「おねーちゃん、こっちにたくさんあるよー!」
何かを見つけた様子のともくんが、はしゃいだ様子で手招きしながら呼びかけてくる。それに気づいた私は袋を握りしめて弟のもとに駆け寄った。
「わー、ほんとだぁ」
ともくんが見上げていた木の幹には、お目当ての「抜け殻」たちがあちこちにひっついている。ミンミン、シュワシュワと、そこらじゅうからひっきりなしに聞こえてくるのはセミの鳴き声だ。
「じゃあともくん、上のやつ捕ってって」
「うん!」
木に成るお宝たちに目を輝かせたともくんが、幹の高い所にいるそれらを虫捕りアミで慎重につついたりする。一方の私も、手近な位置にくっついている抜け殻を引き剥がしては袋の中へと放り込んでいく。私たちは今、うちの近所にある神社の中でセミの抜け殻を集めているのだ。
「ね、ね、ぜんぶで何円ぐらい?」
「んーっとねぇ……」
そんなこんなであちこちの木々からあらかた収穫し終えた頃、一息ついたともくんがそう尋ねてくる。言われて抜け殻の詰まった袋の中身を確認してみれば、これはもう大漁と言っていい成果だった。
「千九百円ぐらいかな?」
「すごい!」
私の答えを聞いたともくんが、興奮した様子で元気いっぱいの可愛い笑顔を見せる。こうして集めた抜け殻たちを、私はペットショップに持ち込むつもりでいたのだが、珍しいコオロギとかを捕まえたらいいお金で買い取ってくれるってテレビでも言ってたし、セミの抜け殻だってきっと一個百円ぐらいで売れそうな気がする。
「ともくん何がほしい?」
「カード!」
最近になって私の影響でカードゲームをやり始めたともくんが、そんな風におねだりしてくる。まだまだこの子には難しい遊びなのに、初心者のうちからあれもこれもと新しいのを欲しがるから困ったものだ。
「じゃあジュース買って、お菓子買って、残りのお金でカード買おうね」
「うん!」
でもいいんだ。今の私はお金持ちだから、ともくんのほしがるものは何でも買ってあげられるし。お金が無くなったら、またこの子と一緒に抜け殻を集めればいいだけの話だ。夏休みはまだまだ始まったばかり。その間に抜け殻をたくさん売って、すごいお金持ちになってやろう。そしたらゲームソフトだって好きなのを買えるし、お菓子も一日二回買いに行ったりなんていう贅沢が出来ちゃう筈だ。
そうだ! 誰かにお金を払って宿題を代わりにやってもらうなんてのはどうだろうか。あ、いやいやこれはダメか。そんなズルしたら立派なおとなのひとになれないもんな。私はともくんのおねーちゃんなんだし、ちゃんとしないといけないんだ。
「おねーちゃん、あのひと……」
ともあれちゃんとしたお金の使いみちについてあれこれ考えていた私だったけど、ふいに袖を引っ張ってきたともくんがそんなふうに言って誰かのことを指さした。
「ともだち?」
「えっ? あ、いや……」
いつからそこにいたのか、私と同い年ぐらいの女の子が木の下で体育座りして少し離れた先からこちらをじっと見ていた。なんだか見覚えがあるような、無いような。メガネを掛けたその子はまるい感じの髪型で、ぴょこんと跳ねたクセ毛がちょっぴり左右に広がっていたりもする。
「しらないひと?」
「あっ、うん……えと……」
誰なんだろう。でも知らない子じゃないような気がする。ちょっと邪魔なサンバイザーをずり上げて、私はその子に改めて目を凝らしてみた。
(あの子の名前……えっと……確か……)
だんまりしたままのその子の名前を私は知ってるような気がしたから、それを思い出そうと考え込む。
「そうだっ、小宮山琴美!」
つかえていたものが取れたように、私の口から女の子の名前が飛び出した。そうそう、あの子は我らが地元球団・千葉ロッテマリーンズが大好きで、憧れの人・智貴くんを愛してやまない「小宮山琴美」なのだった。
(あれ? じゃあ私って誰……?)
