起動試験終了後、堀越から電話帳並みに分厚い「IS教則本Vol.1 改訂第三版」を手渡され、さらに曽根から教則本の要点をまとめた小冊子を手渡された。専用機受領にまつわる諸手続きのため、手元に届くまでに数日は必要だと告げられたので、桜は待っている間に冊子に目を通してしまうつもりでいた。
そして翌週の木曜日の昼休み。桜は連城に呼び出され、倉持技研からの贈り物だという女性向けの時計を手渡された。落ち着いた意匠の黒いバンドに、
「これ、ISの待機状態なん?」
「その通り。後ほどあなた宛に各種取扱説明書が郵送されますから、よく読んで正しく使ってください」
連城の態度はあまりにそっけない。むしろ隣の席にいた弓削の方が落ち着きを無くしている。弓削は勝手に想像をふくらませていた。
「佐倉さんの専用機を見てみたいなー。白式の兄弟機だからやっぱり似たような意匠なんですよね?」
「弓削先生。佐倉君の機体は
「
弓削は
打鉄零式が最初に公開されてから随分時間が経っている。機体がより洗練されたのではないか、と弓削は考えていた。
だが、連城は兄弟機の白式とは真逆の印象を抱かせる
桜は弓削に視線を向けてから口を開く。
「弓削先生。だったら今日の放課後、使えそうなアリーナないですか。せっかくやしクラスのみんなにお披露目しようと思います」
打鉄零式は第三世代機である。桜は弓削の姿を見て、クラスメイトも同じように反応するのではないか、と考えていた。試験機とはいえ、各国が躍起になって研究開発しているISと同世代なのだから、話題になって然るべきだ。
桜の提案を予想していたのか、弓削は間髪入れずに答える。
「このタイミングだと第六アリーナぐらいしか空いてないわね。でも、ここからすごく遠いよ?」
第六アリーナはIS版エアレース、つまりキャノンボール・ファスト用訓練場として設計されていた。他のアリーナと比べて施設そのものが広く、校舎から最も離れた場所に建っているため連絡通路が恐ろしく長くなってしまった。移動に時間を要すため、授業では使用されることはめったになかった。
ただし、施設の規模が大きいだけあって学園最大規模の収容能力を誇る。そこで弓道部が未使用の格納庫を弓道場として改造していたり、文化部が部室兼実験施設に利用するなど、意外と多くの生徒が出入りしている。
「ありがとうございます。それから訓練機の使用申請もお願いします」
と桜がつけ加えた。お披露目するなら他の機体と比較するのがわかりやすい。とにかく従来のISとは異なり、第一世代に先祖返りしたような外見だ。他とはひと味違う姿がより鮮明になると思った。
弓削が訓練機申請の画面を出す。申請にあたって訓練機の種類を決めなければならない。桜の顔を見上げた。
「希望は?」
「一条さんって入試の時、どちらに乗っていたんですか」
「それならリヴァイヴを確保しないといけない。ピウスツキさんたちが乗りたがると思うから、声をかけておきなさいな。あと、ISスーツは貸し出しできるから心配しなくていいよ」
一条朱音の成績は回避率が極めて優秀である。一般入試組なので、今のところ実技試験の実績しかない。それでも被弾率ゼロというのは珍しい。
とはいえ、脇目もふらず逃げ回っていただけなので、同じ組の桜やナタリアらと比べてどうしても見劣りがするのも事実であった。
桜は連城から受け取った時計を、早速左手首に装着した。光に手をかざしたり腕を回したりして、ほとんど重量を感じられないことに驚く。
――軽い。どうやっとるかはこれから勉強していくとして、とりあえず可搬性に優れるのはええことや。それに打鉄とは相性もええみたいやから。
桜は喜ぶよりもむしろ、ほっとしていた。入試で打鉄を起動できた。そして先日の起動試験では特に問題なく動かすことができた。信頼性が高いISだと評価されるだけのことはある。桜は、自分が打鉄系の機体と相性が良いものと好意的に捉えていた。
ほっと軽く息をつくと安心感に包まれ、小さな期待が生まれた。その気持ちを自覚した桜の瞳に輝きが
弓削はようやく年相応の顔つきになった桜を見て、記憶の引き出しを開けながら手招きしていた。
「そうそう。もう聞いているかもしれないけれど二組のクラス代表がね……」
▽
