もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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大林宣彦監督の映画『転校生』およびその原作小説である山中恒先生の『おれがあいつであいつがおれで』を意識させて頂いた内容となっています。

★イラスト
こちらはしましま。様が描いてくださった、拙作のイメージイラスト(二枚目のほう)です。
作者様に快諾頂けましたので、この場を借りてご紹介させて頂きます。
https://twitter.com/simasimatusika/status/1061467177419649025

[2021/5/25]『もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴』を全面改訂しました。主に文章表現の拙い部分を改めた形となりますが、会話や心理描写の細かい変更なども加えてあります。


もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(1)

黒木コトミまたは小宮山トモコ

 くそー……いいなー……アイツには智貴(ともき)くんみたいな弟がいて……。

 智貴くんが私の弟だったらよかったのになー……。

 なりたいなー……智貴くんの家族に……。

 くそー……くそ──……うらやましいなー……。

 えっ? 今日から私が智貴くんのお姉さんに!?

 こんなの……こんなの同人誌かよ……!

 

 ◆

 

(こんなもんでいいかな……)

 

 火バサミと袋を手にゴミの類や松ぼっくりなどを拾い集めていた小宮山琴美(こみやまことみ)が、ややくたびれた様子で背筋をうんと伸ばす。今朝からずっと地べたを見回したり中腰になったりしていたものだから、随分と体中が凝ってしまったようだ。日が高くなってきたからか、蒸し暑さを感じてしまった琴美は着込んでいたジャージの襟を開いてシャツの胸元をはためかせる。

 本日の琴美は地元町内会が実施した清掃ボランティアに参加していたのであるが、予め伝えられていた目安の時刻が近づいてきたので頃合いと見てそろそろ切り上げようと考えたのだった。随分と中身の詰まったゴミ袋を収集場所へと持っていった琴美は、参加者をねぎらうために配られていた缶ジュースを受け取ってからなるべく人気(ひとけ)の少ない場所を探して地べたに座り込む。そうして小気味よく(ふた)を開けた缶をあおってみれば、よく冷えた潤いが喉に染み渡っていく。朝から働き通しであった琴美はやっと人心地つく事ができた。

 

(そういやここに来んのも久しぶりだよなぁ)

 

 琴美が今いる場所は、自宅からそこそこ離れた場所にある松林だった。ここは「稲毛(いなげ)の松林」と呼ばれている場所で、辺り一面にはその名が示す通り松の木がそこかしこに群生していた。住宅街に囲まれる形で存在するこの林は琴美の住む稲毛区でも名勝として知られる風光明媚な場所であり、すぐそばには神社なども建立(こんりゅう)されている。

 普段から子供達の遊び場にされたり、道行く人々の通り道となっているこの松林であるが、琴美の家からは些か距離があるため、特に必要が無い限りは進んで足を運ぶような場所でもなかった。ここに関する思い出らしきものがあるとすれば、それは幼い頃に当時まだ存命だった父に連れられ祭りの日に訪れた時の事ぐらいなものだった。遊歩道の脇に立ち並ぶ出店を巡っておやつやおもちゃを沢山買ってもらったり、神社のほうへお参りにも行ったりしたが、それも今となってはぼんやりとしたおぼろげな記憶となってしまった。

 

「あひぃぃ────っ!?」

 

 あの頃は眼鏡なんて掛けてなかったなぁ、などと当時を思い出して物思いに耽っていた琴美であったが、突然首筋に冷たい感触を押し当てられたものだから思わず絶叫してしまう。せっかく潤いをもたらしてくれていたねぎらいの品も驚きのあまり取り落としてしまったようだ。

 

「あっはっはっはっ……なんだよおまえ、あひーって」

 

 仰天した琴美が慌てて背後を振り返ってみれば、そこには琴美と同じくジャージ姿をした学校の同級生、黒木智子(くろきともこ)のけらけらと笑う姿があった。いつも体育の授業などでそうしていたように、彼女は己のもっさりとした長髪をこざっぱりと後ろにまとめたりしている。智子の手には今しがた琴美の首筋に押し当てたと思われる缶ジュースが握られており、顔には如何にもしてやったりといった感じの意地悪そうな笑みが浮かんでいた。