すっきりしたのも束の間、今度は急にそんな疑問が湧いてきてしまった。あそこにいるのが小宮山琴美なのだから、今ここにいる私は「別の誰か」に違いないのだ。思い出せ、思い出せ、ええと、私は……
「おねーちゃん」
「ううん……」
そうだ、ともくんだ。私はこの子のおねーちゃんなんだから、つまりあれだ。私はたぶん「黒木智子」なんだ。あれ? そうだったっけ? 違うんじゃないか? いや、でも小宮山琴美はあの子なんだし、やっぱり私のほうが黒木智子なのかもしれない。
違う違う、そうだそうだ、やっぱり違う、やっぱりそうだ、私は誰だ、誰が私だ、あいつが私で、私があいつで……。
「おねーちゃん、おねーちゃん」
「ううん……ううん……」
「姉ちゃん、起きろって。遅刻すんぞ」
「ふああっ!?」
誰かから揺さぶられていた琴美は、呼びかけてくるその声に反応して目を覚ました。直前まで見ていた夢の余韻に浸る間もなく、己の顔を覗き込んでいた智貴に心底驚いた彼女はボンヤリしていた意識を急速に覚醒させていく。
「あっ、ら、らいじょーぶっ、おきるから……!」
慌てた様子の琴美が己の顔を布団で半分隠しつつ、ろれつの回っていない口調でそう答えると、智貴は小さくうなずいてそのまま部屋を出ていってしまった。それを見届けた琴美が、やがてむくりと起き上がって「ふぅー……」と深呼吸してみせる。
(朝からとんでもない目覚ましが……!)
智貴からのモーニングコールは、琴美にとってこの世のどんな目覚まし時計よりも強力だった。はしゃぐような胸の鼓動が、寝起き特有の気だるさをあっという間に吹き飛ばしてしまう。寝起き直後にこのような刺激を与えられては本気で心臓に悪いと、彼女としてはもう身の危険すら感じてしまう程だ。
枕元のスマホを確認してみれば、確かに急いで支度を済ませないと学校へ遅刻してしまいかねない時刻になっていた。スマホのスヌーズ機能はとっくに時間切れとなっていて、鳴動を再開させる気配は無い。少し前まで散々アラームを鳴り響かせていた筈なのに、琴美はそれにまるで気付かなかったようだ。昨晩は特に夜更かしした訳でもなかったから、ひょっとすると夢の中の出来事に余程夢中になっていたのかもしれない。ともあれこうしてはいられないと、彼女は布団を跳ねのけベッドから降りた。
「ほら、早くご飯食べちゃいなさい」
「はぁい」
歯磨きや洗顔などをてっとり早く済ませていたら、脱衣所へ入ってきた母からそのように急かされる。それに対してしまりのない返事をした琴美がダイニングへ向かえば、そこにはすっかり身支度を済ませた智貴の姿があった。彼は琴美に先んじて朝食をとっていたようだ。
「あ、お、おはよ……!」
「ああ、おはよ」
手馴れた様子で冷蔵庫から牛乳パックを取り出した琴美は、中身をコップに注ぎながら智貴とたどたどしくも朝の挨拶を交わす。黒木家での生活にもある程度慣れてきた琴美ではあったから、家人への態度にも多少は落ち着きが出てきていたが、それでもこの少年を前にした時だけは相も変わらずあがってしまうようだ。
「いただきまーす」
ともあれすっかり指定席となった智貴の向かい側に座った琴美は、自分の分の朝食を早速いただくことにする。今朝の献立はこんがり焼けたトーストと、目玉焼きにウインナーのサラダ添え。卓上に配膳されたそれらが、寝坊してしまった今の自分にとっては何よりありがたいとしみじみ思う。忙しい母に代わって朝に夕にと家事を分担することの多い琴美であったから、本来の生活の中で万一寝坊でもしてしまおうものなら、その日の朝は非常に慌ただしいものとなる筈だったからだ。故に、みずから家事に奔走しなくても済む黒木家の朝はこの上なく気楽なものだった。そうでなくとも、智貴と席を共にしながらの朝食タイムは彼女にとって格別なのであるが。
(あいつ、ちゃんとメシ食ってんのかなぁ)
ジャム塗りのトーストをかじっていた琴美は、ふいに智子のことを思いだす。一体どういう訳か、数日前から急に学校へ来なくなってしまった相方。そんな彼女のことが琴美はずっと気がかりだったのだ。食事の支度ぐらい必要とあらば己の手で行なうのが当たり前な自分と違い、これまで母に世話されるがまま育ってきたと思われる智子のほうは果たしてどうであろうかと、琴美はその現状について考えを巡らせる。ひょっとしたら今も自室でぐぅぐぅ眠っていて、起き出すのは昼以降になるのかもしれない。そうしてロクに料理もせず、ありあわせの偏った食事で適当に腹を満たしている様が、琴美にはなんとなくだが想像出来た。
