もこっちの楽しい日常   作:ニックワンワン

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【ホラー】原幕小の七不思議(5)

七不思議がやってくる!

「あとそう、家庭科室も要注意だよ。たぶん『魔女』がいるから」

 

 さっきから喋りっぱなしの智子がまたひとつ思いだしたように言葉を続けていく。

 

「こいつ自分の作った料理を食べさせようとしてくるんだけど、でも絶対食べちゃダメなんだ。猛毒がはいってるからもし食べたら死んじゃうんだって」

 

 仲間たちを前にいま智子が話しているのは【家庭科室の魔女】なる怪談のことだ。これはオリンピックの開催や新幹線の開通が世間を賑わせていた六〇年代半ば、当時の原幕小で起きた集団食中毒事件にちなむもので、なんでも家庭科の調理実習にてある女子児童の作ったその料理をクラスメイトたちが口にしたところ、たちまち嘔吐したのちこぞってひどい体調不良におちいったという。それは一体いかなる原因によるものなのか、事件を受けて市が調査にはいったもののこれといった問題点が奇妙なほどに見つからなかったため、真相のわからぬままに当分のあいだ原幕小では調理実習が取りやめになってしまった。

 しかし子供たちのあいだではあれやこれや憶測が巡らされていたようで、やがて妙な噂が流れはじめた。いわく渦中の人物である女子児童が実は魔女の家系であり、科学では解明できない特殊な毒薬を料理にこっそり混ぜたのではないか。被害にあった者たちは彼女の魔術の実験台とされたのではないか。このようなことがまことしやかにささやかれたのだった。大人から見ればデマとしか思えないそうした無責任な噂も子供たちにとっては真実味のあるものに感じられたらしく、くだんの女子児童に対する言いがかりに近いこの話は広く信じられ、当の本人が転校してしまったあともそれなりに流行り続けたとオカ研ノートには書かれていた。

 

「とにかくさ、ヤバそうなのがいたら相手しないですぐ逃げたほうがいいよ。ヘタに関わるとさっきみたいに閉じ込められちゃうかもしんないし」

 

 そうした智子の言葉を受け、傘立てに腰をおろすヤンキー娘が神妙な顔でうなずいている。彼女なりに智子のことを信頼するようになったのか、さきほどから続く長話にも素直に耳を傾けているようだった。

 智子がなにを話していたのかといえば、これはいまのところ出くわしていないながらもどこかにいるはずのまだ見ぬ他のおばけたちについてであった。卓球室を離れて昇降口までやってきた一行はそこでひと息ついていたのであるが、魔境と化しているであろう校舎内を引き続き探索するにあたって智子がいま一度仲間たちに怪異への対処法を説いていたのだ。

 

(ちゃんと聞いてんのかな……)

 

 しかしそうしたなかにあってひとりだけうわの空な者がいた。水滴のついた携帯音楽プレーヤーをあれこれいじっていたかと思えば、はぁとため息をついてそれをポケットに戻したのち、つまらなそうにうつむいたり吹き抜けになっている天井を見上げたりしているのだった。

 

「うわ……」

 

 せっかく大事な話をしてやっているのだから真面目に聞けと智子が少しばかりムッとしていたところ、うわの空だったその仲間が突然びくっと体を震わせた。

 

「真子、あれ……」

「えっ?」

 

 そうして上のほうを指差しながら隣の真子に声をかけたのは、ゆりだ。言われた真子がそちらを見上げてみれば彼女もなにかに気づいたようで「ひっ」と小さく悲鳴を上げて口もとをおさえた。

 

「えっ、な、なに、どうしたの……?」すわなにごとかと智子が慌ててゆりたちの見ているほうを確認する。

「あっ!?」そして智子もまたおどろきのあまり声をあげた。視線の先にいる「なにか」を目にしたからだ。

「黒木さん、あれ、ナントカ人形ってのじゃないの?」頭上から目を離さずゆりが問いかける。

「あっ、う、うん……そうかも」ゆりの言葉を肯定する智子も「それ」から目をそらせず上を向いたままだ。

 

 目が離せないでいるのはどうやら相手のほうも同じらしい。吹き抜けになっている昇降口の二階部分には別棟へと繋がる長い渡り廊下が通っているのだが、そこの手すりから何者かが身を乗り出し眼下にいる智子たちのことを黙々と注視してきていたのだった。

 

(【光姫(みつひめ)人形】だ……!)

 

 二階から智子たちのことを見おろしていたのは人形だった。前髪をバッテン型のヘアピンらしきもので留め、うしろ髪はギュッと縛ったおさげになっている。黒い髪に白い肌、おそらくは女の子と思われるその人形は赤い着物をまとっていて、いわゆる日本人形的な造りをしているようだった。

 

「おい、大丈夫なのかあいつ。こっち飛んでくんじゃねえか……?」

「あーいや、まあ……」

 

 智子の隣に立ったヤンキー娘が警戒心もあらわにたずねてきた。事前にその存在だけは教えてもらっていたためかうろたえる様子こそないものの鋭い目つきで人形を睨みつけている。

 

「あ、ああやって誰かを見てるのが好きなんだよ。ほっといても害はないから……たぶん」

 

 すっかり臨戦態勢にはいったヤンキー娘を落ち着かせるように智子が答えてみせた。智子の言葉通り、おすまし顔の人形は特に頭上からおそいかかってくるふうでもなく身じろぎひとつせずただそこにあるだけだった。

 この奇妙な人形──光姫人形の噂は大正時代の終わりごろから子供たちに知られるようになったとされる。話は里崎小(当時の原幕小)が創立五〇周年を迎えたある年のこと、ひとつの日本人形が学校に寄贈されたところからはじまった。地元の旧家・コミなんとかさんのお宅の古い蔵に眠っていたものらしいが、ともあれ「光姫」という名で児童たちに紹介されたこの人形は昇降口に飾られることとなり、以来ガラスケース越しに子供たちの往来を見守る役目についたのであった。

 しかしそうしたことも長くは続かなかった。彼女が学校にやってきてから数ヵ月ほど経ったころ千葉県一帯に大きな地震──かつて希心神社を倒壊させたときのもの──が起きたからだ。これによって当時の校舎は全壊し、光姫人形もそのがれきにすっかり埋もれてしまったのであるが、ここからがこの話の不思議なところである。あとになってから学校関係者が光姫をがれきのなかから掘り出してあげようとしたところ、ぺしゃんこになったガラスケースは見つかったものの肝心の人形のほうがいくら探しても見当たらなかったそうだ。火事場泥棒がこっそり盗みだしたのか、はたまたそれ以外の理由があったのか真相はわからずじまいだった。

 やがて仮設校舎が設けられ子供たちはどうにか学業を再開できるようになったのであるが、あるときこんな噂が流れはじめた。それは「光姫が学校に帰ってきた」というもので、窓──といってもガラスははいっていない──から教室のなかをそっと覗いているだとか、校舎のかやぶき屋根の上から体育の授業を見物しているだとか、そうした神出鬼没の存在と化した光姫がいつもどこかで児童たちのことを観察しているのだとささやかれるようになった。こうした噂はちゃんとした校舎が建て直されてからも続いたようで、やれ今日は講堂のほうで光姫を見ただの昨日は下駄箱の上に突っ立っているのを見ただのと冗談なのか本気なのかわからない目撃情報が当時の子供たちのあいだで交わされていたのだった。きこさんが学校中の話題をかっさらっていくまでのあいだは光姫人形こそがこのころもっとも流行った怪談といってよかった。

 *

「あ、あのさ、トイレ寄ってかない?」

 

 打ち合わせを終えたあとに一行は昇降口から直接繋がっているC棟西側の一階部分へと向かったが、道すがらトイレの前を通りかかった折に智子が皆を引きとめそのように提案した。「トイレ休憩させてくれ」といううったえはさきの卓球勝負からおりるためのでまかせに過ぎなかったが今になって本当にトイレへ行きたくなったのだ。

 

「またなんか出てくるんじゃないの?」

 

 智子の提案を受けて顔を見合わせる仲間たちであったがゆりがぽつりとそう言った。このトイレというのがずいぶんと日の差さないところにあるせいで日頃からみんなに気味悪がられており、それゆえ近隣の教室の児童たちですらも利用をためらうような場所だった。こんなときに不安をやわらげてくれるはずの電灯もここ裏幕に限ってはまともに機能していないようで、おばけが自分たちの出現を主張してくるとき以外はチカリともせずいくらスイッチを操作してもまるきり反応しないのだった。

 

「トイレとかにもいるんでしょ? ヘンなのが」

「あっ、いやまあ、そうだけど……」

 

 さっきまでの智子の長話を一応ながらゆりも聞いていたらしい。彼女が警戒しているのは智子から教えられたある幽霊のことだった。

 

「あれはほら、A棟の三階のほうに出るんだよ。だから大丈夫だよ」今すぐトイレに行きたくて仕方がない智子はそのように言ってみんなを説得しにかかった。

「だって。どうする?」真子に顔を向けたゆりがそのようにたずねる。

「そうだね、じゃあ……」怪談博士の智子を信頼してか、うなずく真子がその提案に同意した。

 

 そうと決まれば話が早い。みんなもみんなで本当はトイレに行きたかったらしく、言いだしっぺの智子を差しおき我先にと個室へ駆け込んでいく仲間たちだった。

 

(うわっ、三番目だ……!)

