キーン コーン カーン コーン……
智子が教室にはいった途端、スピーカーからチャイムの音が流れる。だけどもそちらを気にするどころじゃない智子は教室内の様子を前にあぜんとしていた。
「え……?」息を切らせた智子が周囲を見回しつぶやきを漏らす。「なにこれ……」
辺りにはおおぜいの子供たちがいてがやがやとしていた。チャイムが鳴ったからか、立っていた子たちが自分の席へと戻りはじめ、イスを引く音があちこちから聞こえてくる。
明るい──照明がついているわけでもないのにそう感じるのは教室のなかに満ちる自然光のせいだ。どこもかしこも薄暗さが漂っていた裏幕だったのにいまやすっかり日中らしい明るさを取り戻していたのだった。
「黒木さん」
そうしてチャイムも鳴りおわり子供たちがすっかり着席したなかで智子だけが立ち尽くしていたところ、誰かが背後から声をかけてきた。
「あっ!?」
「ほーら、席について」
うしろにいたのはなんと今江先生だった。教室へとはいってきて引き戸を閉じた先生はそのまま自分の机のほうに歩いていって、部屋のすみにあるガラス棚からプリントや冊子なんかを取り出しはじめた。
「もこっち、もこっちってば」
突然あらわれた今江先生を凝視していた智子だったけれど、ざわつきの収まった教室からなじみのある声が聞こえてきたことに気づいてはっとなる。
「ゆうちゃん!」
たくさんの子供たちのなかから親友の姿を見つける智子。黒縁メガネのゆうちゃんが少し離れた席から呼びかけていたのだった。
「ちょっとゆうちゃん、なにしてんの!?」
智子がみんなの机をすり抜けゆうちゃんのもとへ駆け寄った。なにもかも突然のことだらけで混乱する智子が親友の肩をゆさぶるが、ゆうちゃんのほうは目をぱちくりさせるばかりだ。
「授業はじまっちゃうよ? 座ろうよ」
「はぁ……?」
智子の問いかけを受け、ゆうちゃんがおっとりした口調でそう返す。そんなゆうちゃんの言動がどうにもおかしいので、智子はますます困惑する。ついさっき廊下で見かけたゆうちゃんを追って教室へはいったら、なぜかそこに子供がたくさんいて今江先生まであらわれた。ゆうちゃんの言う通り教室のなかは今まさに授業がはじまらんとしているかのような雰囲気であったから、これはいよいよもっておかしいと思いはじめる智子。
「ねぇもこっち、
「あ……」
座って。座って。座って。
「もこっち」というのはゆうちゃんが智子につけたアダ名のことで、こんなふうに呼ぶのは世界でゆうちゃんただひとりだけだ。そのゆうちゃんが智子に向かって着席をすすめてきたのだけど、妙に圧力を帯びた親友の言葉が智子の頭のなかで反響する。
「黒木さん、どうしたの?」
教卓の前に立つ今江先生が声をかけてきた。ぼんやりする智子がそちらを振り返れば、先生が不思議そうに目を向けてきていた。
(あーそっか、そうだった)
ふいにおとずれたその気づきを受け、たちまち頭のはっきりしてきた智子があいていた席へさっと座ってみせる。そこはゆうちゃんのすぐうしろで、いつも座っている
「きりーつ」
智子がそう声を張り上げて、さっき座ったばかりの席を立つ。するとゆうちゃんを含めた教室の子供たち全員がそれに合わせていっせいに立ち上がる。
「これから、二時間目の授業をはじめます。れいっ」
智子がそう言って頭をさげれば周囲もならっておじぎをする。そうして最後に智子が「ちゃくせき」と締めくくったところでみんなが腰をおろしていった。
「はい、じゃあみんな教科書ひらいてね。今日は二五ページから」
にっこり笑った今江先生がほがらかな声でみんなに告げる。それを聞いた智子はさっそく机から国語の教科書を取り出し目当てのページをぺらぺらめくるのだった。
智子はこの四年二組で学級委員をやっている。原幕小では授業ごとの号令を各クラスにいる男女ふたりの学級委員が担当する決まりになっているのだけど、今週は智子の当番だ。さっき智子におとずれた気づきというのはこのことで、自分の役割を思い出した彼女はそれをいつも通りこなしてみせたという訳だ。