昼休みが終わる頃には、二組に転入生が来たことは周知の事実となっていた。
転入生の名前は
「二組のクラス代表が交代したんだって!」
隣のクラスに寄り道していた朱音は、三組の教室に戻ってくるなり大声を出した。細い体つきの割に声量があるので、桜は椅子の背にもたれかかりながら、耳元で響く声を遮るべく片耳を覆い隠す。
朱音は思ったより周囲の反応が弱いので、徐々に声が尻すぼみになっていく。桜は少し腰を上げ、指先でニーソックスの位置を直し、首をかしげる朱音を上目遣いに見やってその理由を教えた。
「知っとる。さっき大黒様が言っとった」
「大黒様?」
「弓削先生のことや」
桜がそう説明した理由がしっくり来ない。朱音は弓削の顔を思い浮かべ、したり顔でいる桜をぼんやりと見つめる。しばらくして合点が言ったのか、軽く手を打ち合わせた。
「言われてみれば似てる!」
「やろ。あの福耳がたまらんわ」
福耳は弓削の身体的特徴である。のっぽで短髪、男のような顔つきのくせにどことなく憎めない。しかし、大きな耳が本人に福をもたらしているかどうかは別問題である。弓削はずっと婿養子のつてを探しているのだが、なかなか良縁にめぐりあえずにいた。IS搭乗資格を持つ教員も他の教員と同じく職場結婚が多い。弓削の場合は婿養子という条件が二の足を踏ませる要因になっていた。
朱音は桜の左手首に目が行く。高校生の持ち物にしては少し高価に見えた。
「あれ? その時計……」
「上品でええやろ。これな。専用機の待機状態なんや」
桜がいつもよりゆっくりした口調で言った。朱音は目を丸くして専用機と聞いて興味を示した。
「桜の専用機ってどんなの。見てみたいな」
「そう来ると思って放課後になったらお披露目するつもりや。ちょっと朱音にも手伝ってもらわんとあかんけど」
「私に? いいけど。先に専用機の名前を教えるくらいはいいよね?」
「打鉄零式って言うんやけど」
「どこかで聞いたことがあるような……でも、専用機なのに打鉄なんだね」
朱音の口振りからして期待度が半減したことがわかる。開発元である倉持技研は打鉄で有名なことから、一般的に量産機開発が得意な企業という認識があった。打鉄は安定性や操縦性に定評があり、その長所は運用を行った者にしか感じとることができなかった。
桜は専用機について補足する。
「一組の織斑んとこの白式とは兄弟機なんやって」
「ふうん。同じメーカーだもんね」
朱音は気のない返事をしながら、桜の様子を観察していた。以前専用機受領の話を口にした時は、浮かれるどころか心配していたが、不安材料が
――子供っぽくないというか、大人っぽいというか。
桜の専用機に対する態度は予想できていた。拍子抜けするほど淡々としている。むしろ、時計をもらった事実を喜んでいる。
「あいかわらず専用機に対してドライなんだね」
「兵器は信頼性と稼働率が肝や。どんなけ性能が良くたって動かんかったり、空中でいきなり壊れたら
桜は椅子を蹴って身を乗り出し、目を見開いて鬼気迫る表情で朱音に迫った。信頼性が高いと言われた赤とんぼ(九三式中間練習機)でさえも、作郎の手にかかればエンジンが空中停止したのだ。初めての不時着と遭難から始まった不運の積み重ねにより、桜は機体の信頼性こそが重要だと考えるようになった。
「顔、近づけすぎ……目、血走ってるよ」
突然鼻息を荒くした桜から少しでも離れようと、朱音は顔を背けつつ桜の両肩に手を当てて、なおも接近する桜の体を止めた。
「すまんな。つい、熱くなってもうた」
桜がすぐに冷静さを取り戻したので、朱音はその肩を軽く押してやった。自分は半歩足を引くだけでバランスを取る。仕切り直すつもりでせき払いしながら聞いた。
「過去に何かあったの?」
「下り坂で買ったばかりの
朱音はお祓いという単語が飛び出すとは思わず、
桜は窓際を見つめて、まるで失恋でもしたかのようなため息をつく。
「痛かったり死にそうになるのはこりごりや」
「なんか、
「とりあえず、放課後や。多分大黒様も付いてくるやろうけど、みんなを誘って第六アリーナへ」
▽
放課後になって、三組はほぼ全員で第六アリーナを訪れていた。
弓削が遠いと言うだけあり、入り口にたどり着くまで徒歩で三〇分もかかった。その道中、自転車や原動機付き自転車、スケートボードに乗った先輩方が側道を走り抜けていく姿を目撃し、みんな
