稲毛シーガルハイツ──。
七〇年代頃、当時造成が盛んに行われていた千葉市内にて、新興住宅地の一角を成す区画上に建設された集合住宅である。土地をまたいで第一から第五までのエリアに分けられているが、それらをまとめた総面積はおよそ七万八千平方メートル。その広大な敷地内に建つ棟の数は、のちに増設されたものも含めれば三十以上にものぼるという大規模団地だ。このうち最も多くの棟が立ち並ぶ第二団地にて、琴美は生まれた時からずっと暮らし続けてきた。
(どこだっけ……どこだっけ……)
その勝手知ったる我が家も同然の場所でしかし、琴美は行き先を見失っていた。いまだ残る土地鑑をアテにして最寄りの停留所から自宅付近までやってきたはいいものの、周囲はどこもかしこも似たりよったりの建物ばかりであったから、己の住んでいた棟が一体どれであったのかが曖昧になってしまったのだ。ご近所さんの姿でもあればそれとなく尋ねてみようと思ったのだが、その相手の顔すら思い出せない。今の琴美はもう、己がこの場所で暮らしていた頃の記憶を少なからず失ってしまっていたようだった。
見立てが甘かったかと歯噛みする琴美ではあったが、以前に親友の光と自宅の住所を教えあっていたことに思い至り、丁度今の時間は授業を受けているであろう彼女に向けてLINEで連絡を取ろうとする。
(あっ……なんかあれっぽいかも)
が、その前に少々気になるものが目に留まった。少し離れた先に、他と違って外壁にカモメたちの飛び交う様子が描かれたひとつの棟があったのだ。なんとなく見覚えのあるような気がするその棟であったから、もしやと思った琴美はそちらへ吸い寄せられるように歩みを進めていった。
(私の自転車!)
琴美がその棟の付近をしばらくうろついていたところ、幾つかある出入り口のうちのひとつ、その手前に設けられた小さな駐輪用のスペースに自分の自転車が駐められていたのを発見する。他の入居者たちの自転車と共に雑多に並べられていたそれは、黒木家の車庫に放置されていたものを琴美の母が引き取っていったものだ。
(ここだっ、間違いない!)
扉もないエントランスで野ざらしになっている郵便受けを確認したところ、確かに「小宮山」と書かれたものがひとつ存在していたことで琴美は確信を得る。そこに併記されていた部屋番号を確認した上で、早速目当てのお宅を訪ねるべくその薄暗い階段をのぼっていくのだった。
*
(出ねーな……)
「小宮山」と表札の掲げられた部屋の前で、琴美は先ほどから繰り返しドアホンのチャイムを鳴らしていた。しかし一向に家人の対応する気配がない。学校を休んでいる以上、てっきり智子は自宅で留守番をしているものと思っていた琴美は首をかしげる。
(寝てんのか……?)
確認のために玄関扉のドアノブを捻ってみたりもするが、鍵はしっかりかけられているようだった。ひょっとしたら智子は仕事を休んだ母に連れられてどこかへ出かけてしまったか、あるいはどこぞの病院にでも入院させられてしまったのだろうかと考えもしたが、やがてひとつの可能性に思い至る。自身が黒木家に迎え入れられた二日目の朝、脱衣所で身支度を整えていた際に智子の母から言われたことを思い出したのだ。それによると休日の智子は「いつも昼ごろに起きてくる」ということであったから、その生活リズムがいまもって健在なのだとしたら、この時間になってもベッドの上で布団にくるまっているのではないか。
(これならどうだっ……!)