 この智子もまた琴美同様に本日の清掃へ参加していた(くち)であり、他の参加者達に交じって林の中でのボランティア活動に従事していたのだった。どこか居心地が悪そうにしつつも黙々とゴミを拾い集めていた智子の姿を見かけた際、もしや彼女の弟である智貴も来ているのではと辺りを探した琴美ではあったが、生憎彼の姿は見当たらず智子ひとりっきりであったため残念な気持ちになったものである。

 しかし智子のほうはといえば、琴美の存在に気付くや否やその目にいたずらっぽい輝きを(とも)したかと思うと、その後はいやにまとわりついたりして冗談まじりに口でからかってみたり、琴美が油断した隙を狙っては程度の低いイタズラを度々仕掛けていたのだった。普段学校で顔を合わせた時などは露骨に嫌そうな顔をする割に、こういう時ばかりは鬱陶(うっとう)しいぐらいに絡んでくるものだから、そんな智子の気まぐれな人間性に琴美は辟易とさせられていた。

 

「こんのゴミムシが……っ!」

 

 ともあれ度重なる智子からのイタズラにいい加減我慢ならなくなった琴美はすぐさま立ち上がろうとするが、それを察した智子はまるで追いかけっこが始まったといわんばかりに脱兎の如く広々とした林の中を駆け出していく。

 

「待てコラァ──!」

 

 しょうもないイタズラを仕掛けてきた同級生に一矢報いてやらねば気が済まない琴美は、今しがた己が取り落としてしまった缶を拾い上げてその後を追う。足の速さでは智子に敵わぬ事を知っている琴美であったが、すっかり中身が流れ出してしまったその空き缶をせめて智子に投げつけてやろうと考えたのだ。

 

「ほらほらこみさん、こっちこっち!」

 

 それにしても逃げる智子のすばしっこい事。投げる空き缶がどうにか届きそうな近さまで迫ろうと琴美が追いかけるものの、ふたりの距離が縮まる気配はまるで無かった。それでいて時折わざと立ち止まっては挑発してきたりもする智子だったので、それが益々琴美の頭に血をのぼらせる。一向に自分へ追いつけないでいる琴美を組し易しと見て余裕が出てきたのか、智子は先程から手に持ったままでいた缶ジュースのフタを開けて走りながらそれを飲んでみせたりと、さながら給水所に差し掛かったマラソンランナーのような真似事までしてみせる。

 ともあれふたりのただならぬ様子に一体何事かと目を見張る他の参加者達であったが、そんな彼らを尻目に追走劇の舞台は新たな場所へと移り変わっていく。林の中で散々琴美を翻弄していた智子が、今度は隣接する神社に向かって逃げていったからだ。この頃になるともう琴美はすっかりへとへとになってしまい、荒い息で智子のあとをずっと後ろのほうからついていくのがやっとだった。

 *

「ひぃ……ひぃ……はぁ……」

 

 神社の建つ土地はちょっとした高台になっており、その頂上に位置する本殿へと参るためには境内(けいだい)の曲がりくねった参道を通っていく事になる。それなりに勾配があるその参道を智子は調子よく走り抜けていったのだが、彼女の後を追う琴美はといえば道の中腹まで来た辺りで最早疲労困憊(ひろうこんぱい)と言ってよい状態に陥った。

 

「はひっ……はひっ……くそっ、あのヤロー……」

 

 己を奮い立たせていた当初の怒りもどこへやら、息のあがった琴美はこれ以上智子に付き合っていられないと、とうとう参道脇に腰をおろしてしまった。智子の挑発に容易く乗せられてしまい、気付けばこんなにもぐったりさせられる羽目になった琴美であったから、今になって馬鹿を見た気持ちになってしまう。何かされたり言われたりしても無視を決め込んでおけばよかったと、猪突猛進(ちょとつもうしん)な己を反省する事しきりであった。もうすっかり追いかける気の失せた琴美であったから、また智子がこちらの様子を見に戻ってきてしまう前にさっさと帰ってしまおうと思い立つ。呼吸が落ち着くのを待たずして立ち上がった彼女はとぼとぼとした足取りで来た道を引き返していった。