(連絡ぐらいしてくりゃいいのに……)
単に体調不良が理由で休んでいるだけならまだいいが、何かもっとよろしくない状況になっていはしまいか。こちらからの電話にも出ず、何度か送ったメールへの返信すらさっぱり無いものだから、琴美としてはいい加減心配になってきてしまう。出来れば智子の様子を確認すべく、学校帰りに懐かしき我が家へと寄り道してみたかった。事態の解決に向けて何かしら動きを取ろうにも、中途半端なままになっていた「あの日の再現」をひとまず続行してみる為には、肝心の相方が協力してくれなければ始まらないのだから。しかしそういう訳にもいかないひとつの理由が琴美を些か悩ませてもいた。
「いってきます」
そんなことを考えているうち、先に食事を終えた智貴がショルダーバッグをひっさげて一足先に家を出ていってしまった。時計を確認してみればいよいよ電車に間に合うかどうかという時刻が差し迫っていたので、まだ着替えも済んでいない琴美は大急ぎで残りの食事をほおばり始めるのだった。
*
「あっ!?」
身支度を終えた琴美が出かけのあいさつもそこそこに玄関扉を開け放つ。そうして路上に飛び出そうとしたところで、しかしすぐさま足を止めてしまった。それは
琴美よりも先に家を出た筈の智貴であったが、なぜかこの場で時間を潰していたらしい。彼の不可解な行動に驚きを隠せない琴美はその理由を尋ねようとして、
「ど、どうしたの?」
「姉ちゃんのこと待ってたんだよ」
「あ、そ、そーなんだー、はは……」
しかし返ってきた答えは至極単純で、彼としては姉の支度が終わるのをこの場でただ待っていただけだという。自分のことなど放って先に行ってくれればよかったのにと思う琴美ではあるが、もちろん彼からそのように言ってもらえて嫌な筈もなかった。あの智貴と一緒に朝の通学路を歩くという、夢のようなシチュエーションにロマンを感じずにはいられないからだ。
しかし一方で、彼からのこうした念入りなアプローチに琴美は少しばかり戸惑いをも覚えてしまう。智貴はひょっとすると自分からなるべく目を離さないようにしているのではないかと、そのように思えたからだ。
(これってやっぱり心配させちゃってるのかな?)
近頃ようやく土地鑑のついてきた道を、琴美は早足気味に歩いていく。その視線の先には、前をゆく智貴の背があった。
琴美が智貴と連れ立って登校するのは、これが初めてのことではない。入れ替わりが起きてから初めて学校へ行った日も、彼はなにかと不慣れな様子を見せる姉をエスコートする為に付き添っていた。しかしその翌日以降も智貴は姉と共に登校しようとするものだから、最早ふたり一緒に家を出ることが日課になってしまっていた。そしてまた、こうしたことは朝だけに留まらない。よほど姉のことが気がかりなのか、智貴は放課後になると決まって琴美のいる教室まで迎えにきて、共に下校しようと誘ってもくるのだった。
もうじき千葉でも高校サッカーの大会予選が始まることを琴美は一応ながら知っていたから、部活のほうは大丈夫なのかと尋ねてみれば、今回自分の出番は無いから問題ないのだと返されてしまう。いまやチームのレギュラーを務めるまでに至っていた智貴であったから、そんな筈がないことは琴美にも明白であったが、本人にそう言い張られては最早返す言葉もない。
そしてまた、このような彼の行動こそが下校時に智子のもとへと寄り道することを琴美にはばからせてしまってもいたのだった。智子のところへ行きたいのだと正直に意向を伝えたとて、今の智貴が素直にうなずくとはとても思えなかったからだ。一旦帰宅してからこっそり家を抜け出そうと試みた琴美が、姉の動向に油断なく目を向けていたらしい彼から早速咎められてしまったのはつい昨日の出来事であった。
(余計なことだったのかも……)
