「ふぃー……」
自転車のブレーキ音が鳴りやんだあと、ペダルから足を離した智子は一息つく。荷台へまたがり運転手にしがみついていた琴美のほうも、それを合図にさっと降りる。ふたりが今いる場所は浅間神社の北側、道路に面する場所へと据えられた鳥居の手前であった。
「あーしんど。こみさんだけ走ってくりゃよかったのに」
なにやら愚痴りだした智子が、地面を蹴りつつ自転車を鳥居脇の奥まった場所へと移動させる。小宮山家のマンションからこの神社へは結構な距離があるため、警察の目を気にしつつもひとつの自転車に同乗する形でここまでやってきたふたりであったが、漕ぎ手はもっぱら智子が務めていたようだ。
「私の足ならこんな距離、余裕だっつーの。怠けやがってよー」
(やれやれ……)
もとより琴美としてはそのつもりでいたのだが、自転車を使うことにした智子のほうから「乗せてってやんよ」と得意げに誘われた結果がこれである。なんとも理不尽な気持ちになってしまう琴美であったが、このようなことは智子と付き合っていれば日常茶飯事であったから「またか」という気持ちにもなる。しかし今このときにおいては、そうした普段通りな智子の振る舞いにむしろほっとさせられるのだった。
「つーか腹減った。こっちはなんも食ってねーってのに急かしやがって」
自転車に鍵をかけたあと、くたびれた様子の智子はよたよたとした足取りで鳥居下の石段へと腰かける。琴美の来訪を受けて急ぎ支度を整えた智子は食事もとらず家を出たのであったが、ここにきてエネルギー切れを起こしてしまったらしい。
「お茶くれよ。持ってんだろ?」
「あーうん、ちょっと待って……」
琴美の背負うかばんには水筒が入っていたが、余程ガブ飲みでもしなければまだまだ中身は残っている筈と見て、それを欲しがる智子。相方の隣へ腰かけた琴美が「ほら」と水筒を差し出せば、対する智子も「おう」と一言応じてそれを受け取った。まだ十分に温もりを残すお茶をコップへ注いでみれば、ほかほかと湯気が立ちのぼる。
「なんかねーの? お菓子とか」
「いや、ないけど……」
そうして一服した智子であったが、今度は別のものを要求してきた。お腹が空いているというのは本当のようで、なんでもいいから口に入れるものが欲しいようだ。しかしあいにく菓子類は持ち合わせていない琴美であったから、道すがら見かけた近場の
「あっ、じゃあこれ食うか?」
「おっ?」
しかしそこであることを思い出した琴美が、かばんの中からタッパーを引っ張り出して智子へ差し出す。それは本日の昼休み、仲間たちとの語らいに没頭するあまり時間内に食べきれなかった弁当の残りであった。
「残りモンか? まあいいや」
受け取ったタッパーのフタを開けてみれば、ラップに巻かれたおおぶりな握り飯がひとつだけ。醤油が塗られて焦げ目の付いたそれは手作りの焼きおにぎりだった。
「うん、うん……」
おにぎりを口いっぱいにほおばった智子が、満足そうに頷きながらそれを味わっていく。そうしてあっという間に半分ほど食べきったところで、手を止め傍らの琴美を見やる。
「いいモン食ってんなーおまえ。こっちは昼も夜もカップ麺とかだぞ」
「あ、そうなの……?」
「つーかおまえのおばさん、帰ってくんのおせーな。いつもあんな感じなんか?」
「仕方ねーだろ、忙しいんだから」
外へ働きに出ている琴美の母は、多忙であるからか智子の言うように帰宅時間が遅くなりがちだ。故にわが子へ持参させる弁当にしてもそう毎日作ってやれる訳ではなく、必要とあらば琴美が自分で用意してみせることも珍しくなかった。
こうしたことは琴美にとって当たり前で、時には腕をふるって家族のために夕飯を用意したりもするのだが、なにかと親任せな環境で育ってきた智子ではそうもいかないようだ。その気になればありあわせの材料で食事を作ることだってできるはずなのに、そうしたこともせずもっぱらコンビニ弁当や、そうでなければインスタント食品で済ませるばかりであったらしい。
「……きのうの晩メシ、なに食ったんだ?」
「えっ?」
ふいに智子がそのようなことを聞いてきた。なにをやぶからぼうにと思う琴美ではあったが、ひとまずその質問へと応じるために記憶を探る。
「ハンバーグだけど」
「じゃあおとといは?」
「えーっと、たぶんすき焼き」
「ふーん……」
琴美の答えをどう受けとめたのか、どこか物憂げな様子の智子は手に持つ食べかけのおにぎりへと目を落とす。
「うまかったか?」
「ああ、うん、まあ」
「ちゃんと残さねーで食ったか?」
「そりゃ、まあ」
また口を開いたかと思えば、智子は先程と同じようにたわいのないことを質問してくる。黒木家の夕飯事情が気になるのか、あるいは琴美の食の好みに関心があるのか、その真意は見えてこない。
「おまえ、お母さんになんか言われたりしてねーか? メシの食いかたが変とかさ、なんか行儀わりーとかさ」
すると話を変え、今度は自身の母について尋ねてきた智子。先程から妙にとりとめのない会話ではあるが、食事中の雑談のつもりなのだろうと受け取った琴美は特に思うところもなくそれに応じていく。
「いや別に」
「なんにも?」
「うん」
「じゃあ私のことは? なんか言ってた?」
「いや、特には」
「ほんとに? ちょっぴりも……?」
「ああ、全然言わねーなそういや」
琴美が知る限り、ここ最近は智子の母が「小宮山琴美」について言及することはほぼ無いと言ってよかった。せいぜいが「あの子に気をつけろ」と琴美に注意してきたぐらいで、それを除けばもはや存在自体を忘れ去ってしまったかのようであった。
「そうか……」
それきり智子は何も言わなくなり、おもむろに食事を再開した。かぶりつくように食べていた先程とは打って変わって力ない様子で、手にしたおにぎりをもそもそと口にしていく。琴美はその唇がほんの少しだけ震えていたことに気付いたが、見て見ぬふりをしてやるのだった。
