もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(4)

わたしがあいつで⇄あいつがわたしで

(あれ、眼鏡は……?)

 

 寝ぼけまなこの琴美が普段慣れ親しんだ己の相棒を求めて辺りを見回すが、その姿は見当たらなかった。ベッド脇の隙間にでも落としてしまったかと覗き込んでみるが、これがやはり見つからない。

 

(あっ、そっか)

 

 やがてすっかり目の覚めてきた琴美であったから、それに伴い視界がはっきりしてきたことでようやく気付く。今の自分は相棒の助けを必要とせず、眼鏡無しではっきりとものを見ることのできる体に成り代わっているのだと。

 

「ん~~……っ」

 

 先行き不安な状況ながらも悪くない睡眠を取れたのか、ベッドの上でうんと伸びをした琴美の調子はすこぶる良さげであった。やがてベッドから降りた彼女はそっと扉を開けて廊下の様子を窺うと、そのまま一階にあるトイレへと向かう。他人の家でこうして朝を迎えるという経験などそうそうあるものではないし、ましてや智貴の家にお泊まりしてしまった訳であるから、目に入るものや肌に触れる空気などが新鮮に感じられてならない。

 そうして用を足したあと、続いて脱衣所へと向かった琴美は洗面台の前に立つ。琴美としてはこの家の住人と挨拶を交わすよりもまず先に、己の身だしなみを整えることが先決なのだ。特に智貴にだけは寝起き直後の色々とだらしない部分を見られたくはなかった。

 

(えーと、これか)

 

 自分用のものであると教えられていた歯ブラシを手に取った琴美は、一旦口をゆすいでみせると朝一番の歯磨きを開始した。普段智子が使っている歯ブラシを口に入れるのは正直言って気持ちの悪いものがあったが、今の体は智子のものなのだから問題はない筈だと昨晩同様に自分へ言い聞かせる。

 そうして洗面台の鏡に映るぼさぼさ髪の己と向き合っているうち、昨晩智子から掛かってきた電話のことが思い出されていく──。

 *

『いまひとりか?』

「あーうん、あんたの部屋にいるけど……」

 

 智子は声をひそめた様子でまず周囲に他の者がいないかどうかを確かめてきた。それはまるで電話していることを誰かに気取られないようにと警戒しているようでもあった。

 

『そっちはどうだ? お母さん、どんな感じだった?』

「いやまあ……なんつーか、完全に誤解されてるっていうか……」

『まだおまえのこと、私だって信じ込んでんのか?』

「うん、そんなところ」

 

 まず智子は自身の母の様子について真っ先に探りを入れてきた。ひょっとすると冷静になった母が遅まきながら真相に気付いてくれたのではと期待していたのかもしれないが、琴美にはそのような吉報を返してやることができない。

 

「そっちは?」

『あーダメダメ。おまえんとこのおばさんも、あのヤブ医者の言うこと()に受けてやがんの』

 

 今度は琴美のほうから尋ねてみれば、智子はそのように答えた。案の定と言うべきか、自身の母親も病院での診察結果を鵜呑(うの)みにしたままなのだということを琴美は把握する。

 

(しょうがないか……信じろってほうが無理だよな)

 

 仕事を抜けてきた実の母と会った際、琴美は自分なりに己の窮状(きゅうじょう)を訴えてはみたのだが、やはりそれも錯乱ゆえの世迷い言でしかないと受け取られていたようで少なからず無力感を覚えてしまった。あの時の母の、自分を見るぎょっとしたような目つきが琴美の中で苦々しくも思い起こされる。

 

『弟は?』

「え?」

『智貴だよ。なんか言ってたか?』

「ああ、うん……えと」

 

 今度は自身の弟についても質問する智子。母が駄目でも弟ならばと、いちるの望みを求めてその様子を知りたがっているようだ。

 

「だいたいおんなじかな。智貴くんも私のこと、あんただって信じてるよ」

『マジか……あのハゲ野郎……!』

 

 弟だけは分かってくれるのではという思いがあったのかもしれないが、今しがたの琴美の返答でそれも否定されてしまったものだから、智子の声には落胆した様子がありありと滲んでいた。

 

『ったくよー、普段私の何を見てんだよ。たったひとりの姉が入れ替わってるっつーのに、気付かねーとかありえんだろ』

 

