姓は
学年は同じながら、これまで琴美とは同じクラスになったこともなく、言葉を交わしたことすらない。それどころか琴美はこれまでの人生の中で一度たりとも彼女の存在を認識したことなどなかったから、本来であれば完全に赤の他人そのものだと言い切ってしまっても差し支えない。
「えーっと、話って何……?」
そうした縁もゆかりもない筈の相手から突然声をかけられ、「話がある」と言われたのはつい先ほどのことだった。隣へと座り込んできて、そのまま押し黙ってしまった笑美莉からへばりつくようなむず痒い視線を向けられていた琴美は、妙な既視感を覚えながらもいい加減居心地が悪くなってきてそのように尋ねてみる。
「あんたたちさ、さっき変なこと言ってたよね? 黒木になっちゃうとか、そんな感じの」
「あっいや、それは……!」
促されてようやく口を開いた笑美莉がそのようなことを言って話を切り出してきたのだが、少し前まで傍らの親友に内心の不安をあれやこれやと涙ながらに打ち明けていた琴美であったから、自分たちの秘密のやりとりを盗み聞きされていたのだろうかと、少しばかり身構えてしまう。
(とりあえずごまかしとくか……?)
出くわしてからというもの、琴美はどうにもこのさっぱり顔な女生徒が以前からの知り合いであるように思えてならなかった。出会い頭に呼んでみたその名を本人が否定しなかったところを見るに、どうやら「内さん」という名前も間違ってはいないようだ。
ということは、ひょっとすると智子の知り合いなのかもしれない。いまや智子の肉体にその心までもが侵食されつつある自分であったから、本来は面識のない筈の相手に多少の馴染みを感じたとしてもなんら不思議ではない。智子自身からは特に紹介されなかったものの、そうする必要もない程度の浅い付き合いの生徒がいて、そのひとりがこの笑美莉なのだろうと、琴美はそのように考える。
「えと、ほら、『黒木さん状態』っていうの? 私がなんか面白いことするとさ、男子とかが真似してきて『黒木さんになっちゃう』ってふざけたりするからさ、そういうのヤダなーって話してて……ハハ……」
であるのならば、ここはいたずらに話をこじれさせてしまわぬよう、適当な説明をでっちあげてやり過ごすほかない。入れ替わり生活が始まってからというもの、智子の人間関係に極力影響を与えてしまわぬようにと気を配っていた琴美がこのような結論へ至るのは必然であった。
(なんだこれ……?)
しかし思いつくままそれっぽいことを言ってはみたものの、琴美は自身の口から飛び出した内容に奇妙さを感じてしまう。笑美莉からの追及をかわすに足ると思われる言葉として心に浮かんだものをそのまま喋ってみたのであるが、
「ふーん……」
ともあれ第三者からすれば一応それらしく聞こえなくもない琴美からの説明を、笑美莉がどう受け取ったのかは分からない。納得したのかしないのか、彼女はいまいち感情の読み取り辛い表情のまま先ほどと同じく琴美を見据えるばかりだった。
「ハッキリ言うけどさ、あんた黒木じゃないでしょ?」
(げっ!?)
それは思いもよらぬ突然の指摘であった。怪しまれるといった過程を飛び越えて、一体どういう訳か笑美莉は琴美の抱えていたその秘密へといきなり踏み込んできたのだ。突然のことに気を動転させる琴美であったが、こうした驚きは数日前にも親友から与えられたばかりであったから、己の傍らで静かに座る光に顔を寄せ、
(どうしようっ!? なんかバレてるんだけど!)
(うーん……)
琴美からひそひそ声で耳打ちされた光は、ほんの少し唇を尖らせて思案するような表情を作る。彼女も彼女で少しばかり戸惑ってはいたようだが、混乱著しい相方からの期待へ応えるかのように声を潜めて言葉を返す。
(本当のこと言ってみたら?)
(いいのかな……?)