自身の想い人が傍にいるというのに、なんだか口を開く気にもなれない琴美は先程からだんまりしたままだ。そんな彼女が智貴の背をぼんやり見やっていると、数日前のことに関する後悔がじわりじわりと胸中に湧きあがってくる。よかれという思いから姉弟のご対面を手引きしてみせたはいいが、却って状況を悪化させてしまったように思えてくるからだ。
あの日、智子の代わりに待ち合わせ場所へと姿を現した智貴に面食らった琴美であったが、結局彼は琴美達の訴えなどまるで信用しておらず、入れ替わり説を頑なに否定したままなのだった。一時は智貴が事の真相を理解してくれたものとばかり思っていたのに、それがぬか喜びに過ぎなかったのだと判明したときの落胆が今もなお胸にわだかまりを残す。
がっかりしたのは何も自分だけではない。弟が理解してくれたと見て無邪気に喜んでいたあの智子だって、きっと同じ気持ちを抱いただろうし、それどころか自分以上に強いショックを受けた筈だと、琴美にはそのように思えてしまう。だからこそ、渋る相方の背中を押して姉弟を無理に引き合わせてしまったことを琴美は今更ながらに悔やんでいたのだった。
(智貴くんのあんな顔、初めて見ちゃった)
日のかげり具合で黒く塗りつぶされたように見えた智貴の顔を思い出すと、琴美は今もってぶるりと震えずにはいられない。いつも可愛い智貴の顔が、あの時ばかりは見知らぬ別の誰かに思えてしまったからだ。あるいはそれは、智貴が他の誰でもない自身の姉にだけ見せる特別な顔だったのかもしれない。であるのならば、それは本来であれば琴美のような他人が見てはいけないものである筈だった。
ともあれあの日の一件が智貴をいたずらに不安がらせ、結果として自分への過度な干渉を招く羽目になってしまったのではないかと、琴美にはそう思えてならない。日々真剣に取り組んでいた部活をおろそかにしてまでこうしてつきっきりでいるのも、おそらくは智貴なりに考えあってのこと。一緒にいる時間をなるべく増やすことが姉の回復に少しでも役立つのではと、
◆
「ほら、こっち」
「あっ、う、うんっ……!」
いよいよ混み具合がひどくなってきた電車の中で、琴美は智貴に促されてその懐へと引き寄せられる。小柄な姉が他の乗客に押し潰されてしまわないようにと気遣ってのことだ。つい数日前、智貴と初めて登校した際に朝の満員電車からの洗礼を受けた琴美はたまらずカエルのような悲鳴をあげてしまったものだが、見かねた智貴に助けられて以降は狭いながらも安全地帯を確保してもらえるようになったのである。
(あぁ~すきすきすき……溶けちゃいそぉ……)
周囲に押されて密着してくる智貴のたくましい感触に、そして己を狂わせるその
近頃はあれやこれやと思案することの多い琴美ではあったが、こうしていると何も考えられなくなって、目的地につくまでの間は思う存分夢心地に浸ることが出来ていた。悩むのはもうやめて、このままずっとこうしていようかと、そうした甘い誘惑すら浮かんできてしまう。
(はっ!? ダメだダメだ! 気をしっかり持て、私……!)
が、それでも彼女がどうにか踏みとどまれるのは、時折頭の中で智子の声が響いてくるからだ。返せ、返せと繰り返し涙ながらに訴える智子のその悲痛な叫びが、己の成すべきことを琴美に自覚させる。智貴との同居生活にうつつを抜かしていてはいけないと、自分が本当は誰なのかを思い出せと、そう戒められるのだ。
(なんとかしなきゃ……このままじゃ本当にヤバいぞー……)
元に戻るための方法なんて今のところ皆目見当もつかない。そもそも一体自分たちは何が原因で入れ替わってしまったのだろうか。もし運命を司る神様がいるとしたら、何の意図でもってこのような異常極まる状況を自分たちに課したのだろうか。なんだか自分たちが面白半分にもて遊ばれているような気がして、理不尽な思いすら浮かんできてしまう。先日は神社にて必死にお祈りなんてしてみた琴美であったが、今は文句のひとつもつけてやりたい気分なのだった。
(そういや……)
ふと、琴美は今朝方見たばかりの夢のことを思い出す。朝のドタバタの中ではゆっくり思い出す暇もなかったが、とても印象的な内容であったから、おぼろげながらもそれはいまだ記憶に留まっていた。
(なんか神社の中で遊んでたような?)