*
「あの祠、覚えてっか?」
「ほこら?」
「ほら、おまえがなんか気持ちわりーお願いしてたじゃんか。あれだよ」
「ああ、うん」
休憩も終わってさあこれから調査を始めようという段になってから、智子がこのようなことを言ってきた。相方が話題に出してきたその祠のことを、琴美は覚えている。松林から神社のほうへと逃げた智子を半狂乱で追いかけていった際、その道すがら心願成就の御利益を謳う祠を見つけたのであるが、ものは試しにと興味本位で願掛けをしていたのだった。
「あそこが怪しい。なんかそんな気がする」
智子としては、今回の異変に関する手がかりがその祠に隠されているのではないかと睨んでいるようだった。であればひとまず現場へ向かってみようということになり、鳥居をくぐったふたりは石段をのぼって境内へと足を踏み入れていく。それに合わせて周囲の木々が、ふたりの来訪を歓迎するかのようにさわさわと葉を鳴らした。
「どうすんだ? またおんなじことやってみりゃいいのか?」
「うんにゃ、とりあえずそれはもういいよ」
祠のある場所まで向かう道中、これからすべきことについて琴美が確認してみれば、智子は首を振ってそれを否定する。
「それよりもさ、こみさんがあんときお願いしてたこと、思い出してみろよ」
「あ、えーと……」
言われた琴美は記憶を探り、やがてそれに思い当たる。確か自分はみっつかよっつほど願いを口にしていて、その内容も中々に赤裸々なものであった筈だと。
「と、智貴くんと結婚したいなーとか、そんな感じだったかも……」
「そうそう、そーいう性欲剥き出しのロクでもねーやつ」
照れ気味の琴美が当時の願いごとについて言及してみれば、すかさず智子が下品な物言いでそれをくさす。
「あと弟の奴と一生一緒に暮らしたいとか、最悪なお願いしてたでしょ?」
「あ、うん……」
「それだよ、それがダメだったんだよ」
「えっ?」
「たぶんだけど、願いごとがマジで叶っちまったかもしんねーってこと。だから私たち、入れ替わったんだ」
「そ、そうかぁ……?」
「だってほら、おまえが私になっちまえばずっとあいつと一緒にいられるだろ?」
「いや、でもなぁ……」
「絶対そうだって。あの祠、やべーぞ」
自らのオカルトじみた推測を語るうちに益々確信を持ち始めた様子の智子であったが、いくらなんでも飛躍が過ぎるということで、相方のそうした主張には同意しかねる琴美。辻褄だけなら一応は合わないこともないが、はっきりとした根拠は何も無いのだった。
稲毛の町で長年暮らしてきた琴美であったが、単なる謳い文句ではなく参拝者の願いを真実叶えてしまう祠がこの神社に存在しているなどと、そんな話は噂程度のものですら聞いたこともない。
「なんだっけなー、前も似たようなことあった気がすんだよな」
「なんだよそれ」
「祠の前でお願いして、それが叶っちゃったってやつ」
しかし智子のほうは、どうもそうした事例に心当たりがあるようだった。腕を組みつつ頭を捻る智子はうんうん唸って記憶の中を探ろうとする。
「ほら、なんかおまえここに来たことなかったっけ? ガキん頃とか」
「あーうん、あるけど……よく知ってんな」
「お、やっぱり」
すると智子がそのようなことを尋ねてきたのだが、確かに琴美は幼い頃にこの神社を訪れたことがあった。そのような過去の思い出を他人の智子が知っているということに驚かされる琴美であったが、同様の現象は既に自身においても経験済みであったから深くは追及しない。智子のほうもこうした記憶の交わりについてはもはや慣れているのか、特に気にする様子はなかった。
「そんときになんかお願いしてただろ」
「……あっ!?」
そこまで話したところで、何かに気付いた様子の琴美が声をあげる。
「そ、そういえば……お父さんが……!」
「あーそうそう! おまえんとこのおじさんだよ! なにお願いしてたんだっけなー。えーと、ほら、あれ……!」
琴美と智子はお互いに、ひとつの記憶を急速な勢いでたぐりよせていく。ある人物が件の祠に願掛けをした結果、その願いが神がかり的な力で叶ってしまった。そのように受け取れなくもない出来事が過去一度だけあったからだ。
「「ロッテ優勝!」」
お互いを指差す琴美と智子の口から、同時に同じ言葉が飛び出した。それを皮切りとしてふたりの間で言葉の応酬が繰り広げられる。
「二〇〇五年ペナントレース!」「プレーオフでソフトバンク相手に優勝!」
「同年日本シリーズ第四戦!」「3-2で阪神を押さえて日本一!」
「第一回アジアシリーズ!」「全試合全勝で初代王者に!」
息がぴったりな両者が語るその内容は、往時の千葉ロッテマリーンズが見せたその奇跡的な活躍ぶりについてであった。ロッテ狂いの琴美はもちろんのこと、智子のほうまでその手の情報を淀みなく口にするものだから、傍から見ればまるでロッテファン同士の熱い語らいのようである。
「ほら、してるじゃん優勝。ありえねーほど勝ちまくったろ、あんとき」
「う、うん……」
「偶然かもしんねーけどさ、あの祠ってやっぱなんかあるんじゃね?」
「いや、あのときのロッテは勝つべくして勝ったっていうか……選手も監督も凄かったし、みんなが頑張った結果だから……」
「まあ、私だってそう思う。なんでか知んねーけどそう思う」
琴美としての肉体の影響か、いつの間にかすっかりロッテ通になっていた智子であったから、当時のロッテの大活躍が単なる一個人の神頼みによってもたらされたと考えることには抵抗があるようだ。あの栄光はあくまでロッテ自身の実力によって勝ち取ったもの。これはもう、ふたりにとっての共通認識でもあった。
「でも他に考えられる理由がねーんだよな、私とおまえが入れ替わったのって。それこそ神さま的なアレがなんかやらかしたって感じだろ」
