「あ……だ、大丈夫だよ」
階段の踊り場から顔を覗かせていたゆりと真子に向け、智子がそっと呼びかけ手招きをした。それを受け、ふたりが階段をおりてくる。
「ゆり、ほらあれ!」
「あー、うん……」
途端、なにかに気づいた真子がおどろいた様子で廊下の窓を指さした。言われてそちらを見やるゆりも少しばかり面食らっているようだ。彼女らが注目したもの、それは窓の先に見える一軒の家だ。元々は緑のカーテンを栽培するためのつる棚があったはずの場所に、こぢんまりとした木造の平屋が立っていたのだった。その古風なかやぶき屋根はアサガオやヘチマでおおわれていて、どこか
「なんなのあれ?」事情通としての見解を求めてゆりが智子にたずねると、
「な、なんかバケネコの家らしいよ」人づてに聞いたような物言いで答える智子。
智子の口から出た言葉に、かたわらで聞いていた真子が「うそっ!?」と顔を青くする。人食い猫の集団に襲われたりもした彼女であったから、そのすみかが目の前にあると知っては平気でいられないようだ。
「しーっ」
すると棟の出口から外の様子をうかがっていた花子が人差し指を立てつつ会話に割ってはいる。
「ごめんね、ちょっとだけ静かに……ね?」声をひそめる花子が、おしゃべりをやめるようみんなに言い聞かせた。
「そ、そうそう……ほら、猫に聞かれるかもだし」智子もそれに同調し、ひそひそ声で注意をうながす。
先に一階へおりて周囲を偵察していた智子と花子は、姿を見せないくだんのバケネコたちがまだ近くにいるのではと警戒していた。これからA棟を出ていくにあたっては襲撃者に気取られないよう隠密行動が求められる。だからおしゃべり禁止で、なるべく足音も立てないようにしてこっそり目的地へ向かわないといけない。そこの辺りをゆりと真子も理解したのか、ふたりは口をつぐんでうなずいた。
そうして一行は慎重な足どりで外に出ていく。辺りはしんと静まり返っていて小さな物音ひとつでも響いてしまいそうだったから智子としてはひやひやして仕方がない。
(あんなかにいたりして……)
すぐそばのバケネコ屋敷に目を向ける智子がふとそんなことを考える。屋敷の縁側に並ぶ障子戸からはうっすらと光がもれていたので、ひょっとするとバケネコたちがあの家のなかでくつろいでいるのかもしれない。うっかりくしゃみでもすればたちまち障子をやぶって飛び出してくるのではないかと、いまだ見ぬ妖怪を警戒する智子はつばを飲みこむ音にすら気を使う。
(ヘビでも持ってくればよかったなぁ)
もし出くわしてしまったとしてもそれがあればなんとかなるかもしれない。なんでも化猫党はヘビの類をひどく恐れるとされていたので、上総国の人々は山を越える際のお守りとして、その辺でつかまえたヘビをカゴにいれて持ち歩くこともあったという。そんなものがここ裏幕にあるのかといえば、これが一応はあるのだった。理科準備室にはホルマリン漬けの生物標本がいくつか保管されているのだけど、このうちのひとつにヘビの標本があることを智子は知っていた。
(ま、いっか)
念のため取りに戻ってもいいのだけど、ひょっとしたら薬液に浸されてぐったりしたヘビではバケネコたちをひるませるほどの効果はないのかもしれない。とりあえずこのまま連中に気取られなければ大丈夫だろうと思い直した智子はやがて屋敷の前を通り過ぎていく。
「ひっ!」
「あたっ!?」
一行のなかからだしぬけに悲鳴が上がった。と同時に智子の前を行く誰かがうしろへ飛びのいたのでその背にどんとぶつかってしまう。真子の背中だった。
「あ……ああ……」
しかしぶつかったことを謝るでもなく、真子はただなにかにうろたえている。他の仲間たちも息を呑んでいるようであり、ただならぬ様子であることが智子にもすぐわかった。
(うわっ!)
みんながなにに対しておどろいているのか確認しようと前方を覗き見た智子は声をあげそうになった。一行が歩みを進めていた渡り廊下の先で、旧校舎の物陰から何者かが顔を覗かせていたからだ。それはひょっとすると例のあの人か、あるいは自力で移動してきたマリア像か、はたまた対戦相手を連れ戻しにやってきたプロゲーマーなのか。
(なんだあいつ……?)
そのどれでもなかった。物陰から顔だけ出していたのははじめて見かける女の子だった。メガネをかけていてふんわりとしたポニーテール頭のその子が半笑いの表情でにったりとしたまなざしを向けてきていた。ただそれだけのことでも警戒するには十分であったが、なにより奇異に映ったのは顔を出す位置だ。それはおよそ人間が普通に立っているとは思えないぐらい低い位置にあり、よつんばいになった状態で首だけ伸ばせばあのようになるのではないかと思わせるものであった。
「あ、あれ、バケ、バケっ……!」
声を絞りだそうとする真子が震える指先を女の子へと突きつける。その様子からして彼女にとって見覚えのある相手だったようだ。
「バケネコだよぉっ!」
「ミャーオ」
かすれた悲鳴で真子がその正体を口にしたところ、それを待っていたかのように女の子が
(うわーっ、ホントに人面猫……!)
かつて猫缶持参で探し回ったりもしたその妖怪を、智子はついに目撃した。手足も太く、猫にしてはやけに大きいその体つきはむしろ動物園にいるようなネコ科の肉食動物に近い。しかし頭はどう見ても人間であり、はなはだアンバランスなその組み合わせはもと人面犬の智子をしても不安をかきたてられるものがあった。
ぶるるっとバケネコが頭を振れば、髪に埋もれていた猫特有の三角耳がピンと立つ。
「慌てないで……みんな、そのままさがって……」
仲間たちをかばうように進み出た花子がそのように指示する。運悪く遭遇してしまったバケネコであったが、すぐに飛びかかってくる気配はないようだったので花子はひとまず距離を取ろうと考えたらしい。そうしてゆっくりと後退していく一行が猫屋敷の手前辺りまで戻ってきたところで、背後に気配を感じた智子がうしろを振り返る。
「ね、ねぇっ、あれ、あれ!」
途端、智子が取り乱した。もはや隠密行動なんてどうでもよくなったのか、声を張りあげなにごとかをうったえる。
(なんか増えてるー!?)
いつのまにあらわれたのか、A棟の入り口に新手のバケネコが仁王立ちで陣取っていた。首から上は髪の長い素朴な顔立ちの女の子であったが、体のほうは茶トラ柄の毛皮におおわれていたのでこれもやはり化猫党の一味に違いないと智子はおののく。
「ンミャッ」
あいさつのつもりなのか茶トラが短く鳴いた。二本足で器用に立つ茶トラの姿はきぐるみを着た幼い子供のようでもあったが、ひと鳴きする瞬間その口が大きく裂けたのを智子は見逃さなかった。
「これ、囲まれてるんじゃないの……?」
少し離れたところからぼすっと何かが落ちてくるような物音が聞こえてくるが、そちらに目を向けたゆりが焦りをにじませる声色でつぶやいた。音のしたほう──学級農園の辺り──に今度は黒い毛並みのバケネコが出現していたからだ。ぱっちりとした淡い色の瞳でこちらを捉えるその猫ニンゲンは姿勢を低くし、獲物を狙うかのようにそろりそろりと近寄ってくる。
(待ちぶせされてたんだ……!)