 

 そうして四つある個室のうち残されたのは手前から三番目のものだけとなってしまった。そのことに不吉なものを感じた智子は躊躇せずにはいられなかった。「女子トイレの三番目の個室に出る」というのは智子がさっきの打ち合わせのなかでみんなにも教えてあげた怪談のひとつなのであるが、それもあって仲間たちは三番目をあえて避けたため、出遅れた智子がそれをつかまされる羽目になってしまったようだ。

 

(どうしようかな……ちょっと待っとこうかな……)

 

 そうすればやがて他の個室があいてそちらを使えるのだから。しかしそう考える一方で智子のなかにまた別の心配がわきあがる。個室にこもっているうち先にトイレを出た仲間たちがそのまま自分のことを置いてどこかに行ってしまうのではないか。そんなことになればこの学校のなかでまたひとりぼっちにされてしまうので智子としてはそちらのほうがよほど恐ろしかった。

 

(もういいや、たぶん大丈夫……!)

 

 このままぼやぼやしていてはやがてみんなが出てきてしまうので智子は意を決して三番目の個室に飛び込んだ。さっき自分で主張した通りくだんのおばけが出没するのはこことは別の場所にあるトイレのはずなのだからむやみに恐れる必要はない。

 *

「ふぃ──……」

 

 扉を閉めればいよいよまっくらな個室のなかで智子はこわごわながらもどうにか用を足し終えることができた。仲間たちはひと足先に水場のほうで手を洗っているようだがこのぶんならみんながいるうちに個室を出ていけそうだった。

 そんなふうに智子が安心していたところ、だしぬけに「ドン」と鈍い音がトイレに響く。

 

(いた)っ!? ちょっとゆり……!」

「えっ、なに?」

 

 真子がおどろいたような声でゆりに対してなにごとかをうったえる。おや、と思った智子が様子をうかがっていたところ「なんで叩くの?」「わたしじゃないけど」「だっていま」などとふたりの戸惑ったようなやりとりが続く。

 

「おいっ、田中(たなか)っ、鏡っ!」

「え……きゃあっ!?」

 

 ヤンキー娘の叫びを受け、なにかに気づいたらしい真子が悲鳴をあげた。途端、彼女らは慌てた様子で靴音を鳴らしあっというまにトイレから出ていってしまうのだった。

 

(なに、なんなの……!?)

 

 一体なにが起きたというのか。大急ぎで個室を飛び出そうとする智子であったが、扉をあけた途端に何者かがなかへと押し入ってきた。その誰かは顔を合わせるやいなや智子の頭を両手でガシィとつかみグイグイ詰め寄ってくるのだった。

 

「ひ、ひ、ひぃぃ……!」

 

 個室の奥へと強引に押しこまれた智子は悲鳴もろくにあげられないほど縮み上がってしまう。突如あらわれたこの不審者は智子と同い年ぐらいに見えるショートヘアの女の子で、夏だというのに黒い長袖のセーターを着ているようだった。しかし暗いなかでもハッキリとわかるほど彼女の顔は異様に青ざめていてまるで死人のようだった。

 と、その女の子が今度は智子の両の手をつかみあげてグイと自分の胸に引き寄せた。恐怖のあまり固く握り締められた智子の拳を女の子は愛おしげにひんやりした手で包み込む。

 

「ワタシト()()()()ニナッテ……」

 

 暗い個室のなかで目をらんらんと光らせる女の子が優しく、だけどもぞっとするような声色で智子にささやいた。それを受け、智子は目の前の相手が何者なのかをすぐさま理解させられた。

 

(【トイレの魔子(まこ)さん】だぁ──っ!)

 

 ゆりが出現を心配していた幽霊がいま、智子の目の前にいた。本来はA棟三階のトイレにいるはずだったそれがお約束を無視してあらわれたのだった。

 

「オネガイ……ナッテ……トモダチニナッテ……」

 

 うっすらと笑いながら智子に再三そのようなことをお願いしてくる幽霊。仮に五年一組のクラスメイトたちがこのようなことを申し出てきたとしたら智子としてもまんざらではないし、実際にそうした都合のよいことが起きはしないだろうかと多少は期待していたころもあった。しかしよりによってこういう形で人間以外の存在から友人関係をせまられてしまうとは思いもよらないのだった。

 

(ことわっちゃダメだ……絶対にダメだ……!)

 

 魔子さんからの求めをもしことわったらどうなるか、それは誰も知らない。ただ「大変なことになる」と、そのようにだけ言われていた。彼女の噂が原幕小で流行りだしたのは八〇年代のはじめごろ。いまもなお全国的に知られる「トイレの花子さん」がもとになっているとおぼしいこの怪談によれば生前の魔子さんは友達関係にひどく悩んでいたそうで、亡くなったあとも成仏できずにこうして化けて出るのだという。

 

「いっ、いいよっ、とと、友達、なるからっ……!」

 

 なんとか声を絞りだした智子がそのように同意してみせた。途端、智子の手を握り締めていた力がふっとゆるんで魔子さんの顔に安堵の色が浮かんだ。

 

「アリガトウ……コレカラヨロシクネ」

 

 そう言い残すと彼女はすうっと消えてしまった。どうやら満足して去っていったようだが智子のほうは嫌な汗が止まらず腰が抜けそうになっていた。

 

「ひぃ……ひぃ……」

 

 それでもどうにか個室から出てきた智子がよろめきながら歩きだす。出入り口の手前にはスリッパが並べられていたのだけれど慌てる仲間たちが蹴散らしていったためすっかり散乱しているのが暗がりのなかにも見て取れた。

 

「黒木さん、大丈夫?」

「あー……うん……」

 

 廊下のほうからひょっこり顔を覗かせた真子が智子に声をかけてきた。それに少しほっとした智子がよたよたとした動きで手洗い場の(へり)に肘をつく。

 

「そこの鏡、気をつけてね。なかに誰かいるみたいだから……」

「あん……?」

 

 不安げな真子がそんなことを言うので智子が真横の鏡を振り返るが、そこには青ざめた表情の自分がぼうっと浮かんでいるだけだった。

 

「はぁ──……」

 

 鏡と向き合うようにうなだれた智子が大きく息を吐き、疲れ切った様子で蛇口に手をかける。こっちはそれどころじゃなかったんだぞと、早々に逃げていった仲間たちのことを智子はうらめしく思ってしまうのだった。

 *

「あのさぁ、みんなちゃんと団体行動しなきゃダメでしょ。なんで勝手にいなくなっちゃうの?」

 

 トイレからやや離れた廊下の先で待っていたらしい他の仲間たちのもとへ真子に支えられつつ智子がやってきた。そしたら開口一番グチっぽいことを言いはじめたのだった。みんなで手分けして各教室を調べるにしても誰かをひとりっきりにさせるようなことは避けねばならない。なのにあっさり自分のことを置きざりにした仲間たちであったから智子としてはひとこと言ってやらねば気が済まないのだった。

 

「ごめんね。鏡のなかにおばけがいたからびっくりしちゃって……」

「さっきのってあれじゃないの?」

 

 口を尖らせる智子に対して真子が申し訳なさそうにあやまったところゆりが口を挟んできた。真子がおどろかされたというそのおばけについてどうやら彼女なりに見当がついたようだ。

 

「ほら黒木さん、なんだっけ。グーで叩いてくるやつ」

「あ……【ねぇさんのげんこつ】?」

「そうそれ」

 

 拳をふりふりジェスチャーで示すゆりに智子は思い当たるその名を口にした。ふたりが言っているのは戦後の時期に流行ったひとつの怪談のことだ。校舎内に置かれたある鏡──地元の有名な事業家から寄贈されたもの──の前に立つと突然誰かに肩を殴られることがある。おどろいて辺りを見回してみても誰もいない。おかしいなと思って鏡のほうに向き直るとそこには自分の代わりに不動明王(ふどうみょうおう)がごときいかりの形相を浮かべた女の子が映り込んでいて拳を握りしめているのだという。

 この女の子の名前は「ねぇさん」というらしいがそれ以外のことはわかっておらず、出くわしてしまった際は早々に鏡の前から立ち退かねばならぬとされていた。もし逃げ遅れてしまった場合、今度は鏡のなかから伸びてきた手に腕をきゅううとつねりあげられて悶絶する羽目になるからだ。

 

(もうどこになにが出てくるかわかんないなこれ……)

 

 かつて校舎の階段の踊り場には大きな鏡が設置されていたらしく「ねぇさん」はそこにあらわれるとされていた。しかしそのような備品は今の原幕小には存在しない。ゆえに代わりの出没先として鏡のあるトイレを選んだのだろうかと、智子はそんなふうに思った。さっきの魔子さんにしても本来別のところに出るとばかり思っていたのにあっさりその前提がくつがえされた訳であるが、こうなると危なそうな場所を避けていこうという作戦が通用しなくなるのではないかという不安がよぎる。

