IS-サクラサクラ-   作:王子の犬

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転生物に初挑戦しました。うまく書けているかどうかわかりませんがよろしくお願い致します。


菊水二号作戦
菊水二号作戦(一) 遺書


零式艦上戦闘機六二型(A6M7)

発動機空冷一一三〇馬力

全備重量三一五五キロ

最大速度時速五四二.六キロ(高度六四〇〇メートル時)

武装

 ・九九式二号二〇ミリ機銃 二挺

 ・三式一三.二ミリ機銃 三挺

 ・二五〇キロ爆弾 一発

乗員一名

 

 

 遺書

 謹啓 春日の候、兄上様におかれましては、相変わらず御壮健にてお暮らしのことと拝察致します。私も九州の地で元気に軍務に精励しております。

 この度、攻撃命令を拝して、出撃することになりました。日本男子としての本懐これに過ぐるものは御座いません。

 さほど孝行もせず、いつも私のわがままを許してくださった兄上様、義姉上様に御礼申し上げます。

 私の給金を貯めたものが少しあります。他人に頼んで御送り致します。何かの足しにでもしてください。皆様にはよろしく、と御伝えください。

 では靖国へ参ります。

  昭和二〇年四月一〇日

  佐倉征爾様

 

 

 佐倉(さくら)作郎(さくろう)少尉は万年筆を置き、深く静かに息を吐いた。外はザアザア降りの雨。出撃はなかった。

 兵舎の中で飛行服に身を包んだ彼は、少年時代に東京の親戚からもらった万年筆を大切そうに筆入れにしまい、遺書を入れた箱の中へ納めた。この万年筆は見事散華(さんげ)が果たされた暁には、故郷の兄の元へ遺書と共に送られる手はずになっていた。

 大粒の雨が屋根を叩く。遺書を書き終えたためか、心の中は空っぽになっていた。たまらなく物足りなかった。出撃命令による感情の興奮があるかと思えば、雨と共に洗い流されてしまった。万年筆が文字に魂を込めた。情けないほどに弱々しい自分を見た。勇んで敵と立ち向かった兵士ではなく、ただの人だった。

 感情の発露はなく、台湾でB-24やP-38相手に死にものぐるいで戦ったことを思い出せば、遺書を書いたからと言って、感情に流されるような生ぬるい鍛え方をされてこなかったはずだ。

 佐倉家の末っ子だった作郎は親の顔を知らない。両親は彼が物心つく前に肺炎が元で亡くなっている。そのため一五歳上である長兄の征爾(せいじ)が親代わりだった。征爾が当時勤めていた会社の取引で東京に出張した際、作郎もついて行き、叔父の家で何泊かしたことを覚えている。叔父は口数の少ない征爾を気に入っていて、彼の口添えで義姉である佳枝(よしえ)を妻に迎えた。今になって思い返せば、あの出張は征爾の見合いを兼ねていたのである。

 作郎は台湾から今の基地に転属する直前、一度休暇をもらって実家に帰っていた。そのとき、親戚や知人宅を挨拶して回っていた。台湾では迎撃任務についており、ひとたび九州の地に赴けばその身を弾丸として男子の本懐を遂げるつもりだった。故に思い残すことがないよう今生の別れを済ませてきたのだ。

 このとき、征爾や知人たちは作郎の様子が「普通ではない」ことを感じ取っていた。海軍に入ってからさほど文を寄越さず、ただ「生きてます。戦闘機搭乗員は食事がおいしいです」とだけ伝えるような男が改まった様子で訪れたから、みんな悪い予感に駆られていた。だが、それを口にすることは(はばか)られてしまった。思い出話に話を咲かせ、普段通りに去るのを見届けたにすぎなかった。

 兵舎の中を見回す。作郎と同じく爆装での出撃を命じられ、攻撃延期により手持ちぶさたとなった山田一飛曹も持参したノートに遺書と思しき日記をつけていた。作郎は邪魔してはいけないと考えて静かにしていたが、不意に外からバタバタとした忙しい足音が聞こえ、入り口に向けて視線をずらした。

 

「ひゃーびしょ濡れだなあ」

 

 童顔の男は明るい口調でぶつぶつ言いながら、何やら包みを抱えている。水濡れを嫌ってか分厚い布で包み、その下から油紙でくるんだ四角い物体を取り出していた。

 

布仏(のほとけ)分隊士(ぶんたいし)

 

 作郎の声に布仏少尉が振り向く。作郎から差し出された手ぬぐいを使って雨露を(ぬぐ)った。

 

「ありがとよ。弓削(ゆげ)大尉からいいもん借りてきたぞ。おい。お前らも来いよ」

 

 布仏少尉がにっこりと笑みを浮かべながら、奥にいた隊員を呼んだ。革張りのケースから二眼レフカメラを取り出して机に置いた。

 

「そのカメラは大尉の私物か?」

「ああ。満州製の二眼レフだぜ。ちょっとした撮影には十分だろうよ」

 

 布仏少尉は慣れた手つきでカメラに触れて、周囲に人だかりができるのも構わずに撮影の準備をしていた。作郎は彼の無邪気な表情を見つめながら、その背中に声をかける。

 