どうもこれは化猫党が悪知恵を働かせた結果なのではないかと、智子はそう考えた。獲物がやがてA棟から出てくることを見越した襲撃者たちはこの周辺で身を潜めていたにちがいない。ともあれ屋敷を背に三方を囲まれた智子たちはもう袋のネズミであった。見れば黒猫だけでなくメガネと茶トラもじわじわと距離をつめてきているようだった。
「おねがい……猫ちゃん……やめて……」
すっかり怯えきった真子がバケネコたちに向かって涙声でお願いする。話が通じるとは到底思えないモノノケたちに、それでも命乞いせずにはいられないようだ。真子はゆりに、智子は花子に、それぞれが頼りにしている仲間へしがみつくが、頼られた側も身を固くするばかりだった。
べべん
と、一行のすぐそばで音が鳴り響いた。それに反応したバケネコたちが立ちどまり、耳をぴくりと動かす。
べべべん
また鳴った。輪ゴムをはじくようなその音はバケネコ屋敷のなかから聞こえてくるようだった。一体なにごとかと、智子たちはこぞってそちらを注視する。途端、すぱぱんと小気味よい音を立て縁側の障子戸が一斉にひらいた。そうして屋敷の内部がすっかりあらわになったところでみんなの目に飛び込んできたのは着物姿の女の人だ。彼女は
「いらっしゃいまし、旅のおかた」
智子たちがあっけに取られていると女の人があいさつしてきた。彼女の顔立ちはお面のようにのっぺりかつさっぱりした
(こいつあれか、「内御前」とかいうの!)
どこぞのお姫さまかと思わされる装いだったけれど、目の前の存在がそのようにかわいらしいものでないことは智子にもすぐわかった。耳もしっぽも生えていないようだが、バケネコ屋敷に潜んでいたということはいま自分たちを取り囲んでいる連中の仲間と見て間違いない。であるならば、どこか大物のような気配をただよわせるこの女の人は化猫党の頭目である猫又・内御前が人に化けた姿ではないかと思われた。
「みなさまお疲れでしょう、どうぞこちらでゆるりとなさいませ」
そう言って内御前が「べん」と手もとの三味線を鳴らす。彼女の口調は丁寧でこちらに敵意なんてこれっぽっちもないように見えたが、それが表面上の態度に過ぎないことは明らかだった。こんなふうに旅人を騙して屋敷に誘い入れるというのが化猫党の手口なのだから。
(なんとかして逃げなきゃ……)
しかし律儀にそうした行動パターンをなぞってくれるおかげで智子たちに多少の余裕が生まれたのは事実で、周囲のバケネコたちはさっきからその場に座り込んだままことのなりゆきを見守っているようだった。この隙にどうにか突破口を見つけねばと、智子は頭を回転させる。
「これ、どうしたらいいの?」
「あっ、そにょ、えーっと」
リーダー智子の知恵を頼ってゆりが智子にそっとたずねてくる。それをいま考えてるんだよ、ちょっと黙ってて、などと返したい智子であったが、遠慮が働いてしまうので結局は口ごもるだけだった。
とにかくまずは自分たちを取り囲んでいるバケネコをどうにか蹴散らして、それからA棟へと逃げ込む。出入り口の扉を閉めきったとしても連中はきっと窓ガラスを破って侵入してくるだろうから、そこを消火器なんかで撃退してやればいい。これだ、このやり方でいこう。名づけて猫まっしろけ作戦。
智子がそこまで考えたところで「あの……」と花子がおもむろに内御前の前へ進み出た。
「それじゃあちょっとお邪魔します」花子がそう言ってぺこりとおじぎした。
「は? えっ、ちょ……!?」いきなりなにを言いだすのかと絶句する智子。
「まあまあ、よろしいことでございます。ぜひぜひ、みなさま」花子の言葉に益々愛想をよくした内御前が三味線をみゃんみゃんかき鳴らす。
そうして花子は縁側手前の踏み石を足がかりにして土足のまま建物のなかへとはいってしまうのだった。その際、彼女は屋根から垂れさがる一本のつる草を引き抜いていったが、そのことを誰も気になどしない。それよりも罠としか思えない内御前の申し出をあっさりと受けた花子の行動の意味がわからず智子たちはただ困惑するばかりだ。
「ほら、みんなおいで」
そう言って花子がみんなを手招きする。その様子があまりに堂々としていたので、残された者たちは互いに顔を見合わせたのち、やがて誰ともなしに座敷へ上がっていく。
「大丈夫、作戦があるの」
「あ、そ、そうなの……?」
智子がおそるおそるバケネコ屋敷へと足を踏み入れたあと、身を寄せてきた花子がそう耳打ちしてくる。もしやこの先輩はヤケを起こしているのではと心配していた智子なのでそれを聞いてほっとした。どうやら花子にはこの状況を打開するための秘策があるらしい。
「これ、お客さまにお
ぴぃん、と弦をはじいた内御前がそのようなことを口にすれば、すぐしないうちに部屋の奥のふすまがすっとあいた。そこには着物姿の小さな子供がふたり正座していて、姿をあらわすなり深々と頭をさげる。
(また増えた!)
ただでさえ緊張していた智子であったが、その子たちの登場を受けてますます体をこわばらせる。ひとりは一本の長い三つ編みを肩に垂らす女の子で、もうひとりは濃淡のある髪色をしたおかっぱ頭の女の子。一見すると旅館で働く仲居さんのような身なりだが、頭には外のバケネコたちと同様に大きな耳が生えていて、着物の袖からは毛むくじゃらの手が伸びていたから、これも妖怪の類に違いないのだった。
ともあれ顔をあげたふたり──もとい二匹がうやうやしく部屋のなかへはいってきたのだけど、途端に妙な匂いが智子の鼻に届く。A棟の二階でたっぷりと嗅がされた覚えのあるその薬品臭はどうやら仲居猫たちからただよってくるようだった。そうしたにおいに反応したのか、内御前が「ぷしゅっ」とくしゃみをして顔をぶるりと震わせる。
「さぁさ、楽になさってくださいな」
座敷を整えた仲居猫たちがまたおじぎして退室したところで内御前がそのようにすすめてくる。畳の上には四人分の座布団が敷かれていたのでそこに座れということらしい。ここでまた花子が率先して相手の言葉に従ったので、みんなもそれにならって思い思いに座り込む。
楽にしろとは言われたが、猫の口のなかにいるも同然のこの状況ではひと息つけるはずもなかった。連中がいつ襲いかかってくるのかと気が気でないのは智子だけでなく、黙り込んだままのゆりと真子も部屋の内外へ視線をさまよわせている。
(作戦って、なにするんだろう……?)
