もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(3)

琴美姉さんのわくわく新生活

(ああ、先にお風呂入りたいなぁ)

 

 危うく気を失いかけた先程の興奮状態からどうにか己を取り戻した琴美であったが、そんな彼女は洗面台の鏡に映る小憎らしい顔をした己の姿を丹念にチェックしつつも心の中でぼやいていた。日中あれだけ走り回ったのだから、きっと智子も随分と汗をかいていたに違いない。故に今は己のものとなった智子のその体が汗臭くはないだろうかと琴美は心配しているのだ。一応は拝借したタオルを濡らして顔や体を(ぬぐ)ったりもしたのだが、これから智貴と食事を共にする訳であるから、万が一にも顔をしかめられはしないだろうかと不安の残る琴美なのであった。

 とはいえ仮にそうなったとしても、今は智子に成り代わっている身の琴美であったから何ら不都合がある訳ではない。悪い印象を持たれるのは「黒木智子」のほうなのであって、本来の自分自身ではないのだから。が、それでもやはり気になるものは気になる。潔く開き直ることもできない琴美は、今になって智貴達の前に出るのが少しばかり恥ずかしくなってしまった。

 

「智子、もう着替えたの?」

「あっ、はい!」

「早くいらっしゃい、待ってるのよ」

 

 いつまで経っても脱衣所から出てこない娘のことが気になったのか、智子の母が気遣わしげな調子で扉越しに声をかけてきた。これはもう心を決めるしかない。意を決した琴美がダイニングへと続く扉をおそるおそる開けてみれば、待ち構えていたらしい母に導かれるまま食卓につかされたのだった。

 

(ああ~~智貴くんがお隣にぃ~)

 

 ふたり分空いていた席のうち、琴美が座らせられたのは丁度智貴の隣であった。途端、琴美の心拍数は跳ね上がり、頭も心ものぼせあがっていく。つい先程まで彼女が抱いていたその幾許(いくばく)かの羞恥心も、特等席へ座った途端に蒸発してしまったようだ。

 以前にも一度、まったくの偶然でありながら似たような状況に遭遇したことのある琴美であったが、当時は諸事情あってせっかくの降って湧いたチャンスを堪能する余裕もなかった。そのことは彼女の中で心残りとなっていたのだが、故に今こうして再びそのチャンスが巡ってきたことに興奮を抑えられないでいた。

 

「ほら、食べましょう?」

「は、はい……!」

 

 娘を席につかせたはいいものの、料理に手もつけずそわそわしているだけの姿が遠慮しているように見えたからか、母がそのように促してくる。それを受け、ひとまず琴美は震えるその手で己の席に配膳されていた箸をつかんでみせた。

 

(智貴くんの家で、智貴くんの手料理を食べる……! それも彼と一緒に、彼の隣で……!)

 

 卓上には本日智貴が用意したという料理の数々が配膳されていたのだが、どれもこれも今の琴美には輝いているように見えてしまう。それ程凝った献立(こんだて)ではなかったが、可愛い智貴が自分のために腕によりをかけて作ってくれたのだと思えば、それだけでもう今世紀ナンバーワンのごちそうなのであった。

 ましてや状況が状況である。日頃から母の帰りが遅い時などはひとりきりで夕飯にありつくことも多い琴美であったが、今宵は違う。長らく恋い焦がれてきた意中の相手と食卓を囲む特別な夕飯なのだ。これがとびきりのごちそうでない筈がない。いつかこんな時が来るんじゃないかと、いつかこんな時が本当に来てくれればと、そう密かに願い続けていたことが今、現実のものとして訪れたことに琴美はもう泣いてしまいそうであった。

 

「あっ、じゃじゃじゃ、じゃあ、あのー、ともっ、ともきくん、いたっ、いただきまっす!」

「お……おう……」

 

 激しくどもりながら傍らの智貴に食前の礼を精一杯述べる琴美であったが、対する智貴はそのひどくおおげさな様子に面食らってしまったらしい。のみならず、彼からしてみれば現在の姉の姿はどこもかしこも(はなは)だ奇異に映って仕方がないようだった。だからなのか、早速料理を口に運んではグルメ漫画さながらに(とろ)けた表情となっていた琴美のその様子を、智貴は箸を止めてしばらく観察していた。

 

(智貴くんが私を見ている!?)