(大丈夫だよ。たぶんその子、もう色々分かってると思うから)
この際真実を打ち明けてみてはと勧めてくる光であったから、思いきって琴美は先ほどの笑美莉からの指摘を認めてみせることにした。返事を待つ笑美莉へと振り返り、意を決した琴美は口を開く。
「まあ、その、内さんの言う通りっていうか……黒木さんじゃないってのは、半分当たってるというか……」
「半分って?」
「あっうん、体はまあ黒木さんのなんだけど……その、頭の中っていうか、心だけ入れ替わっちゃってるって感じで……」
ひとまず琴美は今の自分の状態をかいつまんで説明していく。仮にもし同じようなことを他の誰かに打ち明けてみせたとしたら、その相手はきっと困惑するか、あるいは面白くもない冗談を言ってるだけなのだろうと呆れてしまうところだ。しかし笑美莉はというと、合間に軽い質問を挟んでくる以外は至って平静に、かつ興味深げな様子で琴美の語る内容に聞き入っているようだった。
*
「じゃあ、今はその小宮山って子がホントの黒木ってこと?」
「あっそうそう、そんな感じかな」
色々省きはしたものの今回の騒動における要旨を話し終わったところで、笑美莉がそのように尋ねてきた。妙に物分かりのよい相手だと思いつつも琴美が同意してみせれば、笑美莉は「やっぱり」などと納得した様子で呟いたりする。
「私、最近ずっとあんたのこと見てたんだけど……」
「へっ?」
と、今度は笑美莉がそのようなことを口にし始めた。「ずっと見ていた」とは一体どういうことなのかと、一転して琴美のほうが聞き入る態勢をとる。
「黒木のやつがさ、月曜からちょっとヘンだなって思ってたの。髪形とか制服の着こなしとか、いつもと全然違ってたし」
「あー、いやまあ、それは……」
数日前に智子からそれらの点を「私らしくない」と改めさせられた琴美であったが、まさか笑美莉からも同じように思われていたとは予想だにしていなかった。
「髪の毛だってほら、こんなにサラサラ……どう考えてもおかしいでしょ?」
「えっ、あっ、う、うん?」
ふいに手を伸ばした笑美莉が、琴美の豊かな髪をそっとすくいあげ、その感触を手で確かめてみせた。突然のことに驚いて身を引いてしまう琴美であったが、どこか遠い目をした笑美莉はそのまま言葉を続ける。
「あいつの髪はこう、もっとボサボサで、手入れとかあんまりしてない感じだもの。それに肌つやも……もっと血色が悪くなくっちゃ、あいつらしくないよ」
「ちょ、ちょ、ちょっと!」
何を思ったのか、顔を近づけてきた笑美莉が今度はその掌を頬に沿わせてきたものだから、驚いた琴美は慌てて彼女を押しのける。
「す、凄いね……? そんなので見破っちゃうなんて」
恐るべき観察力というべきか。琴美としては入れ替わってからのこの一週間、普段通り髪や肌の手入れをしたり、夜更かしを避けるなど至って健康的な生活をしていたに過ぎないのだが、その結果として起きた外見上のわずかな変化も笑美莉に違和感を覚えさせるには十分であったようだ。
あるいは常に恋する乙女であり続ける琴美の影響で、女性ホルモンやらなんやらを肉体がふんだんに分泌した結果として思いがけない変化が生まれていたのかもしれない。
「いや、それだけじゃないし。話し方とか仕草も全然違うんだもん。まあ今日はちょっとだけあいつっぽいけど……でもやっぱり違う。黒木はそんなんじゃないから」
「へ、へー……?」
どうやら笑美莉としては、外見に限らず他にも様々な点において不審がっていたようだ。それにしてもクラスメイトでもないらしいこの女生徒が一体いつのまに、そしてどこから自分のことをそこまでじっくり観察していたのだろうかと、逆に琴美のほうこそ不審がらずにはいられなかった。
「他の連中は騙せても、私の目はごまかせないよ。ほら、一目瞭然じゃん」
やけにこだわりを感じさせる主張にひと区切りつけたところで、どこからどこまでが瞼か分からぬその目を見開いた笑美莉が琴美にずいと迫ってくる。
「なんか魂が別ものって感じするんだよね、あんた」
「う、うん……」
そこまで断言されては、もはやどう反応してよいのか分からない琴美であった。しかしそれはそれとして、こうも力強く他人から智子との不一致を指摘されたことに琴美は少なからずほっとしてもいた。いくら記憶が侵食されようとも自分はやはり黒木智子などではないのだということを、目の前の女生徒がしつこいぐらいに保証してくれたからだ。
光からは肯定の、そして笑美莉からは否定の、それぞれ異なる方向からの安堵を得られたからか、琴美は自分の心に幾分か落ち着きが戻ってきたことを感じていた。己の内面がじわじわと侵されていくかのような得体の知れぬ不安感も、今は心なしか鎮まってきたように思えてくるのだった。
*
「で、どうなの? なんか手がかりとかないの?」