 例えばどこかの教室にはいっていったとしたら、包みを手にした家庭科室の魔女が待ち構えていて「お弁当作ったから食べて」とせまってくるかもしれない。廊下を歩いていたら例の恐るべき殺人校長がニコニコ顔で自分たちのことを呼びとめてくるかもしれない。いよいよ予測不能の様相を呈してきたここ裏幕ではもはやいっときの油断も許されないと、智子は改めて気を引き締めるのだった。

 *

「どうだ、なんかありそうか?」

「あっ、いや……ここもハズレかな」

 

 ヤンキー娘に声をかけられ智子が教員用の机の下から顔を出した。四人一緒になって調べ回っていたその教室だったけれど、このように念入りに探してみても結局それらしいところはどこにもないようだった。ここは一年生たちが使っている教室のひとつで、窓からは中庭のビオトープ(自然観察のために設けられた植物園の一種)におい茂る草木が見えている。普段はそこに住む昆虫たちが飛び回っていたりときおり小鳥なんかも訪れたりするのだけど、今はそうしたいきものたちの気配もなくひっそりと静まりかえっているようだ。

 

「ふぅ……」

 

 のっそり立ち上がった智子が軽く息を吐いて周囲を見回す。裏の世界の教室たちは見ればみるほど表の世界とそっくりだった。壁にはプリントや絵がそこかしこに貼られているし、棚のなかには誰かの忘れていったらしい手さげ袋なんかも残されている。つい数週間前までここで日々の授業がおこなわれていたような感じがして、これで空が晴れてセミたちの鳴き声が戻ってこようものなら表の世界に帰ってこれたと錯覚してしまいそうだった。

 

「おっ、こいつモーさんかいてんぞ」

 

 そうした表の世界のよすがに目を向けていたヤンキー娘から感心したような声が上がる。教室の掲示物のひとつに興味をひかれるものがあったらしい。

 

(どうなってんだろこれ、表のほうからコピーしてきてる感じなのかな……?)

 

 ヤンキー娘に触発された智子が壁際に寄ってくだんのモーさんとやらに目を向ける。黒板の向かい側の壁にはこのクラスの児童たちが図工の時間に描いた色とりどりの作品が貼り出されていたのだが、そのうちのひとつに牛のようなキャラクターのえがかれたものがあった。牛乳缶から顔をにょっきり出した白黒模様の牛が三匹並んでいて、それぞれ横から順に「コーヒー」「ミルク」「イチゴ」と名前が付けられている。クレヨン特有のやわらかいタッチでえがかれたそれは拙いながらも細かい部分まで丁寧にかき込まれており、作者の思い入れが感じられるような力作だった。

 おそらくはこれと同じ絵が表の世界でも実際に展示されているのかもしれないが、一体どういうカラクリでこのレプリカのような裏幕世界は作られているのだろうと智子は不思議に思う。おばけたちが当たり前のようにうろつくところなのだから深く考えても意味はないのかもしれないが「裏」と名がつくだけあって実は表側とは表裏一体の関係だったりするのかもしれないと、そんなことをぼんやり考えるのだった。

 

「あれ? ねえゆり、これちょっと……」

「なに?」

「ほら、これ黒木さんじゃないの?」

「ほんとだ」

 

 真子とゆりも壁に飾られている作品たちを鑑賞していたが、どうもなにかに気づいたらしいふたりが妙なことを口にしはじめた。

 

「黒木さん、ちょっといいかな? これなんだけど……」

「へっ?」

 

 手招きされた智子がそちらへと歩み寄る。そうして真子の示す先に目を向けてみればそこには鉛筆だけでえがかれたモノクロの似顔絵があった。それを目にした途端、智子の背筋にぞわりとしたものが走る。

 

「えっ、な、なにこれ、わたし……!?」

 

 どう見ても智子の似顔絵なのだった。非常に達者な線でえがかれたそれはとてもではないが一年生の手によるものとは思えない。諸々の特徴を完璧に写し取ってみせた似顔絵のなかの智子が、口をあんぐりとあけているモデルのことをじっとりと見つめてきていた。

 

「わっ! な、なに……!?」

 

 声をあげたのはまたしても真子だ。怯えるようにあとずさる彼女は辺りの作品たちを見回しながらうろたえはじめた。貼られていた絵のうちの何枚かがいつのまにかすっかり白紙と化しており、代わりにそこへ新たな描線がものすごい速さで同時に引かれはじめたからだ。カリカリカリと、画用紙に鉛筆をこすりつけるような音がひっきりなしに聞こえてくる。

 

「あれ真子じゃないの……?」

「やだぁ!」

 

 そうしてどんどんかきあがっていく絵を前にしてゆりがそんなことを口にする。途端、真子が今にも泣きそうな様子で声を震わせた。ゆりの言う通り、真子の似顔絵と思しきものが完成しつつあったからだ。そしてそれはゆり自身についても同様であり、別の画用紙のほうには同時並行で彼女の似顔絵がかかれているようだった。

 

「んだよオイ……どういうつもりだ?」

 

 やがていくつかの絵がすっかりかき直されてしまったのだけど、それらに視線を注ぐヤンキー娘は顔を引きつらせずにはいられなかった。自分そっくりの似顔絵までもがあらわれたからだ。

 

(これあれだ、わたしたちをかいたんだ……)

 

 完成した四枚の似顔絵はそのいずれもがこの場にいる全員をモデルにしたと見て間違いない。今まさに教室のなかであるひとつの怪談が出現したことを智子は悟った。

 

安藤(あんどう)っ、おまえか!)

 

 こうして絵でおどろかせてくるような存在について智子には明確な心当たりがあった。【絵がかける安藤くん】という怪談がそれだ。ねぇさんや鬼校長と同じく戦後期に誕生した噂であるが、なんでもかつて原幕小には絵の才能に恵まれた男の子がいたそうで大人顔負けのすぐれた作品をコンクールなどに出展しては世間を度々おどろかせていたらしい。だけども新作の制作中、彼は不慮の事故で亡くなってしまったのだとか。しかし未練を残した安藤くんはその後幽霊となって学校にあらわれるようになり、放課後になるとどこかの部屋で未完成の作品を仕上げるために絵をかき続けているのだという。

 

(出るなら図工室かなって思ってたんだけど……)

 

 智子の予想がまたしても外れた。絵をかくということに関連した存在ならC棟三階の図工室辺りに潜んでいるのではと踏んでいたのだが、実際は絵の貼られている場所であればどこにでも出没するようだ。怪異を引き起こしている張本人の姿は見えずとも教室に突如あらわれたその作品たちが彼の存在を強く主張していた。

 安藤くんについて具体的なことを智子はあまり知らなかった。オカ研ノートにはくだんの幽霊がどこに出るともどんなことをしてくるとも書かれていなかったからだ。しかしそれでもわかっていることがひとつあり──

 

「うおっ!? おいっ、なんかやべーぞ!」

 

 ヤンキー娘が思わず飛びのき背後の机にぶつかった。絵のなかにいる自分たちがいっせいに涙を流しはじめたからだ。それを受けて他の者たちも息を呑む。

 

「うあぁぁ──ん! あぁーん!」

 

 目の前の光景がよほど恐ろしかったのか、ゆりにギュッとしがみつく真子がとうとう声を上げて泣きだした。似顔絵のなかの自分たちが流すその涙が血のように赤黒かったからだ。見るまに赤く塗りつぶされた両目からは涙がドボドボとあふれだし、白黒だった画用紙をグロテスクに染めていった。

 

「み、みんなっ、もう行こうっ! ここにいちゃダメだよ!」

 

 智子がそのように叫び、すぐさま仲間たちに退室を促した。それを受けて一行は足早に教室をあとにする。ひとまず廊下に逃れたみんなはそこでひと息ついたが、ひどく胸の悪いものを見せられたからかいずれも顔色はよくなかった。真子などはさっきからずっとハンカチを手にスンスンと鼻を鳴らしている。

 

「さっきのってよー、あれじゃねえか? 安藤とかいうヤローの」

「あ、うん、そ、そうかも」

「そんならやべーんじゃねーか? あの絵、モロに見ちまったぞ」

「う、うん……」

 

 安藤くんのかいた絵を見てしまった者は呪われてしまう。これこそが彼についてはっきりしていることのひとつだった。智子から事前に話を聞いていたヤンキー娘はどうやらそこのところを心配しているようだ。

 

「で、でもほら、どうもなってないし。たぶん大丈夫だよ。ねっ?」

 

 だからといって目に見えぬ呪いとやらに怯えたままでいる訳にはいかない。仲間たちは不安げな顔をしていたが、彼女らに向けて智子は気休めながらも安心させるような言葉を口にしてみせた。そもそも呪いのたぐいであれば黒短冊だったり虫詰めの壺だったりとすでにいくつか出くわしてきている。それでも今のところなんら別状はないのだからきっと実害はないのだろうと智子はタカをくくることにした。

 

「と、とりあえず次行こ、次。もとの世界に帰れたらさ、呪いとかそういうのもぜんぶ帳消しになるって」

 