ものは試しにと、琴美はいくら鳴らしても効果のなかったチャイムのボタンに再度手をやる。そうして今度は、何かのリズムを刻むような調子でそれを軽快に連打し始めた。
(しょ・お・ご、しょ・お・ご、な・か・む・ら・しょ・お・ご……っと)
歌のようなそのリズムを数回ほどループさせたところで、部屋の中から物音が聞こえてきたものだから琴美はようやく手を止める。まるでドアホンを使って遊ぶ子供のいたずらが如きおこないであったが、効果は確かにあったようだ。
(私だったら絶対に反応するもんな、これ)
琴美が演奏した曲、それは自身の応援する球団・千葉ロッテマリーンズで活躍する三番打者の応援歌であった。それをわざわざ今この場で披露したのは、ここ一番の快打を称えるその歌が、昼下がりの気だるげな眠りをも吹き飛ばしてくれるに違いないと信頼してのことだ。いまや借り物の肉体に引きずられ、智子としての癖や考え方が随分と表面化してきていた琴美であったから、自分と同じような異変がもしかすると相方の智子の身にも起きているのではないかと考えていたのだ。
『はい』
ドアホンのマイクから、簡潔ながらも応答の声が発せられる。久しぶりに耳にするそれは己本来の──今は智子のものとなっている声色であるように思えたので、琴美は自身の来訪を知らせようと、来客確認用のカメラにしっかり映り込むべくそちらに顔を寄せる。
「あっ、わ、私だけど……!」
マイク越しに相手へと呼びかける琴美は緊張の面持ちであったが、早く智子の顔が見たいのか、どこかそわそわしてもいるようだ。
「もしもーし? 聞こえてんの? おーい」
しかしドアホンは最初の第一声以降だんまりしたままだった。ちゃんと自分の声が向こう側に届いているのか心配になった琴美はなおも智子へ呼びかけていく。
『……聞こえてるよ』
するとようやくその呼びかけに応じたのか、遅れて返事が聞こえてきた。改めて耳にしたこの声はやはり智子のものに違いないと確信する琴美。自身の弟にこっぴどく拒絶されたことでひどく落ち込み、会話もままならない状態だったらどうしようと心配してもいたが、一応はこうしてやりとりができる状態にあるようなのでほっと胸をなでおろす。
「えっとじゃあ、鍵開けてほしいんだけど……」
『あんた、大丈夫なのかよ。私と会ったらマズいんだろ?』
「へっ?」
ひとまず家の中にあげてほしいと頼む琴美であったが、智子からのそのような物言いに意表を突かれてしまう。
「あーうん、大丈夫。智貴くんもいいって言ってくれたし」
『それ、本当か?』
さては智貴との数日前の一件を気にしているのだろうと察した琴美は、心配には及ばないことを教えてやる。しかしそれでも智子は納得しないようで、今度は疑うような言葉を投げかけてきた。
「本当だって。いいから開けてくれよ」
『さっきのチャイムのアレ、あんただよな?』
「あっうん、そうだけど」
『そんなロッテ好きだったっけ?』
「はあ……?」
素直に玄関を開けに来てくれればいいものを、中々それに応じてくれない智子であったからいい加減もどかしくなってしまう。それに加えて今しがたの質問ときたらさっぱり意味が分からない。何を今更というようなその問いかけにどういう意図があるのか見出せず、琴美は困惑せずにはいられなかった。
「いや、そりゃ好きだけど」
『…………』
ひとまず分かりきった答えを口にする琴美であったが、一方の智子はそれを受けて特に何か返すでもなく、むしろそのまま沈黙してしまった。
「おおい、何黙ってんだよ」
どうもさっきから妙な様子だった。度々探りを入れてくるような智子であったから、ただ家の中へと招き入れてもらうだけのことが遅々として進まない。そのうえこうして黙りこくられては話すらもままならないが、ひょっとして寝起きで頭がぼんやりしてでもいるのだろうかと琴美が考えた矢先──
『あ、あのさ……帰ってくんないかな』
「なんで!?」
智子から思わぬ言葉が返ってきた。せっかくこうして会いに来たというのに、それを拒絶するとは一体どういう了見なのだろうと、琴美はいよいよ困惑を深める。
『いや、ちょっと今忙しくて……』
「ウソつけっ、さっきまで寝てただろーが」
『つーかあんた、学校は? もしかして抜け出してきたのか?』
「ああそうだよ、あんたがずっと休んでばっかで連絡もつかねーから来てやったんだろーが」
『あー……そうだ、ちょっと待ってて』
不毛なやりとりを二、三続けたあと、急に何かを思い出したらしい智子がそのように言って通話を切ってしまった。その妙な様子が気にかかりはするが、ともあれようやく顔を出すつもりになったのかと思った琴美が待つことしばし。やがて玄関の鍵が外されて、わずかに扉が開いた。