「あっうん、そりゃまあ……」
話は戻り、自分たちに起きた異変の原因について智子が再び己の考えを主張する。先程のロッテの話が効いたからか、琴美のほうも今度は少しばかり納得したような気持ちにさせられるのだった。ともあれそうこうしているうちにふたりは問題の祠の前へ到着する。
「よーし、んじゃいくぞ。ちゃんと死ぬ気で祈りまくれよ?」
「ああ」
祠の手前に並び立ったふたりはいま、神妙な面持ちで合掌していた。これから祠に向かって一緒に祈願するためだ。こうしたことも智子の提案によるものだったのだが、これから何を願うかといえば、それは自分たちを悩ませている問題の解決についてであった。仮に祠の神さまが此度の入れ替わりを仕組んだとするのなら、それを取り消してもらうべく改めて願い出てみようということなのだ。
「「もとの体に戻れますよーに!」」
パンパンと適当に手拍子を打ったあと、ふたりは声を張り上げそのようなことを口にし始める。
「私を黒木智子に戻してください!」
「私を小宮山琴美に戻してください!」
「こみさんを元に戻してやってください!」
「黒木さんを元に戻してあげてください!」
合間に追加の手拍子を挟みつつ、琴美と智子は打ち合わせ通りその切実な願い事を祠に祭られた神さまへと高らかに訴えていく。
「こんな姿じゃ人生終わったも同然なんで、マジお願いします!」
「お、お願いします!」
「ホントお願いします! 戻れなかったらもう自殺するしかないんで!」
「おいっ!? あっ、お、お願いします……!」
「こみなんとかさんに盗られた私の体、早いとこ返してください!」
「別に私が盗ったんじゃないけど! まあ返してやってください!」
「毎日鏡で自分の顔見るたび気が狂いそうだったんで! ホントっ、おねがいっ!」
「ク、クソムシもこう言ってるんでっ! まあそういうことなんでっ!」
タイミングを合わせていたのは最初のうちだけで、あとはそれぞれが思い思いに祈願の言葉を発していく。そうしたことをしばらく続けたふたりであったが、やがてどちらともなく手をおろしたものだから、そこで祈りは中断された。息切れを起こしているのか、どちらもぜいぜいと肩で息をしているようだ。
「どうなんだ……? これ……?」
「分かんね……。つかおまえ、クソムシとか言うなって……。神社でそーいう汚ねー言葉使うのってダメなんだぞ……」
「は……? あんたが変なこと言うからだろ……」
「ふ──……あー、もういいよ、うん、分かった……」
ちょっとした口論になりかけたところで、大きくため息をついた智子が片手を軽くあげてみせる。
「もう声に出さなくていいからさ……心ん中で祈ってみようぜ?」
「ああ、うん……」
お互いへのあてこすりで気が散ってしまうのを避けるため、いっそ口を開かず静かに祈りを捧げてみようという智子からの提案だった。琴美としてもそのほうが落ち着いて祈念できるだろうと思ったため、ふたつ返事でそれに同意する。
「んじゃ、もっかいやんぞ」
「おう」
改めて合掌したふたりはすっと目を閉じて、神妙な面持ちのまま黙々と祈りをささげ始めた。先程までのかしましさは消え去って、辺りに静けさが戻る。チチチ、と小鳥たちの慎ましやかな鳴き声が時折近くから聞こえてきたりもするが、急にかしこまった奇妙な参拝者のことを見物しているのかもしれない。
(…………)
そうしてしばらくは頭の中で願いごとを念じ続けていた琴美であったが、ふとその心中に遠い過去の記憶がおぼろげながら浮かび上がってきた。ずっとずっと昔、父と共にこの祠の前でお願いごとをしたときのことだ。思い出の中の父の顔は、最初のうちこそ黒木家のご主人のものへと置き換えられてしまっていたが、やがてそれもぼやかされたような印象へと転じてゆく。
(あんとき、違うことお願いしてたらどうなってたんだろ……)
父を真似て同じことを祈願した当時の己を振り返る琴美は、それ以外の可能性についても思考の枝葉を伸ばしていく。仮にもしロッテの優勝以外のことを願っていたとしたら、果たしてそれは叶ったのだろうかと。もし、もしこの祠が時として本当にそのようなご利益を発揮してしまうのだとしたら、そしてそのことを当時の自分が知っていたのだとしたら、きっと地元球団の栄光を捨ててでも他の願いごとを一生懸命祈願したに違いない。
(お父さんの病気が治りますようにって……)
ロッテが怒涛の快進撃を見せたその翌年、次のペナントレースの開幕を待たずして琴美の父はこの世を去った。かの御仁は自身の娘に物心がつくようになった頃から既に闘病生活を送っていたのだが、琴美の中ではいつも元気いっぱいにロッテを応援する姿ばかりが印象に残っている。
ロッテの調子がいいとお父さんも調子がいい。そんな風に思っていた幼い琴美であったから、ルールは分からないながらも父の膝の上で試合を観戦しては、その結果に一喜一憂していたのであった。当時父から教わった球団歌は、琴美にとってお気に入りの歌だ。同年代の友だちの誰も興味を示さないその歌を、琴美は折あるごとに口ずさんだりしていたものだ。
「こみさん、もういいって」
肩をゆすられ、はっとなった琴美は我にかえる。隣を見れば、そこには依然として小宮山琴美であり続けるジャージ姿の智子がいた。
「ああ、うん……えーっと」
相方のそうした姿を目にした途端、琴美は「ああやっぱり」と落胆したような気持ちになる。気合を入れて挑んだせっかくの祈願も、どうやら無意味に終わったようだ。
「あー待て待て、分かってるって。全然ダメじゃんって言いたいんだろ?」
そうした琴美の内心を、智子が言い当ててみせる。このアプローチは失敗であったと、そのように考えるのは早計だとでも言いたげだった。
「まあ、その、今のはさ……あれだよ、とりあえず第一ステップ完了って感じなんだよ。たぶんこっから、もうちょっとなんかやんないとダメなんだ」