「『キモビトと
先生に指名されたゆうちゃんが立って朗読をはじめる。そのうしろ姿をなんとなく見やるうち、智子は不思議な気持ちになる。
(なんかえらく久しぶりっていうか……)
こうして塾以外でゆうちゃんと授業を受けるのはいつ以来のことだろう。もう何ヵ月も学校のなかでゆうちゃんの姿を目にしていなかったような気がする。毎日一緒に登校してるはずのゆうちゃんにどうしてこんなことを思ってしまうのか理由はわからない。けれどもとびきり大きなおさげ髪を垂らすゆうちゃんの背中を見ているとなんだかほっとする。
ずいぶん長いあいだ悪い夢を見ていたのかもしれない。ゆうちゃんが学校からいなくなって、嫌いな先生が担任になって、智くんもあまり言うことを聞いてくれなくなった。飼育委員になれるはずだったのに乱暴なヤンキーが力ずくでその座を奪っていった。わたしのかわりに学級委員になった女子は要領のいい奴で、先生が見てないところで掃除をサボったりするし、ヤンキーにはビビってなんにも言えないくせしてわたしのちょっとした居眠りなんかは目ざとく注意してくるのがずるくて嫌いだ。
クラスの女子がわたしを無視する。かと思えば面白半分にちらちら見てくる子たちもいて、お母さんが選んでくれたわたしの服に対して「ガキっぽい」だの「ダサい」だのと陰口を叩いたりするからくやしい。
男子のなかにイカサマのことでからかってくる連中がいるからつらい。せっかく
ああ、でも、こういうことはぜんぶ夢だったんだ。だから大丈夫だ。もう「はー」ってため息ついたりしなくていいんだ──。
*
「きょう黒木さんがしてくれたこと、ちゃんと見てた人はいるかな?」
帰りの会で智子がチョーク片手に司会をしていたところ、隣に立つ今江先生がそんなことを口にした。質問されたみんなはなんのことかよくわからなかったようでそのまま先生の言葉を待つ。
「黒木さんが花瓶の水をかえてくれたの。最近みんなほったらかしだったんじゃないかなー」
先生がそう説明すると何人かの子が感心したように声をあげた。そのなかにはゆうちゃんもいて、教壇の上の智子へまろやかなまなざしを向けてくる。
「あ、でも今日だけだし……」
チョークを置いた智子がそう言ってはにかむ。花瓶の水がちょっとにおってきているようだったのでそれに気づいた智子が入れかえておいたのだけど、先生はそうした智子のおこないにちゃんと気づいていたらしい。わざわざこうして褒められるとは思っていなかったので智子としては照れるばかりだ。
「ううん、今日だけじゃないよ。黒木さんがいつもみんなのために色んなことしてくれてるの、先生ちゃんと知ってるもの」
「あっうん、学級委員だし、当たり前かなーって……」
先生が言葉を重ねてまたほめてくるものだから、にへら顔の智子がますます顔を赤くする。
学級委員たるものまわりのお手本とならねば。そのように考える智子は誰に言われるでもなく進んで人の手伝いをしたり、めんどうごとがあれば率先して自分が引き受けてあげたりしていた。たまには楽をしたりズルしたくなることもあるけれど、みんなよりもちょっと
「その当たり前がすごいの。先生もむかし学級委員やったことあるけど全然ちゃんとしてなかったなー」
「でも先生って児童会長だったんでしょ? それってすごいじゃん」
先生がかつての自分を引きあいに出してまたほめる。だけどあまり持ちあげられてもいい加減むずがゆくなってしまうので、智子は話題を切りかえるべく以前教えてもらった先生の子供時代について話を振った。
「そんなことないよ。お仕事そっちのけで他のことばっかりしてたもの」
「なにしてたの?」
「ちょっとね、色々」
「色々ってなに? どんなこと?」
「んー……ないしょ」
「え~」
先生ったらもったいつけちゃって。えくぼ顔の先生がはぐらかすので、智子だけじゃなくクラスのみんなも口々に教えて教えてと騒ぎたてる。こうなったらいっちょ先生の隠しごとを議題に上げてみよう。そうたくらむ智子が「はい教えてほしいひとー!」とみんなに挙手を求めて先生を困らせたりするのだった。