 そこから先はもう、智子のひとり愚痴大会だった。よほど鬱憤(うっぷん)が溜まっていたのか、理解のない弟に対する不満をひとしきり口にするだけでは飽き足らず、その矛先は他にも向けられていく。やれ琴美の自室が狭いだの臭いだの、面白いものが何も置いてないだの、そもそも今回の騒動の原因はしつこく自分を追いかけ回した琴美にあるだのと、あれやこれや言いたい放題なのであった。

 

(まあ一応は元気そうだな……)

 

 病院で別れて以降の智子のことを少しばかり心配してもいた琴美であったが、電話から聞こえてくるそのお喋りな声は鬱陶(うっとう)しいながらも存外に気丈そうであったため、杞憂(きゆう)であったかと思い直す。

 

『んじゃ、あそこの鳥居の前で集合だかんな。遅れんなよ?』

 

 ともあれ智子の言葉を締めくくりとして、通話はそこでようやく終了する。一方的な愚痴大会に区切りが付いたあとは「勝手にパソコンを使うな」「部屋のものを触るな」などと口うるさく注意されたりもしていた琴美であったが、ひとまず翌日に例の神社で落ち合う約束をするに至ったようだ。彼女らはそこで、どうにか自分達が元に戻るための手がかりを探るつもりでいた。

 *

「あら、早いじゃない」

「あ、えと、お、おはよー……!」

 

 歯磨きに続いて洗顔も終えた琴美が、クシで梳いた己の長い髪をヘアゴムで(うし)ろに束ねていた頃、キッチン側の扉──この家の脱衣所には入口が複数ある──を開けて脱衣所へと入ってきた母が少し驚いた様子で声をかけてくる。琴美は廊下側の扉から脱衣所へと入っていったから、母は起きてきたのが娘だとは思わなかったようだ。ともあれそんな母に対してぎこちないながらも挨拶してみせた琴美であったが、その口調はもう敬語ではなくなっていた。他人行儀な口の聞き方はやめてほしいと、母から昨晩そのように懇願(こんがん)されていたが故のことであった。

 

「休みの日はいつもお昼ぐらいに起きてくるのに」

「あ、そうなんだ……」

 

 琴美が目を覚ました時刻は彼女としては普段通りであったのだが、智子の夜更かし癖が日常となっていた母からすれば珍しいことであったようだ。

 

「ほら、朝ご飯食べてきなさい。あとで作ってあげるから」

「は、はぁーい」

 

 洗濯機に衣類を放り込んでいた母が、そのように言って琴美を促す。母の態度は平素と変わらぬようにも見えるが、一方でどこか観察してくるようなところがあり、それが琴美に()()()()()振る舞うことを多少なりとも意識させる。昨晩のように黒木家の人々から異物扱いされるのは、やはりどうにもこたえるからだ。

 ともあれ開け放たれたままの出入り口からダイニングへと向かった琴美であったが、そこには先客がいた。

 

「あ、おはっ、おはよっ……!」

「ああ、おはよ」

 

 食卓にはジャージ姿の智貴が既に着席しており、朝食をとっている最中だった。父のほうはまだ寝ているのかその姿はなく、いるのは智貴だけのようだ。彼と目が合った琴美は咄嗟に挨拶したのだが、智貴のほうは姉の早い目覚めを珍しがる様子もなくそれに応じてみせる。

 

(智貴くんと「初・おはよう」しちゃったー! 朝からこんなの心臓に悪い……! いや、むしろイイッ!)

 

 ただ朝の挨拶を交わしたというだけのことなのに、琴美はもうすっかりはしゃいでしまっていた。そうして彼女はキッチンでコップ一杯の水をゴクリと拝借すると、おもむろに智貴の正面の席へと座ってみせる。昨日の夕食では隣り合ったので、今度は向かい合ってみたいということらしい。かりそめながらもいまや黒木家の一員となったその特権を存分に利用して、ここぞとばかりに琴美は想い人との接触を図りたいのであった。

 

「な、なに食べてるの?」

「いや、見りゃ分かんだろ……」

 

 なんでもいいから話しかけてみたいと、琴美は特に意味もなくそのようなことを尋ねたりする。一方の智貴はそのどうでもいいような質問に少し面倒くさそうな様子で答えた。

 

「納豆食べてるの?」

「ああ」

「美味しい?」

「……普通」

「そっかぁ、普通かぁ」

 

 箸を止めることもなく黙々と食べ進める智貴であったが、そんな彼を放っておくまいと、琴美はあれやこれやと言葉を投げかけていく。それは智貴にとっては些か鬱陶しいものであったが、彼の食べる姿を見ているのが楽しい琴美はすっかり浮かれてしまってそうしたことに思い至らない。