「いや~、それがまだ全然……」
中途半端なところで止まっていた昼食を再開した琴美は、笑美莉も交えて今後のことを話し合っていた。自分も力になりたいと申し出てきた笑美莉であったから、一緒になって解決策を考えてもらうためだ。
「その神社に何かあるかもって、黒木が言ってたんでしょ?」
「まあ言ってたって訳じゃないんだけどさ……なんかあそこで私たちが変なことしちゃったんじゃないかなって話になって」
「じゃあもっと調べなきゃダメじゃん。今まで何してたの?」
琴美の説明を受けて、笑美莉が些か非難めいたようなことを言う。笑美莉からすれば少しでも怪しいと思ったのなら速やかにそこを徹底調査するのが当然だという考えなのだが、当の琴美はといえば数日前に一度足を運んだきりで、それも碌に成果の出ないうちから途中で引き上げてしまったのだった。
「いやまあ、ひとりで調べに行ってもあんまり意味なさそうだし……」
「どうして?」
「その、黒木さんと一緒に行かないとダメっていうか……入れ替わる前にあそこで私たちが色々やってたことをふたりで再現してみたら何か分かるんじゃないかなって……」
本当は琴美ひとりで調査に赴くことだって考えたりもしていたのだが、それも智貴の監視があって結局実行できずにいた。しかしそうしたところはひとまず伏せておいて、琴美は言葉を続ける。
「でも黒木さん、ここんとこずっと休んでるからさ。メールとか電話も全部無視してるっぽいし……。ほんと、どうしちゃったんだろあいつ」
すべては智子と智貴を放課後の教室でふたりっきりにさせたあの日からだ。あれ以降、智子と全く連絡がつかなくなり、学校にもぱたりと来なくなってしまった。単に熱でも出して休んでいるのだろうかと思わなくもないが、ここ数日は智子のことを考える度に妙な胸騒ぎを覚えずにはいられない琴美であった。
「それってさ……もしかしたらだけど、黒木の弟が原因かも」
「えっ?」
話を聞いていた笑美莉がふいにそのようなことを言ってきたので、琴美は驚かされた。智子としての記憶の中ですらやや印象の薄いらしいこの女生徒が、まさか智貴について言及してくるとは。
「と、智貴くんが? なんで……?」
「私、見ちゃったんだよね。ふたりが言い争ってたの」
突然の告白に目を白黒させる琴美であったが、冗談や出まかせで言っているのではないということが笑美莉の真剣な表情からうかがえたので、息を呑みつつ次の言葉を待つ。
「ほら、月曜の放課後。あんたたち、あの弟くんとなんか話してたじゃん」
「ああうん、まあ」
「黒木のやつ、すっごい取り乱してたもん。普通じゃなかった……」
どうも笑美莉が言うにはあの日の放課後、先に下校してしまった琴美のあずかり知らぬところでひと騒動あったということらしい。姉弟のあいだで交わされたやりとりについて少し気になっていた琴美は、神社へと迎えにやってきた智貴にそれとなく尋ねてみたりもしたのだが、「大したことじゃない」とはぐらかされていた。しかし彼のその言葉の裏側で、まさか尋常ならざる揉めごとが起きていたとは思いもよらないのであった──。
◆
「え……? な、なんで……? だっておまえ、さっきちゃんと分かったって……」
顔を青ざめさせるメガネの子が、なんだかキモい感じのするその声を震わせていた。いや、震えていたのは声だけじゃない。体のほうも弱々しく揺れていたのが遠目にも分かる。スカートの裾をぎゅっと握り締めたその子は、自分の前に立つ男子に向かって何かを訴えているみたいだった。
「すんません、嘘つきました……。こういう話、姉には聞かせられないんで」
対する男子のほうは至って落ち着いた様子で、というよりちょっと冷たい感じでそんなことを言う。あの男子は黒木の弟で、少し前までは黒木本人も交えてあれこれ話し合っていたみたいだけど、黒木だけ先に帰った途端に態度が変わったみたいでさっきから妙な雰囲気だ。
「先輩、この通りです。お願いですからウチの姉にしばらく近づかないでやってください」
「おいっ、やめろよっ! なんでそんなことすんだよっ!」
物陰に隠れてこっそり事の推移を見守っていたら、今度は弟くんがメガネの子に深々と頭を下げてそんなことを頼み始める。そしたらメガネの子がもっと真っ青になっちゃって声を荒らげたのだけど、よっぽど頭を下げられるのが嫌だったのか、どうにかそれをやめさせようと彼に掴みかかった。
「ウチの姉ってなんだよ!? 私だよ! 私がおまえのねーちゃんなんだよ! さっきあいつもそう言ってたろーが!?」
「違うんです……先輩は……あんたは俺の姉貴なんかじゃない。あいつも先輩も、まだ病気が治ってないからそんな風に思い込んでるだけなんです」
「バカヤロ──! このハゲっ! おまえ、あんだけ説明してやったってのに、まだ分かんねーのかよ──!」