「カメラの扱いに慣れているんだな」

「実家でね。小憎らしい兄貴や更識(さらしき)のお坊ちゃんに教えてもらったんだ」

 

 布仏少尉は手先が器用な男で作郎たちが集まってきても気にならないのか、目を輝かせながらカメラを手にとって眺めている。

 布仏少尉の実家は何人も陸軍将校を輩出した名家で、兄が関東軍の高級参謀である。しかし彼は親兄弟と折り合いが悪く、兵役が嫌でたまらなかったそうだが、幸い学業で優秀な成績を修めたため東京の大学へ行き徴集延期を頼りに学生生活を送っていた。しかし、戦局の悪化による武器不足や兵員不足が危惧される中で、昭和一八年一〇月二日に公布された在学徴集延期臨時特例により、満二〇歳に達した学生・生徒は徴集されることになり、一〇月二一日には雨天にも関わらず東京都四谷区(昭和一八年七月一日に都制へ移行)の明治神宮外苑(がいえん)競技場で出陣学徒壮行会が実施された。布仏少尉も雨の中にいた。この時初めて東條(とうじょう)英機(ひでき)首相を目にしたと語った。

 布仏少尉は陸軍ではなく海軍を選んだが、特に強い理由はなかった。実家の影響力が少ないところに行きたかったようだ。

 作郎とは本来住むべき世界が違う男だった。どういうわけか昭和一九年の一月に台湾で知り合って以来、何かと縁があって同じ基地に配属されていた。速成教育だが飲み込みが速く、予科練上がりの作郎から見て、とても腕が立つ優秀な男である。

 この基地に配属となってから作郎と布仏少尉は既に二回爆装零戦で出撃していた。「爆戦」とも呼ばれる零式艦上戦闘機六二型の腹に二五〇キロ爆弾を抱き、勇んで出撃したまでは良かった。しかし敵艦艇を発見できなかった。一航艦(第一航空艦隊)司令長官大西(おおにし)瀧治郎(たきじろう)海軍中将をして「統率の外道」と言わしめた攻撃は空振りに終わっていた。

 ただ、特別攻撃隊が出撃すれば必死だとは必ずしも言えなかった。作郎たちのように何度も空振りに終わることがよくあった。無事に基地へ舞い戻ってほっとする代わりに、何とも言えない居心地の悪さを感じてしまう。

 既に生き残ろうとも逃げたいとも考えなくなっていた。作郎は特別攻撃隊に任命されてからも時々直掩として空に上がり、仲間が散華するのを目にしていた。本心を言えば特攻以外で出撃するのは嫌だった。だが、あまり何度も断るのも居心地が悪く、空に上がらざるを得なかった。

 

「よし。搭乗員を集めて集合写真を撮ろうか」

 

 布仏少尉が顔を上げて言った。山田一飛曹と夜竹飛長を捕まえ、皆を呼ぶように告げた。

 

「現像は弓削大尉がやってくれる。大尉に頼んでおけばいい具合に仕上げてくれるさ」

 

 そう言って布仏少尉は屈託のない笑顔を見せた。

 

「夜竹飛長」

 

 作郎は兵舎を出ようとした夜竹飛長を呼び止めた。振り返った彼に向かって、

 

手隙(てすき)の偵察員がいたら呼んできてくれ。分隊士ばかりにシャッターを切らせるのもいかんだろ」

 

 と言った。せっかく写真を撮るなら逝きそびれた隊員全員を写さなければと思った。

 結局、集合写真は弓削大尉が撮影した。直掩と爆装を担当する総勢二四名もの搭乗員と数名の偵察員が一同に会すことになり、作郎は分隊士という立場もあって前列中央に陣取っていた布仏少尉や偵察隊の連城(れんじょう)中尉の間に挟まれる形で写った。

 兵舎の中はちょっとした(にぎ)わいを見せていた。

 弓削大尉が写真の腕を披露できて満足げな表情だった。大黒様のような顔つきをしており、大学出の布仏少尉とよく話をしていた。作郎のことは大飯食らいだと認識しており、出撃前の壮行会でも飯の話ばかりしていた。

 写真はその場にいた者全員に現像したものを家族に渡すと弓削大尉は約束した。その言葉を聞いて、作郎や布仏少尉は「よろしくお願いします」と深く頭を下げた。死ぬ間際の写真を残せたことで、彼らは淡い満足感に浸っていた。

 

 

 夜になると小雨になり、直に天候が回復すると教えられた。

 壮行会は昨日のうちにすませており、出撃までもう時間がないと考えずにはいられなかった。食事は質素であり、米に味噌(みそ)を塗った焼きおにぎりと野菜の煮物だった。食糧難に陥った南方の事を考えれば米が出るだけ恵まれていた。その米も特別攻撃隊だからこそ支給されたという事実を作郎は知っていた。