しかし花子だけは違っていた。さっき彼女が口にした「作戦」とやらについてこっそり聞いてみたい智子であったが、当人はうつむき加減で目を閉じており、服をつまんで呼びかけても反応してくれない。手もとのつる草をにぎりしめ、にょろにょろ……うねうね……くねくね……と小さな声でなにごとかをつぶやいているようだった。
「お茶も用意できませんで、
「あっ、いえっ、い、いいでひゅっ」
智子がそうした花子の様子を妙に思っていたところ、もてなしがじゅうぶんでないとして内御前が詫びてくる。彼女がちょうど自分の正面に座っていたこともあり、智子はひとまずそれに返事をしてやった。
「代わりと言ってはなんですが、わたくしどもの歌と踊りをご覧になっていかれては」
「あっ、そ、そっしゅね」
「きっと退屈はさせません。
自分の言葉に反応した相手へ目をつけたのか、内御前が智子を見すえてそんなことを言ってくる。部屋のすみでゆらめく行灯に照らされてか、彼女の目はギラギラと光っているようだった。
「みな、はじめ」
びいぃん、とひときわ強く弦を鳴らした内御前が号令を飛ばす。途端、外でくつろいでいたバケネコたちが起き上がり、二本足で立ったまま屋敷の前に走り寄ってきた。加えてさっきの仲居猫たちも屋敷の玄関から飛び出し合流する。
(なに!? なんなの!?)
なんか急にはじまったぞと、膝立ちになった智子がうろたえる。それはゆりと真子も同じで、バケネコたちの突然の行動におどろくふたりは手にした座布団を盾に身構える。
「ああ、お客さま、堪忍です。なんのこともありません、今からちょいとこの子らに踊ってもらうだけですから」
そうした智子たちを尻目に涼しい顔の内御前がぱらりん……と三味線を奏でる。てっきり一斉に襲いかかってくるのかと思った智子であったがどうもそうではないらしい。見れば外の連中は仲居猫のうち一匹が持ってきた手ぬぐいをめいめい受け取っている最中だ。そうして手ぬぐいが各自に行き渡ったところで今度はそれでほっかむりをするバケネコたち。
(あー、そういうことかぁ)
その様子を見た智子はピンと来た。「バケネコ」と「手ぬぐい」、この組み合わせがなにを意味するかといえば内御前の言うように「踊り」がはじまるということである。この夏休み中、智子は取材のためにバケネコや猫又といった妖怪のことを調べたりもしていたが、それによればバケネコというものは踊りが大好きだそうで、ひと踊りする際はあのように手ぬぐいをかぶったりするとされていた。だから目の前のバケネコたちもそうした伝承にならってこれから踊りを披露するつもりなのだろうと智子は察した。
「では……」
すっかり準備が整ったと見て、内御前が一礼してからおもむろに三味線を弾きはじめた。ぺけぺけ、ちゃんちゃかと、出だしの旋律に合わせて踊りだすバケネコたち。
「絵文字ぃ~山ぁのぉ~、
と、今度は内御前が高らかに歌いはじめる。芸達者な妖怪もいるもので、堂に入ったその歌いぶりと演奏は中々に見事なものといえた。
『きーも、きっも、き、も、い
きーも、きっも、き、も、い』
すると外のバケネコたちが合唱で合いの手をいれてくる。しっぽをふりふり体をくねらせ元気に跳ねる連中の踊りは、そこだけ切り取れば今の状況に似つかわしくないユーモラスな
「
『キモビト、キモしき、このうえなし
キモビト、キモしき、このうえなし』
「御猫~さま~のぉ~、言うこぉとニャ~オンっ、キモビトぉ
『きもきもキモい、はーキモい
きもきもキモい、はーキモい』
なんとも奇妙な歌詞だったけれどこうして聴いているぶんにはおもしろい。化猫党の歌と踊りがあまりに見事だったので、気づけば智子たちはその場に座り直し身の危険も忘れてすっかり観客と化してしまっていた。
「絵文字ぃ~山ぁ~を~、キモビト走~るぅ~、
『なーんで、なんで、な、ん、で
なーんで、なんで、な、ん、で
なーんで、なんで……』
なんで、なんで、と連呼するバケネコたちが地べたにひっくり返ってうしろ足をジタバタさせる。その様子がよほどおかしかったのか真子が「ふふっ」と笑いをこぼす。
『なんでじゃわからぬ、食ろうてしまえ
なんでじゃわからぬ、食ろうてしまえ』
が、楽しい宴のひとときはそこまでだった。ぴょんと飛び起きたバケネコたちの口から突然物騒な歌詞が飛びだしたからだ。
『かんでちぎって、食ろうてしまえ
ひねってさばいて、食ろうてしまえ
食うたらたまらぬ、うまかろう
食うてみたしや、キモビトわらし』
目をらんらんとさせて智子たちを凝視しながら合唱を続ける踊り子たちであったから、その様子に身の危険を感じた智子は足をもつれさせつつ立ち上がる。さっき笑ったばかりの真子などは一転して顔をひきつらせ、うまく立てないでいるのをゆりが引き起こしてあげていた。
『ひい、ふう、みい、よ、うまそなわらし
みんな食ろうてみたしや、わらし
食ろうてしまうぞ、みなごろし
食ろうてしまうぞ、みなごろし』
案の定、バケネコたちがこちらにじわじわ歩み寄ってきた。みなごろし、みなごろし、とうわごとのように繰り返す連中の顔つきはいまやすっかり捕食者のそれであった。気づけば三味線の演奏もずいぶん荒々しい曲調へと転じていたが、その
「カカカカッ、カカカッ」
そこにさっぱりしていた顔立ちの面影はもはやなく、代わりにあるのは血走った巨大な白目玉と、そのなかのまるまるとした黒い瞳。肌は獣じみた剛毛にびっしりおおわれていて、頭からは立派な三角耳が角のように生えている。口は大きく裂けており、まるで猫のクラッキングのようにアゴをけいれんさせて不気味な笑い声を上げていた。ここへ来て内御前が猫又としての正体をあらわしたのだ。
「ね、ネコ来たよ! ねぇっ、ネコっ、ネコが──っ!」
さっきからずっと我関せずでいた花子にすがりつき、智子がその背をゆさぶる。しかしいつのまにかずいぶんと前のめりになっていた花子は仲居猫よろしく深々とおじぎするようなその姿勢を崩さない。
作戦はどうしたの。秘策があるんじゃないの。なんで黙ってんの。もうすぐ食べられちゃうよ。早く逃げようよ。もしかして寝てるんじゃないの。智子の頭のなかでたくさんの言葉が飛びかうがそのどれもが口から出てこず、ただネコがネコがと言うばかり。智子はもはや完全にパニック状態となっていた。
智子の背後ではさっきからゆりたちがふすまをあけようとしているが、それは糊で接着されたかのようにびくともしない。
「ヒャアァ────ッ!?」
そうこうしているうちにとうとうバケネコたちが座敷へと乗り込んできたので、たまらず絶叫する智子が尻もちをついた。その様子がおもしろくてたまらないのか、口もとを益々けいれんさせる内御前が狂ったように三味線をかき鳴らす。
そのとき、がばりと身を起こした花子が手に持つなにかを内御前へ放り投げた。
「ヘビっ!」
「フンギャ────ッ!?」
今度は内御前が叫ぶ番だった。叫ぶだけでは済まず、たちまちロケットのように飛び上がった彼女はものすごい音を立てながら天井をナナメ上に突きぬけていく。あまりの勢いにその足もとにあった畳が
もうもうとほこりの舞う座敷に残されたのは、呆然とする智子たちとややくたびれたように息をつく花子。一体なにが起きたのだろうとボンヤリした頭で考える智子であったが、その目に弦の切れた三味線が映る。内御前が置いていったらしいそれには一匹のヘビが絡みついているようだった。
(おおっ……!)