無理やり顔を上げさせられた弟くんだったけど、今度はメガネの子に胸ぐらを掴まれて凄い剣幕で怒鳴られていた。弟くんの顔はどうしてか疲れきっていたように見えたから、なんだか気の毒に思えてきてしまう。
それにメガネの子が主張してることはどう考えてもおかしい。さっきは黒木までもが同じようなことを弟くんに訴えてたみたいだけど、一体何がどうなってるんだろう。あの弟くんは、黒木の弟のはずなのに。
「おまえのことなら、ねーちゃん何でも知ってんだぞ? ほらっ、おまえがこの学校に入れたのも、ねーちゃんのおかげだったろ? おまえ捻くれてっからさ、最初は他所に願書出そうとしてたじゃんか。私が止めてやったんだからな?」
弟くんのげんなりした様子に気付いた風もなく、彼の「姉」を自称するメガネの子の言葉は止まらない。どうにかして自分のことを認めさせたいらしい必死さだけが、あの子を突き動かしてるようだった。
「おまえの恥ずかしい秘密だってなー、バレバレだっつーの。ホントはいっつも姉のタイツ姿に興奮してんだろ? この変態コゾーが!」
「勘弁してください……」
もう罵倒にしか聞こえないようなことまで口にして、なおもメガネの子は弟くんに言いすがる。だけどそうするうちに弟くんの表情の中に疲れとはまた別の、不快そうな色が混じり始めたので私はひやひやしてしまう。
「お、おまえがねーちゃんのこと大好きなシスコンだってことも、へへ……お、お見通しだかんな!」
「やめてくれ」
ついには剣呑な雰囲気を放ち始めた弟くんが露骨に嫌そうな顔をするのだけど、あの子はお構いなしに言葉を続けていく。
「おねーちゃんと結婚するするーって、ガキん頃はもーそればっかり。そんなの無理だよっていくら言っても」
「やめろっ!」
たまりかねたらしい弟くんが急に怒鳴ったものだから、私のほうまでびっくりしてしまった。目の前でその怒りを直接受け止めたメガネのあの子はというと、さっきまで弟くんの胸ぐらを掴んでいたその両腕を、今度は逆に掴み返された状態で口をあんぐりと開けたまま絶句していた。
「……そういうのやめてくれませんか? 正直すっげー不愉快なんで」
やがてそっとメガネの子から手を離してあげた弟くんが少しバツの悪そうな様子で、だけどもきっぱりとした口調でそんなことを言い放った。すっかり硬直したままのメガネの子だったから、その言葉がちゃんと聞こえていたのかどうか私には分からない。
「ウチの姉はあれでもちょっとずつ良くなりかけてるんです。でも、先輩と一緒にいるとせっかく治りかけてたのがまた元に戻っちまうみたいで……。だから、ホントお願いします。あいつのことはどうかそっとしておいてやってほしいんです」
今改めて弟くんが、さっきと同じような頼みごとをして頭を下げる。覗き見してるだけの私までもが胸をしめつけられてしまいそうな、押し殺した辛い気持ちが滲み出ているかのような声色だった。
「あう……あう……」
それに対して何か言おうと口をパクパクさせるメガネの子だったけど、さっきから胸全体で呼吸するかのようにその身をうわずらせているからか、満足に声も出せないでいるみたい。
「じゃあ、もう帰りますんで……。あいつは俺が迎えに行っときますから」
そんな状態でいるメガネの子を尻目に弟くんが机の上に置いてあったショルダーバッグを肩にかけると、最後にそう言い残して教室を出ていってしまった。ひとり残されたあの子は何をするでもなく、ただずっとその場に立ち尽くしているだけだ。
「あ……だ、大丈夫……?」
なんだか可哀想でたまらなくなった私は、教室に入っていってそっとメガネの子に話しかけてみた。そうしたらその子がはっとした様子で私のほうを見やってきたのだけど、いつのまにか泣いていたようで目元はすっかり涙でびしょびしょになっていた。何故だかその顔が、今この場にいない黒木の面影と一瞬被って見えたものだからドキッとしてしまう。なんだろう、目の錯覚だろうか。
「ケンカしてたみたいだけど……なんかあったの?」
どうして赤の他人へこんな風に声をかけてしまうのだろうか。なんだか放っておけなくって、この子を慰めてあげたかったのかもしれない。いやまあ、完全に知らない相手って訳じゃないけども。今朝から黒木のやつと度々一緒にいたこの子のことが、私はどうにも気になっていた。
てっきりあいつがまた新しい女の子に手を出したんだと思って腹を立てていたんだけど、どうも観察した限りではそうじゃないみたい。どちらかというとただの友達っていうか、むしろあんまり仲良くないのかなって感じだったし。この子は何故か黒木のことを「こみさん」と妙な名前で呼んだりしていたのだけど、一体どういう関係なんだろう。
「ほら、これ使って」
