もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(2)

おかあさんはわからずや

「な、なぁ……ホントにやるのか?」

「やるんだよっ! ビビってる場合じゃないだろ!」

 

 何やら琴美が消極的な態度を見せる一方で、智子はそんな相方を苛立った様子でせっつく。互いに抱き合うような姿勢で地べたに寝そべっていた琴美と智子は今、石段の手前にいるようだった。と言ってもそこは(のぼ)り口ではなく、ふたりが石段を転げ落ちる直前まで立っていた()り口の所であったから、頭をもたげて先を見やる琴美の視界には下の方までずらりと続く石段が映っていたので息を呑んでしまう。

 

「じゃあいくからな……ちゃんと掴まってろよ」

「お、おう……!」

 

 発破を掛けられ覚悟の決まったらしい琴美がそのように言えば、対する智子はそれを合図と見てより強く琴美に抱きつく。そうして琴美が一思いにえいやとその場を転がり始めてみれば、智子も巻き込まれる形でふたりはごろりごろりと石段を転がり落ちていった。

 

「むぐっ、うぐっ、んぐっ……!」

「痛い痛い痛いっ……!」

 

 事故同然に勢いよく転がり落ちてしまった先程とは違い、多少はゆったりとしたスピードで石段を(くだ)っていく琴美と智子。しかしそれでも一段ごとに自分達を襲う衝撃が(こた)えるのか、ふたりは時折うめき声を上げたりしている。一体彼女達は何をしているのかというと、これはもう実に見たままであり、単純にもう一度石段の上からふたりして転がり落ちているのだった。不意の出来事であった一度目とは違い、今回は故意にである。

 そもそも何故このような事をしているかと言えば、それは智子の発案によるものであった。彼女としては今回の騒動の原因が(くだん)の石段にこそあると見ており、ここから琴美と抱き合って転がり落ちてしまった事で何かしらの作用が発生し、結果として信じられないような入れ替わり現象が起きたのだと考えているようだった。であれば同じ状況を再現してやれば元に戻れる筈だというのが智子の主張なのであるが……。

 

「はぁ……はぁ……ど、どうだ……?」

 

 ともあれどうにか石段を転がりきったふたりは荒い息をつきながら地べたの上で大の字になっていたが、おもむろに上体を起こした智子が己の傍らで目を回していた相方を見やり、その顔を間近で確認する。しかし意にそぐわぬ結果であったのか、少しばかり期待の色が浮かんでいた智子の様子は見る間に険しいものへと変わっていく。

 

「あー……やっぱダメか」

 

 己の顔を覗き込んでいる智子に気付いた琴美は、寝そべったままため息交じりにそのような事を口にした。そうしてよっと上体を起こした彼女は衣服についた泥や埃を払っていく。

 

「も、もっかい! もう一回やろう!」

「ちょっ、痛いっ!?」

 

 先程の荒行を今一度繰り返そうと、すっくと立ち上がった智子はそのように提案しながら琴美の腕を掴んでぐいぐい引っ張りあげようとする。途端、琴美が顔をしかめてたらまらず悲鳴を上げた。石段から転がり落ちて尚も一応は平気そうにしている智子と違い、琴美のほうは随分と応えていたようであり、体の節々が痛むのであった。打ち所が悪かったのかもしれないが、あるいは智子ゆずりの華奢(きゃしゃ)な体になってしまった事も手伝っているのかもしれない。

 

「い、いま無理! ちょっと休ませて……」

「あ、うん……」

 

 そのように懇願(こんがん)する琴美の様子を受けて我に返ったのか、掴んでいた腕を大人しく放してやる智子。中身が琴美であるとはいえ、相方の今の体は本来己自身のものである事に気付いたからなのか、(いたわ)わってやらねばという気持ちが湧いたのかもしれない。

 

「は────……」

 

 いつもの癖で長いため息をついた智子は、植え込みの石垣へと力なく腰掛けた。そうして石垣の上に避難させておいた眼鏡を掛け直してみれば、今度は目をしばしばさせながら琴美のほうをじっと見やったりする。

 

「なんだよ?」

「おまえ、なんか変じゃね?」

 

 己を見つめてくる視線に気付いた琴美が問い掛けてみれば、智子は妙な事を言い出した。

 

「変って……何が?」

「私、そんな感じじゃないぞ」

「はぁ?」

 

 言われている事の意味が分からない琴美であったが、対する智子のほうは口でへの字を作って如何にも納得がいかないといった様子である。

 

「そんな喋り方しないし。声もなんか変」

「いや、そんな事言われても……」

 

 いきなり難癖をつけられてしまった琴美であったが、どうにもならなそうな事を言われている気がしてしまい益々困惑するばかりであった。

 しかしかくいう琴美自身も入れ替わってからというもの、智子のその姿や素振(そぶ)りに少なからず違和感を抱いていた事は否定できなかった。自分という人間は周りからこのように見えているのだろうという主観的な感覚が実際に第三者から見た場合の印象と合致しないというのはままあるものだが、今の琴美たちはそうした心理的な齟齬をあまりにもストレートな形で突きつけられているに等しい。本来の自分自身が今まさに目の前で他人として存在している気味の悪さを琴美は改めて実感していたのだが、普段は鏡などを介してでしか見る事のできない己という人間をこのような形で()の当たりにするという機会は普通に生きていればある筈もないだろうからそれも無理ならぬ事である。

 

(私、こんな声してたっけ……?)