「ほら、これ」
「んん……?」
そうしていよいよ智子とご対面というところで、しかしその扉が開け放たれることはなかった。代わりにそのわずかな隙間から、顔も見せずに智子の手だけがにゅっと伸びてきて、持っていた何かを琴美へと差し出してきた。
「えっ、なにそれ」
「いいから。ほら、受け取って」
「あっうん……」
見覚えのあるそれは先週に智子と交換した筈の黒いスマホ、そしてその充電ケーブルであった。何がなんだかよく分からないまま、促された琴美はひとまずそれらを受け取ってみせる。
「それ、返すから」
「えっ、ちょ……!?」
スマホの受け渡しが済んだと見るや、手を引っ込めた智子は何を思ったのかそのまますばやく扉を閉めてしまう。そうしてこれで話は終わりと言わんばかりに、がちゃりと鍵をかけなおすのだった。てっきり家の中にあげてくれるものとばかり思っていた琴美であったから、相方の唐突な行動に面食らって仕方がない。
「おいっ、何してんだよ! 開けろよ! おいっ!」
『私のはまた今度でいいからさ。とりあえずほら、今日はもう帰んなって』
興奮気味の琴美は荒っぽくドアノブを引いたり回したりして抗議するが、それに取り合おうとしない智子は相も変わらず「帰れ」の一点張りであった。
「ふざけんなよオイッ! 私んちだぞっ!?」
おかしい。どうにもおかしい。これまでの違和感の数々が、ここにきて明確な形を伴い琴美に絡みつく。智子のこうした対応は明らかにまともではなく、まるで話が通じていないのだった。焦る琴美は再度チャイムを鳴らしてみたり、扉越しに呼びかけてみたりはするものの、それきり智子からの反応は途絶えてしまった。
「オイッ! クソムシッ! 開けろったら! オイッ! オイッ!」
己を無視する智子の態度に腹が立ち、益々もって興奮した琴美は鼻息も荒く玄関扉を乱暴に叩き始める。
「なに人んちに居座ってやがんだ! 開けろ──ッ! 出てこいクソムシッ! 変態ッ! コオロギッ! クソメガネェ──ッ!」
もはや原始のドラムと化した扉を前にして、琴美は力の限りシャウトする。その罵倒交じりの絶叫は廊下中はもちろん付近一帯にまで響き渡るほどであったが、荒ぶる琴美はお構いなしである。そうした近所迷惑な演奏が智子に届いたのか、やがて慌ただしげな足音が玄関の向こう側から聞こえてきた。
「おいっ、なにしてんだ……!」
「わっ!?」
そうして扉はあっさりと開け放たれたのだが、智子に腕を掴まれた琴美はそのまま部屋の中へと力ずくで引きずり込まれてしまった。
「人の家の前で好き放題しやがって……!」
勢いあまって前のめりに倒れ込んでしまった琴美ではあったが、顔をあげてみればそこには仁王立ちで睨みつけてくる智子の──久方ぶりに見る己本来の馴染み深い姿があった。寝巻きを着たままで、その髪にもあちこち寝癖が付いているところからして、やはり先ほどまでは眠りこけていたことがうかがえる。
「だってあんたが開けてくんないから……」
「バカ! 通報とかされたらどうすんだよ!」
家にあげてもらうという目的を果たせたことで幾分か落ち着きを取り戻した琴美であったが、今度は相方のほうがお怒りであった。同じ建物の中で大勢の人々が共に暮らしている場所なだけに、今しがたのような騒ぎを起こそうものなら不安にかられた入居者の誰かしらが警察へと連絡する可能性は十分にある。故に智子としては琴美の乱痴気ぶりに随分と肝を冷やされたようだ。
「ったくよー……」
外履き用のサンダルを脱いだ智子が、狭い玄関口の中でため息交じりに琴美をまたいでいった。小宮山家では玄関から入ってすぐがダイニングキッチンとなっているのだが、智子はそこに据えられた食卓から椅子を引っぱり出して腰を下ろす。
「で、なんか用か?」
いまだ玄関口で座り込んだままの琴美を見やり、どこか迷惑そうな顔をした智子がそのように言った。目の前の招かれざる客には早く帰ってほしいが、これ以上騒ぎを起こされないよう一応話だけでも聞いてやらねばと思っているのかもしれない。
「あっうん、ちょっと待って」
そんな智子の言葉を受け、スカートに付いた砂を払いつつ立ち上がった琴美が靴を脱いであがり込む。今現在は昼間であるが採光用の窓が小さいせいでキッチンの中はやや薄暗い。それがなんだか陰気に思えてしまったため、明かりをつけたくなった琴美は玄関脇の照明スイッチへと手を伸ばした。
(おっと、節約節約……!)