途端、智子が納得したような顔になる。花子の言っていた「作戦」が成功したことを悟ったのだ。どこに隠し持っていたのか、花子は化猫党が苦手としているヘビをもちいて連中を見事退散させたらしい。現実の猫がヘビを異様に怖がるだなんてあまり聞かない話だったけれど、少なくともここ裏幕のバケネコたちにはそういう習性があるようだ。
「みんな、大丈夫?」
「あっはい……」
よいしょと立ち上がる花子が仲間たちを見回して具合をたずねる。その問いかけにすぐ答えることができたのはゆりだけだ。
「真子は?」
「う、うん、へいき……」
へたり込んでいた真子に向け、ゆりが手を差し出す。それを支えによろりと立った真子は屋敷の外へ目をやった。バケネコたちはどこかへ逃げ去ってしまったらしく、天井に風穴をあけていった内御前も戻ってくる気配はないようだ。
「立てる?」
「あ、ふぁい……」
花子がやさしい手つきで智子のことをゆっくりと引き起こしてやる。どうもすっかり腰が抜けていたようで、足のおぼつかない智子はそのまま花子によりかかった。
「ねぇ、あれどうやったの?」
放置された三味線を指さし、智子がそのように言う。花子がまるで手品のようにヘビを取り出してみせたことについてたずねてみたかったのだ。
「あっ!?」
しかしどうしたことか、さっきまでいたはずのヘビが見当たらない。その代わり三味線には一本のつる草が絡みついているだけだった。目を凝らしてみてもやはり間違いなくただのつる草のようだ。
「あの、あれ、なんかヘビが……」
ちょっと目を離したらヘビがつる草になっていた。目の錯覚なんかじゃないと思う智子はその不可解な現象の説明を求めて花子を見つめる。すると花子がふふっと笑って「時間切れみたい」と言った。
「さっきのヘビね、わたしが作ったの」
「そうなの?」
「ほら、前に言ったでしょ? 裏幕にいると思ったことがちょっとだけホントになるって。だからね、なにか手に持ったりして『これはヘビなんだー』っていっぱい念じたりするとその通りになっちゃうんだ」
「へえぇぇ~」
説明を受けた智子が感心したように声を上げる。花子が言うにはどうもそうしたカラクリがあったらしい。
「できるだけイメージが近いのを材料にするといいみたい。ほら、あれとかヘビみたいでしょ?」
「あー、だから……」
そう言って花子が屋敷の軒先から垂れるつる草たちを指さす。内御前の誘いを受けて座敷に上がる際、花子がつる草をさりげなく引きぬいていったのはそうした理由によるものだったらしい。なんとも抜け目のない人だと、この上級生のことが益々頼もしくなってしまう智子なのだった。
「ねぇ、そういうのってわたしとかでもできる?」
「うん、もちろん。智子ちゃんがイメージできるものなら色々作れちゃうと思うよ」
それはいいことを聞いた。だったらただの紙きれを一万円札に変えてしまうことだってできるかもしれない。裏幕から脱出する前にちょっと百枚分ほど作っていこうかなと、そんなことを考える智子。
「でも時間が経つとあんなふうにもとに戻っちゃうの」
「あ、そうなんだ……」
だけどもそうした智子の目論見は、続く花子の言葉によってかき消される。花子が言っているのは三味線に絡みついたままのつる草のことだ。本来あるべき姿からイメージの力で無理やり変化させているためか、その状態はあまり長く続かない。そうした事情があるからこそヘビはもとのつる草へ戻ってしまったという訳だ。
「そろそろ行こっか?」
「あ、うん」
ともあれ花子からそう促されたので、智子が自力で立ってみせる。他の仲間たちはすでに屋敷の外で智子らが来るのを待っているようだ。縁側から身軽に飛びおりた智子がゆりたちのもとへ駆け寄れば、あとからやってきた花子もそれに加わる。
では改めて、いざ迎えにいかんヤンキー娘。
「え、なに、どうしたの……?」
が、すぐしないうちに一行の先頭が入れ替わった。智子の横を素通りし、花子が前へと進み出てきたからだ。気になった智子が呼びかけても花子は返事の代わりに「アッ……、グッ……」とうめき声を漏らすばかりだった。なぜか妙な姿勢のまま硬直している彼女は自分の足で歩いてなどいなかったが、見えない力で引っぱられるかのように渡り廊下をずるずるとすべっていく。
「ニャオウゥゥ~ン……」
どう見ても普通ではない花子の様子に慌てる智子であったが、突如響いてきたその鳴き声に心臓が縮み上がる。
(また出たぁ──ッ!?)
智子たちが立っている渡り廊下のつきあたり、昇降口の入り口があるその手前の柱から、てっきり退散したものと思っていたあの内御前がぬっと顔を覗かせた。彼女は歯を食いしばり、針のように引き絞られた細い瞳でこちらをにらみつけてくる。さっき頭から天井に突っ込んでいったからか、美しく整えられていたその髪はいまや見る影もなく乱れており、まっしろだった毛むくじゃらの顔もなんだかくすんでいるようだった。どれほどの執念深さなのか、あれだけぎゃふんと言わされた内御前はしかし、いまだ智子たちのことを諦めていなかったらしい。
「み、みんなっ、引っぱって! 引っぱって!」
ともあれこのままにはしておけないと、花子のもとへ駆け寄った智子はその体にしがみつき、仲間たちにも協力を求める。そうして三人がかりで引っぱり返したことでようやく花子の進みが止まった。だけども目に見えぬ力は働き続けているようで、気を抜けばまた引きずられていきそうだった。
(あいつのせいか……!)
内御前が柱に隠れつつ、片手を顔の前でクイクイと上下させていたのが智子の目に映る。それがあたかも狙った獲物を招き寄せる仕草のように思えたから、智子はピンと来た。猫又というものは妖術の類を身につけているそうで、それによって様々な怪異を引き起こしたりするとされている。だから花子が金縛りにあったように硬直し、そのまま向こう側へ引き寄せられているのもきっと内御前のしわざに違いない。
「あっ、す、すぐ戻るから!」智子がそう叫んで花子のことを手放した。
「ちょ、黒木さん!?」
真子が慌てたように呼びとめるがそれに応じてやることはできない。智子にはやらねばならぬことがあるからだ。脱兎のごとく駆けだした智子はさっきまでいたバケネコ屋敷──いつのまにかただのつる棚に置きかわっていた──へ引き返す。
(見てろバケネコ、ヘビ百倍だかんな……!)