 雨が上がって無性にタバコが吸いたくなった。火は点けられなかった。しかたなく諦めた。

 海の向こう、沖縄の地では同じ兵士が戦っていることを思い浮かべ、我慢することにした。出撃前に一本もらえるかもしれない、と思った。

 沖縄では米軍が四月一日から沖縄本島への上陸作戦を開始しており、四月五日に聯合(れんごう)艦隊も菊水作戦と連動させる形で戦艦大和以下第一遊撃部隊の出撃を下令した。

 第一遊撃部隊所属艦艇は次の通りである。

 ・第一戦隊 戦艦大和(やまと)

 ・第二水雷戦隊 軽巡矢矧(やはぎ)

  ・第四一駆逐隊 冬月(ふゆづき) 涼月(すずつき)

  ・第一七駆逐隊 磯風(いそかぜ) 浜風(はまかぜ) 雪風(ゆきかぜ)

  ・第二一駆逐隊 朝霜(あさしも) 初霜(はつしも) (かすみ)

 なお、対潜掃討隊として第三一戦隊に所属していた三艦艇(花月(はなづき)(かや)(まき))は瀬戸内海離脱後、命令で反転帰還している。

 四月六日に第一遊撃部隊は徳山沖を出撃した。続く七日早朝、朝霜が機関故障のため艦隊から落伍(らくご)。この数時間後、朝霜は「ワレ敵機ト交戦中」の無電を飛ばす。そして「九〇度方向ヨリ敵機三〇数機ヲ探知ス」との無電連絡を最後に連絡を途絶した。ほどなくして大和以下の各艦も対空戦闘に突入した。

 坊ノ岬(ぼうのみさき)沖で発生した海戦により冬月、涼月、雪風、初霜を除く所属艦艇が沈没並びに砲雷処分され、翌八日には佐世保(させぼ)軍港に帰投している。これを以て聯合艦隊は事実上壊滅した。

 この沖縄水上特攻によって約四〇〇〇名が戦死している。だが、菊水作戦は、沖縄来攻の米軍に対して特攻を含む航空攻撃を目的とするものである。つまり作郎ら特攻隊員たちの任務は依然として継続していた。

 弓削大尉から明後日には天候が回復すると予測しており、おそらく出撃命令が下るだろう、との話を聞いた作郎は空虚感にいたたまれなくなって宿舎へと足を運んだ。

 宿舎への入り口に近づいたとき、突然何者かが道に飛び出してきた。作郎はおどろき、誰何(すいか)しようと口を開いた。

 

「ここは士官の来るところではありません」

 

 だが、先に声を上げたのは両手を広げて道を(ふさ)ごうとした男だった。

 声からして夜竹飛長だと分かった。

 

「夜竹。私だ。佐倉だ。こんなところで何をやってるんだ」

「……なあんだ。分隊士でしたか」

 

 夜竹飛長は作郎だと気付いて安心したのか、ほっとしたように気の抜けた声を出した。

 

「分隊士ならいいんです。もし士官が来たら止めるように布仏少尉から頼まれて番をしていたんですよ」

「布仏が?」

「ええ。士官には彼らの姿を見せられませんから」

 

 夜竹が体を横向けて、道を空けた。作郎は狐に包まれたような顔をしてドアを開け、搭乗員室へ入った。

 薄暗い部屋だった。電灯も無かった。大部屋の真ん中で見慣れた兵士たちの姿を見つけた。昼間、集合写真を撮りながら笑い合った者たちが肩をよせあってあぐらをかいていた。全員が無表情だった。

 入り口で立ちつくしていた作郎に全員の視線が集まる。その中に布仏少尉もいた。作郎は虚ろな瞳だと思った。

 隅っこで偵察員など特別攻撃隊以外の搭乗員が遠慮しながら身を寄せ合っていた。

 思わず(きびす)を返し、入り口の番をしていた夜竹飛長に聞いた。

 

「真ん中にいるのが特攻隊員です。隅っこにいるのが偵察隊をはじめとしたその他の隊員です」

 

 夜竹がうつむきがちに言った。

 

「だから布仏もいたのか」

 

 作郎が納得したように相づちを打った。夜竹飛長は魚の骨が歯間に詰まったかのようにもどかしそうな表情になった。

 

「分隊士も明後日に出撃では」

「私は……いいんだ」

 

 作郎も宿舎の真ん中にいて然るべきだった。しかし、布仏少尉たちの鬼気迫る表情を見て、作郎は彼らの心中をのぞいた気持ちになっていた。

 目をつむれば死の恐怖に押しつぶされそうになるのが分かった。自分の行動を勇気あるものと飾り立てようとすればするほど、所詮(しょせん)は爆弾を抱き、死ぬために突入する現実とぶつかった。正直に言えば怖かった。

 作郎は格闘戦が下手だった。他の隊員と比べて腕が劣っていたわけではない。だが運が悪かった。よく撃墜され、何度も不時着したり落下傘で脱出した。列機もよく墜とされた。火の玉になって爆発した。作郎を残してみんな死んでしまった。

 灯火管制により辺り一面が闇に包まれている。空を見上げれば月と星が見える。天の河も見えた。遠く、沖縄の方角に目を向ける。空がほんのりと赤かった。

 

 

 


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