 

 低くて冷たい感じのする智子の声に改めてそのような感想を抱く琴美。あるいはそれは今の智子のささくれだった心情が反映されているだけなのかもしれないが、もし普段から己がこのような調子で他人と接しているのだとしたら中々に悪い印象を与えていたのではないかと今更ながらに心配する琴美であった。

 

「…………」

 

 やがてどちらともなしにお互いから視線を外したふたりであったが、両者ともこれ以上自身の姿を観察する事に耐えられなくなったのかもしれない。これがナルシストの類でもあれば客観的に見た己の姿にうっとりしたりもするのであろうが、どちらかと言えば自分を卑下しがちな琴美と智子にとってはあまり気持ちの良いものではなかったようだ。

 なんとも言えない空気が流れ始めた所で、石垣の上に置かれていたスマホから不意に着信音が流れ出した。気付いた智子がそれを手に取り着信相手を確認する。「もしもし……」と、通話モードに切り替えた智子がそのまま電話口の相手と話し始めるが、どうも鳴っていたのは彼女の電話だったようだ。

 

「あっうん、もう終わったよ」

 

 智子の口ぶりや態度からするに、電話の相手はきっと家族か何かであろう。清掃活動が終わる頃合いを過ぎても帰ってこない智子を心配し、連絡してきたのではないかと思われた。

 

「えっ!? あ、そっ、そんな事ないよっ」

 

 しかしそれまで落ち着いた様子で会話していた智子が、何やら急に慌てた様子でどもり始めた。途端、彼女が普段緊張した時などにやる癖が出たようで、己のジャージの裾をぎゅっと握り締めてしまう。

 

「いや、ほんと(ちが)くて、そのっ」

 

 何かを電話口で追及されでもしているのか、智子の慌てぶりは益々ひどくなってしまい満足に言葉をつむげなくなっていた。すると何を思ったのか、急に石垣から降りた智子は先程から座り込んだままでいた琴美へと駆け寄り耳打ちする。

 

(これうちのお母さんだから! 適当に話合わせといて!)

(えっ? ちょ、なんで……!?)

 

 そのようにひそひそ声の智子から要求された琴美は、差し出されたスマホを前にして気が動転してしまう。電話口の様子がおかしい事に勘付いたのか、そのスピーカーからは盛んに呼び掛けてくるような誰かの声が聞こえていた。

 

「あ、もっ、もしもしぃ……」

 

 どうあっても引き下がるつもりのない智子が強く目で訴えてくるものだから、折れた琴美は渋々スマホを受け取り電話口の相手へと(うわ)ずった調子で返事をしてみせた。

 

『ちょっと、どうしたの急に黙って』

 

 電話から聞こえてきたのは、いつだったかどこかで聞いた覚えがあるような中年女性の声であった。智子の言う通り、彼女の母親から電話が掛かってきているのだという事を琴美は把握する。

 

「あ、はい、す、すみません……」

 

 ともあれ琴美は電話の相手からやや強い口調で詰問されてしまったので思わず謝ってしまった。途端、(ばかっ、フツーに喋れよフツーに!)と、すぐそばで聞き耳を立てていた智子がそのようにささやいて琴美を小突く。

 

『ねえ、あなた智子よね?』

「あっ…………えと、はい、わ、わたし、ともこ~……」

 

 どうも智子の母は、電話口の相手が本当に己の娘であるのか疑っているようだった。もしかするとそれは先程の智子との会話で娘の声色が普段とはあまりにも掛け離れている事を不審に思ったからなのかもしれない。僅かな間にそのような推察を巡らせた琴美であったが、話を合わせろと言われた手前、この母親からの質問に対していきなり否定するのもどうかと思われたので咄嗟に同意してみせる。

 

『もう、ふざけてるの?』

「あっうん、あはは……」

 

 よく分からないままどうにかこの場を誤魔化さねばと思う琴美ではあったが、娘の声色が普段通りのものに戻った事を悟った母親が安心したらしい事を見て取る。

 

『じゃあ、寄り道してないで早く帰ってらっしゃい』

「う、うん……」

 

 そうして無難なやりとりを交わしたのち電話は切れてしまった。途端、一仕事終えたかのような疲労感がどっと湧いてきた琴美であったから、うなだれた様子でため息をつく。

 

「どうだった? 変に思われなかったか?」

「あーうん、一応……」

 

 相方の手から己のスマホをひょいと取り上げた智子がそのように尋ねてみれば、対する琴美は無難な答えを返す。話を合わせるために一応はそれらしい受け答えができたはずだろうと、そのように思う琴美。しかし電話を終えた後になってからひとつの疑問が浮かんできたので彼女はそれを口にしてみた。

 

「別に隠さなくていいんじゃないか?」

「えっ?」

「いや、だってこういうの、ちゃんと病院とかで診てもらったほうがいいと思うんだけど」

「あー……」

 

