もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(5)

智子の帰還(仮)

 

 昨晩のこと──。

 

「あのっ、それ違います! 私たち、絶対そんなんじゃないんです!」

「ええそうね、確かにそんな気がするのよね? 大丈夫よ、今はそれでもいいの。だけどね智子」

「と、智貴くんのお母さんっ、待ってくださいって! それ、ほんと違うんですってば!」

「智子、落ち着いて……ね? 聞いてちょうだい、お医者様はこう言ってたの」

「ヤブなんですよあそこの病院! あの先生、こっちの言うことなんてちっとも聞きやしないんですから」

「そんなことないのよ? 先生はちゃんと診てくださってるわ。あなたを治すにはどうしたらいいかも教えてくださったの」

「治すもなにもありませんよ! 何度もお伝えしてるじゃないですか、私は智子さんじゃないんです」

「智子お願い……ちょっとだけでいいから聞いてほしいの。今から言うことは全部あなたのためなの。お医者様の言うことを守ればきっと本当の自分を思い出せるようになるわ」

「ですから、その前提が間違ってるんですよぉ……。本当の自分なんてそもそもないんです。こうしてお話ししてみてもわからないんですか? 性格もしゃべりかたも全然別人でしょう? それは智子さんのなかに今、小宮山琴美である私が入ってるからで──」

「違うわ智子、あなたは智子。あなたの名前は()()()()。私とお父さんの娘なの。このおうちの子供なの」

「違いますよっ、私はあなたの娘さんなんかじゃありません! 私は小宮山です! こみやまっ、ことっ──」

 

 夜も遅くにとあるお宅から聞こえてくる母娘の口論じみた不毛なやりとりは、やがて母の諭すような声がすすり泣きへと変じたところで終息したのだった。

 

 ◆

 

「んほぉおお────っ!!」

 

 松木立ち並ぶその広々とした空間に、智子の悩ましげな絶叫がこだまする。そんな彼女の背後には、缶ジュースを手にした琴美が立っていた。

 

「おいっ、変な声出すなよ……!」

 

 まるで喘ぎ声のような智子の叫びに、琴美は語気を荒らげずにはいられない。本日の試みの一環として、琴美は缶ジュースを遠慮がちにほんのちょっぴり智子の首筋へ押し当ててみたのだが、それに対する反応がおおげさ極まりないものであったからだ。

 林の中には神社の参拝ついでに立ち寄ったらしき客や、ボール遊びに興じる親子連れの姿が見られたが、騒がしい智子たちの様子に一体何事かと面食らっているようだった。

 

「でも昨日のこみさんこんな感じだったよ」

「嘘つけ! あんたがおおげさにしてるだけだろ!」

 

 四つんばいの姿勢になっていた智子が言い訳をするが、本来の自分の姿かたちでもってこのような痴態を人前に晒されたのでは敵わない。恥ずかしいやら腹立たしいやら、智子がふざけているのだと思った琴美は顔を赤くしつつも反論する。

 

「いやいやホントだって。自覚ないの? めっちゃ変な声で叫んでたからなおまえ」

「……マジで?」

 

 しかし智子がなおも言い張るものだから、琴美のほうも段々と自信がなくなってきた。確かに言われてみれば大声で叫んでしまったような気もするので、もしかすると仰天するあまり声が裏返るほど取り乱していたのかもしれないと、そのように思えてくるのだった。

 

「んじゃ、次は追いかけっこだな」

 

 さっと立ち上がった智子が、傍らによけておいた己の缶ジュースを拾い上げると、そのまま残りを一気に飲み干してみせた。自販機でお互いの飲み物を買ったあと、琴美と智子は昨日の出来事を再現すべく神社近くの松林でしばらくゴミ拾いの真似事などをしていたのであるが、プログラムは順調に進行しているようだ。

 

「ほら、走って」

「あ、うん……」

 

 いまのところ手がかりらしいものは何も見つかっていないが、まだまだこれからということで、今度は林の中における追走劇を再演することになったふたり。促されるまま走り出した琴美のあとを追いかけるように、智子もそれに続いていく。

 

「まてこらー」

 

 誰かの真似でもするように、智子が拳をふりふり声を上げたりもするが、その走りようはなんともノンビリしたものだった。息を切らしつつも鬼の形相で獲物に食いつかんとしていた本来の琴美の狂犬ぶりとは似ても似つかない。

 

「おい、真面目にやれよ」

 

 そうしてみるみるうちに距離の空いてしまうふたりであったが、足を止めて振り返った琴美が、遅れてやってきた智子に注意する。できるだけ昨日の出来事を再現してみようと提案したのは智子なのだから、いいだしっぺがこれではいけないと思ってのことだ。

 

「んなこと言ったって、こっちはマジで疲れてんだよ……。おまえんちからここまで全力で走ってきたんだぞ? 死ぬかと思ったわ」

「あ、そ、そっか……」

 

 どうも智子は待ち合わせ場所に来た時点ですでに力尽きてしまっていたらしい。故に今改めて調子よく走り回る元気はもはや残っていなかったようだ。本来の自宅からこの近辺までの距離に思い至った琴美はさもありなんといった気持ちになる。自転車ならともかく、走ってここまでやってくるのは元々の自身の脚力を思えばそこそこ骨の折れるものに違いなかったからだ。

 

「それよりほら、こみさんジュース飲んでみてよ。走りながらで」

「えっ? ああ、うん」

 

 そうして智子からまた促された琴美は、ポケットから己の分の缶ジュースを取り出した。これもまた昨日の再現のひとつで、怒り狂う琴美から逃げ回っていた智子は己の余裕を見せつけるように走りながら水分補給をしてみせていたのだ。