小宮山家では電気代を浮かせるため晴天時は台所の照明をみだりに使わないという決まりごとがあった。だから平生であれば多少の薄暗さなど気にも留めない琴美なのであったが、しかし黒木家の日当たり良好なダイニングルームに馴染むうちすっかり感覚がズレてしまっていたらしい。実家の倹約術を思い出した琴美は手を引っ込め、そのまま智子の向かいに座って本題へと入っていく。
「えっと……とりあえずあんた、大丈夫か? 自分のこと、ちゃんと分かるよな?」
「あー、うん、まあ」
琴美の一番の気がかりはまずなによりもこのことであった。今朝からの自分と同様、智子のほうもいまや記憶の侵食、ひいては自意識の揺らぎに苛まれているのではないか。そのことを確認しておかずにはいられない琴美は相方の顔を心配そうに見つめる。
「あんたは黒木智子。で、私は小宮山琴美。そうだよな?」
「はぁ──……」
お互いにとって最も重要な真実を今一度口に出してみせる琴美であったが、それを聞かされた智子のほうはなにやら渋い反応であった。「どうしたものかな」とでも言いたげな態度でため息をつく智子であったから、そんな相方の様子に琴美は不安をよぎらせる。
「逆だ、逆。いいか? 私が小宮山で、そっちが黒木。こうなんだよ」
「っ!?」
すると智子がお互いを指差しつつそのようなことを言って反論してきたものだから、琴美は一瞬言葉を失ってしまった。考えたくない嫌な予想が心に浮かんでしまうが、ともあれ相方のそうした物言いを慌てて否定しにかかる。
「違うって、その反対っ! ホントは私があんたで、あんたが私なんだってば! 入れ替わってんだよ、私たちは!」
「あーうん、分かるよ。あんたの言いたいこと」
先ほどの智子よりもオーバーな動きでお互いを指差しながら主張する琴美であったが、何を思ったのか、対する智子はうんうんと頷いてその言い分をひとまず受け止めようとする姿勢を見せた。
「まあ私もちょっと前までそんな風に思い込んでたからね」
「いやいや、思い込んでるとかじゃなくてっ!」
かと思えば、今度は訳知り顔でそのようなことを言う智子。ふざけているのでもなく、ましてや嘘をついているのでもない。本当にそう信じているかのような口ぶりであった。
「もしかして忘れちゃったのか……? 自分のこと……?」
「だから逆だって。思い出したんだよ、本当の私のこと」
ここに来て、琴美は先ほど智子からスマホを押し付けられたことの意味をようやく理解する。あの行動こそは、智子の自意識がいまや小宮山琴美としてのそれへと変質してしまったことを示していたのだ。でもなければ、あの智子が己のスマホを一秒たりとも他人に預けようとする筈がない。なんといっても「人に絶対見られたくないもの」がたっぷり詰まった危険なシロモノなのだから。
(遅かったんだ……私がもたもたしてたから……こいつの頭ん中は……もう……)
入れ替わった肉体との同化が進んだその先を、琴美は見せつけられていた。何かしらの理由により、智子は琴美よりもずっと早い速度でその心を侵食されてしまったらしい。もはや自分が本来何者であったのかすら忘れ去り、いまや完全に己を別人だと思い込むに至ってしまった相方の姿に琴美はただただ脱力し、同時に申し訳なさをも感じてしまう。
「心配すんなって。あんたも、もうちょっとしたら私みたく思い出せるようになるから」
がっくりとうなだれた琴美に向けて、励ましているつもりなのか智子がそのようなことを口にしていく。いわく学校を休んで琴美と会わなくなってからというもの、本来の記憶が徐々に蘇り始めたとのことで、やがてすっかり元の自分を取り戻せたということらしい。
「智貴くんの言う通りだったよ。なんか私たち、症状が治まるまで一緒にいないほうがいいみたい」
だからあんたもこんな風に私と会ってちゃダメだ。そう語りかけてくる智子の姿に、もはや以前までの面影はない。喋り方も、仕草も、何から何まで小宮山琴美その人であった。まるで自分が映ったビデオを見せつけられているようだと、そのような錯覚に陥る琴美はぞっとせずにはいられない。光と笑美莉の助力によって多少は息を吹き返した筈の己の自意識が、今また揺らぎ始めたことを琴美は感じる。
(……いや、まだだ!)