だから、先程までのおこないも無駄ではなかった。こじつけのように聞こえなくもないが、提案者である智子はあくまでそう言い張るつもりのようだった。智子としても自分たちの祈念が無事に届いて、そのままあっさり元に戻れたらいいなと期待していたふしはあったようだが、それが叶わなかったからといってすぐ諦めるつもりはないようだ。
「なんかって、なんだよ。また階段から落っこちてみるとかか?」
「あーうん、そうだな……よっしゃ、そんじゃあそれだ、もいっちょやってみっか」
もはやこうなれば、思いついたことを手当たり次第にやってみるしかない。石段からの転落は混乱のただ中にあった入れ替わり直後にも試してはいたのだが、今度は智子の言うように「第一ステップ」を経た上での試みだ。結局はあの日の出来事を再現するという当初の方針へと立ち戻ったようであったから、さしあたって入れ替わりが起きる直前のふたりにとってインパクトの大きかった件の転落事故を今改めて繰り返す運びとなった。
*
「こみさん、ちょっとそこ立ってみて」
「あ?」
「ほら、階段ギリギリんとこ」
「なにすんだ?」
「いいから、とりあえず立って」
もと来た道を引き返し、さっきのぼってきた石段のそばまでやってきたふたり。すると智子が急にそのようなことを言って琴美に指図してきた。
「このへんか?」
「そうそこ。んじゃ、ちゃんとよけろよー」
「えっ、ちょ……」
そうして石段のちょうど下り口あたりに立たされた琴美であったが、それを確認した智子が何を思ったのか道の脇に落ちていた石ころを拾いあげる。
「そらっ」
「うわぁ!?」
手にした石ころを、智子は躊躇することなく琴美へと投げつけた。それに驚いた琴美は思わず悲鳴をあげてしまうが、すんでのところでかわすことに成功した。
「なにしてんだバカっ! あぶねーだろ!」
「いいんだよ、これで」
「ああ?」
身をひねった勢いで危うく石段から転げ落ちてしまいそうになったものだから、相方のこのような狼藉に声を荒らげて抗議する琴美。しかし悪びれた様子もない智子は至って涼しい顔でそれを受け流す。
「おまえ、あんときここで私に空きカンぶつけようとしただろ? その再現をちょっと」
「いや、別にそこまでせんでも」
「つーか元はといやぁ、こみさんがあんなことすっからじゃねーの? そんなとこから落っこちなきゃ、私もおまえも変なことにならなかったのによー」
「それは……悪かったけど……」
思い出したように過去を蒸し返す形で相方を責める智子であったが、一応は言いがかりとも言えないことであったから、琴美はムッとしつつもばつの悪い気持ちにさせられる。元々の原因はどう考えてもしつこくからかってきた智子にこそあるのだが、それはそれとしてもしあのとき手にした空きカンを怒りに任せて投げつけたりしなければ、今回のような厄介ごとは起きなかったかもしれない。後先考えない己の暴投が予期せぬ大失点を招いたと、そのような思いが心の片隅にあった琴美としては、そこを突かれてしまうと素直に謝ることしかできないのだった。
「こみさんすぐブチキレっからなー。そういうとこだぞ」
自分のことを棚にあげる智子はなんとも上から目線な態度で話題を引きずりつつも、かけていた眼鏡を外してそれを参道脇にそっと置いた。そうして今度はポケットをまさぐり、そこから取り出した自宅の鍵も同じく地べたへと置いてみせる。
「そっちもかばんとか、どっかに除けとけよ」
「あ、うん」
その言葉を受け、相方の言わんとすることを察した琴美は己の手荷物を退避させにかかった。これからふたりして石段を転げ落ちる訳であるから、そのせいで所持品が壊れたり、あるいはどこかに無くしてしまわないよう配慮しておくべきなのだ。
そうして準備は整い、これから転落していくこととなる石段の手前へと並び立つふたり。これからここを転がり落ちていくのかと、眼下に広がるその急勾配に息を呑んでいた琴美であったが、
「んじゃ、やるか」
「えっ、な、なにっ?」
ふいに傍らの智子からグイと抱き寄せられてしまったので、眼鏡をかけない素顔の相方と向かい合う形となった琴美は目をぱちぱちさせる。
「ほら、こみさんもちゃんと掴まって」
「お、おう……」
指示に従った琴美が智子の腰へと両腕を回してみれば、ふたりはあたかも相撲取りのようにがっぷり四つで抱き合う形となった。その様子はお互い磁力でも働いているかのようにぴったりフィットしていて、ちょっとやそっとでは離れそうにない。
「よっしゃ、んじゃ回れ回れ」
「あっ、ちょっ」
すると今度は智子がその場で器用に足踏みを始め、琴美をまきぞえに回転し始めた。それに合わせるべく、琴美のほうもよちよちした足取りで追従するが、こうなると益々相撲の取り組みが如き様相を呈し始める。
「こんな感じでさっ、あんときとおんなじふうに落っこちてみんだよ。かなり勢いついてたかんな、怪我しねーよう気合入れてけよっ」
「わ、分かった!」
足をもつれさせることもなく、息を合わせたふたりがいよいよ回転速度をあげてみれば、それはもはや相撲というよりまるでワルツを踊っているようでもあった。だからといって優雅なひとときを楽しんでいるという訳ではなく、本人たちとしては心底必死なのであるが。
「よーし! い、いくぞっ! 大丈夫か!?」
「いいぞ! こいよ! ほらっ!」
「うらあぁぁ────!」
「ぬおあぁぁ────!」
嗚呼、またしても南無三。仲良く抱き合ったふたりは、とうとう意を決して石段から転げ落ちていった。今再び、境内に少女たちの絶叫がこだまする。
◆
「いってぇー……」
「うう~ん……」
少しばかりの間、琴美は意識が飛んでしまっていた。上半身を起こしてみれば途端に体のあちこちが痛み出し、ひどく目が回っているからか頭のほうもなんだかふらふらと安定しない。いつの間にか離れ離れになっていた相方を求めて琴美が辺りを見回してみれば、少し離れた先で寝転がっていたようだ。