 ともあれふたりは再び走り出す。今度は智子のペースに合わせようと、琴美のほうもゆったりとした走りだ。そうして缶ジュースのフタを開けた琴美はそれをちびちび飲み始めるが、走りに合わせて揺れる中身がいちいちこぼれそうになるものだから、飲みにくいことこの上ない。

 

「ぶほっ!」

 

 そんな琴美の頭に突如、背後から何かがスコンと小気味よく当たった。驚きのあまり口に含んだものを噴き出してしまう琴美であったから、たまらずむせてしまう。

 

「ゴホッ……てめっ……なにすん……!」

「あーすまんすまん。当たっちゃった」

 

 またしても足を止めて振り返ってみれば、悪びれた様子もない智子がそのように謝った。琴美の足元には空き缶が転がっていたが、どうもこれを背後からぶつけてきたのは智子のようだ。

 

「いやほら、昨日こみさんもここで私に空き缶投げてきたじゃん。その再現をちょっと」

「ゴホッ、ゲホッ……はぁ……?」

 

「ま、私はちゃんとよけたがな」と主張する智子の言い分によれば、どうも昨日の林の中における追走劇の途中、同じように琴美が空き缶を投げつけてきたということらしい。神社のほうでなら確かに何度か似たようなことをやりはしたが、林のほうでもそのような一幕があっただろうかと、琴美はさかんに咳き込みつつも当時を振り返る。彼女としても智子を追いかけている最中は手にした空き缶を全力でぶつけてやるつもりでいたから、身に覚えがないとも言い切れないのだ。

 

(ひと声かけるぐらいしろよなー……ったく)

 

 あの時は自分も怒り狂っていたから、ひょっとしたら智子に挑発されるうちに無我夢中で放り投げたのかもしれない。いつの間にか手元から無くなっていた空き缶は、そうして失われたのだろうかと琴美は考える。が、それにしたって不意打ちのような真似はやめてもらいたい。というよりわざわざジュースを飲もうとしていたタイミングを狙ってやったとしか思えない琴美であったから、なにやら自分が智子に遊ばれているような気持ちになってしまう。どれだけ外見が変わっても中身は相変わらずなままの智子にため息が出そうな琴美であった。

 

「おいっ、おまえそれ……!?」

「えっ?」

 

 なにやら急に顔色を変えた智子が、ジャージの袖で口元をぬぐっていた琴美の腕を急に掴んできた。すると智子はその肘の辺りをまじまじと観察し始める。

 

「テメー、これ弟のじゃねーか! なに勝手に着てやがんだっ!」

「あっ、いや、これはその……!」

 

 どうも智子は、琴美の着ているそのジャージが自身の弟のものであったことに目ざとく気付いたらしい。それ故に彼女は目の色変えて激しい剣幕で琴美に詰め寄った。

 

「ウチん中漁ったのか!? この泥棒ヤローッ!」

「違うって! お、お母さんが出してくれたんだよ!」

 

 智子の怒りようは随分なものであったから、琴美は必死に釈明する。腕を掴んだまま揺さぶってくる智子の力は随分と強かったので、もう体ごと振り回されてしまいそうだ。手に持つ飲みかけの缶ジュースもたまらず取り落としてしまった琴美は、ともかく智子をどうにか引き剥がそうとする。

 

「脱げよ! ほらっ!」

「ちょ、やめっ……!」

 

 琴美が弟のジャージを着用していることが余程気に入らないのか、ついには強引に脱がせにかかった智子が力まかせにジャージを剥ぎ取ろうとする。抵抗しようにもすっかり力負けしてしまう琴美だったが、たまらず相方の顔を手で押しのけたところ、そのまま智子が掛けていた眼鏡までをもずり落としてしまう。途端、視界のぼやけてしまった智子は咄嗟に眼鏡を拾い上げようとしたから、その隙に琴美は脱兎のごとく逃げ出した。

 

「待てコラァ──!」

 

 そんな琴美のあとを、眼鏡を掛けなおした智子が怒鳴りながら追いかける。最早そこに先程のようなノンビリした様子は微塵もなく、残る力を振り絞るかのように全力で走ってみせていた。そんな智子の剣幕にすっかり気おされた琴美は、恐れをなして林の中を逃げ惑う。捕まれば身ぐるみを剥がれ丸裸にされてしまいそうな気さえしてきたから、彼女も彼女で必死だった。

 が、しばらく智子から逃げ回るうちに琴美は落ち着きを取り戻してきた。最初こそ焦りを感じていた彼女であったが、どうもさほど警戒する必要はなさそうだと思えてきたのだ。その理由は自身の身軽さにあった。驚くほどに体がよく動く今の琴美だったから、あちらこちらを縦横無尽に走り回って智子を翻弄することにさほど苦労しなかったのだ。

 

(ははっ……なんか猿みたい……!)

 

 林の中には長年の土壌の侵食でその巨大な根をすっかり地表に露出させた松などもそこかしこに生えていたが、足をからめ取られかねないこうした障害物のような根も琴美はホイホイと身軽に飛び越えていく。一方の智子はというと、これがもうすっかりおぼつかない足取りで松の根を避けてよたよた走ったりするものだから、そんな彼女の鈍臭い様子が益々琴美を安心させる。

 

「ほらほらオソムシ、なにしてんだよ」

 

 すっかり調子づいてしまった琴美は、あたかも昨日の仕返しと言わんばかりに普段ならしないような安い挑発までしてみせる。己の体がこんなにも身軽に動くことが楽しくて、それが琴美を変に高揚させてしまったようだ。

 

「ひぃ……ひぃ……ちくしょう……! なんだよこれ……! なんなんだこれ……!」

 

 やがて走ることもままならなくなった智子はやむなくトボトボ歩きに切り替えたのだが、しばらくするとそれすらできなくなったようで、とうとう彼女はその場に倒れこんでしまった。

 

(あっやばっ……!)