◆
(おっと……)
とある日の何時間目かのこと、先生から採点済みの答案用紙を受け取った智子は花丸の書かれたそれを見てちょっと困ったように笑う。
「もしかしてまた一〇〇点?」
「ん、まあね」
「へー、すごいねぇ」
席に戻ったところでゆうちゃんからそうたずねられたので、智子がなんでもないことのように結果をぺらっと見せてやる。実際こうしたことは今の智子にとってもう珍しいことではなく、ここ最近受けたテストの成績はいずれもすこぶる優秀なのであった。
(あれかな、やっぱりわたしって「上の領域」の人間なのかな)
おそらくクラスのなかで自分の学力はトップだ。いや、学年全体で見ても一番かもしれない。智子がそう思うのは、なんだか授業でやることの全てがとっくの昔に習ったものであるような感じがして、たまのテストも悩むことなくスラスラ解けてしまえるからだ。だからもう、いまさら満点を取ったとしても特にはしゃいだりはしない智子だった。
学級委員としてクラスを仕切るのも手慣れたもので、まだまだお子様なみんなをリードしてあげるうち、いまやすっかり大きな信頼を寄せられるようになった。黒木さんってすごい、黒木さんっておなじ人間じゃないみたい──こんなふうにクラスメイトから尊敬のまなざしを向けられるとき、智子は決まって「そんなことないよ、みんなのお手本になれるようがんばってるだけだよ」と謙虚に振るまってみせるが、実力の高さからクラスのなかでどうしたって注目を集めてしまう自分にいい加減「やれやれ」とため息をつきたくなってしまう。
*
「はー、やれやれ」
今日ぐらいはひとりきりでゆっくりしたいなと、智子は昼休みに周囲の目を盗んでA棟非常階段のなかほどまでやってきた。ここは普段からひとけが少ないので、こんなふうに隠れてくつろぐには持ってこいの場所なのだ。
「さて、と……」
ポケットから携帯電話を取り出した智子が電源を入れる。誰かに連絡したりするためではなく、ここでこっそりモバイル端末用のゲームをするためだ。そうして智子がゲームアプリで遊びだしてからしばらく経ったころ──
「あっ、なんだよもう」
突然誰かから着信がはいってきたのでゲームを中断せざるをえなくなった。そのことにムッとしつつ智子は連絡してきた相手を確認する。
(なにこれ?)
ディスプレイには「ハナコ」と表示されていたのだけど、こんな相手はアドレス帳に登録した覚えがない。
(きもちわるっ、無視だ無視……!)
ひょっとしたら智くんがいたずらして勝手に登録したのかもしれないけれど、ともあれ得体の知れない着信は受けたくない。そう思った智子が終話ボタンをひと押しする。
『智子ちゃん』
「うわっ!?」
切ったと思ったそばからいきなり声が漏れ聞こえてきたので、おどろいた智子が電話を取り落としてしまう。
(だれ……?)
もしや間違えて通話ボタンでも押してしまったのだろうかと思う智子だったけれど、相手から名前を呼ばれたようだったのでおそるおそる電話を拾い上げる。
「も、もしもしっ」どきどきしながら智子が電話口の相手に呼びかけると、
『戻ってきて、戻ってきて……』女の子の声でそうした言葉が返ってきた。
「あのっ、だ、だれ!?」
『智子ちゃん、戻ってきて……』
「えっ、なに? なんなの?」
こちらの呼びかけに反応するでもなく一方的にうわごとのような言葉を繰り返す電話口の相手だったから智子は怖くなってきた。
『こっちに……こっちに来て……』
「ヒィッ!?」
これは普通じゃない。相手の様子があきらかにおかしいと見た智子は、顔から電話を離して終話ボタンを連打する。そうこうするうちピッと音が鳴り、そこでようやく通話が途絶えた。智子の手が震えているから、電話に取り付けてある毛むくじゃらのストラップもヘビのようにクネクネと揺れている。
(ない、ない……!)
