「あっ、あのさっ……」
「んー?」
午前最初の授業が終わり、教室の空気が一気に緩む。思い思いに席を立つ者や、待ちかねていたようにおしゃべりする者たちで溢れかえるひととき。机に広げられていた教科書やノートをしまっていた陽菜に向け、琴美は焦り気味に声をかける。
「なに?」
「いや、ちょっと聞きたいんだけど……」
ここ数日は陽菜に対してみずから話しかけるようなことはなく、もっぱら彼女から声をかけられた時に軽く受け答えする程度で済ませていた琴美であったが、それでも今ばかりは念の為に彼女へ確認しておきたいことがあった。
「私とネモってさ、一年のときからずっとおんなじクラスだっけ?」
「えっ?」
いきなりそのようなことを聞かれるとは思っていなかったのか、陽菜は面食らったような顔になる。入学してからのこの三年間、偶然にも智子と同じ学級で学び続けた彼女からすれば、何を今更というような質問だったに違いない。
「そうだけど……」
「あ、や、やっぱり?」
「どうしたの急に?」
「ああ、まあ、なんか思い出しちゃって……」
質問の意図を測りかねた陽菜が尋ねてくるが、特に深い意味はないのだと返す琴美。しかしその心の内は陽菜が今しがた答えた内容の如何を問わず、既に混乱状態であった。
(絶対おかしい……なんなんだこれ……?)
琴美にとってこの根元陽菜という同級生は、三年生になってから初めて知り合ったに過ぎない相手だ。しかしどうにも不可解なことに、琴美にはいまや彼女と自分とが旧知の仲であるように思えてならなかった。たとえそれがまるで実感の湧かないものであったとしてもだ。琴美が先程してみせた質問にしても、実のところ己の中で確信めいた認識として浮かび上がってきたものを、あえて陽菜に確認してみただけに過ぎなかった。
(根元さんのことなんて、なんにも知らない筈なのに……)
己の心の不可解な働きに、琴美はうろたえるしかない。陽菜のことはこれまで殆ど話したこともない知り合い程度にしか思っていない一方で、何故だか彼女に関する様々な記憶が自分の中に存在してもいたからだ。
陽菜が智子と毎年同じクラスであったというのは、よくよく思い返してみれば以前に当人達の口から直接聞かされたような気もするが、それを差し置いても毎年隣同士の席になることが妙に多いとか、かつて智子が陽菜のことを敵視したり妬んだりしたこともあったとか、お互いをニックネームで呼び合うようになったのはつい最近になってからだとか、そうしたあれこれが記憶を探ってみるごとに次々と思い浮かんで仕方がないのだった。
(こんなの、まるで私があいつみたいじゃないか……!)
今朝がた電車の中で智貴と交わしたやりとりが、琴美をすっかり動揺させてしまっていた。それゆえ授業にもまるで身が入らないでいた彼女はひたすら物思いに耽っていたのだが、智子が自身の弟から件のジャージを借りるきっかけになったらしい陽菜のことを考えるに至り、前述したような彼女に関する諸々の記憶にも遭遇させられたのであった。
自分の中に、おそらくは智子のものと思われる記憶が混在していることはもはや明らかだ。それらを思い出すことが恐ろしい。智子としての見知らぬ記憶を思い出してしまった分だけ、自分が自分でなくなっていく気がしてしまう。
「ねえクロ、なんかあったの?」
「へっ?」
「顔色、真っ青じゃん」
「あ、うん……いや、まあ……」
どうも琴美はすっかり青ざめていたようで、友人の様子を心配したらしい陽菜がそのように声をかけてきた。昨日までは彼女から「クロ」などと呼ばれてしまうことに違和感しかなかった筈なのに、不思議と今ではその呼ばれ方こそがしっくり来てしまう。ともあれ内心の動揺を隠すべく、その場を取り繕う為の適当な言葉を探す琴美。
「ちょっと
「あー、そっかぁ」
(なに言ってんだ私……!?)