 

 智子のほうから一方的に突っかかってきたといえど、(いささ)かやり過ぎてしまったかもしれない。心配した琴美は倒れ伏した智子の近くまで駆け寄って様子を窺う。よくよく考えずとも今の智子の体は元々己のものなのである。その分身とも言える存在にこのような無茶をさせてしまったことを、琴美は今更ながらに後悔してしまった。

 

「あ、ご、ごめん……その、おまえがいきなり変なことするから……」

 

 智子の傍らにしゃがみ込んだ琴美がそのように声をかけてみるが、智子は顔を伏せたままぜいぜいと荒い呼吸を繰り返すばかりで返事をしない。

 

「うわっ!?」

 

 と、伏せたままの智子が急に手を伸ばし、琴美の足首を掴んできた。突然のことに尻もちをつく琴美であったが、これは罠にはめられたかと思い、慌てて立ち上がろうとする。しかしそんな琴美が足を一振りしただけで、智子の手は容易く離れてしまうのだった。

 智子にはもう、相方を掴む力すら残っていないのかもしれない。振り払われた手はそのまま何かを求めるように虚空を漂っていたが、それはあたかも智子の魂が本来の体を探してさまよっているかのようであった。

 

「……」

 

 このような智子の様子が見ていられなくなったからか、一度は距離を置いた筈の琴美が遠慮がちに歩み寄る。そうして何を思ったか、今度は智子の手を自ら取り、安心させるようにぎゅっと握り締めてやるのだった。

 それは果たして琴美の本心だったのか。あるいは琴美が借り受けているその肉体が、本来のあるじの求めに応じたからなのか。ともあれ琴美は自身の手のひらを通して智子の体温を感じ取る。汗ばんだ智子の手のひらはじっとりしていたが、それを不快に感じることはなかった。それどころか却ってその湿り気が自分と智子とを接着してひとつにしてしまうような、心地よくも不思議な感覚が広がっていく。

 そうしてどれくらい時間が経っただろうか。やがて智子のほうから手を離したことで、ふたりのつながりはそこで途切れてしまった。途端、手のひらが外気に晒されてひんやりしたものだから、そのことが琴美にほんのちょっぴり寂しい気持ちを湧き起こさせるのだった。

 

「は───……」

 

 やがてむっくり上半身を起こした智子は、そのままあぐらをかいた姿勢を取ると長いため息をついてみせる。その表情には先程までの怒りの感情は見られず、代わりにすっかり疲れてしまったような色が浮かんでいた。

 

「帰ろっか」

「えっ?」

 

 かと思えば、唐突にそのようなことを言い出す智子。彼女の視線は琴美に向いておらず、先程から地べたをぼんやりと見つめている。ジャージの件はもうどうでもよくなってしまったのか、そのことについて言及してきそうな気配はない。

 

「いいのか?」

「うん……今日はもういい。また今度にする」

 

 どうもこの様子からすると本当に智子は疲れきってしまったらしく、これ以上の作戦続行を断念するつもりのようだ。まだまだ再現すべきことは残っている筈だったが、先程の追走劇が智子を随分と消耗させてしまったことを琴美も理解したものだから、それ以上引き止めるようなことは言わなかった。

 

「おまえのチャリ貸してくれよ。私んちに置いたまんまだろ?」

「あっうん……でもあんた、乗れないんじゃなかったっけ?」

「いつの話だよ。もうフツーに乗れるわ」

「ああ、そうなんだ。じゃあいいけど……」

 

 智子にはもう徒歩で小宮山家まで戻る体力が残っていなかったからか、昨日琴美が乗りつけてそのまま黒木家に放置されていた自転車を貸してほしいと頼んできた。断る理由も無いし、なにより随分と無理をした智子の具合が心配だった琴美はそれを承諾してやる。

 ともあれ一旦黒木家へと向かうべく、ふたりは連れ立って松林をあとにした。うっかり置き忘れたりすることもなく、琴美の両の手には用済みとなった空き缶ふたつが握られているのだった。

 

 ◆

 

「あっ、た、ただいま……!」

「あらおかえり。どうだった?」

 

 黒木家へと戻った琴美は、まずリビングに顔を出して己の帰宅を母に知らせた。娘の突拍子もない行動はさておき、確かに一汗流してきたらしいその様子を見て取った母は感想を尋ねたりする。

 

「あっうん、まあぼちぼちかなー」

 

 ひとまず無難な答えを返した琴美であったが、ある意味智子とふたりでランニング的なものに励んだとも言える訳であったからあながち嘘でもない。外出する際の言い訳が図らずも一応は真実となってしまったのだ。

 

「ほら、今のうちに……!」

 

 そうして玄関へと戻った琴美は、開け放たれたままの玄関扉の裏側に潜んでいた智子に小さな声で呼びかけた。周囲の様子を窺いながらも姿を現した智子はそのまま玄関扉をそっと閉じ、靴を脱いで家の中へと上がり込むと、仕上げに自分の靴を下駄箱の中へ手早く隠す。忍び込むといった表現がぴったりな智子のこうした行動であったが、そもそも自転車を借りに来ただけの彼女がなぜわざわざ家の中にまで上がり込むことになったのかと言えば、黒木家へ着くや急に智子がそうしたいと言い出したからだ。

「いくつか私物を持っていきたいから」という理由を付けていた智子であったが、一日ぶりに見る我が家を目の当たりにして恋しくなってしまったのかもしれない。そのように考えた琴美は、後ろめたさを感じつつも家人(かじん)に内緒でこうして智子をこっそり家の中に招き入れてやるのだった。ともあれふたりは派手な足音を立てないように注意しつつ、そのまま階段を素早くのぼっていく。目指す先は智子の自室だ。

