(なんだこりゃ、きもちわりーな……)
ビッチさんから受け取った紙きれを私は改めて読みなおす。こいつは予告状、あるいは脅迫状ってやつなのだろうか。その怪文書には漢字が一切使われておらず幼稚な印象を受けるのだけども、書かれている内容が内容なだけに却って不気味さを際立たせていた。
「さっきあたし達の部屋に落ちてたの。誰の仕業かしら……」
そう不安を口にするビッチさんは今にも泣き出しそうな様子で、私の肩に手を置いて心許なげに寄り添ってくる。気が強そうに見える一方で実は随分と怖がりな人なのかもしれない。
(さてはヤクザの仕業か?)
一体誰がこんなものを、と考えた所ですぐさまあのヤクザ風の格好をした変態のことが頭に浮かんだ。今このペンションにいる連中の中で一番こういう悪趣味なことをやらかしそうなのは、どう考えても不審者そのもののあいつしかいないからだ。その格好よろしく単に悪ふざけのつもりなのかもしれないが、おじさんのペンションでこんなことをされては私としてもちょっと気分がよくない。
「た、たぶんあの人じゃないですか? ほら、ヤクザみたいな格好してた……」
「ヤクザ?」
周囲に本人がいないことをちらりと確認してから、私は最有力と思われる容疑者のことをビッチさんに教えてあげた。
これはおじさんから厳重に注意してもらわないといけない案件だな。ついでにビッチさん達を怖がらせた罰としてここを追い出してくれないものだろうか。変態と一つ屋根の下で寝泊りするなんて出来ればごめんこうむりたいかんな。
「智子ちゃん、憶測でそんなことを言うのはやめなさい」
「えっ? で、でも……」
だけども私の言葉を聞いたおじさんは、眉をひそめて逆にこちらを注意してきた。そりゃ憶測ではあるけど誰がどう見たって一番怪しいのはあいつなんだから、肩を持つことなんてないのにな。
「あの変な格好してた人、何者なんですか?」
するとメガネさんが横から口を挟むようにおじさんへ質問してきた。
ほらやっぱり。皆だって気になるよな? 露骨におかしな格好しやがって、怪しいったらないぜ。
「
〈田中〉か。なんか偽名くせー名前だな。これで下の名前が〈
「誰がやったにしても、きっとドアの隙間から差し込みでもしたんでしょう。鍵はかけていらしたんでしょう?」
「あっ、そっかー。中に入らなくてもいいんだぁ」
不安を紛らわせるように、手にした箱からチョコプレッツェルを次々に取り出してはしきりにかじっていた川本さんが、おじさんの指摘を受けてぽかんとした表情を浮かべる。
「……でもやっぱり気持ち悪い。その田中って人、どこの部屋なんですか? まさかあたし達の隣とかじゃないですよね?」
ぽかんとしたついでに深刻さもどこかへ飛んでいってしまった様子の川本さんだったけど、そんな彼女を尻目にメガネさんは尚も警戒心の滲む表情で口元に手を当てつつ不安を訴える。
「いえいえ、皆さんとはずっと離れたところにお泊りですよ。ほら、階段をあがってすぐ右側の手前にあるお部屋です。丁度ここの上ですね」
そう言いながらおじさんは天井を見上げたのだけど、その言葉に私は少しばかり不吉なものを感じる。
「おい、おまえんとこの隣だぞ。やばいんじゃね?」
「……大丈夫だろ」
後ろでぼけっと突っ立っていた弟を振り返り、私はそう指摘する。
ヤクザの泊まる部屋が自分のところの近くでなくてよかったと安心する一方で、どうやら弟の部屋の隣らしいことがわかって私は同情を禁じえなかった。平気そうな風を装っちゃいるが、こいつがあまりにもヤクザのことを怖がるようだったら私の部屋に泊めてやってもいいぞ。
「どうする? 部屋替えてもらう?」
「そうだね、やっぱり気持ち悪いし……」
犯人に目星は付けども不安が拭えないビッチさんは、脅迫状を送りつけられた部屋に泊まるのが怖いのかそんなことを言い出してメガネさんに相談する。
「ああ、それなら大丈夫ですよ。幸い空き部屋もありますから皆さんさえよろしければ」
「その部屋にもテレビ、ついてます?」
気を利かせたおじさんが早速他の部屋を勧めたまではよかったのだけど、そこへ口を挟んできたのは川本さんだった。重要なことでも確認するかのようにテレビの有無を尋ねる川本さんに対して、おじさんは申し訳なさそうに首を振った。
「テレビは置いてないんです。ふた部屋だけ置いてある部屋があるんですが、それが今お泊りの部屋なんですよ」
「もうひと部屋は?」
「あいにくふさがってます。ですから、テレビをご覧になるんでしたら、今のお部屋で我慢していただくしか……」
空き部屋にテレビは置いてないと言っているのに尚も念入りに確認してくるあたり、川本さんは余程テレビのことが気になるらしい。そのふさがってるもうひと部屋というのは、たぶん私の部屋のことだな。
「テレビは我慢しようか?」
「えー、あたし見たいテレビがあるの」
妥協してでも部屋を移りたいビッチさんはそう提案するのだけど、納得のいかない川本さんは指先でつまんだプレッツェルをぶんぶん振りながらわがままを言う。
「テレビなんかいいでしょ! なにしに来てんのよあんたは。あたし達はスキーしに来たのよ、スキーに!」
それを受けてビッチさんが呆れた様子でぷりぷりと怒り始める。
「分かってるけど……でも今日は見逃せないの。『101体目の
川本さんが言っているのは最近流行りのドラマのことだ。私は見たことないけどなんかクローン人間どもがウジャウジャ出てきて毎回バカをやりまくる話らしい。なんにしてもここで私が快く自分のテレビ付き一等部屋を明け渡してやれば丸く収まるのかもしれんがそういう訳にはいかないぜ。こっちだってテレビは欲しいんだ。スーファミで遊んだりしたいからな。
(こりゃもう警察呼んだほうがいいんじゃね?)