 至極まっとうとも思える琴美のその意見ではあるが、今まで智子の中には選択肢としてまるで無かったのか意表を突かれたような顔になる。どうにか秘密裏に元へ戻らなくてはと考えていたらしい智子ではあったが、わざわざ家族に隠し立てする理由も無いのではという琴美からの指摘に反論する様子は見られない。ともあれ自分達以外の誰かに相談するという手段もあるのだと気付かされたからか、彼女は何かを思案するようにそのまま黙り込んでしまった。

 

「一旦うちに帰るから、おまえも来てくれ」

「あ、うん、いいけど……」

 

 やがて口を開いたかと思えば、そのようなことを言って琴美を誘う智子。琴美としても別段渋るような理由など無いので素直にそれを了承するのだった。

 

 ◆

 

「……」

 

 チリチリチリ、と車輪を鳴らしつつ己が乗ってきた自転車を押す琴美の視線は先程から前を歩く智子の背を捉えたままだった。その後ろ姿は少し前まで確かに己自身であった筈なのに、いまや他人のものになってしまった訳であるから、それがどうにも奇妙な感覚を琴美に与えていた。

 

(なんて言えば信じてもらえるんだろう……)

 

 彼女らは今、一旦智子の自宅へと向かうべく移動の最中であった。これから向かう先で果たしてどのような騒動が起こるのか。智子の家族の理解を得なくてはならないとしても、きっと一筋縄ではいかないだろうという懸念が琴美の中でじわりと広がっていく。

 ともあれ智子の自宅は神社からほど近い場所にあったから、徒歩であっても数分足らずでたどり着く事ができた。道中言葉も交わさず黙々と歩いていたふたりであったが、一息ついた所でようやく顔を見合わせるのだった。

 

「おまえ、ちょっくらうちのお母さんに説明してきてくれ」

「えっ!?」

 

 先に口を開いたのは智子であったが、やぶからぼうにそのような頼み事をしてくるものだから琴美は面食らってしまう。

 

「いやほら、いきなり私が行ってもお母さん驚くだろ?」

「ああ、まあ……うん」

 

 しかし一応は智子なりに考えあっての事らしく、理由を聞かされた琴美はひとまず納得してみせた。

 

「ほら、来いよ」

 

 ひとまず己の自転車を車庫に駐めさせて貰った琴美は、開け放たれた玄関扉から顔を覗かせた智子に招かれるまま、彼女の自宅へとお邪魔する事になった。

 

「んじゃ、頼むぞ」

「お、おう……」

 

 智子に急かされる形で靴を脱いでホールへと上がり込んだはいいが、滅多に訪れる事のない黒木家の中は嗅ぎなれない独特の匂いに満ちており、それが琴美をどうにも落ち着かない気持ちにさせた。

 

「そこな。そっちにお母さんいるから」

 

 玄関を上がってすぐ左側にある扉を智子が指し示した。智子が言うにはそこに己の母がいるだろうとの事なので、琴美は躊躇しつつもそっとそのドアノブに手を掛ける。そうして音を立てないように少しだけドアを開いてみれば、中から聞こえてくるのはテレビの音だった。更にドアを開いて琴美が中の様子をこっそり(うかが)ってみれば、広々としたその室内の奥で女性らしき人物がソファーに座ってこちらに背を向けている様子が見て取れた。

 

(いた……!)

 

 後ろ姿だけでもそれがおそらくは智子の母であるらしい事を察したものだから、琴美は緊張のあまり息を呑んでしまう。どうも先程から彼女は(ぬぐ)いきれない後ろめたさに晒されており、幾ら智子の許しがあるといえども他人の家へと勝手に忍び込んでいるように感じられてならないのだった。

 

「あ、あのっ……!」

 

 ともあれ件の女性の背後へとそっと忍び寄った琴美は、意を決して声を掛ける事にした。途端、驚いた様子で後ろを振り返った女性であったが、琴美の顔を見るなりすぐさま緊張を解いてみせる。

 

「なによもう、びっくりするじゃない」

「あっ、す、すいません……!」

 

 これが智子の母親なのだろうかと、琴美は目の前の女性をまじまじと観察する。年の頃は己の母と大差無いように見えるものの、小綺麗に整えられたその佇まいの中に智子とは似ても似つかぬ上品さを感じ取ってしまう琴美であった。智子の母親であるという事は、同時に智貴の母親でもあるという事だ。図らずも自身の想い人の母と相対する事になった訳であるから、これが平時であれば色々と感じ入るものがありそうなものだが、そうした余裕は残念ながら今の琴美にはない。

 

「すいませんって……なぁにその喋り方?」

「あ、いや~、その~……」

 

 ひどく他人行儀なその受け答えのせいか、早速不審に思われてしまう琴美。しかし今更取り(つくろ)う必要もないので、彼女はそのまま本題へ入る事にした。

 

「あのっ! す、すこしよろしーでしょーかっ?」

「えっ、なに?」

 

 上ずった声で話を切り出す琴美であったが、対する智子の母はといえば突然の娘のそのような物言いに戸惑っているようだった。

 