 

「やれやれ……自分ちだってのに、なんでコソコソしなきゃなんねーんだか」

 

 ベッドにどっかと腰をおろした智子が、ため息混じりに愚痴を漏らす。騒動が起きたのは昨日の今日であったから、彼女としても今の自分が黒木家に上がり込むことで新たな騒ぎを生み出しかねないことぐらいは分かっているが、文句のひとつも言いたいのだ。が、その様子は幾ばくか気が和らいでいるようであったから、やはり自室は彼女にとってなによりも落ち着ける場所なのだろう。

 

「あー昨日は全然眠れんかったわー。やっぱ寝床はこうでないとな」

 

 己が普段愛用してきたベッドに寝そべり体をうずめながら、智子はそのようなことを言う。昨晩は快眠できた琴美であったが、智子のほうはそうもいかなかったようだ。

 

「こみさんさぁ、あんな地べたで寝たりして体とか痛くなんないの?」

「いやまぁ、特には……」

 

 カーペットの上にぺたりと座り込んでいた琴美は、智子からの質問に対してそう答える。琴美の自室にはベッドなどは置かれておらず、就寝時は畳に直接布団を敷いて寝るのが慣わしだったのだが、別段それを苦に思うことは無かったのだ。しかしこうしたことは普段ベッドを寝床としている智子からすると違和感しかなく、随分と寝心地の悪さを感じていたようだ。

 

「しっかしおまえの部屋、ほんとつまらんもんしか置いてないのなー。なにあの『チバダマシイ』とかいう本。あんなん読んでて面白いの?」

 

 一日ぶりに帰ってきた自室と小宮山家のそれとを比較したからか、寝返りをうつ智子がそんなことを口にする。

 

「面白いから買ってんだよ。興味ないなら触んな」

「いやまあヒマだったもんで……。てかこみさん小説とか読んでるんじゃなかったっけ? 探してみたけどなんかそういうの全然見つかんなかったぞ。もしかしてエアプ勢なんか?」

「そういうのはお母さんの部屋にあるんだよ。いいから余計なことすんなって、私の部屋なんだぞ」

 

 智子は退屈しのぎに相方の蔵書へ手を出してもみたようだがまるでお気に召さなかったらしい。地元球団に関する裏話が盛り沢山な〈千葉魂・マリーンズ挑戦の日々〉シリーズは琴美イチオシの愛読書であり、彼女の部屋の本棚にはその既刊分がずらりと並んでいるのだが、大事にしているコレクションも野球に興味のない智子にとっては「くそつまらん」の一言で片付けてしまえるものでしかなかった。それでいて暇つぶしのためにわざわざ引っ張り出してくるのだからタチが悪い。興味本位で雑に読まれてページを破られでもしたらどうしよう。部屋には父から受け継いだ野球関連書籍なども所蔵されているのだが、そうした遺品までもがいまや無防備な状態にあるということは琴美にとってのストレスであった。

 

「あーはいはい。こっちだって本当は他人の部屋で寝泊まりなんかしたくないんだよ。なんでよりによってこみさんちなんだよ。まーでもアレだわ、あんなくっそつまんない部屋で毎日生きてるこみさんのこと、なんかちょっとかわいそうになっちゃった」

「ぐっ……!」

 

 口の減らない智子のぞんざいな物言いにカッとなり、思わずその憎たらしい横っ面をひっぱたいてやりたくなる琴美であったが、それすなわち己本来の肉体を痛めつけることにもなってしまうのだからもどかしい。いつなんどき自身の想い人からの恩寵を賜る機会(ほっぺにチュウ)が訪れてもいいようにと日々のケアを欠かさないでいるその柔肌に、いっときの感情で紅葉(もみじ)を作ってしまう訳にはいかないのだった。

 

(ほんと腹立つなーこいつ!)

 

 行き場のない怒りが胸の内に広がり、琴美は歯噛みせずにはいられなかった。配慮のない他者によって己のプライベートな空間が不躾に値踏みされ貶められている。のみならず好き勝手に荒らされるかもしれない。それは琴美にとって、そして誰にとっても不快で不安で、そして許しがたいことであった。

 

「あっ、なに勝手に動かしてんだよ!」

 

 と、おしゃべりの途中で何かに気づいた智子が勢いよく起き上がると、部屋の脇に置かれていたぬいぐるみ達へと歩み寄る。琴美に気味悪がられて壁のほうを向かせられていた彼らであったが、この部屋の(ぬし)である智子はそれが気に入らなかったようだ。

 

「ふぃー、やれやれ……」

 

 ふたつのぬいぐるみを抱き上げた智子はそのまま座椅子にぽすんと座り込み、彼らをはべらせおもむろにテレビの電源を付ける。そうして録画しておいたらしいアニメを再生させる智子であったが、ぽけっと口を半開きにするその姿はずいぶんとリラックスしているようだ。単に私物を取りに来ただけにしては随分と悠長であったから、あるいは元からこのようにして居座るつもりだったのかもしれない。

 

(大丈夫かなー……)

 

 先程の怒りにひとまずの区切りをつけた琴美は内心でため息をつきつつこれからのことを考える。智子にこのまま長居されて家人にバレでもしたらまた面倒なことになりそうだとは思いつつ、ともあれ智子の気が済むまでしばらく寛がせてみようかと、何も言わず相方の様子を見守ることにした。昼以降に放送される予定のロッテのデイゲーム中継が始まる頃までにはテレビを明け渡してもらえればいいかと考える琴美は、おもむろにポケットから取り出したケーブルを部屋のコンセントに差し込み、それを己のスマホと接続して充電を開始する。