弓削が備品のISスーツを生徒に配ろうとしたところ、意外にもISスーツ持参者が多く、半分くらい余ってしまった。
桜は、クラスメイトに鬼ごっこをすると伝えてあり、鬼は桜で、追われる方は希望者として時間と体力が許す限り、操縦練習をするつもりでいた。
弓削はラファール・リヴァイヴを一機確保しており、事前の説明通り朱音が最初に搭乗することになっていた。他の生徒は観覧席で待機することになっており、弓削の合図で随時交代する手はずになっていた。
桜は弓削の指示に従って打鉄零式を実体化する。いざ本番となって、桜は全身装甲で外から見えないことを良いことに、みんなに自慢したい気持ちが強くなってだらけた表情を浮かべた。桜はみんなが驚く顔を思い浮かべて、ハイパーセンサーを使って観覧席へと注意を向けた。
「なんとなく悪役っぽい」
だが、その全身装甲を見た生徒は異口同音に冗談めかして言った。
甲龍の同じく悪役らしい意匠の黒・紫という配色に比べて、青・白・黒の幻惑迷彩は目に優しくなかった。他にも頭部レーダーユニットから漏れる赤い光が悪目立ちしている。試しに装甲を白一色に変えてみたら、「血の涙を流しているようだ」と不気味がられたので、仕方なく幻惑迷彩に戻していた。
「配色は要検討や」
桜は開放回線を通じて弓削や朱音、ナタリアたちに言い放った。半露出型装甲ならば、顔が見えてそれなりに柔和な雰囲気を醸し出すことができる。しかし、全身装甲となれば頭部の造形
隣で朱音がラファール・リヴァイヴを動かす。その滑るような動きは、入試の評判を聞いたクラスメイトを納得させるものがあった。
――真っ先に口を挟みそうな人が黙ったままや。
桜はナタリアがコメントを控えているのが気になって仕方がなかった。打鉄零式のハイパーセンサーを用いて彼女を盗み見る。眉をひそめて物憂げに考え事に浸る、おとぎ話の世界から抜け出してきた、そこらではお目にかかれないような美人がいた。
「こんISは、なして余計なことばしとるのか。黙っとればメガモリみたいな美人が残念ばい」
ナタリアは再び目を伏せて「はあっ……」とため息をつく。
桜をけなすような物言いだが、百歩譲って黙っていれば美人だと評価している。桜は素直に喜べずにいたが、ナタリアに
「聞こえとるわ。あ……みんな納得したようにうなずかんといて」
ナタリアの
「決めた」
考えをまとめたナタリアが
「メガモリ聞きんしゃい。配色の件やけど、一組の白式がヒーローなら三組はヒール。悪役のイメージで行くから色はそのままでよか」
「悪人面やからなあ……せやかて、目が痛いと思うんやけど」
幻惑迷彩はIS搭乗者よりもむしろ、観覧者に対して効果を発揮した。濃緑色のラファール・リヴァイヴと比べてよく目立つ。
桜は非固定浮遊部位を実体化させた。ISの肩に相当する部位から、ちょうどレンコンを切断したかような長い筒をつり下げている。桜の眼前には照準が表示される。右下に表示された「5:RCL」という文字を意識すると、思った場所に照準が移動する。
再びナタリアに意識を向けると、彼女はひとりで不敵な笑みに変わった。
「外見でびっくりさせて、対戦相手の動揺を誘ってみるつもり」
「心理戦ね。やらんよりましか」
桜は素直にナタリアの意見を受け入れた。そしてスラスターを噴かせるなど動作確認を行っている朱音を横目に捉えつつ、標準で備え付けられた武装を試すことにした。
最初にメニューを開く。本来ならばイメージ・インターフェイスを用いることで、メニューを選択して実行というプロセスを省くことができる。だが、桜は攻撃手段のイメージをつかむために、あえてメニューから動作を選択して実行した。
打鉄では近接ショートブレードと書かれていた所に「貫手」という名称があった。視野の裾に「人体に向けて使ってはいけません」というメッセージが表示され、指をそろえて伸ばした状態で腕が伸びた。
ただの物理攻撃である。
「うわ……地味……」
ハイパーセンサーが足を止めた朱音のつぶやきを拾った。集音機能に優れていることがわかり、同時にやるせなさを噛みしめる。
――そのまんまやないか。