 もし本当に呪いがあるのだとしても逃げきってしまえばこちらのものだ、だから気にせず前に進んでいこうと、智子はみんなをはげました。おばけたちはあの手この手で恐怖を与えてくるけれど、そんなものに負けてはいられない、今こそリーダーである自分がしっかりしなくてはと、そうした責任感が彼女のなかでめばえはじめているようだ。

 

 ◆

 

 鍵のかかっていたパソコン室を真子にあけてもらってなかを調べはじめたのは少し前のことだった。ずらりと並んだスチール製の机の椅子を引いて下のほうもちゃんと覗き込んだりしていた智子であったが穴らしきものの気配は感じ取れなかった。隣接する準備室のほうも確認してみたけれど、使わなくなった椅子やらダンボール箱からあふれかえる周辺機器なんかがしまわれているその埃っぽい空間には風の流れなんてまるでないようだった。

 

「そっちはどう?」

「あっうん、なんもないみたい……」

 

 ほとんど光のはいってこないその準備室で腰を上げたゆりが智子に声をかけてきた。お互いの顔もわからないほどの暗さだったから、そこかしこに置かれた備品に足をつまずかせないよう気をつけるだけでもひと苦労だ。しかしそうして調べた準備室のなかにも穴は隠されていないようだった。

 

「こ、ここもハズレだね。もういいや、行こう」智子がそのように言えば、

「そう」とだけ返したゆりがさっさと準備室を出ていった。

「あっ、ま、待ってよ」リーダーを置いていくんじゃあないと、智子が慌て気味にそのあとを追おうとする。

「ぐえっ!?」しかし乱雑に置かれた備品にけつまずいてしまったため、智子はカエルのように鳴いて前のめりに転んでしまった。

「大丈夫?」そんな智子を気づかって出入り口から顔を覗かせたゆりが声をかけてくる。と、そのゆりが「わっ……!」となにかにおどろいたようだ。

「えっ、な、なに……?」ゆりの様子に焦った智子が声をうわずらせる。

「いや、いま黒木さんのうしろに誰かいたけど」

「うひっ……!?」

 

 どきりとさせられるゆりからの指摘に縮み上がった智子がよつんばいになったままシャカシャカと床を這って出入り口までたどりついた。しかしようやく立ち上がった智子が改めて準備室の様子をうかがってみたものの特にそれらしい気配はないようだった。

 

「だ、誰もいないけど……?」

「じゃあ気のせいかも」

 

 なんだそりゃ、と智子は脱力した。びびらせやがって!とちょっぴり腹も立ってしまう。ともあれこの部屋にもう用はないと、窓辺のほうで外の様子──旧正門前の池などが遠くに見える──をうかがっていた他の仲間たちにもその旨を伝えてやった。さて次はどこを調べに行こうかと、そうしたことを思案する智子はみんなと連れ立ってパソコン室を出ていく。

 

「黒木さん、やっぱりいま誰かいたよ」

「へっ?」

 

 そうして全員が廊下に出そろったところでふいに口を開いたゆりが智子のほう──というよりその背後に目を向けつつまた妙なことを言ってきた。ぎくりとした智子がさっとうしろを振り返るのだけど、目の前には廊下側から直接準備室へと出入りするための小さな扉があるだけだ。

 

「いや、だから誰もいないって……」

 

 そう返しつつ仲間たちへ向き直る智子であったがなぜか彼女らの様子が一変していた。ヤンキー娘や真子はもちろん、やや表情に乏しいところのあったゆりまでもがあっとおどろいたような表情をしている。

 

「あ、ど、どうしたの……?」

 

 訳がわからない智子だったからそのようにたずねてみる。しかし顔をこわばらせるみんなは返事をしてくれず、代わりにじりじりとあとずさった。そのことに不安を感じた智子が数歩前へと歩み出れば仲間たちも同じぶんだけうしろにさがっていく。

 

「ちょっと、え、ねえ、なに……?」

 

 なにをそんなにうろたえているのか。智子がいくら歩み寄ろうとも仲間たちがそのたびにどんどんうしろ歩きを繰り返すものだから両者の距離はひらく一方だった。そのことに焦った智子は「もぉー」と声をあげ、とにかくみんなを引きとめるべく一気に駆け寄ろうとした。

 

「うおっ!」「きゃあっ!」「……ッ!」

 

 たちまちみんなが血相を変えて飛び上がり、そのまま智子に背を向けたかと思うと廊下を勢いよく走りはじめたのだった。

 

「な、なんで逃げるのぉ──!?」急に逃げだした仲間たちだったから、智子が慌てて追いかける。

「おまえっ、なにくっつけてんだよ!」走りながらうしろを振り返るヤンキー娘が智子に向けて叫んだ。

「黒木さん、うしろ!」同じくゆりもまた、息をきらせて智子になにごとか伝えてくる。

「えっ……?」そうした仲間たちの言葉に改めて背後を確認する智子だったが、

「なにもいないよぉ!」みんなを怖がらせるようなものはどこにも見当たらない。

 

 やがてトイレの前も通り過ぎていった仲間たちはその先にある昇降口エリアへと一直線にはいっていくかと思われたが、急に進路変更したようで右の角をすばやく曲がっていった。

 

「うぶえっ!?」

 

 自分も同じように廊下を曲がっていこうとした智子だったけれど足をもつれさせてしまったせいで勢いよく転んでしまった。仲間たちはそのことに気づいていないのか、彼女らの足音が遠ざかっていく。

 

「くうぅ──……」

 

 顔面をしたたかに打ちすえてしまった智子であったから痛みのせいでしかめっつらになる。鼻血がでたっておかしくないぐらいの感じだったから頭の奥がじんじんする智子はつっぷしたまま立ち上がれなかった。

 

「おおうっ!?」

 

 やがて顔を上げた智子だったけれど視界に飛び込んできたものにおどろいて声を出す。昇降口のところにあの光姫人形がそっと佇んでいたからだ。さっき見たときは二階にいたはずなのだがどうもいつのまにか一階へとおりてきたらしい。仲間たちが進路変更したのもひょっとするとこの人形におどろかされたせいだったのかもしれない。みんながさっき曲がっていった角に目を向ければそこには階段があった。それはC棟二階へと移動するためのもので、彼女らはこれを駆け上がっていったらしい。

 

「ったくもー……」

 

 ようやく立ち上がった智子がぼそりとつぶやく。みんながなにに怯えていたかは知らないがまたしょうこりもなく人のことを置き去りにしてしまうとは。団体行動の基本を守れないなんて一年生からやり直したほうがいいのではないか、などと考える智子は仲間たちの薄情さに落胆を覚えずにはいられなかった。

 いや、一応は仲間だと思っていたけれど向こうはそのように感じていなかったのかもしれない。彼女らにとって自分はただなりゆきで行動を共にしただけの他人に過ぎなかったのではないか。そんなふうに思えてきた智子だったから鼻がひとりでにスンと鳴った。なんだか涙がでてしまいそうなのはさっき顔をぶつけたせいだろうか。

 

「ふぇっ!?」

 

 と、ふいに背中をつつかれたような感じがしたので智子はびくりとなってしまう。しかし背後を振り返るもそこには誰もいないようだった。

 

「……?」

 

 不思議そうに辺りを見回す智子だったけど、ちょっと離れた先に光姫人形がいるぐらいで他には誰の姿も見当たらない。するとまたしても背中をつつかれたので智子はエビぞりになってぴょんと飛び跳ねてしまった。

 

「だ、だ、だれ……っ!?」

 

 それでもやっぱり誰もいない。段々と怖くなってきた智子の脳裏にさっきの仲間たちの言葉がよみがえる。くっつけてるだのなんだの色々言われたが、もしやなにかが自分につきまとっているのだろうかと、そのように思えてきた。

 

「あっ、ね、ねえ、わたしのうしろ、なんかくっついてる?」

 

 不安をうったえる相手がいないものだから智子はさっきからじっと見つめてきている人形へとついたずねてしまった。そしたらどうだろうか、まるで智子の問いかけに答えるように光姫がコクコクと何度もうなずきはじめた。

 

「いだっ!?」

 

 すると今度はなにか硬い棒のようなもので突きをくらわされてしまった。それはまたしても背後からだったので、これはもうなにかが自分のすぐうしろにいると考えて間違いないようだった。

 

(くそっ、なんなんだよもう!)

 

 いい加減腹の立ってきた智子がその正体を今度こそ見破ってやろうと壁に駆け寄る。そうして自分の背を壁にくっつけるようにしてうしろを振り返ってやった。

 

「うわああああ────!!」

 

 途端、智子は絶叫する。

 いた。真正面に。目の前に。誰かの顔が鼻の先にあり、こちらをじっと凝視していた。

 

(なんだこれ! なんだこれ!)