 

(あぁ……可愛いなぁ智貴くんは……)

 

 やがてはうっとりした様子で智貴を見つめたりするものだから、対する智貴はなんとも居心地が悪そうだった。それにしても普段の琴美であればもう少し奥手というか、智貴に対しては日頃から控えめなアプローチに終始するばかりであったから、それからすると今の彼女は随分と大胆であると言えた。

 

(こうしてると、なんか本当に私の弟みたい……)

 

 今の自分は「智子」なのだから変に遠慮する必要などない。むしろ余所余所しく接するほうが却って不自然だし、そのような態度は智貴や彼のご両親を不安にさせてしまうに違いない。琴美はそのように考えていたのだが、智貴の身内である人物に成り代わっているという事実が彼女の気を大きくさせていたようだ。

 

「姉ちゃんさ……」

「えっ?」

 

 ふと箸を止めた智貴が急に声をかけてきたものだから、夢心地に浸っていた琴美は目をぱちくりとさせる。

 

「もしかしてちょっと思い出してきてんじゃねーの、自分のこと」

「あっ、そ、そうかな……?」

「俺が朝メシ食ってるとさ、たまに姉ちゃんが話しかけてくっからうぜーって思ってたけどさ……なんか今の姉ちゃん、そんな感じだったから」

 

 どうも智貴は食事中の自分へ茶々を入れてくる琴美に思うところがあったらしい。自身の姉から時折似たようなことをされていた彼であったから、そうした姉の些か迷惑な行動と今の琴美の姿とが重なってしまったようだ。

 

「あっ、ご、ごめんね、邪魔しちゃって……!」

「いや、いいって。別に邪魔じゃねーから」

「そ、そう……?」

 

 自身の行動が智貴から鬱陶しがられていたと知り、琴美は慌てて席を立とうとした。しかしそれには及ばないと、琴美を制した智貴は彼女に改めて着席するよう促す。己の姉がいかにも普段の姉らしい行動をするのはむしろ彼にとって好ましいことであり、そのぶんだけ回復の兆しが見えてきたということ。いつもは煩わしいはずの姉の過干渉気味な行動も、この時ばかりは却って智貴を安心させたらしい。

 

(よく分かんないけど、ご許可が出た……!)

 

 ともあれ当の本人が良いと言っているのだから、再び席についた琴美はいよいよ遠慮なしに智貴の一挙手一投足をじろじろと眺め回す。そうして自身のにへら顔を隠そうともしないのだった。いっそこれこそが琴美の朝食で、(わん)に盛られた白米でも出されればそのまま智貴をおかずにパクパクたいらげてしまいそうな勢いだ。

 そうこうしているうちに母から朝食の用意をしてもらった琴美であったが、その頃にはすっかり食事を終えた智貴であったから、己の食器をキッチンへ運んでいく彼を名残惜しそうに見やる。やがて智貴はリビングのほうに置いてあったショルダーバッグを担ぐと、母に一言「いってきます」と挨拶してみせた。

 

「あっ、もしかして部活……?」

「そうだけど」

 

 本日は日曜日であったが、智貴は朝からどこかへ出かけるつもりらしい。もしやと思った琴美が聞いたところ予想通りの答えが返ってくる。

 

「に、日曜なのに大変だね」

「まあ、昼までだから」

「そっかー、あ、じゃ、じゃあ、えと……」

 

 あまり長く引き止めても悪いと思った琴美ではあったが、最後にこれだけは言っておきたいと、もじもじしつつもその言葉を口にする。

 

「いってらっしゃい! がんばってね」

 

 花の咲くような笑顔で、琴美はこれから部活に励まんとする智貴へとねぎらいの言葉をかけてやる。今までこのようなシチュエーションを想像はしても、実際には許される筈もないと思っていたことだ。しかし今、琴美はそれを堂々と実行してみせた。頑張り屋な弟を姉が見送ってあげるのは当然のことだから少しも不自然ではないと、そのような思いが琴美を後押ししていたのだ。昨晩は寝床の中で目を閉じながら今後の生活について思案していた琴美は、もし機会があればこのようなことも是非やってみたいと密かに考えていたのである。

 

「お、おお……」

 

 そうした姉からのお見送りを受けてか、智貴は少しばかり動揺した様子を見せた。今の自分ができる精一杯の可愛らしい声色で喋ったつもりの琴美であったが、そのような彼の態度を受けて首をかしげてしまう。

 

「ど、どうしたの?」

「いや……なんか、昔の姉ちゃんみてーだなって……」

 