「その……えーと……ちょ、ちょっと玄関まで来てほしいんですけど……」

 

 何から話せばいいのかとあれこれ考える琴美であったが、まずは実際に変わり果てた智子の姿を見てもらうのが手っ取り早いだろうと踏んでそのように言う。先程の智子からの頼み事を忘れてしまった訳ではないが、折からの緊張が彼女にこのような言動を取らせてしまったようだ。

 

「智子、どうしたのあなた」

「いや、だからその、玄関……」

 

 が、このような物言いですんなりと相手が言う事を聞いてくれれば苦労はしない。(いぶか)しげな表情を作る智子の母は、違和感だらけの娘の態度そのものに関心がいってしまったらしい。

 

「なんで敬語なの? 玄関に何があるの?」

「あっその、と、智子さんがいて……」

「誰が?」

「あっ、だから智子さんが……」

「あなた大丈夫? さっきから何言ってるの」

 

 どうにも噛み合わない両者の会話は平行線を辿る。それも仕方のない事であり、智子の母からすれば全くもって己の娘の言い分は理解不能だったからだ。玄関のほうに「智子」がいるのだと、他ならぬ智子本人が目の前でそうのたまっているようにしか見えないのであった。

 

「あっすみません、その、とりあえず来てほしいんですけど……」

「それやめなさい。なんで敬語なんか使ってるの」

 

 しどろもどろになりつつも、どうにか言い分を聞いてもらおうと粘る琴美。少し落ち着きでもすればもう少し言いようがありそうなものだが、言葉を交わす度に不信感を募らせている事がありありと見て取れる智子の母であったから、それが益々琴美を焦らせてしまう。

 

「えと、あの、き、来てくれたら分かりますから!」

 

 たまらず琴美はそう言い置くと、智子の母の追及から逃げるように部屋を出ていってしまった。自分達が陥った不可思議極まるその状況を初対面の相手にすぐさま理解させるというのは、流石に彼女ひとりには荷が重かったようである。

 

「どうだった?」

「あ、うん、すぐ来ると思うから……」

 

 玄関口で待っていた智子から結果を尋ねられた琴美は、そのように答えて今しがた己が出てきた扉のほうを見やる。その言葉通り、少しもしないうちに智子の母が小走り気味にスリッパを鳴らしてやってきた。

 

「なんなのもう……あら?」

 

 困惑しつつも琴美の後を追ってきた母であったが、玄関口に立っていた智子に気付いたようで様子を改めた。それを受けて智子のほうも、いよいよ己のみじめな窮状(きゅうじょう)を訴える時がやってきたのだと表情を硬くする。

 

「友達?」

「あ、いえ、友達っていうか……」

 

 が、そんな智子を尻目に当の母は琴美へと質問してきた。何も事情を知らぬ智子の母であったから、まさか目の前にいるジャージ姿の眼鏡少女が己の娘であるとは夢にも思わなかったのだ。質問された琴美はと言えば、言葉を濁しつつも後は任せたと言わんばかりに智子のほうを見やる。先程は碌に事情も伝えられず逃げ帰ってきたものの、どのみち口下手な自分が中途半端に首を突っ込むよりも親子で直接話し合ってもらうのが一番だと考えたのだ。

 

「どうしたのあなた。うちに何か御用?」

 

 先刻の琴美との妙なやりとりを受けてか、目の前の相手が単なる娘の友人でもないらしいと母は考えたようで、探るような視線を智子へ送りつつそのように問い掛けた。

 

「あ、うん、えと、わ、私、智子なんだけど……」

 

 もじもじと手を組む智子が口を開き、まずはそのような事を言って母の出方(でかた)を窺う。ある程度話は通っているものと考えている智子であったから、実際に赤の他人の姿をした己の口からこのように訴えれば多少なりとも信じてくれるのではと踏んでの事だった。

 

「えーと……智子?」

「う、うん! そうそう、智子だよ!」

 

 聞き返してきた母の反応を受け、一応は話が進みそうだと安心したのか、智子は幾分かほっとした様子を見せながらも更に語気を強めて主張してみせる。自分こそが黒木智子なのであると、その事を母に分かってもらいたい一心が滲み出ているようであった。

 

「ああうん、そう、偶然ねぇ」

「ん?」

 

 しかし当然と言うべきか、智子の思惑は外れていた。事前に満足な説明もしてやれなかった琴美であったから、今しがたの智子とのやりとりは母にとって単に己の娘と同じ名前の少女がその事を自ら主張しているとしか映らなかったようである。期待外れな母のその態度に何かがおかしいと感じて戸惑う智子。

 

「で……何か御用かしら?」

 

 少し呆れたような様子で改めて先程と同じ質問を繰り返す母であったが、それが智子にこのイマイチ噛み合わない状況への理解を与えてしまった。矢庭に彼女の表情が険しいものへ変化したかと思うと、先程から事の推移を見守っていた琴美に対して鋭い視線を向けるのだった。

 

「おまえっ、説明しとけっつったろーが!」

「あっ、いや……」

 