しかしここで諦めるのはあまりに早い。というよりも、そもそも現時点ではまだ手を尽くしてなどおらず、自分たちが解決の糸口を掴んでいくのはこれからなのだ。智貴と交わした約束がある以上、どのような現実を見せつけられてもへこたれる訳にはいかないと、琴美は己を奮い立たせる。
「あんた、なんだよその頭は」
「えっ?」
「えらいボサボサだな。ちゃんと手入れしてんのかよ」
「んだよいきなり……」
相方の髪について急にケチをつけ始めた琴美は、席を立ったかと思うと智子の背後へ回り込む。
「ほら、ギシギシしてる。ひでーなこれ」
「ちょ、やめろよっ……!」
後頭部の髪を手櫛で
「ていうかあんた、風呂入ってんのか?」
「は、入ってるよ!」
「毎日?」
「お、おう」
「ブラッシングはしてる?」
「あ、いや別に……」
「いつもどうやって頭洗ってんだ?」
「えと、普通にシャンプーで……」
「トリートメント使ってる? オイルは?」
「う、うっさいな……んなモン私の勝手だろーが」
見れば見るほど智子の髪は手入れが行き届いていなかった。いつなんどき智貴から触れられてもいいようにと、くせっ毛気味のその髪の手ざわりを少しでも良くすべく磨きをかけていたのに、それがいまや随分と台無しになっていたものだ。このようなことは本来の自分であればありえないことだと考える琴美は、椅子に座ったまま困惑気味に見上げてくるこの智子が、いまもって普段のものぐさ気味な生活習慣を引きずったままでいることを見抜く。
「全然ダメじゃねーか。私、いつもこんなんじゃねえぞ」
「はあ……?」
「こういうみっともねー姿で智貴くんの前に出るとかありえねーかんな。おかしいと思わねーのかよ、おいっ」
「んぶっ!?」
この分ではスキンケアなどもおざなりに違いないと見た琴美が、確認のためにと両手で智子の頬をサンドイッチし、もみもみとマッサージしてみせた。突然のことに反応できず、フグのような表情で目を白黒させる智子。己の見立て通り、手のひらから伝わるその感触にはイマイチ潤いが足りず、お世辞にも瑞々しいとは言えないようなありさまであることを琴美は確かに感じ取った。
「な、なにすんだバカっ! やめろ!」
たまらず椅子から立ち上がった智子が、己を挟み込んだ琴美の手を振り払う。相手の真意が分からず不気味に思った智子は部屋の隅へと後ずさっていくが、琴美はそんな相方へと追い討ちをかけるように迫っていく。
「ほらこの爪っ。ちゃんと磨いてないだろ?」
「わっ!?」
「ムダ毛もほったらかしだな? こことかここも」
「ひゃっ!?」
「唇もダメ。こんなカサカサさせやがって」
「ンッ!?」
「匂いもほら、なんかくせーぞ。ちゃんと体洗ってんのか?」
「ちょ、おまっ……!」
「説明してみろよ。なんでこんなにだらしーねんだ? 自分で気付かねーのかよ、『私』の癖して」
「ん、んなこと言われても……」
あれもダメ、これもダメ。何から何までなっちゃいない。小宮山琴美としての普段の身だしなみが、いまや何ひとつ守られていないことは明らかであった。「自分は小宮山琴美だ」と確信を持って主張するわりに、こういうところはきっちり元の智子としての性格を保ったままでいる。しかしそのことに当人はまるで気付いていないようであったから、琴美はそこを自覚させてやるべくこのような行動に出たのだった。
(こいつはただ思い込んじゃってるだけなんだ。そこんところをビシッと言い聞かせてやんねーと……)
智子としての心はまだ生きている。であるのならば、こうして揺さぶりをかけてやればそれが正気に返るきっかけになるかもしれない。己を見失った相方の目を覚まさせるためならば、琴美はどんなことでもやるつもりであった。
それはそれとして妙に智子の体へと触れてみたくなってしまう琴美でもあったが、こうしたことは久々に再会した己本来の肉体を無意識に恋しがった故なのかもしれない。あるいは「黒木智子」としての肉体のほうもまた、他者の体へと移ってしまったあるじの魂を求めてやまないのだろうか。
