智子は今、人生史上かつてない程に混乱していた。
常日頃何かにつけて混乱気味な所を見せる彼女ではあったが、現在のうろたえぶりは普段のそれとは比較にならない。タイムスリップなどという、智子が知る限りでは創作かオカルトマニアの与太話の中でしか起こらないような四次元的シチュエーションにこうもあからさまな形で遭遇してしまった訳であるからそれも無理ならぬ事ではあったのだが。
(ほんとこれ、どうなっちゃうんだ!? 一体私が何したってんだよ……っ!)
智子の中ではこのようなとびきりのアクシデントに巻き込まれてしまった事に対するはちきれんばかりの恐怖と、何ゆえ自分がこのような目に遭わねばならぬのかといった理不尽への憤りが交互に湧き起こっては嵐のように渦巻いていく。
さてそろそろショックのあまり気絶でもするのではないかという様子の智子であったが、そんな彼女の体にふいに温もりが与えられた。
「おねーちゃん、だいじょうぶ……?」
あからさまに姉の様子がおかしい事を心配した智貴が、智子の体に両手を回してギュッと抱きついてきたのだった。先程から呼吸すらままならず身も心もすっかり平静を失ってしまっていた智子ではあったが、青ざめて著しく体温を失っていた己の体に突如押し付けられた子供特有の高い体温は、混乱の極みにあった智子が思わず我に返ってしまう程に熱く感じられた。
何やら懐かしいその温もりを智子が感じている内、今の今まで乱れに乱れていた呼吸を少しずつ整える余裕が不思議と生まれてくる。瞬時に体の震えが止まるという程でもないのだが、ひとまずはなんとか自力で立っていられるだけの踏ん張りも利くようになってきた。
そうしてしばらく時間に任せて己の中の嵐が過ぎ去るのを待っていた智子であったが、姉に何事かあったのではと先程から心配そうにしている目の前の弟の様子に気が付くと、無理やりにでも落ち着いた風を装ってみせる。
「あっ……うん、な、何でもないよ……」
「ほんとにー?」
ずっと姉に抱きついたままでいる智貴の頭をポンポンと軽く叩いてやった智子は、もう大丈夫だと言わんばかりにその肩をそっと押して弟を引き剥がす。突如として訳の分からぬ状況に放り込まれてしまった智子ではあったが、そこにただ一人自分の良く知る身内が傍らで身を案じてくれている事を感じて多少は安心を覚えたのかもしれない。もっともその身内は普段見知った姿よりかは随分と縮んでしまっていたのであるが。
「ふ──……」
とりあえず突っ立っていてもどうにもならぬと、智子はおもむろにソファーへとよじ登ってそこに腰掛けると、己を落ち着けるように一息ついてみせる。
「わっ、なにっ?」
するとそれを合図と見たのか、智貴が後を追うようにソファーをよじ登って、智子の膝の上へ強引に乗っかりそのまま体重を預けてくる。
「だっこー」
「あ、そ、そう、抱っこね、うん……」
まるでいつもこのようにする事が当たり前だと言わんばかりの弟のそのスキンシップに、ああそういえばそうだったなぁと昔を思い出してしまう智子。彼女としても不安を少しでも紛らわせたかったのか、いつも愛用のぬいぐるみに対してそうしているように、自分とあまり差がない弟の体をギュッと抱きしめる。
(これってもしかして夢なんか? いや、夢であって欲しいが……)
ともあれこの不可思議極まる状況の中で徐々にではあるが冷静さを取り戻しつつあった智子は、ひとまず自身を落ち着かせる為の呪文を唱えてみる事にする。
(これは夢だ、これは夢だ……放っときゃそのうち覚める、はず……)
本心では全くもってこれが夢だとは到底思えなかったが、そう思い込みでもしないと気がどうにかなってしまいそうだった智子は、ひとまずその希望的観測を無理にでも信じてみる事にする。