そんでもってあのヤクザだか変態だか分からん奴がマジで怪文書の差出人だったらそのまま脅迫罪で逮捕してもらうんだよ。そしたら全部丸く解決するのにな。おじさん、頼むよマジで。
とかなんとか私が考えていたら、フロントの電話が控えめな音で鳴り出した。話の途中だったけど、おじさんはOLの人達に断りを入れてから受話器を取る。
「はい、〈シュプール〉です」
さっきまでの不穏なやりとりを感じさせない明るい調子でおじさんが応対する。そんなおじさんを抜きにしてOLの人達はしばらくひそひそ声で議論していたのだけど、やがて折り合いが付いたのかそのまま連れ立って二階へと上がっていってしまった。まあ、あんなのガキのいたずらみてーなもんだからな。気味は悪いがそんなに大騒ぎするほどのもんでもないんだろう。
「これやるよ」
「いらん」
脅迫状を手にしたままだったことに気付いた私は、不吉なそのブツを手放したくて弟に差し出す。そうしたら、弟は受け取りもせずさっさと私を置いて二階へと上がっていってしまった。
「……そうですか。では、お待ちしております。雪がひどいですから、お気をつけください」
そう言って受話器をそっと置くおじさん。時計を見れば時刻は八時を少し過ぎたぐらいだったけど、どうやら猛吹雪にもかかわらずこんな時間からやって来る客がいるみたいだ。ともあれ電話の応対が終わったようだから、私はおじさんに脅迫状を差し出した。
「おじさん、これ……」
「おお、すまないね」
こんな物騒なもんは責任者のおじさんに預かっといてもらうのが一番だな。意趣返しに「だれかが」のとこを「やくざが」に書きなおしてからヤクザの部屋へこっそり返却してやったりしたら面白いかもだが、バレた時が怖いので勿論やらない。
「あの人達はどうしたんだい?」
「なんかもういいんだって」
OLさん達はどうやら諦めたらしいと、私はおじさんに教えてあげる。
「そうかね、それならいいんだが……迷惑なことをする人がいるもんだなぁ」
頬をぽりぽりかいてボヤくおじさんだったけど、ひょっとしたらおじさんだって一応あのヤクザのことが怪しいと思ってはいるのかもしれない。OLさん達の様子からして自作自演とも思えないから、早々にメシを切り上げてったヤクザが私達のいない間にこっそり犯行に及んだんだろう。
なんて具合に私が推理していると、重量感のある足取りで誰かが階段を下りてくる音が聞こえた。
「ふぃー、どっこいしょ……」
現れたのはあの大阪のおっさんだった。下りてくるなしソファーにどかっと座り込むと、早速リモコンを手にテレビをつけてチャンネルを次々に切り替えていく。おっさんのソファーに座った姿はなんだか丸々としていて鏡餅みたいだ。
「あかん。どこもやってへん。こんなんやったらスマホ置いてくるんちゃうかったわ」
かと思ったら何かを諦めたようにテレビを消してしまったおっさんが独り言を呟いた。
「小林くん、今日の終わり値聞いてへんかな」
(オワリ……ネ?)