 

 食べる喜びここにありと、口の中に広がる甘美な味わいを堪能しつつ、智貴の料理で腹が満たされるその幸福感に酔いしれていた琴美。しかし己の傍らから向けられるその訝しげな視線にふと気付いたものだから、智貴のことを見返してしまう。

 

「あっ、な、なに……?」

 

 口に入っていたものを飲み込んだ琴美が、照れているのかへつらっているのかよく分からないような表情で尋ねてみた。智貴からこんなにも至近距離で熱心に見つめられるなど初めてのことであったから、もうそれだけで新たなエクスタシーへの扉が開いてしまいそうで体がむずむずしてしまう。「そんなにも美味しそうに食べてくれて嬉しいよ」などと言われたらどうしようと、少しばかり期待してしまう琴美なのであった。

 

「いや、なんかマジで別人みてーだなって」

「えっ? あっ、うん……」

 

 しかしながら智貴が注目していたのは、普段と様子が大きく異なる姉の姿に対してであった。その口ぶりからして既に母からある程度事情を聞かされていたようであるが、己の姉が本当におかしくなってしまったらしいということを改めて実感しているようだった。

 人間というものはひとたび中身が一変してしまおうものなら、その所作やら口ぶりやら、あるいは顔つきから日常的な癖に至るまで、様々な面で変化が表れることは避けられない。故にほんの少しのあいだ観察しただけでも、智貴は姉の内部で起きているらしい顕著な異変を確かに感じ取ったようである。

 

(なんだろ……智貴くん、怒ってるのかな……?)

 

 そんな智貴の視線の中には、まるで異物を検分するかのような(けわ)しさが含まれていた。そのことを察してしまった琴美であったから、自分がまるで智貴から睨まれているように感じられて少しばかり萎縮してしまうのだった。

 

「大丈夫よ、今だけだから。ちょっと変かもしれないけど、いつも通りにしてあげてね」

「ああ、まあ……」

 

 そこへフォローを入れるようにして母が口を挟んでくる。戸惑いを感じるのは当然のこととしても、それを理由に他人扱いするような真似はつつしむようにと、そのように諭しているようでもあった。

 

「なんかやっといたほうがいい事とかあんの?」

「ううん、本当にいつものままでいいの。元に戻るには普段通りの生活をさせてあげることが大事なんですって」

 

 姉の回復のためにできることはないかと智貴が問えば、母はこのように答えてみせた。どうも琴美達を診察した医師によれば、今回のような記憶の混乱を回復させるにはそうした形での自宅療養が望ましいということのようだ。

 

(ああ、そっか……そういやそうだった……)

 

 そうした親子のやりとりを見ていた琴美は、己が少しばかり浮かれてしまっていたことを自覚する。まるで自分が智貴の新妻として此度(こたび)の晩餐に招待されたように錯覚していたものの、実際のところ周囲の人々にそのようなつもりがある筈もないということは明白なのだった。

 

(みんな私のこと、あいつだって思ってるんだよな)

 

 今この場にいることが許されるのは黒木智子その人であり、本来の自分である小宮山琴美を歓迎している者は誰ひとりとしていないのだ。消えてくれなければ困る異物、解消されなくてはならない悩みの種、それこそがこの家における己の立ち位置だった。そこまで考えたところでうたかたの夢はふっと消えてしまい、先程までの高揚感も体からするすると抜け落ちていく。

 

(…………)

 

 現実を正しく理解した琴美ではあったものの、それと同時に肩身の狭いような気持ちに襲われてしまった。昔からひとりでいることにある程度は慣れていたものだから、寂しいという気持ちとあまり縁の無い性分の琴美ではあったが、この時ばかりは妙に心細くなってしまう。先程智貴が向けてきた訝しげな視線を思い出すと、なにやら胸の奥がちくりと痛むのだった。本来なら彼からのそのような態度にもさほど傷ついたりはしないのかもしれないが、普段滅多に無いような夢心地に浸ってしまっていたのが良くなかった。マッチに灯された幸せなひとときの幻想が、琴美の心を随分と感傷的にしてしまったようだ。