用途はともかく、これを近接格闘装備と名付けるのはいかがなものだろうか。過剰な強化を施したマニピュレーターで貫手を放つだけなので
桜は堀越と曽根の顔を交互に思い浮かべ、気を取り直してIS用のメールボックスを開いた。連城から武器使用の手引きが入っていると聞いており、中身に目を通したところ
「一番、貫手。二番、実体盾。三番、一二.七ミリ重機関銃。四番、
曽根によれば三番以降は比較的人気が高い装備を選んだという。堀越が運用データを取りたい一心で
「続き続き。五番以降は左右にそれぞれ一基ずつ装備可能と。ここから
打鉄零式は後付武装を非固定浮遊部位にまとめて設置することができた。火力重視で銃火器類を豊富に取りそろえているくせに、どのISにも必ず装備されているはずの近接ショートブレードが存在しない。
「七番、荷電粒子砲は間に合いませんでした」
括弧書きで搭載可能とある。初期後付武装リストに目を通した感触として、打鉄零式は中距離戦闘を想定した火力重視のISだった。曽根の好みが透けて見え、それは桜の好みとも合致していた。
なお、荷電粒子砲は物体に帯電する粒子を収束しビーム状に発射する兵器で、打鉄弐式に「春雷一型」の名称で搭載予定の武装である。現在四組の代表候補生にIS本体と共に提供すべく調整中だが、ある欠点から運用制限が設けられていた。春雷一型の砲身は耐久性に問題があり、使用する度に損壊が進むことから片手で数える程度でしか発射できない。試合
桜はすかさず、一二.七ミリ重機関銃を手に持った状態で実体化させた。
メニューにあった「武装の外部設置」という文言を選択実行すると、一二.七ミリ重機関銃が一瞬のうちに非固定浮遊部位に移動する。人間の意識を介在させないため、非固定浮遊部位への量子化から実体化までの時間が
桜は再び一二.七ミリ重機関銃を手に戻そうとしたら、先ほどよりも時間がかかった。
――ここは反復練習が必要やね。さて、次や。
次にすべての装備を非固定浮遊部位に搭載した状態で、試しに全身を真っ黒に変化させる。
「非固定浮遊部位や武装まで色が変わるんか」
頭部装甲が閉じてレーダーユニットが完全に
桜は再び幻惑迷彩に戻す。頭部装甲が少しだけ開いて奥のレーダーユニットが不気味に輝いた。
――妙に手堅いというか、いらんところまで手が込んでおるというか。変な機体や。
専用機に対してそんな感想を抱く。
――さて、空中での運動性能はどんなもんやろ。
小回りが利く軽戦闘機か。それとも一撃離脱に徹する重戦闘機なのか。あるいは中途半端なのか。このISはどこに属するのだろうかと、桜は淡い期待を抱く。
だが、その前に武器使用の手引きには記載がない項目にも、目を通してやらなければと思い立つ。つまり「神の杖」と「名称未設定」のことである。前者については選択不可能であり、堀越らに問い合わせて保留することになっていた。そもそもGOLEMの全容を誰も把握していないことからして怪しい。IS内部の信号伝達速度が大幅に改善されたのは確かだが、それ以外は手探りの状況であった。
後者はさらに厄介である。起動試験後、桜の申告により堀越がメンテナンスモードで遠隔ログインした結果、「そのような項目は存在しない」と結論づけられていた。曽根や他の技術者、そして連城でさえ項目自体を認識できなかった。
――確かに存在する。
桜は幽霊を見るかのような視線を向けていた。他のGOLEM搭載機に同様の問題が発生しなかったか確かめたいところだが、同ソフトウェアは米国・イスラエルで二国間共同開発中の試験機以外に供与されておらず、問い合わせしたところで「機密のため答えられない」と返されるのが関の山だろう。
篠ノ之博士がIS搭乗者にしか認識できないイースター・エッグを仕掛けたのではないか。GOLEMを提供したのが彼女である以上、説得力のある憶測に思えた。
――さて、ひとまず確認をして、状況を把握せなあかん。ああ……嫌な予感しかせえへんわ。
桜は恐る恐る名称未設定を選択する。CGだろうか、視野の中心に段ボール箱を模した怪しげな立方体が出現した。
「箱? 何やコレ」
眼球を動かして立方体を手前に引き寄せる。両腕でやっと抱え込めるくらいの大きさで、何の変哲もない箱である。おかしな点と言えば、蓋に「びっくり箱」とポップ書体でレタリングされており、側面に添え状が貼られているくらいだ。