今日は月のもので調子が悪いのだと自ら言っておきながら、琴美は己の口から飛び出したその適当な言い訳に驚いてしまった。誤魔化すにしても別の言い方がもっとありそうなものなのに、よりにもよってという感じだ。智子ならいざ知らず、何故自分がわざわざこうしたあけすけな物言いを選択してしまったのか。油断しているとなんだかその言葉選びまでもが智子に毒されてしまいそうな気がしてしまう。
「今日はいつものクロって感じするね」
「は?」
どこかほっとした様子の陽菜が、ふいにそのようなことを口にした。しかし一方の琴美は突然そのようなことを言われたものだから、意表を突かれたような気持ちになる。
「最近のクロ、ずっと変だったからさー」
「あ、そ、そうなの……?」
当初は琴美の様子を訝しんできていた陽菜であったが、近頃はそうした
しかし一体どういう訳か、その陽菜自身がいまや琴美を指して「いつもの智子らしい」と評してみせたのだった。先程うっかり口走った言い訳がそのように感じさせてしまったのだろうかと、琴美は推測を巡らせる。
「みんなも心配してたんだよ? ねっ、田村さん」
手前の席のゆりに向け、陽菜がそのように言って話題を振った。それに応じるように振り向いてみせたゆりだったが、彼女の視線は自分に声をかけてきた陽菜ではなく、琴美のほうへと向けられていた。確かこのクラスメイトも自分のことを怪しんではいなかっただろうかと、己をじっと見据えてくるゆりの視線に喉を鳴らす琴美。
「LINE送ってるのに全然見てくれてないよね。なんで?」
「へっ?」
ゆりからのそうした突然の質問に、琴美はぎくりとしてしまう。痛いところを突かれたと、そのように思った。おそらく智子は琴美だけではなく、ゆりからの連絡をも無視していたのだろう。智子のスマホは智子自身が持っている訳だから、いくらゆりからこのように問い正されたとしても、琴美のほうではどうしようもないのだ。
「いや、なんかスマホの調子が悪いんだよ」
「そうなの?」
「うん、こないだちょっと落っことしちゃって……」
だから琴美としては、それらしい理由をつけて言い逃れするしかない。実は今しがたゆりが指摘してきたようなことは智貴からも言われていたのだった。もっとも彼の場合はメールや電話に関することであったりするのだが、いずれにしても智子の友人や家族からのこうした連絡に対しては、応じてあげたくともできないというのが琴美の実情であった。
「お店に持ってけば?」
「あーうん、まあ……」
ゆりからのそうした勧めに適当な相槌を打ってみせる琴美。ともあれ今後も黒木智子としての生活を続けていくのだとしたら、こうしたところでいつかそのうち言い逃れできない事態に直面させられる時が訪れるに違いない。
そのことがどうにも心配であったから、いっそ智子に預けておいたあの黒いスマホを
(えっ……あれ……!?)
そこまで考えたところで、はたと気がついた琴美は呆気に取られたような顔をする。ゆりとの今しがたのやりとりや、それに続く自身の思考そのものに違和感を覚えたからだ。まだそれほど気心も知れていない筈のゆり相手に、自分でも驚くほど妙に馴れ馴れしい受け答えをしてしまったような気がする。
それはまだよいとしても、スマホに関する今の思考は一体なんなのだろうか。まるで智子が現在所持しているものは本来自分こそが持つべきだと言わんばかりの奇妙な考え方。己の普段愛用している端末が手元にないことを不安に思ってしまうような、ありえない筈の錯覚。
(なんだこれ……なんで私、こんな風に考えてるんだ……?)