そうして骨組みの一部が破損しているそのつる棚から智子が一本のつる草をぷちりと引き抜いた。ここはひとつうんとすごいヘビを作りだして今度こそ本当にぎゃふんと言わせてやろう。ヘビヘビ、ヘビ来い。デカくてニョロニョロ、とぐろ巻きのヤバいやつ。毒ヘビマムシのガラガラコブラ。内御前も月まで吹っ飛んでいきそうなシロモノを生みだすべく智子は手にしたつる草へ懸命に念を送る。
「黒木さぁん! 引っぱられちゃうよぉ!」
真子の叫びにはっとさせられ智子が目をあけた。仲間たちの様子を見に戻ってみれば、さっきよりもいくぶんか進んだところで真子が助けを求めるような表情を向けてきていた。ゆりとふたりがかりで花子をつかんでいるものの力負けしてしまうのか、逆に全員まとめて引きずられてしまっているようだ。見れば柱に隠れるのをやめたらしい内御前が鋭い爪の伸びるその両手でさかんに招く仕草を繰り返しているのだった。カカッ、カカカッ、と内御前のあの笑い声がまた聞こえてくる。
(ヘビっ、ヘビっ、早く来いよぉっ)
手もとのつる草はまだヘビに化けていない。だから智子は改めて目を閉じるが焦る気持ちに邪魔されてどうにもイメージが固まらない。そもそも花子にしたってヘビを具現化させるまでに結構な時間がかかったのではないか。であれば果たしてこの短時間で同じことができるのだろうかと、そうした不安をよぎらせる智子。
(
ふと智子の頭に、あるひらめきが生まれる。ヘビといえば
それからの智子の行動は早かった。つる草を手放した智子はつる棚のさらにその向こう側、黄泉ヶ池や非常用門のあるほうに向かって無我夢中で駆けだした。そうして智子がたどりついたのはA棟非常階段の手前。
「おぉーい! ヘビ来いヘビ来い!」
智子がパンパン手を叩き、そう叫んで呼びかける。途端、階段のほうからずりずりとなにかの這う音が聞こえてきた。
「うわぁっ!?」
するとまもなく頭上から巨大なものがどさりと落ちてくる。てっきりお目当てのものが階段を律儀におりてくると思っていた智子であったから、自分の手前に落ちてきた「それ」におどろいて声をあげた。
(やっぱヘビだった……!)
慌てて飛びのいた智子が目の前の存在をまじまじと見る。非常階段から落ちてきてむくりと顔をあげたのは、智子が以前見かけたあのキツネ犬だった。いや、それはキツネや犬の類などではない。それっぽく見えたのは頭の部分だけであり、彼の長々とした毛むくじゃらな胴体はまるで大蛇のようであった。
これぞ【まぼろしのキツネヘビ】。かつて世間が「ツチノコ」なる未確認生物の話題でおおいに盛り上がっていた折、当時の原幕小にて「校内のどこかにいる」と噂になっていた存在だ。最初にこのヘビと出くわしたあと、彼の正体が気になっていた智子はやがてある程度の見当をつけたのであるが、その全貌を目の当たりにしたことで確信を抱く。形容するならば「キツネの頭を持つヘビ」としか言いようがない目の前の白いニョロニョロは確かに噂のキツネヘビに違いないのだった。
「お、おいで! こっちこっち!」
「キューッ!」
キツネヘビを誘うように智子が声をあげつつその場を離れる。するとキツネヘビはそれに応じて智子のことを追いかけてきた。大きいだけあり這うスピードも中々のものだったので、それに捕まってしまわないよう智子は全力で走る。
「ほらぁっ、ヘビだぞヘビ──っ!」
やがて渡り廊下へと戻ってきた智子が口もとに手を当て叫ぶ。一体なにごとかと振り返るゆりと真子であったが、鎌首をもたげる妙なものが智子のうしろから付いてきているのを見て体をすくませた。
「グミフゥ~~~~ッ」
すっかり招き猫と化していた内御前も前方よりせまり来るキツネヘビに気づいたらしい。彼女は独特のうなり声をあげ、手足をしっちゃかめっちゃか動かしあっというまに走り去ってしまうのだった。途端、花子が体の自由を取り戻したようで脱力してゆりたちへもたれかかる。
それを見届けた智子はキツネヘビを誘導しつつ渡り廊下から外れていく。そうして体育館のそばにある回転遊具のもとへ走り寄り、大急ぎでよじのぼろうとした。
「うひぃっ!?」
だけどもキツネヘビの追跡からは逃れられなかったようで、すぐしないうちにその長い胴体が智子へ絡みついていく。たまらず遊具から落っこちた智子はそのまま地べたの上で全身くまなくキツネヘビに巻きつかれていった。それはあっというまの出来事で、離れた場所でそのさまを見ていた仲間たちも呆気に取られていた。
「うっぷ、ちょ、やめっ……」
白ヘビ団子から首だけ生やした智子が困惑気味に声を上げる。ぺちゃぺちゃ音を立て、キツネヘビが智子の顔面を一心不乱になめてきたからだ。
「たっ、たしゅけて~!」
智子がそう叫んで救助を求めたので、我に返ったみんなはすぐさま智子のもとへ駆けつけた。しかしてっきり智子のことを丸呑みにでもするのかと思われたキツネヘビであったがどうも様子が違っているようだ。智子のことをなめちぎるキツネヘビからは害意のようなものは見受けられない。耳をギュッと折りたたみ、猫じゃらしのような尾をぶんぶん回すその姿はむしろ人なつっこい犬がうんと甘えているようでもあり、なごやかな印象すら感じさせた。
「結構大人しいね。悪い子じゃないのかも」
しゃがみ込んだ花子がおもむろにキツネヘビの頭をなでてみる。すると彼はなめるのを中断し、目を細めて心地よさそうにアゴを伸ばす。
「あの、これどうすれば……」
しかし智子に巻きついて離れようとしないこと自体は問題だった。身動きできない智子を助けてやらねばならなかったからそのことについてたずねる真子。すると花子がなでる手を止め少しばかり思案する。
「じゃあちょっと手伝ってもらっていい? この子のこと、ちっちゃくしてみるから」
それを聞いた真子たちは意味がわからないといった顔をする。この人は突然なにを言いだすのだろうと、少し困惑しているようだった。
「ほら、ふたりともこの子にふれてみて」
「あっ、えと、はい……」
よくわからないながらもしゃがみ込んだ真子がキツネヘビの胴体へと手を当てる。ゆりもそれにならい尾の辺りをギュッとつかんだ。
「キャーン!」力の加減を間違えたのか、ゆりにつかまれたキツネヘビが痛そうに悲鳴をあげた。
「あっごめん」それを受け、ゆりがぱっと手を放す。
その様子を見た花子が「軽くさわるだけでいいよ」とアドバイスしてやったので、改めて腕を伸ばすゆりは胴の上に手を乗せるだけに留めた。
「じゃあ次は、この子の体がどんどん縮んでくぞーって念じてみてほしいの」と説明する花子は自身もまたキツネヘビの体へと手を添え、「智子ちゃんも一緒にやってみよ? みんなでしたほうが早いから」
「あっうん……」だから智子は目を閉じて、言われた通り意識を集中させていく。
これはきっとさっき花子が教えてくれたイメージの力の応用なのだろう。ただのつる草を本物のヘビに変えてしまえるのだから同じ要領でいま花子がやろうとしているようなことも可能だったりするのかもしれないと、智子はそう思った。
「ちいさくなぁれ、ちいさくなぁれ……」
イメージの助けとするためか、そう繰り返す花子のつぶやきが智子の耳へ届く。なんだかどこかで聞いたことのある声だなと、ここに来て智子はそんなことを思った。花子の声を聞くとほっとするような懐かしいような、そんな気持ちになってしまう。きょう出会ったばかりの相手にこんなことを感じるのはなぜだろうと不思議がる智子だったけれど、ともあれ今は集中せねばと気持ちを切り替え念じることに専念する。
(そうだ、お母さんのマフラーみたいに……)
小さくなったキツネヘビの姿に近いものとしてこれ以上ない品物のことを智子は思いだした。ちょうど智子のお母さんが似たような見た目の襟巻きを持っていたのだ。たまにお母さんの部屋からこっそり持ちだしてぬいぐるみたちと遊ばせてやったりもするその襟巻きはキタキツネの姿を模した造りだったから、あんな感じのマフラーみたくなってしまえと智子は念を強めていく。
(おっ……おっ……?)