 いま一度智貴の様子をちらりと窺ってみれば、食事を再開した彼は黙々と料理を口に運んでいるようだ。なんだかもうすっかり食欲の無くなってしまった琴美ではあったが、せっかく智貴が作ってくれたものを残しては申し訳ないと、少しばかり冷めはしたがやはり美味しいままのその夕食に手をつけていくのだった。

 

 ◆

 

(静かだなー……)

 

 黒木家での夕食は終始淡々としたものだった。ダイニングと同じ空間にあるリビングの奥には大きなテレビが据えられていたのだが、この家では食事中にテレビをつけない習わしなのか、電源は切られたままになっている。普段から寡黙(かもく)な智貴はもちろん、母のほうもとめどなく喋るような類の人ではないようで、この家の人々の食事風景はおおむね静かなものであった。

 

(いつもこんな感じなのかな?)

 

 これが小宮山家であれば夕食どきともなれば大抵はナイター中継の視聴がセットになっていたし、ナイターが無い日も適当な番組にチャンネルを合わせたりしていることが常であったから、琴美としてはこうもひっそりしているとかえって落ち着かない。であれば適当な話題でも振って多少は会話に花を咲かせてみればよさそうなものだが、琴美は先程からなんとなく居心地の悪さを感じていたので、へたなことを言ってまた智貴を不審がらせてしまうのではと思うとどうにも口が重くなってしまう。

 せっかく憧れの智貴と夕食を共にしているのに。本来であればありえないようなチャンスなのに。話してみたいことならそれこそ山程あるのに。そのように考えはするものの、今はまだ臆病な気持ちのほうが(まさ)ってしまうのだった。

 

(誰か来た……?)

 

 そうして食事だけに専念していた琴美であったが、やがてそれもすっかり食べ終えた頃。母が淹れてくれたお茶で一服させて貰っていた琴美の耳に、玄関扉を開け放つ音が聞こえてきた。来客を出迎える為であろうか、その音に気づいた母はあと片付けを中断して足早に部屋から出ていってしまう。そうして琴美がしばらく様子をうかがっていると、やがてひとりの男性が母と連れ立って部屋の中へと入ってきたのだった。

 

(あっ!? この人もしかして……!)

 

 そのまま母はキッチンのほうへ行ってなにやら支度を始めたのであるが、こちらを見やってきた男性と目が合った琴美は、その顔を目の当たりにしてすぐさまピンと来るものがあった。

 

(智貴くんのお父さんだー!)

 

 智貴をある程度老けさせればまさしくこのような容貌(ようぼう)になるのではという印象の男性であったから、彼が何者であるのか琴美にはすぐさま見当がついてしまう。夕食の場へ一向に姿を現さないでいたこの家のご主人が、今ようやく帰宅してきたに違いないのだ。

 

「ただいま」

「あっ、ここ、こんばんはっ」

 

 彼の第一声は己の娘への挨拶だった。智貴の父親と思しきそのワイシャツ姿の男性を凝視していたのもつかの間、食卓のほうへと歩み寄ってきた彼からの挨拶に、琴美は椅子を鳴らして立ち上がる。咄嗟に挨拶を返してみせたはいいが、ここは「おかえり」と言ったほうが良かったのだろうかと、すぐさまそのような考えが浮かんできたりもする琴美。だがこの家の中でどう振る舞うべきかが分からなくなり始めていた彼女には、その答えを見つけることができない。

 

「…………」

 

 ともあれ娘からのかしこまった挨拶にやや面食らったような様子を見せていたものの、さりとてそれを咎めるようなこともしない智貴の父であった。そうして彼は食卓の椅子を引いてみせると、手に下げていた上着や(かばん)をそこに預け、おもむろに自身のネクタイを緩めていく。

 

「具合はどうだ? 階段から落ちたってお母さんから聞いたけど」

「あっはい、だ、だいじょうぶです」

「怪我とかしてないか?」

「あっ、まあ一応は……はい」

 

 かの御仁(ごじん)を前にして緊張気味の琴美であったが、ふいに彼からそのようなことを質問された。多少の打ち身はあれど一応は大した怪我もせずに済んでいたので心配には及ばないと伝えたのだが、このような受け答えすらもやはり普段の智子を知るこの家の人々からすると奇異に映ってしまうのだろうかと、琴美は不安を拭えない。

 

「そうか」

 