混乱冷めやらぬうちにアドレス帳を確認していた智子だったけれど、さっき電話してきた「ハナコ」という登録はどこにも見当たらなかった。着信記録にすら痕跡が残っていないものだから青ざめずにはいられない。
(幽霊だっ、幽霊がかけてきた!)
突然の怪奇現象にすっかり心臓の縮み上がった智子が足をもつれさせつつ大慌てで非常階段をおりていく。ひとりっきりでいたいなんてもう言ってられない。人恋しさを一気にふくれあがらせた智子はその辺りで遊んでいた低学年の男の子たちにしがみついたりしたのだった。
*
「あれぜったいガチだから。マジでガチの心霊現象だよ」
「そういうのってやっぱりホントにあるんだね」
放課後、ゆうちゃんとおしゃべりしながら廊下を歩く智子が改めてくだんの幽霊電話のことを話題にしていた。智子が本日遭遇した奇妙な出来事はとっくにクラス中に広まっていて、みんなしてキャーキャー騒いだりしたものだ。
「ほん
「あっ、それいいかも。もこっちやってみなよ」
たまにテレビでやってる心霊番組宛てにこのたびの恐怖体験を投書してみたらきっと取り上げてもらえるに違いない。でもそしたらますますクラスで注目されちゃうなー、たはは、まいったな、などと思ったりする智子。
「またかかってきたらどうしよっか。今度はゆうちゃんが出てみる?」智子が手のなかで遊ばせていた携帯電話を見せつけそのように言えば、
「えっ? いいよいいよ」ゆうちゃんが慌てて手を振る。
「ホラでんわ来たっ、ゆうちゃん出て!」
「もー、もこっちー」
鳴ってもいない携帯電話を智子がぐいっと差し出したので、ゆうちゃんがクスクス笑って駆けだした。そんなゆうちゃんのあとを智子がランドセルを揺らして愉快そうに追いかけていく。
喉もと過ぎればなんとやら。最初こそ体の震えが止まらずにいたものの、まれな体験をした自分の話にクラスメイトたちが目を輝かせて食いついてきたものだから智子はすっかり得意な気持ちになっているようだ。ここ最近はみんなから注目されるたびに「やれやれ」だなんて思ったりしていたけれど実際はまんざらでもないのだった。
「とーもくん」
旧校舎のほうにある三年生の教室をのぞき込んだ智子が、そこにひとり居残って本を読んでいた男の子へ声をかける。そうしたら、ぱぁっと笑みを浮かべた男の子がランドセルをしょってすぐさま智子のもとへ走ってきた。
「帰ろっか?」
「うん!」
手にした本を棚にきちんと戻し、智子の言葉に元気よくうなずいたのは智貴だった。彼はまだ三年生だから週に三日は智子よりも早くその日の授業が終わる。だけどそうしたときも迎えが来るのをこうして教室で待つことが日課となっていた。
「今日ね、すごいことがあったんだよ。幽霊から電話かかってきたんだ」
「マジで!?」
「ほんとほんと、ねぇゆうちゃん?」
みんなと連れだって昇降口に向かっていた智子が弟に今日の出来事を早速教えてあげる。隣を歩くゆうちゃんにも確認してみれば肯定するようにうんうんうなずいた。
「いきなりハナコって子から電話かかってきてさ、なんか『戻ってきて~、戻ってきて~』ってブツブツ繰り返してるの。だれなの!?って聞いても全然答えてくんないんだけど、向こうはなんかお姉ちゃんの名前知ってたみたい」
「それで……?」
「そしたらね、今度は『こっちに来て~』とか言ってくるからあわてて電話切っちゃったよ」
「うわ、それぜったいユーレイだよ。やばいやつじゃん」
「だよねぇ。だって着信記録になーんも残ってないんだよ? どう考えても人間わざじゃないね、あれは」
幽霊電話の一件を聞かされた智貴は、それが作り話かどうかなんて少しも疑っていないようだった。もちろん実際にあったことなのだからウソなわけがないのだけど、彼の様子からは例えあからさまなホラ話を聞かされたとしてもお姉さんの言うことなら信じてしまいそうな素直さが見て取れる。
「智くんも気をつけたほうがいいよ? この話聞いちゃうとハナコさんから電話かかってくるかも」