まるで辻褄の合わない自らのそうした思考に困惑させられた琴美は、慌てて鞄の中からスマホを取り出す。そんな筈はないのだ。己の愛用のスマホは間違いなく今自分が所持しているほうであるのだから。そのように自分へと言い聞かせる琴美ではあったが、手に持つその白い端末に、今更ながら拭いきれない違和感を覚えずにはいられない。
「あれ? クロのスマホってそんなだっけ?」
画面のひび割れた琴美のスマホをまじまじと見やる陽菜がそんなことを言ってきたが、もはや彼女の言葉は琴美の耳に届いていなかった。
◆
「伊藤さん、私って誰だと思う……?」
「えっ?」
午前の授業もいち段落した昼休み、中庭のベンチに座る琴美が暖かな日差しのもとで弁当箱を広げていた。その隣には光の姿もあり、彼女らはふたり仲良く校舎の外で昼食を共にしているようだ。そうした休息のひとときにあって、ふと箸を止めた琴美が何やら真剣味の宿る顔で傍らの光にひとつの質問を投げかけた。
「誰って、琴でしょ?」
「どうかな、ちょっと自信ないかも」
なにを今更と、光はあっさりした様子で答えてみせる。しかし一方の琴美は親友のそうした言葉を受けて、奥歯にものが挟まったような返しをしてしまう。
「ひょっとしたらさ、私ってほんとは黒木さんなんじゃないかなって、なんかそんな気がするんだけど」
「そんなこと……」
どうも今朝から色々とおかしい。本来は到底知りえないような智子の内情を、誰に教えて貰った訳でもないのに何故だか当たり前に思い出せてしまう。智子の友人らへの対応にしても以前ほど苦労しなくなったというか、いつも肩肘張った思いで挑んでいた筈が、いつの間にか気安い感じで会話できるようになっていたのだ。
こうしたことは早速光にも相談し、ふたりでその原因を考えたりもしていた琴美ではあったが、一向に不安は拭えない。もしかすると自分はそもそも最初から黒木智子その人であり、入れ替わったというのは医師の見立て通り、単なる思い込みに過ぎなかったのではないかという考えすら浮かんできてしまうのだった。
「あいつっぽくするのが、なんか普通っていうか……気がついたらあいつみたいなこと考えちゃってるし……」
「うーん……」
このような親友の主張には同意しかねるのか、少し困ったような声を出す光。しかしつい先程も、琴美は危うく彼女のことをないがしろにしてゆりや真子と昼食を取ろうとしていたのだった。まるでそうすることがいつも通りだと言わんばかりに、誰に言われるでもなく自ら席を動かすなどして三人で机を囲む準備をしていたものだ。
今日も今日とて智子は登校していなかったものだから、琴美に放っておかれた光はひとりぼっちであった。そんな光が自分のほうを見やってきていることに気付き、ようやく我に返った琴美が「先約を思い出した」とゆり達に断りを入れ、親友のもとへ馳せ参じたのであった。
「伊藤さんさ……これ、覚えてる? こう、コブシつくって『うぇーい』ってやるの……」
「えっ、それって……!?」
ひとつ確認しておきたいことがあった琴美は、片手でコブシを作るとそれを妙な仕草で光に向けて軽く突き出した。それを受け、僅かに表情を崩す光が驚いたような声を出す。彼女としても琴美の今しがたの行動に心当たりがあったのだ。
「ほら、入試の時の……」
「すごいね、そんなことまで分かるんだ」
琴美が光に見せた仕草は、他でもない智子がかつて光に対しておこなったことを再現してみせたものだった。まだこの学校に入学する前、入試会場にて隣の席同士となった見ず知らずの光に対し、当時の智子は砕けた調子でいきなりおどけてみせたりしていたのだ。光としてもそんな智子のことはある程度印象に残っていたようで、琴美の行動を受けてすぐさま思い出せたらしい。
「なんか伊藤さんと入試のときからずっと知り合いだったような気がしてきて……そんな筈ないのに、でもどっちが本当なのかよく分かんなくなってきちゃって……」