 

(あっ、だめだこりゃ)

 

 手持ち無沙汰な琴美は、充電しつつ昨日のロッテの試合結果でもチェックしてみようと思った。しかしスマホのバッテリーはいつの間にか完全に底をついてしまっていたようで、今すぐには利用ができなくなってしまっていた。こうなってはある程度まで充電されるのを待つほかない。

 

「智貴は?」

「えっ?」

 

 ことわりを入れてパソコンでも使わせてもらおうかと考え始めた琴美であったが、相方からふいにそのようなことを聞かれてしまった。いま智貴はどうしているのかと、智子はそう質問しているのだ。

 

「あー……ぶ、部活みたいだけど」

 

 ひとまずそれに答えた琴美であったが、それを聞いた智子はうしろを振り返ってパソコンラックの上に置かれた時計を見やる。時刻は午前十時半を過ぎたぐらいで、部活に出かけた智貴が帰ってくるのはまだ当分先のことだった。

 

「まったく……姉が大変なときだってのに相変わらず球蹴りかよ。呑気してんなーあのハゲ」

 

 智貴が家にいないことが不満だったのか、刺々しい声色でそのようにボヤく智子。しかしそれは琴美にとって聞き捨てならないことだった。

 

「おい、やめろよ」

「あ?」

「智貴くんだってあんたのこと、凄く心配してるんだからな」

 

 智子からすれば姉の一大事であるにもかかわらず智貴が部活にうつつを抜かしているように見えたのかもしれないが、実際はそうでないことを琴美はよく知っていた。彼もまた姉の異変を前にして不安に揺れており、その回復を切に願ってやまない心持ちでいることは間違いないのだ。

 

「自分の家族がおかしくなってるんだぞ? 平気な訳ないだろ」

 

 ましてや呑気している筈もない。それどころか智貴は本来の自分を失ってしまった姉のために尽力するつもりでいるに違いないのだ。そうした姉思いの智貴の心労を知りもせず悪しざまに言うことは、琴美にとって腹立たしいことなのであった。

 

「……智貴がなんか言ってたのか?」

「えっ? ああ……うん、まあ色々」

 

 しかし智子のほうは琴美のそうした言葉を受けて、別のことが気になってしまったらしい。アニメの再生を一旦停めて探るような視線を向けてくる。琴美と智貴とのあいだに昨晩なにかしらのやりとりがあったのではないかと、そう考えたようだ。

 

「色々って、なに?」

「いやまぁ、だから色々と……」

 

 智貴が自分を励ますために言ってくれた言葉の数々を、琴美は一言一句漏らさず記憶していた。思い出すだけで胸が熱くなるような想い人とのひとときであったが、しかし悲しいかな智貴は姉の異変の真相について根本的に誤解したままであったから、その微妙にズレた励ましの言葉のひとつひとつはきっと智子にとって許しがたいものであるに違いないのだ。

 

「言えよほら。なんだってんだ?」

「えと、ほら、姉ちゃんがんばれって励まされたっていうか……」

「違うだろー! ほんとのこと言えよっ!」

 

 どうにかはぐらかそうとする琴美であったが、その手の誤魔化しが苦手な彼女であったからすぐさま智子に見破られてしまう。これは何か隠し事をしているに違いないと、智子は益々追及する姿勢を強めるのだった。

 

「なんで隠すんだ! やましいことでもあんのか!?」

「ね、ねえよそんなの! ただほら、智貴くんも結構誤解しちゃっててさ……」

 

 これはもう何かしら情報を与えてやらねば智子も収まりがつかないのではと見た琴美は、細部をぼかしつつもそれとなく昨日の智貴とのやりとりを教えてやった。小宮山琴美と化した今の智子の言い分に彼が耳を傾けることはおそらく無いだろうということも、一応はそれとなく伝えてやる琴美。

 

「かーっ! 馬鹿だなぁアイツ……」

 

 琴美と向き合い、その言葉にひとしきり耳を傾けていた智子が額に手をやりおおげさに嘆いてみせた。琴美なりに気を遣って説明したから激昂するようなことこそなかったが、しかし自身の弟の言動に呆れてしまったらしい。

 

「もー勘弁ならん。私が直々に説教してやる」

「えっ!?」

 

 かと思えば今度は妙に息巻いた様子でそのようなことを言い出した智子は、手元のぬいぐるみの頭をしきりにぽむぽむ叩いたりして落ち着かない様子だ。

 

「あいつが帰ってくるまで私もここにいるからさ。こみさんフォローよろしくな」

「あー……うん、えと、まぁ……」

 

 急にそのようなことを言われてどう返答したものかと言葉を濁す琴美であったが、智子のほうは本気らしい。フォローしろというのは、つまり智貴が帰ってくるまで智子の存在を知られないように配慮せよとのことだろうか。もし母に見つかりでもすれば、なんのかの理由をつけて小宮山家へ戻るよう諭されたり、あるいは力ずくで追い出されてしまうのではという危惧が智子にはあるようだ。

 

(どうなんだろ……実際に会ってみたら分かってもらえるのかな……?)