これがもし普段の己であれば自分の代わりに弟の頬を容赦なくつねって夢かどうか確かめてやる所なのであるが、己の腕の中の幼子にそのような狼藉をする気にはとてもなれない智子は、代わりにそのふっくらとした頬をすりすりと撫でさすってみせる。と、それがくすぐったい智貴はキャッキャッとはしゃいで智子の膝の上で身をよじらせる。
(まあ、夢なら覚めるのはもうちょっと後でもいいか……)
これが夢であるのなら何も取り乱す必要は無いと、幾分か余裕をもって考える智子。自分の膝の上で何が楽しいのかしきりに足で船を漕ぎながらふんふんとご機嫌に鼻歌を歌う智貴を見ている内、この時間をもう少し続けてみても良いかもしれないと、そのような気持ちが智子の中で生まれつつあったのだ。
「ねぇ、智くん」
と、ようやく呼吸も落ち着き体の震えも収まった智子はふいに弟へ呼び掛ける。途端、グイッと身をよじって智子のほうを振り返った智貴が口をポカンと開けたまま姉からの次の言葉を待つ。
「何して遊ぼっか?」
「パズル!」
言うが早いか、智子の問いかけに元気よく答えた智貴はソファーの上からサッと飛び降りると、そのまま部屋の隅の玩具箱に駆け寄って中を漁り出す。
(せっかくだし、こいつと遊んでやるか)
かつての自分は弟と普段どのような遊びに興じていたのか。件のビデオの内容から窺い知れる以外の事は朧げな記憶しか無い智子であったが、夢の中とは言えこうして幼き日の弟と図らずも再会出来た事で当時の暮らしぶりに少しばかり興味が湧いてきた。
と、玩具箱からお目当てのパズルゲームの箱を引っ張り出してきた智貴が、その中身をカーペットの上にひっくり返してゲームの準備を始める。
(うわ~、あったあったこんなの)
智貴が引っ張りだしたのは、幾つものブロックを正しくボードの上へ嵌め込んでいく知育用のパズルであった。対象年齢はやや高めであるのか、ブロックの数も多くその形も若干複雑である。昔はこれを弟と二人して解いていたものだが、現物を目にして古い記憶が呼び起こされた智子は懐かしさのあまり内心で感嘆の声を上げる。
「はい、おねーちゃんからだよ」
「あ、うん」
と、智貴がブロックの一つをおもむろに掴むと、それを智子に差し出す。最初の一手はいつも智子からで、智貴はその後を追随する形で完成させていくのがこのパズルゲームにおける当時の二人の通例だったのだ。
(今にしてみるとクッソつまらん遊びだが、ガキの頃はこんなもんでも楽しんでたっけ)
自分達が成長していく内にいつの間にか家の中から消えてしまったこの手の玩具であるが、それが今またこうして己の前に現れた事にちょっとした感慨を覚えなくもない智子であった。
(あっそうだ……)
ただパズルを解くだけではつまらない。ここはひとつ、とっておきのミラクルを見せてやろうと思い立った智子は、つい先程まで哀れな程に狼狽していた人間とは思えないような不敵な表情で弟に提案してみせる。
「ねえ智くん、ちょっと面白い事見せてあげるよ」
「えっなになに?」
「今から智くんが三十秒数える内に、お姉ちゃんがこのパズルを全部完成させてあげる」
「えーむりだよー」
当時がどうであったかイマイチよく思い出せない智子であったが、智貴の反応からするとどうやら姉弟そろってこのパズルには中々苦戦させられていたのかもしれない。が、それはあくまで子供の頃の話。今の智子からしてみれば所詮幼児向けに過ぎないこのパズルゲームは至極単純なものでしかなかった。
「いやいや、こんなの簡単だって。智くんちゃんと三十秒数えられる?」
「うん、だいじょうぶ……」
「じゃあほら、今から数えていいよ」
「えー? じゃあいーち、にー……」
カウントダウンが始まるや否や、智子は息つく間もなく手当たり次第に次々と正確にブロックをボードに嵌め込んでいく。その様子に目を丸くする智貴は興味津々に姉の挙動を見守りながらも律儀にカウントを続ける。
「にじゅなーな、にじゅはーち……」
「はい出来たっ!!」