おっさんがよく分からないことをおじさんに尋ねる。
「香山さん、仕事のことは忘れるって約束でしょう」
「ああ……いや別に、仕事やないんや。毎日見てるさかい、見んと気持ち悪いっちゅうだけでな」
でんがなまんがな口調でオワリネがどうたらと言うおっさんに、やれやれといった様子でおじさんは腰に手を当ててため息をつく。知り合い同士なのかなと思う私だったけど、そのまま二人がたわいもない話を始めたので部屋へ戻ることにした。
おっと、その前に例のゲーム機とカセット一式を拝借しておかないとな。今夜はあれで遊び倒すぜ。
「ああ、そうそう。香山さん、この子は私の姪なんですよ。智子といいます」
さっき自分で片付けておいたゲーム機を持ち出そうと脇に抱えたりしていたのだけど、おじさんが急にそんなことを言って私のことを話題にしてきたものだからドキリとしてしまう。
「そうかー。きみの姪御さんか。おチビちゃんやなぁ、小学生か?」
「あっ、いや、えと……!」
いくらなんでもそりゃないだろう。おっさんのあんまりな誤解に「あたしゃ高校生だよ!」と反論したかったけど、人生初の関西人との会話を前にして私はすっかり慌ててしまった。こういう場合はなんて言やいいんだ?「ちゃいまんねん」とか、それっぽい関西弁で返せばいいのか?
「いえいえ、この子はもう高校生ですよ」
「ホンマかいな! そらまた大変やなぁ。栄養足りてへんのとちゃうか、きみ」
「はは……」
私に代わっておじさんが本当のことを明かしてみせれば、それを聞いたおっさんはおおげさに驚いた後で何が面白いのかダハハと笑っている。これはつまり遠回しにチビだと笑われてるようなものだから、愛想笑いをしつつも私はムカッとしてしまった。なんだかあの
「香山さんは、わたしが前の仕事をしている頃お世話になったんだ。大阪で社長をされている」
「あ、そ、そうなの……?」
「せやで。わしんとこはお好み焼きのチェーン店出しとんねん。『浪速のど根性焼き』ゆうてな、知らんか?」
そないけったいな名前の店は知りまへんわ。根性焼きとかヤンキーかよ。
なんてことを考えつつも適当に相槌を打っていたら、夢はでっかく一万店舗や、日本だけやのうて海外展開も狙っていくんや、だなんて聞いてもないことを大きな声でグダグダと語られてしまう。関西弁も聞き飽きてきたし、おっさんの長話に付き合うのも嫌なのでもう解放してほしいんだが。
「ご迷惑ですよ。あなた」
急に背後から女の人の声がしたから振り返ってみたら、いつの間に下りてきたのか階段の下にあの人妻さんが立っていた。
「困ってらっしゃるじゃありませんか」
そう語りかけながらしずしずと歩み寄ってきた人妻さんはおっさんの隣にそっと座ったのだけど、そこでようやくおっさんの暑苦しいマシンガントークは止まった。
「女房の
「あら、そうなの? こんばんは」
「あ、ど、ども……!」
おっさんが仲介役となって挨拶を交わした私と人妻さんだったけど、やはり思った通りこの二人は夫婦のようだった。あまり品性が感じられないおっさんと違って人妻さんはその佇まいから声色までどことなく気品のようなものを漂わせている。五十代ぐらいに見えるおっさんに対して人妻さんは三十代ぐらいという印象だったから、そうしたところも含めてなんとも不釣り合いな夫婦だなぁと、私はそんな感想を抱く。
「あっ、じゃ、じゃあ私、へ、部屋戻るので……!」
しっとりと艶を帯びた視線で私のことを興味深げに見つめてくる人妻さん。それがなんだか恥ずかしくって、私はぎこちなく断りを入れてからそそくさとその場を後にする。ああ、綺麗な人だなぁと、そんな印象ばかりが私の心に焼きついたのだった。
◆
(また死んだ! バランスくっそ悪いなこれ)
持ち込んだスーファミを自室のテレビに繋げた私は、数あるカセットの中から選んだ一つのゲームをプレイしていた。これは『不思議のペンション』っていうダンジョンRPGで、随分昔に流行ったらしいそこそこ有名なゲームなのだ。
(なんか裏技とか無いのかよ)
一旦コントローラーを置いた私はスマホを手に取る。以前見たレトロゲーのプレイ動画で紹介されていたこの作品のことを私は知っていたのだけど、実際にやってみるとこれがまた難しいのなんの。さっきだって敵から強そうな武器をぶんどってやったら、それが呪いのアイテムだったせいで主人公が発狂しちまいやがった。予備知識無しでサクサク進めるのはしんどいと判断した私は、さっきからゲームの進行に詰まる度にスマホで攻略情報を確認していたのだった。
(ありゃ?)
開きっぱなしにしていた攻略サイトの気になるリンク先を押した私だったけど、なにやらページが読み込めないとエラーが出てしまった。ついさっきまではネットを使えていた筈なのに、なんだか急に接続が出来なくなってしまったみたいだ。
(電波の調子が悪いのかな?)