「うん、まあ、それはちょっとややこしいね」
まさか己の親友がずっと以前からあの智子と一応ながらも顔見知りだったとは思いもよらない琴美であったが、本日何度目かの休憩時間の際、光と話していたらこのような記憶がふと心の中に浮かんできたのであった。本来彼女との縁は一年生の時に同じクラスになったことがそもそもの始まりだったはずだ。にもかかわらず、一方で全く異なった見解が意識の底から頭をもたげてきてしまい、琴美を惑わせて仕方がない。
「ちょっと色々考えてたんだけどさ……」
「?」
そうした出口のない思考に捉われていたところ、なにやら話し始めた様子の光であったから、うなだれ気味だった琴美は顔を上げてそれに応じる。
「そういうのって、たぶん『ここ』のせいじゃない?」
「えっ……?」
そのように言う光が、ふいに琴美の額を指でそっとつついた。柔らかなその指先に押されて少しばかりのけぞった琴美は、眼前に迫った親友の手に両目を寄せる。
「今の琴の体って黒木さんのでしょ? だったら頭の中身もやっぱり黒木さんのままなんじゃないかなって」
「う、うん……?」
「ほら、海馬とか、大脳皮質とか、そういうの。だから元々黒木さんの脳が覚えてたことを、琴が知ってたって別に不思議じゃないと思う」
琴美を襲った異変の原因について納得できそうな理由に思い至っていたのだろうか、光は自分なりの見解を披露した。琴美の悩みの正体が、智子の肉体に具わる記憶中枢にこそあるのだと、光はそのように考えているようだ。
「人間の性格とか仕草なんかも、ある程度はその人の記憶とかが元になってたりするのかも……。つい黒木さんみたいなことしちゃうってことは、琴が黒木さんの体に引っ張られてるんじゃないかな?」
「あ……うん、そっか、そうなのかも……!」
一歩引いた場所から語られる光のそうした冷静な意見に、琴美はさもありなんといった気持ちにさせられた。確かに親友の言うようなことが自分に起きているのであれば、今朝から己を悩ませている諸々の奇妙な現象にも一応は説明がつくのだ。
「でも変だよね、昨日まではなんともなかったんでしょ?」
「うん、まあ……」
とはいえ光の指摘通り、つい昨日までこのようなことは起きていなかったというのも事実だ。それが一体どういう訳か、今朝から急におかしなことになり始めたのだった。あるいはそれは、時間の経過と共に表れ始める類の厄介な現象なのかもしれない。
「他はどう? 何か変わったことってない?」
「いやまあ、特には……」
どうも自分が智子っぽくなってしまったこと以外には、これといって思い当たる節はない。強いて言えば、己の中で時折浮かび上がってくる智子の記憶に対してえも言えぬ危機感を抱いてしまうぐらいなものだった。思い出せば出すほどに、自分が元々持っていた筈の何かが損なわれていくような、そうした感覚があったのだ。
「……ねえ琴、ちょっといい?」
「あ、うん」
「二年の時、私たちがどこのクラスだったか言ってみて」
「えっ? あーっと……」
なにやら緊張した様子の光が、そのように切り出す。何故そのように至極単純な質問をするのだろうと、親友の意図がいまいち分からない琴美ではあったがひとまず答えてやることにする。
「四組だけど」
二年生の頃の自分達がいたクラスといえば、勿論「二年四組」だった。その記憶に基づいて答えてみせた琴美であったが、それを聞いた光は僅かに表情を硬くする。
「違うよ、六組でしょ?」
「えっ!? あっ、うそっ?」
小さく被りを振った光からそのように否定され、琴美は驚いてしまった。己の口にした答えに疑いを持ってなどいなかったから、まさかそんな筈はないという思いが湧きあがる。しかし冗談を言っているようには見えない光からこうして間違いだと指摘されてしまうと、本当に彼女の言う通りであるような気もしてくる。