すると全身をおおっていたモフモフの圧迫感が徐々に弱まってきた。それに手応えを感じた智子が、まだまだもうちょいとなおも念じ続けていく。そうしてすっかり拘束から解き放たれた辺りで智子がむくりと身を起こす。
「へぇ~、こんなんなっちゃった」
自分の首もとを手で確かめる智子がおどろきの声を上げる。あれだけ大きかったキツネヘビがいまやずいぶんと縮んでいたからだ。彼はそれでも離れたくないのか智子の首に巻きついたままであったが、そうしている姿はマフラーそのものだ。
「チュー」
智子の顔を見上げてキョロキョロしているキツネヘビがネズミのような声で鳴く。智子がいきなり巨人になってしまったように感じられて彼自身びっくりしているのかもしれない。
「ふしぎ……なんかフェレットみたい」花子の言葉通りすっかり小さくなってしまったキツネヘビを真子が物珍しそうに見る。
「なんだろうね、ヘビじゃないのかな?」かたわらのゆりもヘビなんだかキツネなんだかよくわからないその奇妙な姿に興味がわいたようだ。
ともあれ無事にキツネヘビの重たい愛情から解放された智子がふぅと息をついて立ち上がる。それにみんなもつられたのか思い思いに腰を上げていった。
「あっ、しょのっ、あ、ありゃがと……」
上着で顔をぬぐっていた智子がやがて遠慮がちに口をひらく。キツネヘビ縮小作戦にはゆりと真子も協力してくれたのでそのお礼のつもりだった。なにも言わないままだとふたりに感じ悪く思われてしまうかも、なんていう心配からの行動であったが、近ごろはクラスメイト相手にこういうことを言う機会もすっかりなくなっていたから途中でかんだりしてしまう。
「ううん、こっちこそありがとう。この子が来てくれなかったら危なかったもの」
そう返す真子がキツネヘビの鼻先をやさしくつつきながら「ね、ゆり?」と続ければ、話を振られたゆりも「うん」と返事してそれに同意する。
「あー、いや、へへ……」なんか逆に感謝されちゃったぞと、ふたりからの反応に照れる智子。
「智子ちゃん、ホントにありがとう。わたし、ちょっと油断しちゃってたかも……」続けて今度は花子が感謝の言葉を口にした上で、
「あぶないことさせちゃってごめんね」と、すまなそうにあやまった。
「あっうん、い、いいよ、大丈夫」
結果オーライではあったものの、智子の首もとでマフラーをしている彼がもし狂暴な肉食ヘビだったとしたらいまごろ智子はその胃袋におさまっていたかもしれない。そうした可能性があった以上、智子はずいぶんと無茶をしたことになる。だから花子としてはそこのところを心苦しく思っているようだ。
「て、ていうかさ、あのバケネコほんと執念深いよね。あいつ絶対また出てくるよ」
花子に気を遣わせてしまうとなんだか自分のほうまで申し訳なくなるのでとりあえず話題を変えてみる智子。それはそれとして智子の指摘はもっともであった。よほど逃がしたくない獲物が一行のなかにいたからなのか、弱点のヘビに仰天させられ退散したかに見えた内御前はしかし、それでも懲りずに再び襲いかかってきた。このことを考慮するならばまだまだ安心はできず、引き続き用心せねばならない。
「そのヘビみたいなのがいるから大丈夫じゃない?」
「あ、そ、そうかな……?」
こわいキツネヘビがいるうちは連中も襲ってはこないだろうという、ゆりのそうした意見もまた一理あるものだった。肝を冷やされたさっきの襲撃にしても、花子の具現化させたヘビが時間切れでつる草に戻ったあとの出来事だった。であれば、いつまで経ってもヘビなままでいるこのキツネヘビを同行させておけば連中も手を出してこないのかもしれない。
(ま、そんなら別に……)
自分の首もとでフワッとあくびするキツネヘビに智子が目を向ける。そろそろひっぺがしてやろうかな、なんて思っていた智子であったが、マフラーと化したキツネヘビはそのポジションが気に入ったようであったからこのままでもいいかと考えなおす。
「あっ、でもコイツ、そのうちもとに戻るんじゃ……?」
イメージの力で変化させたものは時間切れを迎えると本来の姿へ戻る。そうした制限のことを思いだした智子が意見を求めて花子を見やる。すると花子は「そうだねー……」としばし考え込むような仕草をし、
「じゃあその子に名前付けてあげて。そしたら小さいままでいられるから」
「そんなんでいいの?」
「うん、あとできるだけ『小さい』ってイメージのわきやすい名前がいいかな。
「あっ、じゃあそれで……」
そうしてキツネヘビの名前があっさり決まった。「名は体をあらわす」ということなのか、それっぽい名前を付けてやることがなにかしらの作用を生んで彼を小さな存在へと留めることになるらしい。
「おいチビ、おまえチビだかんな」智子がそう呼びかけて首もとのマフラーを指でなでてやれば、
「チュー」ありがたいお名前を頂戴したチビヘビの彼がひと鳴きするのだった。
◆
そこから先はウソのように順調だった。ゆりの言ったようにキツネヘビがお守りになっているためか内御前がまた仕掛けてくることはなく、他のおばけが襲ってくるような気配もなかった。そうして無事にご神木のもとへやってきたあと、智子たちは屋上ガーデンに向かうため、そばにある非常階段をのぼっていく。
グワン、グワンと、みんなの歩調に合わせてスチール製の階段から鈍い音が鳴る。他のところのコンクリート造りの非常階段と違ってここの非常階段だけは金属製だったから、歩みを進めるたびに階段全体が微妙に揺れていた。昼休みともなれば屋上を行き来する児童たちがここを勢いよく駆けて盛大に音を鳴らしていくというのが日常風景であったが、今の智子たちの足どりはそれに比べるとあまりにも静かなものであった。
「おおーっ、すっげー!」
そうして智子たちが屋上へ近づいてきた辺りで、ふいに上のほうからヤンキー娘のものと思われる声が聞こえてきた。なにやらテンションの高いその声色を妙に思いつつも、歩調を早めた一行はやがて階段をのぼりきって屋上ガーデンに到達する。
(なにしてんだヤンキー……?)
智子が屋上のつきあたりに目をやれば、青々としたガーデンの先に立つヤンキー娘の姿が見えた。フェンスに寄りかかってなにかを仰ぎ見ているらしい彼女はぴょんぴょん跳ねたりして随分とはしゃいでいるようだった。
「吉田さん!」
真子がヤンキー娘の背中に向かって呼びかける。が、それに対する反応はなかった。代わりに熱い視線を空へ向けたまま、うわぁーうわぁーと声をあげつつ体を揺さぶるだけだ。
(ヤンキーがバカになっちゃった!)