気になってスマホの設定を確認してみたら、確かにネット用の電波が来なくなっていることが確認出来た。このペンションは外部からの電波がまともに届かない場所にあるから、ネットを利用する為には宿泊客の為に用意された無線LANの電波を拾う必要があるってことみたいだけど、そいつの調子がよくないのかもしれない。
(おじさんに言ってみるか……)
これから夜も長いってのにネットが出来ないだなんて敵わないし他の皆だって困るに違いないから、私はルータの具合をおじさんに見てもらうべく立ち上がる。
「っ!?」
だけどもその瞬間、ドサドサッと窓の外で何か大きなものが落ちる音が突然聞こえてきた。
(ああ、雪か。ビビらせんなよなー)
窓に目を向けた私は、そこから見えるひさしから雪がぼろぼろと小さくこぼれ落ちているのを見て取る。今外から聞こえた大きな音というのは、どうやら屋根に積もっていた雪の塊が重みに耐えかねて一気に落ちていった音のようだ。夕方から降り始めたこの猛烈な吹雪はいまや随分とこの辺りに雪を積もらせてしまっているらしい。
(おっ、車か……?)
そうして窓の外をぼんやりと眺めていると、どこからか車のエンジン音が近づいてくるのがわかった。やがてここの敷地内へと進入してきた車は玄関前の駐車場のほうで停まったようだ。なんとはなしに耳を澄ませていると、この猛烈な吹雪の中にあってもざっくざっくと雪を踏みしめる足音が確かに聞こえてきた。
(さっき電話してきてた客が来たのか?)
この吹雪の中、ご苦労なことだと思う私だったけど、ともあれおじさんに会いに行くべく廊下へと出る。
『フミャァ……フミャァ……』
途端、ドアを開けてすぐ左手のほうにある物置の中から切ない様子で鳴き声が聞こえてきたので足を止めてしまった。
「ジェニー?」
廊下の突き当たりにあるその物置に向かって呼びかけてみれば、私の声を感じ取ったかのように鳴き声はピタリと止む。気になってそっと物置を開けてみれば、思った通り中から黒い猫がするりと出てきて姿を現した。
「なんだよおまえ、閉じ込められてたのか?」
そう言ってしゃがみこんだ私は猫の背中を撫でてやる。こいつの名前はジェニーといって、このペンションで飼われている黒猫だ。どうも姿が見えないと思ったら、こんなとこに隠れていたとは。
「すみません!
その時、ロビーのほうでカランコロンとベルの音が鳴ったかと思ったら男の人の声が聞こえてきた。随分大きな声だったので、二階にいる私のところまで届いてくる。あれはたぶんさっき車でやって来た客だな。
そちらに気を取られていたら、ジェニーが階段のほうへと走っていってしまった。かと思ったら、階段近くの部屋の前まで行くとそのドアの隙間に鼻を押し当ててしきりに匂いを嗅ぎ始める。やがてジェニーは部屋に入れてほしいとでも言うように、ドアにすがりついてニャアニャアと駄々をこねるように鳴き出した。
(中になんかあんのか……?)
そこはどうもあのヤクザが泊まっているらしい部屋なのだった。ともあれジェニーの鳴き声につられてヤクザに出てこられては面倒だと思った私は、そっと部屋の前まで駆けていってジェニーを抱っこしてやる。もしあいつが猫嫌いな奴だったら、最悪ジェニーを蹴っ飛ばしたりしかねないから私が保護してやらんとな。
なんてことを考えていたら、誰かが階段を上がってくる。廊下に姿を現したのは初めて見るヒゲもじゃの大柄な男の人だった。その人は私の姿に気付くと一瞬驚いた様子を見せたけど、やがてニカッと愛想の良い笑顔を浮かべて無言のまま手で挨拶してみせると廊下の奥へと進んでいった。
(私の隣か……)
おそらくは新たに訪れた宿泊客なんだろう。荷物を担いでいたその人は私の隣の部屋を鍵で開けると中へ入っていった。そういやさっき自分で名乗ってたな。みき……なんとかっていう名前だったような。
ともあれ私はジェニーを抱っこしたままロビーへと下りていくのだけど、丁度そのとき鳩時計が一度だけポッポと鳴る。時刻は八時半だった。
*
「ぷはーっ、うんまいのー」
グラスに注がれたビールをぐいとあおっていた大阪のおっさんが、如何にもおっさん臭い感じで声を上げていた。ロビーの談話室ではいつの間にか晩酌が始まっていたらしい。
おっさんの隣に座る人妻さんは紅茶と一緒にケーキを食べているようだった。あれは私が晩メシ時に食ってたのとおんなじやつだな。
「おっ、猫やんか」