 しかしそうした琴美の返答に納得したのか、はたまた思うところがあっても言わないだけなのか、智貴の父は特に不審がるような様子も見せず静かに相槌をうつだけだった。「それならよかった」とだけ言ってから、彼はやがて脱衣所のほうへと向かっていく。

 

「ふぅー……」

 

 今回の騒動について既に己の妻から事情を聞かされていたからかもしれないが、てっきりあれやこれやと質問攻めにあうのではと構えてもいた琴美としては、智貴の父のどこか素っ気無く見えるその態度にほっとしつつも些か拍子抜けなのであった。あるいはそれは、「普段通り接するように」という医師からの指導を彼もまた妻から共有してもらっていたが故のことかもしれなかった。

 

「ああ、おかえり」

「ただいま」

 

 風呂を沸かしに行っていたらしい智貴が、脱衣所の出入り口から丁度出てきたところで己の父親と鉢合わせする。そんな息子と軽く挨拶を交わした智貴の父は、そのまま交代するように脱衣所の中へと入っていった。

 

(智貴くん、お父さん似なんだぁ……)

 

 父と入れ替わりで戻ってきた智貴の顔を見て、琴美はそのような感想を抱いた。生き写しとまではいかないが目元などはとりわけよく似ているなと、父親譲りだったらしい智貴のその鋭い目をまじまじと観察した琴美の脳内には「イケメン親子」などという言葉まで浮かんできてしまう。

 

「なんだよ?」

「あっ、違うの! な、なんでもないのっ」

 

 己がじろじろ見られていることに気付いた智貴がそう尋ねたものだから、我に返った琴美はおおげさな身振り手振りを交えて弁解しようとする。しかし彼女の挙動やその妙に媚びたような声色がどうにも己のよく知る普段の姉と一致しないからか、まるで気味の悪いものを見たと言わんばかりに智貴の目には隠しきれない困惑の色が浮かんだ。

 

(ああ~~智貴くん、そんな目で見ないでぇ~)

 

 またしても己に向けられた訝しげな視線を受け、今再び胸の奥にちくりとしたものを感じる琴美。しかしながらどうも先程とは少しばかり具合が違っているようだった。本人にも理由は分からないものの、胸をしめつけるその痛みの中に若干の甘いときめきのようなものが含まれていたのだ。ありていに言って()()()()してしまったのである。ただ辛いばかりだった筈の智貴からの不審に満ちた眼差しが、徐々にではあるが奇妙な快感をも生み出しつつあることを琴美はまだ自覚できていなかった。

 彼女の名誉のために補足するならば、これはなにも琴美がアブノーマルな人間であるが故のこととも言い切れない。自身の想い人から与えられるものであれば、それがたとえどのような仕打ちであってもできる限り好意的に受け止めてあげたいという健気(けなげ)な気持ちの表れかもしれないのだ。中学時代に智貴から面と向かって「死ね」と罵倒された苦々しくも衝撃的な思い出が性的嗜好を歪ませてしまった可能性がなきにしもあらずだが、ともあれ不安に揺れていた琴美の心に少なからず慰めが与えられたことだけは確かだった。

 

「ちょっと智貴。悪いけど智子のこと部屋に連れてってあげて」

「え?」

「お父さんとちょっと話したいことあるから……智貴もあとで来てちょうだい」

「ああ、うん」

 

 運んできた茶碗や箸を卓上に配膳していた母が、智貴へそのような頼みごとをしてみせた。これからのことを家族で話し合うつもりなのかもしれないが、そのやりとりを智子には聞かせたくないのだろう。母の気持ちを察したらしい智貴であったから、ふたつ返事で了承すると琴美のほうを見やる。

 

「姉ちゃん、じゃあ……」

「あっ! う、うんっ!」

 

 廊下へ続く扉のほうを軽く指さしながら、そのように言って姉を促す智貴。どうやらこれから智貴がどこかへ案内してくれるようだと理解した琴美は、彼に寄り添うようにとてとてと歩み寄った。

 

()()()()って呼ばれたー! わたしっ、いまっ、智貴くんのお姉さん!?)