 

 みんなが怯えていたのはこれだったんだ。こんなものが今までずっと自分の背後につきまとっていたんだ。「それ」を目の当たりにした智子はもう震えるしかなかった。肌はひどくくすんでいてもはや灰色に近い。伸ばし放題の髪はボサボサでまるで竹ボウキのようだ。顔に垂らされた前髪の隙間からは大きな目玉をギョロリと覗かせており上目づかいでにらみつけてくる。口などは三日月のように鋭く湾曲していてニタリと笑みを浮かべていた。おばけ、幽霊、妖怪、怪人、はたまた宇宙人か珍獣か。そのどれにも当てはまりそうな気がする目の前の奇怪な存在は、お線香あるいは防虫剤のような得体の知れない匂いを漂わせている。

 

「ワタシッテ、カワイイ?」

 

 智子の前にたたずむ「それ」が突然質問してきた。おばあさんのしゃがれ声のような、舌ったらずな子供のような、なんとも形容しがたい不気味な声色だった。しかしその質問に答えようにも智子は「はひっ、はひっ」と荒い呼吸を繰り返すことしかできない。こいつは一体なんなのだろうか。こんなものが登場する噂があっただろうか。記憶のなかの怪談データベースを大急ぎで検索する智子であったが頭が混乱しているせいか中々思い当たるものがでてこない。

 

「ドーナノ? カワイイ?」

 

 しつこく同じことをたずねる目の前の相手だったから、その機嫌を損ねないよう智子はひとまず無言でコクコクとうなずいてみせた。

 

「カワイイッテ、ドレクライ?」

 

 すると続けてこのようなことを質問された。今度は内容的にうなずくだけでは済まされずちゃんと声に出して答えねばならないようだ。かわいいなんて全然思っていないし、むしろものすごく不気味だ。だけどここでもし本音を言ってしまったらなにをされるかわからない。であればなんと答えるべきだろうか。「普通にかわいい」「まあまあかわいい」「キモさのなかにかわいさがある」「このメスブタが臭い体しやがって」などと色んな言葉が智子のなかでグルグル回る。

 

(あっ、こいつ()()だ……!)

 

 智子の頭のなかでふいに答えがおとずれた。質問されたことに対するものではなく相手の正体そのものについての答えだ。多少は混乱がおさまってきたからなのか、あるいはピンチを乗りきるための記憶を頭脳がひとりでに引きだしたからなのか、ともあれ目の前の存在についてようやく見当のついた智子は大きく息を吐いて一旦呼吸を整える。

 

「すっごいブス!」

 

 やがて口をひらいた智子は大きな声で答えをぶつけてやった。お世辞どころか相手をいからせてしまうに違いないただの罵倒であった。

 

(よし、固まった!)

 

 しかし言われた相手はというと、おこるどころか口を一文字にきゅっと引き締めて感情の抜け落ちた目で呆然と立ち尽くすのだった。それをチャンスと見た智子は急ぎ階段のほうへと駆けていく。そうして一気に二階まで上がってきたところで階下の様子をそっとうかがう。

 

(でたでた、でたよ!「例のあの人」が……!)

 

 原幕小怪談のなかでもとりわけ印象深かった存在がついにあらわれた。あれこそはかつて今江先生が子供のころ、児童たちのあいだでおおいに噂されていたという怪人だった。彼女に関する噂の充実ぶりには目をみはるものがあり智子としても資料なしではすべてを思い出しきれないほどであるが、さっきの妙な問答もまた彼女の豊富な行動パターンのうちのひとつとされていた。自分のことをかわいいかどうかたずねてくる例のあの人に対して「すごいブス」と答えた場合、ショックのあまり放心状態になってしまうそうだ。ともかく彼女に関してはいくつかの撃退方法が存在していた訳なので、出会い頭のインパクトこそものすごいが落ち着いて対処すればどうということはない相手なのであった。

 

「キエェェ────!!」

 

 階下から突然怪鳥音が響いてきた。それにびっくりした智子が身構えていると誰かがどたばたと荒々しい足音で階段をのぼってくる。

 

「クソガキーッ、ブチコロスゾッ!」

「わっ!?」

 

 ショックから立ち直ったらしい例のあの人が髪を振り乱して追いかけてきたようだった。その手にカマのような刃物を握る彼女は踊り場で一旦立ち止まると、階段のおり口に立つ智子を見上げていかり狂ったように叫んだ。その気迫にあとずさる智子であったがだからといって逃げたりはしない。この怪人に対する「とっておきの対処法」を知っているからだ。

 

「ブ、ブキショーニン!」

 

 退魔の呪文のように智子がその言葉を力いっぱい叫んだ。すると階段を駆け上がって今にも飛びかからんとしていた例のあの人がピタリと動きをとめてしまった。これは効き目ありと見た智子が更にその言葉を繰り返してやれば例のあの人は「グヌヌ……」と苦しそうに顔を歪め、一歩また一歩と階段をうしろ向きにおりていく。

 

「ブキショーニン・ニ・ナルンダー・ヨネ!」

 

 とどめとばかりに智子がこのような呪文を言い放つ。途端、例のあの人の顔にポッと赤信号のような光がともった。動揺するあまりカマを取り落とした彼女は両手で自分の耳をふさぎつつ「ヤメテー!」とわめきながら階下へと走り去ってしまうのだった。

 

(やったぁ、ざまーみろ!)

 

 恐るべき怪人を自分だけの力でみごと撃退してやった。そのことに胸おどった智子はえいえいと宙に空振りパンチを放つ。そうしてしばらく階下の様子をうかがっていたのだけど例のあの人が戻ってきそうな気配はなかった。

 

「は──……」

 

 こわばっていた体をほぐすように智子が息を吐いた。だけども胸はまだどきどきしていて例のあの人をやっつけた興奮が尾を引いていた。

 

「さてと……」

 

 ともあれ気を取り直した智子が辺りを見回す。今いる場所はちょうどC棟二階の階段手前になるがここは色んな場所につながっている交差点のようなところだった。智子がのぼってきた階段は二階止まりとなっていたが、各教室が並ぶ廊下のつきあたりには三階へと続く階段がある。目の前の短い渡り廊下を通ってD棟の二階部分に行くこともできたし、もうひとつの渡り廊下──光姫人形が上から覗き込んできていたところ──をしばらく歩けばそこから旧校舎やA棟に移ることができた。

 

(しょうがない、探してやるか)

 

 一体仲間たちはどこへ行ってしまったのだろうか。裏幕で出くわす怪異への対処法について一応彼女らにも教えてあげてはいたものの所詮はにわか仕込みなのでさっきの自分のように的確な行動ができるとも思えない。だからこのままほうっておいたらそのうちおばけの餌食になってしまうかもしれない。そう考える智子ははぐれてしまったみんなを早いところ見つけてやらねばという思いにかられた。手近な教室などに逃げ込んだのであればここC棟二階のどこかに隠れている可能性もある。ということでまずはその辺りを回ってみようと思う智子であった。

 *

(おっ、ここかな……?)

 

 二階の各教室を順々に巡っていた智子がついにそれらしいところへ行きついた。なかから人の話し声のする教室を見つけたのだ。それはL字型の棟の南側、そのつきあたりにある五年一組の教室だった。みんなにとっても普段から馴染みのある自分たちのクラスであったから無意識にここへ逃げ込んだのかもしれない。

 

(どれどれ……)

 

 その姿をちゃんと目にするまではまだ安心できないと、慎重さを見せる智子はいきなり教室に飛び込んだりせずそっと入り口の戸を引いてなかを覗き込んだ。

 

「ねーふたりとも、例のあの人見た? ちょっとやばくないあれ」

「見た見た、あれ自分でやったのかな?」

「うっそー、ありえない。ああいうのマジ引くよね」

 

 いた。確かに三人の女の子が机に座っている。顔をつきあわせる彼女たちはなにやらおしゃべりに興じているようだ。

 

(誰っ!?)

 

 が、それは見知らぬ子たちだった。智子の位置からはその顔がよく見えないものの、髪型や着ている服の違いなどから自分の知るあの仲間たちとは別人であることがすぐにわかった。

 

「あっ……ほらあれ、さっき例のあの人に追いかけられてた子」

「うわっほんとだ、こっち見てる」

「ひとりでなにしてんだろうね。置いてかれたのかな」

「あはは、かわいそー。うちらの仲間に入れたげよっか?」

「えー、やめなよ。だってほら、あの子……ふふっ」

「ああーふふふ、ふふふははは……」

 

 やがて智子の存在に気づいたらしい女の子たちが新たな話題を得た様子でおしゃべりを加速させていく。その光景にぞっとさせられた智子はすぐさま首を引っ込めぴしゃりと戸を閉めてしまった。

 

(のっぺらぼうだ!)

