ぎしり、と足元が音を鳴らす。わずかに重心を変えただけだったが、それに対して床は音を立てた。
少しだけ嘆息し、自分は周囲を見渡した。広々とした廊下、時代の積み重ねを感じる建築。広々としたそこにある大きな古時計。この一辺を切り取って見ても、この家が庶民が住まうそれではないことくらい容易に理解することが出来た。
久我峰の家は大きい。
少なくとも自分は、そう認識している。この戦時において大きな家を持ち、使用人を数多く雇い、自分のような人間も受け入れてくれているのだから。
自分はその家の廊下で、動きがあるのを待っている。客室の大部屋。会食をする時につかうそこで、主と客人が話している。そんな扉の手前、右側に立つ。
対面には女中が一人。自分よりは年上だろう彼女は、感情を感じさせない無機質な表情をしている。特に自分と彼女との間に会話はなく、ただただ、待つばかり。
ぎぃ、と扉の開く音。
廊下で待機していた自分の目の前の、両扉が開かれる。中からは
そんな彼は自分とすれ違い様、どこか楽しそうに片目を閉じた。
男は自分に何も言わず、歩き出した。僕と対面に居た女中が、彼を入り口まで送りに行く。自分は入り口で男が見えなくなるまで頭を下げていた。
「……入ってくれます?」
数刻。女中はまだ帰ってきて居ないくらいの時間が経った後。閉じられた扉の向こうから、自分の主の声が聞こえた。それに従い扉を開ける。
きらびやかな照明群に反して、部屋は落ち着いた色合いをしている。長椅子二つに、長
色で例えるのなら、空の青。そして深い海の蒼。
二色に彩られた
こちらの姿を見て、ふと気の抜けた笑みを浮かべるのはご愛嬌。
そんな彼女に、自分は「笑顔を貼り付けた」。扉を閉めてから、彼女に言った。
「また随分と、お疲れのようですね」
「疲れますわ。流石に
お父様や
眉間の辺りを押さえて、春花様は疲れたように微笑んだ。どきり、と。ふわりとした微笑に、自分の脈拍が速くなるのを感じる。だがそれを出すこともなく、いつものように、彼女に自分は微笑を向けてた。
春花様は両手を上げて、足を伸ばす。んん、と声が漏れる。身体を伸ばしているその仕草からは、どこか淑女らしからぬ活動的
もっとも本人に言わせれば、家系からして常識とお友達ではないといったところか。
「確かに、お姉様やお父様から、直々に教会より依頼を賜れと言われた時点で面倒な予感はしていましたわ?」
「お座りになって?」と彼女に椅子を勧められたので、それに従い対面の
……まぁいつものことだ、と内心では肩をすくめ、しかし表面上は笑顔のまま座席に座った。
「――それがまさか『聖杯戦争』などとは。
私も運がないですわね。代行者が
「せいは……?」
「あら、ご存知なくって? 前に話したはずですよ?」
申し訳在りません、と自分は謝罪する。彼女は仕方ないと微笑んだ。
「まぁ、貴方ですから仕方ありませんわね。ご病気、そう簡単に直るものでもないでしょうし」
「お手数お掛け致します」
「いえ、結構ですわよ? 不便ではありますが、私、おしゃべり好きですし。
本来なら聖杯戦争は遠坂のように、外様の家が関わる行事なのですが――」
――聖杯。
聖杯とは、万物の願いを叶える願望機。規格外の魔術礼装。
六十年に一度、我が国の冬木と呼ばれる土地にて召喚される。
春花様の口から語られた時点で、自分は記憶の欠落に気づいた。
「……あの、申し訳ございません春花様。魔術?」
「……あー、仕方ありませんわね。まさか前提となる知識から抜け落ちて居るとは。
貴方、そのうち私の顔も忘れてしまうのではなくって?」
流石にそれはないと思いたい。
仕方ありませんわ、と頭を振り、彼女は立ち上がった。
「詳細は追々、改めて教えて差し上げます。
ですから、―― 一緒に帝都に行ってくださるかしら?
