになにかが私の唇に当たったはずだった。いや違う、正確には誰かに“キス”をされたのだ。

 すでに度々キスを経験してしまった私だったから、その形容しがたい感触を間違えるはずもなかった。

 果たしてその相手が誰だったのかなんて私にはすぐさま見当がついてしまったのだけど、それでもあえて考えないようにした。

 

 口元を手でおさえたまま私は改札へ向かって走り出す。

 ひんやりとした風が頬のほてりを冷ましてくれるようで気持ちがよい。

 早く家に帰らなくっちゃ。帰ったらなにをしようかな。

 今日あったことを弟に聞いてもらおうかな。いやダメだ、誰にも教えてやるもんか。

 

 このことは秘密なんだ。

 コオロギと、田村さんと、先輩との秘密なんだ。(あと絵文字もな)

 そしてそして。

 

(明日会ったら絶対とっちめてやるかんな……)

 

 秘密を共有するもう一人のことを思い浮かべながら、私はホームの階段を勢いよくかけあがっていった。




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