「何か書いてある」
桜は箱から添え状を引きはがし、中身を確かめる。
そこには「開けますか? 開けませんか?」と書いてあった。
篠ノ之博士が人を食った性格だと関係者に知られていたので、彼女なりの冗談のつもりだと軽く考えた。
「篠ノ之博士って案外茶目っ気があるんやな。せやかて、蓋にびっくり箱って書いたらあかんて。ええわ。ここまで来たら、とりあえず開けてみるか」
桜は迷いを捨てて箱に手をかけた。スプリング式の人形の頭が飛び出してくると思って身構えていたら、出てきたのは白い煙である。
「た、玉手箱やと……」
桜は手の込んだイースター・エッグと思い、煙が途切れるのを待った。
――私が老けた作郎になっとったらびっくりやな。
桜は篠ノ之博士の洒落っ気を楽しむつもりでいた。箱の奥に何かがうごめくのを見ても「どうってことはない」と悠然と構える。
――後で堀越さんに素っ気ない顔で感想を言っとこ。名称未設定は篠ノ之博士のイースター・エッグやった。玉手箱から煙が出てきたんやけど、特におばあさんになったりはせえへんかった。あまり面白くなかったって。
体を起こした得体の知れない何かと不意に目が合った。大きな瞳を鋭く動かしてケタケタと笑ったように見えた。桜は思わず生唾を飲み込む。煙のせいで姿形が定かではない。目が二つあることは確かだ。つまり生物を模しているのは間違いない。緊張で心臓が高鳴り、脳裏に写真でしか知らない篠ノ之博士のにやけ顔がちらつく。
――ハハッ。……驚いたりせんわ。こういう引きやってわかっとるんや。
桜は虚勢を張りながら、心の中では「もしや」という懸念を払拭することができない。息を殺して姿を見せるのを待ったが、
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!」
いざ得体の知れない何かが奇声を上げて飛び出してきたものだから、桜は悲鳴を上げていた。
▽
お披露目という名の鬼ごっこを終えた桜は、自室に戻るなりクローゼットの前に立っていた。無言のまま私物を入れた段ボール箱を開けて、中から茶封筒を取り出した。
「お帰りー」
風呂上がりのせいか湿り気を帯びた髪。頬を上気させた本音は、桜に気付いて声を上げる。
「……ただいま」
桜は後生大事に茶封筒を脇に抱え、うつむきがちになってぼそぼそと曖昧な声を返した。
――ええっと。一体何が……。
桜の様子があからさまにおかしい。生気が失せて顔が青ざめている。どこか体の具合でも悪いのだろうか。本音は心配になって桜の傍へ歩み寄った。
「サクサク元気ないけど~どこか痛いの?」
「……おおきに」
桜は覚束ない足取りながら、本音の気遣いに小声で感謝した。しかし、普段の彼女とはほど遠い姿を目の当たりにするや、本音は彼女が何かに
桜は自席に腰掛けて茶封筒に手を突っ込んでいる。気になって様子を見守っていると、中からお札が出てきた。
――悪霊退散?
本音には思い当たる節があった。桜の調査書に「複数回の入院歴あり」と記されており、その原因はどれも不運としか言い現せないものであった。下り坂で新品の自転車が分解して落車したり、鎖場で鎖が切れて滑落するなど、一歩間違えば命に関わるような事故に遭っている。
「そのお札って~」
「……もちろん壁に貼るんや」
桜が当然のことのように答えるので、本音は目元をひくつかせて愛想笑いを浮かべる。
本音は、天下のIS学園寮の壁に「悪霊退散」と描かれた光景を想像する。霊が退散するどころか集まってきそうだった。
桜は大きく息を吸うと、真剣な顔つきになって本音を見つめた。
「なあ……本音は、自分にしか見えへんものが見えた時……どう対処する?」
何やら雲行きが怪しくなってきた。桜の瞳が狂気に染まっていないのが唯一の救いだった。
――へ、下手な答えを口にできない……。
本音は心の中で焦る。武力解決なら得意だが、霊障の対処方法を相談されたのは初めてのことだ。仲間内でオカルト話に興じるような雰囲気ではなかった。
「ええっと」
本音は考え込む素振りを見せ、時間を稼ぐ。桜の視線は答えを求めるものではない。だが、うかつな発言ができないのも事実だった。