 

 智子のほうを振り返っておしゃべりを続けていた女の子たちには顔がなかった。正確にはよくしゃべる口だけがついており、あとはもうのっぺりとした顔面なのだった。

 

(たぶん「サチノリマキ」ってやつらだな……)

 

 教室の入り口から距離を置いた智子が今しがた目にした連中について考えを巡らせる。その見立てに間違いがなければ教室のなかにいたのは【のっぺらぼうのサチ・ノリ・マキ】という三人組の妖怪だ。なんでも普段から人の悪口ばかり言っている子供に取りつくそうで、彼女らに目をつけられたが最後それまでの友人関係をすべて失う羽目になるのだとか。しかし取りつかれた当の本人はそのことに気づいておらず学校を卒業するまでずっとのっぺらぼうたちのことを仲よしのクラスメイトだと思い込んでしまうらしい。

 

 ひとまずこれでC棟二階の各部屋はあらかた確認したことになる。家庭科室だけは不吉な予感がしたため避けたのだが、あそこが危ない場所であるということは仲間たちにも教えてあげていたからわざわざそこに隠れるようなことはないだろうと智子は考えていた。

 

(あっちに行ってみるか……)

 

 次の行き先を考える智子が廊下の途中にある曲がり角を見やる。智子が今いるC棟の南側は隣接するD棟となかば一体化しているのだが、くだんの曲がり角は両棟をつなぐ出入り口であった。さっき智子が目にした短い渡り廊下からも同じくD棟に行くことができるので、それも含めればふたつの棟の二階部分は回廊(かいろう)のようなものでつながれた形になっており、グルグルと行き来できるようになっている。この場所はかけっこ遊びをするのに都合がよかったので、先生にいくら注意されようとも全力で走り回る子供たちが後を絶たないハイウェイ・ルートとしても親しまれていたのだった。

 ともあれD棟側へとやってきた智子がまず向かい合ったのは手近な視聴覚室の出入り口。またヘンなのがいたら嫌なのでまずは戸の小窓から室内をそっと確認してみる。

 視聴覚室にはあまりモノが置かれていない。各クラスの教室よりも大きな造りのその部屋はひどくがらんとしていて、大画面のテレビとプロジェクター機材のほかにはすみっこのほうに映像資料の収められた棚が置かれているぐらいだ。そこに仲間たちの姿はなくおばけのたぐいもいないようだった。見たところ人が隠れられそうな場所はなさそうだけど一応なかも調べておこう。そう考えた智子が戸をあけようとしたところ、それに合わせるかのようにうしろのほうで「すぅ──……」と窓のあく気配がした。

 

「ひっ……!?」

 

 突然の気配に智子が背後を振り返ったところ、誰かが廊下の窓をよじのぼって今まさに校舎のなかへはいってこようとしているところだった。そうして窓枠に足をかけ、よいしょと身を乗り出してきたのは果たして何者か。

 

「みーつけた」

 

 それは黒い髪に着物姿の小柄な女の子だった。智子と目が合うや、素朴な顔立ちの女の子がそのドングリまなこを不吉に輝かせる。そうして窓枠から軽やかに飛びおりて廊下中にゲタの音を派手に鳴り響かせた。

 

(またヘンなのが出た!)

 

 裏幕のおばけたちは智子のことを中々休ませてくれない。新たな追っ手とでも言うべき女の子は人懐っこそうな笑みを浮かべているが、その様子にあやういものを感じた智子は相手がなにか仕掛けてくる前に逃げるべく大急ぎで回れ右をした。

 

「わんちゃんになぁれ」

「ぐえっ!?」

 

 そうしてロケットのごとく駆けだした智子であったが、女の子がなにごとか口にした途端うしろ向きにずてんと転ばされてしまった。なにかが首に絡みついてきてそれに引っぱられてしまったからだ。

 

「おさんぽしよっか」

「んぐぅ──っ!?」

 

 女の子がそう言ってやにわに駆けだした。すると智子の首がすごい力でひっぱられてしまったので尻もちをついたまま廊下を無理やりずるずるすべらされていく。

 

「ひぃっ、ひぃっ……!」

 

 首に絡みついてきたのはどうも首輪のようだった。革製のそれはしっかりと巻きつけられているようで智子が必死に外そうとしてもどうにもならなかった。お尻が摩擦で痛くなってきたものだから、もがいた末にようやく立ち上がってみせた智子が自分の力で走りはじめる。

 

(最悪だ! これ、「きこさん」だ……!)

 

 今の自分の状態を理解した智子は目の前の女の子が何者であるのかを悟った。智子に巻かれたその首輪には丈夫そうな縄がついており、女の子が縄の先の輪っかを握って元気よく走っていた。それはあたかも人間が飼い犬を散歩に連れていくが如きであり、この場合の犬こそが今の智子なのであった。

 縄をつかんで力ずくで止まろうとしてもムダだった。まるで大男のような怪力を発揮する女の子だったから智子の抵抗は意味を成さない。

 

「た、たすけて──!」

 

 女の子のあとを追うようにして回廊の角を曲がった智子が力いっぱい叫ぶ。これはもう誰かに助けてもらわなければどうしようもないと思ったからだ。きこさんにつかまったが最後、その子供は死ぬまで引きずられてしまう。そうした噂通りの出来事がいま自分の身に降りかからんとしている。ああ、そうなる前に誰か早くきてと、智子は砂場のときのように仲間たちがまた駆けつけてくれることを願って何度も声を張り上げる。

 

(なんで誰もきてくれないの……!?)

 

 だけども助けはこない。無尽蔵の体力でひた走るきこさんにつきあわされて智子はゲタの音だけが響く回廊を何周もしていた。実はマラソンが得意だった智子でなければもうとっくに力尽きているところだ。しかしそろそろ限界が近づいてきたようでその足もとがふらつきはじめた。このままでは本当にマズいと、いよいよ危機感を募らせる智子はもう他人を頼らず自力でどうにかするほかないのではと考える。しかしきこさんへの対処法などオカ研ノートにはまるで記されていなかったから結局はお手上げなのだった。

 

(きー坊! こんガキャーッ!)

 

 ただひたすら馬鹿みたく自分のことを連れ回すきこさんに智子は無性に腹が立ってきた。これはもう引きずり殺される前に一矢報いてやらねば気が済まない。そうして飼い犬に手を噛まれる屈辱をわずかでもいいから味わわせてやりたい。そもそも自分たちがこのおかしな世界へやってくる羽目になったのももとはといえば目の前のきこさんのせいだ。きこさんを呼びだそうとしたからいま自分がこんなにもつらい目にあっている。だからどう考えてもきこさんが悪い!

 

(すっ転ばせてやる……!)

 

 意を決した智子が残る力を振り絞って全力疾走を開始した。そうしてきこさんとの距離をグングン縮めた智子がついに彼女の隣へと立ってみせた。

 

(くらえっ! クソガキッ!)

 

 器用な足さばきで猛犬智子がえいやと飼い主の走りを妨害してやった。途端、きこさんは見事なほどに前のめりで倒れていった。ガチコーン、とも、バッコーン、とも表現できるようなものすごい音が廊下に響く。これがもし人間であればそのままお陀仏になってもおかしくないぐらいの勢いできこさんは硬い床に頭をぶつけたのだった。そんな彼女をそのまま追い抜かしていった智子であったけれど、やがて立ちどまってうしろを振り返った。

 

(あっ、これ、縄が……!)

 

 ぜいぜいと肩で息をする智子が縄をたぐってみれば、地面に垂れるそれがするすると抵抗なく智子のほうへ引き寄せられる。どうやら転んだ弾みできこさんが縄を手放してしまったようだ。

 

(やった! 逃げれる!)

 

 地面につっぷしたままのきこさんだったから、縄をすっかり自分の手もとにおさめた智子はこのチャンスを逃すまいと再び走りだした。こんなにも簡単なことだったのかと、きこさんへの対処法を自力で発見してみせたことに興奮し自然と笑みがこぼれる。

 

「わんちゃんが逃げたぁぁぁぁ──……」

 

 そうしてA棟や旧校舎につながる渡り廊下へと逃れた智子であったがにわかに遠くのほうから雷鳴のような叫びが響いてきた。どうやらきこさんの声らしい。

 

(隠れなきゃ……!)

 

 ひょっとしたら追いかけてくるかもしれない。そう思った智子はとっさに渡り廊下の途中にあった角を曲がる。そこは旧校舎への入り口であったが、そのまま手近な教室の戸をあけてなかへと逃げ込んだ。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 きこさんがはいってこないようふたつある戸の鍵──他の校舎と違ってネジで閉めるようになっている──を大急ぎでかけた智子はそのまま戸に寄りかかるようにして荒い息のままにへたり込んだ。しばらく廊下側に聞き耳を立てていたが、ゲタの音が追跡してくる様子はなかったのでどうにか逃げのびることができたのだろうかと考える。

 

「はぁ────……」

 

 心底くたびれたという様子で智子が大きな息を吐き、戸を背もたれがわりにする。あんなに必死で走ったのは生まれてはじめてかもしれないと、手のなかの縄をにぎりしめつつさっきの徒競走のことを振り返る。またきこさんが襲ってきたってへっちゃらだけど、それでも今は少し休ませてほしい気分だった。

 そうして呼吸を整える智子がシミだらけの天井を仰ぎ見ていると、黒板の上に掲げられた張り紙がふと目についた。

 

〈たくさん つくろう

 かけがえのない 思い出〉

 

 大きな字で力強く(しょ)されたそれは、このクラスの児童たちが担任の先生と一緒に考えた学級目標だった。そうした標語を智子が無感情にぼんやりと見つめる。

 

(ヘンなもんつけてくれちゃって……)

 

 やがて人心地ついたところで、首輪がうっとうしくなってきた智子はそれを外しにかかった。しかし留め金のところが引っかかるのか中々うまくいかない。何か顔を映す道具でもありはしないかと、立ち上がって教室を見回す智子。鏡ならトイレにあるけれど外になにがうろついているかわからないので今はまだこの教室から出ていきたくないのだった。

 

(これでいいや)

 

 教室の棚を漁ったところ一応は役立ちそうなものを見つけた。それは折り紙のセットであり、智子はそのなかからまっさらな銀色の紙をつまみ上げる。これを鏡の代用品にするつもりなのだ。映りは悪いがぜいたくは言ってられないと早速その表面を覗き込むのだが──

 

「ん……?」

 

 なんだか自分の顔がヘンだった。たわむ紙面に映った顔の、鼻のところに黒いものがついている。これはなんだろうと指でなでてみたところ、湿り気のあるそれにはふたつの穴があいているようでそこからスピスピと鼻息が漏れている。

 

(えっなにこれ、なにがついてんの!?)