智貴が三十を数え終わる前に、智子はそのパズルを見事完成させて勝利のバンザイポーズを取ってみせた。
「すごい! もうできちゃった!」
普段ならたっぷり時間を使って二人掛かりで完成させるはずのパズルを本当に速攻で完成させてしまった姉の勇姿に、興奮気味の賛辞を述べる智貴がパチパチと拍手する。一方の智子はと言えば、やや息を切らせつつも試みが上手くいったとご満悦の様子。
「じゃあもっと他にもお姉ちゃんの凄い所、見せてあげよっか?」
「うん!」
弟から得られた好感触にすっかり気を良くした智子は、まだまだこんなもんじゃあないんだぞと、更に己の有能ぶりをアピールすべく自ら玩具箱を漁り始める。
(なんかガキ向けのもんばっかだな……)
ああでもないこうでもないと手当たり次第に箱から玩具を取り出し脇へ無造作に並べていく智子であったが、当然ながらそれらはいずれも当時の自分達の歳相応に親が買い与えたものが大半で、今の智子の中身高校生なスペックを見せつけられそうな目ぼしいものは中々見当たらない。
(おっ、いいもんあるじゃんか)
ようやくお気に召す品を見つけた様子の智子が手に取ったのは、かつて有名所の老舗メーカーが発売したROMカセット型の携帯ゲーム機であった。既にセットされているゲームROMを確認してみると、どうやらそれはアクションゲームのようである。当時は弟を傍に置いてよく己のプレイする様子を見せてやったものであるが、これなら今の己のゲーマーとしての腕前を遺憾なく見せ付けてやれそうだ。
「智くん、これ、お姉ちゃんが今から一回も死なないで全クリするから見ててね」
「えー? そんなのぜったいむりだよー」
出来るんだなぁこれが、とおもむろに本体の電源を入れてみせた智子は、スタートボタンを連打するとオープニングデモも飛ばして早速ステージ攻略に挑み始めた。実はこのゲームは当時智子が相当にやり込んでいたもので、プレイしなくなって久しい今となっても尚攻略の勘が体に染み付いていたものだから、単純にクリアする以上のプレイを披露してみせる自信があったのだ。
さてそこからはあれよあれよという間に攻略が進んでいく。時にショートカットを駆使し、時にハメ技を駆使し、はたまた時にはバグも利用しつつ、尋常ならざるスピードで攻略を進めていく。これはいわゆるノーミスプレイを兼ねたタイムアタックである。
「おねーちゃんすごい……」
このゲーム最大の難所である中盤ステージのボスを、何をどうやったのか登場開始からたったの十秒で撃沈せしめた智子に、事態を飲み込めない智貴が感嘆の声を漏らす。
「はい、おしまい」
「やったー!」
目まぐるしいプレイに智貴がすっかり翻弄されている間に、とうとうラストステージのボスまでをも数秒程度で撃破してみせた智子はゲームクリアを宣言する。流石にノーダメは無理だったかと、久しぶりにプレイするゲームなだけにまずまずの結果といった所の智子であったが、傍らで固唾を呑んで見守っていた智貴としては姉のプレイは最早神業も良い所であった。
「おねーちゃんってゲームのかみさまみたい! なんでそんなにうまくなったの?」
毎度姉がこのゲームに苦戦する様を傍らで見ていたらしい智貴は、すっかり興奮しきって智子に最大級の尊敬の眼差しを向ける。それはもう、まるで姉が突然スーパーマンにでもなったかのようなはしゃぎぶりなのであった。
「まあ、長年の努力の積み重ねって所かな」
「そうなんだー、おねーちゃんってやっぱりすごいなぁ」
傍目にはほんの幼子でしかない智子がそのような事を言ってみせるのは本来であれば物笑いの種なのであるが、現にこうして大人顔負けの腕前を披露してみせた智子のその言葉には妙な説得力があった。いわんや姉に全幅の信頼を置いている智貴からすれば、姉がそう言うのだからそうに違いないと、素直にその言葉を信じてしきりに感心した様子を見せるのだった。