「じゃあ二年の時の担任は誰だった?」
「えと、お、荻野先生だけど……」
「それも違うね。全然別の先生だよ」
「えー、そんな筈……」
光の言葉に思わず反論しようとした琴美であったが、言葉が出終わらぬうちに口をつぐんでしまう。てっきりあの荻野教諭こそが二年生の頃の担任で、進級した今も引き続き自分の担任になったものとばかり思っていたが、はて本当にそうだろうかという疑念が湧いてきたからだ。光から指摘されたことで浮き彫りになってきたその小さな違和感が、琴美の心に揺さぶりをかける。
「……琴、私が何部に入ってるか知ってる?」
「あっうん、吹奏楽部、だっけ……?」
「うん、そうだね」
続けて投げかけられた親友からのこうした問いに琴美は些か自信なさげに答えてみるが、こちらは正解だったようなので胸を撫で下ろす。その思いは光のほうも同様だったらしく、今しがたの答えを受けてどこかほっとしたような顔をしていた。
「なんだろ、もしかして結構忘れちゃってることとかあるのかな?」
「わ、わかんないけど……」
正解を知っていて当たり前のはずの、ごく簡単な質問に正しく答えられない。それは琴美にとってショックなことであった。幸い親友に関することであれば間違えたりはしないようだが、それ以外のことは果たしてどうであろうか。
「あっ、待って! 今年のロッテ開幕戦のスタメン、言ってみるから」
ひとまず自分が今まで記憶してきたことを改めて検証してみようと、琴美は己の得意分野に関することで頭を捻ってみることにした。普段であれば覚えていて当然のことなので、流石にこの程度なら確実に思い出せるだろうと踏んでのことだ。
「一番
難しい顔をしてブツブツと誰かの名前を暗唱し始めた琴美であったが、おそらくは彼女の愛する地元球団に関連した何かしらの情報と思われる。これといって野球に興味の無い光には琴美の呟くスタメンとやらの内容が正解なのかどうか判断がつく筈もないのだろうが、順調に暗唱を続けていく親友をひとまずは見守るのだった。
「うん、ちゃんと覚えてる」
「覚えてるんだ……」
今年度のものだけに飽き足らず、続けざまに去年や一昨年の分までをもそらんじてみせた琴美であったが、本人としては満足する結果に終わったようだ。ともあれこの手のことに関しては今のところ影響は出ていないようだと、己の愛する球団の記憶が無事であることに琴美は安堵した。
(他はどうだ……? なんか忘れてそうなことは……)
しかしまだまだ安心はできない。思いもよらぬ形で何かしら記憶の齟齬が起きている可能性は十分考えられる。そのように考えた琴美は、自身に関する身近な事柄を思い出そうとしていく。
(誕生日は○月○日……ケータイの番号は×××-○○○○-××××……住所は千葉市稲毛区稲毛○丁目の○-○○……兄弟は弟がひとり……お父さんはサラリーマンで、お母さんは主婦……って、あれ?)
ひとまずこうしたことについてはすんなりと思い出せた。いや、確かに思い出せはするのだが、それが果たして正解なのかと問われれば少しばかり疑わしくもあった。頭に浮かんだどれもこれもに妙な引っかかりを感じてしまうからだ。
(いやいやいや、弟なんかいないしっ……! なんだこれ、なんか変だぞ……?)
はっとなった琴美が、いつの間にか己の中に根ざしていたその認識を慌てて打ち消す。何故か自分に弟がいるような気がしてしまったものの、そんな筈がないということに気付いたからだ。もし智貴が自分の弟だったらどんなに素敵だろうと、実際にそのような妄想に耽ったりしたことはこれまでにも何度かありはしたが、それも叶えようのない願望に過ぎないことは勿論分かっていた。にもかかわらず、ごく当たり前のように狂った認識が浮かび上がってきてしまったものだから、琴美は己の中に生じた違和感をますます深めていく。
(お母さん主婦じゃないし! フツーに働いてるし!)
