俺は車から出てリモコンキーでドアをロックし、アパートのエントランスに入ってエレベーターのボタンを押した。
とろくさいエレベーターだが、携帯覗いて暇を潰していればすぐに降りてくる。
携帯を覗きこんだままエレベーターに乗り込む。
無作法だが、どうせ俺以外は誰も乗っていない。
エレベーターが登りはじめたので、携帯を胸ポケットに仕舞いネクタイを緩めて深呼吸をする。
今日は後半から微妙に胸が締め付けられるような感じがして、少々息苦しい。
特に疲れ過ぎるような労働はしていないはずだが、そう思っているのは俺の脳だけとか?
まあ良い、時間も時間だし、今日は帰って寝るだけだ。
ポーンという音がして、エレベーターのドアが開く。
降りると同時に《ドアが閉まります》という音声案内とともにドアが閉まった。
廊下を歩いて自分の部屋の前まで来たのでドアを開け、部屋に入ってスーツをぱぱっと脱いでハンガーに掛け、シャツは洗濯かごへ。
明日も仕事だが、どうしよう。凄くだるい。
シャワーは明日浴びよう。
今日この時間に寝れば、明日は少々早く目を覚ます事が出来る筈。
そう考えて、俺はベッドへと潜り込んだ。
明日も良い日でありますように。
「殿下ー!」
俺は走る。
俺が殿下と呼んだ、そのちっこい人影を追いながら必死で走る。
「あっはっはっはっは!」
俺が必死で追いかけているのが面白いらしく、ちっこい人影は俺から逃げつつ、しかし自分よりも足の遅い俺から離れ過ぎないようにしている。
こんな天然ドSとか相手にしたくない。帰りたい。そして寝たい。
…が、何せ追いかけている相手は、俺の乳兄弟である。
乳兄弟。
つまり、うちのオカンは、俺と追いかけっこをしていると勘違いしているドチビの乳母って地位にある。
俺は乳兄弟、オカンはオカンで乳母ではなく実母。
そして乳母って言うのは…他の国は知らんけどこの国においては、子供が生まれたばかりで母乳が出る下位の貴族の女性が、上位の貴族の子供に母乳を与えたり世話をする役目の事である。
俺はその息子で、この国のしきたりでは成人までは兄弟同然に育てられるという建前の元、補佐役をやらされる。
餓鬼に補佐役とか、頭おかしいこの国の制度。
俺じゃなかったら、どーなってんだろ、これ?
「でんくわぁぁぁぁぁー!?」
まあ兎に角、俺は俺から逃げる俺よりもやたらと運動神経の良いクソチビを日々追いかける毎日なのである。
ああ…気が遠くなってきた。
俺は本が読みたいんだ。俺は知的欲求の僕なのだ。走り回ることは好きじゃないんだ。
頼む、誰か、この小猿をどうにかしてくれ…ゲフゥ。
駄目だ、もう酸素が持たない。足がもつれ…。
「わっ!?ウィレムーっ!?」
俺から数10mは離れていた筈の人影が、死にそうな俺の顔を見て急激に反転。
足をもつれさせてコケかけた俺を抱き留めるという、離れ業を見せる。
そして俺は殿下の腕の中で子供特有の匂いに、俺は包まれた。
散々チビ呼ばわりした相手に抱き留められたりしている時点というか、乳兄弟という時点でわかるかもしれないが、俺もまだまだチビなガキである。
中身はこいつとは違うと言いたいが、世間的には俺はどう見てもガキなのだ。
「ウィレム、何で息も絶え絶えなの?」
「で、殿下が逃げ続けるからですよ…。」
補佐役である俺が、補佐すべき相手に助けてもらっているようではいけない。
オカンの立場も脅かしかねないので、息を整え次第腕の中から離れた。
出来うる限りの範囲内で、俺は良く出来た息子でありたいのだ。
「もー、ウィレムは体力無いなぁ。
僕の補佐役なんでしょ?しっかりしてよ。」
「御尤も…。」
つーか、殿下が逃げなきゃノープロブレムなんですがね、このクソチビめが!
…とか言う元気も度胸も無いので、目の前の殿下の意見に首肯しておく。
この殿下、名前はカミル。
蒼銀色の髪と、紫色の瞳の中性的な容姿…って、まあ当たり前か。まだ子供だし、色っぽかったら怖い。
そしてなんとまあ恐れ多い事に直系王族なので、家名は基本的に名乗らない。
ホーエン何たらとか言うらしいが、別に覚えて無くても呼ばないので忘れた。
んで、俺はウィレム。ウィレム・ファン・ヴァッセナール。
一応、パッとしないながらも伯爵公子であり、このチビ殿下の補佐役をやらされている以外、表立ってはごく平凡な貴族のガキだ。
人と違う所があるとすれば、他の世界から生まれ変わりって奴を経験しているという点か。
とは言え、トラックに轢かれたわけでもなければ、夢に神様が現れたわけでもない。
日本という国で平凡なサラリーマンをやっていた俺だったが、ある日仕事から帰ってきて、疲れていたので風呂にも入らずに寝て起きたら年齢一桁のガキだった。
正確に言うと、それ以前の子供としての記憶もあるので、どうやら俺の人格を再現出来る脳が整うまで俺の人格がきちんと表に出てこなかった結果のようだ。
意識朦朧という奴に近かったのだろう。
何で死んだのかは先述した通りさっぱりだというか、あれ自体が胡蝶の夢かなんかだったのかしらという気すらする。
たぶん突発性の心不全かなんかだろう。大家さんには悪い事しちまった気がする。
後は俺がこの世に生まれ出た意味だろうか?