 何かおかしなことをしてしまったかと心配した琴美がそのように尋ねてみれば、彼女から目を逸らした智貴は一言そのようにだけ答えてさっさと部屋から出ていってしまった。今しがたのお見送りの言葉は智貴にとって少なからず琴線(きんせん)に触れるようなものだったのだろうか。彼の口ぶりからすると、いつ頃かは分からぬがあの智子もかつては部活へ赴く弟を先程の自分と同じように見送ってあげていたのかもしれないと、琴美はそのように思う。それはつまるところ、今となっては失われてしまった姉弟の(なら)わしであることをも(うかが)わせた。

 

(大きくなったらどこもそんな感じなのかなー……)

 

 実際は今の智子だって早朝から部活に出掛ける弟を気まぐれに見送ってやることが(まれ)にあったりするのだが、そのようなことを知る由も無い琴美の中では憶測が広がっていく。

 

(私だったら、毎日お弁当とか作ってあげるのになぁ)

 

 自分だったらああするし、こうもしてあげたい。こんなことだってしてみたい。そんなふうに己が姉の立場になった時のことを想定して、愛してやまぬ大切な弟のために何ができるだろうか、どんなふうに尽くしてあげられるだろうかと、上げ膳据え膳のゆったりした朝食の中で琴美はあれやこれや楽しい想像を膨らませていくのだった。

 

 ◆

 

「えっ? ジャージ?」

「あっうん、他にないのかなーって思って……」

 

 二階のベランダで洗濯物を干していた母に、琴美は探しものの所在を尋ねに行った。昨日自分の着ていたジャージは既に洗濯中であったから、替えはないのだろうかと思ってのことだった。

 

「大丈夫よ、今日中に乾くから」

「あっ、じゃなくて……その、いま着たいっていうか……」

 

 体育の授業で使うのならわざわざ替えなど用意する必要はない訳だから、母はそのように答える。しかし琴美としては学校の授業とは関係なしに、本日その着用を所望しているのであった。今日は智子との約束のため、(くだん)の神社へ足を運ぶつもりでいた琴美であったが、それにあたって運動着を着ていくつもりなのだ。また智子と一緒に石段から転げ落ちたりするのなら、そうした装いで挑むのが良いだろうと考えてのことだ。

 

「寒いの? 別にジャージじゃなくてもいいじゃない」

「あっ、でもなくて……えーと、その、ちょっとランニング的なのしてこようかなって……」

 

 そうした琴美の思惑を知らない母であったから、単に肌寒さをしのぎたいのなら他にいくらでも着るものがあるだろうと諭す。しかしそうではないのだと、琴美は理由を口にしてみせた。要するにこれから汗を流しにいくのでジャージが欲しいと訴えているのだ。

 

(ほんとのこと言う訳にもいかないしなー……)

 

 ランニングなどという、なんとも取って付けたようなその理由であったが、なにしろ騒動が起きたのは昨日の今日だ。母としてもまだまだ娘が心配な筈であったから、あの智子と会いに行くつもりだとはとても言えない琴美であった。

 

「どうしたの急に……? そんなのいつもしてなかったじゃない」

「あーいや、うーん……」

 

 案の定、そのような言動を母に不審がられてしまった。休日ともなれば日がな一日家にこもってゲームしたりアニメを見たり、はたまたネットサーフィンなどに没頭するのが智子の常であったから、こうした反応は当然とも言える。あるいは、己の娘が普段やらなかったような行動は今後それとなく咎めていくつもりなのかもしれない。ともあれなんと言えば母に納得してもらえるのだろうかと、琴美はどうにか考えを絞り出していく。

 

「な、なんか運動したくなってさー。そのっ、と、ともきも部活頑張ってるし、私も怠けてちゃ駄目かなーって……」

 

 どうかこれで納得してほしいと、琴美は智貴を引き合いに出してそれっぽい理由をでっちあげてみせる。しかしその態度には内心の動揺がありありと浮かんでいた。こんな風に嘘をついたり何かを誤魔化したりするのが本当は心苦しくてたまらないからだ。それは琴美なりの道徳心にもとづくものでもあったが、とりわけ嘘がバレないようにあれこれ取り繕う時のプレッシャーが彼女はたいへん苦手なのである。

 以前ちょっとした出来心から己の後輩を騙してしまった際、多大な心労を背負う羽目になった挙げ句、結局嘘がバレて非常に気まずい思いをした苦い経験が琴美にはあった。幸いその時の後輩からは寛大な心で許してもらうことができたから、それ以後、琴美はもうつまらない嘘など無闇につくまいと心に誓っていたのだった。