「説明もクソも、私は元々こうなんだよ。なんでって聞かれても知らんわ」
が、ダメ。外見的特徴をあげつらった琴美の訴えも、今の智子にはなんら響かなかったようだ。彼女の意識の中では、今しがた琴美が指摘したような点は特に矛盾を感じるものではなかったらしい。
「つーか用事は? なんもねーんならもう帰れよ」
(ダメか……! なんか他の手は……)
大した用事もないのであれば、このまま追い返してやろうという気配を漂わせる智子。しかし用があろうとなかろうと、ここまで来たら意地でも帰らないつもりの琴美は次なる一手を打つために考えを巡らせる。
「いい加減にしねーと、あんたんとこのお母さんに来てもらうからな」
「わ、私さ……!」
自分で帰らないのなら、黒木家に連絡して迎えを呼ぶことも辞さないと脅す智子であったが、琴美はそれに取りあうことなく意を決したように口を開いた。
「智貴くんがあがったあとのお風呂、は、入っちゃったんだよね」
「あ?」
「す、すごかったなぁ、色々と」
「え……何の話?」
「お、お風呂ん中がさ、なんかこう、すっごくいい香りで満たされてるんだよ。なあ、あれってなんだと思う?」
「入浴剤の匂いだろ」
「やっぱり智貴くんの匂いなのかなー。あ~、また思い出してきちゃった」
「気持ちわりーなおまえ……」
いきなり妙なことを話し始めた琴美であったから、対する智子も戸惑わずにはいられない。少々生々しい話の内容に顔をしかめたものであるが、一方の琴美もどこか無理をして言葉をつむいでいるようであり、自身の言葉に照れているのかその顔には赤みが差していた。
「あっ、そうだ。そんとき脱衣所でさ、その、と、とんでもないもの見つけちゃったんだけど……なんだと思う?」
「知らんわ、聞くな気持ちわりー」
「ほ、本当に分かんない? ほら、『パ』だよ、『パ』で始まるやつ。智貴くんの
「知らねーっつってんだろ! さっきから気持ちわりーんだよこの変態が!」
一層顔を赤らめる琴美のそうした思わせぶりな話し方に、とうとう苛立ちを抑えきれなくなった智子があからさまな不快感を顔に出す。そしてそれこそが、琴美が今この場において智子から引き出したかったものだ。
(いいぞ……! あんたらしい顔になってきたじゃねーか……!)
目を剥いて琴美を睨みつけてくる智子のその表情は、琴美にとって確かに見覚えのあるものだった。かねてより琴美が智貴のことを少しでも話題にあげようものなら、智子は決まってこのような顔つきで威嚇してくるのが常であったからだ。これは手応えありと見た琴美は、智子の関心を引くためにより過激なことを口にしていく。
「そういや智貴くんと抱きあったりもしたね」
「なっ……!?」
「私たち、最近毎日一緒に学校行ってるんだ。ほら、電車すげー混んでるだろ? そん時に智貴くんがさ、私が押し潰されないようにって、こんな風に守ってくれるんだ」
「おっ……おおっ!? テメーっ……!」
そのようなことを自慢げに語り、にへら顔で何かを懐に包み込むような仕草もしてみせる琴美。それを受けた智子はというと、握り締めたその拳をわなわなと震えさせ始めた。
「なに怒ってんだよ、いいだろ別に。智貴くんは
「あ……で、でも……!」
もっともっと挑発してやろうと、琴美はこのようなことまで言ってみせる。自身の弟に対して並々ならぬ執着を抱く智子であればこそ、きっと今のような発言は聞き捨てならない筈だ。
「智貴くんってすっごくお姉さん思いなんだ。放課後になったらさ、『姉ちゃん、一緒に帰ろうぜ』なーんて言って、ちゃんと私のこと迎えに来てくれたりするし……」
「う……う……うぐ……」
「あー、智貴くんみたいな子が弟でホントよかったなぁ。私ってなんて幸せなお姉ちゃんなんだろー」
「ウギギ……グッ……カッ……」
「もう一生結婚なんてしなくていいや。だって智貴くんがずっとそばにいてくれるんだもん」