「えぇー……」
自分のクラスの下駄箱から靴を取り出していた智子がにやりと笑っておどかすようなことを言う。するとあとを付いてきていた智貴が途端に不安げな表情となる。こんな尾ヒレはいまさっき智子が付け加えただけのものに過ぎないが、彼は真に受けてしまっているようだ。
「もこっち、やめようよ。智貴くんかわいそうだよ」見かねたゆうちゃんがそうたしなめれば、
「あーうんうん」なおもにやにやする智子が「ごめんごめん、今のはウソ」と訂正して弟の頭に手をぽんぽん乗せる。
「もーっ!」ぷりぷりおこった智貴がその手を払って三年生の下駄箱があるほうへ走っていった。
智くんはいつも素直でかわいいからついからかいたくなってしまう。今のでスネちゃったかもしれないけれど智くんの機嫌をなおすのなんて簡単だ。たまにケンカしちゃってそっぽ向かれるようなことがあっても「ちゅーしてあげよっか?」なんて言ってやればイチコロなんだから。
智くんは世界で一番わたしのことが好きみたいだから本当は結婚してあげたい。だけどわたしたちはキョーダイだからそれは無理だ。でもずっとずっとそばにいてあげることはできるからなにも問題ない。大人になってもふたり一緒に暮らしていたら、それはもう結婚してるのとおんなじだ。
智くんがわたしのことを嫌いになったりしなければきっとそうなれる。かわいい智くんのままでいてくれたらこれからも仲よしでいられる。どこへ行くにも、なにをするのも、いつだってふたり一緒。今までずっとそうしてきたし、これからだってそうなるはずだ。そうじゃないといけない。そうならない未来なんて、いらない。
弟の去ったあとを見やるうち、こんなふうに智子のなかで色んな気持ちがわきおこってきた。
「もこっち、どうしたの?」
「あっ、ちょ、ちょっと花粉で」
だからなのか、智子の目に涙がにじんできて鼻がすんすんひとりでに鳴る。そのことに気づいたゆうちゃんが気づかってくるが、それには及ばないととりつくろう智子。
(ん? ハンカチが……)
ポケットをまさぐる智子があれっと思う。いつも持ち歩いているはずのハンカチがない。どこへやったっけな。落としちゃったかな。いや違うな、誰かに貸してあげたような気がするぞ。誰だっけ、クラスの子じゃなかったような。誰だ、誰だ……。
「クォン! クォン!」
「おおうっ!?」
ランドセルのなかから突然動物の鳴き声らしきものが聞こえてきたので智子がびくっとなる。この鳴き声は智子の携帯電話に設定されている着信音だった。
「んしょ……っと」
ともあれ目もとを手でぬぐった智子が、ランドセルの前ポケットから携帯電話を取り出してディスプレイを確認するが──
「わぁっ!?」
そこにさっきまで自分たちが噂していた幽霊電話の
「ゆゆゆ、ゆーちゃん! これっ、ハナコさんからっ!」
「えっ? えっ?」
うろたえる智子に服をつかまれてあわあわするゆうちゃん。さっきまで考えていたことも吹きとんで、今はただくだんの心霊現象を前に目を白黒させるしかない智子だった。
「智くん来てー! はやくー!」
もうとっくに靴をはきかえているであろう弟に智子が大声で呼びかける。今はひとりでも多く誰かそばにいてほしいのだ。
「ともくーん! ちょっとー!?」
だけども智貴はやってこない。電話を鳴りっぱなしにさせたまま、智子は彼のクラスの下駄箱まで走っていく。しかしそこに智貴はいなかった。もしやどこかで待っているのだろうかと思い、昇降口の大きなガラス扉をあけた智子が外に出て改めて弟を探すが、
(いないっ!? なんで……?)やはりそこにも智貴の姿はない。
「帰っちゃったのかなぁ」あとを追ってきたゆうちゃんが辺りを見回しながらそんなことを言う。
まさかそんな。わたしを置いて先に帰っちゃうなんて。ひょっとするとおこらせてしまったのだろうか。さっきちょっとからかったのがいけなかったのかもと考える智子であったが、こうした弟の行動にいたくショックを受ける。
(くそっ、こいつのせいで……!)