母親に対する認識もどこかおかしい。己の母は今も昔も外へ働きに出ている人の筈なのに、何故かそうした前提がすっぽり抜け落ちて、専業主婦をやっているように錯覚していたからだ。その上どうにも奇妙なことに、母のことを思い出そうとするとふたりの人物がどうしても目に浮かんできてしまうものだから、琴美はもう訳が分からない。一方は琴美自身の母が、そしてもう一方は智子の母が。一体どちらが己の本当の母親なのかは明白な筈なのに、ふたりの印象が混ざりに混ざってなんだか同一人物であるようにも思えてしまう。
(お父さんは……お父さんは……)
そうして今度は自身の父親について考えたところで、琴美はぞっとさせられた。ずっと昔に帰らぬ人となった筈の父が、今も尚健在であるように感じられてしまったからだ。現在もごく普通に生活を共にしていて、帰りの遅い父におかえりの挨拶をしてあげたり、時折彼から言葉少なに近頃の調子なんかを尋ねられたりしていたものだと、そのような思いが湧き上がってきてしまう。
いやいやそうじゃない。これらの記憶はあくまで智貴の父に関する事柄なのであって、自分本来の父親に関することなどではない。目に浮かんできた父の顔は釣りが趣味らしいあの黒木家のご主人なのであって、ロッテ狂いだった亡き父とは全くの別人なのだから。そのように自分へ言い聞かせる琴美は、遠い思い出の中に残るかつての父の姿を思い出そうとする。
(あれ……? な、なんで……?)
しかし見つからない。頑張って思い出そうとしても何故かあの懐かしい父の顔が目に浮かんでこない。幼い頃に亡くなった父との記憶は元々ごく限られたものしか残っていない琴美ではあったが、それでも忘れがたい思い出なら確かにあった。にもかかわらず、そうした思い出の中に登場する父が、あの智貴の父へとすりかわってしまっているのだった。こんな筈はないとどれだけ頭を絞ってみても、やはり亡き父本来の姿を思い浮かべることが琴美にはどうしてもできなかった。
(どうしよう……どうしよう……お父さんの顔、もう思い出せないよ……!)
年月だけでいえば僅かな間だったかもしれないが、それでも確かに幼少期の自分と共にあった身近な存在。そうした亡き父の記憶に決定的な綻びが生じていることを突きつけられ、琴美は泣きたくなってしまった。
単純に忘れているというよりも、これはもはや「書き換えられている」といったほうが正確かもしれない。元々自分の中に記憶されていた筈の事柄が、強制的に別の何かへと上書きされてしまったような感覚。こうしたこともおそらくは智子の肉体に影響されてのことなのかもしれないが、それが大切な家族のことにまで及んでしまっていたものだから、琴美は取り返しのつかない喪失感を覚えずにはいられない。
(無くなる……消える……みんな……ぜんぶ……)
一体いつからこんなことになっていたのか。自覚させられたのはつい今しがたであるものの、もっと以前から己の知らぬ間にこのような異変がじわりじわりと内部で進行していたのだろうか。今はまだ小宮山琴美として覚えていることもあるにはあるが、それも明日や明後日は分からない。もしかすると元々の自分が具えていた記憶のほとんど、あるいは全てが、やがて時間の経過と共に智子としての記憶へと無理やりすげ替えられてしまうのではないか。
もしそうなってしまったとしたら、そこにいるのは一体誰なのだろうか。肉体のみならず記憶までもが智子のものへと入れ替わってしまった自分は、もうただの黒木智子本人でしかないのでは。小宮山琴美としての自分はもはやその時点で消滅したも同然なのだと、琴美の頭の中でそのように悲観的な考えがグルグルと巡って止まらない。
「どうしたの?」
琴美が急に押し黙ってひどく深刻そうな顔をするので、心配した光が声をかけた。するとすっかり青ざめた様子の琴美が、ふるふると揺れるその瞳で傍らの親友にすがるような視線を向ける。
「いとうさんっ、私、やっぱりなんか変だよっ……!」
「わっ!?」
「このままじゃ私、く、黒木さんになっちゃう! 私が私じゃなくなっちゃうよぉ──!」
「ちょ、ちょっと琴……!」
光へとすがりついた琴美が、取り乱した様子でそのようなことを訴え出した。突然のことに面食らう光であったが、琴美の膝の上から危うく落ちそうになった弁当箱をすかさず手で支えてやったりする。