 

 昨晩は智子の言うことなど絶対に信じないと言い張っていた智貴であったが、直接相手を見ていないからそのような考えになってしまっているのではないか。だとしたら、対面してお互い話し合ってみればその認識が変わる可能性はある。智子の母が駄目でも弟の彼ならばあるいはどうか。試しにふたりを引き合わせてみるのもいいかもしれないと、琴美はそのように思った。理解者はひとりでも多くいてくれるに越したことはないし、そのほうが智子にとってもいくらか気の休まることに違いないのだから。

 

「あっ、お母さん来た……!」

 

 何かに反応した様子の智子が、だしぬけに声をあげる。階段をのしのしとあがってくる足音が扉ごしに聞こえてきたからだ。その気配が母親のものに違いないと判断した智子は、すぐさま立ち上がって周囲を見回す。しかし適当な隠れ場所が見当たらず、やむなく彼女は人型のぬいぐるみを抱えると、そのままベッドの中に潜り込んだ。

 一方の琴美は心の準備も整わぬうちから事態に直面させられて、ただあたふたとするばかり。洗濯物の残りを干しに来ただけの可能性もあったから、どうかこのままやり過ごせればと願いつつ、扉に耳を当てて廊下の様子を窺う。しかしまさにこの部屋の前で「智子、入るわよ」と声がしたのでぎょっとしてあとずさる。

 

「ちょっといい?」

「あっはい」

 

 ガラッと扉を開けて部屋に入ってきた母が、開口一番そのように言った。一体何用かと身構える琴美であったが、きょろきょろと視線を巡らせる母はなにかを探しているようだった。

 

「ねえ、もしかして小宮山さん来てたりしない?」

「はうっ」

 

 単刀直入である。あまりにそのものずばりな母からの質問に、琴美の口からおかしな声が飛び出る。

 

「さっきあの子のお母さんから電話があったのよ。ランニングするって出てったきり帰ってこないって」

「あ、そ、そーなの……?」

「携帯のほうも全然つながらないみたいで……あなた、何か知らない?」

 

 どうも思わぬところから足が付きかねない事態になってしまったようだ。朝から外出した己の娘がいつまで経っても戻ってこないことを心配した琴美の母が、手がかりを求めて黒木家へと連絡してきたらしい。

 

(あちゃー……)

 

 スマホの充電はとっくに切れていたようだったから、琴美は己の母が再三電話してきていたことに気付けなかった。しかしよしんば電話に出られたとしても、声の質がまるで違うとして怪しまれることは必至であるから、どちらにしても話がややこしくなりそうだった。智子がそばにいる時は代わりに電話に出てもらうなどして誤魔化せるだろうが、そうでない時は一体どうすればいいのか。いっそのこと智子と自分のスマホを交換してしまえばこれ以上懸念を増やさずに済むのであるが、そんなことはあの智子が決して承知しないだろうということも琴美には分かってしまう。

 

「で、どうなの? あなた、もしかして今日あの子と会いに行ってたの?」

「あー、うん、えと……まあその、ちょっとだけ……」

「まあ……! どうしてランニングだなんて嘘ついたの?」

「あっ、(ちが)くて……! その、ぐ、偶然だよ! 外走ってたら、たまたまあいつがいたから、その、それで……えーっと…………」

「それで?」

「あ、あいつにジュース買ってもらって……んで、ちょっと一緒に走ったりとかして……あとはもう知らないっていうか……解散したっていうか……」

「それ本当なの? 嘘じゃないのね?」

「ほ、ほんとだよっ! これ、真面目な話だから……!」

「あの子のこと、家に上げたりしてないでしょうね?」

「し、してない……よ……」

 

 母からの追及を前にしてひたすら苦しい言い訳に終始せざるを得なかったから、琴美はすっかり余裕を無くしてしまっていた。つまらない嘘はもうつかないという誓いも遵守(じゅんしゅ)することは叶わず、むしろ進んでないがしろにせざるを得ない状況だ。

 いっそ本当のことを白状してしまおうかとも思うほどであったが、変なところで口の回る智子ならこんな時どのように乗り切ってみせるのだろうかと彼女は考える。いまや布団の中で息を潜めている相方に助けを求めたい気持ちでいっぱいの琴美であったから、無意識に智子のいるほうをちらちら見やったりしてしまうのだった。ベッドの上では布団から顔だけ覗かせたぬいぐるみが、間の抜けた表情を琴美に向けていた。

 

「……?」

 

 だがそれがいけなかった。挙動不審な琴美の視線が度々部屋の奥に向けられていることを見て取った母は、部屋の中へと足を踏み入れるとベッドの前で立ち止まった。

 

「あーっ! あのっ、あいつっ、う、ウチんなかに入ってこようとしたけど、ちゃ、ちゃんと追い返したから! だからもう大丈夫だから……!」

 

 そんな母の様子にいよいよもって慌てふためいた琴美がどうにか引き止めようとする。しかし先程の受け答えとは随分食い違うその取ってつけたような言い訳であったから、もはや母が娘の言葉を真に受ける様子はない。その代わり彼女はベッドの上の布団へと手を伸ばし、おもむろにそれをめくってみせる。

 

「きゃあっ!? い、いるじゃないのっ!」

 

 途端、母は悲鳴を上げて跳びのいてしまう。布団をめくってみたら、そこにはぬいぐるみを抱きしめて目をぎょろつかせる智子の姿があったからだ。

 

「あっ、ごめんなさいっ、そのっ、ど、どうしてもウチに来たいって言うから……!」

 

 一瞬にして己の嘘が全てバレてしまったから、泡を食った琴美は舌をもつれさせつつ弁解しようとする。だが一方の母はもうそのようなことはどうでもよく、今はただ突如姿を現した闖入者(ちんにゅうしゃ)を前に少なからずうろたえているようだ。

 そうこうしているうちに黙ったままの智子が起き上がり、ベッドの上であぐらをかいてムスッとした表情になる。それは自身に向けられる母からのその警戒心を滲ませる視線が甚だ不当であると訴えているかのようであった。

 

「小宮山さん? あのね、よく聞いてちょうだい」

「だから違うって! 私が智子だって言ってんじゃん! なんで分かんないの? ねえ、なんで?」

 