「あっ……」
その姿に、琴美は今度こそ本当に落胆してしまった。地に伏せる智子の姿には何も変化など起きておらず、相変わらずの状態であったからだ。
「あいたた……」
すると目を覚ました様子の智子が、その身をゆっくりと起こした。体の痛みに顔をしかめつつも琴美の存在に気付いた彼女は「どうだ? 戻ってるか?」と尋ねつつ、這い歩きで相方のそばへと歩み寄っていく。
「あーあ……ダメかぁ……」
琴美の顔を間近で確認した智子が、途端にその表情を暗くする。言葉は軽いが、その声色には心底がっかりした感情が滲んでもいた。そうして上体を起こすと、気の抜けた様子でぺたんと尻餅をつくのだった。
「どうすっかなー……もうなーんも思いつかんわ」
なりふり構わず身投げ同然の荒行を決行したふたりであったが、それがなんら結果を生み出さなかったことで智子はひどく消沈させられたらしい。「まだ次のステップがある」などと取り繕う気力もなく、当てが完全に外れてしまった彼女の顔には諦めの気配が漂っていた。
「いや、ほら、まだなんかあるって。諦めんなよ」
一方の琴美としても徒労を感じてはいるのだが、だからといってここで終わりにしていい筈がないと、ひとまずそれらしい言葉で相方を励まそうとする。
「はぁ──、やれやれ……」
するとおもむろに立ち上がった智子が、ため息をつきながらジャージについた砂埃を手で払う。そうしてそのまま何も言わず、痛む体を引きずりながら石段をのぼり始めた。そんな相方のあとを追うべく立ち上がった琴美もまた、自分たちが転がり落ちてきたその石段へと再び足をかけるのだった。
「なあこみさん。どうだった? ウチの住みごこち」
道脇に預けておいた手荷物を回収した智子が、眼鏡をかけつつそのようなことを尋ねた。かばんの肩紐に腕を通していた琴美は、急にどうしたのだろうと思いつつもそれに答えようと口を開く。
「あーうん、まあ良かったよ」
「どのへんが?」
「んー……そりゃ家ん中が広いとか……あと、なんも家事しなくていいとか……かなぁ」
「弟の奴も一緒だから嬉しい?」
「そ、そりゃもちろん!」
「どうよあいつは。いつもスカした顔してっけど、ああ見えてウチん中じゃ甘ったれのシスコンなんだぞ」
「あー、う、うん、まあ、ちょっとそんな感じかもね。あはは……」
あれやこれやと具体的な感想を聞きたがる智子であったが、琴美との会話中に自身の弟のことが話題にあがっても普段のように不機嫌になる様子は見られない。そうして智子の質問は更に続いていく。
「お母さんはどう? 優しかった?」
「そうだね、すごくいい人だと思う」
「つっても怒るとメッチャ怖いかんな? こみさんもそのうちシバかれるぜきっと」
「ええー……」
「お父さんは?」
「あっうん、カッコよかったかな。智貴くんとソックリなんだね」
「そうだっけ? なんかその辺、よく思い出せないんだよな」
己の両親についても智子は知りたがった。今は立ち入りを禁じられている生家に思いを馳せるため、そのよすがとなるものを琴美越しに求めているからなのだろうか。いつしかふたりは道の脇へと腰をおろし、ここしばらくの「黒木智子」の暮らしぶりについて話り合う。
話は学校生活にも及び、級友たちの今現在の様子などを智子が尋ねてみれば、面倒がることもなく琴美はそれにひとつひとつ答えてやった。内笑美莉という名の生徒がいたく心配していたことを伝えた際は、そのように気遣われるほどの仲でもないのか首をひねったりしていたのだが、それも含めてのこの一週間なのであった。
*
「あのさ、こみさん。もしこのまんま元に戻れなかったら、どうするよ?」
しばらくとりとめのない会話を続けていたふたりであったが、ふいに智子がそうしたことを口にした。
「もしって……いや、絶対戻んないとダメだろ」
「だからもしもの話。私がおまえのまんまで、おまえが私のまんま生きてったら、どうなんのかなーって」
「そんなの……」
智子の問いに対するおよその答えを、琴美は既に得ていた。このまま自分たちが元に戻らなければどうなるかといえば、きっと近いうちに本来の己をすっかり喪失してしまい、偽りの自我がそれに取って代わるのだろう。そうなれば、もはや「自分たちが入れ替わっている」という認識すらくつがえされてしまうに違いないと、琴美はそのように危惧している。
こうしたことは智子自身もうっすらと理解しているようで、呑気そうな語り口とは裏腹に、その表情にはどこか暗いものが浮かんでいた。
「あーあ、もうちょいでゴールデンウィークだってのにとんだ災難だわ」
「勉強会どうするよ? こんな状態じゃやる気になれんのだが」
「そりゃまあ、んなことしてる場合じゃねーけど……」
「ゆうちゃん楽しみにしてたのになー。かわいそうだなー」
智子が親友づきあいをしている「ゆうちゃん」こと「
「つーか、ゆうちゃんびっくりするぞ。私とおまえが入れ替わってるなんて」
「あーうん、どうだろう……成瀬さん、信じてくれるかな?」
「そりゃ信じるよ。ゆうちゃんは私の言うことだったらなんでも真に受けるから」
かの親友であれば、自分の口から事情を説明すれば疑うことなくすんなりと受け入れてくれるはず。そう自信ありげに語る智子ではあったが、己の肉体がいまや別人そのものであるという前提が抜け落ちている。であるからして、普段から琴美の奇怪な言動に戸惑うことの多いゆうが「またこみちゃんが変なこと言ってる」と考えて真に受けない可能性がなきにしもあらずなのであった。
「どうせならゆうちゃんと入れ替わりたかったなぁ。そしたらおっぱい揉み放題なのに」
「おいっ」
「こんなゼロの者じゃあ『胸に何もありませんよ?』ってレベルだし……」
(ほんっとコイツは……!)