「落ち着いて、大丈夫、大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよぉ……もうおしまいだよぉ……」
積もり積もった不安がここに来て限界に達してしまったのか、とうとう琴美は泣き出してしまった。ひとまずお互いの弁当箱をベンチの端に避難させてやった光は、しがみついてくる琴美のその肩をさすってやったりする。
「なにがどう変なの? ね、教えて?」
「おっ、お父さんのこと、思い出せなくって……ぐすっ……な、なんか他にも、色々おかしくって……」
急に取り乱してしまった親友を前に少しばかりうろたえた様子の光ではあったが、優しく諭すように琴美の今感じている不安の理由を聞き出そうとする。そうして琴美は、肩を震わせながらも嗚咽混じりにその心情を吐露していくのだった。
*
「ひょっとしたらだけど、黒木さんの体にだんだん馴染んできてるんじゃないかな」
「なじむ? 私が?」
「うん。だから琴が前から覚えてたこととかも、ちょっと変な感じになっちゃってるんだと思う」
己の訴えを一通り聞き届けた光からの意見に、琴美はなんとなくだが心当たりがあるように思えてしまった。これまで身に覚えのない智子としての記憶を思い出す度、少しずつ自分が自分でなくなっていくような気分を味わわされていたものだが、ひょっとするとそのような感覚こそが親友の言う通り智子の肉体に馴染みつつある証拠なのかもしれないと、琴美はそのように考えた。
「琴の言う通りかもね。もしかしたらこのままだと琴、本当に黒木さんみたくなっちゃうのかも」
「え~、そんなぁ……」
光が不安を煽るようなことを口にするものだから琴美の中で焦りが募る。今起きているような異変が時間の経過と共に益々進行してしまうのだとするのならもはや悠長に構えてなどいられないのだ。まだ自分を保っていられる今のうちにどうにかして本来の体へと戻らなくては。そうしなければ押し寄せる肉体からの侵食を前にやがては己の心が全て塗り替えられてしまいかねない。そしてそれはきっと自分だけに限った話ではなく──
「あいつも、そうなのかな?」
「黒木さん?」
「うん。あいつも私みたく、おかしくなってきてるのかなって……」
「どうかな……黒木さんとまだ連絡つかないの?」
「全然ダメ。あいつ、電話もメールも全部無視してるみたいだから」
「そっか……」
己と同じ境遇にある相方もまた、同様の異変に苛まれてはいないだろうか。もしそうなのだとしたら、一体今頃どうしているのだろうか。自分の中に生じた異変を前にしてパニックに陥ってはいまいか。そんな風に考える琴美としては、もうひとりの当事者である智子のことも心配なのだった。
(やっぱあいつんとこに行ってみるか……)
これまでは智貴に遠慮したり、あるいは彼から咎められたりしたせいで相方と会えずにいた琴美であったが、もうそのようなことを言っている場合ではない。智子とひと目会わずにはいられなくなった琴美は、今日にでもかつての己の住まいへと足を運ぶ決意を固める。そうしてもし智子の体調が悪いのでなければ、会いに行ったついでにそのまま例の神社へも同行してもらって、元に戻る為の手立てを一緒に探してみるつもりでいたのだった。
「ちょっと、あんたたち」
「!?」
しばく考え込んでいた琴美であったが、背後から誰かがいきなり呼びかけてきたものだから咄嗟にそちらを振り返る。するとそこには、自分たちの座るベンチのすぐ後ろに佇むひとりの女生徒の姿があった。
(誰……?)
気配もなく突如出現したその相手に面食らう琴美であったが、それは傍らの光も同様だったようで、ややたじろいだ様子で件の不審者を見やっていた。
(あっ、この人……えっと、確か……)
しかしすぐさま琴美の中で、彼女に対する既視感が湧き上がってきた。初対面の筈なのに、お互い見知った仲でもあるような気がしてしまうのだ。
「う、
己のことをじっと見据えてくる目の前の女生徒に妙な圧力を感じてしまう琴美ではあったが、ともあれ頭にぼんやりと浮かんできたその名を、相手への確認の意味も込めて口にしてみせるのであった。
つづく