なにがあるでもない空を見やったままこちらを無視し、人目をはばからず幼い子供のように振る舞うヤンキー娘のその姿に智子はぞっとした。ここ裏幕で数々の怪異に遭遇するうちショックでとうとう気がヘンになってしまったのだろうかと、そのように思ってしまう。
「吉田さん、ねえっ、どうしたの?」
そこかしこにあるプランターや花壇のあいだを縫って走り、急ぎヤンキー娘のもとへやってきた真子がさかんに肩を揺すってみるのだが、やはりこちらに気づく様子はない。
「大丈夫なの?」
「え?」
「吉田さん、どう見ても普通じゃないでしょ」
真子にならって智子たちもヤンキー娘のもとへ歩みよっていくが、その道すがらゆりがヤンキー娘の容態についてたずねる。
「あれ、おばけとかのせいじゃないの?」
「ああ、いやまあ、ただの一時的なショックってやつかも……」
仲間たちから離れてひとりふらふらどこかへ行ってしまったのもそのせいだったのかもしれない。あの様子ではきっと正気を取り戻すのに時間がかかるだろうから、ここはひとまずみんなで引きずってでもご神木のところまで連れていってやるしかない。
見ればヤンキー娘が今度はフェンス越しに地上へと目を向け、誰に向けてか手を振ったりしていた。キャッキャとはしゃぐ彼女のそうした様子に、これはもとの世界に帰ったあとも病院行きかな、などと考える智子。
「たぶん
「へっ?」その言葉に足を止めた智子が振り返って花子を見やる。
「あの子、【ワイハ星人】に会ったんだと思う」
「あ、そうなの……?」
この「ワイハ星人」というのは原幕七不思議のひとつ、いわゆる地球外知的生命体に関する噂のなかで語られていた存在だ。智子としてもこの宇宙人の話は知っていたが、花子の見立てによればそれこそがヤンキー娘をおかしくした原因なのだという。
「ゆりーっ、来てー! 吉田さんがヘンなの!」
明らかに普通ではないヤンキー娘のありさまに恐怖を覚えたのか、真子が友達の名を叫ぶ。それを受け、ゆりが小走りでそちらへと駆けていった。
(純粋な人間だけが会える宇宙人かぁ……)
ワイハ星人の噂を改めて思いだす智子が心のなかでそうつぶやく。なんでもくだんの宇宙人はここ屋上ガーデンに出没するとのことだったが、彼は姿を見せる相手を選ぶとされていた。素直な心を持ち、
オカ研の活動記録、つまり今江先生のレポートによれば、七〇年代なかばに流行ったというこの噂は当時オカルト雑誌を賑わせていた
(でもこんなふうになるなんて書いてなかったけど……)
ヤンキー娘のもとへとやってきた智子が改めてその姿に目を向ければ、フェンスから引き離そうとするゆりと真子に向け「うっせー」「割り込むんじゃねー」などともんくを言っているようだ。
ワイハ星人に遭遇したらそのあとどうなってしまうのか。智子の記憶が確かなら、この辺りの詳細については活動記録に載っていなかったはずだ。正確に言うと彼に関する調査報告は中途半端なところで途切れていて、続きが書かれていたとおぼしきページは丸々破り取られていたのだった。それはオカ研がきこさん関連の情報を抹消した際の巻きぞえを食らったためなのかもしれないが、さっきの花子の口ぶりはあたかもこの話の続きを知っているかのようであった。
(今江先生に教えてもらったのかな?)
あの活動記録の著者から色々聞いているらしい花子であればそこのところを知っていてもおかしくはない。ヤンキー娘になにごとか話しかける花子の横顔を見ながら智子はそんなふうに考えて自分を納得させる。
「吉田さんってずっとこのままなんですか……?」
いくら話しかけても取り合おうとしないヤンキー娘であったから、いい加減くたびれてしまった真子が不安げな顔で花子にたずねる。
「そんなことないと思うけど……ひょっとしたらよっぽど
「えと、じゃあ吉田さん、寝てるだけってことですか?」
「うん、そうみたい。だからそんなに心配しなくても大丈夫だよ」
花子が言うには、どうもヤンキー娘は夢遊病の状態にあるらしい。そのはしゃぎぶりからすると本人にとってさぞかし楽しい夢を見ていると思われるが、智子たちにとっては困った話だ。だからそろそろ眠りを覚まし、夢の国から帰ってきてもらわないといけない。
「どうしよっかな、ちょっとくすぐってみようか?」
そうすれば起きてくれるかもと提案する花子。こんなとき、彼女の発想はちょっと貧困だった。笑い病にかかったゆりへの対処を考えたときもやっぱり今と同じようなことを言っていたものだ。
「それっ、こちょこちょ……」
「ははっ、ははっ」
ものは試しにと、眠り姫の首すじに手を伸ばした花子が早速くすぐりはじめる。途端、姫が笑い声を上げて身をよじる。
(なんか今江先生みたい……)
そうしたくすぐり好きの花子にもと担任の姿がなんとなく重なって見える智子。先生はおイタの過ぎる児童に対してときおりあんなふうにくすぐり攻撃を仕掛けることがあったからだ。かくいう智子自身もそうした経験があったので、あのときはずいぶん笑わされたものだと少し懐かしくなったりする。
ちなみに智子がどういう理由で先生からくすぐられる羽目になったのかと言えば、それはこういうことだった。普段からパソコン室をよく利用していた智子は、あるとき安全性や教育上の理由からアクセスできないようにされていたウェブサイトをどうしても見たくなってしまった。そこで智子は聞きかじりの知識を頼りに邪魔な監視ソフトを強制終了させたあと、思うままにネットサーフィンを楽しんだ。が、最終的にそれがどういう結果になったかと言えば、怪しいリンクをうっかり踏んでしまったせいでパソコンがウイルスに感染し──
以降のことは長くなるので割愛するが、ともあれそんな
(先生、どうしてんのかなぁ)
きこさん祭りをおこなってからもうどれだけ時間が経ったのだろう。こうして裏幕へ迷い込んでしまった児童たちがいることに先生は気づいているのだろうか。少なくとも一緒にウサギ探しをしていた飼育委員のふたりが急にいなくなったことを妙に思ってはいるはずだし、もしかしたらご神木の根もとに築いた例の祭壇を見つけておどろいているかもしれない……などと考える智子は「わたしもここにいるよ」と先生に伝えたくなってしまう。
「うーん……起きないねぇ」
花子が困ったように言ってくすぐる手を止める。見ればぜいぜい、はあはあと息を荒くするヤンキー姫は「ったくよー」などとボヤきつつもヘラヘラ笑みを浮かべている。その反応からすると彼女好みの小動物かなにかが首にじゃれついてきているだけだと思っているのかもしれない。
「もっと強くやってみたらいいんじゃないですか?」
「でも、あんまりやるとかわいそうだし……」
死ぬほど笑わせてみればさすがに目を覚ますのではないかとゆりが荒っぽい提案をするのだが、今でさえ呼吸困難気味のヤンキー娘なのでこれ以上くすぐり続けることは花子としても気が引けるらしい。
「……」