 

 智貴からすればたわいないことであったが、彼の今しがたの言葉を聞き逃さなかった琴美のほうはそうもいかない。かつて成り行きから智貴の姉を勝手に自称したこともある琴美であったが、よもや彼自身から姉呼ばわりされる日がやってくるなんてと、本来ならありえない筈の体験に感動が湧き上がってしまう。世間には年下の美少女から「お兄ちゃん」などと呼ばれることに喜びを感じる男性達がいるらしいということは琴美も知っていたが、今なら彼らの気持ちが全力で理解できそうな気がしたのだった。

 

(ああああ……私の弟! 智貴くんが私の可愛い(ダーリン)に……!)

 

 我こそは正真正銘の琴美姉さんであるぞと、世界中に宣言したくてたまらない。そのようにすっかりのぼせあがった琴美であったから、智貴のあとをついて歩く彼女の脳内では早くも彼との幼い頃からの思い出の日々が猛烈な勢いで捏造されたりしていた。

 小さい頃から毎日一緒に登下校したり、いつも一番の遊び相手だったりする仲なのは当然のこと。同じ布団で寄り添い合って寝起きを共にしたり、おはようとおやすみのチューを欠かさなかったり。もちろん一緒に風呂へ入ったりもする。母の帰りが遅いときだって、弟と一緒にテレビの前でロッテを応援していたら時間なんてあっという間だ。夏休みともなれば更にふたり一緒の時間は増える。姉弟で協力して自由研究を頑張ったりするし、ナイター中継が始まるまで涼しい図書館で過ごしたりもする。遅い時間に出歩くことを許される年齢になってからは、遠くマリンスタジアムのほうから打ち上げられる花火を近所のスーパーの屋上から連日眺めることが夏休み恒例の姉弟のお楽しみイベントとなるだろう。

 あんなこともあった、こんなこともあったと、ありとあらゆる架空の思い出が走馬灯のように琴美の脳裏を駆け巡っていく。ある時期からずっと母とのふたりきりの生活だった琴美の人生に、たとえ仮定の話といえども弟という存在が付け加えられたことで劇的な化学変化が起きていたのだ。

 

(人生って素晴らしい……! 人類みなキョーダイ! 智貴くんと私もキョーダイ!)

 

 たとえうたかたの夢であっても、何千何万ものマッチを一斉に燃やせばそれはとてつもない猛火となる。激しく燃え上がった琴美の炎は、疎外感を覚えて以降じわじわと広がり始めていた彼女の中の心細さをすっかり焼き尽くしてしまったようだ。

 

「うっ、うっ、うぇっ、うぇっ」

「なんで泣いてんの……?」

 

 智子の部屋の前へと連れてこられた頃には、琴美はもうすっかり感極まって泣きべそをかいていた。実際の時間にしてみればほんの短い間だったにもかかわらず、琴美としてはなんだかもう随分と長いあいだ己の再構築された人生を追体験していたように感じられる。智貴からしてみれば何の前触れもなく泣き出した情緒不安定な姉の姿は恐ろしくすらあったようで、ただただ困惑しているようだった。

 

「あっうん、ご、ごめん……ぐすっ」

 

 そうした智貴の反応を受けて流石に琴美も我に返ったようで、慌てて涙を拭ってみせる。智貴の前でこんな風に泣き顔を晒してしまったことは生まれて初めての経験であったから、恥ずかしいような、だけどもドキドキするような、えもいえぬ感覚を琴美は味わった。

 

「えと、こ、これからどうなっちゃうのかなーって考えてたらさ、なんか泣けてきちゃってさー」

「……」

 

 嘘が下手な琴美にしては上出来ともいえる誤魔化し方であったが、それを受け、智貴は思案した様子を見せる。

 

「姉ちゃん、マジで自分が違うやつと入れ替わったって思ってんのか?」

「えっ? あっ……そ、そうだね、そうみたい」

 

 思っているもなにも、入れ替わったことはただひたすらに事実なのだから、琴美としては思い込みや記憶の混乱という話で片付けてほしくない。が、いくらそれを訴えたところで信じて貰うのは難しいだろうと彼女は少しばかり諦めてもいた。故に智貴からのこうした質問にも、曖昧な言い回しではあるが一応は同意してみせる。

 

「うちのことなんも覚えてねーのか? 自分の部屋のことも?」

「あ、うん……分かんないや」

 