さっきからコンコン鳴きどおしの携帯電話をにらみつける智子。そもそも弟をからかうきっかけになったのはこの幽霊電話だ。わたしが智くんに置いてかれたのはどう考えてもこいつが悪い!
「もしもーし!」
ボタンひと押し、即怒鳴る。腹が立ってきた智子はいかりに任せてハナコからの電話を受けてやった。
『智子ちゃん……』
「うっさいなぁー! もうかけてこないでよ!」
電話の相手はやっぱりあの女の子だ。開口一番こちらの名を呼んできたハナコに智子がまた怒鳴り散らした。
『こっちに来て……こっちに……』
智子の荒々しい態度を気にもとめていないのか、ハナコが例によっておなじ言葉を繰り返す。
「こっちってどっち!? 意味わかんないんだけど!」
来て来てと連呼するわりに、どこそこに来てとは言ってこない。なのでいくらお願いされても智子としてはどうしようもなかった。
『五年一組に来て……』
「えっ?」
「もこっち、ダメ!」
ハナコがそう告げたところで突然邪魔がはいった。ゆうちゃんが智子の携帯電話をつかみ、それを取りあげようとしてきたからだ。
「ちょ、ど、どしたの?」
「幽霊と話したら寿命が縮んじゃうんだよ。おばあちゃんが言ってた」そう説明するゆうちゃんが「だから、ね?」と言って腕の力を強めてくる。
さっき電話の相手が気になることを言ってきたから、智子としてはもう少しそこの辺りをたずねてみたくなった。だけど親友からこうも引きとめられては耳を貸さないわけにはいかない。
「わかったから、ゆうちゃん。ほら、切る切る、切った」
終話ボタンをぴぽぴぽ押して電話を切ってみせる智子。するとゆうちゃんはほっとしたのか、つかんでいたその手を離す。
「クォン! クォン!」
まただ。なんともしつこい幽霊は切ったそばからまた電話をかけてきたらしい。ゆうちゃんが再び電話を取りあげようと身構えたので「だいじょぶ、無視無視」と言って手で制してやる智子。
「クォン! クォン! キャフゥン!」
(んんん……?)
智子がおやっとなる。こうして着信が来ているというのにディスプレイの表示が切りかわらない。本当ならLEDもぺかぺか点滅するはずなのにそれもない。
「キャワワワン! キャフーッ!」
「うわぁっ!」
智子はおどろきのあまり携帯電話を放り投げてしまった。電話から垂れるストラップのぬいぐるみが、まるでいきもののように口をパクパクさせて鳴きわめいていたことに気づいたからだ。
「ゆっ、ゆーちゃん! あれっ、あれっ!」
「……」
うろたえる智子がまたゆうちゃんの服をつかむ。だけどゆうちゃんのほうはさっきと違ってあわあわするでもなく、地面に落ちた携帯電話をじっと見ている。
(わたしのケータイが!)
そうこうしているうち、小さいヘビみたいな──あるいはモールのおもちゃみたいな──ぬいぐるみがにょろにょろ地面を這って昇降口へはいっていった。携帯電話を引きずっているにもかかわらずぬいぐるみの這うスピードはずいぶんと早い。このままだと見失って電話をなくしかねなかったから、智子はおそるおそる追いかけていく。もちろんひとりだけでは怖いのでゆうちゃんと一緒にだ。智子がなにも言わずとも彼女はだまってうしろをついてくる。
ヘビはゆくゆく。昇降口を通過して、地続きになっているC棟の廊下をつき進んでいった。さっき外履きにはきかえた智子だったけれど土足であることも忘れてそのあとを夢中で追う。そうするうち、やがてヘビは廊下の先にある階段をするするのぼっていく。カツンカツンと階段の段差に携帯電話が何度も打ちつけられていまにも壊れてしまいそうだ。
(つかまえなきゃ!)