呼びかけてもダメ、くすぐってもダメ、さてどうしたものかと改めて思案する仲間たちであったが、そうしたなかで智子がふとなにかを思いついたように進みでる。手でVの字を作った智子は指先をヤンキー娘の鼻先へとおもむろに伸ばしていくが、それはかつて寝ている弟をびっくりさせるためにやったことのあるイタズラでもあり──。
ここから先のことはとてもではないが──割愛などではなく本当に──書けはしない。詳細もまた伏せられてしかるべきものであった。ただひとつ確かなのは、智子の思いつきが功を奏しヤンキー娘が無事正気を取り戻したということ。そしてその代償として智子は彼女から全力のビンタを食らう羽目になったということだ。
◆
「ったくよー……」
鼻をさするヤンキー娘がにらみながら悪態をつけば、智子がおどおどした様子で花子のうしろに隠れる。これはさきほど両者のあいだで一悶着あったためで、しかし今は仲間たちの仲裁もあってひとまず落ち着いたようだ。
「つーかよ、誰だてめーは」
すると気持ちを切り替えたヤンキー娘が花子に向けてぞんざいな物言いで質問する。いつのまにかメンバーに加わっていた花子のことを不審に思っているようだ。
「花子さんっていうの。六年生だって」
「ふーん……」
花子が自分で答える前に真子が横から説明してやれば「ま、いいけどよ」と一応は納得したらしいヤンキー娘がうなじをくすぐったそうにさする。
「んで、どうなんだ? 穴は見つかったのか?」
自分が長いあいだ夢のなかにいたらしいことを聞かされていたヤンキー娘ではあったが、まだ色々と事情を知らないがためにこんなことを智子にたずねる。
「う、うん……そ、それなんだけど、もういいっていうか……」
「なんで?」
「そ、その、こちらの花子さんが、もとの世界に連れてってくれるんだって」
「そうなのか?」
智子の話を聞いたヤンキー娘がさきほどとはうってかわって期待を込めたまなざしを花子に向ける。
「うん、これから下のほうでね、帰るための儀式をするの」
「へぇー」
「みんなにもちょっと手伝ってほしいんだけど、いいかな? 簡単なお祈りをしてもらうだけだから」
「あ、おお。んじゃ早く行こうぜ」
帰るために少しばかり協力してもらいたいという花子のそうしたお願いにヤンキー娘がふたつ返事で同意する。もう怖い思いをしてまで隠し穴を探さなくてもよくなったと知って彼女もほっとしているようだ。
「それ、なんだ?」
「あっうん、キツネヘビ……」
そうしてみんなで非常階段に向かう途中、見慣れぬキツネ顔のマフラーにヤンキー娘が興味を示す。そこで智子がチビのことを教えてやるのだが、まばたきしたり鼻をひくひく動かす彼の姿を見たヤンキー娘は「こいつ生きてんぞ」とたいそう目を丸くするのだった。
*
(またヘンなのが出てくる前にさっさと帰んなきゃ……)
ヤンキー娘も戻った今、これ以上裏幕に長居する必要はない。だからあとは早々にご神木のもとへ行き、帰るための儀式をおこなうだけだ。そういう訳で屋上ガーデンをあとにした智子たちは非常階段をおりていく。どんな儀式をするのかは知らないが帰り道はもう目の前。もたもたしていたらきこさん辺りがまたあらわれそうだったので、どうにも智子は気が急いてしまう。
(ん……?)
階段をある程度おりたところで智子の視界の端になにかがよぎった。つられるようにそちらへ目を向けた智子であったが、たちまちその歩みが止まる。
「おい、なに止まってんだよ」
「え、なんで……なんで……?」
うしろがつかえているぞとヤンキー娘が声をかけるが、それが聞こえていないのか智子は非常階段と隣りあう校舎の窓を凝視したままだ。
(ゆうちゃん!? なんで!?)
智子が目を向けた窓の先、そこはC棟二階の西側、四年生の教室が並んでいる辺りの廊下だった。智子はそこに、今はもう他所の学校へ行ってしまった親友の姿があることに気づいたのだ。
「ちょちょっ、ど、どいてっ……!」
前を行く花子を押しのけ、派手に足音を鳴らす智子が二階部分の踊り場までおりていく。そうして非常階段の扉に張りつきさかんに手で叩く。
「ゆうちゃぁん! おーい! おおーい!」
そうやって大声で呼びかけてみるものの、扉の小窓越しに見えるゆうちゃんはそれに気づく様子もなく、いつもかけている自分の黒縁メガネを外して目をこすっているようだった。扉をあけようとしてみたものの鍵がかかっていたためどうにもならない。そうこうしているうちにゆうちゃんはやがて近くの教室の引き戸をあけてそのなかにはいっていってしまった。
「智子ちゃん、どうしたの?」追いついてきた花子がただごとならぬ様子の智子に声をかける。
「あっ、あのっ、い、いま、ゆうちゃんがいてあの……!」しどろもどろになりながらも智子はいま自分が見た出来事をどうにか口にする。
「えっ……!?」それを聞いた途端、花子の顔色がさっと変わった。
「あっ、ま、真子さん! カギっ、カギちょうだいっ、ここの!」
遅れて追いついてきた仲間たちに叫ぶ智子。真子には学校で使われている鍵束を一式預けておいたから、この非常階段をあけるための鍵を貸してほしいのだ。
(ゆうちゃん、なんで来ちゃうんだよもうっ)
自分が本日学校のなかで儀式をおこなうつもりであることを智子は昨晩ゆうちゃんにお誘いがてら電話で教えてあげていた。しかし生憎ゆうちゃんには転校先の仲よしグループとお出かけする先約があったため同行の約束を取り付けることは叶わなかった。そのはずだった。
(わたしなんかほっといて他所の連中とよろしくやってりゃよかったのに……!)
ゆうちゃんにだって都合があるんだから仕方がないと、そう自分を納得させていた智子であったが、しかし誘いを断られた残念さとは別に今まで親友に感じたことのない暗い気持ちがこみあげてくるのを抑えられないでもいた。ゆうちゃんったら転校先でもいっぱい友達ができて楽しそう、いまやクラスのなかで会話する相手にも事欠くわたしと大違いじゃないかと、そのような妬みを覚えてしまったからだ。ゆうちゃんは怖がりだから誘わないなどと弟に語っていた智子であったが、それも結局は本音を隠して見栄を張るためのウソに過ぎないのだった。
だけどゆうちゃんは急に予定が変わって時間が空いたので昨夜の誘いに応じてかつての母校へとやってきたのかもしれない。それ自体は嬉しいはずのことだったけど、しかし今となっては下手に誘ってしまったことを智子は激しく後悔していた。
そうしてまもなく扉がひらいたので智子がいの一番に廊下へおどり出る。ゆうちゃんがはいっていったのは四年二組の教室だ。ここへは四年生だったころの智子がゆうちゃんと一緒に毎日楽しくかよっていたのだけど、今江先生とともに過ごした最後の教室でもあったから、智子はことさらこの場所に強い執着を持っていた。
ともあれ気が動転していた智子は激突せんばかりの勢いで教室の引き戸に張りつき、そのままそこを勢いよくあけた。足を踏み入れる前になかの様子を確認したりもせず、踊り場のほうにいる仲間たちの存在も忘れた智子は吸いよせられるようにして教室へ飛び込んでいく。
瞬間、智子の世界が
つづく