 本当は智子の部屋のことなら、以前お邪魔したことがあったから琴美としても多少は覚えがあった。もっと言うとその隣室となる智貴の部屋に至っては、室内のどこそこにどういった家具が置いてあったか、ベッドの布団や枕の色はどんなだったか、それらはどんな匂いや感触だったのか、といった諸々のことまで克明に記憶していたりもする。が、わざわざそれを言ってしまうと話がややこしくなりそうだったので、ひとまず知らぬ振りをした。

 

「じゃあ俺がこないだ貸したジャージのことも覚えてない?」

「あっ、し、知らないけど……」

「去年ふたりで鍋食ったこともか?」

「う、うん……ごめんね」

「どっかの声優になんか気持ちわりーセリフ言わせた音声ファイルは?」

「えっなにそれ」

 

 続く質問は当然ながらどれも琴美が全く知らないようなことばかりだった。それまで姉に対して一歩も二歩も引いたような態度でいた智貴であったが、ここにきて少なくない変化が起きたようで、あれこれと質問を重ねてくる。そうした彼の様子から、どうにか思い出してほしいという切実な気持ちを感じ取ってしまう琴美。実の姉がこのようなことになってしまったことを受け、彼もまたその心の内では自分なりに事態を重く受け止めていたのだった。

 

「あの小宮山って先輩がさ……自分のほうが姉ちゃんだって言い張ってるみたいだけど……」

 

 これも母から事前に聞かされていたのか、今この場にいない智子について言及する智貴。対する琴美は急に自分の本来の名前を出されたものだから、一体何を言うつもりなのだろうかと固唾を飲んでしまう。

 

「俺はそんなのぜってー信じねー。だから姉ちゃんも、あの人の言うことなんか信じるな」

「あっ……えと、その~……」

「姉ちゃんは姉ちゃんだ。絶対思い出させてやるから……だから心配すんな」

 

 そのように言い切る智貴の顔には強い決意が浮かんでいたから、こうまで言われてはもはや琴美としては何も言い返せなかった。母親と同様に入れ替わり説を(かたく)なに否定する彼ではあったが、それも家族を取り戻したくて必死であるが故のことなのかもしれない。第三者にとっては精神が入れ替わるなどという荒唐無稽(こうとうむけい)な話よりも、かなり特殊なケースの記憶の混乱が起きているのだと考えたほうがまだ現実味があるし、回復の見込みもありそうに思えるからなのだろう。

 智貴は確かに本当の姉を取り戻したいと心の底から願っていることが、いまや琴美にははっきりと分かってしまった。自分のような偽者ではなく、智子その人にこそ帰ってきてほしいのだと。

 

「あの、智貴くん……ほんとごめんなさい……でも、その、すぐ元に戻れるよう、私もちゃんと頑張るから……!」

 

 申し訳ないというような表情を顔いっぱいに浮かべた琴美はそのようなことを智貴に言った。先程は妄想が(こう)ずるあまり、このままずっと智貴の姉としてこの家で暮らせたらいいな、なんていう能天気な考えが頭の中に浮かんだりもしていた琴美。しかし姉の回復をどこまでも信じているこの少年を前にしていると、とにかくこのままではいけないという気持ちになってしまったのだ。どうすれば元に戻れるのかまるで分からないが、それでもどうにかしてみせなくてはならないのだと。

 

「……じゃあさ、その『智貴くん』ってのからやめようぜ」

「えっ?」

「普通に呼び捨てでいいから」

「あ……でも、えと、その……」

 

 琴美の心意気が伝わったのか、智貴がそのようなことを提案してきた。まずは手始めに弟への呼び方を本来のものへ戻してみようということらしい。しかしそれはそれで琴美的にはハードルの高いことであったから、彼女は早速言い淀んでしまう。やぶれかぶれで彼のことを呼び捨てにしたことなら過去に一度だけあったりしたが、いま改めてそのような呼び方をしてみせるのはなんとも気後れがしてしまうのだった。

 

「ちょっと呼んでみてくれ」

「あ、うー、と、と、ともぉ~……」

「遠慮なんかいらねぇって、ほら」

「と、ともき~?」

「そう……そうやって呼んでくれたらいいから」

 

 照れに照れつつようやく琴美が智貴のことを呼び捨てにしてみれば、それに満足したのか智貴は肩の力を抜いてふぅと息を吐く。

 

「じゃあここ、姉ちゃんの部屋だから」

 