そのようなことを言って己の胸をこれみよがしに撫でさする智子であったから呆れずにはいられない琴美。先程までは深刻そうにしていた智子が、こうした話題になった途端に調子づくのはもはや性分なのだろうかと考えてしまう。
「……なあ、ちょっといいか?」
「あん?」
と、なにやら智子が琴美のほうをじっと見やり、もの言いたげに声をかけた。
「お、おっぱい見せてもらっていい?」
「え……は、はぁっ!?」
あまりに突然過ぎる相方のそうした頼みに、琴美は絶句してしまった。もしや気でも触れたのだろうかと本気で思いかけたところで、智子が今しがたの発言を補足しようと言葉を続ける。
「ほら、このまま戻れなかったらそういうのも見納めになるかもしんないじゃん? だったら最後に自分の体のこと、ちょっとだけ見ておきたいなって……」
「いや、だからっておまえ、そんな……」
「なあ、頼むよ、見せてくれよ。私の体なんだぞ?」
「あ、う、でも……」
「おねがいっ! 見せて! おっぱい見せてください! この通り!」
音が鳴るほど勢いよく手を合わせ、まるで神仏にでも祈るかのように頼み込んでくる智子。だからといってハイどうぞと見せてやる訳がない琴美ではあったが、遂には「見せてくんなきゃ自殺するぞ」と駄々をこねられてしまったものだから、まことに渋々ながら相方の求めに応じてやるのだった。
「じゃあ、ちょっとだけだぞ……?」
「あっうん、分かってる、ちょっとだけ……」
参拝客に見られてしまわないよう参道から外れて茂みの奥へと移動した琴美たちは、そこに生えていた大きな樹木の裏側へと身を潜める。そうして向かい合ったふたりであるが、やがて意を決した琴美がまずはブレザーをはだけさせ、続いてシャツのボタンを上のほうから外していく。
「ほ、ほら……見ていいぞ」
「う、うん、じゃあ……!」
そうして胸元がすっかりあらわになったあたりで手を止めた琴美は、最後の仕上げにとネクタイを肩にかけ、己のスポーツブラを控えめにたくしあげてみせた。先程から直立したまま緊張の面持ちで事の推移を見守っていた智子であったが、準備完了と見て早速中腰の姿勢で相方の胸元を覗き込む。
「あ、ち、ちっちゃいね、やっぱり……へへ……」
「はい、終わりな」
「バカっ、なにしてんだ!?」
「ちょっとだけっつったじゃねーか。いいだろもう」
「よくない! もっと見せてよぉーっ!」
少しもしないうちに胸を隠す琴美であったが、これは元々そういう条件だからだ。にも関わらず智子としてはまるで満足できなかったようで、先程の約束を忘れたかのように秘め事の継続をせがむ。
「人の体ブン盗りやがった癖して、なにもったいぶってんだ! 隠すほどのモンかよ! 見せろっ、見せろっ、見せろったら!」
「あーうるさいうるさい! 分かったよ、じゃあ好きにしろよ!」
完全に駄々っ子と化した相方の剣幕にウンザリした琴美であったから当初の恥じらいも薄らいでしまう。智子の言うようにどうせ他人の体なのだからと、開き直った彼女はもはや躊躇することなくガバリと胸元を広げてみせた。
「ほうほう、ふむふむ」
(ったく……)
改めて許可が出たことで、智子はじっくりとお目当てのものを観察し始めた。そんな相方の様子に心の中でため息をつきながら、琴美は元に戻るための次なる手を考える。といっても具体的な手がかりはもはや尽きてしまっていたから、正直言って琴美自身にもどうしていいか分からなくなりかけていたのだが。
「ひゃっ!?」
突如胸に感じたその感触に、琴美は思わず跳び上がる。一体なにごとかと思えば、どうも智子がその手で胸を触ってきたようだ。
「なにしてんだっ!」
予期せぬことに今再び恥じらいの戻ってきた琴美が、さっと己の胸元を隠してみせる。さすがにそこまでのことは許可できないと、手をおずおずさせる智子に向かって身構えずにはいられない。
「いや、せっかくだから揉んどこうかなーって……」
「バカっ! ダメだそんなの。変なこと考えてんじゃねーよ」