ハンカチを取り出した私は、メガネの子にそれを差し出してあげる。黒木と同じクラスの生徒らしいこの子はあいつと一緒に職員室へ呼び出されたりしていたのだけど、不審に思ってふたりの後をつけていた時はまさかこんなことになるなんて思わなかった。
「いや、いいわ」
だけどもメガネの子は涙をぬぐうこともしないで、私に一言そう断ってみせるとそのまま自分のリュックを背負って教室を出ていこうとする。
「あ、待って……!」
心配になった私は、一緒に教室を出てそのままついていくことにした。そうしたら、やがて職員室の近くを通りかかったあたりでメガネの子がぴたりと足を止めた。どうも視線の先にいる誰かをじっと見つめているようだった。
(あ……黒木の弟……)
それは、さっき教室を出ていった弟くんだった。てっきりもう帰宅したものと思っていたけれど、荻野先生となにか話し込んでいたみたいだ。
「ともき……ともき……」
そうしたら、メガネの子がぶつぶつと何かを呟き始めた。と同時に、ふらふらと弟くんのいる方向に向かって歩き出す。やがてあの子の歩調はどんどん速くなっていって、ついには走り出してしまった。
「うおっ!?」
横腹から抱きつくような形で、メガネの子は勢いよくあの弟くんに飛びついていった。突然のことに声をあげて驚く弟くんだったけど、突っ込んできた相手がメガネの子だと分かって更にぎょっとしてるみたいだった。
「先輩、いい加減にしてくださいって……!」
「ちょっと小宮山! ほら、なにしてるの!?」
ひどく迷惑そうな様子の弟くんが、小宮山と呼ばれたあの子の体を押しのけようとするのだけど、余程がっちりと組み付かれているのか引き剥がすのに難儀しているみたいだ。慌てた荻野先生もあの子を後ろから引っ張ったりするのだけど、「うぉぉん、うぉぉん」と妙な唸り声をあげるメガネの子は、狂ったようにしがみついたまま弟くんから離れようとしない。傍から見ても分かるぐらいにものすごい力だ。
ついには騒ぎを聞きつけた他の先生までもが加勢したところで、ようやく弟くんの身は自由になった。ぜいぜいと息をつく彼だったから、メガネの子の拘束から逃れるのに余程体力を使ったのかもしれない。
「なんでだよ──! おまえっ、なんでねーちゃんのこと分かんないんだよ──!?」
先生たちに取り押さえられたあの子が、遠くで見ている私ですら思わず耳を塞ぎたくなるほどの大声で叫ぶ。その絶叫は、目の前の弟くんに向けられているようだ。
「わたしがっ、おまえのっ、姉だろうが────ッ!!」
廊下中に響き渡るあの子の叫び声は、まだ校内に残っていた生徒たちの関心をも引き寄せていく。通りすがった子たちが足を止めて、この騒動を見物しようとしているみたいだった。
「だからっ! 違うっつってんだろ! あんたは俺の姉ちゃんなんかじゃねぇっ!」
いい加減目を覚ませと言わんばかりに、弟くんも声を荒らげて負けじと反論する。そうしたら、彼の剣幕を前にしたあの子はまたさっきと同じように絶句すると、しばらくしてへなへなと膝をついてしまった。そうこうしているうちにふたりは先生たちに促されて、職員室の中へと連れていかれてしまう。
「ほら、なに見てるの。もう行きなさい」
職員室から顔を覗かせた荻野先生がそう言って見物客たちを追い払っていくと、そのまま扉をぴっちり閉じてしまう。でも職員室から漏れ聞こえてくるあの子のすすり泣く声が、どうしてか私をいつまでもその場に縫い付けて離さなかった。
*
「──でね、しばらくしたらお母さんみたいな人が迎えにきて、あいつを連れてったの。それからだよ、学校に来なくなっちゃったの」
「……」
笑美莉が目撃したらしいその出来事を聞かされていた琴美は、持っていた箸をいまや折れんばかりに握り締めていたことに気付く。何故だか手そのものまで震えてしまっていて軽いめまいすら覚えたのだが、それが一体どういう理由によるものなのか自覚することができないでいた。ただ、よく分からない感情の渦が己の腹の底で渦巻いているような、そうしたえもいわれぬ感覚だけがあった。
「黒木さん、かわいそう。休んでるのもきっとそのせいだよ……智貴くんに信じてもらえなくて、凄くショックだったんだろうね」
同じく笑美莉の話に耳を傾けていた光がそのような感想を口にする。智子の身を案じていた者たちや、いまや入れ替わりの真相を知った笑美莉にとっては心を揺さぶられずにはいられない事件であった。
「小宮山さ、もう直接黒木んとこに行ってみたら? このまんまじゃあいつ、ずっと学校来ないかもしれないじゃん」
「えっ? あ、うん……それはまあ、ちょっと考えてて……」
心ここにあらずの琴美であったが、笑美莉に話しかけられて我に返る。もとより本日放課後に智子のいるかつての自宅へと足を運ぶ気でいたから、誰に言われずともそうするつもりであった。きっと智貴から引きとめられはするだろうが、そこをどうにか説得して許しを得なければと琴美は考えている。