確か自分は夢の中で見覚えのある境内をあちこち巡り、小さな男の子と一緒にセミの抜け殻集めに奔走していた筈だ。そうして集めた抜け殻たちをどこぞのペットショップに売りつけて小遣いを稼ごうと、全く現実性のない幼稚な企みをしていたことを琴美は思い出す。自分の傍をついて回っていたあの愛らしさいっぱいの可愛い男の子は一体誰だったのだろうかと、琴美はそこが気になってしまった。
(
はっとなった琴美が、智貴の顔を見上げる。ツンとした表情で窓の外に目を向けているその顔をまじまじと見やる琴美は、何故だか夢の中の男の子と、今目の前にいる少年とが同一人物であるように思えてしまったのだ。それは推理の上でたどり着いた気付きというよりも、元々自分の知っていたことを今ここで苦もなく思い出したに過ぎないという印象だった。幼い頃の智貴は確かにあのような姿であったことを、琴美は不思議と当たり前のように確信することが出来ていた。
「あっ、あのさっ」
「?」
琴美からの突然の呼びかけに、智貴が視線を落として応える。密着し合った彼と図らずも間近で見つめ合う姿勢になった琴美はたまらず体を震わせ鼻息を荒くするが、とにもかくにも己の感じた疑問を投げかける。
「セミの抜け殻っ、あ、集めたことってある?」
「は?」
「その、ち、小さいときにさ、神社で一緒に集めたりしたよね?」
「ああ……うん、まあ……」
「一個百円で売れるからって、そのあとお店に持ってったりしたよね?」
「お、おう……」
琴美からの急な質問に戸惑いつつも、ひとまず同意する智貴。それを見た琴美は、やはりと思わずにはいられなかった。ずっと昔に幼い智貴を連れて神社の中で抜け殻集めに興じたことを、琴美は何故か自身の遠い思い出として覚えていたのだ。つまり今朝見た夢は、かつて実際に体験した幼い頃の出来事に基づいたものだったということになる。確か智子自身も先日、智貴相手にこのような思い出話を語ってはいなかっただろうかと、琴美は今になって当時の相方の発言を思い出してもいた。
「ちょっと待て……おまえ、今の……!」
「へっ!?」
すると何かに気付いた様子の智貴が、血相を変えて琴美の右肩をつかんできた。まったく突然のことであったから、目を白黒させた琴美は身をすくめてしまう。
「百円で売れるって、それ、あの人から聞いたのか……!?」
「あ、ち、ちがくて、な、なんか覚えてて……」
琴美が姉弟の古い思い出をやけに具体的な形で口にしたことが、智貴にはひどく驚きだったらしい。智子から何か聞かされでもしたのかと確認してくる彼の様子にたじろぎながらも、琴美はその問いかけに首を振る。いきなり声を荒げた智貴に、周りの乗客たちも何事かと視線を向けていた。
「なあ……もっかい聞くけどさ」
「あっ、うん」
「こないだ俺が貸したジャージのこと、覚えてるか?」
「え? あ、えーっと……」
周囲の目を気にも留めない智貴は、続けてそのような質問を投げかけてくる。以前にも彼から同じことを尋ねられて「覚えていない」と否定した琴美であったから、当然その答えは変わらない筈であった。
(えっ、なにこれ……!?)