(そうそう、この顔なんだよなぁ……「あいつ」に一番欠けているものは……)
久方ぶりに経験する弟からのこうした懐かしい反応に充足感を覚える智子ではあったが、それもやがては彼の成長と共に失われてしまうのだと思うと、何やらチクリとした痛みを胸の辺りに感じないでもなかった。
「ねえねえ、こんどはこれやって!」
姉の凄い所をもっともっと見てみたいと、智貴は他のゲームROMをどこからか引っ張り出してきて、期待混じりの眼差しで智子の前に差し出す。
「あっ、そういうのもういいや。お姉ちゃんさっきのでちょっと疲れちゃったからさ、休ませてよ」
「えー……」
ともあれ姉の偉大さを弟へ存分に見せつける事の出来た智子はすっかり気が済んだのか、最早智貴との遊びには興味を失ってしまったようだ。急に付き合いの悪くなった姉の言葉に智貴はどこか残念そうな顔をしながらも駄々をこねる様子は見られない。それはわざとらしく疲れたそぶりを見せている智子を気遣っての事なのであろうか、智貴は姉思いの弟なのであった。
(ふぅ……テレビでも見よ)
智子はテレビ台の上に置かれていたリモコンをさっと手に取ると、ソファーの足元にすとんとあぐらをかいて座り込みおもむろに電源ボタンを押す。つい先程までは見知らぬ家に上がり込んでしまったかのような気味の悪さを感じていた筈の智子であったが、これは夢だと己に言い聞かせる内に早くもその警戒心が薄れてしまったようで、今やここが我が家だと言わんばかりに遠慮無く寛ぐ様子を見せ始めている。
「わくわくノンちゃんやってるかなぁ?」
「え? あ、どうだろ、やってないんじゃないかなー」
と、そんな姉の後を追うように自分も智子の隣に座り込んだ智貴は、姉の袖をクイクイと引っ張って己の見たい番組をリクエストしてみせる。タイトルを聞いてもどんな番組だったかサッパリ思い出せない智子ではあったが、当時の自分達がもっぱら見ていたチャンネルと言えばいつも決まっていたので適当に相槌を打ちながらもそちらへと切り替えてやる。
『次のニュースです。昨日、千葉市○○小学校に配属された教育実習生の男が、児童らに対し自身の局部を露出する目的で「ウインナー見せたる」などと迫ったとして……』
智子が切り替えた先のチャンネルでは何やらどこかで聞いたような事件を読み上げるニュースキャスターが映し出される。
「あっ、なんかニュースとかしかやってないみたいだね」
「そっかー」
どうも今は弟がお目当てとしている番組はおろか子供向け番組自体が放送されていない時間帯であるようだった。
他にも適当にチャンネルを切り替えてみる智子であったが、いずれも幼い子供の興味を惹くような番組はやってないようだ。とりあえず適当なチャンネルに固定した智子は、流されている番組をなんとはなしに視聴し始める。
「……」
テレビを付けてはみたものの、大して興味を惹かれるような内容でもなかったからか、智子は心ここにあらずといった様子で画面を見つめたまま口をぽけーっと開ける。傍らの智貴もまた、姉に寄り添い無言でテレビを見つめ続けていた。
「…………」
特にする事も無い。何か考えるような事も無い。傍らの弟の体温を感じながらひたすらボンヤリとしている内に何やら時間の感覚も曖昧になってきた頃、智子は体がフワフワと軽くなったような錯覚を覚え始めた。
何かに追い立てられるような事情も特に無かった幼少期はこんな気分に浸れる瞬間が度々あった筈なのだが、いつしかすっかり頭の中がワケの判らぬ喧騒で包まれるようになってしまった智子にとっては、最早それはとうの昔に忘れられて久しくなってしまった心地良い静けさなのであった。
そうしてしばしの時間が経った頃、智子は己の肩を揺する小さな手の感触にハッと我に返る。見ればそこにはぐずる智貴の目をこする姿があった。
「おねーちゃん、ねむいよぉ」
「へ? あ、うん……」