「じゃあ早く行かなきゃ」
「そうだね。学校終わったら、ちょっと行ってみるよ」
「じゃなくて、今から行きなよ。あんたたち、どんどん自分が自分じゃなくなってきてるんでしょ? だったら悠長なこと言ってらんないじゃん」
「あー、そ、そっか、じゃあ……うん!」
事態は急を要するということを、この場にいる者の中で一番理解していたのは笑美莉だったのかもしれない。あるいは一刻も早い智子の回復を願う笑美莉だからこそ、他の者よりとりわけ気が
ともあれ笑美莉の提案を受けた琴美はすぐさま同意した。何より早退する形で学校をこっそり抜け出せば、智貴に遠慮する必要などないのだ。心配してくれている彼を出し抜く形になってしまう後ろめたさはあるものの、ことがことなだけに仕方がないと割り切る他なかった。
やがて昼休みの終了を告げるチャイムが鳴ったので、三者はそれぞれ腰をあげる。連絡先の交換を求めてきた笑美莉は、なにかあれば自分にもすぐ知らせてほしいと言い残し、そのまま教室へと戻っていくのだった。
◆
「じゃあ琴……」
「うん、ちょっと黒木さんのとこに行ってくるよ」
自身のかばんを取りに一旦教室へ戻った琴美は、それを背負うと親友に向けて出立の挨拶をする。本来であれば早退する旨を担任に伝えておくべきなのかもしれないが、何かしら足止めをくらいそうな気がしてしまったので、ひとまず内緒で学校を抜け出すことにした。早退のことはのちほど光のほうから担任へ伝えておいてくれるとのことだ。
「えっ、クロ帰っちゃうの?」
「そうだよ。ほら、なんたって
午後の授業はこれからという時に、早くも帰り支度をしている琴美のことを妙に思ったらしい陽菜が声をかけてくる。それに対して琴美は爽やかな声で冗談っぽく返し、すみやかに教室を出ていった。そうした姿はどうにも
(よし、これで行くか……)
スマホを操作していた琴美が、用は済んだとばかりにそれを懐へ収める。彼女が見ていたのは普段自分が利用しているバスの時刻表であり、小宮山家へと赴くにあたって直近で
「ひえっ!?」
するとふいに誰かが背後から腕を掴んできたので、驚いた琴美はそちらを振り返った。そうしたら、目の前にいた人物に仰天させられ悲鳴のような声をあげてしまう。
「姉ちゃん、どこ行くんだ?」
琴美を引き止めたのは、智貴であった。つい先ほどまで走っていたのか少しばかり息があがっているようだが、午後からは体育の授業でもあるのか今は体操着を着用している。
「あー、あ、あ、あ、あの、えと、あの、えーっと……!」
まさか智貴が現れるとは思いもよらない琴美であったから、咄嗟に言い訳しようと口を開くも慌てふためくあまり言葉にならない。意を決しておこなったこの度のエスケープであったが、どうやら運悪く一番厄介な相手に見つかってしまったようだ。
「なんでもう帰ってんだ? 早退すんのか?」
「あっ、うん、そ、そうそう……!」
「具合でもわりぃのか?」
「う、うん……まあ……」
どう頭を回転させてみても、うまい言い訳が思いつかない。だから琴美は智貴に質問されるまま、どうにか話を合わせようとその場しのぎの曖昧な返事を繰り返す。
「そんなら送ってくよ。俺も一緒に行くからちょっと待っててくれ」
「えーっ? いやっ、いいよそんな、悪いって!」
これがもし一週間前の琴美であれば、智貴からのこうした申し出に白日夢を疑うほど浮かれていたに違いないが、今この時この状況にあってはありがた迷惑でしかなかった。
「じゃあウチに電話して迎えに来てもらおう。ほら、一旦戻ろうぜ」
同行の申し出を遠慮されたことで、今度はそのようなことを提案する智貴。どうやら何がなんでも今の琴美をひとりきりにするつもりはないようだった。そうして彼は掴んでいた琴美の腕を引っ張って、もと来た道を引き返させようとする。
「だ、ダメだよ……! 私、行かなくっちゃ……!」
だが、琴美はそれに応じない。智貴の引っ張る力に抵抗して、どうにかその場で踏み留まろうとする。どのみち己の自由行動を智貴に咎められた場合は、なんとしてでも彼を説得するつもりでいたから、ここで大人しく従うという選択肢はそもそもなかったのだ。
「行くって……どこへ?」
ひとまず引っ張るのを止めた智貴であったが、代わりにその顔色が一変していた。というよりも、薄々危惧していたことが的中してしまい、一気に警戒心を募らせたとでもいうような様子だった。
「く、黒木さんのとこ……。私、キミのお姉さんに会わないといけないから」
「あの人に呼び出されたのか?」
琴美のその言葉に驚いた風もなく、むしろ予想通りの返答が来たという感じの智貴は間を置かずに尋ねる。もしも事情を知らぬ者──例えば智貴のクラスメイトで、その姉である智子とも一応の知り合いである