 と、そこで琴美はいつの間にやら手にしていた空き缶が無くなっていた事に気付く。必死で走り回るうちにどこかで知らず落としてしまったのだろうかと考えるが、つい先程までゴミ拾いに従事していた己が自らゴミを増やすようではいけないと、あちらこちらを見回しながら参道をくだっていく。境内にはそこかしこに青々とした葉を蓄える木々がひしめきあって鬱蒼(うっそう)とした様相を呈していたため、周辺の住宅街から隔絶された静謐(せいひつ)さが感じられた。

 

(あっ、これって……?)

 

 そんな琴美の目に留まったのは、参道脇にひっそりと存在していた小さな祠だった。この神社の参道にはこのようにして本殿とは別に小規模な社殿が幾つか点在しており、これもそのうちのひとつらしい。

 

(あーそうだよこれこれ。ここでお参りしたっけなー)

 

 近づいてよくよく確認してみた琴美が納得したような顔になる。特に目立つ造りでもない祠ではあったが、琴美はこれに見覚えがあったのだ。それは彼女が幼い頃、今は亡き父親に連れられてこの神社を訪れた際に親子でお参りした祠に違いなかった。

 

(ロッテが優勝しますようにって必死にお願いしてたっけ、お父さん……)

 

 祠のそばに立つ案内板には「心願成就の御利益(ごりやく)あり」といった趣旨の説明がなされており、この祠はどうもその手の祈願を受け付けてくれているようだった。琴美の父がそれを()に受けたのか、或いは冗談半分だったのか、ともあれ今の琴美に負けず劣らず地元球団の千葉ロッテマリーンズに深く心酔していたかの御仁(ごじん)は遠慮なく神仏に己の趣味丸出しのお願い事をしてみせたらしい。

 が、彼のその行動を笑う事なかれ。全くの偶然であるのか、はたまた本当に氏の願いが天に届いたのか、確かに彼が祈念したその年のロッテ球団はペナントレースにおいて破竹の勢いで勝ち進み、遂にはまさかのリーグ優勝を果たしてしまったのだ。のみならずその年の日本選手権シリーズにて相手チームをおさえたロッテは見事日本一に輝く栄光をも手にしたのであるが、続くアジアシリーズにおいてすら駄目押しとばかりに優勝を勝ち取ってみせたものだから、当時の琴美の父の喜びようはとても言葉では表せない程であった。

 

(ホントに願い事、叶ったりするのかなー)

 

 勿論そんな事は琴美としても真に受けている訳ではなかった。しかしこの祠にちょっとした縁を感じてしまった彼女は自分も何か試しに祈願してみようかなと思い立つ。それは当時の父との思い出が懐かしくなってしまったが故の気まぐれかもしれなかった。

 

(ええと、何がいいかなー? やっぱりロッテ優勝とかかなぁ)

 

 何がなんでも叶ってほしい事といえば、やはりこれが一番だろうかと考える琴美。が、すぐさまそれを吹き飛ばす程の本願ともいえる思いが湧き上がってきた。

 

(一番叶えてほしいっていったら、これしかないよねやっぱり……!)

 

 そうして願い事が決まるが早いか、祠に向き合った琴美はパチンと辺りに音が響く程の勢いで合掌してみせる。神前での礼儀作法など学んでいない琴美であったからその所作はいかにもとってつけたようなものであったのだが、ともあれ彼女は早速己の願いを口にし始めた。

 

「と、智貴くんと……ここ、恋人同士になれますように……」

 

 自身が愛してやまない球団の栄光よりも優先されるべき大きな願い事が琴美にはあったようだ。うわずった声でその想いを口にし始めた途端に頬がみるみる赤くなってしまう琴美なのであった。

 

「智貴くんとっ! け、結婚できますようにっ!」

 

 より語調を強めて次なる願い事を口にしてみせる琴美。軽い気持ちでお試し程度にやってみるだけのつもりが、早くも必死さがにじみ出る本気の祈願へと変わりつつあった。

 

「智貴くんと家族になれますようにっ!」

 