ランドセルであいつを上からおさえつけて、それからゆうちゃんにハサミを取ってきてもらおう。ストラップの紐を切ってやればあいつからケータイを取り戻せる。いやいや待った。よく考えたらあれはものすごいことだ。キャンキャン鳴いたりしてまるでいきものだ。なんであんなことになっちゃったのかわからないし、ひょっとしたらハナコさんのしわざなのかもしれないけれど、とにかくすごい。大人のひとにも見てもらったほうがいいからにがさないようにしないと。
希心ノ森で智くんとヘビ狩りをやったときみたいだなと、怖いながらもなんだか興奮してきた智子は不思議生物の捕獲に意欲を燃やす。
(よーし、行き止まり……)
二階へとやってきたヘビはそのまま左に折れ、袋小路になっている廊下のほうへと進んでいった。するとヘビがある教室の前で止まり、入り口の戸に鼻先をくっつけてなかへはいりたそうにもぞもぞしだす。
「ゆうちゃん、ちょっとあいつつかまえるからここで見張ってて」
おろしたランドセルを構えつつ、智子がゆうちゃんに
「行っちゃダメ」
「おっ……?」
そうして前に踏みだそうとした智子だったけれど、腕をつかんできたゆうちゃんに引きとめられてしまった。さっき電話を取りあげようとしたときと違い、その力はやけに弱々しい。
「心配ないって。あんなチビ、どうってことないよ」
「ちがうの、そっちに行っちゃダメなの」
「なんで?」
「そっち行ったら、もこっちいなくなっちゃうから」
「うん……?」
ゆうちゃんがよくわからないことを言うので智子はとまどった。見ればゆうちゃんはなんだか泣きそうな顔をしているようだ。
『おいっ黒木、なにしてんだよ! 早く来いよ!』
廊下に突然怒鳴り声が響いたので、自分の名前を呼ばれた智子がはっとなる。
『お願い黒木さん、こっちに来て!』
『そろそろ戻ってきたら? このままじゃわたしたち帰れないんだけど』
と、今度はまた別の声が口々にそんなことを言ってくる。その声はあきらかにヘビのいるほうから聞こえてくるようだった。
(ケータイから……!?)
ちょっとくぐもったような感じのする声は、もしやヘビの引きずるあの携帯電話から発せられているのではないか。謎の声の出どころについて智子がそう見当をつける。
(なんかだいじなこと忘れてるような……)
一体誰なんだろう。これも幽霊のしわざだろうか。でも、なんだかすごく気になる。誰のものとも知れないその呼びかけを受け、智子のなかにモヤモヤした気持ちがわきおこった。
(五年一組……)
廊下の先にある教室が、さっきハナコに指定された場所であることに智子は気づいた。普段近寄ることもない教室だけれどあのなかにハナコがいるのだろうか。であればいましがた聞こえてきた声の主たちも一緒なのかもしれない。そう思った智子は教室に誰がいるのか確認したくなってしまう。
「ゆうちゃん、ほら、だいじょうぶだから」ずっとつかんでくるゆうちゃんの手をぽんぽん叩き、智子がそう説得する。
「本当にいいの?」だけどゆうちゃんはなおも手をはなさず、
「そっちにわたしはいないよ?」と問いかけてきた。
「ど、どういう意味?」
「もう今江先生のクラスじゃなくなるよ。智貴くんだって一緒に帰ってくれなくなるよ。それでもいいの? また
「あ……」
ゆうちゃんの言葉が智子に突き刺さる。それは長いあいだ見ていた悪い夢のはずだ。これまでそう思っていた。思おうとしていた。だけどゆうちゃんが「ひとりぼっち」と口にしたことで、目を背けていた世界が急速に近づいてきたのを智子は感じる。
『みんな智子ちゃんのこと待ってるよ。だから一緒に帰ろう? 智貴くんも、成瀬さんも、みーんなあっちにいるよ。先生もいるから……ほら……』
携帯電話からまた呼びかける声が聞こえてきた。それはハナコのようでもあり、だけどちょっと違う、大人のひとみたいな声だった。
「わたし、行かなきゃ……」自分をつかむゆうちゃんの手を智子がそっと振り払い「ごめんねゆうちゃん。わたし、みんなのリーダーだからさ」
智子はここにきてとてもだいじなことを思いだした。あの教室のなかにいるのはきっと
「じゃあね、ゆうちゃん」