 母からの問い掛けには答えず、代わりに琴美の不手際を責めるように怒鳴り出す智子。既にある程度話は通っているものと思い込んでいた彼女なだけに、結局お粗末な形で丸投げされてしまった気分になったようだ。

 

「ちょっと、なんなのいきなり!?」

 

 尋常でない剣幕で突然怒り出した智子になにより面食らったのは母であった。つい今の今まですがるような態度でよく分からない事を訴えてきていた少女が豹変したのだからそれも当然である。

 

「智子、誰なのこの子は」

「いや、違うんです……あの、その人が本当の智子さんで……」

「あなたの友達なの? 知り合い? どうなの?」

 

 ここにきてようやく琴美のほうからも事情を説明しようとしたのだが、要領を得ない回答だと思われたのか智子の母は矢継ぎ早に質問を続けていく。

 

「お母さん、そいつニセもんだよっ! ホントの私はこっち! 智子は私! そいつと入れ替わっちゃったんだよ!」

 

 するとそこへ智子が強引に口を挟んできた。琴美を偽者扱いしつつ、あなたの娘は私なのだとしきりに訴えてみせる彼女は必死だった。

 

「……ねえ智子ちゃん、ちょっとあがってらっしゃいな」

 

 果たして智子のそうした主張を一体どのように受け止めたのか、何か危ないものを目の当たりにしたような様子でしばし絶句していた智子の母であったが、急に落ち着いた声色でそのような事を言い出した。

 

「はぁ?」

「ああ、うん、そうね……じゃあ智子、とりあえずこっち来なさい」

 

 そんな母親の態度に肩透かしを食らった様子の智子が気の抜けた声を出すが、少し言い方が悪かったかな、といった具合に言葉を改めた母が智子を家の中へと招き入れようとする。

 

「あのさー、ホントに分かってんの?」

「ええ、大丈夫よ……」

 

 促されるまま靴を脱いだ智子はボヤきながらも母に連れられていく。そうして廊下を通っていったふたりが部屋の中へと姿を消していったものだから、ホールには琴美だけが取り残された。

 *

(どうなんだこれ? とりあえず待っときゃいいのかな……?)

 

 急に手持ち無沙汰になってしまった琴美であったから、ひとまず玄関脇の階段へと腰掛けてみる。ぼんやりと見つめる先には先程智子達が入っていった扉があったのだが、今は閉じられてしまっているそこから親子の会話が不明瞭ながらも漏れ聞こえてくるので自然と耳を傾けてしまう。そうした時間がどれ位続いただろうか、やがて扉が不意に開かれたかと思うとそこから智子の母が姿を現した。

 

「ちょっと、あの子の家の電話番号知ってる?」

「あ、えと、電話……?」

 

 琴美の姿を見つけるや、静かに駆け寄ってきた智子の母が前かがみでそのようにひそひそ声で(ささや)いてきたものだから、その真意を測りかねる琴美は思わず問い返した。

 

「あの子の家の人に迎えに来て貰わないと……同じクラスなんでしょう?」

「えっ!? あっ、いやっ……」

 

 続く母の言葉に目を白黒させた琴美であったが、どうも事態は妙な方向へと進み出していたようだった。

 

(駄目だ……全然分かってないぞこれ……!)

 

 智子の母のそうした口ぶりからおよその察しがついてしまった琴美は、結局何も状況が進展していなかった事にそこはかとない疲労を感じてしまう。もしかしたら、という危惧が琴美の中にも無いではなかった。己と智子の精神が入れ替わったなどという突拍子もない事をいくら当人達が訴えた所で、それを信じてもらうのは容易ではないだろうと少なからず考えていたのだ。

 

「小宮山さんっていうのよね、あの子……。ほら、前にうちに電話してきてたじゃない」

「あー、はい、まあ……」

 

 物憂げな様子で頬に手を添えながらそのように言う智子の母であったが、彼女の言っている事は琴美自身確かに思い当たる節があった。いつの日だったか、智子の忘れ物を拾った事がきっかけで悪友の自宅に直接電話を掛ける機会があり、その時に応対したのが他でもない智子の母だったのだ。

 

「で、どうなの? 知ってるの? 番号」

「知ってるというか、その……まあ自分ちのっていうか……」

 

 聞かれた通りすんなり教える分にはこれといって難しくも何ともない。琴美にしてみれば己の自宅の電話番号なのだから、知らないほうがおかしかった。だが、それを目の前の女性に伝えても良いものかと琴美は思案してしまう。外へ働きに出ている琴美の母親は今も仕事中であったから、たとえ自宅のほうに連絡を入れたとしても繋がらない事を彼女は知っていたのだ。当然ながら琴美としても自身の母へと今回の件を相談するつもりではあったが、急いでどうにかなりそうな事とも思えなかったので、ひとまず仕事の邪魔にならないよう今晩母が帰宅するのを我が家で待っていようと考えていたようだ。

 

(最初からこうしてりゃ良かったな……)

 

 何にしても親子間での望ましい交渉が成立しなかった以上、ここは自分がどうにかしなくてはと考えた琴美は改めて己の口から事の経緯を説明すべく腰を上げた。

 