 

「……じゃあちょっと待ってて」

 

 ともあれ琴美の苦し紛れの嘘がどうにか通用したのか、やや困惑した様子ながらもそれ以上追及するのをやめたらしい母は洗濯物を干すのを中断し、一旦家の中に戻ってからベランダ手前の部屋へと入っていってしまった。そこは納戸(なんど)代わりに使われているのか、幾つものタンスや家財がそこかしこに置かれている。

 

「ほら、これ着てきなさい」

「あっうん……」

 

 やがて母がひとつのタンスから上下揃いのジャージを取り出し、それを琴美に手渡してくる。そのやや小ぶりなジャージはサイズ的にも今の琴美の体に見合ったものであったが、見覚えのある校章が刺繍されたそれは中学生時代の自分や智子がかつて着用していた学校指定の品であることに琴美は気付く。随分長いことタンスの中に仕舞われていたからか、そうした衣類に特有のやや古ぼけた匂いが鼻腔をほのかにくすぐった。

 

(あれっ……これもしかして……?)

 

 瞬間、琴美の鼻が()()に鋭く反応した。その何かを改めて確かめるように、彼女は手にしたジャージに鼻を近づけスンスンとその匂いを嗅いでみる。

 

(こ、この汗の匂い……! 間違いないっ……!)

 

 しっかり洗濯された上で仕舞われていたから、感じ取れたのはほんのわずかだった。しかしそうした微々たる証拠であっても琴美にしてみれば十分であった。ジャージを持つ彼女の手がにわかに震え始める。

 

「あのっ! これっ! もしかして、と、ともきのっ!?」

「えっ? そ、そうだけど……」

「やっぱり……!」

 

 突如素っ頓狂な声を上げ、琴美は心に思っていたことを母に確認する。急に落ち着かない様子になった娘からのそうした質問に、母はひとまず同意してみせた。しかし彼女としてはタンスの中から適当なものに目をつけて取り出しただけに過ぎなかったから、どうしてこのような反応をされるのかがさっぱり分からない。

 

(智貴くんが中学の時に使ってたジャージ(おたから)やん……!)

 

 驚くべきことに、琴美はこのジャージに残っていたわずかな体臭からその元々の持ち主が一体誰であったのかをすぐさま特定したのだ。愛のなせる(わざ)と言うべきか。今は智子の体を借りている琴美であるが、彼女のその魂の力が、肉体の感覚器官にそなわるポテンシャルを十二分に解放したが故の芸当だったのかもしれない。

 

(着ちゃってもいいのか!? マジで!?)

 

 良い香りのするその貴重な品を思いがけず(たまわ)った琴美であったから、(おそ)れ多さのあまり身震いしてしまいそうだった。

 

(いや、良いに決まってる……だって家族だもんな……弟のジャージを姉が着たって、全然おかしくないもんな……!)

 

 そのように都合よく解釈してしまえば、まるで免罪符(めんざいふ)を得たような心もちだ。そうしていよいよ琴美の胸はドンドコ、ドコドコと太鼓のように鳴り響いていく。これはもう今すぐ自室に飛び込んで、己の身を包む「あの頃の智貴」を堪能せねば収まりがつかないのであった。

 

「ちょっと智子」

「えっ? あ、はい」

 

 しかしそんな琴美へ水を差すように、母はどこか真剣味の浮かぶ様子で声をかけてきた。それに返事した琴美は思わず敬語に戻りかけてしまったが、もしやジャージを取り上げられてしまうのではと脈絡もなく妙な心配をしてしまう。いまやすっかりこの()()()()は琴美の所有物となっていたので、今更返すつもりは毛頭ない。

 

「それ、なんで智貴のだって分かったの?」

「えーと……そ、それはー……そのー……」

 

 ジャージには「黒木」と苗字が刺繍されているものの、それ以外に智貴の持ち物であることを示す情報は含まれていなかった。智子たちが通っていた中学では学年ごとにジャージの色が違うといったこともなく、代わりに目印となるようなバッジを付ける規則だったのだが、それも既に取り外されているようだ。サイズ自体も今の智貴の体格を考えれば随分小さめで、それはおそらく母が琴美のサイズに合うようにと見繕ったが故なのであろう。であるならば、これが智子自身のものであると考えても不思議ではないし、むしろそれこそが順当であると言える。にもかかわらずジャージを受け取ってすぐさまそれが智貴のものであると突き止めた琴美の言動に、母は何かしら思うところがあったようだ。