 なおも願い続ける琴美は止まらない。あふれ出る想いが言葉となって口から発せられる度にそれが自分を高揚させるのか、琴美はいまや己の体の内に感じられるフワフワとした不思議な感覚に酔いしれつつあった。

 

「智貴くんと、一生一緒に暮らせますように────っ!!」

 

 遂には全身を震わせつつ声を張り上げる琴美であったから、他の参拝者が彼女のこの尋常でない姿を目にすれば、きっとその異様な光景に誰もが肝を冷やしてしまうに違いなかった。

 

「あいたっ!?」

「やめろ──! フザけた事してんじゃねーぞコノヤロ──!」

 

 突然頭に何かを勢いよくぶつけられてしまい、祈願に夢中であった琴美はその痛みに目を白黒させてしまう。そうして怒鳴り声が少し離れた先から聞こえてきたものだから、頭をおさえた琴美がそちらを振り返る。

 

(クソムシ……!)

 

 視線の先にいたのは参道のどまんなかで仁王立ちしていた智子であった。己の足元には先程ぶつけられたらしい空き缶が転がっていたので、おそらくは智子が自分めがけて投げつけてきたのだろうと琴美は理解する。神聖な儀式を邪魔されてしまったような悔しさと、切実な本音をぶちまける姿を見られた恥ずかしさが引き金となり、琴美の中でいま再び智子への怒りが蘇ってしまう。

 

「なにすんだこのっ!」

 

 咄嗟に足元の空き缶を拾い上げた琴美は、智子に向かってそれを全力で投げ返してみせた。突然の反撃に身を縮こまらせる智子ではあったが、狙いの甘い空き缶は見当違いな方向に逸れてしまう。

 

「んむっ!?」

 

 放り投げられた空き缶が境内の木に当たったかと思うと、そのまま狙ったかのように琴美の顔面目がけて跳ね返ってきたものだからたまらない。のけぞる琴美は勢い余って尻餅をついてしまった。

 

「いったぁ~……」

「ははっ、おまえが変なことすっからバチが当たったんだぞ」

 

 お尻が痛くて顔をしかめる琴美であったが、そんな彼女に対して今まさに悪人が成敗されたのだと言わんばかりの調子で嫌味を投げかける智子。

 

(落ち着け、落ち着け……ここでまたキレたらこいつの思うツボだ……)

 

 理不尽な事を言う智子に腹の立った琴美は何がバチなものかと内心で毒づくが、ここは安易に相手の挑発に乗せられてはいけないと、先程己の猪武者(いのむしゃ)ぶりを反省したばかりなだけにどうにか冷静になろうと努める。

 

「はぁ……」

 

 ため息をついた琴美はおもむろに立ち上がり、体についた砂埃をさっさと払う。そうして今度は足元に転がっていた空き缶を拾い上げると、そのまま智子に背を向けて参道をくだり始めたのだった。

 

「おーい、帰んのかー?」

 

 背後から智子がそのように呼びかけてくるが、琴美は振り返らずにだんまりしたまま歩みを進める。無視された事に立腹した智子がまた何かちょっかいを掛けてくるのではと警戒する琴美であったが、いずれにしてもこれ以上くだらないイタズラに反応するつもりは更々無かった。

 

「こみなんとかさんが未来永劫(みらいえいごう)モテませんよーに」

(んーっ!?)

 

 しかしパンパンと手を叩く音がしたかと思うと、なにやら妙な事を口走る智子の声が後ろから聞こえてきたものだから、琴美は振り返らずにいられない。

 

「こみなんとかさんが死ぬまで独身でいますよーに!」

「おいっ、やめろよっ!」

 

 どうも智子は先程の祠の前で合掌してあらぬ願い事をしているようだったから、琴美はそれを止めようと声を荒らげる。

 

「弟と一生縁の無い生活を送れますよーにっ!!」

(ブチコロス……ッ!)