「あの、お母さん……私の話、聞いてください」

「えっ?」

 

 かしこまった態度でまずはそのように話を切り出す琴美。対する母は突然そのように言われたものだから、一体何事かと身構える。

 

「智子さんからもう聞いてると思うんですけど……あれ、本当の事なんです。信じて貰えないかもだけど、でも私と智子さん、本当に入れ替わっちゃって……」

 

 それから琴美は事のあらましについてああだこうだとひとつずつ語って聞かせていった。上手く伝わっているだろうかと心配する琴美であったが、対する母は神妙な面持ちでその話に黙って耳を傾けているようだった。

 

「あ、だからそういう訳で……私、本当は小宮山でして……」

 

 琴美としても人前でこれだけ熱心に喋るのは己の趣味の話に幾らでも付き合ってくれる親友を前にした時ぐらいなものであるが、ともあれ粗方話し終えた所で彼女は話を締めくくった。

 

「あなた、それ本気で言ってるの……?」

「えっ? あ、はい、もっ、勿論です!」

「ふざけてる訳じゃないのね……?」

「違います! これ、真面目な話ですから!」

 

 話が終わったと見て智子の母がようやく口を開くが、まるで相手の正気を確認するかのようなその口ぶりであったから、どうにか信じてもらおうと琴美は言葉を重ねる。

 

「そんな……うそでしょ……こんな事って……」

「まあその、私も信じられないですけど……あはは……」

 

 琴美にふざけている素振りがまるでない事を見て取り、智子の母が顔を青ざめさせていく。そうしてよろめくまま壁にもたれかかる彼女のあまりの動揺ぶりに、なにやら申し訳なさすら感じてしまう琴美であった。

 

「すぐに病院で診て貰いましょう! 大丈夫よ智子、大丈夫だから……!」

「あっうん、そ、そーですね」

 

 気を持ち直したらしい智子の母から両肩をがっと掴まれ、そのように励まされる琴美。相手の尋常でない様子にたじろいでしまったものの、ともあれようやく話が前に進みそうだと少しばかり胸をなでおろすのだった。いまだに智子呼ばわりしてくるかの女性であったが、それもまだまだ混乱が抜けきらないが故の事であれば致し方ないと琴美は納得する。

 *

「ふたりともちゃんとここにいてね。いい? どこにも行っちゃ駄目よ?」

 

 智子の母がソファーへ腰掛けていた琴美と智子へそのように言いつける。それに対して智子が「はぁい」、琴美が「あっはい」と、各々が自分なりの返事をしてみせた。そんなふたりの反応を見届けた智子の母は、電話台の上に置かれていたペンとメモ帳、そして電話の子機を手にして部屋を出ていってしまった。

 

「あーあ、なんかめんどくさい事になっちゃったなぁ」

 

 頭に手を回してうんと伸びをする智子が、誰に向けるでもなく気だるそうにボヤいてみせる。傍らの琴美はといえば、背筋を伸ばして行儀良く座る姿勢を崩さない。

 

「どうなんのかなー、ちゃんと戻れんのかなぁこれ」

「分からんけど……とりあえず病院連れてってくれるみたいだぞ」

「そうなんか?」

 

 琴美の見ていない所でどのような親子の会話がなされていたのかは分からぬが、智子は随分と落ち着きが出てきたようだ。我が家でくつろぐ事ができているからか、少なくともそこには当初のように不安に苛まれている様子は見られない。

 

「おっ」

 

 おもむろにソファーを立った智子が、食卓の上に並べられていたおにぎりや卵焼きを見つけて声を上げる。ラップが掛けられたそれは智子の母が作っておいた本日の昼食であったのだが、朝から働きに出ていた智子としてはそろそろ空腹が気になっていた所だった。これから自分達が(おもむ)く病院にて検査だ何だと時間を取られてしまう事になるだろうから、今のうちに腹ごしらえしておこうと智子は早速それにありつく事にした。そうしてキッチンのほうで手洗いを済ませてから箸や飲み物を用意して席に着いた矢先、なんとはなしにその様子を眺めていた琴美と目が合ってしまう。

 

「あー、こみさんの分は無いから」

「いらんわ」

「ごめんな、私だけこんなの食べちゃって……朝から働きっぱなしだからお腹空いてるでしょ?」

「いいから食えよ」

「沢山走ったから疲れてるよね? 水なら飲んでいいよ」

(うざいな……)

 

 流石というか馬鹿というか、こんな時でも人をからかう事を忘れない智子のそうした態度に呆れ返ってしまう琴美。だのに智子のその外見と来たら本来の己の姿そのものである訳だから、まるで自分自身から挑発されているような錯覚にも陥ってしまう。「腹立つ顔してんなこいつ」などと一瞬でも思わせられた事がなんとも悔しい琴美なのであった。

 

「そんじゃ、いただきまーす」

 

 前菜代わりに琴美をからかい終わった智子がようやく料理に手をつけていく。実際の所、余程腹が減っていたのかそれからは黙々と食べるばかりで大人しくなったので、一時的とはいえひとまず琴美は煩わしさから解放されたのだった。