「違うって。やらしい気持ちとか、そういうんじゃないんだ。なんかこう、触ってみたいんだよ、単純に」
「はあ? なんだよそれ……」
智子のよく分からぬ訴えを突っぱねようとした琴美であったが、「ただ単に触ってみたい」というその言葉に無視できないものを感じて一旦口をつぐむ。智子に対して似たような思いにかられたことが自分にもなかっただろうかと、心当たりのある琴美は己を振り返ったのだ。
「……ほら、触っていいぞ」
「いいの?」
「軽くだからな?」
「あっ、うん、そんじゃ……」
琴美の許しを得た智子は、改めてその胸へと手を伸ばす。さわさわと撫でるようなその手つきがなんともくすぐったい琴美であったが、真剣な顔でお触りに集中している相方のため、どうにか耐えてやろうと口をへの字に曲げる。
「あっ、へへ……こみさんもしかして感じてる?」
(バカだ、こいつやっぱりバカだ)
そんな琴美の気も知らず、智子が冗談めかしてそのようなことを言ってきた。余程その頭をはたいてやりたい琴美であったが、今は智子のものとなってしまった自らの肉体にそのようなことをするのも気が引けてしまうので結局はこらえるしかない。
「もういいか?」
「あー待って! もうちょい、もうちょいだけ……」
智子のセクハラじみた態度へのお仕置きとして、このどうにも落ち着かない秘め事を切り上げようとする琴美。それを受け、焦る智子がもう少しだけ時間をくれと頼み込む。己本来の体と触れ合うことに余程興味があるのか、まだまだ物足りないようだった。
「こっちも恥ずいんだからな、早く終わらせてくれよ」
「うん……」
ともあれそのように急かしつつも、智子が満足するまで付き合ってやることにした琴美。それを受け、智子がまた琴美の胸に触れていく。
「お、おい……!?」
のみならず、今度はなにを思ったのか胸に顔をうずめてくる智子であった。熱っぽい智子の体温やら、眼鏡の硬い感触やらが肌に伝わってくる。突然のことに驚いた琴美は相方を押し返そうとしたのだが、智子はぴったりくっついたまま離れようとしない。
(まあいいか……)
きっと智子は、己本来の肉体と触れ合う心地よさにうっとりしているのかもしれない。なんとなく琴美には相方の今の気持ちが分かったような気がした。
そのままじっとして動かなくなった智子であったから、琴美はなんとはなしに片手を相方の頭へ置いてみる。そうしているといよいよ密着の度合いが増したように感じられ、なんだか琴美のほうまで不思議な気持ちになってくるのだった。
「あーあ、この体ともお別れかぁ」
ふいに口を開いた智子がそのようなことを呟いた。ここに来て智子は古巣との離別がやがて決定的なものになることを予感し、それを名残惜しく思っているのだろうか。「お別れなんかじゃない」と琴美は返してやりたかったが、元に戻る手立てを見つけられなかった場合はそうした結果も避けられないのだった。
「ずっと一緒にいてくれたもんなぁ。生まれたときから、ずっと一緒……」
智子がこの世に生を受けてから今日に至るまで、その肉体は長らく魂に寄り添い続けてきた。両者は本来不可分のもので、いわば家族や友人以上に親密な間柄のはずだった。故に智子にとっての一番のパートナーは、他の誰でもない自分自身であったのかもしれない。
「ごめんなぁ、今まであんまし大事にしてやれなくて……」
いつも趣味にかまけて夜更かししたりと不摂生になりがちで、日頃から美容などにあまり気を使うようなこともなかった。それでも智子の肉体は、なんら不満に思わずあるじに従い続けてくれたに違いない。しかしそうした蜜月時代も今となっては届かぬ過去だ。
「さよなら……わたし……!」
絞り出すような声で呟く智子がギュッとしがみつく。そんな智子がいつの間にか涙していたことを、琴美は己の胸をつたうその熱い雫によって気付かされた。相方の姿がとても小さく、そして弱々しく見えてしまったからか、意識せず琴美はその背にもう片方の手を添え、自分のほうからも抱きしめてやるような格好になった。
(さよならなんかじゃない……さよならなんかにするもんか……!)