ただの偶然だろう。
だいたい転生する意味なんてもんがあるなら、俺の寝ている間に神様か悪魔か渚の波乗り大精霊か何かから一言くらい挨拶と手土産くらいはあっても良いのに、それも無い。
渚の波乗り大精霊って何かって?俺も知らない、ただのノリで言っただけだ。
それはさておき、誰かがこの状況を夢に出てきて説明してくれるものなら説明して欲しいよ、本気で。
そして何か特殊能力ください。この目の前のクソガキに負けない程度の体力とか、目からビームとか。
「…で?」
「ん?」
俺の問いかけに、殿下は小動物めいた仕草で首を傾げる。
黙ってりゃ人形みたいで可愛いのになぁ、この子。
「勉強の時間だと呼びに来た俺から、散々逃げ回った理由を詳しく。」
「追い掛けっこ、楽しいじゃない?」
「そりゃ、殿下は楽しかったでしょうが…。」
先程も言ったが、俺は知的欲求の僕であって体力は無い。
追いかけっこ楽しくないです。
つか、先生達から色々な知識を吸収する方が好きです。
「た、楽しくないの、ウィレム?」
何せ、この世界は剣と魔法の世界なのだ。
剣はどうでもいいとして、魔法が使えるのである。
素質がある程度あるのが前提だが、勉強すれば使える技能として存在するのである。
古代の魔法帝国が残した技術らしいが、よくやったと言いたい。
ちなみにその古代の魔法帝国、内戦で世界の半分以上を焦土に変えた挙句、崩壊するという傍迷惑極まりない滅び方をしたらしいが…その時代に生きていなかったので、まあ良し、グッドだ。
世界とか言いつつも、この大陸に限っての話だろうし。
このくらいの文明レベルの世界という定義であれば、恐らくはそんなものだろう。
「た、楽しくなかったんだ…。」
…とか、考え事をしている間に殿下が泣きそうになっているんですがっ!?
ちなみに殿下は現在9歳、俺はちょっと早くて現在10歳。
そろそろマセても良い頃なんだがなぁ…殿下。
「い、いえいえいえ、それなりに楽しかったですよ、苦しかったけど。」
「よ、よかったぁ…。」
ホッとしたように笑顔になる殿下。
守りたい、この笑顔。
守りたいというか、笑顔でニコニコ大人しくしていてくれたら、俺すげー助かります。
「まあそれとこれとは別でして、殿下。
お勉強、しましょうか?」
「お勉強、楽しくない…。」
まあこんな感じで、部屋でじっと本を読んだり勉強したりするよりも、体動かすのが大好きというこの殿下。
剣や槍の練習ともなると喜んで参加するのだけれども、座学だと途端にこんな感じ。
ああちなみに、俺は真逆です、ハイ。
殿下は俺と組み打ちやるのすげー楽しみにしてるけど、俺が一方的にボコボコニされるしなぁ…。
転生してもアレよ。数十年分の人生が上乗せされるんで同年代よりは賢くなれるけど、そんだけですからー!
そんなに運動しないのに、運動が得意になるわきゃありませんからー!
知識チートしたくても、世間様の目が怖くてこの年じゃなんも出来ねえし。
そもそも下支えする技術が無いんで、そっから作らなきゃいけないだろうし。
「はいはい、わからない所があったら手伝いますから、頑張りましょうね~。」
「横暴だー!