しかし琴美の脳裏に、まるで実際に見聞きしたが如き謎の記憶が浮かび上がってきた。渋る智貴に頼み込み、彼の持つ黒いジャージを借り受けた時のこと。それを着込んだ姿をあの根元という友人に褒めてもらった時のこと。智貴のジャージに関連するそうした諸々を、琴美は何故か鮮明に思い出せてしまうのだった。
「あっうん、えと、い、イメチェンしたくて、その、と、友達に見せてあげようって思って……借りたような……」
何故。なぜ。ナゼ。どうしてこのようなことを覚えているのか。一体これは何の、誰の記憶なのだろうか。突如脳裏に浮かんだ得体の知れない思い出を前にして、琴美はただ混乱するばかりだ。
「じゃあ鍋はどうだ? 去年一緒に作ったろ」
「あっ、うん、そ、そういえば……!」
智貴からの次なる質問に刺激され、当時の記憶がまたしても鮮明に蘇る。あれは確か去年の冬休み初日のこと。倒れた祖父のもとへ駆けつけるべく両親が急遽家を空けることになったため、自分は智貴とふたりきりの時間を過ごしたのだった。姉弟で手分けして作った夕食の鍋をコタツに入って仲良くつついたりしたし、そのあと風呂に入ろうとしていた智貴に待ったをかけて、そのままコンビニへの買い物に付き合ってもらったりもした。ワクワクするような楽しいひとときの思い出に、胸の奥がじんと熱くなってしまう。
「……声優の変なセリフのやつは?」
「あ、な、なんか覚えてるねー……あはは……」
蒸し返されたくないようなひどい思い出までもがきっちり記憶の中に存在していた。人気声優・
「なんだよ……ちゃんと覚えてんじゃねえか……」
「あっ、いや、こ、これは……!」
ともあれ一通り質問し終えた智貴は、姉からの答えに満足したのか心底ほっとしたような声で語りかけてきた。変に誤解されてはいけないと、琴美は慌てて弁明しようとするのだが、
(あっ──)
しかし視線の先で智貴の表情がふわっと変化した途端、それに魅入られ言葉を失ってしまった。自身にとってかけがえのないものを取り上げられてしまった幼い子供が仮にいたとして、無くした筈の宝物がその子の手に返ってきたとしたら、きっとこのような表情を作るに違いない。嬉しいとか、喜ぶとか、感極まっているとかいった言葉では到底表現することの出来ない、むきだしの柔らかい心がそのまま顔に表れたような、そうした稀有な表情を琴美は目にしてしまったのだ。
(ああっ……
琴美の知らない智貴の顔、それは本来他人である筈の琴美では決して見ることの叶わないものだった。彼がたったひとりの姉の前でだけ見せる、あるいはかつて見せていた筈の、どこまでも純粋で特別な表情。ただひたすらに姉を慕い、信頼を寄せていた頃の顔。夢の中で垣間見たあの「ともくん」を確かに受け継ぐ少年が、琴美の目の前に存在していたのだった。そんな智貴から見つめられた琴美はもう愛おしさで胸がいっぱいになり、自分が彼の姉ではないということが何かの間違いなのではないかとさえ思えてきてしまう。
(でも違う……違うんだ……!)
しかし琴美にはもうこれ以上彼と目を合わせることが出来なかった。彼からのまなざしが眩しすぎて、己の中に潜む嘘がどこまでも醜く感じられてしまったからだ。自分は今、智貴を間違いなく騙している。本来決して自分に向けるべきではない表情を彼にさせてしまった。このようなことは最早彼の心を踏みにじっているに等しい。急速に膨らみ始めた己の中の罪悪感に、琴美は押し潰されてしまいそうだった。
(こんなの私の記憶じゃない……!)
幼い頃の夏の思い出も、そしてそれ以外の思い出も、いずれもが琴美にとってはまるで身に覚えのないことだった。にもかかわらず、それらは当然のように自分の過去の思い出として確かに存在していた。智貴からの質問と突き合わせてみれば、こうした記憶はつまり智子自身が本来持っていたものに違いないと思われる。
(どうなってんだ……? 私、どうなっちゃうんだ……?)
何がどうなっているのかさっぱり分からないが、自身に明らかな異変が起き始めていることを琴美はまざまざと実感していた。果たして今の己の中にはどれだけの見知らぬ記憶が潜んでいるのだろうか。先程思い出させられたもの以外にも、まだまだ無数のそうした思い出が眠っているような気がしてならない。それらの記憶が自分を侵食し、やがて別の人間へと造り変えてしまうような気がしてくるものだから、琴美にはそれが恐ろしくてたまらないのだった。
つづく