 諭すような口調で話しかけようとした母であったが、「小宮山」と呼ばれたことが余程(かん)に障ったらしく、智子が声を荒らげてそれに噛み付いた。理解のない母から他人扱いされてしまうことは、彼女にとって耐え難いことなのかもしれない。

 

「大丈夫よ小宮山さん。大変なのは今だけだから。あなただってもう少ししたら、きっと色んなことが思い出せるようになる筈よ?」

「なに言ってんのお母さん? 私、ほんとに智子だよ? なにを思い出せっていうの……?」

 

 智子を刺激しないよう、言葉を選びながらなおも語りかけていく母。己の娘と違ってこの()()()()()のほうはまだまだ錯乱の度合いが強いのだろうと彼女は考えているようだ。

 

「うちの智子もね、まだほんの少しだけど本当の自分のことを思い出してきてるの。だからあなたもそのうち……ね?」

「はぁ……? なに? そいつがどうしたの?」

 

 傍らの琴美を引き合いに出した母がそのように諭すものだから、目を丸くした智子の視線が琴美に向けられる。

 

「おいこみさん。おまえからも言ってやれよ。お母さん、なんか勘違いしてんぞ?」

 

 智子のその表情はどこか助けを求めているようであったから、何かしら口を挟んでやるべきだろうかと琴美は思った。母の前向きな誤解は自身の思わせぶりな振る舞いが招いたものに違いない。であるならば今ここで改めて本当のことを伝えるのが筋かもしれないと、そのような考えが浮かんでくる。

 

(どうしよう……どうしよう……!)

 

 が、しかし。今一歩が踏み出せない。自分はあなたの娘などではなく、やはり小宮山琴美その人なのだと、そう傍らの母に改めて主張すべきだった。なのに琴美の口は重くなり、言うべき言葉を発することができなかった。

 

(言わなきゃだけど……でも)

 

 琴美の脳裏に昨夜の出来事がよぎる。それは夕食後に琴美を交えておこなわれた家族会議でのこと。どうあっても入れ替わり現象を認めようとしない黒木家の人々──とりわけ智子の母の態度に焦った琴美は、彼女の誤解を解こうと必死に反論を試みたのだった。しかし話は平行線をたどるばかり。互いの意見に耳を貸さない状況は両者のヒートアップを招き、最終的に議論は打ち切りとなってしまった。

 

(智貴くんのお母さん、また泣いちゃうかも……)

 

 この家族会議の結末は琴美にとってひどくショッキングであった。智子の母が突然泣き崩れてしまったからだ。琴美は頭に血がのぼるうち、歯に衣着せぬようなことをアレコレと口走ったりもした。しかしそれは我が子の身を案じるあまり苦悩を極めていた人間への配慮を欠くものであったため、言われた側の張りつめていた感情を決壊させるのに十分だったのだ。

 このとき琴美を襲った深い後悔が今再び胸の奥から湧き上がってくる。もうこの人をこれ以上悲しませたくない。自分の振る舞いのせいで辛い思いをしてほしくない。そうした怖れが今の琴美をがんじがらめにしてしまう。

 

「そっ、その……! その……えと……! あっ……ん~……」

 

 故に琴美が選んだのはひたすら口ごもることであった。何か言いたげであるようにも、あるいはそうやってごまかしているだけのようにも見える。落ち着きなく目線を泳がせる彼女は冷や汗まで浮かべはじめた。

 

「なにモゴモゴ言ってんだっ、ちゃんとしゃべれよ──!?」

「ちょっと、やめてちょうだい!」

 

 相方の煮え切らない態度に痺れを切らした智子が怒声まじりに催促するが、それに待ったをかける母。彼女にとって琴美の先程からの動揺は、智子の言動のせいでまた記憶が混乱し始めた兆候だと見えたらしい。己の娘を庇うかのように琴美と智子の間に立った母は、その険しい視線をベッドの上の錯乱者へと向ける。

 

「お母さん、違うよっ! そいつニセもんだよ! 私が本物なんだってば!」

「違うのよ小宮山さん、そうじゃないの。あなたはうちの子じゃないの……!」

 

 そうした母の頑なな態度を受けて、やにわに智子がうろたえだした。たまらずベッドから降りた彼女は、そのまま母の腕にしがみついたかと思うと必死に訴え始めた。

 

「わっ、わたしっ、自分の誕生日知ってるよ!? 平成○○年の○月○日だし! でもって智貴の誕生日は○月○日! ○○に住んでるおじいちゃんの名前は○○で、おばあちゃんの名前は○○! ねっ? 合ってるでしょ? きーちゃんが昔飼ってた犬はプリン! もう死んでる! 去年きーちゃんちから自転車で帰ろうとして、結局お母さんに迎えに来てもらったことあったでしょ? あとお母さん、昔は髪長かったよね? 結婚する前は○○ってところで働いてたんだよね? あっ、お母さんの誕生日はえと、○月○日だっけ? 合ってる? 合ってるよね? お父さんの誕生日は忘れちゃったけど、でも○月だったと思う……! ほらっ、ね? ちゃんと覚えてるでしょ? 私、もっともっと色んなこと知ってるよ? 信じてよぉ──っ!」

 

 まくし立てるように思いつく限りのことを早口で並べ立てていく智子のその様子に、母は呆気に取られたような顔をする。やがて智子は母の腕を掴んだまま力なく座り込むと、とうとう声を詰まらせ泣き出してしまった。

 

(すまねぇ……すまねぇ……!)