無理やり勉強させるとか、僕を誰だと心得るかー!?」
「王族ですね。
王族だから、泣いたり笑ったり出来なくなるくらい徹底的に勉強すべきですね。
ハイ論破。」
「鬼ー!悪魔ー!」
そう言いながら、殿下はジタバタ抵抗しつつ俺に引きずられていく。
勉強というと殿下は抵抗するけど、飽く迄もコレはレクリエーションみたいなもので、本気で逃げてはいない。
まあ本気で逃げられたら俺なんか追いつけないし、そもそもジタバタ抵抗なんかせずに本気で殴ってくるだろうから、引きずるのなんか無理だし。
「勉強、終わったー疲れたー。」
数時間後、勉強の時間が終わって殿下はグッタリしていた。
今日やったのは国史と数学で、俺はどちらともそれなりに得意だ。
得意だというか、殿下に負ける訳にはいかない。
何せこちらは魂の年齢に関しては十数年分大人なのだから。
あと基本クソガキでいらっしゃるうちの殿下に負けるというのは、年齢抜きでプライドに関わる。
まあ今のところは全く追いつかれる兆しすら無しだが、気を抜くと追いぬかれるものだからな、勉強ってのは。
「はい、殿下。今しがた井戸から汲んで来た水です。
毒見済みです。」
毒見も乳兄弟である俺の大事な役目。
うちの国…すっかり国名を伝え忘れていたけどフリスラン王国と言うんだが、この国では今のところ継承権第3位だしね、殿下。
邪魔だと思っている人はわんさかいるんで、毒見は避けて通れない。
毒見役の人は本来別に王宮から派遣されてきた専門の人が居るのだけれども、食事時で無い時には居ない。
だから、俺が前もって毒見することで簡易的に対応している。
「ありがとう。」
そう言って俺から水差しとカップを受け取ると、ゴクゴクと飲む。
当家領は水が名産なんだが…ああ、言い忘れていた。
ここはヴァッセナール伯爵領にある俺ン家で、俺は勉強が終わった後グッタリしている殿下をちょっと待たせて井戸で水差しに水を入れてきたというわけだ。
何で殿下が俺ン家に居るかといえば、この家で一緒に暮らしているからである。
基本的に王太子以外の王の子供は、1年に数回は王都に戻って親子勢揃いするけど、基本はこうやって親元を離されて養育者を兼ねる乳母の家で乳兄弟と一緒に育つ風習になっている。
王族を分散させる事で、王家が一気に絶えるのを防いでいるらしい。
「ぷはぁ…この一杯がたまらないね。」
「何をオッサンみたいな事を言っておりますか、殿下。」
「こんなに可愛い僕に向かって、オッサンとは失礼だなウィレム?」
「はいはい可愛い、人形みたいな愛らしさですよ殿下。」
周りから持て囃されるんで、若干己の容姿に対して自信持ち過ぎなように感じるけど、まあ俺が慣れ過ぎてるだけで可愛いのは間違いない殿下。
とは言え俺は慣れてる…ああ言い忘れていたが、殿下は女の子だ。
カミルとか女みたいな名前だろ?女なんだぜ、実際。
「えへへー、素っ気無く言おうとするなんて、素直じゃないなウィレム?」
「情熱を込めて愛を囁くような歳じゃないですしね。」
俺はロリコンではないので可愛さに慣れてしまえば、目の前にいる黙っていれば人形みたいな生き物も、基本的にただの手間のかかるクソガキ様である。
客観的に見て可愛いんだけどね。妹っつーか弟のノリだし、この殿下。
これで年頃になれば、きっちり女らしくなっていくのかねぇ?お兄さんは心配ですよ、ちょっと。
「フフン、可愛い僕を初恋の人にしても良いのだよ、ウィレム?」
「お断りします。
初恋ならもっと年上で、美人の女性がいいです。」
いやまあ、中の人的に今更初恋もヘッタクレも無いけど、故に目の前の殿下に男女の愛情を感じるというのはただの犯罪だしね。
「ふーんだ、将来すっごい美人になって求愛してきた所を袖に振ってやるもんね。」
「おうおう、そりゃ結構なことで。
期待せずに、精々期待してますよ。」
「期待してるのか期待していないのかわかんないよ、その言い回し。」
ま、美人にはなるだろう。
どのみち王族って時点で何処かの国へ嫁ぐのだろうから、恋愛とか無理だし。
こんな日々が何日も何日も、取り敢えず決まっている終わりの日までは続くだろうと思っていた。
だがしかし、終わりの日はかなり早めに来た。
何せ先程のやり取りが、俺と殿下が俺の家で過ごした最後の日だったのだ。
文明レベルが剣と魔法の中世ファンタジー世界であるこの世界は、情報伝達速度も中世並。
ついでに言うと俺も殿下も子供で、中央の生臭い話からは遠ざけられていた。
…ああ、いやまあ俺は知ろうという努力はしていたんだが、新聞もない世界で情報伝達手段といえば噂と手紙しか無い。
オカン…いや、ユリアーナ・ファン・ヴァッセナール伯爵夫人は、かなり賢しらなガキである俺がこれ以上子供っぽく無くなるのを嫌がっていたので、中央からの情報は使用人にも言い含めて一切カットしていたらしい。
そんなこんなで何が起こっているのか、俺も殿下もさっぱり知らなかった。
問題は、殿下なのだ。
王位継承権第1位になってしまったのである。
つまり、王太子になってしまったのだ。
俺達がなーんも知らない間に。
思い返すたびに、オカンも一言くらい言ってくれても良かったと思う。
…本当に。
どうも、灰色の人と申します。
Arcadiaでは灰色と名乗っていて、こちらでもそう名乗ろうと思いましたが、他に既に居たらしくて出来ませんでした。
本当はArcadiaで書いているゼロ魔のSSの続きを書いていたのですが、何時の間にかオリジナルが出来ていたという。
どうしてこうなった…。
物凄く久々にオリジナル書いたらちょっとスッキリしたかも。
勿論続けます。
更新は凄くゆっくりになるとは思いますが。
さて、ケティ書くのに戻るか。