「やめろ……やめろォ……ッ!」
「ひとつ屋根の下で愛しあって一緒に暮らしてる訳だから、それってもう夫婦みたいなものだよね」
「うおおぉぉ────ッ! テメェェェェ────ッ!」
相手を黙らせようとしたのか、あるいは我を忘れて激情のままに行動したのか、絶叫する智子は琴美へと勢いよく飛びかかる。胸ぐらを乱暴に掴まれた琴美は「うげっ」と喉を鳴らすのだが、目を血走らせる智子は更にそのまま琴美のことを力任せに吊りあげてしまった。
「なに勘違いしてんだ! おまえはコオロギだろうがっ!」
「ぐ、ぐるじいっ……」
「あいつは私の弟なんだよ! ふざけたこと抜かしてっとぶち殺すぞっ!」
「ひぃぃぃ……っ」
琴美を前後にカクカク揺さぶりながら、智子は声を張り上げ恫喝する。満足に声も出せない琴美はもう、宙ぶらりんになった足をじたばたさせるだけであった。
「いたっ!?」
と、急に智子が手を放したものだから、そのまま琴美はどすんと地べたに尻もちをついてしまった。軽く咳き込みながらも顔をあげてみれば、そこにはなにやら呆然とした様子で固まっている智子の姿があった。
「そうだ……あいつ……私の弟なんだった……。私、あいつのねーちゃんなんだった……」
そのような独り言を呟く智子であったから、これはもしやと思った琴美が慌てて立ち上がる。
「そ、そうっ! あんたは智貴くんのお姉さんなんだよ。それで合ってる、それがホントなんだ」
「なんで……なんで忘れてたんだろ……こんな大事なこと……」
「あんた、自分の名前言ってみな?」
「えと、こみ……じゃなくて……く、黒木智子」
「そうそれっ! あんたは黒木智子だ。ほら、もっかい言ってみて」
「く、黒木智子!」
「それがあんたの名前?」
「うん」
「じゃあ私の名前も言ってみてよ」
「あっうん。えと、こみ……こみ……なんだっけ?」
「ふふっ……小宮山だよ、小宮山琴美」
智子のこうした反応を見届けた琴美は、いつも通りな智子の調子に思わず笑ってしまう。一時はどうなることかと大いに焦った彼女であったが、その尽力が実を結び、眠っていた相方の心を呼び覚ますことに成功したようだ。
「やっべー……今まで私、自分のことずっとこみさんだって思い込んでたわ。どうなってんだ……?」
己が今まで如何に異常な状態に陥ってしまっていたかを思い知ったようで、智子は冷や汗を流す。事が事なだけに、琴美の挑発によって喚起された先程までの怒りはすっかり抜け落ちてしまったようだ。
「私もそんな感じなんだ。今んとこは大丈夫だけど……でも時々自分が黒木さんなんじゃないかって思いそうになるよ」
「マジかー……」
「とにかく早いとこ元に戻んねーとさ。このままだと私たち、そのうちヤバいことになるぞ」
「そりゃ分かってるけど……」
「とりあえず支度してくれ。出かけるから」
「えっ?」
自分たちに残された時間は、おそらくそう長くはない。周囲からの助力によってある程度己を取り戻すことは可能かもしれないが、それでも失われたり、あるいは変異してしまうものは確実にある。己がそうであるように、おそらくは智子のほうも既に様々な記憶の齟齬をきたしてしまっているに違いないと琴美は考えていた。
であるのなら、やるべきことはただひとつ。限られた時間の中で自分たちが元に戻るための手立てを、智子と力を合わせて見つけ出していくしかない。
「出かけるって……どこ行くんだ?」
「なんだよ、約束してただろ? ほら、あの神社だよ」
「あ……あーうん、そっか、そうだった」
ここにきてようやく琴美は智子から何度も尋ねられていた本日の用件を伝えることができた。それを受け、智子のほうも中途半端なままになっていた例の試みのことを思い出したようだ。
「んじゃ、仕切り直しといくか。今度は智貴のヤローに横ヤリ入れさせんじゃねーぞ?」
「分かってるって、大丈夫だよ」
今、止まっていたふたりの時間が動き出す。
つづく