彼女の言葉に、自分は頷いた。
※
準備するものがあると言い、春花様は数人の女中を引きつれて何処かへと向かった。大方私室か倉庫かといったところだ。
自分はそんな彼女を見送った後、部屋の掃除をしながら先ほどの言葉に思考をめぐらせていた。
帝都へ? 一体何の用事があるというのだろうか。
我が大日本帝国、中心地たるかの都は今や修羅の国であると伺いはしていた。この世の地獄が一つに違いないと春花様は嗜虐的に微笑みながら、自分を
春花様は彼女の御姉様、御兄様、ご当主と違い、使用人に無理をあまりさせない方だ。煽りに煽って恐怖心を増大させた自分に、そんなことを要求するというのは――。
「――ぶすり」
思っていると、背中に何かが付きたてられるような感触。無感情なその声に、自分は背後を振り返った。
そこに居たのは、客人を送りに行った女中だ。扉の前で対面に待機していた彼女。目は半眼で女中らしからぬ愛想の無さ。後ろにまとめられた髪が揺れる。目鼻立ちは愛らしく、実年齢より下に見える。
ん、実年齢? おかしいな。彼女のことなんて何も知らないはずなのに。
自分の背中から指を離して、彼女は目を細める。
「さっき聞いた。らんま、お嬢様と旅行」
そんな彼女の口調は、何故かどこか攻め立てるような色を帯びていた。
「えっと、一体何の……? どうされました?」
「……? らんま、ひょっとして私のこと、忘れた?」
そう言いながら、彼女はわずかに無表情を困惑させる。自分の身体を抱きしめるようにして、そしてこちらの旨に身体を預けてきた。狼狽する。何がどうした。
「……あんなに、愛し合ったのに」
こちらの動揺など完全に無視し、彼女はすすり泣くように肩を震わせる。何の話だ。自分に身に覚えはない。そう叫んで突き放すことなど簡単に出来たが、しかしそう簡単に出来ない事情も自分にはあった。ひょっとしたらだが、本当に何か関係があった可能性も、全く無い訳では無いのだ。
なにせ、自分はー―。
「えっと……」
「……ふふ、冗談」
顔を上げる、腕の中の女中。その表情は、無表情ながらにんまりとしていた。途端、からかわれていたことに気付き、自分は盛大なため息をついた。
自分から離れると、彼女は「でも怒ってはいる」と言った。
「らんまが当主様に拾われてから、この話をするの、これで一○○回は超える」
「……申し訳ございません」
「ん。仕方ないのはわかるけど、お嬢様を忘れないんだから私も忘れないで欲しい」
くすくすと笑う彼女の名前がどうにも思い出せないが、でもわずかに、確かにこんなやりとりには「覚えがある」ような記憶が、あるような気がした。
「めいや。忘れないこと」
そうだ思いだした。
どうしてそんな相手のことを記憶していないのかと、普通の人だったら自分をそう問い詰めるような、そんな相手だ。
ただ彼女は、自分の顔を心配そうに見ていた。
「らんま、大丈夫? 病気、悪くなってない?」
「……たぶん、大丈夫かと。仕事も忘れてはいないですし、春花様のことも覚えていますし」
「御当主様の顔、思いだせる?」
「……」
お、御姉様や御兄様は大丈夫だし、そこは補助をお願いいたします。
なさけない自分の懇願に、彼女は「仕方ないけどわかった」と言った。
「私、あんまり知らないんだけど。らんまの病気、どういうもの?」
頭を傾げられ、自分は苦笑いを浮かべた。
「えっと……、何だったっけ。定期的に、記憶が抜け落ちる、というようなものだったかと思います。病名とか覚えていないのですが」
「抜け落ちる記憶に法則性とか?」
「ないそうです。本当に周期も決まって無くて。言葉とか、仕事とかは抜けないそうなんですけど、人間とか、思い出とか、そういう記憶はすっぽりなんだそうで。条件が揃えば、思いだせるみたいなんですが」
そしてその症状のせいで、自分の過去が「ほとんど」思い出せない。
自分にある思い出は、ここ一年近くのものが中心になっている。それより古い記憶は、春花様と初めて出会った時のものだけだ。
「元々、孤児だったか……? 御当主から人手が欲しいと拾われるまでの記憶もなかったそうで。何をやっても、人間とか覚えて居られず、大変だったそうです」
「そんな事情の相手、よく雇った」
「えっと……? 確か、春花様がお気に召されたからだったかと」
「ふーん。めいやのことは忘れても、お嬢様のことは覚えている?」
「何故か」
ふーん、と。彼女は無表情ながら、その目を細めた。
めいやは自分の顔を上目遣いに見上げて、どこか不機嫌そうだ。
「あ、あの……、何か?」
困惑する自分に、めいやは言った。
「お嬢様と二人きりだからって、
そんなことしたら首が本当に飛びますよと、冷や汗を流しながら自分は慌てて答えた。
登場人物:
蘭磨・・・十七歳。脳の病気か記憶が度々欠落する。久我峰の家に引き取られ、使用人として育てられた。病気以外は一般人(?)。
久我峰春花・・・蘭磨のご主人様。おきゃん。幼少の頃、彼女が蘭磨を気に入ったことが引き取られる切っ掛け。
冥夜(めいや)・・・蘭磨の先輩。翡翠ちゃんタイプだけど別に重い過去とかはない。
教会の魔術師・・・春花にある依頼をしに来た魔術師。本来ならその任は第三次聖杯戦争監督者の某言峰の仕事のはずだが、魔人アーチャーにより重症を負わされてしまっている。