階段の下でその様子をじっと見ていた私だったけど、こちらに気付いたおっさんが私の抱っこしているジェニーに興味を示したのか、グラスをテーブルに置いて歩み寄ってくる。
「おー猫ちゃん猫ちゃん」
おっさんが指先でジェニーの喉をこちょこちょと撫でてやれば、ジェニーは気持ちよさそうに目を細めて首を伸ばす。
「どら、ちょっとええか?」
「あ、はい……」
どうやらジェニーを抱っこしたがっている様子のおっさんが両手を広げてきたから、私はジェニーを渡してやる。するとおっさんはご機嫌な様子でそのままソファーへと戻っていった。今度はジェニーがおっさんの長話に付き合わされる番なのかもしれない。
「ジェニーって言うんですよ」
「ジェニーちゃんか、そらまた可愛い名前や。女の子か」
食堂から出てきてビールのおかわりを運んできたらしいおじさんが、ジェニーの名前をおっさんに教えてやる。
「おじさん、ジェニー閉じ込められてたよ。二階の物置」
「ああ、そうだったのか。どうりで見かけないなと思ったよ」
さっきまで暗くて狭い所にいて寂しい思いをしていたジェニーだったけど、今はおっさんが食べているおつまみのさきいかをくんくんと物欲しそうに嗅いでいる。そんなジェニーを「アカンアカン、猫にイカはアカンのや」と制するおっさんの様子はどこか楽しげだった。もしかしたら猫好きなのかもしれないな。
「どうもこんばんは!」
さっき出くわしたヒゲもじゃの人が、ロビーの皆に手を振りながら階段を下りてきた。
「ありゃ、ビールですか? 参っちゃうな。ここに凍えかけた人間がいるってのに」
いかにも山男といった風貌のその人は、随分と愛想のいい様子であははと笑ってみせると人妻さんの隣に腰掛ける。
「どうぞ紅茶でも飲んであったまってください」
みきなんとかさんをもてなすおじさんのその言葉通り、今日子おばさんとみどりさんがティーポットとカップをのせたお盆を持ってやって来た。
「ああ、生き返るみたいだ……!」
熱い紅茶をふうふう吹きながらありがたそうに飲むみきなんとかさんは、心底ほっとしたような様子だった。声の印象からしておっさんと言うにはまだ随分と若い感じのする人だったけど、ヒゲもじゃの人というのは実際の年齢がよく分からなくなる。
「智子ちゃんも何か飲む? ココアはどう?」
「あっうん、まだいらないかな……」
お盆を持ったおばさんが私にそう尋ねてきたのだけど、つい三十分ばかし前にコーヒーをご馳走になったばかりの私は遠慮する。別に何か飲みたくて下りてきた訳じゃないもんな。
「おじさん、なんかネットつながんないよ」
「えっ、本当かい?」
本来の目的を思い出した私は、おじさんに無線LANの不調を教えてあげた。そうしたらおじさんは「後で見ておこう」と言ったのだけど、お客さん達とのお喋りに夢中なようで当分はここを動きそうにない感じだ。
「そうだ。
「はーい」
おじさんの指示を受けたみどりさんが、ぱたぱたとスリッパの音をさせてフロントにある内線用の電話を手に取る。そうしてどこかの部屋と話していたらしいみどりさんだったけど、一旦電話を切った後に改めて別の部屋へとかけ直す。
「あっ、もしもし智貴くん?」
どうやら今度は弟の部屋にかけているみたいだ。少しばかりあいつと言葉を交わしていたみどりさんはやがて電話を切った。
「オーナー! みんな飲みたいそうです。今からこっち来るって!」
おじさんへ向けてみどりさんが大きな声でそう伝える。
「待ちなさい、ちゃんと全員に連絡したのか?」
「全員じゃないですけど……あの人は別にいいんじゃないですか? ほら、変な格好したちょっと怖い感じの……」
「ああ、田中さんか。そうだな、人付き合いのよさそうなタイプでもないしな」
「そうですよ。たぶん呼んだら逆に怒りそうですよ、あの人」
ざまあ。ヤクザはここでも皆の嫌われ者だ。もしかしたら今頃部屋ん中でタバコ吸いまくって酒をあおったりしてるのかもしれない。酔っぱらって暴れたりしなきゃいいけどな。
「じゃああたしは、もう四人分、用意して来ますね」
おばさんがそう言って、お盆片手に台所へと消えていった。このままだとどんどん人で賑わいそうなロビーだったから、部屋で気楽にくつろいでいたい私はそこから逃げるようにして二階へと上がっていった。
*
「あっ、智子ちゃん!」