 

 声を張り上げこれみよがしに琴美の先程の願いを覆すかのような祈願をしてみせる智子であったから、とうとう怒りをこらえきれなくなった琴美は智子目がけてやにわに駆け出した。

 

「待てコラァ──!」

 

 危険を察した智子もすぐさま駆け出したので、またしてもふたりの追いかけっこが始まってしまう。今度こそは逃すまいと琴美が目の色変えて全力疾走してみれば、狭い参道の中ではちょこまか動き回って相手を翻弄する事もできない智子が徐々に追いつかれ始める。その事に危機感を覚えたのであろうか、智子が慌てた様子で参道から延びる脇道へと入っていく。道の先には石造りの階段があり、そこをおりれば境内の外へと出ていけるようになっていた。

 

「逃がすかぁっ!」

 

 おそらく智子はこのまま逃げ帰るつもりなのだろうと見た琴美は、怒号と共に手にしていた空き缶を智子目がけて投げつける。今度は方向が逸れることもなく、空き缶は目標に向かって一直線に飛んでいった。しかし今まさに石段をおりようとしていた智子がそれに気付いたものだから、彼女は咄嗟に身をひねってどうにか背後からのその投擲(とうてき)をかわすことに成功する。

 

「わっ、わわわっ!?」

 

 だがそれがいけなかった。石段の手前で不用意にそのような事をしたせいでバランスを崩した智子は、手をあたふたさせてつんのめりそうになる。

 

(あっ、やばっ……!)

 

 倒れまいと粘る智子を助けようと咄嗟に駆け寄ったまではいいが、琴美も琴美で随分と慌ててしまっていた。結果、それが最悪の事態を招くことになる。

 

「ちょちょっ、邪魔っ、おいっ!」

「あっ、わっ、ご、ごめっ……!」

 

 どうにか持ち直しかけていた智子ではあったが、駆け寄ってきた琴美が勢い余って押しかかるような形になってしまったものだから再び大きくバランスを崩してしまう。図らずも抱き合う姿勢となったふたりが石段の手前でくるくるとダンスする光景はまるでふざけているようであったが、本人達としては必死なのだった。

 

「ばかっ、お、落ちるぅ──!」

「うわあぁ──!」

 

 嗚呼南無三。とうとうふたりは仲良く抱き合ったまま石段を転げ落ちてしまう羽目になったから、境内に彼女らの絶叫が響き渡る。

 

 ◆

 

「うーん……」

 

 石段の高さ自体はそれ程でもなかったからか、幸い大怪我に至る事はなかったようで、琴美は頭をふらつかせながらも上体を起こしてみせた。天も地も無い上下感覚の狂いが徐々に正されてきた事で、彼女はようやく意識をはっきりとさせる。

 

(あっ、眼鏡が……)

 

 石段から転がるうちにどこかへ飛んでいってしまったのか、普段着用している眼鏡が外れてしまっている事に琴美は気付く。眼鏡が無ければ何もできないと、痛む体を押して立ち上がり周辺を見回してみるが、やけにクリアになった視界にそれらしきものが映る事はなかった。

 

「いてて……ったくよー」

 

 琴美のすぐそばで声がしたが、これは一緒に石段から落ちた智子のものだ。彼女もまた意識が明確になったようで、頭をさすって先程の災難を愚痴りつつもゆっくりと立ち上がる。

 

「あ? なんだこりゃ」

 

 何か違和感を覚えたのか、智子が己の顔をぺたぺたと触る。そうしておもむろに何かを顔から外したのであるが、手に取ったそれを改めて確認する智子は益々首を傾げるばかりだった。

 

「あ、それ私の……」

 

 智子の手に握られていたのは琴美が探していた自身の眼鏡であったから、それを受け取ろうと手を差し出す。だが智子の顔に目を向けた途端、琴美はのけぞらんばかりに驚いた様子を見せた。

 

「なあ……なんか目が変なんだけど……なんか凄くボヤけるんだけど……?」

「あ、うあ……」

 

 急に辺りをキョロキョロとし始めた智子がそのように己の違和感を訴えるが、対する琴美はといえば先程から言葉を失っているようだった。

 

「なんで? なんで? えっ? なにこれっ!?」

 

 目をごしごしとこすってみたりもする智子であったが、違和感はまるで解消されないようで次第に焦りの色が浮かび始めていた。

 

「見えないっ、見えないよぉ──っ! ちゃんと見えないっ!」

 