本音はチラと壁掛け時計を確かめる。
――七時ならまだ……。
「そ、そういうことは専門家に任せようよ~」
「専門家?」
桜は
――要は心の平安を保てればいいからね~。こういうときは他人を頼るのが一番だよ~。
本音は隣人の経歴を思い浮かべていた。
「知ってる? モッピーの生家は篠ノ之神社って言うんだよ」
「……ほんま?」
「モッピーとおりむーが言っていたから間違いないよ~」
「二人は幼なじみやったもんね」
桜の意識が箒に向かったので、本音は
そして桜の手を取り、にこやかな笑顔を向ける。
「善は急げって言うよね~」
桜は本音に連れられて一〇二五号室に向かった。初日に穴だらけとなった扉は新品に取り換えられている。ちなみに一夏と箒は、器物破損の咎により千冬の目の前で反省文を書かされていた。
「篠ノ之さん~。ちょっとお願いがあるんだけど~」
本音が扉の前で間延びした声を上げた。桜はきょろきょろと周囲を見回していたら、朱音のルームメイト、つまり更識簪が少し離れた場所で足を止めていることに気付いた。簪は本音と桜が手をつないだ 光景を目撃するなり、その手元と本音の背中に交互に見やって、消え入りそうな小声でつぶやく。
「……やっぱり」
簪は確信めいた表情を浮かべるや、すぐに踵を返した。
桜が不思議に思ったのもつかの間、部屋から出てきた箒の浴衣姿に気を取られて、簪のことは桜の意識から消え失せていた。
「で、お願いというのは何だ」
箒は椅子に腰掛けたまま胸の前で腕を組んでいた。
一夏が冷蔵庫から取り出した麦茶をガラスのコップに注ぐ。桜が礼を言うと、一夏は麦茶が入った容器を持ってキッチンに消えた。
「篠ノ之さんの家が神社だったと聞いて~」
箒はその言葉を聞くや、表情から感情の気配を消した。
「先に言っておくが巫女装束は持っていないからな」
箒はコスプレの依頼かと思い先手を打った。
「……違うよ~」
「篠ノ之さんは幽霊を見たことがあるん?」
箒にとって桜の答えは意外なものだった。生気の失せた顔を見ても、箒は態度を変えようとしなかった。
「そんなことか」
と、箒は軽くつぶやいた。
本音は箒の冷静な姿を見て、適切な対応をしてくれるものと期待する。
「霊くらいいるだろ。近所に集まりやすい場がある。時々そこから迷い込んでくるのを見かけていたからな」
その途端、室内の温度が一気に冷え込んだ。本音の表情が凍り、桜は青ざめ、キッチンから聞き耳を立てていた一夏が直立不動のまま立ち尽くした。三人の背筋に悪寒が走る。
箒が唇をしめらせるために冷えた麦茶を口にする。動揺する隣人を見て、「はあ」とため息をついた。
桜は室内でただひとり平然とする箒を見つめて、残り少ない勇気を振り絞ったが上擦った声になる。
「せ、せやったら……ごごご実家が神社なら
「何か、勘違いしていないか」
いつの間にか背筋を正した箒が、すがりつくような顔つきの桜を見据えて言い返した。
「
箒はゆっくり諭すように言葉を続けた。
「本来、巫子はその体に神を
「伝えるだけ……」
「本来はな」
箒は間を取るべく、本音や一夏を見やった。再び桜に目を戻す。
「うちの場合は、現世に還った霊魂とそれを送る神様に舞を
「じゃあ……なんにもできへんってことか……」
桜の表情に落胆の色が浮かぶ。
「落ち込むにはまだ早い。略式で払うことはできるんだ。ただ……勘違いして欲しくないのだが、あくまで払い、遠ざけるだけだ。時間が経てばまた元に戻る」
箒が落ち着いた声音で告げ、桜の顔に生気が戻った。
――これからはモッピーなんて呼ばないよ。見てないところでもきちんと篠ノ之さんって呼ぶからね。
本音は、心の中で感謝の言葉をつづっていたところ、箒の言葉を耳にして再び表情を強張らせた。
「見たところ佐倉にはいろいろ憑いているからな。一度払って状況を見てみよう」
「ふえっ……いろいろ?」
桜は肝が冷えたのか、たどたどしく聞き返した。箒は意に介さず、身をかがめて机の下から若竹色の刀袋を取り出して机に置いた。重く鈍い金属音が聞こえ、そのまま席を立つ。不安で身を硬くした桜の横に立って口を開く。
「深刻に捉えなくとも良いぞ。どれも実害がないものばかりだからな」
「そ……そうなん」
箒は
「少し待っていろ。
と告げた。