自分の部屋に向かう私だったけど、廊下の突き当たりの部屋から出てきたビッチさん達とばったり出くわしてしまった。この人達は私の部屋の真向かいに泊まっていたようで、さっきゲームをしてた時も笑い声なんかが聞こえてきていたもんだ。
「なんかお茶出してくれるって言ってたけど、行かないの?」
「あっ、はい、えと、の、喉渇いてないから……」
私が自分の部屋に引っ込むつもりでいたのを察したのか、メガネさんがそう尋ねてくる。
「また後で下りてきなよー。ケーキとかもあるって言ってたよ?」
「あーうん、ケーキはもういいかな……さっき食べたし……」
また性懲りもなくお菓子を食べてる川本さんが、もう待ちきれないといった様子でそんなことを言う。
「えー、智子ちゃんともっとお喋りしたいのになぁ」
「あ、す、すみません、えと、なんか沢山滑ったから疲れちゃって……」
残念そうな様子のビッチさんが、なにかをねだるような目で私を見てくる。ここでホイホイ付いていったらまた皆からイジられそうだったから、私としては遠慮したいところなんだが。
「そっか。じゃあ今日いっぱい休んで、また明日一緒に滑ろうね」
「あ、はい、そ、そですね……はは」
そんな風に言うビッチさんは明日を楽しみにしているようだったけど、この様子だと例の天気予報のことをまだ知らないと見える。明日は下手すると一日中ここでカンヅメになるかもしれないってのになぁ。
ともあれ私の前から去っていったビッチさん達が階段を下りていくところまで見送っていたら、今度は遠く離れた向かい側の突き当たりにある部屋から弟の奴が出てきたのが見えた。あっちも廊下に佇む私に気付いたようだけど、お互い何も声をかけないまま弟は階段を下りていってしまう。
いいのか弟よ、そっちにゃ自分の自慢話を聞いて欲しい大阪のおっさんが待ち構えているんだぞ。「わしの会社は実力主義や!」とかドヤ顔で長話されちゃうかもなんだぞ。
(いま二階にいるのは私とヤクザだけか)
誰もいなくなった廊下でふとそんなことを考えた私だったけど、なんだか急に寒気がしてきたものだからすぐさま自分の部屋に入る。
(戸締りしとこ……)
変態が侵入してくる可能性があったから、念のためドアの鍵を閉めた私は一時中断したままのゲームを改めて再開するのだった。
◆
(あっ、電話すんの忘れてた)
意地悪な難易度のゲームに四苦八苦していた私は、夜になったらウチへ必ず電話を入れるようにというお母さんとの約束を思い出した。一旦ゲームを止めて時刻を確認してみたら、ちょうど九時になったところだ。どうすっかな。まだ誰も二階に戻ってきてないみたいだし、いま下りてったらビッチさん達に捕まるかもしれん。
(後でいいか……)
ちょっとぐらい遅くなっても大丈夫だろうし、また頃合を見て電話しに行けばいいや。ついでにおばさんに言ってココアでも作ってもらおう。
「うおっ!?」
そう考えて再びゲームを始めようとしたのだけど、突然どこかでガラスの割れるような音が響いてきたので、私は驚きのあまり飛び上がってしまった。
(なんだ今の!?)
どうも窓の外のほうから聞こえてきたような気がするから、私は窓辺に立って外の様子を見やる。だけども吹き荒れる雪のせいで碌に視界が利かないようだったから、代わりに聞き耳を立ててみた。
(もしかすっと窓が割れたんか?)
ガタン、ガタンと何かが強く壁に叩きつけられるような音が外から繰り返し聞こえてくる。その音は結構近くて、どうも二部屋ぐらい離れたところの客室辺りから聞こえてきていた。これはきっと窓枠が吹雪に煽られて壁にぶつかっている音なのかもしれない。
(ヤクザが部屋ん中で暴れてんのかな?)
私の部屋の隣の、そのまた更に隣には階段を挟んであのヤクザの部屋がある。この窓枠の音はひょっとしたらそこから鳴っているのかもしれない。私の頭の中には泥酔したヤクザが酒瓶を投げつけて窓を割ってしまった様が思い描かれる。窓が割れたことにおじさん達も気付いたのか、一階のほうから慌ただしく駆け回る誰かの足音が聞こえてきた。
あいつめ、とうとうやりやがったか。こりゃもう通報確定だな。脅迫状のことだってチクられるだろうし、おまえはもうおしまいだぞ。
怖いながらもなんだか高揚してきた私は胸の鼓動が早まっていくのを感じる。
(部屋から出てきたりして……)
今度はドアの前に立って扉に耳をあてがった私は廊下の様子に探りを入れる。酔っ払いヤクザが私の部屋に入ろうとしてくる可能性だってあるもんな。
(ん? ジェニーか……?)