どうも先程までの刺激の無いのんびりとしたひとときはまだほんの小さな子供である智貴に眠気を催させてしまったようで、智子にそのお世話をして欲しいと訴えているのであった。そんな弟の様子を見た智子はつい面倒臭さが先立ち「眠いんならその辺で寝転がっときゃいいだろ」などと思ってしまったのだが、自身の幼き愛弟をぞんざいに扱おうとするそのあんまりな思考にかぶりを振る。
「あ、じゃあお昼寝しよっか?」
特に見てもいなかったテレビをさっさと消してすっくと立ち上がった智子は、眠気で体に力が入らないでいる様子の弟に手を差し出し問い掛ける。その言葉にコクンと頷いた智貴は、そのまま姉の手を取り引き起こして貰う。
(私はこいつのお姉ちゃんなんだもんな……ちゃんとしてやらないと)
己がこの幼子の姉である事を自覚し始めた智子は、こんな時にいつもどうしてあげていただろうかと、古い記憶の中にある当時の行動を思い出そうと頑張る。ずっと昔の話ではあるが、かつての智子はこのように昼寝をしたがる弟を寝かしつけてやる役目をいつも自ら買って出るような面倒見の良い姉であったのだ。
そうして寝惚け眼の智貴のたどたどしい歩調に合わせながら、手を繋いだ姉弟は連れ立って部屋を後にしたのだった。
*
智貴が用を足し終えたのを確認した智子は、姉のなすがままになっている弟に下着とズボンを履かせてやる。昼寝の途中で催してしまわないよう、弟を寝かしつける前にはこうしてトイレに連れていってやるのが当時のお世話ルールであった事を思い出した智子は早速それを実践していた。
(シモの世話まで姉にやらせるとは、ホンマ甘ったれな弟やで)
最後の仕上げにトイレの水を流しつつ、こんな事まで姉任せにしたがる弟の様子に少々呆れを感じてしまう智子であった。どうもこの頃の智貴は随分と周りへの依存心が強かったようで、本来なら自分で出来るような事まで身の回りの年長者、それもどちらかと言えば主に智子から世話をして貰う事を期待しているような所があった。
あるいはそれは、彼が智子と触れ合う機会を求めて意図的にそのような振舞いを姉の前でしていたからなのだろうか。
ともあれ智子は弟の背を押し、当時の二人の寝室となっていた子供部屋を目指して階段へと向かう。ここで本来ならトイレ後の手洗いを智貴にしっかりやらせるのが弟への躾も兼ねた当時の智子流ではあったのだが、何かに付けて面倒臭がりになってしまった今の智子は「ま、ションベンだけだし別にいいだろ」と考えてトイレ後の清潔習慣をスルーしてしまうのであった。
むしろ弟が用を足すのを存分に手伝ってあげた智子の方こそ手を清めておかねば不潔なのであったが、そこに思い至る気配は残念ながら見受けられない。智貴がぼんやり顔でもの言いたげに手洗い場のほうをちらりと見やったのは、いつもと違うこの流れに彼なりの違和感を覚えたからなのかもしれない。
「じゃあお姉ちゃんが押してあげるから、ゆっくり上がっていこうね」
「うん……」
小さな子供にとってまだまだ階段は高くて怖い所であるのか、幼い頃の智貴を二階に上がらせる時は決まって母や自分が後ろから彼を支えてあげていた事を思い出した智子は、四つんばいになった弟の小さなお尻に手を添えてやると、彼が眠気をこらえつつよちよち歩きで階段を一段ずつ上がっていくのを手伝ってやる。
智子自身が小さかった頃は特段誰の手を借りる事もせず小さなその体で身軽に階段を駆け上がってみせていたものだが、今の智貴のようになまじ頼ってしまいたくなる相手が常に身近にいる環境ではこのようになってしまうものなのかもしれない。
(昔はこんな風に何でもかんでもこいつの面倒見てやってたんだよな、私って……)
かつて子供部屋で智貴と寝起きを共にしていた智子は必然的に彼の面倒を見る機会も多かったのであるが、当時としては可愛い弟の世話をしてやる事はちっとも苦ではなかったのだ。