 

 まるで自分の鼻をさわっているような感覚がある。もしかすると逃げるみんなを追いかけていたときに強く打ちつけてしまったからそのせいで別モノのように腫れてしまったのだろうかと心配になった。口もとのほうもこんもりと盛り上がってツンと突き出してしまっているような感じがする。

 色んな角度から顔の映りを確認していた智子がふと自分の頭に生えていたなにかに気がついた。片方はピンと立っていてもう片方は垂れている。なんだか動物の耳のようだった。これは一体なんだろうとふれてみれば毛むくじゃらのそれにも自分の体の一部のような感覚がかよっていた。そこまで確認したところで智子のなかにあるひとつの考えが浮かび上がってきた。

 

(犬……?)

 

 これではまるで犬のようではないか。ぽかんとあけ広げたその口から異様に長い舌がぺろんと垂れてくる。それに気づいた智子は益々焦り、自分の体をあちこちさわりはじめた。なにかヘンだ。なにかがおかしい。

 

「あっ!?」

 

 キュロットスカートのなかにいつのまにかこんもりしたものが詰まっていたのでひっぱり出してみるとそれはフサフサのしっぽだった。

 

(なにこれ、なんでこんなのが生えてんの……?)

 

 うろたえる心情を反映してか智子の黒っ鼻がひとりでにピィピィと鳴るのだが、まるで犬が悲しんでいるときの仕草みたいだった。

 

(わたし、どうなっちゃってんのっ!?)

 

 指先の爪もまるで狼男のようにとがっていたし、よく見ればその腕には体毛がびっしり生えて長袖を着たみたいになっている。

 なんだか立っているのが難しくなってきた智子はよろめくように地面へ手をついてしまったのだけど、その体勢のほうがむしろしっくりくるように感じてしまう。手放した銀紙がひらひらと落ちてきたので改めてそれを覗き込んだところ、もっさりとした毛におおわれた自分の顔が映っていた。犬のような感じでもあり、それでいてもとの自分のような感じもする。いまや智子の顔は犬と人間が合体したようなものへと変貌していたのだった。いや、その変化は顔だけに留まらない。いつのまにか全身がすっかり犬に近い姿になってしまっていたのだった。

 

(きこさんのせいだ……きこさんがわたしをこんなふうにしたんだ……)

 

 自分を襲った異変の原因について智子には十分過ぎるほどの心当たりがあった。こうしたことはきこさんが自分にかけた呪いのせいに違いないのだ。彼女には目をつけた子供を犬の姿に変える力があるとされているのだから。

 

(これじゃあわたし、人面犬だよ……)

 

 原幕小にはかつて【人面犬・キモイーヌ】という噂が存在していたのだが、いまや智子自身がそのキモイーヌとなってしまった。こんな姿で仲間たちの前にでようものなら仰天したみんなはまた逃げていってしまうに違いない。

 智子の目からぽろぽろと涙がこぼれるが、そのすすり泣く声にクゥンクゥンと犬のような鳴き声が混じる。

 

(もうダメだ……もうおしまいだ……)

 

 これから一体どうすればいいのかと途方に暮れてしまう智子。みんなはどこかへ行ってしまったし自分もこのような姿にされてしまった。大昔にきこさんを呼び出してしまったという子供たちもきっとこんなふうにみんな犬にされてしまったのかもしれないとぼんやり考える。

 犬の姿になってしまってもまだやれることはあるかもしれない。けれど強いショックを受けてしまった今の智子には再び立ち上がる気力がもうなかった。さっきたくさん走ったからすっかり疲れてしまったせいもある。だから智子はそのまま床に伏せ、現実逃避するかのように目を閉じてしまった。

 ウチに帰りたい。おなかがすいた。のどもかわいた。お菓子やジュースのはいったリュックを持ってくればよかった。弟にあとで渡してあげようとあの子の好きなシールがついたお菓子なんかも買っておいたけれど結局ムダになってしまった。図書館で借りた本たちはどうしよう。ちゃんと弟が返しに行ってくれるだろうか。お母さんは今ごろ帰りが遅いとおこっているかもしれない。お母さんに会いたい。智くんに会いたい。ゆうちゃんにも会いたいし、お父さんにだって会いたい。七不思議なんて調べなければよかった。そしたらこんなことにならずに済んだのに。今江先生はわたしがいなくなったらとても悲しむだろうな。先生に会いたい。昔はよかった。いつも先生やゆうちゃんと一緒にいられて毎日が楽しかった。学級委員をやっていたころはよかった。みんながちゃんと言うことを聞いてくれて尊敬されていたのだから。あのころに帰りたい。今の学校なんてつまんない。昔はよかった。智くんも素直でかわいくてうんとよかった。智くんに会いたい。ウチに帰りたい。早く帰りたい。誰か助けて。誰か……誰か……──。

 

 ◆

 

 スンスンと、自分の鼻が無意識に匂いをかごうとしたところで智子が目を覚ました。とても懐かしい匂いを感じたからだ。気づかぬうちに眠ってしまっていた智子であったから、ねぼけまなこのままのっそりと顔を持ち上げる。

 

「キャイン!」

 

 すると目の前に誰かがしゃがんでいたことに気づいたものだから、おどろいた智子はひと鳴きして飛びのいた。そしたら相手のほうもびっくりしたらしく「わっ!」と声を上げるのだった。

 

「大丈夫だよ、怖くないよ」

 

 怯える智子を落ち着かせるためか、相手が努めておだやかな声色で話しかけてきた。

 

「えっ、だ、誰……!?」

 

 目の前にいたのは知らない女の子だったからそのような言葉がでてくる。つややかな黒髪を伸ばすその子はスポーツシューズにジーンズと、動きやすそうな格好をしていた。

 

「えーっと……」すると女の子は口もとに手をやり考え込むようなそぶりを見せる。

()()。わたし、花子っていうの。六年生だよ」自己紹介する女の子はみずからを花子と名乗った。

「ハナコ?」それを受け犬のように首をこてんとかしげる智子。

「もしかしてユーレイ……?」あるおばけをほうふつとさせる名前だったので智子はおそるおそるたずねてしまう。

「ふふふ、人間だよ。ほら、さわってみて?」そう笑って花子が手を差し出す。

 

 それに応じた智子が遠慮がちに歩み寄り前足を彼女の手のひらへぽふっと乗せてみれば確かに人間らしいぬくもりを感じた。ひとまず悪意はなさそうだと見て取った智子はふんすと鼻息を漏らす。

 

「これ、きこさんにやられたの……?」

「えっ……? あっ、う、うん!」

 

 花子がおもむろに手を伸ばし智子のうなじをそっとなでてきた。おそらくは犬のような姿になってしまったこの姿を見てそう言っているのだろうと理解する智子。しかし今この子は「きこさん」と言った。仲間たちにしか教えてやっていないあの妖怪のことをなぜこの子が知っているのだろうかと疑問に思ってしまう。

 

「オカルト研究会の活動記録って読んだことある? 学校に置いてあるやつなんだけど」

「あっうん、知ってる」

「それ、わたしも今江先生に読ませてもらったんだ。だからおばけのこととか結構詳しいの」

「へ、へぇー……」

 

 口にださない智子の疑問を察したからか花子が聞いてもいないのにそうしたことを語りだす。しかし自分以外にも例のノートを読んでいる者がいたとは。こうしたことは智子にとって意外だった。

 

「は、花子さんもさ、連れてこられちゃったの? ここ、実は『裏幕』なんだけど……」

 

 ならば話が早いと、智子は自分たちの今いる場所が裏の世界であることを告げてやる。

 

「あ、うん、そうみたいだね」

 

 そしたら花子があっさりうなずいたので、彼女としてもすでにその辺りのことは理解しているらしかった。

 

「もしかしてあのヘンな小屋からきたの? フェンスではいれなくしてるとこの」

「ううん、ちがうよ。穴を通ってきたの」

「穴って?」

「ほら、知らない? 里崎屋敷の隠し穴って」

「あーうん、あれね……」そこまで話したところで智子の息が一瞬とまる。「あっ、そ、その穴、どこにあったの!?」

「えっと……あそこ、教壇の下」たずねられた花子がやおら立ち上がり黒板の手前にある教壇を指さし答えた。

 

 途端、智子が爪を鳴らしてそちらへ走る。そうして教壇の辺りをクンクンかぎまわったり地べたを手でひっかいたりしていたのだけど、やがて花子のほうを振り返り「なにもないけど!?」と怒鳴った。