廊下のほうから聞こえてきたのは、ジェニーの鳴き声だった。ニャアニャアと、駄々をこねているように感じられる鳴き方だ。ジェニーの様子が気になった私は、思い切って鍵を外しそっとドアを開いて廊下の様子を伺う。そうしたら、案の定ジェニーがさっきと同じようにヤクザの部屋の中へ入りたそうにしているのが見えた。
(バカ! 見つかったら蹴っ飛ばされちゃうぞ)
慌てた私は廊下に出ると、ヤクザに気付かれないよう注意しながらジェニーのところへと静かに駆け寄っていく。そしてジェニーを抱っこしてやったのだけど、ヤクザ部屋のドアの下からひんやりとした冷気が漏れてくるのを自分の素足で感じ取る。ドア越しにびゅうびゅうと風の吹きすさぶ音が聞こえてもくるから、やっぱりヤクザの奴が自分の部屋の窓を割ってしまったのだろう。シュプールは客室の窓ガラスに値の張る特注品を使ってるらしいけど、そんなことも知らず気軽にやってくれるもんだ。
ヤクザの蛮行をおじさんにチクってやろうと思い、私はその場を静かに離れようとした。すると何人もの人達が連れ立って階段を上がってくるのが聞こえてきた。先頭に立つおじさんを筆頭にぞろぞろとやって来たのは、他の宿泊客達だった。弟は一番後ろから付いてきたようで、私に気付いてちらりと視線を向けてくる。
「ああ、智子ちゃん。さっき窓が割れる音がしたろ。そっちは大丈夫だったかい?」
「あ、うん……」
宿泊客の人達はそれぞれ自分の部屋のドアを開けて中を覗き込んだりしていたけど、どうやら皆は二階の部屋の窓が割れたかどうかを調べに来たようだ。だったら話は早いぜ。私は犯人を知っているぞ。
「たぶんこの部屋だよ。なんか風吹いてきてるもん」
「えっ? そこは確か……」
ヤクザ部屋を指し示す私の言葉を受けたおじさんが、ちょっと険しい表情になる。あの怪しさ満点のヤクザがいるところで窓が割られたとあっては、おじさんも警戒せざるを得ないのだろう。
「なになに? どうしたの?」
自分の部屋を調べ終わったビッチさん達が、私とおじさんのやりとりに気付いて声をかけてくる。
「あ、た、たぶんこの部屋で割れたみたいだから……」
「やだ。そこ、あの変な人の部屋じゃないの……?」
ビッチさんの表情が曇ってまた不安げな様子になる。まったくもって人騒がせなヤクザだよなぁ。
「……ねえ、もしかしたら中で人が死んでるんじゃない?」
「えっ、どうして?」
声を潜めていきなりとんでもないことをささやいたのはメガネさんだった。そしたら傍らの川本さんが、お菓子を食べる手を止めて理由を尋ねる。ていうか延々となにかしら食い続けてんなこの人。
「ほら、あの脅迫状よ。『誰かが死ぬ』って書いてたじゃない」
「えー、こわいよぉ」
例の脅迫状のことを蒸し返したメガネさんは、鋭い目をしてそんな憶測を口にする。それを真に受けた川本さんは怯えた様子で手にしていた菓子袋をぎゅっと握りしめた。
「でも、まだ九時よ? 十二時って書いてたじゃないの」
メガネさんの大胆な発言に微妙な表情でそう反論してみせるのはビッチさんだった。そうであって欲しくないという気持ちからなのか、友人の言葉をすんなりとは受け入れたくないみたいだ。
「かく乱よ、かく乱。捜査陣を惑わす為の工作ね。
どっかで聞いたことのあるような名前を引き合いに出して力説するメガネさん。ああ、そういやそんな名前の作家さんがいるな。確か『
(窓が割れただけじゃねーか。なにおおげさにビビってんだこいつら)
ああだこうだと憶測を巡らし盛り上がってるOLさん達を見ていたら逆に冷静になってきた。あんなもんは変態ヤクザのいたずらなんだろうと考えていた私だったから、いくらなんでも騒ぎ過ぎじゃないかと思ってしまう。
気が付けば、自室の確認を終えた他の人も私達を取り巻くように集まってきていた。皆の関心はいずれもあのヤクザ部屋へと向いているようだ。
「お客さま! 田中さま!」
皆の期待へ応えるように、意を決したおじさんがヤクザ部屋のドアを強くノックして大きな声で呼びかける。しばらく待っても返事が無いので改めてノックを続けるけれど、やはり反応は無かった。
「中で何かあったんじゃないですか?」
そう指摘するのは、皆の中から進み出てきた弟だった。その言葉にうなずいたおじさんは、ドアノブに手をかける。
「駄目だ。鍵がかかってる」
少しの間だけ思案したおじさんだったけど、やがてポケットから取り出した鍵を使ってドアを開けてみせた。
「失礼します」
おじさんがドアを開けた途端、そこから飛び出してきた風が強烈な冷気と共に私達全員を包み込んだ。ビッチさん達がたまらず小さな悲鳴を上げる。
(さっむ……!)