 

「いやっ、ほらっ、あれかな……そう、ここ、こことかの破け具合が……!」

 

 まさか「大好きな智貴くんのいい匂いで分かりました」などと、かの少年の母を前にして言えるわけもない琴美であったから、それ以外のめぼしい特徴を必死に見つけ出してみせた。確かに琴美が主張するように、ジャージのちょうど肘あたりにはどこかですりむいた際にできたような穴が少しばかり空いている。こうした些細な特徴を指して、琴美は己の鑑定の根拠とするつもりだった。

 

「そうね……それ、前に智貴が部活でケガした時のだものね」

「あっうん、そうそう……たぶんそれ……!」

 

 その場しのぎもいいところなあてずっぽうであったが、偶然にもそれは母を納得させるに足るものであったから、話を合わせつつも琴美はほっと胸をなでおろす。

 

「ほら……ちゃんと覚えてるじゃない。少しずつ思い出してきてるのよ」

「へっ?」

 

 芯から安堵したような、それでいて今にも泣き出しそうな様子を滲ませる母が、琴美の肩にそっと手を置きそのように言う。一方の琴美は、突然そのようなことを言われたものだから目を白黒させてしまう。

 

「やっぱりお医者様の言う通りね。そのうちきっと全部思い出せるようになるから……」

「あー、そ、そうかなー……?」

 

 お母さん、それは違いますと、本当ならそう否定してやるべきであった。母のこうした反応はぬか喜びに過ぎず、全ては誤った前提にもとづく希望的観測でしかないのだから。しかし愛おしげに頭を撫でてくる母の喜びようを見ていると、とても反論する気にはなれない琴美なのだった。もし本音を口にしたとして、それを聞いたこの人はどんな顔をするのだろうかと思うと、それが琴美にはなんだか怖くもあった。

 

「ま、まあそのうちね、そのうち……あはは……」

 

 故に琴美はその場しのぎの曖昧な態度を取ってしまう。変に誤解させてしまったものの、どのみち手を尽くして必ずや元の自分に戻るつもりの琴美であったから、わざわざ今ここでかの御母堂(ごぼどう)を悲しませる必要はないという判断もあってのことだ。

 ともあれ己の外出を咎められる気配は無いようであったから、智子との約束の時間に間に合うよう、琴美は早速自室に戻って支度をするのだった。

 *

(すごい……まるで風のよう……!)

 

 町なかを走り抜ける琴美は、己の体が羽毛のように軽く感じられてならない。走ることはこんなにも爽快なものであったのかと、普段の己の人並みでしかない脚力に慣れていた琴美はまるで自分が別人になってしまったかのような錯覚すら覚えた。事実その体はいまや全くの別人であったから、こうしたことは駆け足に自信のある智子の身体能力が発揮されていたが故のことと言えた。

 

(私はいま、智貴くんとひとつになっている……!)

 

 が、琴美としてはこうした恩恵が別のところからもたらされているのだと信じて疑わない。力の源はもちろん己の身を包む智貴のジャージであった。先刻、かの羽衣(はごろも)との合体を果たしてからというもの、なにやら体の奥底から力が湧いてきて仕方がないのだった。気分はもうフィールドを駆け回るサッカー選手。はたまた安打に成功した走塁中の打者。機会があるたび遠くから眺めたりしていた部活中の智貴のランニングフォームをそれっぽく真似た琴美はいま、走ることの楽しさを生まれて初めて実感していた。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 そんな調子であったから、待ち合わせ場所となる神社の鳥居の下へはあっという間に着いてしまった。智子の姿はまだ見当たらないようで、参拝に来たらしい老人などが境内へ続く石段をのぼったりしていた。ひとまず休憩でもしようかと、琴美はそのまま石段に腰掛ける。少し蒸し暑くなって胸元のファスナーを下げてみれば、己の汗と智貴の汗とが混じったような匂いがして、それがまた琴美の肌を(あわ)立たせるほどの陶酔(とうすい)をもたらしたから(たま)らない。はぁはぁと肩を上下させていたその荒い呼吸が、そのうち悩ましい吐息に変わってしまいかねない琴美なのであった。

 そんな琴美もやがて呼吸が整ううちに落ち着きを取り戻していったのだが、そうなると今度は智子のことが気になってしまった。持参してきたスマホで確認してみれば、待ち合わせ時刻はとっくに過ぎてしまっているようだ。ひょっとしたら自分と違って智子は母親から外出を咎められたりしているのかもしれない。もう少しだけ待ってもやはり来ないようなら一旦電話をかけてみようと琴美は考える。