 

「あの穴ってね、一回通ったら消えちゃうんだ」

「そんなぁー……」

「たぶんだけどまた別のところに新しいのができてるはずだよ」

「そうなの?」

「うん、そういうルールになってるんだって。おもしろいよね」

 

 おもしろくなんかないしこっちは遊びじゃないんだよ!と智子が心のなかで毒づく。しかしくだんの穴がそうした仕組みになっているとは知らなかった。そんなことはオカ研ノートにも書かれていなかったのだから。ゆえに花子がでたらめを言っているのでなければそこにはまた別口の情報源があると思われた。

 

「そ、それ、誰から聞いたの……?」

 

 原幕小でいまやもっとも怪談に詳しい子供であると自負していた智子であったから妙な対抗心がわいてしまう。だからそれとなく探りを入れずにはいられなかった。

 

「あ、えっと……」

 

 たずねられた花子のほうはというとなんだか少し言葉に詰まっているようだ。だけどもやがて口をひらいた彼女は「今江先生から聞いた」と答えるのだった。それを聞いた智子はなぜ先生がそんなことを知っているのかとおどろく。

 

「あ、あのね……あのノート書いたのって先生らしいよ」目を剥く智子の戸惑いぶりを見て取ったらしい花子が更にそのようなことをつけ加えてきた。

「ワフッ!?」智子が衝撃のあまり吠える。

「だから色々詳しいみたい……。子供のときに書いたやつだから結構忘れちゃってたこともあったみたいだけどノートを読み返してたら色々思い出してきたんだって」

 

 もじもじしながらそのように説明する花子であったが、智子のほうはぐわんぐわんとする頭にひっぱられて体をふらつかせる。よくよく考えてみれば確かに納得できないこともない。いくらもと卒業生とはいえずっと前に一時期だけ存在していた同好会の、その古ぼけた活動記録の所在を当たり前のように把握していたのだから。それに先生自身ああ見えてオカルト的な話題を好きこのむ人物でもあるということがこれまでの付き合いのなかでわかっていたので、そうした点も踏まえてみれば先生が当時のオカ研に参加していたとしても不思議ではないのであった。

 

(だったら教えてくれたらよかったのに……)

 

 先生としてはあまり深く考えず内緒にしていたのかもしれない。だけどもその一方で目の前の花子にはそうした事情を教えてあげていた訳なのでなんだか不公平に感じてしまう智子。あのノートにしたって先生が自分にだけ特別に読ませてくれたのだとばかり思っていたので、なんとなくモヤモヤしてしまった智子はふくれっつらになる。でも犬の口だとうまく頬がふくれないのでパフパフと息が漏れるだけだった。

 

「とりあえずその体、もとに戻してみよっか」

「え……で、できるの?」

「うん、ちょっと待ってね」

 

 犬の姿のままでは困るだろうと、花子がそのように言い置いて背を向ける。そんなことが可能なのかと智子が思っていると、花子は先生の机の引き出しをあけてメモ用紙を手に取った。そうして今度はサインペンでなにかを紙に書き込みはじめたようだ。

 

「あっ……ねえ、名前は?」思いだしたように顔を上げた花子がたずねてきた。

「えっ、わたし?」

「そう、教えてもらっていいかな?」

「あっうん、黒木智子……」

「オッケー、じゃあ……ともこっと……」

 

 やがてすっかり書き終えたらしい花子は、紙を丁寧に折りたたんでから智子のところへ戻ってきた。そうしてその紙を「はい」と差し出してきた。

 

「な、なにこれ?」

「ちょっとくわえてもらっていい?」

「なんで?」

「人間に戻るためのおまじないだよ。これをくわえて『わたしは黒木智子だ』って頭のなかで何度も念じてみて」

 

 そうすれば、やがてもとの姿に戻ることができる。花子が言うにはそういうことらしい。半信半疑ながらもひとまずその言葉に従うことにした智子は、差し出された紙をパクリとくわえる。そうして目をぎゅっとつむり、心のなかで自分の名前を繰り返し唱えはじめた。

 

(わたしは黒木智子……わたしは黒木智子……。こんなんホントに効くのかな……?)

 

 智子の頭のなかで疑念がよぎるが、花子がそばで「いいよ、もっともっと」と促してくるのでしばらくのあいだ続けていく。

 

「あっ……」

 

 突然首輪がプチリとちぎれた感じがしたので声が出た。そしたらくわえていた紙がぽとりと落ちる。目をあけた智子が首もとから延びる縄をおもむろにひっぱってみれば、固く巻かれていたはずの首輪はいとも簡単に外れてしまったのだった。

 

「もう大丈夫だよ。ほら、見て」

「え? おっ?」

 

 しゃがみ込んだ花子が、手にした銀紙を智子の目の前にかざしてきた。そこに映るぼやけた像を凝視しながら智子が自分の耳や口もとをぺたぺたさわっていく。

 

「あっ、ない! しっぽなくなってる!」

 

 なんともジャマに感じていたあのしっぽもすっかり消えうせているようだった。腕にはもう毛など生えておらずもとの素肌をさらしているだけだった。

 

「やったぁ! もとに戻れたぁっ!」

 

 やったやったと、立ち上がった智子が子犬のように何度も飛び跳ねた。どうやらきこさんの呪いを解くことにみごと成功したようだ。

 

「すごい! ねえ、どうやったの?」魔法のような奇跡を起こしてみせた花子に智子が尊敬のまなざしを向ける。

「わたしなにもしてないよ。智子ちゃんが自分の力でもとに戻っただけだから」花子がメモ用紙を拾って立ち上がり「さっき智子ちゃんは自分に暗示をかけてたんだよ。そのときの念じる力がちょっとでも高まりやすいようにって……ほら」

 

 花子が広げてみせた紙面には和風の魔法陣らしきものが引かれていた。中央には大きく「人」という字が書いてあり、そこからぶらさがるように智子のフルネームも添えられているようだった。

 

「それ、なに?」

護符(ごふ)っていうの。昔の人が特別なお願いごとをするときに使ってたんだって」

「へぇー」

 

 要は思い込みの力に護符とやらの効果を加えることできこさんの呪いを打ち破ったということらしい。こんな紙きれ一枚でねぇ、と思う智子ではあったけれどそれで実際に人の姿へと戻るのに役立ったようなのだから案外すごいシロモノなのかもしれないと感心する。

 

「ねえ、ここにきたのは智子ちゃんだけ? 他に誰かいなかった?」

「あっ、うん、いるよ。さ、三人くらい」

「どこにいるの?」

「わかんない、みんなどっか行っちゃった」

「そっかぁ……」

 

 他にこの裏幕へやってきた者はいるのかとたずねられたので仲間たちの存在を伝えてやる智子。しかし自分を置き去りにして逃げていった彼女らが今現在どこにいるのかは見当もつかなかった。

 

「じゃあ他の子たちも探してからみんなで一緒に帰ろっか?」

「あー、うん……」

 

 それはもっともな話であったから智子も同意するところだ。だけどもさっき隠し穴の厄介な仕組みについて聞かされていた智子であったから、このぶんではまたイチから調査のやり直しになるのかと思い、いささかおっくうな気持ちになってしまう。と、そこで智子のなかにひとつのひらめきが生まれた。

 

「あ、あのさ……! せ、先生、他になんか言ってなかった?」

「えっ?」

「ほら、裏幕からどうやったら帰ってこられるのかとか、そういうの」

 

 今江先生がかつてオカルト研究会のメンバーであったのならば表の世界へと戻るための方法を知っているはずだった。その詳細について先生がこの六年生にこっそり教えてあげていたのではないかと、智子はそう考えたのだ。

 

「うん、言ってたよ」

「や、やっぱり隠し穴を探したりするの……?」

「ううん、違うの。『儀式』をやるんだって」

 

 さいわい花子は先生から色々と聞かされていたようだ。しかしその帰還方法についてはどうも智子が考えていたものとは違っていたらしい。

 

「きこさんを帰す儀式ってのがあってね、それでもとの世界に戻れるみたい」

 

 なんでもないことのように言う花子の顔に不安の色は少しも見られなかった。まるでそうしたことを実際に経験してきた者のようにその言葉には確かな自信が満ちていたのだった。「帰す儀式」とやらの具体的な手順についても彼女は心得ているそうなので、これなら危険を冒してまでどこにあるとも知れぬ隠し穴をしらみ潰しに探さなくても済みそうだと智子はほっとした。

 

(あっ、ここって……)

 

 ともあれ早いところみんなを見つけてあげなくてはと、教室の鍵をあけた智子は花子と連れ立って廊下へとでた。そうしてなにげなく入り口の表札を見あげたところ、今までいた教室が三年三組のものであったことに気づく。かつて三年生だったころの智子はこのクラスに在籍しており、そこで優しい先生に見守られながら充実した日々を送っていたのであった。

 そういえば今江先生はまたここを受け持ってるんだっけ、とかつての担任の現在について思いを馳せる智子であったが、花子に声をかけられたところで我に返って思い出の教室をあとにするのだった。




つづく
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