もし、もしこのまま元に戻れなかったとしても、それで終わりになどしたくない。これから先も心と体は共にあり続けなければならない。他の誰がなんと言おうと、予期せず借り受けてしまったこの体は本来その胸元ですすり泣く智子のものであり、そんな智子がゼロ呼ばわりしてはばからない体こそが真の小宮山琴美である「私」の帰るべき場所なのだから。そのように考える琴美はすっと目を閉じ、智子を抱きしめる力をより一層強めていく。
(ずっと一緒にいるから……私たち、ずっとずっと一緒だから……)
たとえ己の心が完全に変異してしまったとしてもこのことだけは覚えていてほしいと、琴美はそう自分自身に願わずにはいられない。
どうかこの智子といつまでも一緒にいてあげてほしい。好きになれない相手かもしれない。度々口論するかもしれないし、時にはとっくみあいの喧嘩になるかもしれない。でも、それでも決して手放してはいけない相手。だからこれから先どんなことがあっても智子に寄り添い続けてあげてほしいと、琴美は自身の胸へと刻み込むように強く願った。
(…………)
フワフワと、体が浮き上がる不思議な感覚に琴美は包まれていた。天地が曖昧になって、抱きあう智子と一緒に宇宙を漂っているような、そうした感覚だった。それがとても心地よくて、琴美はいつまでもそうしていたい気持ちに駆られてしまう。智子の形がなくなって、琴美の形もなくなって、お互いの境界もなくなって。そうしてひとかたまりになったふたりは、ただただ幸せだった。
よかった、これでもう寂しくない。それぞれに欠けていたものがお互いを通じて満たされていく。我らはひとつ。私は小宮山琴美で、そして黒木智子。どっちがどっちか分からなくなったけど、なんにも困るようなことはない。このままずっと一緒にいられたら、ただそれだけでもう幸せ……。
*
「ぐすっ……」
意識せず鼻をすすった琴美は、己が何かに顔をくっつけていたことに気付く。なんだか今さっきまで時間の感覚が消し飛んでいたような気もするが、ともあれ一旦顔をあげてみる。
「へ? あれ?」
「お? ん?」
するとそこには、あっけに取られた様子の智子の顔があった。正確には「黒木智子」そのものの姿がそこにあった。
「あれ? うそっ、えっ、なんで?」
「えっ、なにこれ、なにこれ」
琴美も、そして琴美の前に立つ智子も一様にうろたえ始めた。状況の把握に努めようとするあまり、お互いの顔を間近で見やったり、あるいは試しにつねったりしてみるうち、彼女らの中で徐々に理解が追いついてきた。
「あ、あのさっ、私、誰に見える!?」
「こ、こみさん、こみさんだよっ! 私は!?」
「黒木さん! あんた、黒木さんだよ!」
己の目で見ることのできぬ自身の姿を確認しあったふたりであったが、それを受けて両者の間で益々状況の把握が進んでいった。これはもう、きっと間違いないはずだと。
「じゃあこれ、もしかして……」
「もしかしなくても、たぶん絶対……」
「「元に戻ってる──!」」
ふたりが同時に快哉の声をあげた。一体どういう訳なのか、気がついたら自分たちの念願が叶っていたのだ。はしゃぐあまり茂みから飛び出していった琴美たちが、改めて陽の光のもとでお互いの姿を確認しあう。
「ほら、やっぱどう見てもこみさんだろー! このメガネ! なんだよこのっ! こんなモンもーいらねーかんな!」
「あははっ、やめろって」
琴美の眼鏡を手でつまみ、ふざけた様子でクイクイと動かしてみせる智子。それがくすぐったくて身をよじる琴美のほうもまた、こうしたじゃれあいが愉快で仕方がないという様子だ。
「これこれ、この髪だよなー。この暑っ苦しい、ボサボサの……ってなんだこりゃ、すっげーサラサラ!?」
己の髪に手をやって確認した智子であったが、手入れの行き届いたその質感に思わず仰天したようだ。
「こみさんの仕業か? こいつめっ、こいつめっ」
「なんで怒ってんだよ、そこ喜ぶとこだろー?」
ぺちぺちと琴美の肩を叩く智子と、それを半笑いになっていなす琴美。他の参拝客がこの様子を目にすれば、きっと友達同士仲睦まじく遊んでいるように見えることだろう。
「あっほら、胸! 丸出しだぞ」
「おっと、いけね……!」
と、智子が胸をさらけ出したままであったことにようやく気付いた琴美がそれを指摘してやる。すると智子は慌てて衣服の乱れを整えるのだった。
*
「じゃあ私、ウチ帰るわ。お母さんにも教えてやらんといかんし」
「あ、悪いけど智貴くんにさ、ちょっと連絡しといてあげてよ。心配してると思うから」
「あー分かってるよ。あいつにゃあ、うんと説教してやらねーと気がすまねーかんな」
鳥居の前で、琴美と智子はそれぞれの家路につく前に少しばかり話をしていた。紆余曲折ありはしたが、こうして無事本来の自分を取り戻せたことに心底安堵している様子が両者の顔には表れているようだ。
「ほら、これ忘れんなよ」
「あっうん、ありがと」
するとなにかを思い出した様子の智子が、かばんの中から白いスマホとその充電ケーブルを引っ張り出して琴美へと手渡す。元々琴美の所有物であったそのスマホが、ようやく本来の持ち主の手に戻ったのだ。のちほど光や笑美莉にも連絡しておかねばと思う琴美は、渡された端末をひとまずポケットへ収める。
「じゃあな、こみさん」
「うん、また明日」
道路のほうに出たふたりは、別れの挨拶を口にする。琴美は手で支えているその自転車で、そして智子は自身の足で、それぞれ己の家へと向かうのだ。気がはやるのか、そのまま智子のほうはそっけなく背を向けて走り出していったのだが、一方の琴美はなんとはなしにその姿を目で追ってしまう。
「…………」
智子の背を見送るうち、琴美はそれを追いかけたい衝動にかられた。何故だか自分が置いていかれるような、そうした寂しさがこみあげてきたからだ。しかしそんなことをしてはならないと、琴美は己を押しとどめる。こうした気持ちは今このとき限りのもの。明日また会うときは、きっといつものふたり。だから決して後を追ってはいけないのだと。
遠くなっていく智子のその背中が、どことなくこちらに向けて手を振っているようだと琴美には感じられた。
「さよなら……わたし……」
だから琴美は、誰にも届かぬ呟きを口にする。そうして自身も背を向けて、そのまま自転車にまたがりペダルを漕ぎ始めた。我が家を目指してまっすぐ進む琴美は、もう振り返ったりしない。自転車は走り続ける、黒木智子としての日々へ別れを告げるかのように。
「しょおーりのー、よろこびはー、おーおーなーみーと、なーって……」
お気に入りの曲を口ずさむ琴美の柔らかな歌声が、風に乗って町中へ広がっていく。初夏の訪れを一足先に知らせるその鈴虫の音色に、稲毛の町もどこか耳を澄ませているようだった。