「ううん、そうじゃないの。なんていうかその、説明すると長くなっちゃうんだけど……」
「ダメだ、行くな。絶対行かせねえから」
しかし今この場において、琴美の言わんとすることを智貴は十分に理解していたようだ。自分の姉はどうやらあの厄介な先輩のもとへ向かうつもりらしい。このまま見過ごせば、せっかく回復の兆しを見せていた姉の心は再び逆戻りしてしまうに違いない。であるのならば、なんとしてもそれを阻まねばならない。そのような思いで強い意志を見せる智貴であったから、生半可な説得ではどうにもならなそうだと琴美は焦りを覚えてしまう。
今改めて入れ替わりの事実を説明したとしても、それを智貴が受け入れるとは到底思えない。笑美莉の証言によれば、彼は智子からの涙ながらの訴えまでをも頑なに突っぱねたそうなのだから。
(あっ……やばっ……)
そこまで考えたところで、琴美はいつの間にか己の腹の底で得体の知れぬ激しい感情が渦巻き始めていたことを自覚する。油断すれば今にも噴き出してしまいそうなそれは、笑美莉の話を聞いていた時にも発生していたのと同じものだ。これは何か危ない感じがするぞと思った琴美は、段々と勢いを増していくそれをどうにか押しとどめようと身をこわばらせる。
「あともうちょいで姉ちゃんは元通りになれるんだ。今朝だって色んなこと思い出せてただろ? 今が一番大事な時期なんだから、大人しくしてろって」
「いや、だから、その、違うって……」
そんな琴美の心の内など露知らず、言葉を続けていく智貴。彼の見当違いな物言いに軽くめまいを覚えながらもどうにか反論してみせようとする琴美であったが、先ほどから己を苛んでいる感情に圧迫されて言葉がうまく出てこない。しかし目の前の智貴の顔を見ていてはたと気付いてしまう。この荒々しい感情の矛先は、智貴にこそ向けられているのではないかと。
「ウチに帰ったらさ、ビデオ観ようぜ。ほら、俺たちのガキん頃のやつ。母さんが見つけてきたのがあんだよ」
「そんなこと、してる場合じゃ、なくて……」
琴美の掴んでいた腕を解放してやった智貴は、代わりにその両肩へと手を添えてたわいないことを提案する。ぎこちないながらも性に似合わぬ愛想笑いまで浮かべてみせる彼であったが、その様子は琴美に言い聞かせているようでもあり、それでいてどこか懇願しているかのようでもあった。
「何もしなくていいんだよ。おまえが本物の姉ちゃんなんだから」
「あ?」
どうにか姉を落ち着かさんとする智貴のそうした何気ない物言いであったが、捨て置けないことを言われたような気がした琴美は聞き返さずにはいられなかった。
「私が本物?
「姉ちゃん……?」
肩に乗せられていた智貴の手をすぱっと振り払い、まるで許しがたいものを前にしたかのような様子でそう言い放った琴美。さしもの智貴もこれには驚いたようで、姉の豹変を受けて息を呑んでいるようだ。
「おいコラ、智貴ッ!」
「うっ……!?」
すると突如智貴の胸ぐらを荒々しく掴んだ琴美が、己の目線に近い高さまで引き下ろした彼の顔を鋭く睨みつける。
「おまえ今までねーちゃんの何を見てきたんだ!? ホンもんとニセもんの違いも分かんねーのか!?」
「待て、落ち着けって……!」
姉の剣幕にたじろいだ智貴が困惑交じりになだめようとするが、その程度で収まる気配などない琴美は更に言葉を重ねていく。
「落ち着くのはおまえのほうだよ! 何をそんなびびってんだ!? 球蹴り休んでまでねーちゃんにつきまといやがって、私がいなくなっちまうのがそんなに怖いのか!?」
「それは……姉ちゃんがあぶなっかしーから……」
ぎょろりと目を見開く琴美のその眼力に気圧されてか、わずかに目を逸した智貴が歯切れの悪そうな物言いで返す。
「あんなヤブ医者の言うこと真に受けてんじゃねえっ! おまえのねーちゃんはなー、今マジにやべーんだよ! ここでモタモタしてたら取り返しのつかねーことになっちまうんだぞ!? それなのにおまえ、邪魔ばっかしやがって……! 私の弟だったら、ねーちゃんの言うこと聞いて大人しく待ってるぐれーのことができねーのか!? 信じろよっ、自分の姉を!」
その小さな体からは想像できないほどの気迫でまくし立てる琴美であったが、自分でも何故こんなことを言ってしまうのか分かっていなかった。智貴を前にしてとんでもないことを口走ってしまっているという自覚はあるものの、次から次へと溢れてくる言葉の奔流を前にしては最早抗う術がなかった。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
流石に息が続かなくなったのか、智貴にすがりつくような形でうなだれた琴美が、肩を大きく上下させて荒い呼吸を繰り返す。そうした姉の様子を前にして、頭の処理が追いついていない様子の智貴は言葉も発さずただ見ているだけしかできないようだった。