 

「ぜぇー……ぜぇー……はぁー……」

 

 と、そうこうしているうちにようやく智子が待ち合わせ場所へとやってきた。見ればその様子は随分とくたびれており、息が上がりすぎて呼吸するのもやっとという具合だ。待ち合わせ時間に遅れないようにと必死で走ってきたからか、随分汗だくになっている。本来は己のものである筈のその姿がなんとも惨めな様相を呈していたから、琴美は一体どういう訳かこんなふうになっている智子のことが哀れになってしまった。

 

「あ、だ、大丈夫……?」

「あ……?」

 

 歩み寄った琴美が心配するような言葉を投げ掛けてみる。しかし智子のほうは意識が朦朧(もうろう)とするあまり琴美が見えていなかったのか、話しかけられたことでようやく相方の存在に気が付いたようだ。

 

「なんでそんな息切れしてんだ?」

「いや……走って、きたから……めっちゃ、走ったし……」

 

 素直な疑問を持った琴美からのその質問に、智子は途切れ途切れになりながらも答えた。

 

(そんな無理しなくても……)

 

 もしかしたら智子は家を出る時間が遅かったのかもしれない。母に引き止められていたのか、あるいは単に家を出るタイミングを見誤ったのか。ともあれ智子としても一応は自分と約束した待ち合わせ時間を律儀に守ろうとしたのだなと琴美は理解した。そうして智子の呼吸が落ち着くまで待ってあげることにした琴美は、そのまま黙って相方を見守り続ける。自分と同じくジャージ姿の智子であったが、着用しているそれはかつて中学生だった当時の己が使っていたものに違いないことを琴美は見て取る。

 智子もまた、先刻の自分と同じように母に頼んでお古を出してもらいでもしたのだろうか。外出するにあたってどのように母を納得させたのだろうか。「ランニング的なのしてこようかな」と、取って付けたような理由でも口にしたのだろうか。智子ならきっとそんなことを言いそうだなと、琴美の中でとりとめのない思考が広がっていく。

 

「こみさんさぁ……」

「えっ?」

 

 どれくらいそうしていただろうか、不意に声をかけられた琴美は我に返る。見ればようやく呼吸の落ち着いたらしい智子が……今は小宮山琴美としての姿をした智子が、眼鏡の奥の目元を不機嫌そうに歪めて琴美を睨んでいた。

 

「どうなってんのこの体? 足、遅すぎなんだけど?」

「そ、そう……?」

 

 刺すように自身の体を指先で鋭くつつく智子は、そのようなことを訴える。どうも智子にしてみると、今の己の身体能力にはまるで納得がいかないらしい。それはつまり、琴美の肉体についておおいに不満があるということだ。

 

「ちょい走っただけですぐバテちゃうし……なんか体も重いし……おまけにちょっと臭いし……マジえげつーねぐらい『ゼロの者』だし……」

(コイツ……ッ!)

 

 自分の本来の体にあれこれケチを付けられて、琴美も段々と不愉快な気持ちになってきた。特に最後の一言は聞き捨てならない。この口ぶりからすると、智子は昨晩風呂にでも入る際に()()()()のだろう。恥ずかしいような、悔しいような、恐ろしいような、複雑な気持ちが琴美の中で渦巻いた。智子は果たして今の己の体を大切にしているのだろうか。もしかすると随分ぞんざいに扱っているのかもしれない。だとしても、現在の自分にはどうすることもできない。いまや本来の体は智子に奪われてしまったも同然なのだから。サラサラで艶やかになるようにと日々手入れをかかさないでいたその髪も、面倒臭がりな智子にかかれば程なくしてボサボサになってしまうだろう。もしかしたら風呂にだって入らない日があるかもしれない。

 

(くそ──! 絶対元に戻ってやるからな──……!)