 遂には顔を青ざめさせた智子がそのように騒ぎ出した。どうも先程から智子の視力に著しい変化が起きているらしく、その事を彼女は震える声でしきりに琴美へ訴える。

 

「頭打ったせい!? どうしよう、どうしよう!」

「こっ、これ付けてっ、これっ……!」

 

 たまらず智子は琴美にすがりついて助けを求めるが、それを押しとどめた琴美はいつの間にやら取り落とされていた眼鏡を拾い上げると、それを智子に掛けてやった。

 

「ん? おっ? なんだこれ、どうなってんだ?」

「ありえない……ありえない……」

 

 途端、視力が回復したらしく一応の落ち着きを取り戻した智子。一方の琴美はといえば()()()()()()()()()()()()()()を何やら盛んに手で確かめたりしながら呟きを漏らしている。

 

「あ? てかおまえ、なんだその(つら)……?」

 

 眼鏡ごしに琴美の顔をまじまじと見つめる智子の表情には、先程とはまた異なる混乱の色がありありと浮かんでいく。

 

「えっ、ちょっ、わた、わたしっ!? えっ、なんでっ!?」

「ちょっと待って。落ち着いて。状況、状況を確認しよう。なっ?」

 

 ふたり揃ってあたふたとするばかりではどうにもならないと、琴美はひとまず智子の興奮を鎮めようと彼女の両肩に手を添えて向き合った。

 

「えーと……まずあんた、黒木さんなのか?」

「そ、そうだよ! 黒木智子だよっ!」

「あっ、じゃあ私は誰に見える? 小宮山なんだけど……」

 

 何か思い当たる節でもあるのかひとつひとつ整理するように琴美が質問を投げかけていくが、対する智子のほうは何が何だか分からない様子でひどく狼狽していた。

 

「いや、でもおまえ、それ私だよ……その顔、私じゃんかっ!」

「あんたもだよ……あんたも私の顔してる……小宮山琴美の顔だよ、それ」

「はぁ──? なんだそりゃ!?」

 

 お互いの顔に対してそのようなことを言い合うふたり。もしも今この場に両者の共通の友人でも立ち会っていれば、ふたりの発言がてんで支離滅裂であると感じずにはいられないだろう。傍から見れば智子は琴美を、琴美は智子を、それぞれがお互いの顔を指して「それは私の顔だ」と主張し合っているのだから。

 

(こんな事ってホントにあんのか……?)

 

 智子ほど慌てふためいてはいないように見える琴美であったが、その内心はやはり智子と同様混乱の極みにある。しかしそれでも彼女は今現在の自分達の状況をおおまかにではあるが把握しつつあった。

 

(私達、入れ替わってる……!)

 

 今の状況を正しく説明するのであれば、おそらくはそれこそが適切な表現であるに違いなかった。琴美と智子の体はいまや完全に入れ替わってしまっていたのだ。故に今この場にいるのは智子と化した琴美であり、そしてまた琴美と化した智子なのであった。

 

「うわぁぁ──なんだよこれぇ──! コオロギになってるぅ──!?」

 

 琴美達がいたのは鳥居の真下で、ここは丁度境内から外へと向かって伸びる階段をくだりきった所にあったのだが、神社のすぐ目の前を通る道路に設置されていた背の低いカーブミラーへと駆け寄った智子が、それに映った己の姿を確認するや悲痛な声をあげる。そんな智子のもとへ歩み寄った琴美が同じようにして自身の姿をカーブミラーで確認してみるが、想像していた通りそこには智子と化した己の姿が確かに映っていた。

 

「どうすんだよおいっ、どうすんだよぉ────!」

 

 掴みかかってきた智子から激しく揺さぶられてそのように訴えられても、今の琴美に返せるような言葉はなかった。何故こんな事になってしまったのか。果たしてこれは現実なのだろうか。夢でないとしたら一体自分達はこれからどうすればいいのか。まとまらない思考だけが心の中に浮かんでは消えていく。

 

(せめて智貴くんとだったら良かったのになぁ……)

 

 だからもう琴美は、キャンキャンと騒がしい智子を尻目にぼんやりとそのような事を考えて現実逃避するしかないのであった。




つづく
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