 ともあれ本来の用事に戻った智貴が扉を開けて部屋の中へと琴美を案内してみせる。そうして彼の知る範囲ではあるが部屋の中のあれやこれやを説明したり、トイレはどこそこにあるだのといったこの家全体のことも軽く教えたりする。

 

「智貴ー、まだなのー?」

 

 そうこうしているうちに階下から智貴を呼ぶ母の声が聞こえてきた。娘抜きでの家族会議を開くため、息子の戻りを待っていたのだろう。

 

「じゃあ、行くから」

「あっうん! あ、ありがとね」

 

 そう言って智貴は部屋を出ていく。そんな彼に礼を述べて見送った琴美であったが、少ししてからひとつ言い忘れていたことを思い出してしまった。

 

「あっ、智貴くん! ちょ、ちょっと待って!」

「だから呼び捨てでいいって……」

 

 慌てて廊下へ飛び出して智貴を呼び止めた琴美であったが、その声に振り返った彼は姉からの呼び方がまた戻ってしまっていることをやんわりと(とが)める。

 

「あ、ごめん、えと、と、ともき……あのね……」

「?」

 

 ひとまず呼び方を改めた琴美であったが、もじもじとした様子で何か言いたそうにしているものだから、一体何を言い出すのだろうかと智貴は姉からの言葉を待った。

 

「今日のご飯、ごちそうさま……すっごく美味しかったよ」

「ああ……いや、まあ」

 

 言おう言おうと思いつつも口に出せずにいたその感謝の言葉を、琴美はようやく伝えることができた。それを受けて智貴は意表を突かれたような表情になったが、それも一瞬のことで、すぐしないうちに元の調子を取り戻す。

 

「いつもの姉ちゃんだったら、あれが駄目これが駄目って文句ばっか言いそうだけどな」

「あ、あはは……そうかもね」

 

 今のは智貴なりの冗談のつもりだったのか、彼にしては珍しいことに、その顔にはほんの少しばかりいたずらっぽい様子が浮かんでもいた。ともあれそれだけ言い残し、智貴はそのまま階下へと()りていってしまった。

 しんと静まり返った廊下であったが、そんな中でも琴美の心臓だけはバクバクと大きな音を鳴らしていた。いまや顔全体も随分火照(ほて)っていたようで、はふぅとため息が漏れてしまう。ともあれひとまずこれからのことをじっくり考えてみようと、部屋に戻った琴美はそこに置かれていた座椅子に座って人心地つくのだった。

 *

(……?)

 

 そうしてしばらく考えごとをしていた琴美であったが、先程から妙に視線を感じるなと思っていたものだから、なんとはなしに辺りを見回してみた。さりとて誰かがいるような気配はさっぱりない。しかしそれでも視線だけはやはり感じられてならないと、今一度周囲を念入りに見回していく。そうしていくうちに、やがて琴美は謎の視線の発生源をつきとめることができた。

 

(ぬいぐるみ……?)

 

 それは部屋の脇に置かれていた大小ふたつのぬいぐるみであった。大きいほうはどことなく間抜けな表情をした人形(ひとがた)タイプのもの。小さいほうはしょんぼりした顔が特徴的な丸いクッションタイプのもの。仲良く寄り添い合うようにして置かれているそれらふたつのぬいぐるみが、先程から自分のことをじっと見ているように思えてならない琴美なのだった。

 

(なんか気持ち悪いな……)

 

 考え過ぎかもしれないが、どうにも気になってしまった琴美は立ち上がって彼らのもとに歩み寄り、壁と向き合うような形に置き直してやる。ぬいぐるみらしく愛嬌のある見た目の彼らではあったが、本来は智子のものである筈の部屋にこうしてひとりでいると、彼らの視線がまるで自分のことを部外者として監視してきているように思えてしまうのだ。あるいは彼らは、この部屋の(ぬし)が別人に成り代わってしまっていることを見抜き、怯えていたのかもしれない。

 

「うわっ!?」

 

 突如、ポケットに入れてあるスマホから着信音が鳴り響いたものだから、琴美は思わず声を上げてしまう。一体誰だろうと慌てた彼女がそれを取り出してみれば、神社の石段から転げ落ちた際に幾分かヒビが入ってしまっていたその画面には「黒木智子」と表示されていたのだった。




つづく
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