「今のねーちゃん、まるでホンもんみてーだろ……? でもな、ちげーんだよ……『魂』っつーのかな、なんかそういう……一番大事なもんが欠けちまってんだよ……だから、今からそいつを取り戻しに行くんだ……行かせてくれよ……頼むよ……」
改めて顔を上げた琴美であったが、いつの間にかすっかり泣いていたようだ。髪も呼吸も乱れに乱れ、その相貌も涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃになっていた琴美は、これが今生限りの頼み事とでも言わんばかりの様子で智貴に理解を求めようとする。
「でないと私、ずっとニセもんのまんまだ……そうなったらおまえ、このニセもんのねーちゃんと死ぬまで一緒に生きてかなきゃなんねーんだぞ……? そんなのダメだ……絶対に許さねー……ぜったい……ぜったい……ゆるさん…………」
勢いが落ちてなおも途切れ途切れに言葉を続ける琴美であったが、最後のほうは最早うわごとのような呟きになっていた。琴美本人としては大変なことを口にしてしまったという思いがある一方、言うだけ言ってやってすっきりしたような感じもしていた。己の中で渦巻いていた謎の感情も、いつの間にか消えてしまっていたことに気付く。
「あっ……! えと、あの、ご、ごめんね!? なんか変なこと言っちゃって……その、口が勝手にっていうか……!」
呼吸の乱れが整ったあたりでようやく我に返った琴美は一旦鼻をすすってみせると、今まで散々掴んだり引っ張ったりしてしまった智貴の着衣の乱れを慌てて整えてあげようとする。
「いいって」
しかし智貴はそれをやんわりと手で制した。代わりに彼は体操着のポケットからハンカチを取り出すと、それを琴美へ差し出す。
「姉ちゃん、ひでー顔してる」
「あ、うん、ありがと……」
彼の親切を受け取った琴美は、ひとまずそれを使わせてもらうことにした。琴美の流した──というより智子の流したとでもいうべきその涙が、弟のハンカチによってぬぐわれていく。ほのかに感じられる智貴の香りがなんとも心地よいと琴美は思った。
「行っていいよ」
「へっ?」
すると、琴美に向けて智貴がそのようなことを言ってきた。思わず聞き返す琴美であったが、これはもしかして許しが出たということなのだろうかと彼の顔をまじまじと見やる。
「先輩に会いに行くんだろ? もう止めねえから」
「あっ、ほ、ほんとっ?」
どうやら智貴としては、もう琴美を引き止めるつもりはないようだった。先ほどの琴美の悲痛な訴えを前にして、心境の変化でもあったのだろうか。
「姉ちゃんの言ってること、正直全部は分かんねえけどさ……でも、姉ちゃんがもし元に戻れなくても俺、いつまでも待つから……」
だから今は、姉ちゃんの好きにしたらいい。そんな感じのことを言った智貴の表情は、すっかりいつも通りの涼しげなものへと戻っていた。しかしそこにどこか諦めを感じさせる寂しげな様子がほんのわずかに浮かんでいたのを琴美は感じ取る。
「あっ、じゃ、じゃあこれ……」
そんな智貴に何と返してよいのか分からない琴美であったから、ひとまず借りていたハンカチを取り込むことなく持ち主へ返そうとする。そうしたら、智貴は無言のままそれを受け取った。彼の気が変わらないうちにと、そのまま琴美は「もう行くね」と別れを告げて背を向ける。
そろそろ出発時刻が迫っているだろうからと、バス停へ向かって急ぎめに駆け出した琴美であったが、何か思い出しでもしたのか少しもしないうちに足を止めて智貴のほうを振り返った。
「大丈夫だよ。お姉さんのこと、私が絶対連れ帰ってみせるから」
それは、今の琴美にできる智貴への精一杯の励ましだった。彼がどれだけ自身の姉を大切に思っているのかをいまや十分過ぎるほどに理解していた琴美であったから、その不安を少しでも解きほぐしてやりたかったのだ。
その場に立ち尽くして静かに見送ろうとしていた智貴であったが、琴美のこうした言葉を受けてその表情が複雑に変化する。何と返してよいのか。今の言葉をどう受け止めればよいのか。そうした葛藤が彼の中によぎったのは少しの間だけのこと。
「お願いします……」
それは誰に向けてのものだったのか。深々と頭を下げた智貴は他人行儀な言葉遣いでそのようなことを言った。ここに来て入れ替わりの事実を受け入れたようにも見えない彼であったから、その言葉が姉の中にある琴美本人を意識して投げかけられたものなのかは判然としない。あるいはそれは、神にも祈るような気持ちで思わず取ってしまった無自覚の行動だったのかもしれない。
そんな彼にうなずき返した琴美は、それ以上何か言うこともなく今度こそ本当にバス停へ向かって強く駆け出していくのだった。
つづく