 

「ちょっとあなた」

 

 そうして智子がおにぎりの最後のひとつを口いっぱいにほおばっていた頃、部屋に戻ってきた母親が食卓につくその姿を目にして眉をひそめた。

 

「それ智子のなんだけど……」

「ん、んむっ……?」

 

 まるで卓上の食事を勝手に食べてしまった事を咎めているような口ぶりの母であったが、対する智子のほうは訳が分からず頬を膨らませたままのその顔に困惑の色を浮かべる。

 

「もしかして全部ひとりで食べたの?」

 

 続けざまにそのような質問をしてくる母であったが、事実その通りであるのだから智子はばつが悪そうに(うなず)くしかなかった。

 

「もういいわ……お腹が空いてたのね」

 

 はぁ、と小さくため息をついた母がそれ以上智子を追及する事はなかった。そうして先程部屋から持ち出していったあれこれを元あった場所へと置いた彼女は、キッチンのほうへ行って冷蔵庫や戸棚から何かを取り出していく。

 

「ごめんね、こんなのしか無いけど」

「あっ、ありがとうございます……!」

 

 ソファーに座る琴美のもとへと智子の母が歩み寄り、手に持っていたものを差し出してきた。突然の事に戸惑う琴美ではあったが、咄嗟に礼を述べつつそれを受け取ってみせる。琴美が貰ったもの、それは一本のバナナと紙パックの野菜ジュースだった。どうも智子の母は簡易的な昼食としてこれを琴美に与えたようだった。

 

(うわぁ……なんかくれたぞ。食べちゃっていいのかな?)

 

 智子が先程嫌味交じりに指摘してきた通り、今の琴美はお腹がぺこぺこなのであった。故にこうした智子の母からの気遣いは恐縮する一方で正直ありがたくもあった。

 

「ほら、病院行くからふたりとも来てちょうだい」

 

 軽く化粧や装いを整えたのちに電話台の引き出しから財布やら何やらを取り出していた母が、支度は整ったとばかりに琴美と智子を呼びつける。彼女は早速ふたりを病院に連れていくつもりらしい。昼食にありついていた琴美であったが、「車の中で食べて」と促されたものだからひとまず言われた通りにするのだった。

 *

「あっ、すいません……ちょっと保険証だけ取りに帰りたいんですけど」

 

 一行を乗せた車が信号待ちをしていた所、後部座席に座っていた琴美が思い出したように口を開いた。智子の母が運転する車は市内の大きな病院へと向かう途中だったのだが、自身の分の保険証を持参していない事に気付いた琴美であったから、一旦それを取りに己の自宅へ寄ってほしかったのだ。生憎手持ちが無いため診察代は智子の母にひとまず立て替えてもらえないかとお願いしてみるつもりだったが、それにしたって不必要に負担を増やす訳にもいかないので保険証ぐらいは持っていきたい所なのであった。

 

「えっ? 持ってきてるけど」

「あっ、いえ、智子さんのじゃなくて」

「あぁ……そうね、大丈夫よ。小宮山さんのお母さんがあとで持ってきてくれるみたいだから……」

 

 心配には及ばないと、智子の母はそのように返した。どうも水面下で既に手配がなされていたらしく、わざわざ琴美が自宅まで赴く必要はないようだ。

 

「うちの親、来るんですか!?」

荻野(おぎの)先生にね……連絡先教えて貰ったの。いま仕事中だけど、なんとか来てくれるって……」

 

 時折胸がつかえたような様子を見せる智子の母であったから、琴美の疑問に答えたあとはそれきり言葉を続ける事はなかった。ともあれ自身の母の仕事を邪魔せぬようにと遠慮していた琴美ではあったが、結局己の知らぬうちに智子の母が話をつけていたようだった。

 

(なんか結構大事(おおごと)になってきたな……)

 

 世に知られれば大ニュースになりそうな程の超常現象に遭遇している真っ最中とはいえ、別に生き死にに関わるような逼迫(ひっぱく)した状況でもないのだから、みんなしてそこまで慌てなくてもいいのにと琴美は思う。異常な事態に巻き込まれて当初はただただ智子と一緒に青ざめるばかりの彼女であったが、一応はこうして第三者に理解してもらえたという事が、彼女を多少なりとも安心させているようだった。

 

(もしかして入院とかすんのかな?)

 

 病院に到着するまでの間、これからの事について琴美はあれやこれやと考えを巡らせる。自分達のような症状は前例がある筈もないだろうから、診察する医師は仰天するか、そうでなければたちの悪い冗談だと思うに違いない。そうしていよいよ本当に此度(こたび)の入れ替わり現象が現実のものであると受け入れざるを得なくなったら、果たして病院側はどのような検査や治療を試みるつもりなのだろうか。なんにしても今日はすんなり帰してもらえなそうだと、琴美はそのように覚悟していたのだが──。

 

(帰ってきちゃったぞ……! いいのかこれ……!?)

 

 向かった先の病院であれこれ診察を受けたり、遅れて到着した自身の母から事情を聞かれたりもしていた琴美であったが、色々終わってみれば結局その日の夕方には家に帰ってくる事ができた。

 

「ほら智子、分かる? ここはあなたの家なの」

(いやいやいやいや、どうしてこうなった!?)