 

 そんな智子の姿が琴美には(あわ)れでならなかった。そしてまた、智子からの求めに応じてやれなかったことへの罪悪感がわきあがってくる。さりとて口は重いままであり、琴美は智子とその母それぞれに対する同情心の狭間でひたすら揺れ動くばかりだった。

 

(だって、ダメなんだよ……私がなに言ったって、この人はもう……)

 

 そしてまた、琴美にはすでに分かっていたのだ。このように本人しか知らないはずの情報をただ単に並べ立てたとしてもそれが家族を納得させる材料になり得ず、周囲からの理解を得るための追い風にもならないということを。

 

「本当に不思議よね……こんなことが起きるなんて……」

 

 自身もしゃがみこんでみせた母が、肩を震わせる智子の頭をそっと撫でてやる。母の顔には目の前の少女を憐れんでいる様子がありありと浮かんでいたが、かといって智子の言い分を聞き入れたという訳でもないようだ。

 

「お医者様はね、もしかしたら『記憶の転写』が起きてるのかもしれないって言ってたわ。あなたの頭の中に、うちの子の思い出とかそんなのが沢山入り込んだんじゃないかって」

 

 昨日診察を受けた病院で、琴美と智子は医師から様々な質問を受けていた。それは普段の暮らしぶりについてだったり、あるいは本人とその家族しか知らないようなことについてだった。その場には真偽を確認するために各々の母親が同席していたものだから、彼女らも当初はそうした数多の質問にまったくの他人が淀みなく正解していく信じがたい光景を目の当たりにしておおいに驚いていたものだ。

 にもかかわらず、帰宅して以降の智子の母は依然として入れ替わり現象を否定したままだった。それどころか己の娘の異変について妙に納得した様子ですらあったから、ただでさえ受け入れがたい筈の入れ替わり説を押しのけるに足る的外れな見立てが医師によって行われたことは明白であった。問題が起きているのは琴美や智子の自意識のほうであり、彼女らがさもお互いの人格が入れ替わっているように感じているのはあくまで錯覚に過ぎないと受け取られてしまっているのだ。

 

(智貴くんのお母さんだけじゃない、きっとみんな怖いんだ。お父さんだって、智貴くんだって……。だからこんな話を信じちゃうんだ)

 

 智子の母が口にするその説明は琴美自身すでに知っていた。きのう家族会議へ招かれた際にこんこんと言い聞かされたからだ。もちろん琴美だって反論しようとはした。しかしそうした琴美に対し、黒木家の人々は取り合おうともせず沈痛な面持ちを浮かべるか説得の言葉を並べるばかり。彼らにとって医師の判断はもはや絶対のものとなっていたのだった。とりわけ智子の母に至ってはその傾向が顕著であった。

 

「治そうと思ったら、ちゃんといつも通りの生活を続けることが大事なの。だからあなたも、いつまでもここにいちゃいけないのよ?」

 

 母はどこまでも医師の言葉を信じるつもりのようだ。というよりも、それにすがりつきたいということなのかもしれない。娘を襲った突然の怪奇現象を前に不安に苛まれていた母親が、権威ある相手から提示された回復への道筋に固執してしまうことを一体誰が責められようか。

 

「違うよぉー……そんなの嘘っぱちだよぉー……私はちゃんと私なのにぃ……」

 

 声を震わせ訴える智子だが、母は首を振るばかりだった。そうした態度に「これ以上何を言っても無駄だ」と悟ったのか、代わりに智子は先程から立ち尽くして事の推移を見守っていた琴美へと視線を向ける。

 

「おまえっ! なに私の振りしてやがんだ! おまえはコオロギだろうが!」

「ちょっ、うわっ……!」

 

 智子が突然立ち上がり、琴美に詰め寄ったかと思うとその胸ぐらを掴んで涙混じりに怒鳴りつける。あまりに智子がグイグイ迫るものだから、やがて琴美はたまらず押し倒されてしまった。

 

「返せっ、返せよっ! 私の体、返せったら!」

「ウググ……」

 

 倒れた琴美の上に馬乗りになって、なおも智子は相方を責め立てた。胸ぐらを掴まれ激しく揺さぶられる琴美であったから、もう目を白黒させるばかりで言葉が出ない。のしかかる智子のその体をどうにか押し返そうとする彼女であったが、これがまるでびくともしないものだから、自身のあまりの非力さに驚いてしまうほどであった。

 

「やめなさい! なにしてるのっ!?」

 

 慌てて智子の母が止めに入るが、返せ返せとうわごとのように繰り返して相方にしがみつく智子を引き剥がすことができない。

 

「あなた──っ! すぐ来てちょうだい! 智子が大変なのっ!」

 

 これは自分ひとりではどうにもならなそうと見た母は、一旦廊下に出ると大声で夫に助けを求める。そうしてすぐしないうちにかの御仁(ごじん)が駆けつけてくれたから、そこでようやく琴美は解放されたのだった。

 

「智貴ぃ──! 智貴どこぉ──!? うあぁぁ……うああああぁぁ──!!」

 

 父に取り押さえられた智子が、いまだ戻らぬ弟に向けて悲痛な声で泣き叫ぶ。母に抱き起こされた琴美は、そんな智子の姿に戦慄を覚えずにはいられなかった。こいつは誰だ、誰なのだ。私の顔で、私の声で、好き放題に取り乱す目の前の()()は──。

 

(なんだよこれ……なんなんだこれ……)

 

 琴美の中に形容しがたい不安が広がり、天地の感覚を狂わせていく。長らく()りどころとしてきた体が、いまや別の誰かに占有されてしまったという否定しがたい現実。己の一部だと信じていたはずの体が別個の意思を持ち、勝手に外へ飛び出していったような感覚。それは琴美にとって、そしておそらくは智子にとっても、例えようのない恐怖でしかないのだった。




つづく
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