四年生のゆうちゃんにさよならを告げる智子。そんな智子のことをゆうちゃんがなごり惜しそうに見つめる。けれど智子の決意を前にもう引きとめる気がなくなったのか、それ以上なにか言ってくることはなかった。
「チビ、おいで」
引き戸の前でうろうろしていたミニヘビを智子が携帯電話ごと拾い上げる。するとヘビと電話が一瞬光に包まれて長いマフラーのようなものへと変化した。そうしてマフラーがいきもののごとく智子の腕をつたっていき、首にしゅるりと巻きつく。
(人を過去に閉じ込める怪異【学年マキ戻し】か……。ちょっといい夢見れたかも……でも、)
ゆうちゃんはとっくに転校しているし、智くんだって四年生になっている。そして五年生になったわたしの担任はもう今江先生じゃなくなったはずだ。今まで見ていたことはみんな昔のこと。四年生だったころの思い出を都合よくねじまげて、そのなかをさまよっていただけなんだ。だから──
(帰ろう、みんなのところへ)
入り口をあけて智子がそのなかへと足を踏み入れた。途端、淡い光の満ちていた世界から急速に色が失われ、なんとも薄暗い教室が目にはいってきた。それは智子にとって日々の孤独と息苦しさを象徴する忌々しい場所であったが、しかし今だけはその光景が少し違って見えた。智子にとってもはや赤の他人ではないといえる幾人もの見知った顔があったからだ。
「あ、えっと……へへっ」
奥のほうでひとかたまりになっていた者たちからいっせいに視線を向けられ、智子が遠慮がちに手を振ってみせる。思った通り、教室で待っていたのはやはり仲間たちなのであった。彼女らはヒザをついて手を組み、お祈りでもするような格好をしていたが、こぞって立ち上がったみんなが智子へと駆け寄っていく。
「よかったぁ……ホントに……」
「わっ」
心底ほっとした様子の花子が智子のことをぎゅっと抱きしめる。
「もう戻ってこないんじゃないかなって……」花子が声をふるわせそのように言うので、
「あっうん、で、でもみんなが呼んでくれたから……」おかげで戻ってこられたのだと、そう返してやる智子。
あの幽霊電話の正体は花子たちだったようだ。一体どうやったのか、思い出の世界にこもっていた智子に向けて彼女らは携帯電話ごしに連絡してきたのだった。
「ったく、手間かけさせやがってよー」
頭をかくヤンキー娘がやれやれといった様子で智子にもんくを言う。それを聞いた智子が「ヤンキー、おまえもだろ!」と口に出かけたがぐっとこらえてやる。
「黒木さんっ、わたしたちもう友達だからね?」真子が智子の手を取りそんなことを言ってきた。
「へっ? な、なに?」
「今までなんにもしてあげられなくてごめんなさい。でも、もうだいじょうぶだから……」
「あっ、あのー……えと……」
いきなりこのようにせまられては困惑せざるをえない智子。なんだか「トイレの魔子さん」みたいだぞと、ちょっとばかり体が引き気味になる。
「ゆりもそうだよね? 黒木さんと友達」
「あーうん、まあ」
うしろのゆりに真子がそう言って同意を求める。それに対して気のない返事をするゆりであったが、その表情はどことなくやわらいでいるようでもあった。
(なんだこれ)
なんだかよくわからないけれどふたりから友達宣言されてしまった。そうしたやりとりを花子がそばで見守っている。ひょっとしてこの人がなにか言ったのかなと、なんとなくそんなふうに勘ぐってしまう智子。
「あっ、じゃあ行こっか、そろそろ……」
なんとなくむずがゆいものを感じたので、智子がそう言って流れを切りかえる。なんにしても今後のことはまず無事にここを脱出できてからだ。ということで智子が先陣を切って教室をあとにし、そのまま廊下を進もうとする。
「──ッ!」
途端、智子がバックで引き返してきたのでうしろに続こうとしていたみんなが教室へ押しやられてしまう。そうして今度は智子が教室の戸をいきおいよく閉めてしまった。
「なんだよ、なにしてんだよ」眉をひそめるヤンキー娘がたずねるが、
「あっ、あっ、あのアレっ、あのひっ……ひっ……!」智子はどこぞを指さして声をうわずらせるばかり。
「あぁ? なんかいんのか?」
「いっ、いたいたっ、いる……!」
ヤンキー娘の問いかけにやっとそれらしい言葉を返せるようになった智子が続けてこう叫ぶ。
「
つづく