(こいつも何かあればお姉ちゃん、お姉ちゃんってすぐ頼ってきてたし)
そんな面倒見の良い姉に甘えたい一心で、弟である智貴も必要以上に頼りきってしまうというのが当時のこの姉弟の関係なのかもしれなかった。
(いつの間にあんな風になっちゃったんだろーなー……)
そのようにして蜜月を過ごしていた二人にも、やがて時が経つうち避け難い変化が訪れる。
成長するにつれて智貴は姉からの手助けを嫌がるようになり、何事にも自力で挑戦しようとする心構えを身に付けていく。それは姉への依存から脱しようとする自立心の芽生えであってむしろ至極健全な兆候ではあったのだが、彼の変化はそれだけに留まらなかった。
智貴なりに思う所があったのか、更に時が経つと今度は姉との付き合い自体に対しても遠慮がちになっていったものだから、かつては何をするにも二人一緒が当たり前であった姉弟の関係はここに来て大きく変わり始める。姉に対する人懐っこさがすっかり鳴りを潜めてしまった智貴はもっぱら友人との付き合いを優先するようになり、たまに智子が遊びに誘ってみせても消極的な態度を見せるか、あるいはその誘いを突っぱねてしまうようになったのだ。こうした弟の態度に癇癪持ちのワガママな智子が黙っているはずもなく、それまで殆どしてこなかったはずの姉弟喧嘩が度々起きるようになっていた。
そうしていつしか智貴は超然としながらもどこか陰のある寡黙な少年へと成長していった。それ故に智子の方から彼に話題を振ってみせても、「ああ」だの「おお」だのと愛想に欠ける素っ気無い返事で済ませるばかりになった訳なのであるが、このような智貴の態度は智子からしてみるとまるで弟が自分との会話を、ひいては関わりを持つ事自体を疎ましく思っているかのように映ってしまったのだった。二人の仲直りに効果抜群だったはずの
それが智子には悔しかった。二人の心地良い関係がいつまでも続いていくのだという考えを幼い頃からずっと根拠も無しに信じきっていた彼女は、変わっていく弟に自分一人だけが置いていかれたように感じ始める。自身の言動を省みず、相手の事情を慮ろうともしない智子にとっては己こそが哀れな被害者なのであった。
そのような苛立ちが弟に対する智子の態度に刺々しさを生むようになっていったのは必然であったか。二人が中学へ上がる頃にもなると、たまに珍しくテレビゲームで対戦でもしてみれば躍起になって弟を叩きのめした挙句にあからさまな嘲笑を浴びせてみせたり、はたまた思春期に入った彼の少し気取ったような言葉遣いをこれみよがしにあげつらっては馬鹿にしてみせる等、最早かつての弟思いな優しい姉としての面影は少なくとも表面的にはすっかり見られなくなってしまったのであった。
智子と智貴のこうした関係の変化は単に弟側の成長が理由という訳でもなく、むしろ人格に問題ありと言えなくもない歪な成長を遂げてしまった姉の方にこそ原因があったのだが、それを当の智子自身が認める筈もなく、かつての蜜月が嘘のように二人の関係が冷めきってしまった全責任は弟にあると信じてやまないのであった。
(あっ、なんか涙出そう)
気がつけばとめどもなく弟の事を考えてしまっていた智子であったが、深みに嵌った思考を続けていく内に胸の奥から言いようのない感覚が込み上げてきて唇を震わせてしまったものだから、思わず口をきゅっとヘの字に結んでしまう。
「おねーちゃん、だいじょうぶ?」
自分の体を支える智子の手を通してその心境を感じ取ってしまったのか、ふいに歩みを止めた智貴から姉を心配する言葉が掛けられる。
「……ううん、何でもないよ。ほら、早く行こ?」
このような優しい気遣いもいつしか自分に向けられなくなってしまう日が来るのだと思うと余計に胸が苦しくなってしまう智子は、とっとと弟を寝かしつけてやろうと彼のお尻をグイグイ押してやるのだった。
つづく