 

 車の助手席から降りた琴美がその場で立ち尽くしていると、智子の母がやってきて肩にそっと手を添えてきた。帰りしなの車中には琴美ひとりだけが乗せられていたのだが、智子の母が運転するその車は琴美の自宅に立ち寄る事もせずに黒木家へと戻ってきたのだった。

 

「あなたはね、今ちょっとのあいだ記憶が変になってるだけなの……」

(ヤブ医者め……適当な事言いやがったな……!)

 

 担当した医師が自分たちに一体どのような診断を下したのかはいまだ知らされていない琴美であったが、ひとまずは自宅療養という形で家に帰される事となった。が、肝心の帰宅先は己の家などではなく何故か智子の自宅のほうだったのだが、それは現在この場にいない智子も同様であり、きっと今頃は琴美の母に連れられて他人の家へとお邪魔する羽目になっていると思われた。別れ際、泣きじゃくって本来の母親についていこうとしていた智子の──「小宮山琴美」の姿をした智子の哀れなその顔が、今一度琴美の脳裏に浮かんでしまう。

 

「だから、がんばって少しずつ思い出していきましょうね」

「そ、そーですねー……あはは……」

 

 慈しむように肩を優しく撫でてくる智子の母からそのように諭された琴美は、心の内の混乱を誤魔化すように無難な返事をしてみせる。この分ではいくら「自分はあなたの娘ではない」と訴えた所で、それを素直に聞き入れてもらえるとは到底思えなかった。

 

(やばいぞー……ほんとどうすんだこれ……どうやったら元に戻れんだ……?)

 

 智子の母に背を押されるまま玄関扉をくぐっていく琴美であったが、結局誰も自分たちの窮状を理解できていない事が明らかになったものだから、それまで心の底で(くすぶ)っていた不安がここに来てはちきれんばかりに膨らんでいく。このまま他所(よそ)様の家で家族以外の人々に囲まれて暮らしていかねばならないのだろうかと、そう考えるだけで早くもホームシックになってしまいそうだった。

 

「おかえり……どうだった?」

(ホアッ!?)

 

 が、しかし。

 帰宅した琴美と母を出迎えるように廊下の奥から姿を現した人物の姿を見た途端、琴美の中で張りつめていた不安はいとも容易く弾け飛んでしまった。

 

GENKAN(ゲンカン)TOMOKI(トモキ)くんが────っ!)

 

 琴美の前に立っていたのは他ならぬ彼女の想い人である智貴だったのだ。その事を認識した途端、全身が震える程の怒涛の興奮が琴美の内から溢れ出してくる。あたかもそれは絶望の(ふち)に落とされた琴美に向けて、救いの神から慈悲が与えられたかのようであった。

 

「大丈夫よ、しばらく経過を見ましょうって事になったから」

「そっか……」

 

 病院で診察を受けていた姉の事が心配だったのか、どこか浮かない様子の智貴。そんな息子を安心させようと、彼の母はひとまず娘の病状がそれほど大事(だいじ)には至っていないのだと伝えてやる。それを受けてちらりと琴美を見やる智貴の顔には少しばかり安堵の色が浮かんでいたのだった。

 

「もう飯作っといたから」

「あらそうなの? ありがとね、助かるわ」

(智貴くんの手料理(スペシャルディナー)……だと……!?)

 

 夕飯の用意は自分がしておいたと、そう言い残して智貴は再び廊下の奥へと引っ込んでいく。

 

「ほら、着替えてご飯にしましょう」

「え、え~、そんなそんな、い、いいんですか~~……?」

「いいに決まってるじゃない……あなたのおうちなんだから好きにしていいのよ?」

「あ~、そ、それじゃあお言葉に甘えて……」

 

 母からのそうした(すす)めに対して遠慮する風を装いつつも、琴美は一切の躊躇なく家の中へと上がり込んでみせる。つい先程まで自分が何を思い悩んでいたのかすら忘れてしまいそうになる琴美であったが、ともあれ母に案内されるまま脱衣所に連れていかれたかと思うと、そこで着替え一式を与えられひとりにさせられたのだった。

 

(この状況……つまりアレだ……よーするに……!)

 

 すっかり埃っぽくなっていたジャージを脱ぎ捨てていく琴美は自分が置かれている状況を改めて冷静に把握しようと努めていたのだが、今の熱に浮かされたような頭ではろくすっぽ考えがまとまらない。

 

(智貴くんと同棲(どうせい)しちゃうって事だよね!? これから一緒に暮らすって事だよね!?)

 

 だからもう、琴美の頭の中は最早この手の事柄で埋め尽くされるばかりであった。

 

(ご両親とも一緒に暮らす訳だし、これはもう智貴くんと結婚(けっこん)したも同然なのではっ!?)

 

 遂にはそのような飛躍した考えに行き着いてしまって「あばばばばばば……」と奇声を発し始めたものだから、興奮するあまり気絶してしまいかねない琴美なのであった。




つづく
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