 

 もとよりそのつもりでいた琴美であったが、改めて危機感を募らせる。このまま智子に己の体を預けたままでいたら、きっと悲惨なことになってしまうに違いない。そのようなみっともない姿を智貴に見られでもしたら、幻滅されることは避けられないだろう。近頃は智貴と学校で話す機会も(多少は)増えてきたし、まさか貰えるとは思っていなかったバレンタインデーのお返しの品までプレゼントされたのだ。こんなふうに順調な進展を見せている智貴との仲であったから、それを智子のせいで台無しにされては敵わない。

 

「ほら、これ」

「?」

 

 歯噛みしつつ思考に沈んでいた琴美であったが、智子が差し出してきたものを見て、相方と交わしてあったもうひとつの約束を思い出す。

 

「ああ……じゃあほら」

「おう」

 

 差し出された品を受け取った琴美はお返しにと、自身のポケットからも似たようなものを取り出して智子に渡す。ふたりが交換したもの、それはスマホの充電ケーブルだ。今後どのくらい入れ替わり生活が続くのか見通しが立たない状況であったから、ひとまずスマホの充電を切らしてしまわないための必需品ぐらいはこうして持ち寄ることになっていたのだ。昨夜の長電話のせいですっかり充電残量も心許なくなっていたから、おかげで昨日の昼から行われたロッテの試合結果もいまだネットで確認できていない琴美なのであった。

 

「あー……じゃあどうする? またあそこから転がってみるか?」

 

 ともあれ本日この場に集まった本題へと踏み込んだ琴美が、鳥居の先に伸びる石段のほうを指差してそのように言う。周囲に生い茂る木々が風に揺られて音を鳴らすたび、石段に落ちる柔らかな木漏れ日もそれに合わせてゆらゆら揺れた。こうして見ると中々に風情のある場所であるが、あいにく今の琴美にそれを楽しむ余裕はない。なんとなれば、ここで自分と智子は厄介な超常現象に巻き込まれた訳であったから、むしろ得体の知れなさすら感じてしまうのだ。

 

「うんにゃ、私に考えがあんだよ」

 

 琴美の提案を断った智子はそのように言う。どうもこの場を訪れるにあたって彼女なりに計画していたことがあるようで、その口ぶりからは少なからず自信ありげな様子が垣間見えていた。

 

「こみさんみたくなんでもかんでも闇雲にやってちゃあダメだ。頭を使わねーとな」

「ほぉー」

 

 随分な言われようだが、智子なりの考えがあるというのならそれを聞いてみようという気になる琴美。どのみち彼女としても、何をどうすれば元に戻れるのかなど皆目見当がつかないでいるのだ。

 

「今日私たちがやるべきことは『トレース』だ。昨日の私たちがここでやったのと同じことを、イチから十まで全部トレースすんだよ」

 

 智子の考えは、つまりそういうことだった。一体どのようなことが要因となって入れ替わり現象を発生させたのか分からないのなら、ひとまず昨日の自分たちの諸々のおこないを今一度改めて再現してみようということらしい。もしかしたらその過程でなにかヒントが見つかるかもしれないし、運が良ければ再び入れ替わり現象が起きて元に戻れるかもしれない。また、再現するのは行動だけではない。本日の集合時間もまた、昨日の琴美と智子が神社近くの松林へゴミ拾いをしに訪れたのと同じ時間帯が指定されてもいたのだ。

 

(なんだよ、ちゃんと考えてるんだな……)

 

 頓珍漢な意見が出てくるのかと構えていた琴美であったが、一通り説明を聞かされたあとはむしろ納得させられた。これならば、ひょっとすると有用な手がかりが見つかるかもしれないと思えたからだ。と同時に、智子も智子で真剣に今回の件への対処を考えていたのだということが分かって少しばかり感心したような気持ちにもなる。それだけ智子も元に戻りたくて必死なのだろう、事態を(うれ)えているのは自分だけではないのだと、同じ悩みを共有する者として、なにやら智子のことがほんのちょっぴり頼もしく映るのだった。

 

「これより作戦を開始する!」

 

 ともあれやることは決まった訳であるが、気合いを入れるためなのか、智子が急に声を張り上げ芝居がかった言葉を口にする。なんとも似合わぬことをするものだと、その様子を琴美が黙って見ていれば、やがてちらりと視線を向けてきた智子が恥ずかしそうに口を尖らせた。なにかしら追随(ついずい)を期待していたのかもしれないと、相方の気持ちに気付いた琴美は、ひとまず「お、おー……」と控えめに拳を作ってやったりするのだが、それが却ってふたりの間に沈黙をもたらしたので、なんとも格好がつかない。

 

「あ……じゃ、じゃあ、ちょっと飲み物買いに行こっか?」

「あっうん」

 

 先に口を開いた智子が遠慮がちにそう促してきたので、琴美は言葉少なに同意する。昨日の状況を再現するにあたり、冷たい缶飲料は欠かせないアイテムだと智子は考えているようだ。そんなこんなで、まず手始めに近場の自販機へと買い出しに向かうふたりなのであった。




つづく
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