凍えるような風がびゅうびゅう吹いてくる部屋の中からは、カーテンが風に激しく揺られる音や、さっき私が窓辺で聞いたあのガタンガタンという音が盛んに聞こえてくる。
「お客さん!」
おじさんがドアを開ききると部屋の中があらわになったものだから、私は他の皆と一緒になっておそるおそる覗き込んでみる。腕の中のジェニーも首を伸ばして室内の様子に興味津々のようだ。
予想通り窓は割られていたようだけど、ヤクザの姿は見当たらない。割れていたのは私達から見てちょうど正面、部屋のつきあたりにある窓だ。観音開きタイプのそれは、いまや右側の窓枠のほうだけごっそりガラスが無くなっている。ただ風に煽られるばかりとなったその無残な窓枠をくぐり、部屋の中へとひっきりなしに入り込んでくる雪がベッドに積もり始めているようだった。
「お客さん! 田中さん!」
尚も大声で呼びかけ続けるおじさんは部屋の中へと足を踏み入れて入り口脇にあるバスルームを確かめるのだけど、やっぱりそこにも人の気配は無いようだった。
(もしかしてあいつ、窓からダイビングしたのかな……?)
酔っ払ったヤクザがとち狂って窓に頭から勢いよく突っ込んでいったのだろうかと私は思ってしまう。そしたらきっと今頃雪の中に埋もれてるんじゃないだろうか。
「いないの?」
「ああ、うん、どうしたんだろうね。どこにもいないんだが……」
私がそう聞いてみれば、戻ってきたおじさんが困った様子でうなじをかく。
「奥のほうは調べないんですか?」
「そうだな、よし……」
もっとよく調べてみてはと言う弟に促されて、おじさんは小さくうなずくと再び部屋の中へと入っていき、言い出しっぺの弟もその後ろから付いていった。
ひどい風と雪から顔を守るように手をかざしながら進むおじさんと弟だったけど、やがて窓辺のほうまでたどり着いた途端に何かを見つけたらしく、足元を見据えてぎょっとしたように二人して立ちすくんだ。
「なんかあんの?」
「来るな! 見るもんじゃねえ!」
気になった私が部屋の中に入ろうとした瞬間、弟がこちらに向かって叫んだので思わず後ずさってしまう。
「なんてこった……こりゃあ……こりゃあ……死体だ。人間の死体だ!」
真っ青になったおじさんが悲鳴のようなかすれた声で叫んだ。腕の中のジェニーは鼻をひくひくさせて部屋の匂いを盛んに嗅ごうとしている。
「ウソでしょ……?」
「ほらやっぱりっ! あ、あの脅迫状、本物だったのよっ……!」
「ふぇぇ……」
今しがたのおじさんの叫びを聞いたのか、私の背後にいたビッチさんが押し殺したような声を上げたと思ったら、その驚きと恐怖が廊下にいた皆に次々と伝播していく。
「なんや、小林くん! どないしたんや!?」
入り口前に立っていた私やOLさん達を押しのけて、大阪のおっさんが部屋の中へ入っていこうとした。
「すみません、皆さん、一旦ロビーに戻ってください!」
そしたらおじさんが慌てて駆け寄ってきておっさんを追い出してしまう。
「智子ちゃんも下で待っててくれ。さあ!」
そう言って、部屋に残ったままのおじさんはドアを閉めきってしまった。
「なんやねんホンマ……」
「あ、あの、いま死体がどうのって言ってませんでした……?」
いの一番に部屋の前から逃げるように去っていったOLさん達に続いて、困惑顔のおっさんやみきなんとかさんが連れ立って階段を下りていく。
(ヤクザ死んじゃったのか? マジで……?)
あまりの急展開に理解が追いつかない私はぼんやりと扉の前に立ち尽くしていたのだけど、心臓が今頃になって痛いほどバクバクしてきたものだから、腕の中のジェニーをぎゅっと抱きしめてしまう。部屋の中からおじさんと弟の声が聞こえてくるけれど、何を話し合っているのだろうか。
「ほら、行きましょう?」
「あ、は、はい……!」
そんな私に人妻さんが声をかけてきて、背中をそっと押してくれた。そうして促されるまま、私は人妻さんと一緒に階段を下りていく。
(どうなるんだこれ……?)
ひょっとしたらこれから長い夜になるかもしれないという嫌な予感がじわりと胸の中に広がっていくのを私は止めることが出来なかった。
続く